黄昏を呼ぶ少女

十三話 山を目指して

 また、あの声が聞こえた。鶏の声。その声でミルイは目を覚ました。
 ここは中ツ国。高天原の女子寮でも、部屋のそばの鳥小屋から同じような声がする。だが、それとは声の大きさも、聞こえ方もまるで違う。直接脳に響くような不気味な声。
 また鶏の声が轟く。
 男たちは広場に集まり、妖怪捜しに出た。しかし男たちも、声ばかりで姿をまったく見せないこの妖怪を捜し出すのは無理だと思い始めている。
 そして、他の男たちと共に妖怪狩りに加わっていたガラチは、自分たちが高天原で狩っていた巨大鶏と、この妖怪との関わりを疑い始めていた。
 だが、この声の主があのような巨大な鶏なのであれば、もっと目立つはずだ。このように何日も姿さえ見られることもなく潜み続けられはしないだろう。しかし、今日も捜索も空しく、妖怪は姿さえ見ることは出来なかった。
 高天原に行ったらハヌマーンにでも聞いてみるか。ガラチはこのことを頭に叩き込んでおいた。

 スバポは祭祀殿で祈りを捧げていた。
 朝の祈りを妨げる奇怪な声は、今日も頭の中に響いていた。
 この声が鶏の声だということはスバポも気付いていたが、なぜ鶏の声がするのかは量りかねていた。スバポは巨大鶏のバイオビーストについては、まだ何も聞いていないのだ。
 いつも、時が経てば声は止む。時の経つのを待つことにした。
 スバポの思った通り、そしていつもの通り、日が差すころには声は止んだ。スバポは祈りを終えて祭祀殿を後にしようとした。
 すると、祭祀殿の入り口のところに何かが見えた。小さな人影。スバポが祈りを終えたのを知り、顔を覗かせたのはミルイだった。女の中では唯一妖怪鶏の声を聞くことができるミルイは、いつも通りにその声で飛び起き、恐怖と不安を紛らわせるためにスバポのいる祭祀殿にやって来た。スバポの祈りを邪魔はしないように入り口のそばで待っていたのだ。
「おはよう。今日も聞こえたのかい?」
 スバポの言葉にミルイは頷く。
「明日、あっちの世界でおっきなニワトリさんが一杯いるところに行くことになってるの。この声って、そのニワトリさんがあたしたちを呼んでる声のかなぁ……」
「ななななんだって!?」
 ミルイがさらっと言ってのけた言葉にスバポは驚いた。
 スバポに聞かれ、ミルイは経緯を教えた。話を聞いた感じ、ミルイに聞くよりガラチに聞いた方が詳しく聞けそうだとスバポは思う。
 あっちの世界のベシラの様子も気になる。その旨をミルイにも言っておく。
 その流れで、ミルイはあちらのベシラにも会ったと言った。
「あのベシラちゃんって、こっちのベシラ姉ちゃんと同じなのかなぁ」
「うーん。会ってみないと何とも……。ガラチに聞いた方がいいんじゃない?」
「ガラチ兄ちゃんも、多分そうじゃないかって言ってはいたけど、よくわかんないって。でも、おさるさんの話を聞いてると、もしかしたらそうじゃないかなって思うよ」
 スバポはあっちの世界のベシラに会うのが少し楽しみになった。
「ねえ、スバポ兄ちゃん」
「ん?なんだい?」
「あっちのスバポ兄ちゃんってどんな人?」
「軍人だよ。と言っても、偵察・監視機器のオペレータだから、事務職と変わりないけど」
「あたしにも分かる言葉使ってよぅ……。ま、どうせわかんないか。ねえ、歳はどのくらい?」
 そんなに難しい言葉を使った覚えのないスバポは、どの言葉が難しかったんだろうと少し悩んだ。ミルイにしてみれば、分かる言葉こそほとんど無かったのだが。
「あっちじゃ俺は18だよ。高等学問所で修士課程を終えて軍に入ったんだ」
 高天原では一日の長さが中ツ国よりだいぶ長い。そのため少ない日数でより多くの学問も修められる。18までの就学はかなり長い方だ。
