黄昏を呼ぶ少女

二十三話 ヒゲと乙女

 中央・軍事施設での混乱が報じられ市民の間にも不安が広がる神王都。そして、郊外でもちょっとした緊張が走っていた。得体の知れない巨大な犬が、3匹も町に侵入し元気よく走っている。人々に戦慄が走り恐怖に凍り付く……かと思われた。
 しかし、背中の上に無邪気な顔で子供が乗っている。それだけで見た目の恐ろしさは半減するようだ。警察の車が先導しているのも効いているのだろう。警察が巨大な犬から逃げ回っているようには見えないはずだ。……恐らく。
 大通りを巨大な獣が駆け抜けても、皆呆然とはするものの思ったほどの混乱は起こらない。 そのままミルイら一行は犬たちと共に平然と神王都の中心に向かう。
 スムレラは警官隊と連絡を取り合い、警察と軍が撃ち合いになっているという現況は把握していた。想定外の最悪の事態が起こっているような気はするが、今更引き返すことはできない。しかし、なぜ警官隊と軍隊の銃撃戦に発展してしまっているのだろう。本当に軍の考えることは分からない。そこまで追い込まれるほど彼らの抱える闇は深かったのか。
 そんな交戦中の危険地帯に近付くにつれ、意外なことに人が増え始める。噂を聞き付けた民衆が押し寄せているらしい。野次馬よりは、スキタヤは造反者の流した噂話を聞き付けてデモを起こしたがっている手合いのようだ。しかし彼らもミルイたちの道を阻んだりはしない。むしろ、巨大な犬を見て蜘蛛の子を散らすように逃げていく。そして、彼女たちは程なく中央に着いた。
 とりあえず今は銃撃戦は収まっているらしく、辺りはまだ騒がしいものの銃声や爆発音は聞こえてこない。スムレラはまず最新の状況について現場指揮の責任者に確認する。
「現在、警官隊が突入しているところですよ。どうやら中ではスキタヤ殿の共感者が中心になって反旗を翻し仲間割れが起こっているようでして。挟み撃ちにされた将軍派の兵士が抵抗しているようです。その内輪揉めの銃声を勘違いして我々とも銃撃戦になったのではないかと。軍の士官クラスはあらかた逃げたあとのようですね」
「それじゃあこの騒ぎは結局、上が逃げて指揮する者を失ったを失った軍隊がめいめいに好き勝手やってるってことなのね」
「そのようです」
 軍隊も想像以上にバラバラになっているようだ。
「ところで。……さっきから気になってるんだけど、あの人は誰?……っていうかなんなの」
 スムレラが軍事施設に到着したときからずっと施設に向けて「娘を助けてくれ」と号泣しながら懇願し続ける髭面の暑苦しいオッサンが気になって仕方がない。
「誰か人質にでも取られてるのかしら」
「なんと言いますか、その。……施設に潜入しているスパイの仲間でして」
「警察の?」
「いえ……ヴィサンの」
「なにそのややこしそうな話」
 そう口に出した時、スムレラの脳裏に警察がスパイを捕まえたと連絡を受けた記憶が蘇った。その時は自分にあまり関係ないと判断した上、その後あまりにも色々なことが起こったので今の今まできれいさっぱり忘れていたのだ。
「こっそり施設に潜入してこっそり暗殺してこっそり出てくるだけのはずなのに、こんな騒動に巻き込まれたと泣き喚いておりました」
「なめきられてるわね、この国も」
