黄昏を呼ぶ少女

五話 自然と文明の中で

 ミルイは目を覚ました。
 そう言えばおさるさん……ハヌマーンだっけ。そのお話を聞いているうちに眠くなっちゃったんだなぁ。
 そう思いながらまだ霞む目をこする。見えてきたのはあの部屋の風景ではなかった。中ツ国でスバポが用意した部屋だ。あのベッドに比べれば些か寝心地は悪いが、慣れた感触の編み草の布団。
 外に出ると、まだ地平線の上に見える遠くの山の上がほんのりと明るくなりかけたところだった。
 もう一度寝ようか。しかし、こんなに早く目を覚ましたにもかかわらずちっとも眠くはない。
 どうしようかなぁ、と考えていたミルイは、突然聞こえてきた鳥の声に腰を抜かしそうになった。ただの鳥の声ではない。まるで空全体が叫んでいるかのような、頭の中に直接響いているかのような、凄まじい声だった。あまり聞いたことのないような声だった。強いて言えばキジに似ているだろうか。
 驚いて小屋の中に引っ込むミルイ。その声は時折繰り返された。そのたびにミルイはけたたましい雷に怯える時と同じように身を縮め、耳を覆った。だが、その声は耳を塞ごうが小屋に逃げようが、外で聞いた時とまったく変わらずに聞こえてきた。
 やがて、まわりが騒がしくなる。人の声がする。
 恐る恐る様子を伺うと、あの巨大な建物の前の広場に男たちが集まっていた。手にはそれぞれ弓矢や石槍を持っている。まるで狩りにでも出かけるようだ。
 そう言えば。
 ミルイは昨日小耳に挟んだ妖怪狩りのことを思い出す。早朝、ひどく大きな声で鳴く鳥の妖怪。なるほど、この鳥のことなのか。
 だが、集まった人々も困り果てている。何せ、直接頭に響くような声でどこから聞こえてくるのかまったく検討もつかないのだ。
 とにかく、近くの森を手分けして探してみることで一致し、男たちは散っていった。

 鳥の声は日が昇りきるまで続いた。そして、唐突にぱったりと止み、その後男たちが次々と森から戻ってきた。
 捕まえたりやっつけたという様子ではなかった。また逃げられた、と言う顔をしている。
 その後、男達はめいめいに散っていった。入れ替わるようにミルイの部屋にスバポが訪ねてきた。スバポも色々と言いたいことがあり、何から話すべきか迷っていた。そのためミルイの方が先に声をかけることになった。
「ねえ、さっき鳴いてた妖怪ってずっとこんな感じで鳴いてるの?」
 とりあえず、さっきのことが気になっていたミルイだった。スバポはそれを聞いて少し驚く。
「おや、君にもあの声が聞こえるのかい?女たちにはあの声は聞こえないものだと思っていたんだが」
「うーん。起きてたからかなぁ。聞こえたよ、うるさかった」
「そうか。明日はベシラを叩き起こして試してみようか……。あっ、それよりも大変なことが起こってさ。待ち合わせの場所を変えなきゃならなくなった。大丈夫?」
「こっちもそれどころじゃないよう。なんだかスキタヤって言う怖いお兄さんに連れられて変なところに連れて行かれちゃった」
 スキタヤの名を聞いてスバポは激しく動揺した。
「な、なんだって!それじゃ今君はヴィサンに囚われているのか!?」
「よく分かんないよぉ。なんだか月読って言うおじさんのところに連れて行かれて、スムレラって言うおっぱいの大きなお姉さんのお世話になってるの」
「どういう事だ、スキタヤが月読様のところにいるのか!一体何が起こってるんだ」
 混乱するスバポ。何が起こっているのか一番分かっていないミルイに詰め寄るが、ミルイもなにも分からないので困る以外に何も出来ない。
「とにかく、月読様がいるところなら俺が派遣されたマハーリだと思う。どうにかして会えるかも知れない。とにかく、あっちに行ったらいろいろと確かめてみる。……とにかく俺はあっちでもこっちでも忙しいんだ。ごめんよ」
 スバポは、こちらでは祭りの準備に加えて件の妖怪騒動でも大忙しだ。
 例の妖怪が現れた原因を探るために精霊たちに祈りを捧げ、占いを続けているが、原因がはっきりしないのだ。

