黄昏を呼ぶ少女

六話 獣たちの目覚め

 マハーリ軍作戦会議室。そこで、スキタヤは今日にも行われるだろうヴィサン軍の作戦を説明していた。
 スキタヤは確かにヴィサン軍でも重要な地位にあった人物、それだけに軍事機密をたくさん知っている。だが、昨日までそのヴィサン軍にいた人物が、突然掌を返してこちらに寝返ったなどという話を信じていいものか、マハーリ軍部にとまどいがあるのも事実だ。
 今話しているこの作戦も、もしかしたらマハーリ軍を誘い出すための罠かも知れない。士官達はスキタヤの話を、複雑な心境で聞いていた。
 スキタヤの述べていた話は、要約すると概ねこんな話だ。
 ヴィサン国内では現在、養成が簡単で使い捨て易い動物を使った作戦が進んでいるという。ただの動物ではなく、遺伝子操作により狂暴化、巨大化した凶悪なバイオビーストだ。さすがに銃器による攻撃にまでは耐えられないため、前線投入は現状では難しい状況だと言うが、都市部に投入して混乱を誘う作戦に使い始める準備が進んでいるという。
「私は直接その作戦に加わっている訳ではないので詳しい日時や内容までは聞き及んでいない。だが作戦の遂行に向けて準備が進められてきた。恐らく今日明日にでも投入が始まるはずだ」
「それを信じるとして、だ。そのバイオビーストとやらはどれほどの脅威になるのかね?」
 参謀の一人がスキタヤに問う。スキタヤはそちらに顔を向けた。ただ何気なく目線を向けただけだが、視線を受けた参謀は思わず目を逸らした。何やら凄まじい威圧感がある。
「先ほど述べたとおり、私はこの研究に携わった訳でも作戦に関わった訳でもない。投入を決定したということはその研究がそれなりの成果を得たのだろう、としか言えない。もっとも、今回投入されるものは初期の実験で生み出された『試作品』だと聞いている。兵器としての威力は期待していないらしい。言ってみれば処理に困った実験動物を捨てると言ったところだ。まあ、化け物を町に投げ込まれればパニックにはなるだろうがな」
「にわかには信じ難いな。だが、それが本当であれば市民にそのことを秘匿しておくのは奴らの思いどおりに事を運ばせることになる。かと言って、この話が嘘であれば誘いに乗って流布して悪戯に市民を混乱させるだけだ」
 そう言い、参謀はちらりとスキタヤを見た。スキタヤは疑われることも予測していたと見え、特に動じた素振りはない。スキタヤは逡巡することもなく次の言葉を吐き出した。
「深く考えることはない。いるはずのない怪物が突然目の前に現れるからこそ、この作戦は意味がある。まずはヴィサンがそのような生き物を開発している可能性があるとだけ知らせればいい。その後であれば見慣れない化け物が現れても巨虫が町に紛れ込んだのと大差はない」
「なるほど。確かにそれならばリスクは少ない。どうやら貴殿のことも多少は信用して良さそうだ」
 参謀は満足そうに頷いた。
 このような情報がもたらされた以上、のんびりと会議を開いている暇は無い。政府は即行動を起こし、放送などを通じ情報を発した。
 同時にヴィサン方面の監視をより強化するように発令した。

 そのころ、スバポの乗ったエアシップもマハーリに到着していた。
 到着と同時に、待っていた士官に案内を受けた。取り急いでいるとの話を聞き、何かが起ころうとしていることを感じた。
 オペレーションルームでは多数のオペレーターがモニターに見入っている。ロッシーマの基地とは比べ物にならない規模、そして設備だ。
 ここでの上官になるらしい人物が進み出て来た。
「警報が出たので急がせてしまったが、大事ではなかったようだ。作戦は予定通り行われる。君の席に案内しよう」
 空いていた席にスバポが案内された。目の前には真新しいオペレーションマシンが鎮座している。自分たちが使っているものと同じシリーズだが、当然最新鋭の機種だ。
「さっき届いたばかりの話なのだが、ヴィサンに怪しい動きがあるらしくてな。今日明日にでも動きがあるかもしれん。来たばかりなのに慌ただしくて済まないが、敵もこちらの事情など酌んでくれるはずもないからな」
