黄昏を呼ぶ少女

二話 黄昏は招く

 建物の中を覗き込んでいたミルイたちの上に影が落ちた。それまで、ミルイたちはその人物が近づいていたことにさえ気付いていなかった。突然辺りが暗くなったのでふと顔を上げ、自分たちを見下ろしている人影に驚く。驚きのあまり思わず大きな声を出してしまった。建物の中で踊っていた少女は、その声に動きを止め、こちらに近づいてきた。
 改めて落ち着いて見てみると、ミルイたちのそばに立った人物は、背はすらっと高いがまだ幼さも感じさせる顔立ちだ。ミルイたちの驚き方に、逆に驚いたのかぽかんとした顔をしていたが、程なくくすくす笑い出した。
 建物の中から少女が顔を出し、辺りを見回す。
「あら、兄さん。なあに、どうしたの?この子達は?」
 彼女は彼の妹らしい。明るいところで見ると少女は思ったよりも幼かった。ポンと同じくらいだろうか。あまりにも見事な踊りで大人びて見えたのだろう。
「いや、お前が踊りの稽古をしているところを覗いてたみたいだ。僕がいきなり来たから驚いたんだよ」
「ご、ごめんなさい」
 三人は慌ててあやまる。
「別に構わないよ。邪魔さえしなければね」
 そうは言うが、もうすっかり邪魔してしまっている。
「ねえ、君たちどこから来たの?」
 少女は笑顔を浮かべて話しかけてきた。同性のミルイやポンでさえドキドキしてしまうような笑顔だった。
「な、ナミバチ浜の村からです」
 ポンが慌てながら答えた。
「あ、それなら聞いたことあるよ。ササナミ森の近くの浜辺でしょ?」
「そうです」
「ササナミ森の人たちも来てるのかな?」
「大人達の話を聞いた限りではまだみたいでした」
「そうか、残念」
 本当に残念そうな顔をする。誰か知り合いでもいるのだろう。
「君、ヤネカチ君?」
 少女はふと、ヤネカチの方を向いてそう言った。初対面の相手に名前を呼ばれてヤネカチは戸惑う。
「えっ?あっ、そうですけど。……何で知ってるんですか?」
「ナミバチ浜でそのくらいの歳の男の子って君しかいないんでしょ?」
 何か奥歯に物が挟まったような言いっぷりだ。ポンは彼女が言いたいことをすぐに見抜いてしまった。
「ほら、ヤネカチは遠くから流れ着いたからちょっと有名になってるのよ」
 ヤネカチの耳元で小声で言うポンだが、その言葉はしっかりと少女にも届いてしまう。少女はちょっとばつ悪げな顔をした。
「ああ、なんだ。そう言うことかぁ」
 一方のヤネカチは涼しい顔だ。
 少女は、ヤネカチが拾われた子だと言うことを気にしているのではないかと心配していたのだ。
 むしろ、ナミバチ浜は元々浜に打ち上げられた物は海の神からの贈り物としてありがたがる風習がある。ヤネカチも、神の子として大切にされている。漁に対する物覚えの良さも、そんな迷信じみた思いに真実味を加えているのだ。
「神の子、か」
 その話を聞いた兄の方がヤネカチに興味を持ったようだ。
「こうして僕と君が出会ったのには何か意味があるのかも知れないな。……ああ、僕はスバポ、今回の祭りのイスノイドネ、祈祷師の一人だ」
 それを聞いて三人は驚く。イスノイドネと言えば今回の祭りの主役のような人物だ。つまり偉い人である。
「イスノイドネって、もっとおじさんかと思ってた……」
 ミルイの記憶では確かに去年は白髪の老人だったような気がする。
「去年はそうだったよ。今年はその人が引退して僕が跡を継ぐことになったんだ」
「若いのにすごいですー」
 ポンは既に憧れの目で見ている。
「お兄ちゃんもすごいけど、あたしだって結構なものよ。あたしはベシラ。この祭りでのクラシビよ」
 クラシビとは祭りで神に捧げる踊りを踊る祈祷師の一人。そして、クラシビに選ばれる条件は美しさ、踊りの巧さ、人々の評判などで決められる、一言で言ってしまえばミス・シロキ野村と言ったところである。
「すごーい!兄妹でお祭りの大事な役目を任されるなんて!」
 ますます憧れの目で見るポン。ただ、ベシラの方よりもスバポの方ばかり見ているのは気のせいだろうか。そして、そんなポンにはあまり見向きもせず、スバポはヤネカチに言う。
