黄昏を呼ぶ少女

二十六話 黄昏温泉の神々

 「セセキソ荘」。ヴィサン国メギ市郊外の温泉地アージュにある宿である。そこそこの大きさでそこそこの設備を備えたそこそこのグレードと人気を誇る、そこそこの宿である。
 これと言った特徴のない地味な宿だが、一つ揺るぎない強みもある。それは宿泊コスパの良さだ。ゆえに、安さを追い求めるほど切り詰めはしないが宿に多くを求めることもしないごくありふれた旅行者の無難な選択肢として、週末や祝祭日、行楽シーズンには予約さえ取れないこともザラである。
 なお。今は閑散期で平日だ。ガッラガラであった。宿泊中に大往生しても何の不思議もない湯治客によって辛うじて生き延びているような状況で、飛び込みの小規模団体客は歓迎である。到着時間の遅さ故に夕食の準備はいらないなどと言う楽な客であれば大歓迎である。
 スムレラは部屋に入るやいなや、スパイ少女たちの重要な話し合いに参加させられる。議題はスムレラを何と呼ぶべきかである。一瞬どうでもいいと思ったスムレラだが、よくよく考えて認識を改めた。これから少なくともこの作戦中はそのニックネームで呼ばれることになるわけである。あんまり変な呼ばれ方は困る。不快なあだ名はもちろんだが、たとえば「姫」とか「女神様」みたいな身の丈に合わない素敵すぎるニックネームで呼ばれるのも恥ずかしい。ましてやこれがスパイだけの間で留まらずスバポやミルイたちにまで広まった日には泣きながら逃げ出してしまいそうだ。
 かくて、自分のニックネームを決める話し合いに参加する苦行に臨むこととなった。
「ところで。スバポさんの呼び方は決まってるのかしら」
 スムレラとしてはそこも気になるところだ。自分だけニックネームをつけられてはたまらない。
「それもこれから。順当に行けばビッグブラザーってところなんだけど」
「なんか似合わないよねー。委員長とか?」
「部長かも」
 会社の……ではないだろう。ファミリーなのか、スクールライフなのか。路線がぶれぶれだ。
「スムレラさんはビッグシスターかな」
「……ビッグだよねぇ」
 視線がそこに集中していることに気付き、スムレラは思わず胸を隠した。
「ママの座は空いてるけど」
 幾らも年が離れていない──少なくとも自分はそう言いたい──少女たちにママと呼ばれるのは少し抵抗があるのだが。
「ダディには釣り合わないでしょー」
「ママの座に入るのはむしろスバポさんよね」
「うわー、腐ってるぅー」
 話の内容には苦笑いだがこうして喋っている姿は何とも微笑ましい、ただの女の子たちである。それはそうだろう、スパイという肩書きと最初の張りつめた雰囲気で失念していたが、年齢的に彼女たちは女学生なのだ。
 そう考えてスムレラははっとする。戦争で家族を失い、この年で戦場に送り込まれている彼女たちにとって、家族も学校も叶うことのない夢なのだ。だから、ニックネームで家族や学校生活を演じようとしているのではないだろうか。
 確かに先に戦争を仕掛けてきたのはヴィサンかもしれない。しかし、少なくとも彼女たちの現状を作り出した戦闘はマハーリの軍が戦況を操りだしてからのことだ。彼女たちもマハーリ軍の被害者なのである。
 と、そんな感じでシリアスになっているのはスムレラだけであった。
「うん、それでいい感じだね」
「じゃあこれで決定」
「これからはスムレラ先生って呼ぶね」
 いつの間にか呼び名が先生に決まっていたようである。今まさに、彼女たちにならママと呼ばれることも厭うまいと決意を固めたところだけにやや肩すかしであった。
