黄昏を呼ぶ少女

三話 夢の世界へ

 ミルイがスバポの小屋についた時、スバポは熱心に祈りを捧げていた。
 邪魔してはいけないと思い、ミルイは入り口のところで待つことにした。祈り続けるスバポの姿を遠巻きに見ていると。
「お兄ちゃんに何か用?」
 いきなり声をかけられびっくりするミルイ。振り返ると、スバポの妹のベシラが立っていた。
 その声がスバポにも届いたのか、スバポは祈りを中断した。
「おや、君か。何かあったのかい?」
 またしても祈りを中断させてしまったことを申し訳なく思うミルイ。だが、どちらもベシラが原因なので気にしないことにした。
 ミルイは事情を話す。
「やはりその勾玉は不思議な物のようだね。また同じ事が起こるかどうかは分からないが、この水瓶の水に同じようにしてごらん」
 スバポは祭壇の脇に置いてある水瓶を指さした。
 しかし、水瓶は小さくはなく、ミルイは背伸びをしないとのぞき込めない。それを察したのか、ベシラが踏み台に丸木の台を持ってきた。
 ミルイが勾玉を手に水瓶をのぞき込むと、再び勾玉が熱を持ち輝き始めた。スバポも目の前で起こっている出来事に驚き、おお、と声を漏らす。
 ミルイが覗き込む水瓶には、先ほどと同じように夢に出てきた男性の姿がこちらを見上げている。
 水瓶の中の男性は、何かを持った手を高く掲げた。その「何か」は男性の手を離れ、水面に吸い寄せられていく。水面がにわかに波立ち、水面に映っていた「何か」が、ゆっくりと水面に姿を現した。
 ふわりと浮かび上がったのは、彼らがまだ目にしたこともない「金属」でできた鏡であるが、見たことのない、得体の知れない物にしか見えない。
 ミルイは、その得体の知れない物におずおずと手を伸ばす。触れてみると、石のように固く、水のように冷たい。しっかりと掴んでみると、不意にずっしりとした重みが手にかかった。
 片面には細緻な細工が施され、その反対の面は静かな水面のように滑らかで、輝いている。
 その不思議な物に見とれる暇もなく、さらに不思議なことが起こる。ミルイの目の前の景色が炎の上に立つ陽炎のように揺らぎ、みるみるうちに人の形を取ったのだ。そこに現れたのは、ミルイの夢に、そして覗き込んだ水面に現れた男性だった。
 何かとんでもないことが起こったのは間違いなかった。男性と目が合う。ミルイは恐怖で動けなくなった。
「安心したまえ、私は危害を加えるつもりはない。今、君が見ているのは幻のようなものだ」
 直接頭に響くような不思議な聞こえ方だが、穏やかな声だったのでミルイは少し安心する。どうやら一緒に居合わせたスバポやベシラにも彼の姿は見え、声も届いているようだ。男性は二人の方を向いた。
「どうやら君たちも勾玉に選ばれた少年達のようだな。君たちにはもう一つの世界、高天原に来てもらうことになる」
「僕たちも、ですか?」
 スバポは驚いている。ベシラの方は事態がさっぱり飲み込めていないのか、ただ不思議そうな顔をしている。
「そう。だが高天原はこことは違う世界。そして、夢の世界だ。この世界は我々は中ツ国と呼んでいる。高天原みればこの世界は中ツ国からみた高天原のように夢の世界になっている。高天原に来るためには、眠り、夢を見るのだ。それだけでいい。高天原には別な肉体を持った君たちがいる。しかし、もう一つの世界の君たちはこの世界の君たちとは意識も記憶も別個になっている。その二つの世界の意識を繋ぐためには勾玉が必要だ。君たちもどこかで手にすることになるだろう」
「その……タカガマハラとか言う所に行って、どうすればいいの?」
 ミルイが恐る恐る訪ねる。
「タカマガハラだ」
 ミルイの言い間違えを素早く訂正しつつ、男性は答える。
「高天原では今大変なことが起こりつつある。太陽を司る天照様の力が消えて、太陽が失われ世界が闇に包まれてしまうおそれがある」
「それって、おひさまがなくなっちゃうってこと?そんなのやだぁ」
 怖がってはいるが危機感に欠けるミルイの反応に、少し調子を狂わされながらも男性は続けた。