 ただ、何をするのもまずは朝食のあとだ。
 スバポはミルイを朝食の場所に案内した。ミルイもシロキ野村の人達に混じって朝食をとった。シロキ野村は穀物を中心にした食事で、味付けもナミバチ浜の村とはまるで違う。食べ慣れない味の朝食だったが、嫌いな味ではなかった。
 食べていると、ミルイの姿を見つけたベシラが声をかけてきた。
「おはよう、眠れた?」
「うん。ちょっと早く目が覚めちゃったけど」
 話は朝の妖怪騒動の話になっていく。ベシラはやはりぐっすり眠っていてまったく気付かないそうだ。スバポが朝早く叩き起こして確認しようとしていることを告げると、スバポに文句を言いに行ってしまった。
 ミルイもそれにくっついていき、兄妹喧嘩に割り込んで、ナミバチ浜の村のキャンプに遊びに行っていいか訊いてみた。スバポは少し考え、どうせ昼間の間はあっちに関することは何も出来ないから行っていいよ、と言った。大喜びで駆け出していくミルイの後ろで喧嘩の続きが始まった。
 キャンプでは相変わらず暇そうな村の面々がミルイを出迎えた。
 ミルイは村の人達に、何があったのかを色々訊かれた。ただ、話せることはほとんど無く、言葉を濁すばかりだ。さすがに他の世界に行ってきたなどと言って信じてもらえるわけはない。それに、ミルイ自身が何がどうなったのかまだよく分かっていないのだから仕方がない。
 そして、そんな話を一番真っ先に聞きたかっただろうポンは父親のリジヤチと並んで昼寝をしていた。夕べは結局ほとんど眠れず、例の妖怪が鳴き出すちょっと前にようやく眠りについたのだ。そのおかげで妖怪の声を聞くことはなかった。
 ヤネカチもポンが夜中に起きていたことは朝ご飯の時に眠そうにしているポンから聞いたので、放っておいて二人でどこかに遊びに行こうと言うことになった。

 二人はシロキ野村を探検してみることにした。
 シロキ野村の周りにはいろいろな畑がある。畑と言っても種を無造作に蒔いたくらいの簡単なものではあるが、広い土地を最大限に生かした営みだ。
 粟やソバなどの穀物の畑もあるが、ただの茂みのような見た目がとても地味だ。
 目を引くのは大きな丸い葉っぱが林立する里芋畑と、たくさんのつぼみを付け花も開き始めているユリ畑。ユリはもちろん球根を食べるために育てているのだが、花もとてもきれいだ。甘い香りも乙女心をくすぐる。
 ミルイはユリ畑を見るや、一目散に駆けだしていた。ミルイは畑の中をひとしきり駆け回り、はしゃぎ回り、花粉まみれになって戻ってきた。これは落ちない。お母ちゃんに怒られると、ミルイのテンションは一気に下がった。
 とにかく、少しでもましになるように、川で服を洗うことにした。もみ洗いするといくらかはましになったが、まだ橙色の花粉の跡が斑にくっきりと残っている。
 待っているのも退屈になったのか、ヤネカチはひとりでどこかに行ってしまった。
 あまり汚れが目立たないくらいになってきたので、そろそろ絞って干すことにした。ミルイひとりの力ではあまり堅く絞れない。このままでは乾くのに時間がかかりそうだ。
 どうしよう、と思っているところに丁度よくヤネカチが戻ってきた。
「どこ行ってたの?」
「えーと、その辺をぶらぶらしてた」
「ふーん。いいや、絞るの手伝ってよ」
 ミルイとヤネカチは服の両端をそれぞれ持ち、逆方向にひねる。ぎゅっと絞られた服からはいくらか水が滴り落ちた。
 石の上に服を干し、乾くまで河原の石で遊ぶ。日は高く昇り、強い日差しが降り注いでいる。この様子ならばすぐに乾くだろう。だんだん暑くなってきた二人はそのまま川に飛び込んで遊びだした。
 二人が遊んでいると、どこかの子供が水汲みの手伝いか、河原に降りてきた。二人よりも少し小さい感じの男の子だ。
「一緒に遊ぼうよー」
 陽気に誘うミルイだが。
「いや、僕はいいよ」
 男の子はかぶりを振って水を汲み始めた。
「えーっ、なんでー?」
 ミルイはつまらなそうに言う。
「最近、その川の水が少しおかしいんだよ。なんか、変な味がするんだ」
 その言葉を聞いて、二人は慌てて川から出た。
 しかし、日頃からこの川の水を飲んでいるわけではないミルイとヤネカチには、味の違いなど分かるわけがない。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ、味は変だけど、誰もこの水を飲んで病気になったりはしてないし。山の方で何かあったんだと思うんだけど」
 男の子は川の上流に見える山を仰ぎ見た。
 タイナヤ山。昔から神聖な山とされている大きな岩山だ。今回開かれる祭りも、宴の後にタイナヤ山で神事が行われる。
 その大事な山での異変となれば、祭りに深く関わるスバポに詳しい話が行っているかも知れない。ミルイはあとで聞いてみることにした。

