黄昏を呼ぶ少女

四話 印を持つ男

 スバポが司令官から出向の話をされた頃、相変わらずあの部屋に閉じこめられていたミルイの元に、あの男がやってきた。
「付いてこい。余計なことは一切口にするな」
 それだけ言い、歩き出した。逆らうほどの勇気はミルイにはない。
 自分が異世界から来たことを知っている人。しかし、信用できるのかどうかさっぱり分からない。
 とにかく、ミルイに出来ることは流れに身を任せ、誰かが助けてくれるまで無事でいることだけだろう。
 複雑な建物を歩き回り、エレベーターというらしい不思議な部屋に連れ込まれ、さらに少し歩いたところで男は部屋に入っていった。
 中には、不自然につり上がった髭を生やし、妙にかっちりとした髪型をした中年の男がふんぞり返っていた。
「スキタヤ中佐か。その娘が話にあった……」
 中年男の発言からすると、ミルイを連れ回しているこの男はスキタヤ中佐というらしい。
「そうです、大佐。尋問の結果、彼女を拉致した人物がほぼ特定できました。一等兵のジャーリです。この一件に関しパラダク少佐が関わっていることを自白しました」
 ミルイは尋問などされていない。スキタヤ中佐という男とは少し言葉を交わしただけだ。そもそも拉致された憶えもない。全てスキタヤ中佐の出任せである。
「……そうか。馬鹿どもめが。繰りかえしになるがこの件の処分に関しては君に任せる。これ以上の面倒はこりごりだ」
「……御意」
 スキタヤ中佐は深々と頭を下げる。訳が分からないまま見上げていたミルイは、スキタヤ中佐の顔にまた気味の悪い笑みが浮かんだのを見、慌てて目を逸らした。

「し、知りません!わた、私じゃありません!」
 スキタヤ中佐の眼前で、もはや敬礼さえも忘れて自分の無実を訴えているのは、ミルイ拉致の濡れ衣を着せられた一等兵のジャーリである。
「なあに、私は真実の全てを知っている。彼女を拉致したのは君ではない。君をここに呼び出すための口実に過ぎなかった」
 ジャーリはほっとしたような顔を見せる。無表情のままスキタヤ中佐は続ける。
「覚えているか、ジャーリ。こうして私と君が向かい合うのは今が初めてではない」
「申し訳ありません。覚えておりません」
 ジャーリはそう言い、敬礼する。スキタヤ中佐はふっと笑った。
「その程度のことだろうとは思ったよ。私の方は君のその顔を忘れたことはないのにな……。あれは3年前だ。君は華々しい活躍をしたようだね。おかげで二等兵だった君は一等兵に昇格できた」
「ヒューティ占領作戦です!忘れもしません!」
 誇らしげな顔をするジャーリ。
「忘れもしない、か。……あの夜、君はヒューティの首都セトゥアの占領任務にあたっていたな。交通の要所を押さえるためにハイウェイを封鎖した」
「その通りです!」
「ハイウェイはたちまち大渋滞だ。あたりはクラクションで溢れた。君はそれに苛立ち、民間人の車に対し無差別に銃を乱射した」
「あ、あれは入り口付近にいた敵兵との戦闘に巻き込まれただけで……」
 目を泳がせるジャーリ。
「私は全てを見ていたのだがね。君が銃を乱射した時、敵兵はもう全員倒れていたよ。ハイウェイを閉鎖したあとに乱戦が起こるシチュエーションを説明してみたまえ」
「そ、それは……」
「もちろん、こちらの軍としてもそんなことがあったと知れては問題だ。無かったことにされた。……これはいまさらこの事で君に罰を与えようなんて話じゃない。これは私個人の問題だ。あの時、私はあの場所に居合わせた。私の目の前で君が銃を構え、乱射した。いや、乱射ではなかったな。狙い撃ちだ。車内の人間に狙いを定め、君は発砲した。私の妻は額に、娘と私は胸に弾を受けた。意識が薄れ行く中、私は車の移動に邪魔だという理由で車から引きずり出され、道端にうち捨てられた。妻も娘も死んだ。私だけが弾が急所を外れて生き延びることが出来た。今でも私の体の中にはその時の銃弾が残っている」
