黄昏を呼ぶ少女

三十一話 予期せぬ情報

「どういうことなのか、もちろん話してくれるんだよね?」
 真顔になってラズニはヤネカチに問いかけた。
 ヤネカチはまず、彼がナミバチ浜にやってくる前の真実を話した。ナミバチ浜のみんなに最初に話した、ヘルイ浜の村が襲われて自分は海に逃げた――と言うのは作り話だ。襲われたのは本当だが、その時ヤネカチは逃げられず捕らえられ、人狩りの集落に連れて行かれたのだ。
 ヤネカチが捕らえられた際、ヘルイ浜の村の広場には女子供ばかり集められており、ヤネカチら子供たちは数珠繋ぎに縄で縛られ、そのまま引っ張られて夜陰の中を歩かされた。大人の女たちも同じように、しかし子供たちとは別に縛られ連れて来られた。やがて目的地に到着する。
 そこにいたのは基本的に言葉さえ通じない人間で、人狩り同士で話している内容は全く分からなかった。しかし、片言でも言葉の通じる人物がいた。その人物がヤネカチたちの教育係となる。
 人狩りは自分たちをボーの一族と名乗っていた。海の向こうにはお前たち野蛮人どもの知らぬ先進的な国々があり、我らはその中で覇権を争っている、と。そして、お前たちは我らが王の臣下となり共に戦うのだと教えられた。
 とは言え、戦い方を教えられたわけではない。力で従えた相手に力を与えれば逆らう危険性がある。ヤネカチたちに期待しているのは労働力、下働きだった。
 そんな中、ヤネカチに与えられた任務は特殊なものだった。周辺の村に潜入し、情報を集める。いわゆるスパイ行為である。一緒に教育を受けた人数からして同じくスパイ任務を与えられた子供は何人かいるだろう。
 ヤネカチはナミバチ浜の浜辺に流れ着いたふりをして新たな村人として村に入り込んだ。そこでヤネカチが集めた情報は幅広い。ナミバチ浜の村と交流のある村の情報、位置や人口、周辺の地理など。
 変わったものでは現地で食べられているものの情報などというのもあった。それに関してはヤネカチも事情を察していた。何せ、彼らが連れて行かれた当初、とてもひもじい思いをさせられたのだ。人狩りにとっては不慣れな異境の地、自分で食べる分を集めるのもやっとだ。そこにさらに養う者が増えて飢えないわけがない。
 働き手として確保した子供たちも、まだまだ自力で食べ物を確保するだけの知識に乏しかった。一緒に連れて来られたはずの大人の女たちならそういう知識もあったはずだが、どういうわけか出てくることはなかった。
 ヤネカチの知りようもない事実ではあるが、人狩りたちは職業軍人と言うべき身分で農業にも不慣れ。慢性的な食糧難に悩んでいたのだ。そんな集団が子供に教育を施しても食糧を確保できるようになどならない。食料を得る知識を得ることは急務であったのだ。
 ヤネカチが人狩りに従っていたのは母親が生きていたからである。会うことは許されないが情報を持ち帰れば褒美代わりに馬車でナミバチ浜近くまで連れて来られ、幌越しに話すことができた。時折夜中に村を抜け出していたのはこのためである。ヤネカチが裏切れば親子共々、ヤネカチが一人逃げ延びても母親は確実に殺されるだろう。
 しかしヤネカチだって唯々諾々と隷属するつもりはなかった。父親が目の前で殺され、自身も自由を奪われた。母親は生きているが、会わせてもらえない時点で見せられない姿になっていると薄々察した。自分だって用済みになるまで生かされているだけかも知れない。そんな相手に従っても未来がある訳がない。
 情報を探る立場というのは利用しやすかった。自分に必要な情報も集められる。そして手に入れた情報もある程度曲げて伝えられる。子供なら素直だと思ったら大間違いである。
 周囲の村が集まる祭りの日を伝え、一網打尽にさせる作戦を提案したのもヤネカチだ。ボーの民はヤネカチによって過少申告された現地の戦力を鵜呑みにし、蛮族が相手なら楽勝と甘い考えで攻撃を仕掛けた。
 誤魔化されたのは集まる村の数である。ナミバチ浜の村の近くの村から集まるとだけ言っておいた。ナミバチ浜村と直接交流のほとんどない村まで集まるとは思われないように。連中が思っていたより広い範囲から大勢人が集まろうが、嘘はついていない。ぼかして伝えた内容から勝手に敵を少なく見積もるボーの民の方が甘かったというだけなのだ。