 ミルイの服もすっかり乾き、二人はキャンプに戻ることにした。ポンは、まだリジヤチと並んで寝ていた。
 にわかに騒がしくなった。まだ来ていなかった二つ村の人達が到着したのだ。一つは狩人の村なので持参したのは良く太ったイノシシだが、さすがにガラチが持ってきたクマにはかなわなかった。どうやらあまりいい得物がなかったのでぎりぎりまで粘っていたらしい。もう一つの村は遠い村で、長旅を終えてようやく到着した。
 候補が出そろい、その中でも一番大きな得物を持ってきたガラチが文句なしでイトヤヅチに選ばれ、任命の儀式が始まった。
 最後にそれぞれの村の長が集められ、祭りの日程などが告げられた。明日が宴、その翌日からタイナヤ山に移動が始まり、到着したら神事になると言うことだ。
 そうなると、明日は宴の準備で大忙しになる。
 宴のための料理を決めたり、宴の歌や踊りの練習などでもう忙しくなっている人もいる。
 ポンと一緒に眠っていたリジヤチも叩き起こされた。リジヤチは歌い手なのだ。普段冴えないが、その歌声は誰にも負けない。ポンもその血をしっかり引いていて、リジヤチに合わせて歌ったりすることも多い。言ってみればデビューに向けて猛レッスン中と言うところだ。もっとも、こういう祭りや満月の宴の前日くらいにしか練習などしないのだが。
 リジヤチが叩き起こされた時、ポンも目を覚ました。そして、ミルイがいることに気付いて、質問爆撃を浴びせた。何があったのかという質問と、あとはスバポについての根掘り葉掘りで、別にスバポと何かあったわけではないミルイには答えようもない質問が多かった。お年頃のポンが期待するほど、年下のミルイはまだ色気づいてない。
 そんなミルイにポンは、もったいない、代わりに自分が行きたいと漏らした。さすがにそんなわけにはいかないが。

 日も暮れかかり、夕食が済んだミルイは、ポンに羨ましがられながらまたスバポのところに向かった。
 ミルイとスバポは高天原で何をすべきかを話しあおうとしたが、スバポは忙しくて自由が利かないし、ミルイも自由に動けそうにない。とりあえず成り行きに任せるしかないというのが現状だ。話しあうこともなにもない。
 ただ、望みがあるのは、ミルイはスキタヤに連れられてマハーリへ行き、スバポもマハーリに向かうため、マハーリで会える可能性が高いことだ。
 そう言えば。
 昼間のことを思い出し、ミルイは切り出す。
「ああ、川の水の話か」
 スバポは地元だけによく分かっていた。川の水の味が変わった。祭りも近いのに、その神事の舞台となるタイナヤ山で何か異変が起こっているのではないか。その話は祭りに深く関わったスバポは散々他の司祭や族長達と議論を繰り返している。今年の祭りはより盛大に行い、山の神を喜ばせなければならない。そう結論が出た所である。
 その話をした所で、スバポはふと考え込んだ。ミルイがスバポの顔を覗き込むと、なんでもない、とだけ言った。だが、スバポはその後も考え込むようなそぶりを見せたままだった。