「それを防ぐためには君たちの力が必要なのだ。高天原にある『天珠宮』に来て欲しい。だが、それは長い道のりとなるだろう。それに、他にもしなければならないことがある。まずは仲間を捜すこと。勾玉を持った仲間を捜すのだ。勾玉を持ったもの同士は引き寄せ合うはず。運命にたぐり寄せられるかのように君の元に集うことになるだろう」
 そう言い、ふと何かに気付いたようなそぶりを見せる。
「君の名前は?」
 まだ名前を聞いていないことを思い出したようだ。
「あたし?ミルイだよ」
「私はスウジチ。私とはその鏡を通して話が出来る。私も忙しい身なのでそうそう相手はしていられないが、出来るだけ君の助けになれるように務める。他の四人の仲間が見つかるか、何か困ったことがあったら呼び出してくれ。それと」
 今度はスバポとベシラの方に向き直る。
「君たちは勾玉を手に入れなければ高天原に来ることは出来ない。勾玉を探すのだ」
「ど、どこにあるんですか、勾玉は」
 いきなり探せと言われて戸惑うスバポ。
「分からん」
 スウジチはばっさりと斬り捨てた。
「そのうちどこかから出てくるだろう。まあ、深く考えないことだ」
 なんだか納得がいかないスバポ。
「他に質問はあるか?」
 スウジチの言葉にスバポは少し考えた。
「質問は特にないようなので、私は仕事に戻らせてもらおう。健闘を祈る」
 焦るスバポを尻目にスウジチの姿は跡形もなく消え失せた。
「聞きたいことはあったのに。なんてせっかちな……」
 愕然とするスバポ。
「結局、なんだか分からないね」
 ミルイも困ってしまう。
「とりあえずミルイちゃん。君は寝ろってことだよな」
 スバポの言葉にミルイは困った顔をした。
「えー。眠くないよぉ」
「夜でいいんじゃないか。今から寝たら夜中に目が覚めるし。それより、俺達も勾玉を探さなきゃ」
 スバポはそう言いながら水瓶を覗き込む。
「ん?」
 何かに気付いた。スバポは水瓶に手を伸ばす。引き上げたその手には勾玉が握られていた。
「……あった」
「そんなんでいいの!?探してないじゃないの」
 ベシラは苦笑いだ。だが、すぐにその笑いも凍りつく。勾玉が閃光を放ったかと思うと、スバポの体に電光が走ったのだ。
「うう……」
 短い声を上げてスバポはその場にへたり込んだ。
「……あたし、勾玉いらない……」
 その様子にベシラはビビっている。
 しばらく放心していたスバポだが、突然顔を上げた。
「ミルイ、君は高天原のどこにいるか分かるかい?」
 スバポの言葉にミルイは首を振った。
「俺はアギ国のロッシーマにいるが、最近は忙しくてとても遠くには行けない。出来るのならばロッシーマに来てくれ」
「何それ。ろっしーまって何よ」
 スバポの言葉にきょとんとしながらベシラが言う。ミルイもなんのことかさっぱり分かっていない様子だ。
「うーん、分からないか。勾玉を手にした途端、俺の中に高天原の記憶が流れ込んできたんだ。俺はあちらの世界ではアギ国軍司令部でオペレーターをしている。チーフクラスに昇格したばかりで仕事が忙しいんだ」
「日本語喋ってよお兄ちゃん」
 自分以外理解できない言葉を使うスバポにミルイもベシラも首を傾げるしかない。
「ああもう、やりにくいなぁ。とにかく高天原に来れば分かると思うんだけどさ。ミルイは高天原の記憶はないのか?」
「うん。ないよ」
「俺だけなのかなぁ。ベシラ、お前も早く勾玉見つけろよ」
「うん。探してくる」
 ベシラはどこかへ駆けだしていった。
「あたしは?」
 ミルイの問いにスバポは考えるが、特にするべきことは思い当たらない。何をすればいいのかも手探りの状況だ。無理もない。
「とりあえず、日暮れ前にもう一度来てくれるかな。その時、またいろいろ話そう」
「うん。分かった」
 頷くとミルイは元気な足取りで帰っていった。

 スバポの小屋を飛び出したミルイは、そのまま広場にさしかかった。何やら人だかりができ、いつになく盛り上がっている。
 ミルイは隙間から覗き込んだ。よく見えないので、人の足の間をすり抜けて前の方に出た。
 広場では今、まだ決まっていない『グリゼラチ』の役を担う人物を決めていた。グリゼラチとは精霊や神への供物を捧げるための土器の職人だ。