 話を聞いていたジャーリの顔はみるみる歪んでいく。自分が今どの様な状況におかれているのか理解したのだ。
 尋問と言うことで、丸腰でこの場に引っ張り込まれた。そして、目の前にいるのはジャーリに家族を殺され、自分も撃たれた男。
 だが、分からないことがある。なぜそんな男が敵国であるこの軍にいるのか。まして、将校である。
 その疑問に、スキタヤ中佐は問わずとも答えた。
「あのあと、私は君たちの仲間によって妻や娘の死体と一緒のこの国に運び込まれた。民間人の死体が出ればたとえ巻き込まれたものであっても騒ぎになるからな。そして、私は山の中で目を覚ました。自分のいる場所がヴィサン国である事を知ったのはだいぶ後だった。この国に籍も何もない私はまずは『誰か』にならなくてはならなかった。容姿が似た人物を捜し、殺した。そして、その日から私がその人物に成り代わったよ。名前はスキタヤ。この名前は借り物なのだよ。国籍も、何もかもね。元々のスキタヤ君がそこそこの学歴を持っていたおかげで軍に志願したら苦もなく採用してもらえた。まあ、本当の私に比べればだいぶ劣るが。軍に入った目的は、君を捜すことだよ。もっともそれだけじゃなかったがね」
 スキタヤ中佐はそこまで言うと、懐から銃を取り出した。ジャーリの顔が恐怖に引きつる。今、この部屋の扉はロックのためにスキタヤ中佐にしか開けない。
「さて。君には難しい注文だとは思うが、思い出してもらいたい。私がどこを撃たれたのかを」
 そう言いながら、スキタヤ中佐はジャーリに銃を向けた。
「やめて殺さないで助けて」
 ジャーリは腰を抜かし、頭を押さえ震え上がり、もはや命乞いしかできない。
「思い出せないなら教えてあげよう。ここだ」
 ジャーリの右胸に銃弾が撃ち込まれた。ジャーリの体がびくんと撥ねる。
「あ、ああ……あ……」
 床に倒れるジャーリに歩み寄り、再び銃を向ける。
「少しずれたか。まあいい、大体そのあたりだ。私の幼い娘、カロトキは初めての誕生日を迎える前にここに受けた銃弾で死んだ」
 胸の真ん中に新たな銃弾が突き刺さる。
「私の最愛の妻ルブーミは美しかった顔を血まみれにしていたよ。ここに受けた銃弾のせいでな」
 ジャーリの左眼の上あたりに最後の銃弾が撃ち込まれた。もうジャーリはぴくりとも動かない。
 床に血溜まりがゆっくりと広がっていくのを見つめていると、ドアの外に誰かが来たことを知らせるブザーが鳴った。
 部屋に招き入れられたのはパラダク少佐だ。
 尋問とだけ聴かされていたパラダク少佐は、なんの疑いもなく部屋に踏み込んできた。だが、目の前で血の海に横たわる部下を見て硬直した。
「これは一体どういう事ですか!」
 スキタヤ中佐はジャーリに話した自分の過去をパラダク少佐にも話した。驚愕の表情を浮かべるパラダク少佐。
 何せ、あの時ハイウェイの封鎖を指揮していたのはパラダク少佐だったのだ。
「出来の悪い部下の身勝手な行動の責任は上官にある。もっとも、敵国民であれば相手が民間人であろうが何をしてもよいというのは、戦時下の兵にありがちな認識ではあるがな」
「あれは兵士の衝動的な行動だ。命令を下した憶えはない、勝手にやったことだ」
 怯えるばかりだったジャーリとは違い、食ってかかってきた。
「そもそも敵国の人間だったなどと言う話を信じることが出来るか!あんたは散々その敵国の人間を殺してきたじゃないか!」
 かつて敵国の人間だったスキタヤだが、今、中佐と言う地位にいるのは、それなりの功績を挙げたからである。
 士官として採用されたスキタヤは、その高い戦略性と統率力で、いくつもの作戦を成功させ、自分の故郷であるはずのヒューティを占領下に収める立役者となった。