 しかし、確かにママと呼ばれるよりは先生の方がいいのは確かだ。自分はまだこの歳、彼女たちはもうこの歳だ。ついでにダディがアレである。これでママと呼ばれるには決意と覚悟がいる。だが、先生ならば。実際、遠い昔には学校の先生になることを夢見た時期もあった。いつの間にか学力的に学校の先生のレベルを軽く飛び越え今のようになったわけだが、そのころの夢を叶えていればこんな少女たちに先生と呼ばれていた頃。端から見て違和感はないのだ。ついでに言えば、行政関連の仕事に就いた関係でゆくゆくは別な先生を目指すことにもなるかも知れない。まあ、そんなことを考えるのはもっと先でいい。
 そして。連動して密かにスバポの呼び名も(生徒)会長で内定したのである。

 ニックネームの決まったスムレラがお風呂に引きずり込まれようとしていた頃、ミルイとベシラもお風呂に入るところだった。ベシラの月読様をお風呂で悩殺作戦は失敗に終わった。だが、二人を露天風呂で待ち受ける者がいた。
「あっ。おさるさんがいる。ハヌマーンちゃん以外のおさるさん、みるのはじめて」
「うわ。大丈夫なの?」
 二匹のおさるが肩を並べてお風呂に入っているのだった。中ツ国の大自然の中ではおさると人間は領域と食べ物を奪い合うライバルである。ちょくちょくバトルも発生するのだ。
「大丈夫、あたしがいるもの」
 ミルイはそういい、勾玉を……。
「あっ。勾玉置いてきちゃった」
「きゃあ。一人にしないで」
 勾玉を取りに戻るミルイとそれについて行くベシラだった。
 改めて。
「“高天の原に光あり、昼と夜とを分け葦原のため水穂のため地を照らす光となれ”」
 これでおさると話が出来る。
『おや。おやおや。ハヌマーン様のことをご存じだと思ったら、地平線の少女様でしたか』
 お風呂で平伏するおさる。
 そのまま溺れるおさる。
「きゃあ。だ、大丈夫!?」
 ミルイは慌てておさるを引き上げた。
『ああ……少女様はこの人の命の恩人ですわ!!』
 感涙するもう一匹。死にかけた理由も少女様のような気もするが、自業自得でもあるので気にしなくてもいいだろう。そして、特に危険はなさそうである。
 おさるを助けるためにミルイは湯船に入ってしまったが、一度体をきれいに洗うために出た。体を洗っている間におさると雑談する。
『私たち、新婚旅行ですのよ』
「へえ。どこから?」
『……そこですの』
 気まずげにすぐ隣の山の斜面を指さす花嫁猿。まあ、見栄を張って旅行などと言ってみたところで、木から木へのおさるの移動能力ならばそんなものだろう。
「……ふーん」
 ミルイとしてみれば、尋ねてはみたもののおさるからどこから来ようがとてもどうでもいいことだった。ついつい気の無さそうな相槌になってしまう。そんな反応が、訝っているように思えたのだろう。
『……ううっ。ごめんなさい、こいつが見栄を張って!ただの駆け落ちなんですっ!』
 別に何かを疑っていたわけでは無くてどうでもよかっただけだったのだが、花婿は観念して真実を述べた。そして、その真実もまた割とどうでもよかった。なお、タダの駆け落ちと分かった今彼らを花婿花嫁と呼び続けるのはいかがなものか。とは言え。
「へえ、そうなんだぁ。……ねえ、ベシラ。駆け落ちって、何かな」
 ミルイは駆け落ちのことをよく分かっていないのでそういったことに思い悩むことさえ無いのである。
「なっ、なな。何の話してんのよ」
 おさるの言葉が聞こえないベシラにここまでの話をまとめて伝える。
「なーんか、浮気の出来なそうなお婿さんねー。ま、その方がいいに決まってるけど。……駆け落ちってのはねぇ。……ま、結婚と大して変わんないと思っておいていいんじゃないの」
 まだお子さまには早すぎるわよね、と同じくらいの年頃のベシラは思うのだった。とは言えあちらではずいぶん年上なのだ。おかしなことはない。そして、ミルイの中での認識が変わらないままであるので、現実はともかく花婿花嫁と呼ぶことにする。
