黄昏を呼ぶ少女

十五話 女たちの事情

 何はともあれ、幼い少女を介してする話ではなかった。さっきの話でミルイはすっかり怯えてしまっている。
 一緒にいるベシラが気を紛らわしてくれればいいのだが、何分ミルイがすっかり怯えてしまうような恐ろしい話は、雄鶏の魂が憑依したベシラの口で語られた。しかも、雄鶏は上機嫌だった。その機嫌のよさが表情にも色濃く表われていた。つまり、その恐ろしい話を満面の笑みを浮かべたベシラがしていたのだ。
 お陰で、ミルイはベシラ相手に怯えてしまっている。気が紛れるわけもない。ベシラはそんなミルイを見て、やはりあの力は使わないと心に誓うのだった。
 スムレラは今聞いた話についてガラチと話し合うことにした。
 こんなに怖がっているミルイに今の話をもう一度聞かせるのもなんなので、ガラチの待つ部屋に行くことにしたスムレラだが、問題が発生した。ミルイが一人は嫌だと言い出したのだ。自分がいるのにミルイがそう言い出したことでベシラはさらにへこんだ。
 とりあえず、ガラチたちの待つ部屋にミルイも連れて行き、ハンターの誰かに預けてガラチと話をすることにした。すっかりいじけたベシラはついてこなかった。
 スムレラはガラチらハンターに事情を話し、ハンターのオクケエルムンにちびっ子たちのおもりを頼んだ。ミルイは怯えているし、ベシラはいじけている。大変そうだ。
 ミルイもオクケエルムンに連れられていなくなったところで、先程ベシラの口を借りて雄鶏が言ったことをガラチに伝えた。
「うーん。確かに、見つけた獲物は逃がさずに狩ってましたからねー。相手はそんなに素早い訳でもないし、怒って反撃してきても、大概その前に麻酔銃を撃ち込んでるんで、こっちが逃げ回っているうちに薬が回ってオシマイっすね。向こうがこっちのことを知らないのも、仕方ないでしょう」
 鶏たちがハンターのことさえ詳しくは知らないのなら、その裏にいる軍人のことなど余計に知りようがない。期待する方が無茶というものだ。
 鶏から得られた重要そうな話は、彼らがここに辿り着いた経緯と、狼たちからの伝聞くらい。
 特に気になるのは狼たちがが食らった人間の味だ。彼らが幼い頃に餌として与えられた人間の味と、この国の兵士の味が似ていると言っていたという。
 つまり、マハーリ国内から連れ去られた人間が餌として与えられていた可能性が高い。捕虜として捕らえられたマハーリ軍の兵やヴィサン軍による拉致の被害者がその餌にされた人間なのだろう。となれば、彼らの安否は絶望的と考えた方がよい。
 この非道極まりない行為を見過ごしてはおけない。しかし、確証を得た訳ではない。それに、確証を得たところでスムレラにはどうしようもないのが現実だ。カムシュケ食品工業の件、さらにハンター達のことを知っているスムレラは、軍にとっては厄介な存在だろう。ただでさえ大きな影響力のある月読の補佐官からそんなことが暴露されれば軍の信頼は瞬時に失墜しかねない。軍がそんなスムレラを放っておくはずがない。まして、話を聞いてくれるとも思えない。
 いずれにせよ、しばらくミルイに同行することになる。ミルイの目指すべき目的地がマハーリ軍の手の回った場所でない限り、敢えて近付く必要はない。
 だが、その点でも一つ問題がある。仲間の一人であるスバポが軍の基地に捕らえられているのだ。とっとと遠くに行くためにも、早くスバポを救出しなければならない。
 どうやら、一度は軍部に接触しなければならないようだ。何とも頭の痛い話だ。

 その頃、スパボとスキタヤが捕らえられている軍事施設の塔では、いつも通りの何もない時間が流れていた。
 中ツ国で儀式のために一人山上にいるスバポには、昨日からのミルイやガラチの動きが伝わってこない。ミルイたちと一緒に遠くに行っているらしく、出がけだと言っていた前回から、おさるの伝令もぱったりと来なくなった。この世界の一日は長い。それに加え、こうも退屈だとますます時間が長く感じる。用はまだ済まないのか、それとも出先で何かあったのではないか。一緒に行くことができればこんなに気を揉むこともないのだが。