 スキタヤの作戦の多くは殲滅戦であった。捕虜を捕ろうなどと言う考えはなく、出会う敵は全て殺すのが彼のやり方だった。それでいて、機械などの破壊は最小限に抑える。そうすれば、その施設はそのまま自分達が使うことが出来る。ある意味合理的な戦い方だ。
「あんたがヒューティの人間ならば、なぜ祖国の人間をああもためらいなく殺せる?」
 パラダク少佐は詰め寄らんばかりの勢いでスキタヤ中佐に問いかけた。
「祖国の人間だが、所詮は赤の他人。違うか?まして相手は私を殺そうとしているのだ。殺さねば殺られる。だから殺す。当然のことだ。彼らの犠牲のおかげで私はこの地位を手に入れた。まさに、君よりも上の階級を。直属の部下ではないからこき使って戦死させてやることは出来なかったがね。……私はもはや祖国というものになんの未練もないよ。もうあそこでは私は死んだことになっているだろうからね。私はこのまま登り詰めるだけ登り詰め、全軍の信頼を得、最終決戦の時にあり得ない失策を打ちこの国を丸ごと滅ぼしてやろうと考えていた。だが、どうやらもっと面白いシナリオが私を待っていたようだ。さて。こんな事を聞かれたからには生かして帰すわけにはいかないのは分かるね?元々生かして帰すつもりなど無かったことも。先陣はそこのジャーリ君が切ってくれている。君はいつも通り、この哀れな兵士の後をついていけばいい」
 室内に銃声が響く。防音性の高いこの部屋の外にはこの音は漏れないだろう。
 銃弾はパラダク少佐の眉間を貫いていた。
「さて。この国ですべき事はもう無い。今度私がこの国に来る時は、敵としてだろう」
 そう呟くと、スキタヤ中佐は血の臭いで満たされた部屋をあとにした。

 ミルイはあの部屋にまた閉じこめられていた。
 だが、今度は、意外なほど早くスキタヤ中佐が現れた。
「連れ回してすまないな。今度は少し時間がかかる、長い旅になるだろう。だが、ここよりはマシなところに連れて行ってやる」
 スキタヤ中佐はそう言い、扉を開けたまま歩いていく。ミルイは戸惑いながらもその後を追って駆けだした。
 スキタヤ中佐の後ろを歩くミルイの目に、強い光が見えてきた。太陽の光だ。
 空が見えた。そして、とても開けた場所だ。
「急いでジェットプレーンを出してくれ」
「命令は受けていませんが……」
「急務だ。急げと言っている」
「了解しました!」
 スキタヤ中佐は男と言葉を交わす。やがて、二人の前に何か大きな鳥のようなものが姿を現した。さっきの人が中に入っているのが見える。
「後ろに乗れ。乗り方は教えてやる」
 スキタヤの言われるままに後方の座席に座り、ベルトを締めた。目一杯に締めても少し緩い。子供が乗ることなど考慮していないのだ。
「訓練も受けずにこんなものに乗っては気分が悪くなるかも知れない。悪いが、我慢してくれとしか言えん」
 スキタヤ中佐も前の座席に座り、コンソールパネルを操作した。
 やがてジェットプレーンは細かな振動と低い音を立て始める。
「行くぞ」
 その声と共に、ゆっくりと前進し始め、みるみる加速する。当然、ミルイはこんなスピードは初めてだ。だが、その後に待っている出来事の方が目を疑うようなものであった。みるみるうちに、地面が遠ざかっていく。飛んでいる。
 だがスピードも、空を飛んだことさえも想像すらしたことのない次元の出来事で、ミルイは恐怖しか感じない。目を閉じ、俯いて震えるミルイ。体にかかるGでだんだん気分も悪くなってきた。
 突然聞き慣れない声が聞こえ、ミルイは顔を上げた。スキタヤ中佐が誰かと話している。誰か他に乗っていたのだろうか。いや、違う。スキタヤ中佐の前にある板の、絵のような人と話している。モニターを通じて通信をしているのだ。
「私はヴィサン国軍中佐のスキタヤだ。月読殿と話がしたい」
『な……!?ま、待て。上に通信を繋ぐ』
 モニターの中の人は慌てた様子だ。階級は中佐と言えど、スキタヤの猛将ぶりは広く知れ渡っている。
