黄昏を呼ぶ少女

十話 夜を越えて

 日が沈みだし、夜祭りが始まろうとしている。
 今の時期、日は一年を通して一番長い。日が沈むまで待ちきれる訳がない。気の早い人達は、既に宴を始めていた。
 ミルイとポンは広場でナミバチ浜の村の人達を探した。ただでさえすごい人出だ。さらに、今日は皆おめかしをし、仮面を着けたり元の顔が分からないほどの化粧をしている人も多い。顔を見分けるのも一苦労だ。
 だが、化粧っ気の余り無い顔のヤネカチを見つけ、ナミバチ浜の村の人達の居場所を見つけることができた。
「あれっ、ミルイ?その顔どうしたの」
 一方、化粧バッチリのミルイとポンにヤネカチは驚いたようだ。
「お化粧よ、お化粧!」
「へえ。すごいや、大人みたいだね」
「うわぁい、おとなおっとなぁ〜」
 こんな浮かれた大人はいない。……と言いたいところだが、生憎今日は祭りの日。大人も子供も浮かれてない人の方が少ない。
 出掛けたまま帰ってこないと思ったら化粧バッチリで帰って来た二人には、大人たちも面食らったが、祭りのおめかしの手間がだいぶ省けて助かる。二人が来たらすぐに着替えさせられるように持参していた祭り装束だけを手渡し、着替えさせた。これで、二人とも完全に祭りらしい姿になる。
 宴が盛り上がり始めた頃、大母様により、夜祭りの開始が告げられた。もう既に、始めていない人がいない有様ではあるのだが。もっとも、大母様が始まりを宣言した夜祭りのメインは、それぞれの村による、神々や精霊達に捧げる歌や踊りなどの出し物だ。宴はおまけである。
 ナミバチ浜の村は例年通り、リジヤチの歌と若衆の勇壮な踊りだが、今年はそれだけではない。サプライズゲストとして、リジヤチの娘のポンもステージデビューするのだ。今風に言えば。
 ドブリがエムビシに選ばれているので、ナミバチ浜の村の出し物はクライマックスに近い後の方になる。どの村も出し物は音楽と踊りなのだが、中身は村によってさまざまだ。踊りが主体か、音楽が主体か。音楽は歌が中心か、鳴り物が中心か。鳴り物も、笛もあれば打楽器もある。踊りも、男主体の勇ましい踊りか、女主体の優雅な舞いか。どこも個性があり、見ていて飽きない。尤も、祭りの初めのころに選ばれた村の出し物は、皆飲み食いに忙しく見ている人は多くない。神々の目に届けばよいのだから、それでも別に構いはしないのだが。
 日暮れと共に宴席の方では酒も解禁になり、祭りは一気に盛り上がった。
 法律も何も無い時代だ。酒は子供にも振る舞われる。神の恵みである。むしろ、口にできないことの方がとんでもない。もっとも、貴重なものであるだけに子供に回せる分は一杯だけだ。
 それでも体の小さな子供たちはいい気分になる。この高揚した気分の中で、おいしい料理を食べ、歌や踊りに興じる。酒の力もあり、祭りの楽しさは子供たちにも強く焼き付けられる。そして、神々への感謝と尊敬の気持ちも育って行くのだ。

 この祭りのために用意された酒がすっかり無くなったころ、祭りもいよいよ盛り上がりが最高潮に達する。ナミバチ浜の村など、祭りに深く関わる村の出し物が始まるのだ。その前から、いつもその役割を競い合う力のある村の出し物が出て来ている。このような力のある村は、出し物も気合が入っていて、とても見応えがある。
 いよいよナミバチ浜の村の出し物の順番が回って来た。若衆を率いるドブリやリジヤチに混じって行くポンに、ミルイもついて行く。日頃お気楽なポンも、初舞台を前にさすがに緊張しているのか、顔色が悪くそわそわしている。
 だが、そんなポンもに思わず気合が入るような光景が目に入った。ナミバチ浜の村の前の前に獣の踊りを披露したササナミ森の村のガラチが、舞台裏の控えの小屋にいたベシラと仲良く話をしていたのだ。
 ガラチは舞台の上では毛皮を纏い、獣の顔の毛皮のマスクで顔を隠していた。そのため誰かは分かりにくかったが、改めて見てみれば、胸の入れ墨模様はガラチのものだった。