『少女様にお墨付きをもらえれば、おかしらに認めてもらえなくても俺たち堂々と生きていけますっ』
 慈しむような手つきで花嫁の体を撫で回す花婿。まあ、ただの毛繕いなのだが。彼らもこれで結婚したような気分になっているのだから事実婚と言うことでこの呼び方でも問題ないだろう。
「おかしら?」
『ええまあ、こいつはそのおかしらの嫁というかハーレムの娘だったんですがね」
「へえ、そうなんだぁ。……ねえ、ベシラ。ハーレムって、何かな」
「だから、なんて話をしてんのよ」
 斯く斯く然々。
「それはまあ、そのおかしらがモテモテだと思っておきなさいな」
「そっかー」
『まあ、本当にモテモテなら私はこの人と逃げたりなんかしてないですけどね。少なくとも私はあなたの方が好きよ」
 余計なことを言いながら淫靡な手つきで花婿の胸元をまさぐる花嫁。もちろん毛繕いである。
『ところで。少女様がここにおられるということはハヌマーン様もおいでなんでしょうかね』
『あらやだ。だとしたら私、こんなはしたない格好で……』
『ん?なんだい?いつも通りの素っ裸じゃないか』
 野生動物なので当たり前である。
『そういうことの訳がないじゃないの。ずぶ濡れで毛が寝てるからボディラインがくっきり出ちゃってるってことよ』
『ああ、そうか。それもそうだね』
「薄いシャツを着て雨に降られちゃって、透けて見えるみたいなことなの?」
 シャツなど着ない野生のおさるにそんな喩えが通じるのか。
『ええまあ、そんなところですね』
 通じたようである。
「今度は何の話をしてるのよ」
 ミルイの発言だけが分かるベシラにしてみれば、横で電話をかけてるようなものである。話し相手が何を言っているのかは分からない。
「ハヌマーンちゃんならいないよ」
「え?ハヌマーンのシャツが透けるの?」
 ひとまず、ミルイはおさるとの会話を片付けてからベシラに概要を伝えることにしたので、ベシラは混乱したままである。
「こっちは大蛇がでるから来たくないって」
『だ、大蛇?……って、何じゃ?』
「もんのすごくおっきい蛇だよ。なんか……ばいお何とかで生まれたお化けなの。巻いたらちょっとしたお山くらいになりそう」
『ええっ。そんなのがこっちに来るんですか!』
「私たち、逃げた方がいいのかしら』
 ハヌマーンに限ったことでは無く、おさるはやっぱり蛇が苦手のようだ。
『それはそうだけど。群のみんなにも知らせた方がいいんじゃないか』
『そうね。この山にも仲間がいたはずよ』
「え。この山にもいたの?……大丈夫なの?」
 駆け落ちして仲間に追われる身として、仲間がいるような場所でのんびりお風呂に浸かってていいのか。そう言う意味での大丈夫である。
『ああ、それなら大丈夫。俺たちが駆け落ちしたことはこの山の連中まではまだ伝わってないでしょうし。俺たちがこうしてるのを見れば事情くらいは察するでしょうが、お頭に伝わるまでには余裕があるでしょう』
 一方。おさるの声の聞こえないベシラは余裕がなさそうな顔になる。しかし、話はよく分からないので口を挟むことはしない。
「もしかして、このあたりのお山には全部にいるのかな」
『ええ。このあたりの山はみんなうちの群のテリトリーなんですの。だから、遠くに逃げなきゃいけないのですけれど』
「そうなんだぁ。勾玉の力で呼び出したらくるかな?」
 勾玉を掲げるミルイ。その手を押さえつけるベシラ。
「やめなさいっ!な、な、なんてことをしようとするの!」
 このあたりのおやまにはそれぞれいるという大蛇を呼び出そうとしているのかと、蛇には蛇で対抗しようと言うのかと、ミルイの発言だけ聞いたベシラは勘違いしているのだった。