 やがて、モニターには先ほどとは違う人物が映し出された。先ほどに比べて偉そうな人だ。現に偉いのだが。
『私は連邦中央軍のピラチだ。私が話を聞こう』
「私の用件は月読殿でなければ分からない。まあいいだろう。今マハーリに向かっている。私は連邦に投降することにした」
『投降だと?信じると思うか?』
「自分で言うのもなんだが、私は優秀な士官だ。戦局くらいは読める。それで、あのちっぽけな国が連邦を相手に戦って勝てると思っているとでも?」
『む……』
「繰り返す。月読殿と話がしたい。指示を出せ。言っておくがこちらには人質がいる」
 相手のモニターには後部の座席にいるミルイの姿が映し出される。
「この少女が何者かは月読殿なら分かるはずだ。下手な手出しをすれば厳罰でも済まない事になるだろう。この私を殺しても同じ事だ」
『……分かった。だが直接会わせるわけにはいかない。国境の兵に連絡を入れておく。テ−35−44の国境防衛基地に向かってくれ』
「了解した。月読殿には『日は沈み始めた、黄昏は近い』と伝えておいてほしい。意味は考えなくていい」
 通信は切れた。
「さすがに信用はしないか。まあいい。月読と話が出来ればそれでいい」
 スキタヤ中佐はぼそっと呟いた。何をするつもりなのかさっぱり掴めない。そもそも、どこへ向かっているというのだろうか。

 ジェットプレーンは殺風景な建物の前に着陸した。ヴィサン国とマハーリ国の国境、そのマハーリ側にある監視塔である。
 監視塔では物々しい警備が敷かれていた。敵国の名のある士官が来るというのだから無理もない。だが、命令では殺してはならないとのことである。しかも、それが連邦の最高権力者である月読の命令なのだ。話によれば人質として一人の少女が同行していると言うが、その少女も要人扱いするように通達が来ている。何があるのかは分からないが、とにかく重大な出来事だと言うことは思われた。そのため、兵は一様に緊張した面持ちである。
 ジェットプレーンから降りたスキタヤ中佐は無抵抗であることを表すように両手を上げながらあたりを取り巻く兵の前に出た。ここの指揮官らしい人物が進み出てきた。
「ヒューティ軍ノイン第三基地副指令、スキタヤ中佐だな」
「その通りだ」
「話は伺っている。基地内では月読様からの通信が繋がっている。我々はスキタヤ中佐に危害を加えないことを強く念押しされている。だが、こちらとしても貴殿がこちらに危害を与えないように武器の類を預けてもらいたい」
「分かった。今持っている武器は銃が3丁、ナイフが2本。銃の一つは懐に、あとは腰のベルトに装備している」
 兵達によりそれらの武器が取り上げられた。
 さらに隠し持っている武器がないかボディチェックをされる。
「ん?」
 兵士の一人が何かに気付く。
 スキタヤ中佐のポケットに入れられていた神獣鏡だ。
「これはなんだ」
「あっ」
 声を出したのは、遠巻きに小さくなりながら様子を見ていたミルイだった。
「彼女からの預かりものだ。見ての通り、武器ではない」
 スキタヤ中佐は兵から神獣鏡を取り返した。
「もう少し預からせてもらう。もうすぐ返せるはずだ」
 ミルイに向かってそう言いながら、スキタヤ中佐はポケットに神獣鏡を戻した。不安げな顔でそれを見つめるミルイ。
 二人は兵達に取り囲まれながら、建物の中に連れ込まれた。
 やがて、建物の一室に到着した。大きなモニターがあり、そこには月読の姿が映し出されていた。肉付きのよい白髪の混じった初老の男性で、同じく白髪の混じった口髭を蓄えている。
『二人以外、席を外してくれ』
 月読はモニター越しに、周りの兵に命令を下した。兵達はそれに従い、部屋を出て行く。
『何を知っている』
 他に誰もいなくなるのを見届けた月読はスキタヤ中佐に問いかけた。
「全て、とは言わないが、多くを知ってはいるつもりだ。その上でこの少女を連れてきた。この意味は分かるはずだ」