 それでもボーの民に一矢報いて死傷者が多少出れば御の字くらいの気持ちだった。連中が一度追い返されたことで気持ちを引き締めて本気で仕掛けた攻撃をも、こちらが撥ね退けて見せたのは正直以外だった。
 こうなると、もしかしたらと言う気持ちも起こる。ヤネカチは全力であればボーの軍勢を打ち破れるという期待を込めて、自分の正体を含めて知りうる限りの情報を開示することにしたのだ。

「と、言う訳なのよ!」
 ここまではいわゆる話の枕という奴であった。これだけでも情報として濃すぎるくらいだがここからが本題なのだ。
「それにしても、何でそんな話をラズニに……?」
 一旦小休止に誘うべく、スバポは話題を変えた。
「そりゃあ、私って頼れるお姉さんだもの」
 うわあそれはない、スバポはそう思う。だが、この勘違い発言にしか思えない一言が真実である。ラズニだってスバポの近くでアクセル全開の空回りをしている時以外は、優しくて落ち着いた頼れるお姉さんなのだ。別にヤネカチに人を見る目が無いと言うことでもなく、むしろスバポのいない所でのいわゆるいつものラズニこそ、本当のそして本来の姿なのだ。スバポも今の印象が強すぎて失念しているだけで、元々のラズニとして記憶している姿である。
 スバポに見せているお茶目でいっそちょっとおバカな姿も本当の姿だが、こういう一面もあるという程度でしかない。ちょっとその一面を出し過ぎてどん引きされているが、これまで大人しい地味な素の姿で接していた時はスバポにとって『村娘C』位のあまり意識されない存在だった。それに比べればどん引きでも意識される方が心地よい。リアクションされるのがちょっと癖になってしまったし、今更元のキャラに戻すのも気恥ずかしい。
 実の所、スバポからすれば仲がよかったわけでもない、あまり意識していなかった女の子からの突然の告白だけで効果は十分であった。ここでラズニがいつものおとなしい女の子に戻っても何となく意識してしまう感じになりむしろ早く進展していた可能性すらあった。世の中うまくいかないものである。
 それはおいといて。ヤネカチはその日ラズニとずっと真面目な話をしてきた。その中で、話しやすくてちゃんと話を聞いてくれる聡明なお姉さんという印象を受けたのだ。そして作戦を立てているスバポとも最近はよく話している。条件が揃っていたわけだ。
 ヤネカチの期待通り話はラズニからスバポに伝わる運びとなった。スバポなら得られた情報もちゃんと活かせるだろう。その情報を纏めるとこんなところだ。
 ボーの民は人数は多くても三百人程度だと思われた。全員がヤネカチの前で一カ所に集まったことがあるのかわからないので断定はできないが、集落の規模から見てもその程度らしい。男だらけで、女の姿は見たことがない。ヤネカチの前に現れていないだけかも知れないが、居たとしても相当少ないだろう。
 前回の襲撃はほぼ総力戦だったようだ。それを撃退できているのだから絶望的ではないが、前回の時点ではボーの民もこちらを未開の民だと舐めていた。次は気を引き締めて掛かってくる。人数だけで安心はできない。
 ボーの民が使う金属製の武具は実はそれほど数が多くない。職人のいない武人ばかりの集団なので新造どころか修理もできず、しかもここは空気が湿っていて劣化しやすい。使い物になるものは減る一方で、代わりとなる石槍なども作成に慣れておらず、奪い取ったものが主力になっている。
 残った武具は馬とともに有力者が優先的に使用している。馬は繁殖できていて数は百には届かないものの結構いるという。馬に乗り金属の武具を持つ者には特に注意した方が良さそうだが、逆にそういった者を討ち取れば敵への打撃は大きいと思われる。
「さて、と。まずはこの情報をどう考えるべきかだな」
 ラズニの話を聞き終えてスバポがぼそりと言った。それにガラチが問いかける。
「どう、って言うと?」
「この話の信憑性だよ」
「ラズにゃんは確かにお兄ちゃんの気を引きたがっているけど、こんな大事なところで作り話する子じゃないよ」
