黄昏を呼ぶ少女

三十三話 早暁の漢湯(おとこゆ

 スバポとスムレラたちのチームも朝を迎えていた。昨夜は温泉宿に泊まったせいもあってすっかり旅行気分で宴会まで開いてしまったが、本来の目的であるスキタヤの行方も掴めたわけではなく問題は山積だ。
 今日はひとまずこの辺りにあるというバイオビーストの生産施設を目指すことにはなっているが、このメンバーでは不安しかない。怪物の巣窟に行くのに戦闘力がほぼ皆無である。ミルイ側もブレーン不足で困っていたがこっちはこっちで戦力不足だった。
 とは言えまだスキタヤ相手ならば人間であるし、交渉は可能なはずである。問題はバイオビーストに遭遇した場合だ。ハヌマーンによる交渉に一縷の望みがあるとは言え聞く耳を持つかどうか、駄目なら排除しかない。
 軍人とは言えオペレーターのスバポに戦闘能力は皆無。パイロットのストリイカザも軍人だが、白兵戦の訓練を受けてはいないだろう。戦闘機のパイロットですらないので見るからに強者のオーラはなく、ラズニや民間人のガラチの方が強そうだ。それでもスバポよりはマシっぽいのであまり言えた義理ではない。
 戦えそうなのはラズニ率いるスパイチームだが、それでもスパイなので正面から戦う訓練には力を入れていない。そもそもスパイとしての潜入ミッションもヴィサン軍の筋書きによる出来レース。その筋書きの中には成功で終わるものばかりではなく、捕らえられた上でいたぶられたり辱められたりしヴィサンの軍人たちの欲求の捌け口に使われるというものもあっただろう。その為には手こずらずに捕らえられるよう訓練不足のままにしておく方がいいのだ。
 実際、スパイ少年たちの実力のほどは未知数だ。教育から指揮までを取り仕切っていたラズニがごつい見た目に反してヘボそうなので、彼らも推して知るべしか。
 せめて現状ただのマスコットでしかないおさるが、巨大化して本領発揮できればと思う。チームを分けたのが失敗だったということにならないことを祈ろう。

 そんなことよりもまず、スバポには乗り越えねばならない難関が待ち構えていた。覚醒と共にその現実を突きつけられるのである。
 宿の東側に位置するこの部屋は夜明けと共に目映い朝日が射し込む。それを浴びてスバポは目を覚ました。体を起こし、窓に目を向けた。太陽を背景に仁王立ちするむくつけき逆光の青年の影があった。スバポよりマシでも似たり寄ったりのストリイカザではこのごついシルエットにはならない。どう考えてもラズニだ。朝の爽やかな気分は根こそぎ捻じ伏せられた。
「お目覚めですかな、スバポ様」
「ああ、うん。おはようございます」
「おはようございます、素晴らしい朝ですな。こんな清々しい朝に朝湯しないという選択肢など無いと思いませんか」
「普通にあると思います」
 即答である。素晴らしい朝を捻じ伏せられたと感じた直後に言われたくもないし、朝湯するにも一人がいいと切に思う。
「ならばその幻想を打ち砕いて差し上げよう」
 ラズニはスバポの肩をむんずと掴み、力ずくで連れ出そうとする。スバポに抗うほどの力はなかった。しかしこの部屋にいるのは二人だけではない。このピンチに彼なら動いてくれるのでは――。
「風呂っすか。いいっすね、ごゆっくりー」
 全く動く様子を見せず布団に埋もれたままそんなことを言う、一番ゆっくりしているのはどう見てもそのストリイカザであった。確かに彼には二人を止める理由はない。若者がちょっと仲のいい老け顔の青年に誘われて朝風呂に行こうとしているだけなのだ。スバポのピンチにも見えていないだろう。
 それならば、せめてストリイカザも風呂に誘えれば。第三者が居合わせていればラズニも流石にとち狂った行動には出まい――多分。
 彼はさほど親しくもない男達との入浴につき合うよりお布団のやさしさに包まれることを選ぼうとしているが、魅力的な餌をぶら下げてやれば心も体も動くのではないか。