 潜入して暗殺するところまではマハーリ軍も見て見ぬふりをしていたことをスキタヤは見抜いたが、スムレラはそれを知る由もない。いずれにせよ、こんな所に潜入しておいて無事に帰ってこられるというのはさすがに甘すぎる。
 その時、スムレラのバッグの中で妙な機械音がした。訳が分からないまま鞄を開けてみると、鳴っているのは無線機であった。そう言えば、連絡のためにスバポらにこっそりと無線機を渡しておいたのだった。無線機の電波は遠くまでは届かない。スムレラがここに来たことで無線が繋がるようになったのだろう。今の今まで連絡もつかない場所にいたことについては申し訳ないが、こっちだって忙しかったのだ。
 そんな誰へと言う訳でもない言い訳を心の中で呟きながら無線機のスイッチを入れる。
「こちらスムレラ」
『スバポです』
「ごめんなさい、今までちょっと野暮用で都を離れていたんです」
 一応謝っておく。
『おや、そうなんですか。……ちょうどいいタイミングで戻ってきてくれたようですね』
 この様子だと、今まで必死にこっちにコンタクトを取ろうとしていたというようなことはなさそうだ。その点はちょっと一安心か。
「とにかく無事で何よりです」
 ほったらかして他所に行っていたことを詰られることがないと分かったスムレラは、キリッとした顔で涼やかに言った。
『ええと。とりあえずのんびりしている暇はありませんので、伝えるべきことを伝えます。スキタヤ殿が軍隊内の有志をかき集めてこれからヴィサン国への砲撃を行おうとしています』
 こっちはこっちでまた厄介なことになっているという現実を突きつけられ、スムレラの表情はまた曇った。
「えっ……。い、今?何で今?」
 やはりこれだけでは状況が伝わらない。要点を掻い摘んで伝えるスバポ。軍が行ってきた戦争のコントロール、これまでの攻撃とは違い、今回はヴィサンに甚大な被害が出るだろうという事。
「確かにそれで戦争が終わるでしょうね。でも、その前に自暴自棄になったヴィサンが全面攻撃を仕掛けてくる恐れも拭えないわ。それに、確実に禍根は残るでしょう。あまりいい策とは思えないわ」
『スキタヤ殿の目的の半分くらいは私怨を晴らすためのようです。国や世界のために考えているというわけではないでしょう』
 いずれにせよ、スキタヤがここですることは前線基地への攻撃指令だ。通信で話すだけで終わり、後は指令を受けた前線基地を止めないことには手が打てない。軍事基地と直接やり取りする手段を軍人ではないスムレラは持っていない。スバポとて同盟国からの応援で来た身、この基地についての知識はほとんどなく、彼の手を借りるのも難しいだろう。スキタヤを止めるにも今彼を取り囲んでいる賛同者を相手にしなければならない。警察と揉み合っている軍隊を回避して彼らの前に向かうだけでも一苦労だ。そして、スバポとこうしてもたもたと話し合っている間にも状況は動いてしまっているだろう。もはや何もかもが手遅れなのだ。
「とにかく。私たちの目的はあなたの救出です。今あなたがどこにどんな状況でいるのかを教えてもらえますか」
 問いかけるスムレラ。スバポは無線機で連絡を取るため、一人軍事施設の客室に戻っていた。無線機のことは今の今まで忘れられ、二人が捕らえられていた部屋に置きっぱなしになっていたのだ。今、ここにはもう誰もいない。施設の上部は造反者に制圧されてもぬけの殻だ。だからこそスバポもこうして楽々ここに戻ってくることが出来た。