 非難するように言うベシラにスバポは頭を振った。
「そこも疑って無いことはないけど、それよりもヤネカチ君の持ってきた情報のことだよ」
「疑ってないことはないんだ……」
 ちょっとへこむラズニを華麗にスルーしスバポは続ける。
「ヤネカチ君は言わば敵方のスパイだったわけだ。ならばこの情報を流すことで向こうに有利になることも考えられるってことだよ」
「うーん……。なんか頑張れば勝てそうな話だったけど、もっと敵の質も量もずっと上で、この話を真に受けて油断すると圧倒的な戦力で踏み潰されちゃう、とか?」
 ラズニの推測も概ね正しい。
「ヤネカチ君のこと、信用できないっていうの?」
 ベシラが再びスバポに噛みつく。
「本人に騙すつもりがなかったとしても、こんな風に裏切って情報を流すことを警戒して欺瞞の情報を与えていたり、それほどのことじゃなくてもヤネカチ君の知らないどこかに人狩りの集団が別にいたりするだけで、信じると危険な情報になっちゃうからねえ……」
「そういうことだ。そうだなあ、この場合だとわざわざスパイだと明かしたうえで情報を流す事で信憑性は高まるだろうが、欺瞞情報を伝えるためにスパイの存在を明かすのは釣り合わないと思う。だから敵方の作戦として使われてる線はあまり考えなくていいだろうな。ただ、ヤネカチ君の見た物が全てだとは限らない。俺たちだって別に人狩りを騙そうと思ってあちこちに散らばってた村が集まった訳じゃないだろ。連中だって食べるもののために方々に散らばっていても不思議じゃないからな」
 ラズニの指摘にスバポも同意した。ついでに、なんかヤベエ奴になり掛かっていたスバポから見たラズニのイメージが図らずもぐっとまとも寄りになったのだった。
 戦力以外の情報としては、ボーの民は自分たちが来た場所を大陸そしてここを島と呼び、この島を支配下に置き戦力を整えたら大陸をも制覇すると豪語していたらしい。
「大陸って、海の向こうにあるっていう陸地のこと?本当にあったんだ……」
 ずっと南の方では海の向こうの人たちから珍しいものを手に入れたりしているという。この辺りにもそういった珍しい品とともに話も伝わってきていた。しかしさすがに遠すぎるのでおとぎ話のような扱いである。
 なお、その話には『ずっと南』バージョンと『ずっと北』バージョンがあるのも作り話臭い点だった。事実としてはただ単にずっと南に行こうがずっと北に行こうが同じ大陸がそばにあるだけなのだが、歩きと船くらいしか移動手段のない行動範囲の狭い人々にはそんなイメージを思い浮かべるのは難しいのだ。それでもここにいる面々は異世界でながら世界の広さを思い知っているので少しはイメージできた。要は海の向こうに戦争が起こるくらい人がたくさんいるということだ。
「海を越えてまでこの土地を征服しに来たってのか?ここってそんなに魅力的なのか」
 ガラチの言葉にスバポは考え込む。
「大陸ってくらいだ、海を越えなくてもこのくらいの土地はありそうなものだよなあ。海を越えるのは危険だ、それと釣り合うほどとは思えないな。話を聞く限り準備万端で乗り込んできたって感じでもないし。武器すら新調も修理もできないんだろ?そもそも侵略にしては数がお粗末だ。侵略しに来たとしても僅かな戦闘員以外海の藻屑にでもなったか……?」
 いくら遠くて大変でも、比較的大陸に近い地域では細々ながら大陸の民と交流が持たれている。その繋がりで大陸の方が先進的であることも分かっているが、だからと言ってそこまで技術力が隔絶しているとは聞かない。特に操船技術は引けを取らないはずだ。
 それに、簡単に行って帰れるわけでもないのだから、大陸から大挙して押し寄せるなら戦闘員だけでなく技術者なども連れてくるのが当たり前だ。その程度の準備もなく長期になるだろう遠征など愚かにも程がある。ならば当然非戦闘員たる職人や農民なども連れてきたはずだ。それがいないということはすでに犠牲になったと考えるべきだろう。ここはそれほどのリスクを犯してまで手に入れるほどの価値のある土地だろうか。
「確かに産出される場所が限られる貴重なものもあるけど、その産地を占領したとことでどうやって本土に運ぶんだって話になるな……」