「祭りの準備が一段落したら君とじっくり話がしたい。僕はこの建物のそばの小さな小屋に住んでいるから気軽に訪ねてきてくれ」
 スバポはそう言いながら大きな建物の横にある小屋の一つを指さす。あそこがスバポの住処のようだ。
「私たちもついてきていいですか?」
 普段は使わないような上品な言葉で尋ねるポン。
「もちろん」
 スバポはにこやかに答えた。ポンの顔は緩みきった。
「ありゃあ、惚れたな」
 ヤネカチはミルイに耳打ちする。
「……だね」
 苦笑いを浮かべながらミルイも相槌を打った。
 スバポとベシラは自分たちのすべきことに戻っていった。
「ねーねーミルイミルイ、どうよ、スバポさん」
 いきなりミルイに寄ってくるポン。
「ど、どうって……?」
 ポンの勢いに押されてちょっと引くミルイ。
「またミルイは興味なしみたいねー……。とことん趣味合わないなあ。まあ取り合いにはならないからいいけど。ミルイがどんな男に惚れるのか見てみたいもんだわ」
 ミルイは苦笑いを浮かべた。前にもこんなことがあったような気がする。

 自分の村のテントに戻ると、何やら盛り上がっていた。
「なにかあったの?」
 ミルイはドブリに聞いてみた。
「おう、今年はうちの村がエムビシの役目をもらえそうなんだ」
 エムビシもイスノイドネやクラシビと同じような祭りでの役割で、漁師達の代表者だ。野原のど真ん中にあるシロキ野村には当然漁師がいないので、集まってくるよその村から選ばれることになる。祭りのために持ち寄った魚によるランキングで決められるのだが、そのランキングで今トップなのがナミバチ浜だ。まだ来ていない村もあるが、そう言うのは大体いい魚がなかなか捕れずに、粘っているクチなので、大逆転でもない限りもらったも同然と言える。
「うわお。すごいじゃない」
 ポンも大喜びだ。
「これでスバポさんに恥じることなく堂々と会えるわね!」
 大喜びの理由はそう言うことだったようだが。
 実際には村で漁を取り仕切っているドブリがその役目を買って出ることになる。そう言う意味ではミルイの方が一目置かれそうなものだ。ただ、村全体の結束が堅いので誰が代表だからと言って、それで優劣が生まれたりはしないのだが。
「ん?スバポさんって誰だ?」
 ポンの親父さんのリジヤチが聞きつけた。
「さっきね、たまたまそこで今年からのイスノイドネの人に会っちゃったのよー。それがまた若い上に男前でさぁ。しかもまた会いたいとか言われちゃって!」
 また会いたいと言われたのはヤネカチの方だとか、ベシラの話が出ないことには触れない方がいいのだろう。
「ああ、ポンの奴もいつまでもガキだと思ってたが、もうそんな年頃なんだなあ。嫁に行く日のことを考えると夜も寝れねえぜ」
 よよよよよと泣き始めるリジヤチ。
「お前さんが夜眠れないのは昼間に寝過ぎだと思うがどうだろう」
 つっこみはスルーされた。
「イスノイドネの人か。……俺もエムビシに選ばれたことだし、後で挨拶にでも行っておかないとな」
 ドブリがぼそっと言い、ミルイに向き直った。
「ミルイ、あとで案内してくれないか。場所は分かるんだろ?」
「うん」
 ミルイは頷いた。
「そうだなぁ、明日の朝にでも頼むよ」
「うん、分かった」
「もちろんあたしもついてっていいよね?」
 ポンが割り込んできた。
「ああ。邪魔はするなよ」
「分かってるわよ」
 そうなれば当然ヤネカチもつれていくしかない。そもそもポンは同伴以外の大義名分はないわけだが。

 旅の疲れからか、ナミバチ村の一行は皆眠りに落ちるのが早かった。
 海辺では手に入りにくい野菜をふんだんに使った料理を平らげると、焚き火のそばで大の字になったリジヤチのいびきが早速聞こえ始めた。それに誘われるように皆めいめいに眠り込んでいく。
 空はまだほのかに光を帯びている。夏の夜は訪れが遅く、去るのが早い。
 やがて、本格的に闇が訪れ、所々で燃え続ける焚き火と空の星々しか見えなくなった。月のない夜だ。