『なんじゃ。奴さん、まだあの部屋におるのか』
 話を聞いていたハヌマーンが言う。
『儂ならあの部屋にも直接出入りできるぞい。あそこまでよじ登るのは楽々じゃし、窓は内側から開けてもらえばいい』
「なるほど、そうね。……で。部屋に入ってどうするの?」
『……どうしようかの』
 そこまでは考えていなかったようだ。小猿が一匹部屋に入ったところで、大したことはできない。
「それなら、でっかいままよじ登って塔の上のスバポを引きずり出して降りてくればいいじゃないか」
 ガラチの提案だが。
『生憎、でかくなった図体だと重すぎてよじ登るのはちょっときついかのう。よじ登れる程度のサイズじゃ大人一人ぶら下げて降りるのはちと無理じゃ。……ミルイが上で待っててくれれば何とかなるんじゃが』
「うへえ。あたし、あんなの登れないよー」
 あんなにのよじ登れるのは猿くらいだろう。
 ハヌマーンの提案はなかったことになるかと思われた、その時。
『ねえ、おじいちゃん。最大に大きくなったおじいちゃんなら、ぼくをあの塔のてっぺんまでぶん投げられるよね』
 わんこもわんこなりに知恵と力を貸してくれるようである。
『む?……そうじゃなぁ。ちょっとこう、ダンクシュートくらいの感じになるかの』
 体のサイズはそれほどでもないが、跳躍力は人間の比ではない。本気のジャンプからなら、確かに塔の天辺まで届くかもしれない。
『少女様をぼくの背中に乗せて、おじいちゃんがぼくをあの塔の天辺に投げ上げるってのはどう?』
『む。……それなら……できそうな気がするのぅ』
 さすがにミルイを直接塔の天辺目掛けて投げつけるのは危険すぎるが、多少は身軽で頑丈そうな犬を投げつける分にはさほどでもなさそうだ。多少荒っぽく扱っても大丈夫だろう。あとは、ミルイがしっかり掴まってくれさえすれば。
 そして、ミルイから遠ざかってちっこくなったおさるが普通に塔をよじ登り……後はやりたいようにやればいい。
 犬の首に頑丈なワイヤーを一回りさせ、ミルイがそこにしっかりと掴まる。しかし、振り落とされないかはやはり不安だ。
「ミルイ一人じゃ危険だ。俺なら易々とは振り落とされないぜ」
 ガラチの腕っぷしなら、多少ぶん回されてもワイヤーから手を放したりはしないだろう。そして、ガラチ一人分の重さくらいならハヌマーンにとっても大した差ではない。作戦は決まった。
 スムレラはスバポに連絡する。
「今、ミルイちゃんたちがそっちに向かうから……後はまあ、そっちでなるようにしてください」
『えっ。行くって……どうやって……』
 スバポが何か言いかけたがもう無線を切ってしまった。まあ、いいだろう。
 ミルイの勾玉の力で、ハヌマーンが巨大化する。
『そいじゃ……行くぞい!』
 ミルイたちを乗せた巨大な犬を、持ち上げて小脇に抱えるハヌマーン。
「がんばってー!」
 ベシラはさすがに一緒に行く気は無いようである。どう考えても、怖すぎた。そして、今まで何も考えていなかったミルイは、自分のやろうとしていることがいかに怖いことかを今更ながら知ったところだ。既に相当な高さである。
 犬を片手で抱え、軍事施設に向かって猛ダッシュするハヌマーン。
 いける。楽勝じゃ。
 逃げ惑う軍人や警官たちを尻目に、ハヌマーンはトップスピードに達した。そして、最大限の力で大地を蹴る。
 この試合、もらった!わしのダンクを見るがいいっ!