 そんなスバポの自慢めいた話だが、ミルイにはやっぱり分かる言葉がほとんど無く、さっぱり通じていなかった。だが、ミルイも歳だけは聞けた。ミルイはスバポの年齢が一番知りたかったのだ。
「18かぁ。おっきいんだね」
「ん、まあね」
「ガラチ兄ちゃんも、ベシラ姉ちゃんも、スバポ兄ちゃんもみんなあっちの世界じゃ歳も顔も違うのに、何であたしだけあっちでもこっちとおんなじ歳でおんなじ顔なんだろ。つまんないの」
 スバポはそれを聞いて、向こうのミルイの容姿を知った。そして、思ったことを口にする。
「探しやすいようにじゃないのかな。俺たちみたいにあっちとこっちで顔が違うんじゃ、いくら二つの世界の記憶を持っていてもミルイに気付けないしね」
 思えば、スバポには気掛かりだったことがあった。
 少なくとも、スバポ自身は二つの世界で違う姿をしている。ミルイも同じだろうと思っていた。そして、勾玉を手にした日から、スバポはミルイを探してきた。最初に海浜公園で待ち合わせたとき、こちらのミルイがどんな姿か知らないことに気が付いた。これでは探しようがない。
 だからといって、女性に片っ端から声をかける訳にもいかない。結局ミルイに会えないまま公園から帰るとき、せめて特徴くらいは聞いておかないとと心に決めた。
 だがその後、ミルイを取り巻く環境もスバポを取り巻く環境も目まぐるしく変わり、スバポはミルイを探すどころではなくなった。だから、今の今までミルイがどんな姿なのかを考える必要さえなく、今までミルイの容姿を知らないことをすっかり忘れていたのだ。
 しかしこのような状況でなければ、共に旅をするためにミルイを探し、その果てにどこかで出会っていただろう。その時、二人とも知らない姿をしていたのでは、お互いに気付かないまますれ違ってしまう。そうならないようにミルイだけはどちらの世界でも同じ姿をしているのではないか。スバポはそう考えたのだ。
「そっかあ。ガラチ兄ちゃんもあたしのこと一目で分かったもんね」
 ミルイもスバポの思いつきの意見で納得したようだ。実際はどうなのかは分からないが、なんとなくその通りなのかもしれないと思えてくる。
 とにかく、スバポは今日は忙しくなる。その前にガラチと話をしておきたい。その前に、ミルイにこれだけ言っておくことにする。
「ミルイ、今日はベシラを起こしちゃ駄目だよ」
「えっ、なんで?」
「昨日のお祭りで神様を降ろしたよね。神様がその体を使ったことでベシラはかなり体調が悪くなってるんだ」
 すきっ腹に強い酒を飲み、踊りまくったのだから、二日酔いになる訳である。高天原ではすぐに分かる道理ではあるが、中ツ国では酒は貴重。二日酔いになれるほど酒を飲めるのは、この辺りだとクラシビくらいだ。そのため、神がその体を使ったから起こるのだということになっている。
 ミルイと一緒にベシラの部屋のそばを通りがかると、ベシラの辛そうな呻き声が聞こえた。そんな二日酔いのベシラはゆっくりと休ませてやるに限る。二人はベシラの部屋の前を素通りした。

 外に出るといつも通りに朝餉の準備が進められていた。ミルイもいつも通りにナミバチ村のキャンプに向かう。
 大人たちは既に起き出している。妖怪退治から戻った男たちも、次の用事のためにめいめいに出掛けいる。ただ一人、リジヤチのみが太平楽に寝こけている。リジヤチは妖怪の声を聞いても目を覚まさないらしい。一応、妖怪の声がしたときにはうーんと唸ったり、うるさいなぁと寝言を言ったりはするので、声が聞こえていない訳ではない。聞こえているのにお構いなしで寝ているのだ。