 土笛や土鈴の音色に合わせて大地を踏み締め天に跳ぶ、勇ましく力強い踊りだった。特にガラチらの見せた集団宙返りのときには喝采が上がったものだ。土笛は、ミルイたちがラズニにもらったものと似ていた。恐らくはこの祭りのためにいくつか作ったうちの失敗作をくれたのだろう。
 ベシラはそんなガラチの姿を見られなかったようだ。出番までここでじっと待機していなければならないらしい。当然、舞台を見ることもできなければ、宴の料理も食べることはできない。朝餉の後に身を清めると、踊りが終わるまで一切物を食べられないのだ。
「ガラチの踊り、見たかったなぁ」
 ベシラがつまらなそうに言う。それを聞き付けたポンがベシラにガラチの踊りの凄さを若干誇張気味に教えた。自分はあんたの知らないガラチを知っているのよ、と思いっきり勝ち誇った気分で。そんなポンの胸の内など知らぬベシラは、その話を聞いて純粋にガラチの凄さに感心している。
「見せてやろうか?」
 ガラチはそう言うと、踊りの中の連続宙返りをベシラのために披露した。しかも、舞台では見られなかった大技もいくつか見せてくれた。必ず成功する訳ではないので、もっと練習しないと祭りの踊りの中には入れられないそうだ。ベシラはガラチに惚れ直したようだ。それはポンも同じだった。諦めてスバポに乗り換えようという思いが揺らいでしまう。
 ガラチにうっとりしている間にポンの緊張もすっかり収まっていたが、リジヤチが出番が来るぞと呼びに来ると、また緊張が一気に盛り返して来た。
 若衆を送り出したドブリとともに、ミルイは舞台の近くで舞台を見守る。舞台と言っても壇がある訳でもなんでもない。ただ、四方に篝火が焚かれているだけだ。
 ナミバチ浜の村の出し物は、近隣でも屈指の歌い手リジヤチの歌に合わせた踊り。ササナミ森の村の踊りのような力強さはないが海の中を自由に泳ぐ魚を思わせる、軽やかな踊りだ。
 ポンはリジヤチの歌に合いの手のように入ったり、軽くハモったりする。いわゆるバックコーラスだ。さすがは近隣に名を轟かせる歌い手の血を引いているだけのことはあり、思わず聞き惚れてしまうような歌声だ。
 舞台はあっと言う間に終わってしまったようにミルイには感じられた。だが、舞台が無事に終わってほっとした顔ながらも、相当疲れの見えるポンにとっては、まるで永遠が終わったかのように感じるほど長い時間だったようだ。
「ポンちゃん、凄いじゃない。歌、うまかったよ」
 ベシラが笑顔で言った。舞台を見ることはできなくても、歌声はここにも届く。ポンとしてはその一言をベシラの隣にいるガラチに言ってほしかったのだが。
「初めての大舞台であれだけ歌えりゃたいしたもんだ。さすがは俺の子だぁ。あがるのも最初だけだ、そのうち、舞台の直前まで寝ていられるくらいになれるさ。俺みたくな!」
 全く緊張感のない顔でリジヤチがポンに言った。この後は、いよいよこの祭りのクライマックス。ベシラの踊りだ。ポンの舞台は、言わば一般参加のトリと言える。緊張もひとしおで当然だ。
 ようやく緊張からも解放されたポンとしては、腰を据えてもう少しガラチとベシラの邪魔をしていたかったのだが、リジヤチがさっさと連れて行ってしまった。ミルイも他の人と一緒に村の仲間の元に帰って行く。

 舞台の準備が整い、ベシラが出て来た。
 舞台には祭壇が置かれ、その上の器に特に神聖とされる露の酒が注がれる。酒壷の蓋につく露を集めた、貴重でとても強い酒だ。一言で言えば蒸留酒という奴だ。
 ベシラはしきたりに従い、露の酒を一息で飲み干した。口の中が、喉が、腹の中が焼け付く。大母様の祈りの言葉の後、いよいよベシラの踊りが始まる。
 両手両足に着けられた飾りがしゃらしゃらと鳴る。踊りはこの音を高く鳴らせるような激しい踊りだ。この踊りで神を呼ぶのである。
 ベシラはだんだん自分の意識が希薄になり、この体が神の物になっていくのを感じ取っていた。すきっ腹に強い酒を飲み、激しい動きをすればふらふらになるのは当然なのだが、人々はこれを神の仕業だと信じているのだ。