 そしてこの集まりは、いわばコンクールのようなもので、各地の職人がこの祭りのために丹誠込めて作った土器を持ち寄り、その中でもっとも素晴らしいものを決めるのだ。
 あたりを見渡したミルイは、人の輪の中にとても見慣れた人影を見つけ、駆け寄った。
「お父ちゃん!お母ちゃん!」
「おお?ミルイ。どこ行ってたんだぁ?」
 ドブリはミルイを抱き上げ頭を撫で回した。
「あのね、朝の勾玉って言うののことでスバポさんの所に行ってたの」
「ほう」
 言ってからミルイはもしかして今のことは他の人に言っちゃ駄目だったかな、と心配になった。だが、ドブリはあまり気にしていないようだった。
 その間も、母のイタンキは誰か女の人と話し込んでいる。見覚えがあるような顔だが良く思い出せない。大きなほくろがあるのが目につく。そして、傍らに置かれた素晴らしい土器。彼女が名高いササナミ森の土器職人、ポケシなのだろうか
 ミルイはそれをドブリに聞いてみると、案の定だった。
 ポケシの傍らには一人の少女が立ってこちらを見ている。ミルイと目が合うと少し恥ずかしそうに目を逸らしてしまった。それでも、時折こちらが気になるらしく、ちらちらとミルイの方を見ている。
 ミルイはピンと来た。
「お父ちゃん、おろして」
 ドブリに耳打ちすると、ドブリはミルイを地面におろしてくれた。ミルイは少女の方に駆け寄る。少し戸惑ったようなそぶりを見せた少女。ミルイと比べると背も高く、いくらか年上らしい。
「お姉ちゃん、ラズニ?」
 ミルイが名前を知っていたので少し驚いたようだ。その反応でミルイはやっぱりと思った。そして腰に紐で繋げておいた笛を差し出す。
「これ、お姉ちゃんが作ったんだよね。ありがと」
 ラズニがさっきから気にしていたのはこれだった。ラズニはミルイに照れたように微笑んだ。ミルイはそんなラズニに笛を吹いてみせる。その音色に周りにいた人が一斉に振り返った。
「ポンとヤネカチももらったんだよ」
「喜んでくれてたかな」
「うん」
 ミルイは大きく頷いた。
「よかった」
 ラズニはまた穏やかな笑顔を見せた。優しげでほっとする笑顔だ。
 そうこうしているうちにも、コンテストの審査が進んでいる。
「また今年もポケシかな」
 そんな声も聞こえてくるが。
「どうだろうなぁ。そう思ってたんだけどなぁ」
 と言う声もちらほら聞こえてくる。
 ミルイはポケシの傍らに並べられている二つの土器を見る。周りにある他の人達の作った土器と比べても目を引く存在になっている。一方はとても繊細で美しい出来映えの土器。そしてもう一方はやはり美しいが力強さを感じさせる土器。
 ミルイはいつしか土器から目を離せなくなっていた。
「ねえ、どう?あたしの土器」
 後ろからラズニにそう言われ、ミルイがじっと見つめていた土器がポケシではなくラズニのものであると知った。
「えっ。これラズニおねえちゃんの作った土器なのっ?」
 ミルイを見下ろす優しい笑顔と、ラズニの作ったという土器を見比べる。ラズニが作ったという、ミルイが見つめていた土器は力強さを感じさせる土器だった。今までにラズニが見せた物静かさ、穏やかさ、内気な感じとはまるで対照的な土器だ。ミルイにはそのギャップが何より意外だった。
「ラズニお姉ちゃん、すごいね!」
 ミルイの言葉にラズニは照れ笑いを浮かべた。
 やがて、審査の結果が出ることになった。
 選ばれたのはラズニだった。
「やっぱりねぇ。ラズニがこれを作った時からそんな気がしてたのよね」
 ポケシはそう呟いた。残念そうながらも、少し誇らしげな複雑な表情を見せる。自分に輝いたかも知れない名誉を取られたが、その相手が自分の自慢の娘だったのだから複雑な気分も無理はない。
「来年は負けないわよ」
 そう言いながら、緊張気味のラズニの背中を押すポケシ。ラズニは人の輪の中心に躊躇いがちに進み出た。
 人混みの外から正装したスバポが現れた。スバポも相手がポケシだと思っていようだが、目の前に立っているのが少女であることにいささか驚いた様子を見せた。だが、何事もなかったかのようにグリゼラチの任命の儀式を滞りなく行った。