「連中は女を捕まえていくんでしょ?ならばそのままズバリ!女が目当てよ!」
 ラズニの発言に呆れた顔をするスバポ。
「いやそれこそ海を越えて来なくていいだろ……。どんだけ女がいない大陸ならそうなるって言うんだ」
 ごもっともなことを言われてもラズニは引き下がらない。
「こっちの女は質がいいんじゃないの?例えば私のように」
「自分で言うか」
 にじり寄りながら言うラズニに冷ややかな目を向けるスバポ。しかし改めて間近でまじまじと見ると確かに悪くはない。ベシラのような華やかさはないが清純で素朴な可愛らしさがある。
 そんな可愛らしい女の子は、自分でにじり寄っておきながらもこの距離はちょっと近過ぎだと思っていた。いつものようにすげなく顔を背けられると思っての行動だったが、こんなにじっくりと見つめ合うことになるのは予想外だ。たとえ相手が冷ややかな目であっても、想い人と見つめ合う状況に心拍数と体温は急上昇である。それは耳まで真っ赤になることで外見にまで表れている。
 改めて見ると結構可愛いとか思っていた少女が上気させた顔で間近に迫っている状況にはスバポも平静を装うのに苦労する。目を逸らすタイミングを逃し動けないラズニと何となく目を逸らしたら負けだと思っているスバポの膠着。
 先に動いたのはスバポだった。勝つ必要のない何の意味もない勝負だと思ったし、そもそも勝手にスバポが勝負だと思っているだけでしかない。それよりもこのまま見つめ合っていたら襲われそうな気がしたのだ。もちろん、見つめ合うだけでいっぱいいっぱいの乙女ラズニにそんな度胸はないのは言うまでもない。そして目を逸らされてラズニもほっとしたのも言うまでもなかった。
「大陸の方じゃ偉い人がハーレム作ってて空いてる女がいないとかならあり得るんじゃないの」
 空気を読んでわざわざ見つめ合いが終わるのを待っていたベシラが言う。
「まさか。……いや、なくもないか……。でも、あぶれた男たちが反乱を起こすとか、ハーレムから除外された女たちが逆ハーレム作るとか、まず内輪でどうにかする……と言うかどうにかなるのが先だよなあ……」
 ここに至るまでに散々どうにかなった挙句の遠征である可能性も否定できないのだが。ともあれ所詮は前提条件が提示されていない机上の空論、結論は出そうにない。そもそも何をしにきたのかと言う点はひとまずおいておくとして、とにかく今は男だけで異境の地に辿り着いたことで女を獲得しようと躍起になっているということだろう。
「何にせよ、連中は最初の一手を間違えたな。よほど武力に自信があったかよほどこっちをナメてたんだろうが、最初に交渉じゃなく暴力に出たことでもうお互い徹底的にやり合うしかなくなった。連中の敵はここにいるだけじゃない、奴らが島と呼んだこの大地に住む人間全部が敵に回ることになる」
「え?もう援軍要請とかしてるの?」
 ガラチの発言に驚くベシラだが。
「いや……さすがにそんなのは無理だ。そうじゃなくて、今回俺たちがダメでもこの島の全ての人間を殺すまで戦いは終わらないってことだ。こんなやり方に大人しく従う奴なんて居ないだろうからな。そのためには誰かが生き残って、他の村にも連中のことを知らせる必要があるけどさ」
「……ちょっと。負ける前提で話をしないでよ。大したことない敵なんでしょ?」
「話を聞いた感じ、思ったほど大した敵じゃなかったのは確かだ。だがな……それなら対抗する俺たちは大したものなのか」
「もしかして……大したものじゃないの?」
「ああ。人数だけは多いがそれは女子供を含めてだ。そして男も戦いの経験なんてない。訓練だって受けてないしそもそも人との戦い方なんて誰も知らないんだ。そして敵の武器がボロいか奪った石槍ばかりだとしても、こっちも石槍だしそもそも数が多くない」
「そうなの!?」
「俺たちが集まっていたそもそもの理由はお祭りだぞ。弓や石槍のようなものはほとんど村に置きっぱなしだ」
「だよね、持ってこないよね……」
「もうひとつ決定的になるかも知れない差がある」
「まだあるの!?何!?」