 ベシラは踊りの途中で倒れてしまった。悪いことではない。神が降りているのだから。クラシビは若い娘が選ばれるが、それは激しい踊りを踊る体力の問題はもちろん、酒に強くなり、酔い潰れにくくなってしまった大人では勤まらないのだ。
 ぐでんぐでんになったベシラは、大人たちによって控えの小屋に運ばれて行く。これで終わりではない。ここからがこの夜祭りのメインの神事と言える。
 神が降りた状態のベシラは、これから神託を述べるのだ。この神託に何の問題もなければ安心というわけだ。単なる酔っぱらいのうわごとなので、大概は何の問題もないわけである。
 だが。酔い潰れたベシラの言葉は問題無しとは言えなかった。
「助けて……兄ちゃん、助けて……怖いよぉ……」
 ベシラはうなされ、顔を顰めながら助けを求めている。
「これは……、どういうことだ!?」
「ただ事ではない、やはり災いは起こるのか!?」
 神降ろしに立ち会った人々は騒然となった。
「スバポ!これはどういうことだ?」
 近くで見守っていたガラチがスバポに詰め寄る。スバポはイスノイドネという重要な役目を背負ってこそいるが、文明の進んだ高天原の記憶のお陰で、この一連の儀式のからくりは分かっている。酔い潰れてうわ言を言っているだけ、と。それはガラチも同じだろう。
 ベシラは思ったよりも早く酔い潰れた。それほど酒に強くないようだ。クラシビにはまさにぴったりだ。今のベシラには完全に意識はない。このシチュエーションでこのようなことを言う理由。それは。
「悪い夢を見ている。それだけだろうな」
 だが、スバポには気になることがある。
 スバポのように勾玉をもっていれば二つの世界で記憶を共有することができる。他の人達も、記憶こそ持てないものの、意識は二つ世界を眠りによって行き来している。あちらで眠る前にスキタヤに聞いた話だ。
 悪い夢を見ているということは、あちらの世界で何かよくないことがベシラに起こっているのだろう。
 気にはなるが、スバポはあちらのベシラについては全く知らない。
 結局、ベシラはそのままぐっすりと寝入ってしまい、その晩は目を覚ますこともなかった。

 こうなるとガラチも逢い引きどころではない。騒ぎこそ収まったが、ベシラは酔いつぶれて眠ったままだ。
 スバポは一応ガラチと高天原でのことを話し合うが、お互い自由が利かない状況では、できるとと言えばミルイに伝えることを熟考すること、そしてガラチがミルイやスムレラに会えた後のことを考えるくらいだ。とはいえ、ガラチが加わったくらいで軍事施設のスバポたちを救出できるとは思えない。
「月読様が動いてくれればいいのだが……。敵がマハーリ軍だというのが難しいところだ。全く、何がどうなっているんだ」
 スバポが小さく呟いたとき、ガラチは何者かの気配を感じ、小屋の外に飛び出した。
「何だ、君か」
 そこにいたのはミルイだった。寝る前にスバポに話を聞きに来たのだ。
「今日はスムレラ様に伝えてほしいことがたくさんあるんだ。……ガラチの話の分もあるし、だいぶたくさんあるけど、覚えられる?」
「あっ。子供だからって馬鹿にしないで!あたし覚えるのは得意だもん。あの訳の分からない世界では覚えること一杯あるけど、結構どうにかなってるもん!」
 ミルイは口をとがらせた。
「じゃあ、いいかい。僕は今スキタヤ殿と一緒にマハーリ軍事施設の最上階で軟禁状態になっている。スムレラ殿のいる月宮殿の隣だ。とりあえず、すぐには手出ししにくいだろうから先にガラチと合流してほしい。ガラチは郊外のレーション工場で作業をしているそうだ」
 ミルイは部屋の隅で膝を抱えてうずくまってしまった。
「……わかんないよ、あたし子供だもん……」
「言わんこっちゃない……。とにかく、僕のことはいい。先にガラチと合流してほしいんだ。ガラチは郊外の……軍隊の食べ物を作る工場にいる」
「こうじょうってなに?」
「そ、そこから?まあ、平たく言えば物を作ったりする所だよ」
「ご飯を作るところにいるって言えばいいんだね」