「女湯にスムレラさんも入ってるかも知れませんよ」
「なんですと」
 布団が、ふっとんだりはしなくともそれに準ずる勢いでむくっと膨らんだ。
 チョロいもんだぜ、そう思ったその矢先。布団はゆっくりしぼんでいく。
「まあ。隣に入ってたところで覗けるわけでもなし、壁越しでもお風呂で気軽に話しかけられるほど打ち解けてるわけでもなし。変にラッキーなことがあっても後で気まずくなるかもだし。寝てた方がいいや。ぐう」
 彼は掴めない夢より現実を追い求めるリアリストだった模様。斯くして夢の世界に再び旅立った彼を尻目にスバポはラズニに連行されて二人きりで大浴場に行くことになったのである。

 ストリイカザを巻き込むのは失敗したが、他の入浴客がいれば安心だと思っていた。湯船に浸かる干物のような爺さんを目にしたときはほっとしたものである。
 だがしかし、爺さんはスバポが掛け湯している間に上がって行ってしまった。むさ苦しい髭達磨の登場に恐れをなして逃げたと言うわけでもなく、先ほど脱衣場で一人くつろいでいた萎みかけた風船のような爺さんの連れだった模様。一緒に来た片割れが先に上がっているのだからそりゃあ上がるのも時間の問題だったろう。
 女湯の方もまた静まりかえっていた。スムレラもスパイ少女たちも居なさそうだ。
「あいつらが何人かで来ていたら静かにしていられるわけがない。まあ、念のため……おーい、誰かいるかぁー」
 その呼びかけに反応する者は居ない。
「まあ多分誰も居ないな」
 スムレラや、一人静かに入っている少女。或いは見知らぬ男の呼びかけに答える義理などない他人などが息を潜めて入っている可能性は捨てられなかったが、実際にはそんなことはなく本当に女湯は無人だった。スムレラも少女たちも、ついでに少年たちもまた未だ夢の中。そして他にこの宿に泊まっている客は高齢の湯治客ばかりだ。今し方まではのんびりした爺さんたちくらいなら居はしたものの、他は粗方朝風呂などとっくに済ませてご来光を拝みながらお茶を啜りつつ朝食のバイキングがオープンするのを待っている最中なのである。
 そんなわけで、ラズニは周りに遠慮する必要はない。一番遠慮して欲しいと思っているスバポには最初から遠慮するつもりなどない。
「おおう、スバポ様の一糸纏わぬお姿っ……!私の中の乙女の自分が歓喜を通り越して悶絶することであろう……」
 滂沱たる感涙とともに打ち震えるラズニに見られているだけでいろいろ減りそうな気分になるので、涙でよく見えていなさそうなうちにさっさと湯に浸かるスバポ。できるだけラズニから距離を取って、だからと言えど一番距離があるからと真っ正面もなんかイヤなので120度くらいのポジションを選ぶ。
「本当にそのケはないのか……?」
 本人からそう言われてはいるものの、今の喜びようを見る限りそうは思えないのである。
「ああ、その点はご安心あれ。こちらの私は純粋に女好きなただの男です。証拠にこの体はスバポ様と言えども男の体など見たところでこの通りピクリとも反応しませんな」
 立ち上がるラズニ。確かにピクリともせずしんなりしているようだが、見せつけられても困るのでそっと目を逸らした。逸らしたところでもう手遅れだが。まあそこはともかく、見えた他の部分についてだがむさ苦しい髭面の割には腕や脛、胸なども毛深くなくつるっとしていた。以外とムダ毛ケアには気を配っている模様。そしてそれより何と言ってもその逞しい肉体である。正直、この肉体美は羨ましい。自分も少しくらい鍛えてみようかと思えた。そして。
「いいからちゃんと湯に浸かれ!俺だってそのケはないんだ、そんなもの見たくもないぞ!」
 いつまでも見せつけてくるので一喝しておいた。ここまで言われればさすがに従うラズニである。ほっとしつつスバポは愚痴る。