 軍は一体いつまで二人をここに閉じ込めておくつもりなのか。スキタヤはともかく、スバポをこんなに長く閉じ込めておく理由があるとも思えない。一体軍は何を考えているのか。
 話すことも尽きスキタヤとスバポの間には長い沈黙が訪れていた。他愛もない話の種が尽きると、他愛もない思考の種を探すのに忙しくなる。
 そんな静まり返った部屋に声が届く。部屋の外で兵士たちが話しているのだ。
「スキタヤ殿にお食事を運びに上がりました!」
 緊張ぎみの女性兵士の声だ。
「見ない顔だな。それに、食事もまだ何日分かは残っているはずだが」
「そ、そうですか?しかし、私は上官に命じられただけで、詳しいことは分からないのです」
「まあ、そうだろうな。……おっと。武器は預かるぞ」
「えっ。なぜですか?」
「詳しくは言えんが、まあいろいろあるんだ」
 いろいろあるのか。スバポは何げなくそう思う。一緒にいるスキタヤは敵国からやってきた人間だ。この国の軍にはスキタヤに恨みのある人間が五万といるだろう。そんな人間が、武器を手にスキタヤの前にやってきたら……。つまりはそういうことなのだろう。
 扉が開き、女性兵士が箱を抱えて入ってきた。
「食料をお持ちしました」
 ずっと窓辺で外を眺めていたスキタヤも振り返り、女性兵士の方を見た。女性兵士はそれに気付き目を逸らす。顔を背けたと言ってもいいくらいの勢いで。
 スバポは女性兵士が抱える箱を覗き込んだ。レーションの缶詰が詰まっている。7、8日分と言ったところか。ただでさえ、まだ4、5日はもつだけの量が残っている。それを食べきり、新しい分に手を出すことになるまでここを出す気はないと言うことだろうか。誰でもいいから早く助けに来てくれとスバポは心の中で願った。
「ここに置いておきますね」
 女性兵士はいそいそと部屋の隅に向かい、屈み込んで箱を置いた。
 スキタヤはカツカツとその女性兵士に歩みより、手を伸ばす。その手は女性兵士の胸元、服の中に吸い込まれた。
「!?な、何をするんです!」
 スキタヤの手を振り払う女性兵士と同じことをスバポも思わず叫びそうになった。何をやっているのか、と。
 振り払われたスキタヤの手を見て、女性兵士も、スバポも息を呑んだ。その手に、掌に収まる程度の小さな銃が握られていたからだ。
 女性兵士は胸に手を当て、スキタヤが手にしている銃が自分の懐から奪われた物だと確認した。
「このような素晴らしい差し入れがあるとはね。感謝すると君の上官に伝えてくれたまえ。もっとも、この銃が君の上官の差し入れであるならだ。私に銃を奪われたなどと知れれば、相当厳しい処分があるだろう」
 スキタヤは言葉を切り、口元に意味深な笑みを浮かべた。
「もしも君の上官が、この軍の人間ならの話だがね」
 強ばった顔をしていた女性兵士だが、不意にその表情が和らぐ。
「そこまで気付いた訳ね。どうせ銃を奪われた時点で私の負け。殺しなさい、ヴィサンの人間が憎いんでしょ?」
 と言うことは、この女性はヴィサンの人間なのか。混乱するスバポ。一方、女性兵士の表情が穏やかになったのは覚悟を決めたためのようだ。
「何も知らずにここに飛び込んできたようだな。君は私がここで缶詰になって執務をしているとでも思っていたのだろうが、そんな単純な話ではない。こちらはこちらで多少厄介なことになっているんだよ。そんな中で手に入れた銃だ。貴重な弾丸を丸腰の女一人のためには使えない。それに、私が銃を手にしたことを知られるのはとても都合が悪い。これはいざというときまで使えないさ」
「そんなこと教えていいの?あんたが銃を手に入れたこと、外の兵士さんに教えちゃうわよ」
 女兵士は不敵に笑う。
「君にそんな度胸があるならそうしたまえ。だが、さっき言った通り、私に銃を奪われたと知られれば厳しい処分が待っている。敵国のスパイとなれば尚のことだ。この軍の人間は私のように優しくはないぞ。一思いに殺してはくれまい。いっそ殺してくれと、一体何年思い続けることになるかな?」