 これまでの話を伝えてベシラの誤解を解く。ミルイは勾玉の力を解放──するのはお風呂に入ってからにすることにした。

「ねえねえ、ミルイ。あらいっこしようよ」
 毛繕いしながら仲睦まじくするおさる達の姿を見ているうちに、ベシラもミルイとじゃれ合いたい気分になったのだ。なんだかんだ言ってもまだちびっ子なのである。
「うん、いいよ。やろやろ」
「ほーら、あわあわー」
「あわあわー♪……ひゃ、くすぐったぁい。やったなぁ、えーい」
「ひゃぁー。きゃははははは」
「あはははは」
 何とも微笑ましい光景である。それをみていたおさるは言う。
『ああ、あの塊ってああやって使うものだったんだ』
「え?ああ、この石鹸のこと?そうだよ、こうやってあわあわにすると体がきれいになるんだよ」
『いい香りがするからおいしいのかと思ったらとんでもない味がしましたよ』
『意地汚いでしょ、この人ったら。悶え苦しんで泡まで吹くから、私びっくりしちゃって。……ねえ、私たちも体を洗ってみましょうか
『そうだね』
 あらいっこを終えて体を流しあうミルイとベシラの横でおさるの洗いっこが始まった。おさるは全身毛だらけである。石鹸を泡立てるとものすごいことになる。
「うわあ、すごいあわあわ」
 そしておさるは全身毛だらけである。手だけで洗うのは結構骨なのだ。
『ねえ。こうした方が早くないかしら』
 体を擦り合わせるとさらに泡まみれになっていく。
「すごいすごーい。ね、ベシラ!あたしたちもこれやってみようよ!」
 ミルイはベシラを引っぱってお湯から出ようとするが。
「だめだめ、あたしらあんなに毛がないでしょ。だからあんな風にはならないわ。それに、あれはなんか越えちゃいけない一線のような気がするし」
 純粋な子供同士であるならそんなことはない。だが、あちらのベシラは恋もするような“女”なのである。肌を重ね合わせることが特別なお年頃なのである。
「……?そう?じゃあいっか」
 だがミルイはまだ諦め切れていなかったようで。
「毛かぁ……。おじちゃんラズニとならあわあわになるかな」
「その一線はもっと越えちゃいけないから!犯罪だから!」
 などとやっている間に、おさるたちは。
『ああ、このまま天国にいけそう……』
『あなたと一緒なら苦しくないわ……』
 完全に二人きりの世界に入っていた。すっかり泡に包まれ、他の何物も寄せ付けようとしない。新鮮な空気すら。
 ミルイとベシラは慌ててお湯をぶっかけておさるの泡を洗い流すのだった。
『ああ……少女様は私たちの命の恩人ですわ!!』
 感涙するおさるたち。死にかけた理由はまたしてもある程度は少女様のような気もするが、気にしないことにした。

 鬼の居ぬ間に洗濯。ラズニの居ぬ間に入浴である。
 疲れ果てたパイロットが扉からベッドに直行し、銃にでも撃たれたようにうつ伏せにベッドに突っ込み鼾を掻き始めると、ラズニはベッドに横たわりスバポを誘惑し始めた。男の誘惑に乗るわけはなく目を逸らすと、次の瞬間地響きのような音が聞こえてきた。驚き振り向くと、ラズニがそのまま涅槃仏のようなポーズで鼾を掻いている。体を横たえたのが良くなかったようである。いや、スバポにとっては良かったのか。これはチャンスであった。今のうちにお風呂に入ってしまおう。大浴場はガランとし、静まりかえっていた。心休まるひととき。
 ……とは、行かないようであった。どこからともなく賑やかな話し声が聞こえ始めると、隣の女湯に女の子の集団が雪崩込んできた。
「おおおー!すっごーい、でっけー!」
 週末にはこの大きな浴場も芋洗いのようになるのだ。宿泊費も安いのに快適なのが平日のメリットと言えよう。
「お湯もきれいだよ。色、白いんだね」