 それでは確実に厨房に居る料理人だと取られる。ガラチに工場の名前を教えてもらい、それだけでも何がなんでも覚えてもらう方がいい。
「カムシュケしょくひんこうぎょうカムシュケしょくひんこうぎょうカムシュケしょくひんこうぎょう……」
 ミルイは工場の名前を舌を噛みそうになりながらいやと言うほど繰り返し、丸暗記した。この名前を間違えずに伝えられれば何とかなるはずだ。
「ううん。繰り返してたら眠くなってきた……」
 それはそれで都合がいい。忘れないうちに眠って夢の世界に行ってもらい、とっとと伝えてもらうに限る。
 ミルイを小屋に連れて行き、寝床の中で間違いなく名前を繰り返して居るのを確認し、その場を後にした。

 ミルイは目を覚ました。無機質で殺風景な部屋。高天原だ。
 ミルイはすぐに中ツ国で覚えた名前を反復してみる。バッチリだ。……多分。
 その声でベッドの下で丸くなって眠っていたハヌマーンも目を覚ました。
『何じゃその呪文は』
「ガラチっていう人がね、ここにいるんだって。スムレラ姉ちゃんに教えなきゃならないの」
『おお、そうかそうか。ようやく膠着状態から抜けそうじゃのう』
「こーちゃくってなに?」
『余計なことを考えるとせっかく覚えた名前を忘れてしまうぞ』
「うん、そうだね。カムシュケしょくひんこうぎょう、カムシュケしょくひんこうぎょう……」
『それより、その顔はなんじゃ。真っ黒じゃないか』
「えっ」
 ミルイは顔を触る。何か、ざらざらする。指が真っ黒になった。
「きゃあ。な、なにこれ」
 洗面所に向かうと、顔は本当に真っ黒だった。ミルイは慌てて顔を洗う。そして、顔を洗い終わってほっとした矢先。
「あああっ。な、名前忘れちゃった」
 おどおどするミルイ。
『確か、カムシュケ食品工業とか言ってなかったかの』
「あっ。そうそう、それそれ!」
 ミルイはその名前をまた繰り返した。
 とにかく、早くスムレラにこの名前を伝えなければならない。ミルイはスムレラの部屋に向かう。女子寮の中でも地位が高いスムレラは、部屋も最上階だ。もっとも、際立って部屋が豪華というわけでもない。ただ場所が高いだけだ。スムレラの部屋を開けようとするが、鍵がかかっている。チャイムを何度か鳴らしても返事がない。
『留守じゃな。あの姉ちゃんがこんな朝っぱらから出歩くとは珍しい』
「えええー。こ、困ったなぁ」
『それなら月読に伝えてみてはどうじゃ?この時間なら執務室におるはずじゃ』
「月読のおじちゃんだね?うん、行ってみよう!」
 女子寮を出、月宮殿を目指す。歩いてもすぐだ。月宮殿はちょうど出勤ラッシュ、人がぞろぞろと歩いている。
 守衛も今度は顔を覚えていたようだ。
「月読様に用かい?」
「うん」
『その通りじゃ』
 ミルイとハヌマーンはそろって頷く。
 守衛の案内で月読の執務室に連れて行ってもらった。月読は執務室で書類に目を通しているところだった。
「どうしたんだい、ミルイ」
「あのね。スムレラ姉ちゃんにいわなきゃならないことがあるの」
「スムレラか。それなら今少し調べ物をしてもらっているんだ。伝えることがあるなら聞いておくよ」
 月読はメモの用意をした。
「あのね。勾玉を持ったガラチっていう人の居場所が分かったからそこに連れて行ってほしいの。えっとね」
 ミルイはそこで言葉を切る。と言うか、言葉に詰まる。
「わ、忘れちゃった……また忘れちゃったよぉ。どうしようー」
 泣き出すミルイ。
『カムシュケ食品工業、じゃ』
「そ、そうそうそれ!カムシュケしょくひんこうぎょう!」
『危ないのう……』
 ハヌマーンが覚えていなかったら大変なことになっていた。
 月読がしっかりメモを取ってくれたのでもう安心して忘れることができる。ついでに、他に覚えていることも伝えておくことにした。
「あとね。ずっと探してたスバポ兄ちゃんは、げっきゅーでの隣のぐんじぜつの一番上でスキタヤ兄ちゃんと一緒になんきんとか言ってた」
 重要な単語の多くがまともに言えてないが、ニュアンスは月読にも伝わった。
 月宮殿の隣の軍事施設の一番上にスキタヤとともに軟禁。