 スバポは席に着いた。不慣れな新型のオペレーティングマシンであることを考慮して、操作の説明があった。機能が複雑になった一方、操作はかなり簡略化されており、慣れさえすればいつも使っているマシンより扱いやすそうだ。
「機械がよくなって扱いやすくなったお陰でオペレータはすぐに見つかるんだが、優秀な人材が育ちにくくてね。進歩するのも善し悪しだ」
 冗談なのか本音なのか分からないことを言い、上官は自分の仕事に戻っていった。
 スバポの仕事は今回の作戦のために前線基地に駆り出されたマハーリ軍部のオペレータに代わり、マハーリ軍司令部のオペレーションを行うことだ。前線が頑張っていれば敵がここまで攻めてくることもないので、ある意味楽な仕事と言える。ただ、もしものときの対処が出来るような人物は出払ってしまっている。だからこそスバポがここに呼ばれたのだ。
 スバポの他にも同様に臨時で招集されたオペレータが何人かおり、制服の異なる人物がモニターを見ている姿が見受けられる。そして、広いオペレーションルームにずらりと並んだマシンのほとんどに誰も座っていなかった。かなりガランとしている。
 こうして呼ばれたオペレータではスバポが一番最後の到着だったようだ。もっともスバポのいたアギ国とマハーリの距離を考えれば当然と言える。ここの人が既にあらかた出払ってしまっているのもそのせいだろう。
 これ程までに人を投入する今回の作戦について、スバポは細かい内容までは知らされていない。作戦の決行が決まったのが一昨日で、昨日はその準備のためにてんやわんやだったとは聞かされている。
 スバポがレーダーからのデータに目を走らせていると、先ほどの上官がまたやってきた。
「指令だ。先ほど連絡のあったヴィサン軍の作戦の件で、ヴィサン国境の監視を強めることになった。監視シフトを3に切り替えろ」
「了解!」
 地域ごとに微妙な差のある敬礼が返され、速やかに監視シフト3に切り替えられる。といっても、マシンを少しいじるだけだ。その後は今まで通り、データとにらめっこしていればいい。
 ヴィサン国とマハーリ国は国境を接した隣国だが、マハーリの国土は広く、周辺は荒野となっている。特にヴィサンが反旗を翻してからは、国境に近づくものは多くない。そのため、国境付近は前線基地と監視所に監視を委ね、ここでは人の住んでいる地域の周辺だけを監視するのが通常だ。だが、今回はバイオビーストを放す、投棄するというのが目的であるため、人のいない地区に投下される可能性もある。そのため国境付近の監視を強化した。それが監視シフト3だ。
 いずれにせよスバポ達の仕事は送られてくるデータに異変があった時に知らせること。それまでは見ているだけでいい。
 ただ、事態が事態だ。予定では臨時補充要員で、現在マハーリ軍が行っている作戦が終了するまでの二、三日座っているだけでいいはずだったが、どうもそう暢気には済まなそうだ。

 スムレラに連れられたミルイがショッピングから帰ってきた。
 二人と一匹はヴィサンがバイオビーストを開発し放ってくるかも知れないという放送をエアカーの中で聞いたが、特にこれと言った興味を示してはいない。
 ミルイの部屋に戻ると、スムレラは早速買ってきたミルイの服を並べた。経費で落ちるので子供服にしては大奮発したものを買ってきた。日頃自分の着るものでは、奮発しても人並みよりちょっといいくらいのものしか買えない。スムレラの給料はあまり高くないのだ。
 政府機関に働いているのだから給料もいいのだろうと民間からも思われているのだが、そんな事はない。この政府中央の月宮殿で働いている職員の給料はかなり安く、一般的な会社員よりも安い。職員の間では『月宮殿だけに月給出ん』などというギャグにため息混じりの笑いがこぼれる有様だ。ギャグ以上に懐が寒いのだ。
 そんな暮らしをしているスムレラなので、大奮発といっても世のセレブからは鼻で笑われそうなものではある。そもそも、スムレラが行った店からして、あくまで庶民のための店だ。たかが知れている。
 そんなたかが知れた服を並べてうっとりしているスムレラに、ミルイがふと気になったことをぶつけた。
「あたしが今着ているこの服って、誰がくれたのかなぁ」