 ややブルーがかった乳白色の湯がこの温泉地の特色である。
「健康に良くてお肌がきれいになるんだって」
 効能書きをざっくりとまとめるとそういう内容のようだが、それに当てはまらない温泉を探す方が難しいそうである。
「ほらせんせー、早く早くー」
 スパイの子らだなと思っていたスバポだが、先生がいるんじゃどこかの学校も着てたのかと考えを改めた。スバポはまだスムレラが先生になったことを知らないのだ。
「おおおー!すっごーい、でっけー!」
 お風呂の話はさっき終わったはずだが何の話だろうか。
「形もきれいだよ。色、白いんだね」
「健康的って感じじゃないけどお肌がきれい」
 お察しであった。
「ちょ、ちょっと。隣にスバポさんいるんでしょ」
 いきなり会話に自分の名前が出てきたので焦る気持ちが半分。あと半分は、大きさとか形のくだりで一瞬だけもしかしてと思ったことに対する“やっぱり”であった。
「やだなーせんせー。聞かせるために言ってるに決まってるじゃないですかー」
 もしかしてスムレラさんは先生扱いになったのかな、と言う考えを決定づける一言が出た。それより、他の部分がろくでもない。
「ああっ。このよしず、向こう見えるかと思ったら向こうはコンクリだ!」
 覗こうとしているらしい。逃げたい衝動に駆られるスバポ。
「こら。他のお客さんもいるんだからあんまり恥ずかしいことしない!」
「はーいせんせー」
 なぜスムレラが先生と呼ばれているのかはわからないが、とても先生っぽい。
 そうこうしていると、こちらにもスパイの少年の一団が入ってきた。
「スバポさんちーす」
「うぃーっす」
「あ、どうも」
「んだよ。おめーら覗く気だろー」
 その挨拶で女達も男達が来たことを知り声をかけてきた。壁越しに会話が始まる。
「今更覗くわけねーだろ」
「スムレラ先生も入ってるんだけど」
「マジで!?」
 一斉に葦簀に張り付く少年たち。
「あっ、コンクリじゃねーか!」
「そりゃあそうだよなぁ」
「あー。そっちもやっぱそうなってた?この高さならさー、ただのコンクリならよじ登れるんだけどねー。葦簀じゃまだよね」
 と言ったのは女子の方である。何はともあれ、さすがはスパイである。この程度の壁はものともしないのである。葦簀がなかったら覗かれていた。あるいはいっそ襲われていたかも知れない。それはスムレラも一緒である。
「肩車すれば覗けそうだけど」
 これも女子である。
「丸出しで肩車は無理」
「あたしも無理。首にタオル巻いてくれれば大丈夫かな」
「タオルで汁がとまるかー!乗せたくねー!」
「だよねー。きゃはははは」
 聞くに耐えない会話である。男に筒抜けなのに堂々とこんな会話ができるというのは慣れなのだろう。男の方もこんな会話が頭の上から降り注いでいるのに無関心である。身動きがとれなくなっているのはスバポくらいだ。
「男の方が無理だがな!」
 いや、無関心ではなかったようだが。
「違いないや。きゃはははは」
 自分よりも若い世代の男女の会話とは思えない。せめて、顔が見えないからこんな会話ができるのだと信じたい。今日はいつもとシチュエーションで気分が高揚しているからとか……でもきっと常日頃からこんなだろう。
「君たちっていつもこんな感じなの……?」
 率直に聞いてみた。
「そっすね。いや、いつもより下品ですけど。あいつらだっていつもあんな感じじゃありませんので、幻滅しないでやってくださいっす」
 彼はスバポに何を求めているのか。
「だって。こんなの見せられたらいつもより下品にもなろうってもんよ!」
「ひえっ?」
 壁の向こうから声がした。悲鳴のような声を上げたのはスムレラのようだが、何があったのだろうか。……分らないでも、ないのだが。向こうでの出来事をスルーしつつ、会話は続く。