 今、茶でも飲んでいたら盛大に吹き出していただろう。
「た、確かにそう言ったのか!?」
 思わず声をあらげて詰め寄る月読。
「えっ。よ、よく覚えてないから大体だけど」
 月読の驚きように、ミルイもびっくりして腰が引ける。
「待て。今スムレラ君を呼び戻す」
 月読は慌てた様子で電話をかける。
「スムレラ君。すまんが大至急きり上げてきてくれんか。……今はそれどころではない。……そうだ。大至急だ」
 電話をかけて数分。いそいそとスムレラが入ってきた。緊張した面持ちで駆けつけたスムレラだが、ミルイの姿を見て気が抜けたようだ。
「もしかして、緊急の用ってこの子のことですか?」
 月読にそう尋ねるスムレラだが、月読の表情の険しさから、そんな呑気な話ではないなと感づいた。
「ミルイが持ってきた話だ。勾玉を持つ者二人の居場所が分かった。一人はカムシュケ食品工業と言う所に。もう一人は……スキタヤ殿と一緒に隣の軍事施設にいる」
「本当ですか!?すぐに迎えに行きます!」
 スムレラの表情が明るくなるが。
「だがな……軟禁状態らしい」
「な、軟禁ですか!?」
 スムレラもさすがに面食らった。そして、窓から隣の軍事施設をまじまじと見る。
「ねえ。隣って、ここの隣なの?」
『そうじゃな。月宮殿はここじゃからなぁ。隣の軍事施設、それも間違いなくあの建物じゃ』
 ミルイとハヌマーンがひそひそと話す中、月読とスムレラの緊張したやりとりが続く。
「そういえば、昨日スキタヤ氏に同行した後、オコクセ最高司令官が呼び出していると迎えが来ていましたね。その後、スキタヤ氏の姿は見ていません。それに、スウジチ殿の話によれば勾玉の反応はこの政府中央のエリアに在ったと……。かなり、信憑性のある話だと考えられますね」
「軍もこちらに渡す気があるなら、もう話くらいは来ていて当然だ。それがないということは……。おそらく、軍に引き渡しを要求してもそのような人物はいないと突き返されるだけだろう。むしろ、軍にこちらが情報をつかんでいることを知られて、手の内を晒すことになる」
「では……しばらく様子を見るしかないですね。せめて、本当に最上階にとらえられているのかどうかの確認だけでもできれば……」
 困り果てる二人をよそに、ハヌマーンがミルイに耳打ちをした。
『嬢ちゃん。わしに考えがあるんじゃが……伝えてくれんか』
「あのね。おさるさんが何か話があるって」
 ハヌマーンは、見ての通りの小さなおさるさんだ。目立たないし、身軽である。そこで、軍事施設の外壁をよじ登り、最上階の様子を見てこようという提案だった。
「施設周辺を監視するレーダーはあるが、それはあくまでも人間を感知するもの。小動物ならば見落とすかもしれん。頼んでみようか」
 早速、ミルイは軍事施設の敷地の近くにまでハヌマーンを連れて行く。
『それじゃま、軽く朝の運動と行くかの』
 ハヌマーンは身軽に軍事施設に駆け寄り、外壁のパイプを伝って、するすると最上階を目指し登っていった。

 その頃、ハヌマーンがよじ登る塔の最上階で、スバポも目を覚まし、スキタヤに中ツ国での話をしながら朝食をとっていた。
 出された食事は、軍隊が前線で携帯しながら戦闘に臨むレーションだ。野戦に出ることのないスバポには無縁の代物だと思っていたが、まさかこんな形で口にすることになるとは。一応レーションのメーカーを見てみるが、ガラチのいる場所ではなく、聞いたことのないメーカーだった。
 この部屋にはレーションが数日分運び込まれている。当分ここから出す気は無さそうだ。
「昨日話し合ったこと、ミルイには一応伝えました。ただ、ちゃんと伝わっているかは……」
 話を聞くスキタヤの視界の端で何かが動く。
「少なくとも、我々の居場所くらいはちゃんと伝わったようだな。偵察が来ている」
 スバポは驚いて振り返る。別に、窓の外に何かが見えるわけでもない。いや、よく見ると、何か小さな生き物が窓を覗き込んでいる。スキタヤが窓に近づくと、窓から中を覗き込んでいた白い小さな頭は引っ込んだ。