 冷酷な笑みを浮かべるスキタヤと対照的に女性兵士の顔が青ざめた。
「それに、私がこんな小さな銃を持っていたからどうなる訳でもない。数人の兵に銃を突き付けられれば抵抗も出来ん。おとなしく銃を渡し、また元通りの軟禁状態に戻るだけだ。こんな扱いだが私は一応賓客でね、だから殺すこともできず、こうして閉じ込められている訳だ。どう転んでも君に不利なだけなんだよ」
 女性兵士は歯噛みする。そのとき、部屋の外の兵が呼びかけてきた。
「どうした、何かあったのか?済んだなら早く出ろ」
 スキタヤは手にしていた銃を部屋に隠すと、女性兵士の肩を押しながら声の方に向かう。扉を開けて部屋の外に顔を出し、外の兵士に言った。
「気晴らしに口説いていたんだ。脈は無さそうだがね」
 強ばったままの女性兵士の背中を押し、部屋の外に押し出した。
「それと。今度は食料ではなくて着替えの差し入れも頼みたいものだ。口説きたくなるような美女が部屋に尋ねてくるのなら、なおさらにね」
 スキタヤは涼しい顔でそう言うと、何事もなかったかのように扉を閉めた。
「どういう事なのか話がよく分からないんですが……」
 スバポはおずおずとスキタヤに問いかけた。スキタヤは、今起こったことについて話し始めた。

 その時、スキタヤたちの軟禁されている部屋を訪ねた女性兵士は、そのフロアの唯一の出入り口であるエレベータに乗り込んだところだった。
 ミッションは失敗した。そのことを彼女の上官に伝えなければならない。もちろん、その上官はマハーリ軍の人間ではない。
 エレベータは動き始めるが、次のフロアで動きを止めた。
 扉が開き、3人の兵士が入ってくる。
 左右の兵は女性兵士に銃を向けた。そして、中央の兵が言う。
「我々について来て貰おう」
 女性兵士は自分の素性に気付かれたことを悟った。
 ならば。
 今し方兵士から返されたばかりの拳銃を取り出す。そして、その銃を自分のこめかみに押し当てた。
 つい先刻、スキタヤに銃を奪われたときに既に覚悟はできていた。そもそも、ミッションがうまく行ったとしても、いや、ミッションがうまく行けばますます生きて帰れるはずはなかった。異変に気づかれれば今と同じように兵士に囲まれただろう。その時は今と同じようにするつもりだった。結局、死が数分遅れただけだ。
 女性兵士は引き金を引いた。
 乾いた音と手に伝わる微かな衝撃。銃が火を吹いた感じではない。
 女性兵士はもう一度引き金を引いた。そしてもう一度。
 何も起こらなかった。乾いた音と僅かな反動だけ。返された銃は弾が全て抜かれていたのだ。
「もう一度言おう。我々について来てもらおうか」
 スキタヤは言っていた。この軍の人間に正体が知れれば、死のほうがましだと思うような目に遭うと。それが分かっているからこそ、あの時スキタヤに自分を殺せと言ったのだ。
 女性兵士は兵士二人に両腕を掴まれた。抵抗などできなかった。丸腰で抵抗しても銃を持つ兵二人相手には何もできない。その銃を自分に向けて撃たせる程度の抵抗さえ、できはしないのだ。
 死の覚悟はできていた。だが、これから始まることへの覚悟はできていなかった。

「あの女兵士には少し見覚えがあった。……誰なのかはっきり思い出せるほどの記憶ではなかったがね。こっちに寝返ってから目にした兵士は多くはない。まして女兵士など始めて見たよ。そのはずなのに、見覚えがある。それなら私が女性兵士を度々目にしていた、ヴィサン軍で見かけたのだろうと考えたのだ」
 スキタヤは窓から外を眺めながら小声で言った。こんな話を聞かれては面倒だ。兵士が見張る扉から一番遠い窓辺で話している。