 そんなことを言われても、スムレラだって分かる訳がない。
「この世界に来たとき、いつの間にか着てたの。元の世界に戻るといつもの服に戻ってるんだよ」
「そうなの?……そういえばミルイちゃんはこの世界には知り合いっていないの?」
「ええっとねぇ……。あっ、この人っ」
 ミルイはスムレラの後ろを指さした。
「えっ?」
「ミルイの服を選んで買って来たのは私だ」
 スムレラが振り返ると、そこにはいつの間にか思兼神のスウジチの姿があった。
「ぎょええええー!あんた誰っ!?どこから入って来たの!?ここは女子寮よ!男は出て行きなさい!」
「む、そうなのか!?誰かくると困るので騒がないように。全く、とんでもない場所に出て来てしまったものだ」
 女子寮と聞いてスウジチも些か慌てるが、とりあえず落ち着くことにした。スウジチが思兼神であることを告げると、今度はスムレラの方が慌てて畏まった。
「とりあえず、まだ勾玉を持つ者には出会えないようだな」
 スウジチはミルイに向き直る。
「うん。スバポ兄ちゃんが近くに来ているみたいだけど、どうすればいいのか分からないの」
「焦らずともよい。勾玉は呼び合い、持つ者同士をいずれ引き合わせる。時を待てば必ず巡り会えるだろう。スバポ殿が近くに来ているのもその証しだ」
 スウジチはスムレラに向き直る。
「月読殿の秘書官のスムレラくんだな。まあなんだ、その……とにかく話は窺っている」
 何の話を窺っていたのか、目線がちらりと胸元に行った。スムレラは特にそれに気づいた様子はない。
「先ほどの話だが、今回のことは全てが私に一任されている。その服の準備のような雑務も例外ではない」
 スウジチはここで一旦言葉を切った。
「但し、誤解のないように言っておくが、服を着せたのは天照様だ」
「はあ。そうですか」
 スムレラは、気持ちは分からないでもないがそんなに息巻いて言うことじゃないなとひそかに思う。
 言いたいことは言ったためか、気が付くと既にスウジチの姿はなかった。二人は呆気にとられながらスウジチが今いた場所を見つめていた。

 その頃、スバポの監視していたモニターに、不審な飛行艇の姿が捉えられていた。
 場所は国境付近、岩が露出した荒れた土地が広がり、特に人気のない地帯だ。そのような場所であるため監視の目も甘く、飛行艇も地面ぎりぎりの場所を低空で飛行していたため、発見が遅れた。
 スバポは急いで警報を鳴らした。それと同時にその飛行艇のデータがみるみる解析されていく。
 船体に見覚えのある紋章を確認した。明らかにヴィサン国の飛行艇だ。大型の輸送機か。護衛機などの姿は見当たらない。
 この船の情報は速やかに軍部の総司令に伝えられる。対処も速やかにとられた。近隣の基地より攻撃機が飛び立ち、程なくスバポのモニターにもその姿が入ってきた。
 攻撃機が近づいても、ヴィサンの飛行艇はまったく動じた様子もなく、軌道を変えることさえしない。
 戦闘中の国から来た遠慮の素振りもない飛行艇に容赦などしない。機関砲による攻撃が加えられる。飛行艇の機体に無数の小さな穴が空いたが、それでもまったく動じる様子もない。
『こちらト・ワ297、不審船に対し通信を試みるも応答無し!』
 攻撃機からの通信。そこに、司令部からの応答が入る。
『敵艦は兵器を搭載している様子はあるか?』
『そのような様子はありません!』
『爆薬を積んで都市部に船ごと突っ込ませるつもりかもしれん。人の住んでいない地域にいるうちに速やかに撃ち落とせ!』
『了解!』
 エンジン部分に執拗な攻撃が加えられ、飛行艇のエンジンが遂に沈黙した。飛行艇は地面に吸い込まれるように墜ちていく。地面に叩きつけられた飛行艇は、小規模な爆発を起こした。墜落した飛行艇が起こす爆発にしては不自然だ。規模が小さすぎる。燃料に引火してもっと激しい爆発になってもおかしくない。燃料がいくらも入っていなかったのだろう。それに、予想していたような爆発物も積まれていなかったようだ。
 その小さな爆発により、船体は二つに折れた。折れた船体から、無数の影が飛び差してくるのが見えた。