 祭りの主役達が、これで全員出揃ったのだ。

 日が暮れかかった頃、ミルイたちのいるナミバチ村のキャンプに来客があった。
 スバポだった。スバポはドブリに何か言っている。ドブリはそれを聞いて驚くそぶりを見せた。
「ミルイ、ちょっと来なさい」
 ドブリに呼ばれ、夕ご飯を食べ終えたばかりのミルイは二人に駆け寄る。
「ミルイ。あれからいろいろ考えて、何かあった時のために君をできるだけ近い所に置いておこうと思う。高天原が夢の世界なら、あちらに行っている間にも、君を起こせば話ができると思ったんだ。祭壇横の控え室を君のために用意したからそこに泊まって欲しい。いいかい?」
 周りには聞こえないように、小声でスバポが言う。
「うん。わかった」
 ミルイは二つ返事で承諾したが、事情を両親に説明すると当然ながらいささか驚いたようだ。もっとも、悪いことではないのは話の成り行きで分かるので、両親も喜んでミルイを送り出した。
 スバポがミルイを連れ去っていくのを見たナミバチ浜の村人達は、何事なのか興味津々のようだった。実際のところ、ドブリもイタンキも事情を飲み込めたわけではない。そんなわけで、ドブリから村人に伝えられたのはこれだけだった。
「イスノイドネのスバポ殿が、ミルイに用があるから連れて行くことになったんだ」
 これを聞いた村人達も、ふーんとか、ヘーとかしか言いようがないのである。ただ、ポンだけはやや色めき立ったようにヤネカチに話しかけている。
「ねえねえ、これどういうことよ、用って何?もしかして見初められちゃったわけ?このあたしを差し置いて!」
「それはどうだろう……」
 ヤネカチはポンの剣幕にたじろぎながらようやく返事をする。ポンはスバポに目をつけていたのだから、これは気にならないわけがないのである。

 そして、結局ミルイは帰っては来なかった。ポンは気が気じゃない。寝るに寝られないわけである。横ではリジヤチが太平楽に寝こけている。暇さえあれば寝ているようなリジヤチの血を引いているだけあって、ポンも寝付きはいいはずなのだが眠れない。
 大人達、特に男は明朝、妖怪退治に駆り出されるので早めに眠りについている。そうなれば、女達もその眠りを邪魔しないようにおしゃべりをやめ、そうすると他にすることがないので寝るしかない。
 ポンも一応寝ようと思って目は閉じてはみるのだがやっぱり寝付けないのだ。
 男たちはみな、妖怪とやらの鳴き声で朝早く叩き起こされている。寝付きもいいわけだ。それに比べてポンは昼間、遊ぼうと思ってもミルイもヤネカチも見つからず、手伝う仕事もなくて仕方なくお昼寝をしていた。眠れないわけである。
 ふと、真っ暗なテントの中で、何かが動く気配があった。目を開けて顔を向けてみる。
 辺りを窺うような動きをしながら、小柄な影がテントから出ていくところだった。ヤネカチだ。用でも足しに行くのだろうか。
 ポンは起きあがり、テントから出てヤネカチに声をかけた。ヤネカチは驚いている。
「なーんか眠れなくってさ。ミルイどうなったのかなーとか気になって。あとお昼寝もしたしさ」
「へー、そ、そう」
 ヤネカチは落ち着かない様子だ。ポンはそんな様子を察した。
「だーいじょうぶだって。邪魔はしないから」
「え?え?」
「おしっこでしょ?」
「え?あ、うん」
 やはりそわそわしたままだ。
「ねえ、今日昼間何があったの?ミルイと二人でどこか行ってたんでしょ」
「うん。でもすぐにはぐれちゃった」
「えー。それじゃ、そのミルイが一人になっている間に何かあったのね。何があってスバポさんに気に入られたんだろう……」
 ポンは結局この話題に繋げたかったわけだ。
「ヤネカチは何してたの?」
「えーっと。ミルイとはぐれてから河原で遊んでたよ」
「一人で?」
「うん」
「それならあたしも誘ってくれればいいのに。寝るしかないくらい暇だったんだからさ」
 そんなことを話しているうちにもヤネカチは用を足しおえたようだ。ポンに声をかけられて驚いたせいか、なかなか出るものも出なかったようだが。
「あーあ。こんなんじゃまだまだ眠れないよ」