『……だが、彼女なのか?』
「証拠がある」
 スキタヤは神獣鏡を取り出し、掲げた。月読の表情が強ばる。
「ミルイ。勾玉を出せ」
 言われるまま、ミルイは勾玉を取り出した。月読は顔を伏せ、瞑目した。
『なるほど。間違いないようだ……。だが、なぜそなたはそれを知っている?』
 スキタヤ中佐は額に手を当ててこすった。その様子を見ていた月読は息を飲む。
 スキタヤ中佐の額に、文字のような痣が浮かび上がっていた。
「なぜこの事を知っているのか。それを訊かれると偶然知ったとしか言いようがない。だが、この事を知ったのが私であると言うことはもはや偶然とは思えない。必然なのだ」
 ミルイには二人の会話が理解できない。二人は、何か共通の知識を持った上で話をしている。それが分からないと、なんのことを言っているのかさっぱりだ。
『何が目的だ?』
「話せば長くなるが、私が本当に倒したいのはヴィサンだ。その目的を果たすために連邦に寝返らせてもらう。彼女……『地平線の少女(ホル・アクティ)』を連れてきた。これで条件としては十分すぎるはずだ」
『いいだろう。これ以上は通信で話し合うべきではない。迎えを送ろう』
 月読との通信は切れた。

 月読の迎えは程なく訪れた。大きな飛行艇だった。
 窓はあるが、外を見てもさっきのジェットプレーンに比べると怖くない。ミルイは恐る恐る窓から下を見下ろしてみた。遠くを見るとまるで高い山の頂から見下ろしているようだ。だが、真下にはその山はない。真下を見下ろしてみても、現実的な高さを通り越しているので怖くはならなかった。
 広い荒れ野が広がっていた。
 そして、飛行艇の向かう先。そこには奇妙なものが存在していた。高層建築が林立する都市は、ミルイの目には異質なものに見えたのだ。
 もう『変なもの』にも見慣れたミルイは、また変な物がある、くらいにしか思わなかった。だが、近づいてみると度肝を抜かれた。遠くからみるとよく分からなかったが、とてつもなく大きかった。
 マハーリの首都、メディッヒである。マハーリ最大であり、連邦最大であり、世界最大の都市。
 上空からでもなお、地平線の彼方までビルが続いている。見下ろせば、ビルの間を縫うハイウェイを無数のエアカーが流れ、歩道には沢山の人が行き交っている。ミルイはその不思議な光景を放心したように見続けていた。
 やがて、そのビルの林の中に不自然なほど開けた土地が見えた。この国の、そしてこの世界の中枢でもある中央行政地区だ。その一角に飛行艇は着陸した。
 そこからの移動はエアカーだ。風にでもなったかのような高速移動に、ミルイはまた怖くなった。だが、これはそう長くは続かなかった。
 散々引っ張り回されてようやく辿り着いた建物の一室には、先ほどモニター越しに話をした月読の本物がいた。
 広い部屋に、何本かの観葉植物が置かれている。その観葉植物の枝の上では白い小猿が飛び跳ねている。
 こういう猿も獲物の内だ。ミルイは空腹であることを思い出した。じーっとその猿を見つめる。小さいので食べるところはあまりなさそうだが……。
 月読はスキタヤ中佐の顔をしげしげと見つめて言う。
「なるほど。その痣は確かに本物のようだ。あとは、『地平線の少女』が本物かどうかだが……」
 ミルイの方に小猿が走ってくる。ミルイの前で顔を覗き込んだあと、肩に飛び乗った。
『嬢ちゃん。ずいぶんと熱い視線を送っていたようじゃが、わしのプリティーぶりに惚れたかい』
 耳元にいる小猿が言葉を発した。ミルイは身の毛がよだつ思いがした。
「きゃあああぁぁぁぁっ。喋ったああぁぁぁ!気持ち悪い、まずそうっ」
 ミルイは小猿を払いのけて部屋の隅まで逃げ出した。
 ミルイの言葉を聞いた小猿も逃げ出していた。
『嬢ちゃん、わしを食う気だったんかい。やめとくれよ』
「うわああぁ。やっぱり喋ってるよぅ」
 怯えるミルイ。