 スバポは急ぎその影を追跡した。カメラの視点が目まぐるしく動く。大きな飛行艇。その大きさも手伝ってその影は小さく見えた。だが、影そのものも相当な大きさのはずだ。動きが速く、その姿までは捕らえきれない。
『何か馬鹿でかい動物です!馬鹿でかい動物が散らばって行きます!』
 攻撃機からの通信。攻撃機のパイロットはその姿を目で捕らえていた。犬のような姿だとはいいながら、あれほどの大きさの犬がいるはずもないとも言った。
 スバポにはその大きさは小さな小屋程もあるように感じた。あれが犬であるはずがない。
 だが、上官はそれほど驚いた様子もない。上官は司令室としばし通信し、訝るオペレータたちにヴィサン軍の今回の作戦について説明した。
 バイオビースト。その説明でスバポは納得出来た。
 一方、その知らせをいざ受け取って泡を食ったのは司令部だった。小屋ほどと言う大きさ、二十匹はいそうなその数。どちらも司令部の予想を逸していた。
「作戦を中止させろ!至急バイオビーストの対処に兵を回せ!」
「もう作戦は実行に入っている!いまさら中止させるよりは作戦終了後に向かうように指示を出した方がいい!」
 司令部は混乱に陥った。スキタヤにとっても、このヴィサンのバイオビーストの規模は意外だった。ただ、マハーリの司令部ほどの驚きはない。スキタヤが最後に手にしたバイオビーストの資料でもこれに準ずる大きさまでは報告がされていた。それより少し大きなものが生み出されていても何ら不思議はない。
 混乱する司令部を横目に、スキタヤは歩きだした。

 マハーリ軍部は緊急に警報を発令した。のんびりとテレビを見ていたミルイとスムレラは、音楽番組から突然切り替わったニュース映像に面食らった。
 その内容からただ事ではないと判断したスムレラは急ぎ月読の元へ駆けつけた。
 ミルイはニュース映像の前に一人取り残された。言うまでもなくバイオビーストの様子を伝える映像で、巨大な狼らしい生き物が群れを成して歩き回っている様を上空より捉えたものだった。周りに見える木がまるで植え込みの潅木のようだ。中継機の影がゆっくりとその群れの中を過って行く。それなりの大きさがあるはずなのだが、まるで鳩かカラスの影が過ぎっているのかとしか思えない大きさだ。
 恐ろしい映像に、レポーターの大袈裟な煽り文句。肩の上のサルを除けば一人で見ていたミルイは怖くなって来た。ハヌマーンにリモコンの使い方を教えてもらってテレビは消したが、まだ一人の部屋は落ち着かない。
 スムレラを探し、ミルイは女子寮を後にした。ミルイに探す宛てがあるわけなど無い。それどころか、まだ女子寮の中も憶え切れてはいない。
 しかし、ハヌマーンはうろ覚えながら月宮殿の造りを憶えてはいた。少なくとも、自分がいた月読の官邸の場所くらいはしっかりと憶えていた。
 だが、そこに入り込むのは容易い話ではなかった。ミルイのことについては月宮殿の中でもごく一部の人間しか知らない。だから、ミルイを見ても何でこんな所に子供が、と追い返されてしまう。
 月読の部屋に入ったことがある者なら、その肩に乗った小猿が月読の部屋にいるはずのハヌマーンであることに気付いたかも知れないが、あいにく入り口の守衛に月読の部屋にまで入ったことのある人物は居なかった。
 そのままミルイが追い返されそうになった時、見覚えのある人物が近づいてきたことに気付き、ミルイは体を硬くした。ミルイのそんな様子に気付いた守衛達は、更に身を硬くした。
 通りがかったのはスキタヤだったのだ。
「こんな所で何をしている」
 スキタヤは場違いなところにいるミルイに疑問を投げかけた。
「あのっ、月読さんの所に行きたいの」
「そうか。奇遇だな。私も丁度月読殿に会いに行くところだ。ついて来たまえ」
 固まったままの守衛達の間を悠然と通り抜けていくスキタヤ。ミルイも急ぎ足でその後に続く。
 スキタヤは悠々と月宮殿の中を闊歩する。元敵国の将校で、寝返った現在も当然ながら軍ではそれほど高い地位にいるわけではないスキタヤだが、月読から直々に『特別な事情』と言うことで月読との直接面会が許されている。そのため、スキタヤの行く手を阻もうとする者はいない。月宮殿の内部の人間にも、直接面会が許されている理由はまったく想像もつかない。事情を知っているのは月読を含め、ほんの数人なのだ。