 その中を音もなく蠢く影に気付く者は誰もいなかった。いたとしても誰かが用を足しに行くんだろう、くらいにしか思わず、誰も気にも留めないはずだ。

 その頃、ミルイは夢の中にいた。
 不思議な夢だった。
 そこにミルイはいない。見覚えのない風景のただ中に、見覚えのない人影が佇んでいた。
 あたりは荒れ果てた大地。草もなにもない岩だらけの景色。その中にただ一本だけ、場違いな杉の大木が聳えていた。どれほどの時があればこれほど大きな木になるのだろうかというような大樹だ。そして、その巨大な大樹にはまるで大蛇のような注連縄が巻き付けられている。
 険しい顔をした一人の青年。彼が、その杉の木に祈りを捧げている。閃光があたりを包み、遅れて雷鳴が轟く。雨は降っていないが、空は分厚い雲に覆われていた。
 青年は目を見開き、大樹を仰ぎ見た。そして、よく通る声で詠唱を始める。
「勾玉よ。天降りて中ツ国を目指せ。汝を呼ぶ者、汝を持つべき者を探し出せ!……宝珠降臨!」
 詠唱の終わりと共に、一段と強い閃光と轟音があたりを包み込んだ。杉の木に稲妻が降りていた。注連縄が燻りながらはじけ飛ぶ。青年の目の前にどさりと言う音と共に落ちてきた。
 雷に打たれたはずの杉の木は、燃えることも裂けることもなく、稲光のような青白い光を纏ったまま、何一つ変わらぬ姿でそこに存在した。
 杉の木の根本から、淡い光の玉がいくつかふわりと舞い上がり、杉の木の幹を中心に螺旋を描きながら上昇し、ゆっくりと回転を狭め、幹の中に吸い込まれていく。それと同時に杉の木を包んでいた燐光も杉の木の中に吸い込まれたかのように消えた。
 その一瞬の後、再び激しい閃光が杉の木の先端から起こった。光はまっすぐ天へと伸び、空を覆い尽くす厚い雲に突き刺さる。雲に小さな穴が開き、微かな空からの光が差したのもつかの間、雲の穴は瞬く間に広がり、地平線の彼方まで飛ばされ、空は一点の曇りもない青空になった。
 杉の木からの光は緩やかに消え、空にはその名残のように光の点が残された。それは一瞬激しく輝き、6本の線となり、地平線の彼方へと四散した。
「……封印は解かれた。あとは、全ての決断を『彼女』に任すのみ……」
 青年はそう呟き、踵を返す。彼の踏み出す足元には光の階段が現れた。空に輝く太陽へと続く長い階段が……。

 ミルイは目を覚ました。
 まるでさっきの夢の続きを見ているような気がする。ミルイの顔には強い朝日が当たっていた。
 外来者キャンプのテントは屋根だけなので、横からの日差しが容赦なく照りつけてくる。
 目をこすってよく見てみるが、太陽には階段など無い。
 何だろう、今の夢は。
 まあ、夢よね。
 いつもは見た夢のことなど、目が覚めるとほとんど思い出せない。しかし、今日の夢は不思議なことにありありと思い出すことができた。
 あたりを見渡すと、女達が朝食の用意をしているのが見えた。用意が調うまではまだ少し時間がかかりそうだ。ポンはリジヤチと川の字になって大の字に寝ている。ヤネカチもねぼすけの若い衆と一緒に寝こけている。子供では一番最初に起きたようだ。
 太陽の角度から考えて、まだかなり早い時間だ。昨日は疲れ果てて早々に眠りこけてしまったのでこんなに早く目が覚めたのだろう。
「ミルイも目が覚めたか」
 ドブリが声をかけてきた。小さく頷くミルイ。
「結局あのまま寝ちまったのか。そりゃ目も覚めるわな。……こいつは俺よりも先に寝てたくせによく寝られるな」
 ドブリはリジヤチを突っつくが全く反応はない。
「ねえあなた。起きたなら川で水汲んできてくれない?」
 ミルイの母のイタンキがドブリに言った。まだこの頃は早起きは三文の得などと言う言葉はなく、早起きすると朝っぱらからこき使われることも多いのだ。
 することもないのでドブリは素直に水汲みに出掛けた。やはりすることがないミルイもいくつかのひょうたんを手にドブリについていく。
 村からさほど離れていないところに、流れが穏やかな川が流れている。河原にはドブリ達と同じ目的の人たちが集まっていた。