 ミルイがこちらに来ると言われたが、何せこの状況だ。どうやって来るというのか。可能性があるとすれば、空から……と言った所だろうか。
 そう思い、窓から外を見たスバポの目に、妙なものが飛び込んできた。
 ありえないサイズの猿が、怒涛のような勢いでこちらに向かってくる。そして、その体は宙に踊った。猿だけに、想定不能な跳躍力だ。
 スバポは硬直しながらも冷静に状況を判断していた。あのコースなら、タワーへの直撃はしない。横をすり抜けるだろう。だが、その体制で回し蹴りでもしたらタワーは一溜りも無い。
 スバポの目測通り、猿はタワーの横を通り過ぎようとしていた。その刹那、腕を振り上げる。スバポの目は捕らえていた。猿の手から、猿ほどではないがやはり巨大な犬がタワーの上目掛けて投げ上げられたのを。
 タワーの上に何かが激突した衝撃を感じた。遅れて、下の方からも振動が。先ほどの猿が着地したのだろう。
 その時、スバポの頭の上ではハヌマーンによって投げ上げられた犬がつんのめりながらも屋上に着地。その衝撃であわや振り落とされそうになったミルイの腕ををガラチががっちりと掴み、俺が居てよかっただろ?などというやりとりがなされていた。
 何か、この世の終わりのような光景を目撃した気がする。放心するスバポに、また通信が入った。
『今、ミルイちゃんたちがそっちに行ったわ!』
「えっ。あの、ミルイっていうか猿が。あと犬が……」
『そう。……これから、そのおさるさんがまた行くからよろしくね』
 通信は切れた。今度こそ、猿が来るのだ。
 怯えながら待っていると、窓の方からコツコツと音がした。目を向けると、いつかの小さな白いサルがいる。窓を開けると入ってきた。
『窓くらい開けて待っとらんかい。全く最近の若いもんは気の利かん……』
「ええと。さっきのでかいサルは……お仲間?」
『いやいや、ありゃあ儂じゃ。わしゃ、ミルイの力ででっかくなれるんじゃ。すごいじゃろ』
「……先に言ってくれ……」
 自分を助けるためにやっていることだと分かっていれば、スバポもあれほど絶望的な気分を味わうこともなく済んだことだろう。
「とにかく、お前さんをとっととここから引きずり出さんとな。おーい、ミルイ!やっとくれ!」
 ハヌマーンは窓の外に向かって叫んだ。
「いいよー!」
 ハヌマーンの姿は見えないがミルイは呪文を唱えた。ミルイの姿は見えないが、その呪文でハヌマーンは巨大化の力を得る。目の前で小さなおさるが天井に頭が着きそうな大猿に変身するのを目撃したスバポは先ほどの大猿が確かにハヌマーンだということを確認した。
 正体が分かっていようと、怖いものはやっぱり怖かった。ましてやその大猿が頑丈な窓をワンパンチで吹き飛ばすのを見ればなおさらだ。確かにこの窓は防弾ガラスでかなりの強度を持ってはいる。しかし、それはあくまでもガラスのこと。開閉部の蝶番の強度はそれなりだ。ましてや内側からの衝撃に対しては。さらに、叩いたくらいでは割れないガラスの強度も、割れて衝撃を奪ってしまうことなく蝶番にダイレクトに伝え、窓が吹き飛ぶ結果に大いに貢献している。
 とにかく、邪魔な窓ガラスは無くなった。ハヌマーンは一度小さな姿に戻り屋上のミルイの元に向かう。
 呪文を唱えるくらいしかする事の無かったミルイは退屈そうだった。そしてガラチはさらに暇そうであった。彼らの暇つぶしの相手になりそうなわんこは屋上の真ん中で這い蹲り小さくなっている。
『ううう。高いよう。怖いよう』
『なんじゃい。自分で投げ上げろとか言っておったくせに』
 先程、興味半分で下を覗き込んでからこんな感じなのだ。下から見上げたときは大丈夫だと思っても、実際に上に上って見下ろしてみると腰が抜けるほど怖いなどというのはよくあることである。高い所に慣れきったおさるにはこの気持ちは解るまいが。それはともかく。