 そんなスキタヤと、小さな女の子という取り合わせを不思議そうに見つめる職員達の視線をくぐりながら、月読の部屋に辿り着いた。
 守衛からスキタヤが向かっていると言うことは聞かされていたので、月読にもさほど驚きの色はない。
 むしろ、後ろにくっついてきたミルイに、月読と一緒にいたスムレラが驚いた。
「ど、どうしたの?何で連れてこられたの?」
「私が連れてきたわけではない。ここの前で守衛に留められているところに出会し、ついて来ただけだ」
「そ、そうでしたか。ごめんなさい」
 スキタヤには特に気に障ったような様子はないが、スムレラはなんとなく恐縮してしまう。イメージがイメージだけに、普通に喋るのさえ怖いのだ。
「どうしてここに来たの?」
 スキタヤを気にしながら、改めてスムレラはミルイに尋ねる。
「うん、一人じゃ怖くて……。なんか大きな狼が走ってた」
「ああ、ニュースの話ね。大丈夫よ、あれはテレビだから狼が飛び出してなんか来ないから」
 そんなミルイとスムレラのやりとりを横目で見ていたスキタヤが、月読に向き直る。
「先ほど、軍事会議で現在行われている作戦について聞かされた。彼らにも話したが、恐らく彼らがターゲットとしているのはまさにバイオビーストの研究施設だ」
 スキタヤは先ほどの会議の中で、マハーリ軍が遂行中の作戦について詳細を聞かされた。ヴィサン側も、国境付近には荒野が広がっている。その荒野に数ヶ所の軍事施設があり、今回の作戦はその施設を攻撃する作戦だった。
「あの施設群は、外部からの攻撃よりむしろ中の生き物が暴れることを考慮して頑丈に作られている。だから今回の作戦でも内部にまで大きなダメージを与えることはできないかも知れない。だがむしろ、外側だけが中途半端に破壊されるようであれば面白いことになるかも知れん」
 スキタヤは一瞬だけ口元に笑みを浮かべた。冷たく残忍な笑みだ。誰もその真意を読み取ることはできない。
「それはともかく、私も直接は関わっていなかったバイオビーストプロジェクトについては詳しくない。どうせ軍部にいても仕事が与えられるわけでもないし、暇つぶしにヴィサンが行ってきた研究の成果とやらを見てみたいのだが、さすがにナグルファルを飛ばすわけにはいかない。あの船を使っていては事情の知らないマハーリ軍には敵だと思われるのが関の山だろうし、ヴィサン軍だって血眼になって探しているところだ。見つかればどちらにも撃ち落とされかねない」
 ナグルファルとはスキタヤが奪ってきたエアシップだ。
「頭の固い軍の連中は気前よく船を貸してくれる気はないようでね。適当なエアシップを見繕ってもらえればいいと思い訪ねてみたんだが」
 かなり厚かましい頼みではあるが、こんな事でスキタヤの神経を逆なでしたくないという月読の思いもある。月読は非軍事用のエアシップを一機用意した。
「このままヴィサンに帰られても困るから、操縦桿を握らせるわけにはいかん。スムレラ君、頼むぞ」
 月読はスムレラに命じた。
「ええっ。しかし」
 焦るスムレラ。
「しかし、他に誰がおるかね?」
 こう言われてはスムレラも黙るしかない。軍部は決行中の作戦に加え、バイオビーストの対策に追われ、こんな事に手を回してはいられないだろう。かといって、そんな事を頼めるような人間はそうはいない。ただのパイロットなどでは、脅されてスキタヤの言いなりになるのがオチだ。
 渋々コックピットに乗り込むスムレラ。月読はミルイを連れて戻ろうとした。
「待て。ホル・アクティも連れて行く」
「何だと」
 月読は驚いた。
「彼女はホル・アクティとして、現実を見なければならない」
「危険すぎる!」
「私だって軍人だ。危険があれば速やかに対処する。心配は要らん」
 スキタヤはミルイの手を無理矢理引っ張り、エアシップに乗せた。
「さあ、出したまえ」
 スムレラは戸惑ったが、従うしかない。
 三人を乗せたエアシップはヴィサン国に向けて飛び立った。

 国境付近。エアシップは国境付近の基地に近づいていた。スムレラは基地と交信し、近隣の様子などを尋ねた。まだ投降したことを知らない兵達に姿を見られて混乱しないように、スキタヤは変装しミルイと共に機内に残っている。