 ここまで来るともはや呆れるより先に尊敬出来る。男たちを叩き起こそうとする妖怪に打ち勝って眠り続けるリジヤチにあやかろうと、拝みに来る人もいるようだ。祈りに来るのは男ばかり。女には妖怪自体本当にいるのかどうかすら分からない有様だけに、当然といえる。
 今日もリジヤチの周りには祈りにきた人が輪を描いていた。だが、祈りはリジヤチが眠っているうちに終わってしまう。それに、眠っているのが凄いのだから、起こしてしまうと縁起が悪い。起こさないように細心の注意を払って祈りが行われるので、本人は拝まれていることに気付いていない。並んで眠っているポンもおなじだ。
 拝みにきた人も皆帰って居なくなり、朝餉の準備が終わるころ、ポンとリジヤチは目を覚ました。
 ポンも昨日の歌のことで一昨日の夜はよく眠れなかった。それに疲れなどもあって今日はぐっすりと眠れたようだ。その代わり、一昨日の夜に寝付けなかった分、昨日の朝はたっぷりと寝坊したのだが。
「おはよう、ポン姉ちゃん。すごい顔だよ」
 ミルイは苦笑いしながら言った。
「え?何が?」
「よだれの跡……」
 ポンは慌てて口元を手で拭った。その手にべっとりと色がつく。
「ぎゃっ。なにこれ」
 びっくりしてから、昨日化粧してもらってそのまま寝ていたことを思い出す。その化粧がよだれで流れてすごいことになっていたのだ。今は拭ったことでさらに酷いことになっている。
「うわ。もしかしてよだれでお化粧流れちゃってた?」
「うん。口が裂けてるみたいだったよ」
「やっぱり落としてから寝た方がよかったかぁ……。でも、誰も見てないからいいけど」
「さっきまでよその男の人たちがたくさん来てたよ」
「えっ。ちょ、ちょっとなんでよ」
「えーと。怪物の声を聞いても平気で寝ているリジヤチおじちゃんが、妖怪を相手にしようとしている男の人たちにとって縁起がいいんだって。それでさっきまでみんなして拝みに来てたんだよ」
「もしかして、父ちゃんとあたしのこと取り囲んで拝んでた?うわー、よだれ流して寝てるところも、化粧が流れてるところもみんな見られてるじゃない!」
 ポンの顔は恥ずかしさで真っ赤になった。が、化粧の下なので誰にも分からない。
「男の人ってどんな人?カッコいい人とかいた?」
「あたし、ポン姉ちゃんの好みは分からないけど……若い人もいたよ」
「うわっ。最悪。恥ずかしい!」
 ポンは慌てて河原に顔を洗いに駆け出した。ミルイもそれについて行く。
 河原に着いた。ポンは顔を洗い始める。いつも通りのすっぴんに戻って人心地付いたところでポンが言う。
「ミルイはもうお化粧落としちゃったんだ」
「えっ?あ、そうか。起きたとき、顔が埃まみれになってたから洗っちゃったんだっけ」
「そーなんだ……」
 帰り道でミルイは思い出す。そういえば、顔を洗ったのはあっちの世界のことだっけ。
 しかし、ミルイは細かいことを気にしないことにした。

 今日は祭りも最後の日。最後の神事が行われる。
 この一帯でもっとも偉大な神が住む山タイナヤに、供物を運ぶのだ。そのために、全員でぞろぞろと山に向かって歩いて行くことになる。
 ただし、女達は山のふもとまでしか行けない。山に入れるのは男だけ。いわゆる女人禁制だ。タイナヤ山の神は女神。とくに若い女が山に入ると神の僻みならぬ怒りを買って祟りを受けると信じられている。
 だからこそ、祭りには男の祈祷師イスノイドネのスバポがいる訳だ。
 タイナヤ山はシロキ野村から半日ほどのところにある。朝餉の後はすぐに出発だ。
 シロキ野村に来たときもみんな揃っての移動だったが、今度はそうやって集まった近隣の村々の住人が揃っての移動だ。まるで人の川が山に向かって流れて行くかのようだ。