 ミルイはひょうたんに一つずつ水をためていく。その横でドブリが水をためているのは鯨の胃袋だ。大きいが、口は小さいので時間がかかる。ミルイは近くの大きな石に腰を下ろして待つことにした。
 ふと、今朝方の夢を思い出したミルイは、今はさっきよりは少し高くなった太陽を見上げた。
 太陽の眩しさに目を逸らそうとした時、太陽から少し離れた場所に何か光る物が見えた気がした。
 そちらに目を向けると、やはり何かがきらりと光った。
 なんだろう。
 ミルイはその光から目が離せなくなった。
 光は自分の方にまっすぐに向かってくる。そして、だんだんその光る物の姿がはっきりしてくる。何か赤いもの。
「お父ちゃん、あれ、何?」
 ミルイはドブリに駆け寄る。ドブリは水汲みの手を止め、ミルイの指さす方を見た。ドブリも同じ物を見る。
「んー?虫?じゃあねぇなぁ……」
 言っているうちにも光はミルイの目の前にまで来た。淡い不思議な光を纏ったままミルイの目の高さで止まる。まるでミルイが手を差し伸べるのを待っているかのように。誘われるようにミルイはその光を手の中に収めた。ミルイの手のひらの中で光は収まる。残されたのは深紅の勾玉だった。
「何で空から勾玉が降ってくるんだ?これはただごとじゃないぞ」
 ドブリは興奮気味だ。当然である。今で言えばUFOでも見たようなものなのだから。
「何だろう、これ。もらっちゃっていいのかなぁ」
「うーん。あっ、そうだ。朝飯を食ったらイスノイドネ殿に挨拶に行くだろ。その時見てもらおう。うん、それが一番だ」
 そう言うことになった。勾玉のことはめちゃくちゃ気になるが、ひとまず置いておくことにして、水汲みを終わらせた。
 水汲みを終えてキャンプに帰ると村人の多くは目を覚ましていた。まだ寝ているのはリジヤチとポンとヤネカチの三人だけだ。
 キャンプには真ん中に焚き火があり、それを囲むように筵が敷いてある。そして、隅の方にはシロキ野村が用意した大きな瓶が置いてある。その中に水を溜めておくのだ。ドブリの鯨の胃と、ミルイのひょうたんを合わせても半分くらいだ。しかも、その半分くらいが待ってましたと言わんばかりに、飲まれたり料理に使われたりしたのであっという間に減ってしまった。
「さーて。そんじゃ今度はあんたらが行ってきなさいよ!」
 村の若い衆が鯨の胃袋を持たされて追い出された。鯨の胃袋は全部で3つあるので今度は瓶もいっぱいになるだろう。

 お腹が膨れた所で、ドブリは子供達を連れてスバポに挨拶しに行くことにした。
 ミルイの懐には先ほど手に入れた勾玉が大事に収められている。他の人には、まだこの勾玉のことを言っていない。なんとなく、言ってはいけないような気がしたのだ。
 村の中央の大きな建物のそばの小さな小屋。入り口の上の方には、真ん中が太くなっている二本の縄に、磨き上げられた丸い石が挟まれた、目のような形をした飾りがかけられている。イスノイドネの印だ。
 中を覗き込むと、スバポが祈りを捧げていた。
「邪魔しちゃいかんかなぁ」
 ドブリはそう呟くが、その声やミルイたちがちょこちょこ歩き回る足音が聞こえたのか、スバポは振り返った。
「何か?」
 スバポは立ち上がり入り口の方に歩いてきた。ミルイたちの姿に気付いたようだ。
「や、どうも。この度エムビシに選ばれたナミバチ浜のドブリです」
「あ、これはどうも」
「お忙しい所でしたかな?」
「いえいえ。祭りが始まるまではすることもありませんよ」
「他は決まりましたか?」
「まだ決まりませんがグリゼラチはササナミ森のポケシでしょう。イトヤヅチはカモシカを捕まえてきたキムン村のヘペレセになりそうです」
 挨拶と世間話の間、子供達は退屈そうにしている。目を輝かせてスバポに見入っているポンを除いて。
「ところで今朝、うちの娘が不思議な物を拾いまして。ミルイ、おいで」
 ドブリに呼ばれてミルイはドブリにかけより、懐からさっきの勾玉を取り出した。
「えっ、なになに?」