 スキタヤは窓を開ける。換気のために、腕が通る程度には開くようになっているのだ。とは言え、腕を通すには椅子でも窓の下に置いて踏み台にしなければならないだろうし、こんな隙間では子供ですら到底出入りできない。だが、手に乗るような小猿なら容易く出入りできる。部屋の中にハヌマーンが入って来た。
 ハヌマーンはキョロキョロしながらスバポに近づく。スバポは手に持っていたレーションを千切り、口笛を吹いて呼び寄せる。ハヌマーンはレーションのかけらを受け取り、両手で持って臭いを一頻り嗅いだ後、投げ捨てた。
『いいもん食っとらんのう』
「ななななんですかこのしゃべる猿は。マハーリ軍もバイオビースト研究を?」
 いきなりしゃべり出した猿に驚いたスバポは、スキタヤに助けを求めた。
「彼はハヌマーン、ミルイが連れている聖獣だ。私はその言葉を聞くことはできないが、勾玉を持つ者は聞くことができる。聖獣には勾玉を持つ者たちと自然界の橋渡しという役割もあるからな」
『よく知っておるのう。おっぱいばかり大きくて物知らずなねーちゃんに、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわい』
「お、おっぱい?」
「スムレラ殿のことか?」
 スバポが思わず口走ったおっぱいだけでスムレラについて話していると見抜くスキタヤ。
「とにかく、せっかくこうして偵察が来たのだ。手紙でも書いて持たせよう」
 スキタヤがそう提案した。
『むぅ。下でミルイが待っておる。あまり時間をかけて心配させてもいかんし、わしもミルイがふらふらして軍に見つからんかが心配じゃ』
 スバポを介してその言葉を聞いたスキタヤは、手紙は書いておくので後で取りに来てほしいと伝えた。

 ハヌマーンの言い付けどおり、物陰に身を潜めて待っていたミルイ。そろそろ心配と退屈が臨界に達しようとしていたとき、上から降りて来るハヌマーンの姿を見つけた。
『待たせたのぉ。月読殿とスムレラに報告に帰るぞ』
 早速、月読の執務室に向かうミルイ。
 月読もスムレラもそこにはいなかった。代わりに、スムレラの部下の秘書がミルイについての伝言を受けていた。ここで待つか、急ぎで重要な用があるなら資料室にいけばスムレラがいるらしい。
 待っていてもすることがないので、資料室に行ってみることにした。多分、この用件は重要だと思う。
 資料室ではスムレラがコンピュータの前でモニタとにらめっこをしている。にらめっこと言っても難しい顔で、笑う様子はまるでないが。
「あ。ちょうどよかった」
 ミルイに気づいたスムレラが声をかけて来る。
「ミルイちゃんの言ってた仲間がいるところって、カムシュケ食品工業よね?」
「う、うん。多分そんな名前。カムシュケまでは間違いないよ。終わりの方がちょっと不安」
「後半かぁ。後半は特に間違って無さそうよねぇ。……他に、その場所について何か聞いてる?」
「えっとねぇ。なんかご飯を作るところなんだって」
「それなら食品工業で間違いないわね。……いくら調べても見つからないのよ、その会社。登記の資料を過去にまで溯って調べてるんだけど。……他の国ってことはない?」
「マハーリだって言ってたよ。この国のことでしょ、マハーリ」
 ミルイもそのくらいは覚えたようだ。
「うーん……この国よねぇ……」
 困り果てたところに、ハヌマーンが口を挟む。
『登記されていないということもあるんじゃないかの』
 ミルイはハヌマーンの言葉をよく分からないまま伝える。
「まさか。……いや、実体の無い企業や非合法な活動をしているなら有り得るかぁ……。でも、聞いた話から察するに、どう考えても軍需よねぇ。そんな不正規に運営された企業が軍需を扱える訳がないんだけど。……いや、今の軍部を信用することはできないわね」
 ミルイには何を言ってるのか理解できない。