「いたずらが過ぎるぞ、ハヌマーン。しかし、『聖獣』の言葉が聞こえるとなると、やはり間違いないようだ。伝説は動き出してしまった。全てはあの少女と君にかかっているようだ」
 月読はスキタヤ中佐に向き直った。
「私に出来ることは多くはない。しばらくは彼女に任せることになるだろう。その間、私はヴィサン討伐に協力しよう」

 月読とスキタヤ中佐は軍部の高官達と話し合うことになった。スキタヤを連邦軍に組み込むためだ。
「しばらくこの部屋で待っていてくれ。困ったことがあったらこのスムレラに言うといい」
 月読は部屋の外に待たせていた秘書を呼び入れた。おっとりとした顔つきの若い女性だ。この世界に来て初めて見かける安心できる顔だ。
「はじめまして。かわいいお嬢ちゃんね」
 スムレラは目線をミルイの高さに合わせ、ミルイの顔を覗き込んだ。
「私、ミルイ」
「ミルイちゃんね。何か飲む?」
「うん。……おなかすいた」
「じゃ、お茶菓子も持ってくるね」
 スムレラはいそいそと部屋を出て行った。ミルイは一人きりになる。そして、部屋にはあの喋る猿がいる。ミルイは落ち着かない。
『お嬢ちゃん、そんなに怖がらんでくれ。せっかくこんなにかわいいわしなのに』
 おさるが話しかけてきた。ミルイはちょっと逃げた。
『猿と話すのは初めてかの?』
 当たり前である。
『お嬢ちゃんがこうしてわしと話が出来るのは、お嬢ちゃんが持ってる勾玉のおかげじゃ』
「勾玉って、これ?」
 ミルイは勾玉を取り出す。
『そうそう。そしてわしは聖獣。自然界の獣たちの上に君臨する偉ーいありがたーいスペシャルな獣じゃ。まあ、自然界の獣と言ってもわしはちょっと都会派じゃがの。ふぉふぉふぉ』
「なんかよく分かんないけど……なんかすごいんだ」
『ま、そんなところじゃの』
 スムレラがお茶と茶菓子を持ってきた。ミルイとハヌマーンはお茶菓子に飛びついた。
『嬢ちゃん、女の子がそんなにがっつくもんじゃない。みっともないぞ』
「お腹空いてるんだもん」
 ハヌマーンはとられる前に自分の分をしっかり確保して逃げた。
「ミルイちゃん、どこから来たの?」
 お菓子に伸びていたミルイの手が止まる。
「よく分からないの。ここはどこ?」
「ここは連邦の中央政府議長官邸。通称『月宮殿』よ」
「ふえぇ」
 間抜けな声を出すミルイ。さっぱり分からないからだ。
「月読様のお知り合い?ご親戚かしら」
 返答に困るミルイ。
『隠し子とでも言っておけ』
「えっとね、かくしご」
 ハヌマーンの冗談を真に受け、意味も分からずに言われた通りにするミルイ。スムレラは茶を吹いた。
『本当に言うとは。冗談だって言っておいた方がいい』
「えっとね。冗談。このおさるに言えって言われたの」
「すごい冗談を言う子ね……侮れないわ」
 スムレラはテーブルを拭きながら呟いた。
「あの……。スバポって人、知らない?探してるの」
 ミルイはテーブルを拭き終えたスムレラに尋ねてみた。
「うーん、知らないなぁ。ここにいる人?」
「えっと……ろ……ロッシーマ?にいるんだって」
「ロッシーマ……って言うとアギだったかしら。すっごく遠くよ。連邦の反対側だもの」
「そっか……。どうしよう」
『なんじゃ。恋人か』
 ハヌマーンが口を挟んできた。
「そんなんじゃないよ。こっちの世界に来たら会うことになってたの」
『ん?と言うことは勾玉を持った天神か。それならばそのうち会えるじゃろ』
「アマツカミ?甘いの?」
『勾玉を持ち、地平線の少女……嬢ちゃんと共に歩むことを運命づけられた者の事じゃ』
「あら。そのおさるさんとお話しできるの?」
 今度はスムレラが口を挟んできた。
『このねーちゃんはわしをただの猿だと思っとる。なっとらん。まあ、言葉が聞こえんのならそれも無理はないがの。おっぱい大きいから許してやってるが』
 不機嫌そうにハヌマーンがぼやいている。