 そんなことを言いながら歩くポンの後ろを、ヤネカチは黙ってついてくる。
「ね、ね、明日ミルイのところに行ってみよ。ね」
「う、うん」
「朝ご飯食べ終わったらね」
「うん……」
 テントに戻った二人は自分達の場所に横になる。やはりポンは寝付けそうになかった。

 その頃、ミルイはスバポの用意した部屋で眠りについていた。
 吸い込まれるような深い眠り。その中で、ミルイは体が宙に浮くような不思議な感じに包まれていた。
 眩しい光がミルイの瞼を通してミルイの目に入る。目を覚ますと、ミルイは茂みの中に横たわっていた。
 体を起こしてあたりを見渡すと、奇妙な光景が目に飛び込んでくる。開けた土地に整った形の建物が整然とならび、足元は滑らかな石のような地面。
 舗装道路など見たことのないミルイにとっては、そこが道であることさえも分からない。踏んでも大丈夫なのかな、と恐る恐る足を出してみる。
 その足が見慣れない靴を履いていることに気付く。鮮血のように紅い靴。服も見たことの無い服だ。白いTシャツとギャザーがあしらわれたピンクのジャンパースカートの質素で地味な服装だが、ミルイが普段着ている服に比べれば華やかな色合いだ。異質な服装ではあったが、ジャンパースカートは普段着慣れた貫頭衣と通じるところがあるおかげで、割と違和感はない。
 とにかく、誰かに会ってスバポの待つところに連れて行ってもらうのが先決だ。
 寝る前にスバポと交わした言葉を思い出す。
 スバポがいるのはロッシーマの軍事通信施設。民間人は到底入ることが出来ない場所だ。夕方、スバポの仕事が終わってからロッシーマの海浜公園で待ち合わせることになった。
 のだが、それだけのことを伝えるにも、ミルイはそれらの言葉のどれ一つを取ってもまるでピンと来ない。ひとまずロッシーマとカイヒンコーエンだけ覚えた。海浜公園の意味さえ分かっていない。
 早く誰かに会わないと、その大切なロッシーマとカイヒンコーエンが頭から消えて無くなってしまいそうだ。しかし、あたりには人影がない。
 誰かいないかと探し歩くミルイ。角張った石らしい物でできた建物からは、時々恐ろしげなうなり声や獣の吼える声が聞こえた。
 人はいないのかな。
 恐る恐る歩き回るミルイに、足音が忍び寄ってきた。それに気づき驚いて腰を抜かしながら振り返るが、獣ではなかった。奇妙な出で立ちをしてはいるが人だった。制服姿の警備兵で手には銃を持っているが、そんなことはミルイに分かるはずもない。
「ここで何をしている!」
 怒気を孕んだ声にミルイは怖くなり、頭の中からロッシーマとカイヒンコーエンが吹っ飛んだ。
「どこのガキだ!?どうやって入ってきたんだ?」
 どこ、と言われても、この世界で知っている地名は今のところ一つしかない。ミルイは吹っ飛んでいた記憶を一生懸命呼び起こして、ようやく思い出した地名を口に出した。
「ろ、ロッシーマ」
「なんだと!?」
 ただでさえ怖い男の顔が、ますます怖い顔になった。何かまずかったのだろうか。ミルイは泣きたくなった。
「なぜロッシーマの人間がこんな所にいる!?……とにかくこっちへ来い!」
 乱暴にミルイの手を引っ張り男は歩き出す。平和な縄文の世界でこんな扱いを受けたことはない。
 男はミルイを一際大きな建物に連れて行った。建物の前には同じ服を着た男が立っている。
「なんだ、そのガキは」
 建物の前にいた男はミルイに一瞥をくれて言った。
「分からないが敵国の人間のようだ。大方、戦地に行った兵士がおもちゃにでもするつもりで連れてきたんだろう」
「敵国だからと言ってあまり好き勝手やられるとますます連邦から反感を買うってのに……」
「なあに、もう大概だろうさ」
 なんの話だろう、と思いながらミルイは黙って聞いている。
 やがて連絡を受けてきた軍の人間がやってきた。来い、とだけ言って歩きだす。仕方なくミルイはそれについていく。
 部屋に通され、案内してきた男と入れ違いに女の人が来た。この人もお世辞にも優しそうには見えない。
 ミルイは怪しい物を持っていないかを入念に調べられた。勾玉とスウジチに渡された神獣鏡を見つけられたが、ただのがらくたで怪しい物だとは思われなかったようだ。