 少し考えた後、スムレラは資料室を飛び出し、自室に戻ってネットにつなぐ。セキュリティ維持のため、政府や軍部のネットは外部に繋がっていないのだ。ミルイもその後に付いていった。その道すがら、スバポやスキタヤの様子を伝えた。とにかく、手紙が書き上がった頃合いにもう一度行くのが無難だ。スムレラは月読にも電話でそれを伝えた。
 それはさておき、ネットで食品工業を探す。国外には同じ名前の大きな企業がある。そのイメージもあるためか、その名前を改めて使おうという企業は無く、同名企業が存在しないようだ。
 とは言え、見つかった情報を国内に絞り込むと、一気に数が減る。その同名の大企業は、マハーリ国内での知名度はかなり低い。スムレラも今初めてその大手企業の存在を知ったくらいだ。無理もない。
 国内での情報も、多くはその他国の大企業の製品についてなどだったが、ようやくマハーリ国内に存在する食品工業についての情報を見つけることができた。
 それは『俺は荒野を吹き抜ける風』と言うタイトルの個人運営のサイトで、暴走野郎の暴走日記だった。何ともよろしくないけしからぬ話だが、救いは町中で人様に迷惑をかけるのではなく、何もない町外れの荒野をフルスピードで駆け抜けるのが趣味だというところだ。
 自分を雷神と呼ぶその男は、いつも通り荒れ野を砂塵を巻き上げながら突っ走っていると、何もない荒れ野のただ中に何かが建造されているのを見つける。周りに道もないのに何が作られているんだ、と言いながら時折建造の様子を日記に記している。この工場が建てられていた時期は割と最近、半年ほど前の話だった。
 その後、簡単な造りのためにみるみる工事が進み、工場も完成した。彼は一度、何の気無しに間近で見に行った。そこで、その工場が食品工業であると知る。こんな所に食品工業かよ、何もない辺鄙な場所で空気がきれいだからか?空気なら生憎荒野を吹き抜ける風ことこの俺が巻き上げる砂塵でちょっと汚れてるけどな、などと書いた後、一気に興味を失ったらしく、いつも通りの暴走の日々に戻った。ところで、なぜ俺は風だと言いながら、雷神を名乗っているのだろうか。風神と名乗ればいいのに。
 日記は数ヶ月前に何の前触れもなく更新が止まっている。その理由は……考えない方がいいような気がした。
 とにかく。彼が自分の庭のように走り回っていた荒野は、言うまでもなく首都の西に広がる荒野だ。その荒野のただ中、道からも外れた辺鄙な場所にぽつんと佇む建造物が、スムレラの探す食品工業なのだ。

 軍が定期的に撮影する航空写真は、今回はあてにできない。郊外の荒れ野など、数年に一度撮影すればいい方だし、この施設には軍が関わっている可能性もある。
 大まかな場所は分かったことだし、あとは自分の目で探してみるしかないだろう。となれば行動あるのみだ。
 出発する前に、もう一度ハヌマーンをお使いに出してスバポたちの手紙を受け取ってもらうことにした。そして、月読の提案で、ハヌマーンに無線機を持たせて届けてもらうことにした。小猿のハヌマーンが持てる程度の小さなものだ。それでも、隣の月宮殿との連絡くらいは取れる。
 ハヌマーンは無線機を紐で結わえ付けられ、再びパイプを伝って塔を登っていった。
 窓から覗き込むハヌマーンに気付いたスキタヤは窓を開け、招き入れた。
 ハヌマーンは月読に持たされた無線を手渡す。
「ありがたいが、ここは監視の厳しい場所だ。不審な電波が発せられれば、感付かれるかもしれない。これはいざと言うときまで仕舞っておくことにしよう」
 そう言いながら、スキタヤは無線機を隠した。替わりに手紙を持たせ、送り返す。
 手紙には二人の状況と、作戦はガラチが見つかることを想定して練り直すということが書かれていた。さらに、中ツ国でミルイが覚え切れなかった、スバポが聞いたガラチに関する情報も書かれていた。スムレラが必死になって調べたことが合っていたという確証が得られた程度の情報ではあったが、確証が得られただけ前進と言える。
 この手紙を月読に届け、スムレラはミルイを連れてガラチを探しに出発した。

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