『準備はバッチリじゃ。今度はさっきより大きめになって降りるだけじゃぞい』
 この大きさの決定がなかなか微妙な線だ。普段通りの小猿の姿なら外壁を伝うパイプををするすると昇り降りできる。犬が自力でここから降りられそうなら人間三人を運べる程度のサイズで大丈夫だったのだが、どう見てもそれどころではなさそうだ。犬も担いで降りねばならない。使えそうな足場は一気になくなってしまう。先程のような客室の天井に頭が届く程度の大きさでは、外からは破りにくい窓に手足を掛ける必要がある。窓を破れたとしても、破り方によっては素手素足でガラスを踏みしめ握ることになり、危険だ。
 幸い、降りるべき場所はあまり直径の無いタワー部分。最大サイズなら、まるで木のように抱え込むことが出来るはず。
「やっとこっちのスバポ兄ちゃんに会えるんだね!」
 期待に胸を膨らませながら再度呪文を唱えるミルイ、その力で膨らむハヌマーン。
『これ。いつまで這い蹲っておる。帰るぞ』
 ガラチとミルイも再び犬の背に跨がりスタンバイする。しかし。
『ううう。動けないよー』
 犬の腰は抜けたままだった。
『しょうがないのう』
 動けないならハヌマーンが自ら担ぎ上げるだけである。担がれた犬はただでさえ高いところで腰が抜けているところに持ち上げられて、あおおおおおおん!といかにも悲痛な声を上げた。
 さらにハヌマーンが屋上の端に近付く途中、そして身を乗り出した時にそれぞれ一回ずつ。下り始めるとのべつ鳴き続ける犬。
「おいおい、大丈夫なのかこいつ」
 そんな犬の背に身を預けるガラチも不安になってきた。
『気を失って落ちたりしたらえらいことじゃがの、鳴いとる間は大丈夫じゃろう』
「……そんで、こいつが気を失わない保証って……」
『……何事にも万が一はあるからのう』
「し、下を見ちゃだめだよ」
 そう呼びかけるミルイ。不思議なものである。見るなと言われると、何故か見たくなってしまうのだ。犬はビクンと体を震わせると全身の力が抜けた。
「お、おいちょっと待てマジかよ!」
 焦るガラチとミルイ。
「あ、あおおおおおおおおん!きゅううううううん!」
 また竦み上がって一瞬力が抜けただけであった。それが分かってほっとした二人も力が抜ける。
 とにかく、とっとと下りるに限るようだ。ハヌマーンはスバポの待つ部屋の、さっきぶち破った窓を覗き込み、スバポの姿を確認する。
『さあ、くるがいい』
 手を差し出しそう呼びかけるハヌマーンだが。
「とても……行きにくいですっ!」
 窓から覗き込む巨大な猿。そしてその肩ではやはり巨大な犬が、形容し難い声で鳴き続けている。そして、スバポだってそこがいかに高い場所であるか承知の上だ。そうでなくてもさっきから腰は抜けっぱなしだ。引きずり出すにも、ハヌマーンの手が届きそうな場所ではない。
『ええい、どいつもこいつも腰抜けめ!』
 実際、腰は抜けているわけだが。
「よし、俺に任せろ!」
 ただでさえ、自分も失神寸前の犬の背に命を預ける身。この怖い状況を無駄に引き延ばされてはたまらない。ガラチは窓から乗り込み、スバポを窓際まで引っ張る。
「うああああ……」
 うめくスバポ。ハヌマーンの手の届くところまでくると、ガラチごと鷲掴みにして中空に引きずり出された。
「ぎょえええええええ!」
 わめくスバポ。見るなと言われても下を見てしまうものだが、見るなと言われなくても下は見てしまうのである。
 一足先にその手から犬の背に戻ったガラチが、硬直したスバポをミルイと自分の体の間に挟み込む。
「よーし、もう大丈夫だ!行ってくれ!」
『よっしゃ。ゆっくり行っても怖い時間が長引くだけじゃ。一気に行くぞい!』
 もっともらしいことを言うが実はゆっくり行くほどの力は出せそうにないと悟っただけのハヌマーン。一言断りは入れた。言葉通り容赦ないスピードで下まで滑り降りる。
 斯くて、スバポの救出は無事成功したのである。