「人間を殺した経験だよ。連中は武装してる時点で殺し合いの覚悟があるし、実際に結構な人数を殺しているわけだ。しかしこちらは人を殺し慣れた奴なんていない」
「うん……そりゃあね」
 ここでは争って奪い合うにも奪えるものなど多くない。物は村ではなく自然の中に満ちており、人同士争うより力を合わせて集めた方が効率もよい。一度誰かから奪えば協力は得られなくなり、奪い続けるしかなくなる。とてもじゃないが割に合う行為ではない。殺し合いが起こるとすれば仲間内の揉め事、特に愛憎のもつれ。そんなことで慣れるほど人を殺すような奴などさすがにいない。もしもそんなのがいたとしても村の方が存在を許さないだろう。そんなわけで、規模の大きな殺し合いなど起こる理由がないのだ。
「敵との勝負が決まる一瞬に躊躇ったことで出遅れて負ける、なんてことがざらに起こるだろうな」
「うん、ありありと想像できるね……」
 多くはない戦力が、勝てるはずの戦いで失われていてはとても勝利は掴めない。
「もちろんできるだけ直接戦闘は避ける作戦を立ててるけど、それがうまくいくとも限らないからな。楽観できないんだよ」
 スバポがガラチの話をまとめた。
「じゃあ、結局私の聞いてきた話ってあまり役に立たない感じなのかな?」
「どうにか裏付けがとれれば有用なんだがな……。まあヤネカチ君が他の情報にも持っているかも知れないし、さっきの話の検証も兼ねて詳しく話を聞いてみる必要はありそうだ」
 ラズニはちょっとホッとしたようだ。結局ヤネカチが情報を持っているという情報が一番大きい。そして。
「他の情報ねえ……。あ、そう言えばヤネカチ君、馬の乗り方解るみたいよ」
「……その話は結構重要だな。もっと早く言って欲しかったぞ」
 危うく言い忘れそうな感じだったが、馬は何頭か捕らえてあるのですぐに試せるので真偽も判るし、裏付けの取れてないデータよりも役に立てられる。早速明日には乗馬の練習を始めることが決まったのだった。

 中ツ国に夜が訪れ、高天原は夜明けを迎えた。
 昨晩のうちに大蛇に先行して狼も来ていることは伝えてある。狼の姿はまだ見ていないのでどこまで迫っているのか、そもそも本当に来ているのかさえも定かではない。
 しかしスキタヤが言うには夜にはアコーに到達するとのことだったが、月読は既にアコーより遠いララターギに逃れている。十分時間は稼げていると思われた。だが、しかし。夜の闇を疾風のような速さで迫る巨大な影があったのだった。
 朝食をとったら次の避難先に移動してから対策をとる。そんな余裕あるプランは崩れ去った。外を見張っていた警護兵の緊急警報でミルイたちは叩き起こされる。なお月読はいい歳であるので問題なく朝早くから起き出していた。
「何事だ!」
「危険でございます、陛下!狼が想定より早く到着した模様、至急応戦の準備をします!」
 ミルイたちも外に飛び出してきた。そして。
「……なあんだ」
 気が抜けるベシラ。
「もう来たんだ、早かったねえ」
 のんびりというミルイに三つの頭の六つの目から視線が注ぎ、三本のしっぽが怒濤の如く振られた。もちろん頭が三つある化け物ではなく胴体もちゃんと三つだ。異常なものがあるとすればその図体の大きさだろう。
「駄目だ、危ないぞ!離れなさい!」
 警護兵から怒号が飛ぶが。
「大丈夫、あの子たちはあたしたちが飼ってるワンちゃんだから」
「は?……は?」
 そんな話聞いてないと言いたげな警護兵。無理もない、だって誰も言ってないのだから。すっかり忘れていた、あるいはもう誰か言っただろうと言わなかった、というのが真相である。
『少女さま!ぼくたち頑張ったよ!』
『怖かったけど、大蛇を追い抜いてきたんだ!』
『狼にも遭ったけど、みんなで追っ払ってやったぜ!』
 目をきらっきらしっぽをブンブンさせながらほめてほめてと言わんばかりに報告するわんこ三兄弟。
「偉いねえ、頑張ったねえ」
 惜しみなくわんこたちの鼻筋をなでなでしてやるミルイ。わんこたちの夜の大冒険が報われた瞬間であった。特に、まだ真偽も確かめられていなかった狼の情報は本当に誉めるに値する成果である。狼についてのさらに詳しい証言は――。