「俺は別になんにもいい思いなんてしてないのにそっちばかり得して不公平だな」
「だから私も別段何の得もしてないのですがね。まあ対価を払えとか仰りたいのであれば、一番得をしているあっちの私に言うべきです。ええ、見せろと言えば、いくらでも」
「何をだ、っていや……」
 聞くまでもなく、あっちの乙女ラズニの裸であろう。そして、スバポだって年頃男子。見たいかどうかと問われれば正直見たいに決まっていた。
 なお縄文時代の貞操観については、現代と比べれば寿命・出生率・生存率などに起因する必要性もあって圧倒的に奔放だったとされているが、ラズニやベシラは高天原の影響でちゃんと恥じらいを持っている、と言うことにしておく。裸を見られても何とも思わないような乙女など作者が納得できない萌えないなどと言う理由ではないのだ。断じて。
 それなら高天原の影響のないポンや影響の薄いミルイは平気で裸でそこいら辺を走り回ったりするのかなどと言うことになるが――細かいことは気にすべきではないのである。
 とにかく。男として当然女子の裸は見たいが、見せてと気軽に頼めるものでもない。そんな現代でごく普通の価値観である。許可が出たところで実際に頼むのにはものすごく勇気と覚悟が要るのだった。
 そんな役に立つのかどうか判らない約束を取り付けたくらいで他には何事もなく、朝風呂は乗り越えることができたのであった。

 朝食も済み、出発の時間が迫る。
 あの後、のんびりと起き出したストリイカザも朝食の前に一人で朝風呂に入りに行ったところ、ちょうどスムレラとスパイ女子チームも入ってきたらしい。
 男子の方は「朝飯食ったら風呂行くか」と言うことになっていたのでタイミングがずれ、ちょうど今頃が頭から湯気を立ち上らせながら出発準備している頃合いだろう。そのためストリイカザの存在は察せられることなく女子たちのやりとりを聞けたそうだ。それでも昨日ほどのぶっ壊れたテンションではなく、聞くに耐えないほどの会話は聞こえてこなかったのは幸いなのか残念なのか。
 と、男たちが泊まっていた部屋にスムレラがやって来た。出発を前に、スムレラ、スバポ、ラズニ、そしてストリイカザの四人で今日の目的地について再度確認を行うそうである。ストリイカザの朝風呂の話が長引いていたらその隣に入っていた本人に話を聞かれるところであり、危ない所だった。
 即席の会議が始まったが、全員まだ浴衣(的な服)なのであまり会議という雰囲気はない。まずはラズニから基本的な情報を開示してもらう。
 アヤーツァ。積層都市の異名を持つこの都市の全てはゴールデンタワーと呼ばれる建築物に収まっている。こうして都市機能を一ヶ所に集中させ、代わりにダミーの軍事施設を用意することで戦争の被害を免れようとしていたとのこと。
 普通に考えればこの方がミサイル一発で都市が全滅しそうだが、軍事機能を持たない都市を攻撃するような非人道的行為は当然選ばれることはない――そんな理屈通りこの都市は無事だ。出来レースだったあの戦争の絡繰りを知ってしまえば狙われないのも当然なのだが、そうでなくとも攻撃対象としての優先度は低いだろう。
 だが、戦争と関係ないところでこの方針はメリットを生んだ。実はこの周辺はアヤーツァ川の流域であり、荒涼たるこの地方には貴重な湿潤で豊穣な大地が広がっていたのだ。それ故に人が集まり都市が出来てきたのだが、発展して開発された都市部が広がればその分農耕地が削られる。農耕に向かない外側の土地を都市に割り当てればその問題は解決するものの、都市としての利便性は損なわれる。
 そこで農耕地のど真ん中に聳え立つタワーに全てが集まったことで、地域のどこからでも等しくアクセスできるうえに余計な建物は要らないので全ての土地を農地に使えるのだ。
 結果、一面の麦畑の中央に立つ黄金の塔という風景になっている。今は一面の緑でそれはそれでオツだが、収穫期には金色の大地に聳える金色の塔という見事な風景が楽しめるそうである。