「ほら、俺たちってどちらかというと兄弟みたいな関係で。気も使いませんし、お互い女だとか男だとか、思ってません」
「そっか。まあ、小さい頃からずっと一緒に住んでいればそんなものなのかな」
 あちらに妹がいるスバポとしては、その気持ちは分かる。女の子と妹はあくまで別物だ。
「いや、知り合ったのは数年前ですけどね」
「え」
 やっぱりよくわからない関係だった。
「せんせー。お背中流しますよ♪」
「なんなら洗って差し上げてもよろしくってよ」
「何そのしゃべり方。そんじゃそんじゃ、洗いっこしましょうよ」
「え。えーっとお、え、遠……」
「どぉぞ遠慮なさらずううぅ」
「ひゃああ!?」
 隣もよくわからないことになっていた。向こうの様子は見えないが、少女達に取り囲まれるスムレラの姿がありありと想起できた。……想起して良かったとは到底思えないが。
「そういや先生って?」
 それどころではなさそうだが、スパイ男子はそこが気になったようである。
「あー。スムレラさんの呼び方、先生に決まったから。スバポさんは生徒会長で。生徒は省略可ね」
「えっ!?」
 ちょっと驚くスバポ。
「だそうですよ、会長」
「採用早っ」
 さらに驚くスバポ。正直、スバポは学校でもさほど成績優秀な方ではなかった。行動的でもないので目立つこともなく、生徒会長やら学級委員長などとは無縁だった。メガネがいかにも賢く真面目そうということでこんなあだ名になったのだろうが、その正体はとんだ地味メガネである。
 しかし、思うのである。この見るからにアホっぽい連中と比べれば普通に頭はいいのだろうし、生き方も真面目だろう。年嵩でもあるし、リーダー的な扱いは妥当だ。そして、ただでさえ敵国の人間である上孤児を集めたスパイチームなどといういかにも闇を生きてきた少年たち相手のこと。上に見られておくに越したことはない。下に見られたら地獄が待っていそうだ。
 甘んじて、いや積極的に受け入れようではないか。
 というか。隣がそれどころではなかった。
「ほーらせんせー、あわあわー♪」
「あわわわわわ。ひゃわわわわわ。やめ、やめなさーい!」
「おおおー……やわらかい」
「でもって重いよー。ほらほらせんせー、あらいっこですよー♪」
「3対1ってこれ洗いっこじゃないでしょ!……ええいい、このっ」
「きゃあー。くすぐったーい♪……ってひゃああ!?」
「ふっふふふー、大人を甘くみないことね……。お子さまのじゃれ合いとは経験が違うのよ?最近ご無沙汰だけど!昔はモテたんだからね、この体だし!」
「ひゃぁー、やめてー!ああー!」
 都合によりこれより音声のみでお送りします、と言ったところか。スバポ目線であれば元より壁越しの出来事、言うまでもなくサウンドオンリーである。と言うか、音声もまずいのではないだろうか。なまじ見えないだけに想像力が刺激されてしまい、想像力に刺激されてしまう。
「ううううう。どいつもこいつも人を見れば胸ばかり見やがって!私の価値は胸だけかっ!?顔より学歴より胸が大事か!?ええい、さっき胸を揉んだのはお前だなっ!」
 押し殺してきた別方面の苛立ちにも火がついたようである。微笑ましさなど微塵もない修羅場であった。
「きゃあー、ごめんなさい!」
「お前の胸も大きくしてやろうか!?」
「遠慮しま……」
「どぉぞ遠慮なさらずううぅ」
「いやああああっ」
「お背中流しますからどうぞお怒りをお沈めください……!」
 だがしかし、荒神様の怒りは静まらず、さらなる生け贄を求めたのだ。
「ふしゃー、ふしゃー。うふふふふー、頑張ってお上品に振る舞ってもかけられるのは下品な言葉っ……!ならばせめて今くらい、下品に生きてやるわ!」