「スバポ兄ちゃん!……大変、スバポ兄ちゃんが!」
「こりゃあ気を失ってるだけだ」
『気を失っているといえば……さっきから妙に静かじゃのう』
「えっ。うわああ、目を、目を覚ますんだわんこ!お、お、落ちるなああああ!」
「きゃああああああ!」
 スバポの救出は……一応無事成功したのである。
 まだちょっとごたごたしている彼らの元に、ベシラが駆け寄ってきた。
「大変、大変だよぉっ!あの中に……ポンちゃんがいるのっ!」

「ポンって……あのポン姉ちゃん?」
 ミルイの問いかけにベシラは力強くうなずいた。その割には直後に発せられた言葉は「多分ね」だったが。
 スバポ救出作戦からはずれて下に残ることを選択したベシラは暇であった。スムレラは警察の偉そうな人と小難しそうな顔で小難しいことを話している。大人のこういう話に聞き耳を立ててはいけないことは経験上理解していた。それに、聞いているときっと寝てしまう。
 何か面白そうなことはないかと視線を巡らすベシラの目に留まったのは、泣き叫ぶ髭面のおっちゃんだった。何か事情はありそうだが、とりあえず、見ていて面白いと思ってしまった。
 見た目も行動もいかにもアブなそうだが、周りには警察の人がいっぱいだ。何かあってもきっと大丈夫だろう。ベシラはおっちゃんに恐る恐る話しかけた。
 そしてベシラは彼がヴィサンのスパイ一味のリーダー格であること、娘こと部下のスパイが施設に潜入中であること、そしてその名前がポンであることを聞き出したのである。
「あのスパイが……ポンだって?」
 考え込むスバポにガラチは言う。
「スバポ、ポンに会ったのか?」
「ああ。そのおかげで色々ややこしいことになってな……」
 彼女のせいでスキタヤが銃を手にすることになり、その後の混乱の引き金になった。実際は反乱は同時進行で起こっていただけだが、少なくともスバポはそう思っている。
 そして次に思い出されるのは……捕らえられた彼女を発見したときの一糸纏わぬ姿。スパポは思考停止した。
「そんなにややこしいのか」
「えっ。あっ?ま、まあ。そうだな。うん」
 今はスバポの頭の中のほうがややこしいことになっている。
「これまでも天神はミルイの親しい知人から出ていた。五人目は彼女である可能性が高い」
 言いながらスバポは思う。そんなあられもない姿を見てしまった彼女である。状況が状況だけにあちらはさして気にしないだろうが、スバポとしてはちょっと気まずい。そしてそんな記憶を中ツ国のまだ幼いく純真なポンと共有されると気まずさは著しく跳ね上がるだろう。
 しかし、そんなことはあまりにも小さなことだ。後のことなど考えず、彼女を助ける。それ以外の選択肢などあるものか。
「彼女を見つけよう。この世界、そして未来のため。そして……一応ついでに、そこで吼えてるおっさんのためにも」
 毅然と言い放つスバポ。
「おう!もちろんだ!」
 拳を固めるガラチ。
「あたしも……できることをがんばる!」
 拳を突き上げるベシラ。
「ええと。私にもその……何かできることがあればもちろん協力は惜しまないわ」
 スムレラもおずおずと言った。
「さあ、みんな行こう!」
 ミルイは一歩を踏み出す……。

 その時、ミルイの前に立ち塞がるように現れる影。
『盛り上がっているようだな』
「あっ。スウジチのおじちゃん」
 いつも通り、空気が読めていない登場である。
『できればお兄さんと呼んでくれないか』
 このおじちゃんのせいで出鼻は完全にくじかれた。
「スウジチって言うと……思兼神の」
 スバポもその名前くらいは聞いたことがあった。確認されているガラチは最近その存在を知ったばかりだ。
「今度は何の用ですか?大蛇が迫ってきてるとか……?」
 冷静に対応するスムレラ。
『いや。どうやら五つの勾玉が揃ったようなのでな。様子を見に来たのだ』