 ミルイは高天原での光景を思い出した。このような人の川が毎日当たり前のように流れる都市。とは言え、あの人の流れはこののんびりとした行列に比べればまるで濁流のような激しさだ。
 穏やかな人の流れは、穏やかな薄曇りの空の下を流れて行く。
 もう少しで長雨の季節がやってくる。畑に恵みをもたらす雨だ。今はその前の穏やかな季節。

 山に近づくと、麓に村が見えた。山守りの一族の村だ。
 山守りの一族は、この辺りでもっとも神聖なこのタイナヤ山を、文字通り守る役目を受け持つ一族だ。
 こう言うと何やら大変そうな役目に聞こえるが、言い換えればよく祭りに使われるこの山を手入れしたり、定期的に祭ったりする、神主兼管理人と言った役割だ。
 さらに、この山は近隣のいくつもの村集団の崇拝の対象で、近隣のさまざまな人が集まる。そのため、集落のまとめ役も受け持っている。平たく言えば自治体と言ったところか。現代風に例えればナミバチ浜の村やシロキ野村は町内会、シロキ野村を中心とした村落同士のコミュニティは市町村、そしてタイナヤ山を囲む村集団の集まりが都道府県と言ったところだろう。
 とは言え、それぞれの村集団は距離のせいもあってそれほど繋がりは深くない。ここの管理人一族によって、山での祭りがかち合わないように日取りが決められることもあって、ますます疎遠になる。親交を持とうにも距離が遠すぎるので、それで困ることも特にないのだが。行き来が出来るところ同士でだけ、交流が細々と行われている感じだ。
 多くの人々は今夜はここに一泊し、明日、山で行われる神事を下から見上げた後、また歩いて帰る。
 スバポは一足先に神事の支度のために山に入る。だが、自力で登る必要はない。輿が出て山頂まで運んでくれるのだ。祭りによっては祭祀が体力の衰えた長老であることもある。今日のスバポの様に移動から登山という強行軍も珍しくはない。そこでこういうインフラが発達したという訳だ。
 登山と言っても、道はしっかりと整備されている。そして、連日のように山を上り下りしている担ぎ手たちの鍛えられた足だ。日が沈むころには中腹の小屋に到着した。
 下を見下ろすと、麓の村で焚かれる炎がぽつぽつと見えた。明るければ、この平野一帯が見渡せるだろう。
 明日の朝は早い。こう暗くてはすることもないし、とっとと寝てしまうに限るだろう。何より、今夜は食事が出来ない。昨日はベシラが食事抜きだったが、今日はスバポの番だ。この山の中での飲食は習わしで禁じられている。明日、山を下りるまで一切食事は出来ない。その分、山を登る前にたらふく食べて来た。
 担ぎ手たちも今夜は食事抜きで山に一泊だ。だが、食事抜きで神事の終わりを待ってまた担いで降りるのではなく、担ぎ手たちは朝一番に山を下り、神事の終わり頃に次の担ぎ手たちがやってくることになっている。その時には村人たちもやってくる。神事も山場だ。
 とにかく、それが済むまで何も食べられないのだから、今夜はとっとと眠るに限る。
 スバポは小屋に入って行った。

 食事抜きのスバポと違い、麓の人々はいつも通りに食事の時を迎えていた。
 食事の後は一つここでしか出来ないお楽しみがある。特別な禊の儀式だ。
 この山が神秘の山、タイナヤと呼ばれる所以でもある、不思議な泉で身を清めるのだ。
 明日の朝は山に入る男たちが身を清める。その前に女達が身を清めることになっている。村ごとに女達が泉に向かう。
 泉からは湯気が立ちのぼっている。温泉だ。温泉に浸かるのだから、それは楽しみなわけである。
 この山には所々に温泉がわく。この温かく不思議な泉は、この山が特別である何よりの証拠なのだ。