「黄金の塔を目印にすればいいのね。で、バイオビースト関連施設はそこじゃないわよね」
 バイオビースト関連施設も軍事施設だ。軍事施設と関係ないから狙われなかったのであるなら、その塔にはバイオビースト関連施設は無いということになる。
「ええ。旧市街跡地にある『アクアヤーツァ海洋館』がそれです」
「……水族館みたいな名前ね」
 スムレラの指摘にラズニは頷く。
「みたいと言うか。元々水族館だったのを流用しております。水族館本体はタワーに移設されて『グランネオアクアヤーツァゴールデン〜天国に一番近い深淵〜』になっています」
「必殺技みたいな名前になってるな……副題は要らないだろ」
 スバポはツッコミを入れた。ラズニにツッコんでも詮無いこと……なのだが、ちゃんと説明ができる模様。
「実はこれ、公募で決まったのですよ。その時のドタバタは全国的に話題になってましてね」
 水族館への入場者を対象にしたその公募では当初、同内容の応募が最も多かったものを採用で、同数でトップが複数あった場合は投票で決めると発表されていた。見通しとしては候補がかぶるほどの応募はないだろうが何かかぶれば投票の手間を省けるというぬるい目算だった。
 しかしこの世界も現代はネット時代、そして悪乗りする若者はどんな情勢でもいるものである。おバカなネット民がSNSで同志を募り、聳え立つ塔の上部にある水族館を男性のシンボルになぞらえた下ネタで組織票を投じたのだ。その上で「まさか一番多い意見を無視するような出来レースはないよなぁー?」などと煽って見せたのである。
 まあこれは煽りなど無視して下ネタをスルーするのが正解なのだが、水族館側もおちょくられて黙ってはいなかった。募集期間中に名称募集について要項の変更を発表。それにより、投票イベントを開催し多数意見のほか先着20件の候補からの選択式になった。この時点では例の下ネタは余裕で当選筆頭候補。出来レースだ何だと騒げる状態ではない。
 しかし条件があった。投票イベントでは名称候補を挙げた当人もしくは代理人が登壇し、候補を書いたパネルを掲げることになった。そんなのに出演すれば下ネタ投稿者として顔が割れる。当人ならまだしもそんなものの代理人になってもメリットなど何一つない。もちろん本人が出る方がハードルが高いのだが。
 更には選ばれた候補に投票した人にも壇上で景品が渡されることがイベント冒頭で伝えられ、投票した側も顔がバレることになり、投票するにも覚悟が必要になった。それでも壇上には下ネタを送ったうち3名が登壇し、投票は無事に行われる運びとなった。
 下ネタの話も込みでネットで話題になっていたおかげもあり、イベントは中々の盛況だった。下ネタ当選を阻止しようという良識派の有志もネットで集まった。特定の候補に組織票を投じるのではなく、あくまでも自分の好きな名称に投票するのがポリシーだ。そうして集まったのは自ずと下ネタ嫌いの女性が多く、匿名のネットだから調子に乗れるような連中にそんな女性たちの前で下ネタ野郎として名乗り出る度胸のある奴はほとんどいなかった。
 一応下ネタ野郎たちも良識派の動きを把握しており、組織票じゃないなら楽勝で下ネタを一位にできると意気軒昂で会場やってきたのだが、敵意と軽蔑心丸出しの女性たちに囲まれて簡単に裏切りの道を選んだのだ。この時点で下ネタが当選する確率はほぼゼロであった。
 下ネタ野郎たちにしてみればふざけるなと言いたいところだが、先にふざけたのは言うまでもなく自分たちだ。それに他の候補の提案者や投票者もステージに立たされ注目される状況は同じ。だが彼らはちょっと目立てて景品までもらえるという方が恥ずかしさより大きいし、恥ずかしさの質もまるで違う。方やちょっと照れる程度、方やともすれば生涯のそして一族の恥だ。