「えっ。……いやまだその五人目はあの中に……」
 軍事施設を見上げるスムレラ。だが。
『そんなことはないぞ。……ふむ』
 あたりを見渡すスウジチ。ここに固まっている四人以外の天神を探す。見つけたようである。
『少し、よいだろうか』
「う?何ですかな」
 スウジチが声を掛けたのは、まだ号泣していたおっさんであった。誰もが思う。そんな、まさか。
『うむ、そこだ』
 スウジチはおっさんの持つ工具ポーチを指さす。おっさんが中を調べると、中から確かに出てきてしまったのだ……勾玉が。
「あおっ」
 勾玉より迸る電光。ガラチもベシラもそしてスバポも、皆同じ体験をしている。この瞬間より、二つの世界の記憶が共有されるのだ。
「う……?こ、これは?」
 混乱しているおっさんは、ミルイに気付く。
「うおおおおおおお!ミルイちゃんだああああああ!」
 力一杯抱きしめられた。
「きゃ、はわわわわわわ」
「やめんか変態!」
 引き離すスバポ。
「ううう、ありがとスバポ兄ちゃん……。だ、誰?……父ちゃん?」
 この髭面で自分に身近な人物というと、父親のドブリが真っ先に思い出される。しかし、言ってしまえば髭くらいしか共通点はない。そしておっさんはミルイの問いに答えはしない。すでにミルイを見ていなかった。
「す……スバポ?」
「は、はい?」
「うおおおおおおおお!あこがれのスバポ様ああああああ!」
「ぎょえええええええ!」
 力一杯抱きしめられた。
「助けてくれ、ガラチ!」
「え、遠慮しておく」
「するなあああああ!」
「おお、君はガラチなのか!」
「うっ。それはそうだが俺にそういう趣味はないぞ!来んな!抱きついたら蹴るぞ!」
 おっさんの目が向いたことでいつでも逃げられるように身構えるガラチだが。
「俺だって男に抱きつく趣味などない!……だがスバポ様だけは別だ!うおおお、スバポ様あああああ!」
「ほわああああああ。ガラチ、麻酔銃だ、麻酔銃を使うんだ!」
「まあまて。こいつは人に使うものじゃないぞ」
「自分は安全だとわかった途端に余裕ぶっこいてんじゃねえ!」
 離れたところでこの様子を眺めているスウジチとスムレラ。
『青春か……私にもこんな時代があったものだ』
「これを見てそれを言うんですか……。それでスウジチ様。これ、どう収拾をつけるおつもりです」
「なぜ私が。君は何かね、私が彼の勾玉を見つけたせいでこんなことになったといいたいのかね」
「違うんですか」
「違うぞ。あれは彼らの中の問題だ。……いずれにせよ。落ち着くまで少し時間がかかりそうだ。私もそれにつきあうほど暇ではないのでね。ほとぼりが冷める頃にまた来ることにするよ」
 そういい残し、ふっと消えるスウジチ。
「あっ。ああーっ、逃げた!」
 逃げたといえば。ベシラはミルイがおっさんに抱きしめられるのを見て20歩ほど後ずさりしたあと、スバポが抱きしめられるのを見てもう80歩ほど全速力で逃げていたのであった。

「それで、あんた誰」
 ようやく落ち着いたおっさんに話しかけるガラチ。少し離れたところでスバポは身を守っている。
「なあに。私は単なる通りがかりの怪しいスパイさ」
 怪しいスパイに単なるをつけてよいものかどうかは些か疑問ではあるが。
「いやさ、そうじゃなくて。……あんた、俺たちの知ってる誰かなんだろ」
「な、何の話かな」
 しらを切っているのは明らかだ。
「あのな……」
 ガラチは勾玉を手にしたものが二つの世界の記憶を共有すること、勾玉はミルイの身近な人間に与えられることを説明する。
「だから、あんたはミルイの知ってる誰かってことになるわけだ。さらにいえば、明らかにスバポと俺のことも知ってるよな」
「それじゃ……ガラチやスバポ様も二つの世界の記憶を……」
「ああ。今のあんたと同じようにな」
「ぬうっ、なんということだ!そんなのは私だけだと思ってのスバポ様へのやりたい放題だったというのに!かくなる上は断じて正体を明かすわけにはいかん!」