 この温泉にはあらゆる病を癒し、憑き物を払い、長寿や子宝まで授ける御利益があると信じられている。温泉ならではの効能はあるにせよ、信じられている効き目の大半は信心から来る迷信だ。それでも、長旅で疲れ切った体には温泉はたまらない。
 疲れたところに飯を食ってひとっ風呂浴び、時間は夜となればもう眠くて仕方がない。皆、早々に眠りについた。明日の朝は早く起きなければならないのだが、この調子なら全く問題はない。
 ミルイも、今日は久しぶりに村の仲間たちと共に眠りについた。

 このところ、目覚める度にあまり見覚えのない天井が目に映る。
 中ツ国でも明日目が覚めるときはタイナヤ山の村の大きな見慣れない建物で目が覚めることだろう。
 こちらでは中型機の船室だ。ミルイはベシラと同じベッドに横たわっていた。隣のベッドではスムレラが眠っている。
 この船にはベッドが四つしかない。そのうち二つを船のクルーが、残り二つをミルイとベシラ、スムレラが使っている。ハンターたちは椅子や床などで眠っている。彼らは寝所が悪いのなど慣れっこだ。
 ミルイが起きたことで、隣のベシラも目を覚ましたようだ。その時、ミルイの耳に微かな声が飛び込んで来た。
 女子寮の庭からも聞こえるあの声にも似ていたが、それよりは毎朝中ツ国で聞こえる妖怪の声に近い。より低く、気味の悪い声。
 あの妖怪の声との決定的な違いはその聞こえ方だった。あの頭に直接響く聞こえ方ではなく、遠くから微かに聞こえてくる感じだった。
「兄ちゃんたちの獲物の声よ」
 ベシラは言う。その話し声と鶏の声で、スムレラも目を覚ました。
 鶏の声に誘われるようにスムレラは寝室を出た。ミルイたちも恐る恐るそれに続く。一晩眠っている間にうっすらと砂塵が降り積もったコックピットの窓越しに、砂の中にそびえ立つ岩の影が見える。
 その天辺で何かが動いた。汚れた窓と風に舞う砂塵で霞み、その大きさは窺い知ることは出来ないが、昨日会った雌鳥同様、遠くからでも分かるほどのあり得ない大きさの鶏だった。
「あれと、話をしようって訳ね……。全くとんでもない話だわ」
 スムレラは溜め息をついた。あんなのに近づきたい訳はない。だが、近づかなければ話は出来ない。話をするのはミルイだが、子供のミルイが行くのに自分が後込みしていもいられない。
 ここはもう、ガラチたちハンターにしっかり守ってもらわないといけないだろう。

「いやー。俺たちもあんまり近づいたことはないんですよねー」
 ガラチは言った。その返事にスムレラは狼狽える。
「えっ。で、でも、いつもあの生き物を狩ってるのよね!?」
「ええまあ。でもいつも遠くから大きな麻酔銃で狙い撃ちして、薬が効いて動かなくなったところで近づいて捕獲してるんですよ」
「遠くってどのくらい?」
「そうですねー。風があるようならちょっと近づきますけど、普通はあの岩位ですかねー」
 かなり遠くの岩を指さすガラチ。ガラチたちも目の覚めている巨大鶏に近づくことは滅多にないと言う。つまり、頼りになる訳ではないと言うことだ。
 話をするのが目的である以上、麻酔銃に頼ることは出来ない。撃ってからでは話など出来るはずもないし、麻酔も巨大な体に回るには結構な時間がかかる。何かあってから撃っても間に合わない。このまま近付き、何かあったらどうにか逃げる。それしか手がない。
「帰ろうか、ミルイちゃん」
 スムレラの逃げ腰に拍車がかかった。だが。
「えー。なんで?行こうよ」
 まるでちょっとお散歩に行くような軽いノリのミルイに、引っ込みがつかなくなった。そもそも、話をしてみないとと言いだしたのは自分だ。言い出しっぺである以上、強く制することは出来ない。行くしかないだろう。