 眠りにつき、目を覚ますと景色が一変していた。
 殺風景ですっきりとした室内。昨日、高天原で眠りについた時の部屋。横で白猿ハヌマーンが大の字になって眠っている。ミルイは体を起こした。
『う?起きたか嬢ちゃん。若いのに爺婆並みに早起きだのう。それより人の話の途中で寝るもんじゃないぞ。大事な話をしとったというのに』
 ハヌマーンも目を覚ました。
 早速、昨日の話をもう一度始めるハヌマーンだが、またミルイが寝そうになったので諦めた。
 そんなミルイの目をしっかりと覚まさせたのは、あの声だった。
 中ツ国で起き抜けに聞いた『妖怪』にそっくりな声。驚いたミルイは布団をかぶり、縮み上がった。
『ん?どうした、嬢ちゃん』
「怖いよう、妖怪が鳴いてるの!」
『妖怪?鶏の声しか聞こえんぞ』
 女子寮の近くの鶏小屋で鶏が鳴いている。そう、中ツ国で鳴いている妖怪の声は鶏の声だった。ただ、その声の大きさはここで鳴いているただの鶏の比ではない。
 とりあえず、ハヌマーンは今鳴いているのはただの鶏で、怖いものではないと教えた。
 ミルイも、確かにあの頭に直接響くような声ではないと分かり、少しほっとする。だが、やはり声が聞こえてくると少し怖い。
 ハヌマーンはミルイにその生き物を直接見せて、怖くないことを分からせるために鶏小屋に案内した。
 金網の中で、数羽の鶏が歩き回っている。時々あの声を上げて鳴く。小屋の中には生み立ての卵も転がっていた。
 そこに、今日の鶏の餌当番の女性がやってきた。こんな所に子供がいることに戸惑ったが、肩に月読の執務室などで見かけるハヌマーンが乗っていることもあり、すぐにミルイだと分かったようだ。もうミルイのことは職員達に話が広まっている。
 女性職員は、餌やりのついでにミルイを鶏小屋の中に入れてくれた。ミルイはおっかなびっくり鶏小屋の中に入る。鶏が大きな声でなくごとに驚いて飛び出してしまうミルイだが、何度目かには慣れた。
「ミルイちゃん、卵とってごらん」
 女性職員に促され、恐る恐る卵に手を出した。生み立てなので、鶏の体温がまだ残って温かかった。恐らく、その卵を産んだ鶏なのだろう。ミルイは鶏に思い切り手をつつかれた。やはり、鶏は恐ろしい生き物だ、と改めて思うミルイだった。

 鶏騒動はひとまず終わったが、ハヌマーンはふとあることに思い当たる。
『嬢ちゃん。中ツ国……あちらの世界には鶏はおらんのか?』
「うん。いないよ。キジみたいな鳥だね」
『だが、声が聞こえたのか?』
「うん、そう。すごい大きな声だった。怖くて耳を塞いだけど、直接頭の中で響くような声がずっと聞こえてたの」
 ハヌマーンは少し考える。
『嬢ちゃん。昨日話そうとしたことと関わりがあるかもしれんぞ、それは。だから寝ずにちゃんと聞くのじゃ』
 ハヌマーンは高天原と中ツ国、この二つの世界について話し始めた。
 高天原と中ツ国。違う世界だが、お互いの世界は夢で繋がっている。そして、それ以外にも時折この二つの世界の境界が曖昧になることがある。そんな時、高天原のものが中ツ国に現れたり、その逆が起こったりする。
『この世界はあちらの世界から見て夢の世界であり、それと同時に神の世界でもある。あちらの世界も同じように、この世界から見れば夢の世界であり、神の世界じゃ。自然界の生き物たちは、耐えがたい苦しみに晒された時に神に頼ろうとして、もう一つの世界にその想いが姿となって現れることがあるのじゃ。特に今は太陽の力が弱まっておる。昼と夜が近づけば、夢と現実も近くなり、二つの世界も近くなるのじゃ。ここまで分かったかの?わかっとらん顔じゃが』
 ミルイの顔は強ばったまま動かない。
『まあ、さらに端折ってもっと分かり易く言うとな、こっちの世界で困っている生き物があっちの世界で助けを求めているんじゃ。だから、こちらで助けてやればその妖怪も現れなくなるじゃろ』
「うん。今度はちょっと分かった。で、どうすればいいの?」
『さあ?』
 どうしようもないと言うことは、ミルイも理解できた。