 わんこたちは夜通し走り続けていた。空路で飛び立ったミルイたちを追って。正直、ミルイたちが向かったララターギ湖というのがどこにあるのかなど知らない。その中で頼りになる情報は最初にミルイたちのエアシップが飛び立った方角くらいだった。高速で上空をかっ飛ばしていったエアシップの臭いも追えないのだ。
 だが、程なくとても判りやすい道標を見つける。大蛇の通った跡だ。悍ましい臭いに気付き、恐る恐るその方向を目指して走ってみたらそれを見つけた。そこからは臭いを辿るまでもなかった。大蛇の這いずった後は木々は薙ぎ倒され草は土ごとこそがれ一目瞭然だったからである。
 走るほどに臭いは強まり嫌な予感が鎌首を擡げてくる。やがてその予感は実体を伴って現れた。幽かな月明かりに青く滲んだ夜空を背景に小山のような蜷局から巨塔の如き鎌首が擡げられた。影しか見えず顔など判らないのに、目がこちらをねめつけたことは判るほどの威圧感。
『同胞よ、我に従え』
 逆らうことを許さぬ思念が脳内に轟く。
『違います、人違いです』
 人ならぬわんこは人ならざる大蛇にはっきりとそう言いきった。それは若さ故の反抗。と言うか、恐怖で従えようなどというのは大間違いだ。そのくらいこの大蛇は怖すぎた。こんなのの下に付くなど生理的に無理。存在がパワハラであった。反抗するのに勇気を振り絞る必要などない。だって従う勇気こそないのだから。
『人間の犬めが……いや、ただの犬か』
 何とでも言えばいい。犬なのは間違いないし、何なら少女様の愛玩犬であることを誇りにさえ思っているのだ。
 わんこたちは遠巻きに大蛇を迂回し、それを背にすると一目散に駆けだした。こんなに簡単に追いつくような相手、逃げるのも容易いのである。まあ、ものすごい瞬発力で襲いかかってきたらヤバいかもだが。
 何事もなく大蛇をやり過ごし、夜を駆けるわんこ。次に彼らの鼻が捉えたのは因縁の相手の臭いだった。狼三匹組、バイオビーストの実験体として生まれたわんこたちからみれば後輩にあたる、実用兵器として生み出された連中だ。
 兵器として生み出された位なので強靱な肉体を持ち、性格も凶暴で偉そうだった。先輩を敬うようなタマではなくわんこたちはよくいじめられた。一対一で勝てる相手ではなく、もちろん三対三でも勝てるわけがなかった。
 だが、どうも今は一匹だけの模様。三対一なら全然怖くないのだ。わんこたちは狼を追う。追跡に気付いた狼は足を止め、わんこたちはそれを取り囲んだ。
『ちっ……。自然界にまつろわぬはぐれ者どもが……。折角野に解き放たれたのにまた人間の臭いをさせやがって』
 狼は忌々しげにうなり声をあげた。
『人間の臭いならお前もさせてるじゃないか。人間の血肉の臭いだけどよ』
 わんこたちの鼻なら狼が最後に食べた物も、それからどのくらい時間が経過しているかもある程度把握できる。
 人間に敵意を抱く狼たちには人間を喰らうことは栄誉ある行為である。その一方で理想的な餌ではない。まず捕まえるのが難しい。乗り物無しなら逃げ足は遅いが、人が歩き回るような町には身を隠せるような場所がいくらでもあり、籠もられると手が出せない。無謀な兵隊や警官なら立ち向かってくるが、いくら無謀でも武装はしている。銃で撃たれれば致命傷までは受けずとも怪我はするだろう。人数が増えれば十分危険だ。
 そして苦労して捕まえても狼たちの体に対してあまりにも肉が少ない。その上人間が着ている服は食べる上で邪魔である。裸で外にいる人間などたまにしかいない。丁寧に服を剥いでから食べないと、最悪腹の中で詰まって命に関わる。食べれば誇りで胸はいっぱいだろうが到底腹は一杯にならない。
 そんな人間の臭いが最後で、それもだいぶ薄らいでいる。長らく食べ物にありつけず飢えている。顔つきが前に見た時より凄みを増しているのも痩せているせいだろう。
 飢えた狼といえば恐ろしいものというイメージがあるが、十全の力を出せない空腹の狼などおなかいっぱい食べていっぱい遊んで元気もいっぱいのわんこたちには怖くも何ともない。
『空腹で疲れ切った狼一匹に何ができるんだ?』
『お友達がいないと惨めだねえ、ひひひひ』