「えっと。このおさるさんは特別なおさるさんだから私とお話しできるの」
「あら。さすがは月読様のペットねぇ」
『ペットとは失礼な!』
「なんか失礼な、とか言ってるよ」
 おさるの通訳になるミルイ。
「あら、ごめんなさい」
 おさるに謝るスムレラ。
『いい機会じゃ、この栄養が頭に行かずおっぱいにばかり行ったおとぼけ娘にびしっとわしの素晴らしいところを説明してやろう。嬢ちゃん、通訳を頼むぞ』
 ハヌマーンの言葉にミルイは頷いた。
「えっと。おさるさんがね、栄養が頭に行かずおっぱいにばかり行ったおとぼけ娘にわしの素晴らしいところを説明してやるって言ってるよ」
『そ、そこは通訳せんでいい』
 言い終わってから口を塞いでももう遅い。ハヌマーンが振り返ると、スムレラが顔を引きつらせ、怒りを帯びた目で睨み付けている。ハヌマーンは逃げ出した。
「逃げるって事はホントに言ってわね!?私だって好きで胸大きくなったわけじゃないわ!肩こるんじゃい!」
 ハヌマーンを追いかけるスムレラ。ハヌマーンはいつの間にか部屋に入ってきていた月読の肩に登り、頭の後ろに隠れた。
「……どうした、スムレラ君」
「あ」
 慌てて平静を取り繕うスムレラ。月読も今の話は聞かなかったことにした。
「あー。そう言えばまだ名前を聞いていなかったな」
 月読はミルイに向き直る。
「ミルイだよ」
「そうか。ミルイ、君をどうするかについてはまだ決まっていないのだ。とりあえず、女子寮の一室を確保したので寝泊まりはそこでするといい」
 よく分からないが、とりあえず寝るところは確保できた。
「こんな堅苦しい場所だ。遊ぶところもないし、遊び相手もいなくてつまらないかも知れないが、ちょっとの間我慢してくれ。係官に案内させよう。それとスムレラ君。君にはちょっと話がある」
「な、なんでしょうか」
 スムレラは緊張した面持ちになる。何か失態をやらかしたのだろうか。今し方恥ずかしい言動はあったが、それではないと思う。
「君には重要なプロジェクトに関わってもらうことになる。そのための予備知識として資料に目を通してもらわなければならない。最重要機密の文書になる。私の認証無しでは触れることも出来ない資料だ。……ついてきてくれ」
 月読は歩き出す。その肩に乗っていたハヌマーンがミルイの頭に飛び移った。
「きゃ」
『一人じゃ寂しかろう?わしが遊び相手になってやる。どうせこれから長い付き合いになるじゃろうからな』
「え?なんでなんで?」
『わしら聖獣は自然界のまとめ役であると同時に、人間界と自然界の接点でもある。神々の黄昏(ラグナレク)に立ち向かう天神達のガイド役も仕事の一つじゃからの』

 係官の案内で、女子寮の一室に辿り着いたミルイ。おいてあるのは備え付けのベッドとテレビと冷蔵庫だけだ。
『テレビがあるだけでずいぶんと違うぞ。冷蔵庫の中身も楽しみじゃ』
「れいぞうこって?」
『そこにあるのがそうじゃ』
 ミルイは開けてみた。何も入っていない。スイッチさえ入っていなかった。ハヌマーンはがっかりした。
『ホテルじゃないから買ってこないと何もないか……。湯上がりにワインでも飲みながら優雅に映画放送でも見ようと思ったのに』
 ミルイはベッドに近づいてみる。
「ここで寝るのかぁ」
 ミルイはベッドに寝そべった。
「うわぁ、気持ちいい」
 簡素なベッドなのでこの世界では寝心地は悪い方だが、中ツ国ではこれほど寝心地のいい寝床は滅多にない。袋に落ち葉でも詰め込んで、その上に熊の毛皮を敷いて寝ればいい勝負だろうか。
『嬢ちゃん、寝るにはまだ早いぞ。わしがこの世界や自然界のことをみっちりと教えてやろう』
 ハヌマーンは話し始めたが、小難しい話だったために、あっけなくミルイは眠ってしまった。

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