 一方、ガラチも鶏絡みで気になっていたことがある。もちろん、中ツ国のあの妖怪のことだ。
 ちょうど、ミルイの肩の上にハヌマーンが乗っかっている。今のうちに聞くことにした。
「なあ、ちょっといいか?聞きたいことがあるんだが」
「なあに?いいよ」
「いや、ミルイじゃなくて、ハヌマーンにさ」
『なんじゃ』
 ガラチは中ツ国の妖怪のことをハヌマーンに話した。
「その声が巨大鶏の声とそっくりで、もしかして何か関わりがあるんじゃないかと思って」
『ふむう。そうじゃな。無関係ではないじゃろう。こっちの世界は神の世界じゃ。人も獣も、あらゆる生き物が強い力を秘めておる。その強い力が怒りや嘆きなどによって中ツ国にも作用することは多々ある。自然界の住人は、人間たちと違い二つの世界の記憶を共有出来るからの。こちらの世界での出来事、すなわち夢の出来事の憎悪を、こちらの世界でぶつけることもあれば、逆もまたある。特に、あちらの世界に肉体をもっていない場合はまさに物の怪と言ってもいい物になる』
 耳元で小難しい話をされ、ミルイが中ツ国に帰りそうだ。
「動物がよく祟るのって、それと関係あるのか」
『じゃな。恐らく、この世界にいる声の主を見つけ、怒りか悲しみの原因を取り除いてやれば、中ツ国での声も収まるはずじゃ』
 声の主はやはり、今そこで鳴いている鶏なのだろうか。
 どんな危険があろうと、スムレラがいかに後込みしようとも、あの鶏とは一度話をしないとならないようだ。

 エアシップは鶏の近くに降り立った。
 鶏が上に立つ岩は、それ自体が見上げるほどの大きさだった。あの岩の上にその巨体を持ち上げる位の力はあるということだ。
 鶏は岩の上で雄叫びと共に翼を広げた。飛ぶつもりか。元が鶏なので飛ぶ力はたかが知れている。まして巨体だ。とは言え、下に向けて飛び降りるくらいは訳も無い。
『ミルイ!呪文じゃ!』
「うん!“高天の原に光あり、昼と夜とを分け葦原のため水穂のため地を照らす光となれ”!」
 鶏が宙に舞った。それと同時にハヌマーンの体が見る見る巨大化する。巨大化したハヌマーンも鶏ほどの大きさはないが、ショルダータックルで迎え撃つと鶏は弾き飛ばされた。間一髪だ。
 ハヌマーンの言葉が聞こえるミルイやガラチはともかく、ハンターや、ことにスムレラは打つ手なしかと肝を冷やしていた。
 腰を抜かし、立ち上がろうとしてじたばたするスムレラをよそにミルイは叫ぶ。
「あたしはあなたとお話しがしたいだけなの!」
 それに呼応して鶏も叫ぶ。ミルイにはその言葉が聞こえた。
『地平線の少女か?だが、所詮は人間。話すことなどない!』
『分からず屋だのう。わしにも逆らう気か?』
 ハヌマーンがミルイと鶏の間に割って入る。
『聖獣どのか。これは光栄なことよ。だが、あいにく私は人の手で生み出された自然の摂理からも外れた存在。自然界の掟に従う気もない!』
『やれやれ、面倒じゃの。まあいいわい、結局どの世界でも最後にモノを言うのは力じゃ。かかってこい、若造。わしゃ青二才にはそうそう負けんぞ』
 ハヌマーンと巨大鶏は格闘を始めた。辺りは忽ちの内に立ち込める砂煙に覆い尽くされた。
 鶏はその嘴と足の鋭い爪でハヌマーンを狙う。歩みは緩慢だが、日頃から獲物を捕らえるために駆使している、鍛えられた頸の振りは侮れない。
 しかし、手足が使えて敏捷性でも勝るハヌマーンに、巨体を揺さぶりながら戦っていた鶏はいいように翻弄され、ほどなく疲弊し降参した。
『口ほどにもない奴じゃ』
『くそう……翼も持たぬ、大地にしがみついてしか生きられぬ猿に負けるとは……!我々をこのような無様な体に作り替えた人間共が憎い……!』