 さらに追い打ちをかけるように、ステージでは進行役のお姉さん……いや女の子が「これ、言わなきゃダメですかぁ」などとカマトトぶったりした。もう既にヤケクソになっていた下ネタ野郎代表のシモンさん(仮名)は当然だという態度を貫き、さらなる顰蹙を買ったのである。
 後にこれについてはこのMCを女にやらせた主催者側に非があると言い訳したが、これについては下ネタ仲間が先にしていた指摘によって瓦解する。この進行役の女の子はエロ仕事も平気でこなす声優であり、下ネタごときで心が揺らいだりなどしないのだ。当然この仕事が下ネタを連呼させられる仕事だと言うことは理解した上で快諾している。当然彼女に仕事の内容――主に下ネタについて――事前の説明はあったし、話題にもなっているのだから何も知らずに引き受ける方が無理筋なのだ。
 なので散々恥ずかしそうなそぶりでごねた後は、もう聞いてる方が恥ずかしいくらいに元気に淀みなく下ネタを連呼してくれた。なお会場にいた人ならばその辺は察していたが、悪意を持って切り抜いて映像を作るとそれはまるで嫌がる女の子に無理矢理下ネタを言わせる男に見えるのだった。
 声優は後にその時のことを「悪のりしちゃいましたぁ」とてへぺろして見せ、シモンさんにとってはふざけるなと言いたいところだったが、先に悪のりしたのはやっぱり自分なので怒ることもできない。――と言いたいところだが、ここで自分を棚に上げて怒れるくらいのどうしようもない人間だからここにいられるのだ。当然その結果再び吊し上げられることになったのだが。
 そんな感じで一人のバカを社会的に終わらせ、数人に生涯の恥を味わわせた投票イベントだが、基本的に他の人にとってはただのイベントである。ただ、最終的に選ばれたのが例の『天国に一番近い深淵』であった。これを提案した人もさすがにちょっと中二病過ぎたと壇上でちょっと恥ずかしい思いをしていたが、注目されているのはシモンさんなのでそのまま息を潜めて乗り切ろうと思っていた。だがしかし、まさかの選出に度肝を抜かれたのだ。
 投票した人だってこれが選ばれると思って投票した人は少なかった。それでもなんかかっこいいよねと普通に気に入って投票した中二病気味の人もいれば、下ネタに投票するつもりで参加したが万が一本当にそれが選ばれて自分も壇上に登ることになっては困ると下ネタは避け、それでもせめてもの抵抗にと変なのに投票したら結局壇上に登る羽目になったケースもあり、様々な理由が重なって僅差で他の候補を押さえての当選となったのだった。
 適当に投票して壇上にあげられた人より頭を抱えたのは主催者側だったが、下ネタよりマシだと割り切って採用した。そして名称のイメージに寄せて奇妙奇天烈な深海生物に特化した展示を行ったことで、管理は大変だが人気は上々の水族館となったのだ。そして本来ならばネオアクアヤーツァ何たらになるはずだった名称も、より中二病要素を加えたグランネオアクアヤーツァゴールデンにグレードアップしたのだった。
 ついでに、どうでもいいツッコミをしたばかりにさらにどうでもいい裏話をたっぷり聞かされたスバポも頭を抱えることになったがおいておく。
「旧館は人面海豚(デルフォノイドショーが人気の普通の水族館だったよ」
 普通の水族館で人気の人面海豚ショーを開催するにはスペースが足りない。それにそもそもこの町は内陸。海洋生物を飼育する時点で既にコストが多めに発生する。そこに深海生物に対応すべく更に一手間加えたところで今更だった。これで話題性が高まり集客力に繋がるなら安いものであろう。
 なお、人面海豚とは字面の通りイルカっぽく見える生き物で、顔が平坦なのが特徴だ。イルカのように流線型ではないので泳ぎも速くはなく、ショーもジャンプするような感じではなく、水中で芸をする。よく人魚といわれるが、マーメイドと言うよりはダゴンといった感じである。まあ、人っぽい顔をしたジュゴンをイメージしておけばいいだろう。