「案の定だった。となると、思い当たる目的は暗殺だろう。ヴィサン軍にとって幹部クラスの私が寝返ったことは頭の痛い問題だ。私の持つ多くの情報が敵軍に渡ってしまえば、敗色が濃くなる。少しでも早い内に私の口を封じる必要がある。……正直、こんなところにまで潜り込んでくるとは予想外だったがね。こんなことは言いたくないが、この軍はなかなかに間抜けがそろっているようだ。スパイをむざむざ軍部の奥深くにまで踏み込ませてしまうのだからな。この調子だとここを抜け出すのもそんなには難しくはないかもしれんぞ」
 スキタヤは北叟笑んだ。
 その脱走は自分も一緒なのだろうか。実戦向けの高度な訓練は受けていないスバポにはそんな強行軍が行えるとは思えない。かといってここに置き去りにされるのも困る。
 それに、スパイがあっさりとここまで侵入しているのだ。こんな調子で真夜中に寝込みを狙って暗殺者が来ようものなら防ぎようがない。
 スキタヤは軍の甘い体制に希望を見出したようだが、スバポは不安ばかりが募っていった。

 これからどうすべきか。スムレラは決めかねていた。
 軍に捕らえられたスバポを救出しなければならない。だが、引き返して軍の基地を目指すのは危険が多すぎる。どうにかして、遠くから救い出す手を考えた方がいい。
 それについてはスムレラにも考えがない訳ではない。自分たちは動かず誰かに任せるとしたら、任せられる相手はこのくらいしかいないという話だ。スムレラが協力を要請できる相手など、警察くらいしかいない。
 警察を動かすにはそれなりの理由が必要だろう。例えば、スキタヤは投降してきたとは言え、不法入国は不法入国だ。それを種に警察を動かせる。だが、それで身柄を確保できるのはスキタヤだけ。スバポを連れ出す理由にはならない。そもそも、軍が素直に応じてくれるとは到底思えなかった。
 考えていると、ガラチが声をかけて来た。肩にはハヌマーンが乗っている。スムレラはこの組み合わせを見てピンと来る。
「何か子供に聞かせられない話があるのね?」
 ガラチは首を捻る。
「え。いや、話があるのはハヌマーンの方で……」
「そのハヌマーンがよ」
「あ、それは多分そうかも」
 ガラチは詳しい話までは聞かされていなかった。ただ、ハヌマーンにスムレラへの通訳をしてくれと頼まれただけだ。その理由を考えるような性格ではない。
『姉ちゃんも、お前さんに子供抜きで話したいことがあるのかもしれんの。若い男と二人きりで話す機会なんぞ今までなかったし』
 ガラチも納得した所で、ハヌマーンが茶々を入れる。
「そういう事言うんじゃない」
 ガラチは下世話な爺猿を軽く引っぱたいた。
「何を言ったの?」
 呆れ顔でガラチに聞くスムレラ。
「気にしちゃいけません」
 気にはなるが、ガラチが言いそうにない。とにかく本題に入ることにした。
『ここにくる前に、例の塔に閉じこめられたいけ好かない兄ちゃんに言われたんじゃが、軍隊は今バイオビーストの事でてんやわんやになっておるそうじゃ。その調子でバイオビーストをけしかけて混乱させてはどうかの』
「けしかける?」
 ハヌマーンは、殺戮と死を望むバイオビーストに、その望みを叶える提案をするというスキタヤの考えを伝えた。
「そんなに都合よく事が運ぶかしら……」
 考え込むスムレラ。
『それもそうじゃが、まだ問題はあるぞ。この伝言を伝えられるのはミルイだけじゃ。相手は化け物とは言え、お前に死に場所を教えてやる、なんて言う言葉をミルイに言わせるのは気が進まん』
「それもそうよねぇ」
『そこでじゃ。日頃文章なんぞもちょくちょく書いとるねえちゃんに、ミルイにも安心して言わせられる文言を考えて欲しいんじゃが』
「そうねぇ。考えておくわ」
『栄養がちゃんとオッパイだけでなくオツムに回っているのを、しかと見せつけておくれよ』
 通訳のガラチは今の言葉はなかったことにした。
「……今のはなんて?」
 通訳されなかった“キキキャッキャキャキキャキキ”を、スムレラは聞き逃さなかった。とりあえず言葉を濁すガラチ。スムレラの、隠し事をする男の挙動を見逃さない女の勘が働く。尤も、勘が働かなくてもスムレラの言葉と同時にガラチの肩を飛び降りて一目散に逃げ出したハヌマーンを見れば一目瞭然ではあるが。