「いやああああ、なんで今なんですかあああっ」
 それは割と自業自得のような気はする。
「きゃあ、助けて生徒会長!」
 お呼びのようだが。
「助けに行けるかー!」
 なお。平気な顔で隣と下品トークをしてきた男たちも、この事態にはさすがに湯の中で内股になり背中を丸めざるを得なかった。

 あったまりきれいになりさっぱりしたミルイたちは、せっかくあったまったのが冷めないように、きれいになったのが汚れてしまわないように、ちょっと厚着をして湖にやってきた。
 おさるの仲間たちに危険を知らせたいということだったが、この辺りに住んでいる動物はおさるだけではない。依怙贔屓せずに、みんなに危険を知らせたい。それならば、おさるのボスではなくこの辺りのボスに話を通すのが早道なのである。
「ううう。大丈夫なのかなぁ。あたしらだけでボスなんて……。それに、そのボスって……竜神様、なんでしょ?もうそれだけで怖すぎ……!やっぱり兄ちゃんたちを呼んで来ようよぉ」
 おさるたちの話では、そうらしいのだ。湖の周囲一帯の自然界を取り仕切っているのは、湖に棲む竜神様なのである。
「ガラチ兄ちゃんたち、忙しそうだったじゃない」
「確かに邪魔するなとか言ってはいたけどぉ。あんなの忙しそうじゃないよ、絶対暇つぶしだよ」
 お風呂から出たミルイたちが目撃したのは、先ほどの出歯亀メイドたち相手に半裸でポーズを取りきゃあきゃあ言われているガラチたちの姿だった。どうやら彼女たちとはこのような形で和解することになったようだ。
「じゃあ、呼ぶよー」
 ミルイは軽いノリでボスの竜神様を呼び出そうとする。
「きゃあ。もうちょっと待って、心の準備が」
「もう呼んじゃった」
「ぎゃあああ!」
 なお、例の駆け落ちおさるはここには来ていない。ここにはおさるのボスが来ることになると思われるからである。
 二人の目の前の湖面が急激に盛り上がる。目の前に現れたのは鱗の壁。生臭い水しぶきが二人に降りかかった。お風呂入り直し決定であった。見上げると二本の髭が左右に伸びているのが見えた。
「あなたが……竜神様?」
 正面に向かい合い、ミルイが問う。竜神様はミルイだけに聞こえる穏やかな声で答えた。
『うむ、確かにそんな風に呼ばれておる。まあ見ての通り長く生き過ぎて図体がでかくなっただけのナマズじゃがのぉ』
 ベシラに竜神様の声は聞こえない。だが、この姿は確かにどう見ても一目瞭然でナマズである。
「だって。ただのナマズならベシラも大丈夫だねっ」
「大丈夫な大きさじゃないっ!一口で食われるっ」
 そんなベシラは勝手に怯えさせておいて、用件をとっとと伝えてしまうことにした。
『なるほど。話は分かった。分かったが。……ワシに何をしろと?』
「な、なんとか……ならないかな」
『なんともならんなぁ』
 確かに、ただのナマズではできることにも限りがあろう。
『まあ、そうじゃのう。やれるだけのことはやってみようかの』
 ナマズは水底に消えた。程なく湖面が波立ち始める。
「何……?何が始まるの!?」
 ビビったままのベシラが言う。
「竜神様がやれるだけの……何かだよ!」
 ミルイは力強く遠回しに、分からないと言っている。
 湖水は荒くれ、渦巻き始めた。だがそれは始まりでしかなかった。湖そのものが一つの渦と化したとき、呼応するように大地も震動し始めた。
「ひゃああああ。やれるだけの事って……やれすぎでしょう!何この天変地異!」
 やがて渦巻きも大地の揺れも収まった。揺れは凄かったが、二人にとって何が凄まじかったかというと、渦巻く湖からの怒濤のような水飛沫である。いっそそのままただの怒濤と言って差し支えあるまい。ずぶ濡れである。ああ、早くお風呂に入りたい。