 報告によると、目標となった施設は警備が手薄で、そこに来て急襲を受けたので敵兵は撤退してしまっているらしい。
 マハーリ軍もバイオビースト騒動の対応のために一時攻撃の後に多くの兵が帰還しており、現地に残っている兵は多くはない。
 この様子なら、戦闘に巻き込まれる危険性は薄い。施設に近寄ってみることにした。
 爆撃の煙が所々から上がっているが、施設そのものに大きなダメージは見受けられない。確かにかなりの強度で造られた建造物のようだ。
 空爆時に施設内に逃げ込んだ者もいるらしく、現在突入のために正面扉に攻撃を加えているところだという。何度か砲撃を受けたためか、正面の扉はひしゃげて変形している。しかし、歪んだだけでまだ扉の役割は果たせている。かなりの強度だ。
 マハーリ軍の兵は更に正面扉への砲撃を試みた。
「耳を塞げ!」
 スキタヤに言われ、訳が分からず言われた通りにするミルイ。耳を塞いでも全身に感じるほどの轟音が轟いたのはその直後だ。
 見ると、大きく歪んだ扉の片方が、ねじ切れて倒れていた。
「ランチャーを五発も打ち込むことになるとは……なんて頑丈な扉なんだ」
 隊長は感心しきりだ。次のランチャーを構えていた兵士もランチャーを降ろした。
 兵士達が開いた扉に近づき、踏み込んでいく。だが、その兵士達はすぐに慌てて飛び出してきた。
「スムレラ、戻れ!」
 状況について説明を受けていたスムレラは、いきなりスキタヤに呼ばれて戸惑う。その耳に、兵士の断末魔の声が届いた。
 見ると、先ほどニュースで見たような大きな狼が兵士の一人の腹に食いつき、飲み込もうとしているところだった。
「ミルイ、そのまま顔は上げるな……おい、そこの!そのランチャーをぶち込め!」
 訳が分からないまま、ランチャーを降ろしたばかりの兵は慌ててランチャーを構え直す。その兵のほうにぎょろりと目を向けるや、狼は駆け出し始めた。
 ドォン!ランチャーが火を噴いた。狙いなど定める暇もなく、巨大な狼と兵士の間の地面に着弾し爆発を起こした。狼は怯んだか動きを止めた。
 スムレラは転げ込むように機内に戻ってきた。
「な、なに!?なんなのあれ!」
 半ばパニックになっている。ちゃんと機内に戻ってきただけでも冷静に判断できた方だ。
 爆発の煙や砂塵が収まると、飛び散った瓦礫にやられたか狼は左眼から血を流していた。周囲の兵士達は機関銃を構えて撃ち始めた。蜂の群れに襲われたように暴れ出す狼。そしてそのまま兵士達のほうに突っ込んでいく。兵士達は逃げ出すが、何人かは飛びかかってきた狼の下敷きになった。
 狼に誰もが気をとられる中、施設のほうで轟音が響いた。
 目を向けると、更に巨大な狼が片方残った扉に引っかかりながらも施設から這い出ようとしているところだった。
 さすがに、その姿を見て戦意を保っていられる者はいなかった。皆一斉に逃げ出す。
 スムレラもエアシップを発進させた。ドアをぶち破り、巨大な狼が飛び出してくるのはその直後のことだった。
「予想以上だ……。ヴィサンの技術力も侮れないな」
 スキタヤは低く呟く。その表情からは何も読み取ることはできない。
 眼下では巨大な狼が施設からはい出し、立ち上がるところだった。
 その大きさは民家ほどもある。脚はさながら大木のようだ。尾だけを見ても、まるで一体の巨大な獣がそこにいるかのようである。
 その姿を目の当たりにしたミルイは、思わず目を瞑り、首から下げた勾玉を強く握りしめていた。手の中でその勾玉が微かに光を放ったことになど、誰も気付かない。
 狼が吠えた。大気を、そして大地をも震わせ轟く声。
 ミルイは怯えながら、操縦桿を握るスムレラにしがみついた。
「だ、駄目よミルイ。危ないわ」
 機体がバランスを崩しそうになるのを必死に制御するスムレラ。ミルイはそれにかまわずにスムレラに訴える。
「ねえ、聞こえたの。あの狼が、『人間どもへの復讐が始まる』って叫んでいたのが……」

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