「何かろくでもないこと言ったんでしょ」
「え。いや。まあ、よろしく頼むよ、的な?」
 しどろもどろなガラチを見て、スムレラのハートに火がつく。嘘をつく男を許さない女心。こんな性格だからなかなか男が寄って来ないのだが。
「何を言ったんです?」
 ガラチはスムレラの目に、真実を聞くまで諦めないという強い意志を感じ取った。こんなことで意地を張りあっても仕方ない。ガラチは折れることにした。
「ちゃんと頭に栄養が行っているのを証明しろとかなんとか……」
 さすがにオッパイ云々までは言わなかった。
「なによそれ。人に物を頼んどいて、一言多いわねぇ。昔の上司を思い出すわ」
 スムレラは昔を振り返り、語り始めた。まだ月読ではなく辺境の知事の下で働いていた頃。若く経験も浅かったスムレラは第四秘書だったが、先輩であり、上司でもある第一秘書が嫌な人物だった。
 実際偉かったのだが必要以上に偉そうで、偏見で凝り固まったことを言う人物だった。スムレラに対しては、胸が大きいから頭が悪いと決めつけて来た。
 学生時代からそんなことを言われ続けて来たスムレラは、言った連中を見返してやろうと人一倍努力し、一流の学校を優秀な成績で卒業した。いつしか才色兼備という言葉の似合う女になっていた。……と自分では思う。
 もう誰にも胸の大きな女だから頭は悪いなどと言わせない。そう胸を張って言えると思っていた矢先にその人物に出会った訳だ。だが、その人物のお陰で、慢心せずに月読の秘書になるまで努力できたという面もある。そのことに感謝する気は全くないが。
 話を聞いていたガラチは、もしかしてこれは単なる愚痴、しかも終わったことへの愚痴ではないかと気付き始めていた。しかも、せっかくガラチが触れずにおいた胸の事だ。言った覚えはないが、無意識の目線で気付かれたんじゃないかと思うくらいの核心の突き様に、ガラチは居たたまれない。
 スムレラも、昔を思い出して熱く語っているうちに、話し相手がガラチだと言うことを忘れていた。困ったような顔でスムレラの愚痴を聞いていたガラチと目が合うと、唐突に胸に関する愚痴は終わった。

 自国マハーリの軍によって壊滅したガラチたちの故郷は、この荒野に程近い所にあった。当然、ヴィサンとも距離が近く、だからこそ半ば壊滅するほどにヴィサン軍の蹂躙を受けた。そして、ようやく手を差し伸べてきたマハーリ軍は、彼らを救うのではなく、地獄に突き落とした。
 住人を失った村は今どうなっているのか。何か手掛かりが残っているとは思いにくい。それでも、一度調べてみることにした。
 やがて、ガラチやベシラにとって懐かしい景色が見えて来た。遠くの山、平野を横切る川。それは、ガラチたちの故郷がこの近くで間違いないことを示していた。
 かつては畑だったという草むらにエアシップを降ろす。さすが、農村地帯だっただけあって、ど田舎だった。何も起こらなくても勝手に過疎化していきそうなくらい、周りには町も何もない。ただ、若者もこの村を離れる手段さえ得られない、そのくらいに徹底したど田舎だった。
 ガラチの話では元々そのくらい何もない村だったらしいが、今ではそれを確かめることもできない。なぜなら、村にあるはずの建物などは既に跡形なく取り壊されていたからだ。
 ガラチとベシラの生家も更地になっていた。道の痕跡や生えている木などでそこがそうだということは分かるが、そこにあったはずの建物だけがなかった。分かったことは、残された僅かな痕跡からここが確かに村だったということ。そして、この村がヴィサン軍に攻め滅ぼされたり、村人に捨てられた訳ではないということ。どちらでも、建物が瓦礫さえ残らず跡形なく消え去るなどということは起こらないだろう。何者かが撤去したのだ。恐らくは、マハーリ軍だろう。しかし、何の必要があってここまで村の痕跡を消そうとしたのかまでは知りようがない。