 そして、再び竜神様が顔を出した。
『これだけやれば、みんなどこかに逃げ出して四、五日は戻っては来るまいて』
 と、その時。
『おおお、龍神様!何にお怒りかはわかりませぬが、この娘を生け贄に捧げますゆえお怒りをお鎮めください!』
 と、断崖鹿が。
『俺っちも刃向かってしょうがない図体と威勢だけは俺っちに負けないナンバーツーを踏ん縛って連れてきたぜ!』
 と、先ほどのおさるのお頭が。
『あ、あたしはそのう。あ。あたしを食べて……いいよ?』
 と、小悪魔的に横縞リスが。
『せんせー。お背中流しますよー♪』
 と、荒威熊のご奉仕隊が。
 山にすむ様々な動物たちが集まってきたのだった。
『ぐおおおおお。逆効果じゃああああ!』
 荒れ悶える竜神様。
『ぬわあああ。もんのすごくお怒りだあ!早く生け贄を……!』
『その生け贄!きれいに洗いますよ!』
『いや、その。……まあ、これはこれでちょうどいいかもしれんのう』
 今なら地平線の少女の力で動物同士も話が通じる。竜神様は集まった動物の首長たちに事情を説明した。
『つまり、さっきのはその化け物が来るから逃げろっていう警報だった訳ですな』
『わかりにくいですよう』
 ここまでの出来事をまとめるとこうだ。大蛇の接近を知った竜神様は近隣の動物たちをビビらせて追い払おうとしたのである。だが、ビビりはしたが竜神様の仕業だというのはバレバレであり、何か怒ってるのだと勘違いした動物たちは竜神様の怒りを鎮めようと集まってきたわけである。
「あるよねー、警報が鳴って何かスピーカーで言ってるんだけど山彦でなに言ってんのか分かんなくてどこに逃げたらいいのか、何をしたらいいのかさっぱり分かんないことってさ」
「……ごめん、何のことか分かんないや」
 ベシラの喩えは、危険を知らせるスピーカーのない世界から来たミルイもそうだが、スピーカーの音を反響させる山やビルがない所に住んでいる人にも分かりにくい話である。
 とにかく、事情は伝わった。動物たちは危険が去るまで逃げることだろう。
『じゃあ、生け贄はいらないんですね』
 断崖鹿たちは生け贄の娘ともども安堵の表情を浮かべた。
『あ。折角だから生け贄はもらえると嬉しいかも。さっきのでパワー使って腹へっとるし』
『え』
 さすがに、ただ喰われるだけの生け贄は勘弁して欲しそうである。特に、生け贄にされる娘は。
『あ、あたしを食べて……』
『いやいや、こんなちびリスよりこのナンバーツー野郎を始末してやってくだせえ!』
 こちらは、生け贄を受け取らないことこそ勘弁して欲しそうだ。このまま生け贄候補のナンバーツーを開放したら、確実に気まずい。そして多分、それ以上になる。
『その生け贄!きれいに洗いますよ!』
『ほいきた、頼むぜっ、熊公!』
『はいな、お任せっ』
 荒威熊にきれいに洗われたナンバーツー猿はボス猿からのパスを受けた断崖鹿の後ろ蹴りによってきれいな放物線を描いて竜神様の口に飛び込んだ。
『ううう。あたし、またフられちゃったの……』
 このリスはずっと蚊帳の外だ。
「ちょっとちょっと!今なんかとんでもない事が起こらなかった!?」
 動物たちのやりとりが聞こえないベシラにはいよいよもって何が起きたのかわからないのだった。
「ええと。……お夜食?」
「いやいやいや。そのお夜食、仲間のおさるが投げたように見えたんだけど!」
 ますます混乱した。
 とにかく、話は終わったのである。湖畔には誰もいなくなった。それぞれ行くべき場所を目指した。動物たちは山へ、竜神様は湖へ。ミルイとベシラはもう一度お風呂に……。

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