 そして今回行くことになるのはその人面海豚ショーが行われていた旧水族館の方だ。
「水棲バイオビーストとのことだが、どんなのが造られていたかわかるか?」
「残念ながらあまり詳しくは……いや待て。いつかそれが脱走して騒ぎになったことがあったな。えーと……」
 ラズニはしばらく考えて思い出す。
「そうそう、和邇(シャルコダイルだ。陸上でも活動できる肉食魚を目指して生み出された殺戮生物だな」
 元々こんな内陸の国で水棲の殺戮生物の開発に着手したのは、マハーリの近海でそれを解き放ってやればマハーリに死と混乱を振りまけると考えたからである。それが増殖して手が着けられない状況になっても海から離れたヴィサン国には影響は小さい。
 そしてヴィサンに海は無くとも岩塩の産出は多いので海水の再現に苦労はしない。飼育なども面倒ではあるが困難ではなかった。現に元々水族館も問題なく運営できていた。海洋生物の実験だって同じこと。
 そして生み出されたシャルコダイルだが――。
「鋭い牙と高い遊泳能力を持つ肉食魚に陸上で活動できる四肢と硬い鱗を備えさせた生物だったと聞いている」
「海がないから大丈夫って言いながら、陸上で活動できるモノを生み出してどうするんだ」
「陸に上がって暴れてくれないと敵に損害も出せまい。ただの魚じゃ海にさえ入らなければ無害なのだから」
「まあそうだけど。そうじゃなくて、それだとマハーリの海にばらまいても、結局歩いてヴィサンにまで入り込むよねって言う話」
「……」
 考え込むラズニ。
「なるほど。だから実用化されなかったのですな。さすがスバポ様、慧眼であらせられる」
 なんかバカにされてるような気分になるが、単純にラズニより賢いと言うだけなのでその言葉は素直に受け取っておく。
「どのくらい凶暴で危険なのかはわかります?」
 下ネタ騒動の話の間は黙っていたスムレラがおもむろに口を開く。恐らくこれから遭遇することになるだろうからその情報は重要だ。
「実際に大きな被害が出る前に捕獲に成功しているので、そこまで多くの情報は開示されていないようです」
 となると、判るのはさっきの言葉のみ。硬い鱗で身を固めた、陸上を歩ける魚のような肉食の生き物。
「ある程度の繁殖力も持っているはずよね。多少駆除されてもどこかで生き残りまた増えて被害を与えるのが理想だし」
 そもそも、普通に増えてくれないと被害を与えうるレベルの規模での放流はできない。繁殖能力が弱いとそもそも研究中に全滅してしまいかねないし、そうでなくとも十分な数を揃えるにも手間やコストが掛かることになるだろう。数も満足に揃えられないまま放流したところでちょっと迷惑なくらいで終わる。
「どんなのであれ、解き放たれる前に阻止したいですね」
 そんな生き物は危ないに決まってるのだ。周辺への被害……そんなものよりも自分が危ない目に遭いたくない。
 そうとなれば行動を起こすのは早い方がいい。ビビって議論に逃げるより速やかに出発すべきだ。

「うわーい、水族かーん」
 これは今日の行き先を告げられたスパイ少年少女たちの反応である。
「いや、元水族館の軍事施設で……」
「元水族館というか、今でも水族館ですぞ」
「え?」
 ツッコもうとしたスバポはラズニに止められた。
 水族館の本体はゴールデンタワーに移転したが、元祖アクアアヤーツァは軍の研究機関だけでは施設を持て余すので、完全に軍事施設に転用されたわけでなく今でも規模を縮小されて一部が水族館として運営しているのだ。
 先ほど少し名前の出た人面海豚だが、新水族館でもショーのスペースはなくても飼育だけなら可能だった。しかしやはり飼育しているならショーも開催したい。それに、このくらい大きな海洋生物だと引っ越しも大変だ。だからと言って海に戻すなんてのは更に輪をかけて大変だろう。処分など論外。そんなわけで人面海豚の世話とショーは旧水族館のスタッフのサポートの元に軍が引き継いでいる。