 それが終わると女性はいなくなり、また別な人物が部屋に現れた。若い男だった。今までにあった男たちも怖い顔だったが、この男の顔は今までの気性の荒そうな男たちの怖さとは違った怖さを持っている。暗く冷酷な雰囲気を漂わせ、ミルイをまるで物を見るかのような冷めた目で見つめてきた。
「どの隊の兵かは分からんが、また厄介なことをしてくれたものだ……。誰かわかり次第処罰せねばならんな」
 そう呟くと、ふと男は口元に笑みを浮かべた。なぜかは分からないが、ミルイはその笑みを見て何かただならぬ恐怖を覚えた。
 テーブルを挟んでミルイの反対側の椅子に腰をかける。そして、テーブルの上にちらりと目をやる。その男の目が、テーブルの上の物に釘付けになった。明らかに表情を変える。
「これはなんだ……まさか」
 男はテーブルの上に並べられたミルイの数少ない持ち物、勾玉と神獣鏡の内の勾玉に手を伸ばした。思わずあっと声を漏らしそうになるミルイ。このまま返してもらえなかったらどうしようと心配になった。
 勾玉をしげしげと眺め、男はミルイに目を向けた。
「これは、どこで手に入れた?」
 ミルイは男の質問にどう答えるか迷った。だが、迷っている内に男は更なる言葉をミルイに投げかけてきた。
「お前はどこから来た?」
 何か答えなくては。ミルイは恐る恐る言う。
「ろ、ロッシーマ……」
 さっき、警備兵に対して答えた時よりもずいぶん小声だった。
「……ほう。では一つ尋ねていいかな?お前が来たロッシーマとは、どこにある?この地図を指さしてみろ」
 ミルイは壁に掛かった地図の前連れて行かれた。ミルイはどうしたらいいのか分からない。そもそも、地図がなんなのかも分からない。
「どうした?お前くらいの歳なら、自分の住んでいる国の場所くらいはいくらなんでも分かっているはずだが?」
 もう駄目だ。答えられない。そう思ったミルイは、泣き出してしまった。そんなミルイに、男は続ける。
「お前は本当はロッシーマなんかから来たんじゃない。我々が見たこともない、別な世界から来たのではないか?」
 ミルイは驚き、身を縮めた。その様子を見た男は、自分の考えが正しいことを確信した。男の方に恐る恐る顔を向けたミルイは、男が目を見開き、口元を歪めて笑うのを見て思わず男から離れた。狂気の笑みだった。
「やはりそうか……。遂に私の待ちわびた時が来たのだ。これは運命……いや、私に与えられた使命なのだ。そうでなければ、こんな偶然などあるものか……!」
 男は恐ろしい笑みを浮かべたまま低く呟く。ミルイはいても立ってもいられなくなった。テーブルの上に置かれた勾玉と神獣鏡を取り返し、部屋から駆け出そうとした。だが、男の入ってきた扉は開こうともしない。
「無駄だ」
 男はミルイの手を掴んだ。とてもミルイの力では振りほどけそうにない。
「放して!」
 もがくミルイを引き寄せ、男はミルイの手から神獣鏡を奪った。
「返して、返してよ!」
「返すさ。いずれ……な。これがあると厄介だ。しばらく預からせてもらう」
 男は部屋から出て行った。扉が自動で閉まる。この扉がどうすれば開くのかはミルイには分からない。いや、分かっていたとしても簡単には開かない。この部屋は侵入者などを閉じこめるための部屋なのだ。
 ミルイは閉じこめられてしまった。

 高天原のスバポは、時間通りに目を覚ました。
 お世辞にもきれいとは言えない、散らかった部屋。
 見慣れた部屋のはずなのに不思議な感じがするのは、この部屋を初めて見るあちらの世界、中ツ国の自分の意識のせいだろう。
 いつも通り簡単な朝食を済ませ、着替えて仕事に向かう。
 ふと、制服のポケットに手を入れてみる。手にふれる固い感触、それをつかみ出す。翠い勾玉。
 昨日の仕事の帰り道、道端にこの勾玉が光り輝いているのを見つけた。女物のアクセサリーにしては地味だ。そもそも、軍の敷地内にアクセサリーを着けて歩いている人物はあまりいない。なぜこんなものが?と思いながら、元の場所に捨てておくつもりだったが、何か気になって捨てることが出来ず、そのままポケットに入れて持ち帰った。家に着く頃にはそのことさえ忘れていたが、夢の中にこの不思議な勾玉が現れ、そのまま夢はもう一つの現実になった。