『聞いたぜ、犬じゃないから人間の下にはつかないとかほざいていたら、結局よりにもよって蛇の手下になったんだってな』
 ミルイ相手にほめてほめてと言っている時とは別人のような態度だが、ミルイと最初に会った時もこんな感じで尖ってたものである。と言うか、何ならわんこたちがグレていたのは狼たちのせいだ。
『舐めるなよ犬ども。俺たちはあんな化け物の手先になどならない。力を示し大長虫の代わりに王の牙となる。王に戴いた<太陽の前を行く者>の名の下に!』
 その名は次世代の太陽つまり地平線の少女より先に月読に追いつけと言う名前だったが、地平線の少女は飛行機でかっ飛んでいったのであっさり追い抜かれている。まあ、これはさすがにしょうがない。この名前と役目を与えられてから結構時間も経ち、状況は変わっているのだ。
『それに、お前等の飼い主のところにも俺の仲間<太陽の後を追う者>が向かっているぞ。俺に構ってる暇などないな』
『なんだって!?』
 太陽の前を走っているはずの狼がここにいるのだ。当然、太陽を追う狼はもっと後ろにいる。それに月読とミルイは今一緒にいるのだから月読のついでにこの狼がミルイも襲うのが一番手っ取り早いのだが、狼たちは自分が追う相手が大体どの辺にいるかを最初に教えられただけなのでそんなことを知る由もない。
 なお、話に出ていた<太陽の後を追う者>に至っては、月読がマハーリにいるという情報を元に一旦マハーリに向かい、近くまで到着したところでミルイがエアシップで飛び立ったと啓示を受け取っていた。マハーリからエアシップの出発と同時くらいに追跡を始めているのでぶっちゃけまだまだ遠い。
 わんこらはわんこらでそんな事情は知らない。もちろん月読とミルイが一緒にいることも知らないし興味もない。それどころか自分たちが今ミルイが向かった方向に進んでいることすら頭から消えている有様である。アホだった。しかしだからこそ、ミルイたちが今どこにいるとかそういう情報をうっかり漏らしてしまう心配もないのだ。
 狼にしてみればこれでわんこらを焦らせれば一対三の不利すぎる戦いを回避できる。その上わんこらの走り去る方向でミルイと月読が一緒にいることも察することができたかも知れない。その目論見は成功しかけていた。
『群れないと勝てないくせに俺に舐めた口を利いたことは覚えておくぞ。あとで覚悟しておけよ』
 こんな負け犬ならぬ負け狼の遠吠えがなければ。これを聞いたわんこたちは思い出す。今が千載一遇の、最後かも知れないチャンスだということを。そして思い知る。このチャンスを逃せばすっごいピンチが訪れるだろうことを。合流されたら三対三の勝てない戦いが起こるのだ。
 やっちゃう?やっちゃおうぜ!目線で会話し、狼との激闘の火蓋が切られた。

 戦いは楽勝と言えた。しかし、それでも強敵だ。誰かがやられている隙に他の二匹が攻撃するようなパターンになりがちで、結果としてわんこらも傷だらけになったのだ。それでも勝利は勝利。狼はわんこ以上にボロボロになりながら這う這うの体で逃げ去って行った。
 逃げられたのは大失敗だ。正直、ここで息の根まで止めて他の二匹に報告もできない様にしておかないと、結局後々三対三での戦いが勃発しそうだ。今回ボロボロにした奴が回復しきれて居なければ勝機はあるかも知れないが、正直厳しい。
 しかし、わんこたちは今は他に仲間もいるのだ。みんなが一緒ならきっと勝てる。そのみんなを自分たちの喧嘩に巻き込んでしまう点についてはもうごめんなさいとしか言えないが、気にしないことにするしかないのだ。
 今回、傷だらけになるような無謀な戦い方ができたのも、ベシラが薬を塗って治してくれると思えばこそだった。なお、わんこたちはその薬が悶絶するほど沁みると言う事実をまだ知らない。間もなく身をもって知るだろうが、そうなればこんな無謀な戦い方は二度としないかも知れない。
 わんこたちの情報から、狼は割と近くまで迫っていたことが分かった。取り急ぎ月読を逃がす必要もあるが、このペースで追跡されていてはまたすぐに追いつかれる。何か対策をしなければならない。

Prev Page top Next
Title KIEF top