 他にも大型魚や巨大な群を作る魚など、広い飼育スペースが必要な生き物を中心に展示を継続しているが、ゴールデンタワーからのアクセスが悪いので週末や夏休みなどの繁忙期にシャトルバスを運用しているらしい。
「平日でも営業はしていたはず。自家用車やチャーターバスで行けますからな」
「それにしてもスキタヤも女の子と二人で水族館なんて……。デートみたいですね」
「確かにっ!けしからん!」
 現状デートの相手などいないスムレラが嫉妬を込めてぼそっと言うと、ラズニが怒り狂う。
「いやお前、あの二人に元気な子を産めとか言ってただろ」
「あの子がそう望むならと笑顔でそう言って送り出したがっ!本音のワケがないのが親心だっ」
 あの時は号泣していた記憶しか無いのだが。それに、たぶん母親なら余程の相手でなければ本当に祝福しながら送り出すだろう。そもそもこの男はダディと呼ばれてはいてもポンの父親でも何でもないので親心とか言われてもなあとしか思えないのだった。
 そんなことを思っていたらふと気になりだしたので聞いてみる。
「そう言えば、ラズニってあの子たちをいつから面倒見てるんだ?」
「十歳くらいからだな。孤児院が戦災孤児で溢れたせいでその位になると孤児院から追い出されて訓練所に送られるんだ。とは言えまともな訓練を受けられない子もいる。それが我々だ」
「スパイって、高度な訓練を受けた集団じゃないのか」
 忍者などでもそうだが、フィクションの影響でなんかすごい能力と技術を持った超人のイメージを持たれがちでも現実は案外そうでもないものだ。一般人として市井に溶け込み情報を集めたり、噂話として流言飛語を流布したりという地味な活動も十分にスパイの活動であり、このくらいなら簡単な訓練だけで十分だ。
 なまじ訓練を受けた只者でない見た目の人間より、ただの只者にしか見えない方がスパイに向いていると言える。それに長期に渡り高度な訓練を受けた優秀な人材は貴重だ。だからこそ成功する見込みは低く成果としてはリスクに見合わないようなミッションを押しつける低コストな使い捨て人材も需要があるのだ。
 ましてや例の戦争の終盤はマハーリ軍が軍事費を吊り上げるために継続させていた茶番のようなもの、ミッションが成功するかどうかは秘密裏の事前協議で決まっているのだから誰にやらせても同じだった。成功か失敗か、どちらにしても結果が決まっているミッションに送り出す人材など、適当に教育した孤児で十分なのだ。
 民兵や少年兵など、十分な訓練を受けずに送り出されるケースは戦争には付き物だが、その用兵や有用性は戦い方によって違う。剣と槍で戦っていた時代なら農具を振り回すだけの民兵も大きな戦力だし、銃が出てきても弾除けくらいにはなった。
 銃器が高度化し扱いやすくなると子供が銃器を持っているだけで十分な脅威になったが、訓練兵による狙撃精度も上がったことで下手に突っ込ませても即座にやられて人命と持たせた武器を無駄に失うだけ。主に武器のコストが痛い。そうなると少年兵の最大のメリットはそれを殺すことになる敵兵の良心に付け入ることくらいだが、良心を持っていなければただのカモでしかないだろう。
 結局、最大のメリットは国家としては養う余裕のない孤児を減らす為の口実ということになってしまうが、それでも犬死ではなく少しでも役だって死んでもらいたい。そのためには簡単なスパイ任務を任せるのがいいのだ。
 そんな裏事情までは知らないラズニでも自分たちの所にはさほど重要でないミッションが回ってくることは把握していた。さすがに失敗前提のミッションがあるとは思っていなかったので、聞くからに厳しそうなミッションは陰ながら――まあ丸見えだったが――サポート、できなくても見守るためにみんなで駆けつけていたわけだ。