 軍は一体、ここで何をしていたのか。もちろん、軍を問いただしてその答えを聞き出せるはずはない。情報を集めなくては。だが、一体誰から情報を得ればいいのか。
 そこで、カムシュケ食品工業を探し出したときと同じ方法を使うことにした。地元に住まう生き物に聞いてみるのだ。
 ミルイは勾玉を握り、呪文を唱えた。すると、茂みから何かが顔を出す。このあたりではよく見られる野生動物で、マゼックという猫の仲間の動物だ。足が長くてスマートな、ちょっとうらやましいスタイルの動物である。大きさは犬くらいの猫だ。
『あぁら。人間なんて初めて見たわ。しかもそれが地平線の少女様だなんて』
 第一声で、聞きたいことが聞けそうにないことがはっきりした。何で出て来たのか。
 しかし、話を聞いているうちに事情が分かった。この辺り、かなり広い範囲を駆け回る彼女も、生まれてこの方この辺りで人間を見ていない。このあたりの野生動物には、その頃から生きているものはいないのだ。
「あなた達が連れ去られたのって、そんなに昔のことなの?」
 スムレラの問いに、ガラチは考える。
「5年くらい前ですけど……」
 スムレラは首を傾げる。確か、マゼックは10年近く生きるはずだ。マゼックはしきりに前足の毛並みを気にしながら言う。
『元々、あたしたちはあんまり人間のいるような所はうろついたりしないのよ。今はこのあたりも人間の気配が全然しないから、のびのびと歩き回ってるってワケ』
 なるほど、と納得するが、だったらますますなぜ、この人を避けて生きる動物が出てきたのか。
「ねぇ。今、一番近くで人が住んでいる場所って分かる?」
 ミルイは聞いてみたが、マゼックは首を横に振った。
『こう見えてもあたしは結構あちこち繰り出したりしてるのよ。特に夜なんかはさ。でも、人間がいそうな感じはないわねぇ。でも、あたしのパパがこの辺りには昔、あちこちに人が住んでたって言ってたわ』
「ねえ、パパってなあに」
 いきなりにミルイに聞かれたスムレラはこう答えた。
「子供は知らなくていいの」
『やあねぇ。血の繋がったパパよ。お父さんのこと』
「なんだ、父ちゃんかぁ」
 夜に繰り出すような若いメス猫のことなので早合点してしまったようだ。偏見を持つのはいろいろよくないなと感じるスムレラ。そもそも、自分もその偏見で苦しんだというのに。
 とにかく、そのパパの話ではちょっと前までここには人が住む村があったそうだ。言うまでもなく、ガラチたちの住んでいた村だ。しかし、ある日、村から人が消え、次いで村が消えた。生憎、その様子を目撃することはなかったのだが。
『死活問題だったらしいわよ。なにせ、村から出るネズミがパパたちの主食だったらしいし』
 マゼックたちは村には近付かないが、村から発生して野原に飛び出してくるネズミが格好の餌だった。そのネズミがある日突然いなくなったので村の様子を見に来たら、跡形も無くなくなっていたと言うわけだ。ネズミがいなくなり、マゼックたちは飢える羽目になる。
「地域を支えていた大企業が倒産するみたいなものね。分かるわぁ」
 ミルイにはスムレラの喩えが分からなかった。当然、人間社会の事など知らないマゼックにも分からなかった。さらに言えば、大企業などないド田舎で育ったガラチたちにもよく分からない喩えだった。結局、誰にも分からなかった。
『ネズミの代わりに野生のノネズミとかが増えて来たからどうにか生きて行けたけど、それまでは大変だったらしいわよ。今までそこにあった村がいきなり無くなるのって、すごいストレスだしね。パパもママも、一番多感な青春時代にストレスからくる円形脱毛症に苦しんだんだって』
「飼い猫も模様替えするとストレスでハゲたりするもんねぇ」
 猫を飼ったことのある人がいなかったので、この話も誰にも分かって貰えなかった。
『関わらないようにして生きていても、いきなり無くなるなんて怖いじゃない。自分たちもそんな風にいきなりいなくなったりしないか、とても不安になったらしいわ』