 ドアがノックされた。
 ノックの意味を知らないミルイに、ハヌマーンが部屋の外で誰かが呼んでいるのだと教えた。ミルイがドアを開けると女性が立っていた。
「おはようミルイちゃん。よく眠れた?」
 アップにしていた髪を下ろし、メガネを外しているので全然印象が違ったが、声や顔立ちや胸の大きさでスムレラだと分かった。
「うん。こっちで寝ると元の世界に帰っちゃうけど」
「あら、そうなの?それより、朝ご飯食べよ?」
「うんっ!」
 ご飯と聞いてミルイが元気になった。
『このねーちゃん、料理が出来たのかのう』
「お姉ちゃん、料理できたのか、っておさるさんが」
『い、言わんでいい、言わんで!』
 ハヌマーンはミルイの言葉を遮るがもう遅い。スムレラの視線がハヌマーンに突き刺さる。ハヌマーンは思わずミルイの肩から飛び降りた。
「逃げるって事は本当に言ってるわね?」
 昨日の過ちを繰り返すハヌマーン。
「まったく。月読様が大事になさってるから知的で上品なおさるさんだと思ってたけど、口の悪いエテ公だわ!」
『え、エテ公……』
 聖獣として尊ばれながら生きてきたハヌマーンは、この日、生まれて初めてエテ公呼ばわりされたのである。口は災いの元であると身にしみた瞬間だった。

 スムレラの用意した朝食は、辛うじて料理と呼べる範囲内の代物であった。味は可もなく不可もなく、それなりである。先刻失態を演じたハヌマーンもどうにかおこぼれにありつくことは出来た。
 ミルイの部屋にもテレビはあったが、当然使い方など分からないので使っていなかった。スムレラがいつものようにテレビでニュースを見始めると、ミルイは薄っぺらい板のような薄型テレビの中で、人が出たり消えたりすると言う不可解な現象に呆然となった。
「ミルイちゃん。あなた、ここじゃない世界から来たって本当なの?」
 そんなミルイを見て、スムレラはふと尋ねてみた。昨日、月読に神々の黄昏やミルイ、地平線の少女などについてある程度の話はされているのだ。あまりにも空想めいた話で、にわかには信じられなかったのだが。
「うん。なんか、そうみたい」
 今日日、人間の住んでいる所ならある程度の文明の利器は存在する。ここまで文明を知らない人間がこの世界にいるとは思えないのだ。
「ミルイちゃんの住んでる世界ってどんな世界?どんな暮らしをしてるの?」
「うーん。海があって、山があるの」
 ミルイから見れば、中ツ国での生活も、自然も、どれもこれも当たり前すぎて、説明するまでもないとしか思えない。おかげでこんな説明になってしまう。
「いつもは朝起きて川の水を汲んで、ご飯を食べたら漁に出るお父ちゃん達を見送って、あたし達は海岸で海藻や貝を拾うの。お母ちゃんが縄を編んだり土器を作るのを手伝って、あとは晩ごはんまで遊んでる」
 完全に文明に囲まれて過ごしているスムレラには、いや、この世界の大部分の人間には想像もつかない生活である。
 食料の採取を自分達で行うと言うことからして、スムレラには考えられないことだ。この世界では高度な食糧生産技術が確立していて、ほとんどの食品は徹底管理された環境で栽培・養殖され、工場で加工されてから人々の手に渡る。その食材が元々どんな姿をしていたのかを考える必要すらない。食べているものの正体が分からないというのはある意味恐ろしいことではあるのだが、もう既にそれが当たり前になってしまっているのだ。
 もちろん、電気もなにも存在しない。ミルイの話で火はあることが分かったが、木を燃やすという事に驚くスムレラ。現在この世界では、辺境を除けば木材はあまり利用されていないのだ。リサイクル製の悪さから建材などにも用いられない。
 世界の人口の9割以上が住まう連邦のほぼ全域がこのような暮らしだ。生活に困ることはほとんど無い。
『この世界の人間は、自然と一切関わることなく暮らしておる。一方の中ツ国は自然と共に、自然そのままの生き方。違いに驚くのも当然じゃろう』
 ハヌマーンの言葉にスムレラも頷いた。ここでふと、気になることが出来る。
 月読に見せられた資料によれば、これから起ころうとしている神々の黄昏は自然界の怒りがきっかけとなって起こる出来事。だが、自然との関わりを断ったこの世界の人達は、自然界にまったく干渉していないはずなのだ。それなのになぜ、自然界に怒りが生まれたのか。
 人の近寄らないはずの自然の大地を見なければならない。スムレラはそう考え始めていた。