 あまりにも理解に苦しむ出来事だが、現実に起こった事を疑っても仕方がない。
 それに、今の自分にはそんなことで考えていられるほどの余裕がないことは確かだ。何せ出勤前の一幕なのだから。
 スバポが住んでいるのは独身寮だ。ほんの数十歩のところに仕事場の通信施設がある。
 定例の朝会で連絡事項を受け取ると、いつも通りの仕事が始まった。
 スバポの仕事はレーダー情報の監視など多岐に渡る。現在緊張状態が続いているヴィサン国の動向はもちろん、西に広がる森林地帯から来る巨大な虫たちにも警戒を払わなくてはならない。むしろ、この虫たちへの警戒態勢が、そのままヴィサン国に対しての警戒に繋がったおかげで、突然だったヴィサン国の連邦脱退、反乱に素早く対応できた。
 この反乱のために、スバポ達の仕事は急増した。人員を増やして対応にあたっているが、それでもてんてこ舞いの日々だ。
 そんな中、司令官がスバポのところにやってきた。緊急事態でもないのに司令官がやってくる時は、大概仕事が増える。スバポはうんざりした。なんて悪い時に昇格してしまったんだと心の中で呟いた。
「その顔から察するに、私が辞令を持ってきたことは分かっているようだな」
 司令官は冗談めかして言う。うんざりが顔にしっかり出ていたようだ。
「もしかしたら君の仕事は楽になるかもしれんぞ。今日の辞令は君への出向命令だ」
「出向、ですか」
「うむ。ヴィサン国が不穏な動きを見せているらしい。そのため優秀なレーダーオペレーターを数人派遣してほしいと連邦政府軍からの要請があった。我が軍はレーダーだけが取り柄だからな、とびっきりのオペレーターを派遣してやることにした。その中に君も入っているというわけだ。是非とも素晴らしい働きをして、我が軍にご褒美をもたらしてくれたまえ」
 この田舎軍隊から中央政府軍への抜擢は大出世だ。だが、スバポには気になることがある。
「出発はいつになりますか」
「明日の朝会終了後、エアシップを出す。集合は3番ポートだ。今日はいつも通り仕事をするように。どのくらいの期間になるかは分からん。冷蔵庫の中身は空っぽにしておいた方がいいかもしれないな。洗濯物は向こうに持っていってあちらで洗濯してくれると水道代が浮いて助かる」
 司令官の冗談にとりあえず笑っておくスバポ。だが、内心そんな冗談に笑っていられる心境ではない。今夜中にミルイと会えなければアウトだ。そもそもミルイと会えたからと言って軍の船でミルイを連れて行けるとは思えない。かといって、連邦の中心であるマハーリは遠く、スバポのポケットマネーでは航空運賃などでない。さらに言えば、どうにか航空運賃を工面したとしても、ミルイ一人でエアプレーンに乗せてもらえるとは到底思えない。
 考えようとするが、考える暇など与えられない。スバポの部下は次々と報告を行い、その対応に追われる。
 結局、慌ただしいまま交代の時間になってしまった。

 仕事を終えたスバポは大急ぎで海浜公園に向かった。
 夕方の海浜公園には、まだ子供達の声がする。広い公園だが、隠れるところはあまり無い。ミルイが来ていればすぐに見つかるはずだ。
 だが、いくら探しても、ミルイの姿を見つけることは出来ない。
 中ツ国では15歳だが高天原では二十歳近い自分のことを考えれば、ミルイがどの様な姿かは分からない。子供のままかもしれないし、ずっと大人になっているかもしれない。
 そう思いあらためて探すが、仲よく駆け回る子供達、いちゃつくカップルがほとんどで、一人で人を待っている女性は大人も子供も見当たらない。いや、女性ばかりかこの公園に一人で来ているのは今はスバポただ一人のようだ。
 やがて辺りは暗くなり、人影もまばらになる。スバポは諦めて帰っていった。また、中ツ国でミルイと状況について話し合うしかない。

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