 とにかく、急激な環境の変化に慣れて来たころ、食料になる小動物も増えて来た。
『あたしが生まれたのはその頃。食べ物は豊富、天敵も、獲物を取り合う相手もいない。何の苦労も知らない世代だって大人たちには言われるわ』
『天敵が?熊や狼はおらんのか?』
 ハヌマーンが口を挟んだ。それを聞いたガラチがさらに横槍をいれる。
「この辺りで熊や狼を見たって言う話は聞かないよ」
 マゼックは言う。
『そう言う生き物のことなら聞いたことはあるわ。昔話の中でね。私のおじいちゃんのおじいちゃん位の時代の話だったかな。とても強くて、恐ろしい生き物だったらしいわ。人間でさえ、彼らを恐れてた。特に狼は人間を襲ったり、人間の食べ物を奪ったりしていたらしいわ。人間も自分たちに逆らえはしないんだってね。でも、それは驕り。人間の怒りを買った狼は人間たちの手で滅ぼされた。人間に逆らう気はなかったけど、人間よりも強い生き物だった熊もいなくなった。私たちの先祖は人間に逆らおうとはしなかった。だから今こうして生き延びてるの。人間には逆らっちゃだめって話よね。ま、言われなくても逆らえるほどの力なんて無いから大丈夫だけど』
 教訓じみた昔話のようだ。
「あたしは、自然の神様には絶対勝てないから怒らせちゃだめだって言われてるけどなぁ」
 ミルイは呟く。マゼックの大きな耳にもその言葉は届いた。
『それは、夢の中のもう一つの世界のことね』
「知ってるの?」
『知らんのは人間だけじゃよ』
 ハヌマーンが横槍を入れた。中ツ国と高天原は夢で繋がっている。そのことを知らないのは、人間だけだ。
『確かに、あっちの世界の人間は自然に圧倒されながら細々と暮らしを送ってるわね。まあ、あたしはあっちの世界でも人間なんて見たことないけど』
 中ツ国に関しては、避けなければいけないほど人間が多いわけでもない。そもそも、大きな村以外はかなり近寄らないと分からないくらいひっそりとした集落ばかりだ。
『この世界も昔はそんな感じじゃったぞ。わしが初めて人間に会った頃を思い出すわい』
「それじゃ、あたしたちの世界もこういうふうになるの?おさるさん、今歳いくつ?」
『いやいや、若いころとかそういうレベルの話じゃなくてな。その間に何十回も生まれかわっとる。そうよなぁ、三千年は昔の事だと思うが……』
 中ツ国が今の高天原のようになるにもそのくらいはかかると思って良さそうだ。ミルイにはちょっと見られそうにない。
『でも、ゆっくりだけどそうやって進歩できるのが人間なのよね。脅えていた獣に対抗する手段を手に入れ、脅えていた自然を支配する力をも手に入れていく。自然界の住人にはできないことよ』
「そっかぁ。よーし、あたしも進歩するぞぉ!」
 壮大だが、具体性が全くない目標を掲げるミルイ。
「ところでさ、自然にも勝てるようになったら、次はどうするの?」
 ふと気になったミルイは、ハヌマーンに聞いてみた。
『さあ。強い敵に勝ったらもっと強い敵が出てくる少年マンガとは違うからのう。まあ、自然界に人間より強いものがいなくなったなら、人間同士で争うだけじゃろ。何も変わらんよ』
「ふうん……人間同士で争うって、この世界みたいになるって事だよね。それはちょっとやだな……。今のままでいいや」
 中ツ国ではちょっとした喧嘩は起こるが、大きな戦争は起こりようがない。なにせ、争いが大きくなるほど人がいないのだから。
 とにかく、このあたりではもうほとんど人間のことを知っている生き物はいないのだ。
 結局マゼックから得られた情報は、確かにここには村があったらしいと言うこと。そして、このあたりにたくさんあった村は、今は全て無くなってしまったと言うこと。
 それはもしかすると、この辺りにあった全ての村が、ガラチの村と同じように軍の手により消されたのかも知れない。
 謎と疑惑ばかりが大きくなっていった。

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