 食事も済み、スムレラは出勤準備にはいる。
 朝のシャワーを浴びようとした時、ミルイがこういうものの使い方を知らないのだからシャワーも使えないのでは、と思い当たり、尋ねてみると案の定だった。
 スムレラはミルイと一緒にシャワーを浴びることにした。
「覗かないでよ」
 ハヌマーンは釘を刺された。
『猿が人間の体を見て喜ぶわけが無かろうが。特に不気味に腫れ上がった胸が気味悪い。あ、嬢ちゃん、言わんでいいぞ』
「またなんか言ったわね?」
 ハヌマーンはとぼけた。
 スムレラはミルイと一緒にバスルームに入り、真っ先にさっきハヌマーンが何を言ったのかをミルイに聞いた。
「あとで胸で挟んで窒息させてやるっ」
 やっぱりスムレラはご立腹である。特に、胸の話をされると癪に障るらしい。自慢であると同時にコンプレックスでもあるのだ。
 スムレラもあまりのんびりはしていられないのでささっとシャワーを浴びたあと、ミルイに使い方などを教えた。ミルイもやり方は憶えたので今度からは自分の部屋でも浴びられる。

 バスルームでやっぱり時間をとりすぎたスムレラが慌ただしく部屋を飛び出し、ミルイも自分の部屋に戻ったあと、真っ先にシャワーを試してみた。が、すぐに飽きた。
 退屈にしていると、スムレラがまたやってきた。
「月読様に今日はミルイちゃんの面倒見ててくれって頼まれちゃった。仕事は他の人にやってもらうって。なんか一日得しちゃったかも」
 スムレラは上機嫌だ。
「着るものもないみたいだし、お買い物行かなきゃね」
 そう言うと、スムレラはミルイを町に連れ出した。とりあえず、ハヌマーンに関する余計なことは忘れたようだ。
 スムレラの運転するエアカーで町を行く。ハヌマーンはねえちゃん運転できたのか、と心の中だけで呟いた。運転が微妙で怖い、とも心の中だけで呟いた。
 着るものもないから、と言う理由で買い物に出ただけに、真っ先に向かったのはブティックだ。
 スムレラは鏡の前でミルイに服を当ててみては、かわいい〜などと喜んでいる。だが、どれもこれも突拍子もない服だ。スムレラの名誉のためにも言っておくが、この世界で流行っていたり一般的だったりするファッションが、どれも縄文暮らしのミルイには突飛であると言うことであり、スムレラのセンスがおかしいというわけでは断じてない。多分。
 この世界の服のことはまったく分からないので、デザインなどは全てスムレラに任せるしかない。結構買い込んだが、経費で落ちるそうだ。
 ついでに自分の服も見て回る。普段忙しく、休日は体力の消耗が激しい買い物になど出かけずにのんびりすることの方が多いスムレラにとって、こういう機会は最大限に利用すべきものである。これまたスムレラの名誉のために言っておくが、彼女の分の買い物を経費で落とすような不埒な真似はしていない。支払いの時に漏らした、あたしの分も経費で落とせたらいいのになぁ、と言う一言が、その甘い誘惑を断ち切った証と言える。
 あちこち歩き回り、いろいろなものを見てきた。どれもこれもミルイにとっては初めて見る、不思議で奇天烈なものばかりだった。売っているものも、町行く人達の持ち物も、町並みも。
 見る物全てに驚いていたミルイは、ハイテンションでショッピングを楽しんでいたスムレラの数倍も疲れ、スムレラの運転するエアカーの中で、怖さに眠気が勝ってうたた寝を始めた。

 その頃、スバポはマハーリに向かうエアシップ内にいた。
 予定通り朝会が終わったあとにスバポを乗せたエアシップは空に舞い上がった。することのない退屈な機内。
 スバポはずっとミルイの身を案じていた。
 スキタヤに連れ去られたというミルイ。スキタヤの恐ろしさは敵国として対立し続けてきた人間として、身にしみて分かっている。
 そして、そのスキタヤがヴィサンから消えたという話を噂で聞いたのは今朝の朝会前のことだった。仲間達は『まさか』と言っていたが、スバポにしてみればミルイの話にますます信憑性が出たことになり、不安が広がる。ミルイを案じるのはもちろんだが、これから自分もそのマハーリに向かう。何かとんでもないことに巻き込まれたりはしないのか。
 連邦軍は明日にも大きな作戦を実行する予定だ。スキタヤがマハーリに来たとなると、その作戦に影響が出ることも考えられる。
 厄介なことにならなければいいが。
 スバポの乗った船はヴィサン、ヒューティを避け迂回しながらマハーリを目指した。昼過ぎには到着する。

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