「いや、そんなこと言われても。これから仲間として一緒に旅をすることになると思うし、名前くらいは教えてもらわないと」
「……私のファミリーは私のことをダディと呼んでいる。君たちも心おきなくそう呼んでくれたまえ」
「いや、呼ぶ為じゃなくてあっちの誰なのかを知りたいんだが」
「それは秘密だっ!乙女の秘密っ」
「乙女って……」
 げんなりするガラチ。一方、勘のいいスバポはピンとくる。
「もしかして……あっちじゃ女なのか」
「ぐはあ。またしても私はいらぬ一言をっ!」
 号泣するおっさん。まさかとは思ったが図星だったようだ。
 これまでに集まったヒントをまとめると、スバポに思いを寄せる暑苦しい感じの女といったところか。ガラチもスバポも自分自身が高天原でも中ツ国でもそれほど変わらない性格なのでそれを当てはめて性格はあまり変わらないと推測した。……性別という根幹の部分が変わっているとなるとそれがどう影響するか予想できないが。
 ここに集まった面々を見るに、顔立ちも大きくは変わらないようだが、おっさんの顔の半分は髭でよく見えない。もちろん髭面の女性にも心当たりはない。
 実の所、あちらのスバポはイスノイドネという地位のおかげもあってモテモテである。こちらの自分とは大違い、うらやましい限りだ。様付けで呼ばれることも多い。よってスバポ様に憧れる女性は枚挙に暇がないほどだ。
 どうやらこれ以上絞り込むのは難しそうだ。スパイのリーダーにしては案外発言が粗忽なので話しているうちにまたなにやら情報を漏らすかもしれないが、そんなのを待っていられるほど暇でもない。
「あのさ。要するにこの人の名前が分かればいいんでしょ」
 スムレラはそう言うと、警察の現場責任者を呼びつけた。
「この人の名前、もちろん聞いてあるんでしょう?」
「ええそれはもう。ラズニと名乗っておりましたな」
「ああっ、バレた!」
 号泣するおっさん……いや、ラズニ。そしてその名を聞いて一同目を丸くした。
「ええっ。ラズニって……スバポが好きだったのか!」
 そっちに興味を示すガラチ。この世界では妹だが現カノの前なので、そりゃあ口説いても落ちないわけだという言葉を飲み込んだ。いずれにせよ昔の話だ。
「そんな素振りは見せたことなかったけどなぁ」
 スバポもラズニからそのようなアプローチを受けた覚えはなかった。
「あああ、乙女の秘密が!」
「その顔で言うな……」
 まあ、秘密というくらいだ。バレないようにスバポの前では極力普通に振る舞っていたのだろう。いや、よく思い出してみればあまりスパポの前には出てきてすらいない印象だった。
 内気でおとなしい女の子のラズニはモテモテのスバポを遠巻きに見ることしかできなかったのだ。そのせいでスバポにとってラズニの印象はとても薄い。しかしその密やかで熱い想いは土器作りにしこたま注ぎ込まれていた。その結果、グリヅチに選ばれたのである。私の作った土器を祭礼でスバポ様が使うんだと思うと興奮のあまり悶えたものである。そのせいもあってスバポの前では挙動不審になってしまいそうでますます近付けなくなってしまったのだが。
 そんな秘めていた思いだが、不思議な夢の世界でスバポを見つけ、どうせ夢だと思い爆発させてしまった。その結果がこれである。
 スムレラは思う。スウジチはこのおっさんがあちらで少女であることを把握していたのではないだろうか。その上で一連のやりとりを見ていたとすれば、青春がどうのこうのという発言にも納得できる。中ツ国での姿で当てはめれば少女が憧れの男性に熱烈に迫っている場面になるのだから。これが青春の一コマでなくてなんなのか。
 とにかく。ここに新たな勾玉の持ち主が見つかったのである。

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