『待て。作り替えられなくても、お主らの一族は飛ぶことなどできんぞ』
『なんだと。そんな馬鹿な』
 どうやらこの鶏は自分が飛べないのも人間のせいだと思っていたようだ。鶏を見せてやればそれが事実であることが一目瞭然なのだが、こう信じ込んでいるものを言葉だけの説明で打ち砕くのは難しい。放っておくことにした。
「ねえ、鳥さん。何か困ってることとか、なぁい?」
 おとなしくなったところでミルイが語りかける。
『私を救おうというのか、地平線の少女。だが、生まれたことにすら絶望する、絶望しかないこの私を救えるものか。わずかな希望と言えば我が妻と子の事くらい。……だが、その妻の姿がしばらく見えぬのだ』
 我が子。今までにバイオビーストの卵が孵ったことはなかった。ただ一つを除いて。つい昨日、その一つを生んだ雌鳥の望みを聞いて屠ったところだ。まさかその旦那に会うとは。
「ねえ、もしかしてその奥さんって、昨日の……」
 ミルイも彼の探している妻が誰なのか気付いた。
『うむ。言いにくいのぅ。とりあえず、適当にごまかしてやり過ごしておくかの』
 小声でそんなやり取りをした後、ハヌマーンは鶏に向かって言った。
『それなら、お主らの仲間の狼たちが知っておるのではないかのう。なんとなくだが、そんな気がするぞ』
 狼たちはガラチらによって仕留められた鶏の骸を食らった。知らないはずはない。だから嘘はついていない。
『奴らに会ったのか。翼も持たぬ野蛮な四本足の犬どもだが、我が子には服従しておる。あのおぞましい牙と面構えはいけ好かんが、話を聞いてみることにしよう』
 そう言うと鶏は去って行った。
「け、結局何がどうなったの?」
 先程から腰が抜けたままのスムレラが聞いた。スムレラにはハヌマーンの言葉すら聞こえない。
 ミルイは鶏との会話をスムレラに伝えた。
「そりゃあ……話しにくいわねぇ。でも、それならますます今のうちにもっと話を聞いておくべきだったわね。事実を知ったら、もう何も話してなんかくれないわよ」
「でも、その鶏の巣はあっちの方にあるって事ですよね。そこに行けば話の通じる奴もいるんじゃないですか?」
 ガラチは鶏が去った方を指しながら言った。狼たちは鶏たちを仲間だと思い、行動を共にしているようなことを言っていた。と言うことは、その狼たちに話を聞きに行くと行って歩き出した鶏の向かう先に、鶏の仲間がいる可能性は高い。
「そうねぇ。あまり期待は出来ないけど……。ガラチさん。あっちには何があるか、分かります?」
「さあ。山脈があるって事くらいですかね。山脈を越えたらヴィサン軍に撃ち殺されても文句は言えないと言われているので、近付いたことはありません」
 そうでなくてもこの辺りは時折戦闘が起こる場所だ。ヴィサンもマハーリも目を光らせている。民間人など立ち入らない。スムレラでさえここに何があるのか把握していなかったくらいだ。
 ガラチたちも、あまり多くを知らないままこの地で狩りをしていた。軍人の案内で獲物となるバイオビーストの大まかな居場所に向かい、その近辺を探して獲物を見つけて狩る。その繰り返しだった。
 どこまで行っても似たような風景の荒れ地だ。今自分たちがどこにいるのかさえ知りようがない。自分の居場所を知るための情報と言えば、いつも遠くに見える山脈と、よく聞かされる“狩り場はもうヴィサン国の領土内だ”という警告だけ。どこに何があるのかさえ把握していない。そもそも、荒野以外に何もないのだが。
 ハンター達にとっても、あの山脈は未到の地。何が待っているのか、それは知りようもないことだった。


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