「ポンが受けた潜入暗殺ミッションはうちにとっちゃトップクラスの大仕事だったよ。普段はお使い程度のミッションがメインだ。ほかのスパイからの荷物を受け取りに行く、あるいは渡しに行く。侵入の難しくない場所にカメラや盗聴器を仕掛ける。そんな感じのな」
 普段そんなミッションばかりのチームに、敵地の深部に潜入しての暗殺ミッションを任せるというのは流石に荷が重いだろう。失敗前提の捨てミッションといったところだが、ラズニとしては純粋に自分たちの実力が認められたのだと信じた。
「ある意味、あのミッションもスキタヤに武器を届けただけのお使いになったけどな」
「違う、全然違う!なぜならスキタヤには武器のみならずポン自身も持って行かれているのだっ」
「うん、まあ、そうっすね」
 ラズニにとってそれは大きな事象だろうが、戦局には拳銃一丁の方が影響が大きいので軽く流しておいた。
 とにかく、これから向かう場所は普通に営業している水族館でもある。軍による研究についてはさすがに民間人が入れないエリアで行っているだろうが、施設に入るだけなら苦労はしないと思われる。であればまず行ってみるしかないだろう。
「アヤーツァに行く前に我らのアジトに寄っておきたい。次のミッションに向けて準備をせねばならないからな」
「準備なんて要るのか」
「流石にこの服装では目立ちすぎるからな」
 言われて確かにそうだと思うスバポ。何せラズニたちスパイチームは揃ってスパイチームのロゴ入りユニフォームなのだ。
「分かってるなら何でそんな服装で潜入してたんだ」
「潜入していたポンはマハーリ軍の軍服だったさ」
「ちげーよお前等だって敵国の首都に潜入していただろうがよ」
 思わず口調が荒くなるスバポ。
「ああ、それか。出国時のチェックが通りやすくなるんだよ。チェックの担当官には任務を与えられた本人と監督者の私の顔しかデータが行っていないことも多くてな。それに、データがあっても一人一人チェックするのも面倒だろう。その点ユニフォームで揃っていれば同じチームなのは一目瞭然。一発でチェックも終了さ」
「……結構ザルじゃね?そのチェック……」
 ユニフォームを着せるだけで無関係の人間もするっとチェックを通りそうである。チェックの意味あるのかと思うスバポだが、そのフィーリングは正しい。実はこれはラズニがユニフォームのおかげでチェックが簡単で済んでいると思いこんでいるだけだった。
 真実は複雑な事情が絡んでいる。当初、新人だったスパイチーム達はデータが無い子は本当に同じチームか確認するのが難しく手間取った。その担当していた係員も経験が浅く四角四面な対応しかできなかったのも問題ではあったがラズニ側にも問題があった。初めてのミッションで心配だったのでリストにない待機組含めて全員で乗り込もうとしたのだ。さほど重要なミッションでもなく、それでもしっかりサポートした方が成功率が上がるだのとラズニがごねたのが通ってその場は切り抜けた。
 その中で同じチームかどうかで押し問答になったこともありユニフォームを作ることを決め、それ以降トラブルが起こらなくなった。しかし実際には係員もスパイチームの顔を憶えてきたことと柔軟な対応も憶えたこと、結局あちら側の理由でしかない。単純に馴染みで顔パスになったのがユニフォームを揃えたタイミングと揃っただけだ。係側の事情とスパイたちの事情が絡み合っていた。
 だからさすがに今からスバポがスパイのユニフォームを着てチェックを抜けようとすれば恐らく止められるだろう。まあ、新人だとか手伝いだとかいえば案外信じるかも知れないが。
 それはとにかく、スパイたちのアジトに向かうことになったのだった。

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