 他の二人も興味津々で覗き込む。特にポンは女の子だけに宝石のように輝く勾玉に目を輝かせている。
「きれいな石。どこで拾ったの?」
「空から落ちてきたの」
 スバポは差し出された勾玉を受け取り、まじまじと見つめた。
「何でできているんだろう。ここまで真っ赤な石は見たことがない」
「今朝方、水を汲みに行った時に空から落ちてきたんですがね、見つけた時は星か太陽みたいにキラキラ光ってましてな。なんだかただごとじゃないと思って持ってきたんですよ」
 ミルイに代わってドブリがその時の様子を説明する。今、その時の光はすっかり消え失せている。
「キラキラ光りながら、ミルイの鼻先の所に浮いてたんです」
「ほう。それならばその勾玉はミルイちゃんが持つべきでしょうね。何かあったらまた来てください」
 勾玉はミルイの手に返された。勾玉がミルイの手に戻る瞬間、ミルイは勾玉が微かな光を放つのを見たような気がした。

 ポンもヤネカチも、勾玉が気になるようだが、ミルイが持つべき物だと言われればそうするしかない。信心深い彼らにとって、神や精霊に近い立場にいるスバポの言葉は、絶対的と言ってもいいほどのものだ。もちろん子供達にとってもである。
 代わりに、ミルイが手に持ったまま、飽きるまで眺めさせてもらった。子供だけに、飽きるのも早かった。
 キャンプに帰ると、何やら騒がしい。
「どうした、なんかあったのか」
 ドブリは近くにいた若い衆を捕まえて訊いた。
「ササナミ森の村の連中が来たんですがね、あいつらがでっけぇ獲物を捕まえてきたんでさぁ」
 早速見に行くと、見覚えのある人達が、まさに大きな獲物を担いできていた所だった。
 それは熊だった。今までに見たこともないような大きさの熊だ。途絶え途絶えではあるが息をしており、時折縛られた足を動かしている。まだ生きているようだ。
「凄い獲物じゃないか。どうしたんだ」
 ドブリが声をかけるとササナミ森の村の長が振り返った。
「おお、ドブリか。実は出がけに襲ってきたんだよ」
「罠にかかったんじゃないのか。熊が相手じゃ怪我人も出ただろうに」
「いやいや、見ての通りみんなぴんぴんしとる。やっつけたのはガラチだよ」
「ああ、あの若造か。なかなかやるな。まさか一人でやったのか」
「うむ。あいつが突進してくる所に石を投げつけてな。頭にガツンと食らわして一撃よ」
 言いながら長は手振りで石の大きさを示した。人の頭くらいだろうか。こんな石が頭を直撃すれば確かに熊と言えども一溜まりもないだろう。
「こんなデカブツを担いできたおかげで昨日のうちにはつけなかったがな」
「その甲斐はありそうだ。これだけの獲物を持ってくればイトヤヅチはもらったようなものだろう」
「まったくだ」
 イトヤヅチはその年の祭りの狩人の代表で、それぞれの村が自慢の獲物の毛皮や骨などを持ちより、それを見て決められる。獲物が何であるか、その大きさなどはもちろん、毛皮であればその傷の少なさなども見られる。このように生きた獲物を持ってくれば評価も高くなる。まして、これだけ大きな熊であれば傷だらけの毛皮でもかなりの評価を得られる。生きたまま運んでくることなど滅多にない。
「ガラチさんすごーい!」
 気がつけば、話を立ち聞きしていたポンが、うっとりした顔で羨望のまなざしをガラチに送っている。いつもの病気が出たようだ。
 だが、そのガラチに駆け寄る少女の姿があった。
「すごいじゃない、ガラチ!イトヤヅチに決まったようなものじゃない!」
 嬉しそうに言う少女に、ガラチはその精悍な顔立ちに似合わないような優しい笑みを浮かべた。
「あたしも今年はクラシビに選ばれたの!」
 クラシビに選ばれた少女。スバポの妹、ベシラだ。
「へぇ。そりゃすごい偶然だな」
 ガラチも驚いたようだ。
「うん。多分最初で最後の晴れ舞台だから、ガラチにも絶対見て欲しくて。でもまさか一緒にお祭りに出られるなんて思ってもいなかった!」
「これも運命かも知れないな」
 そう言うとガラチはベシラを抱き寄せる。だれがどう見てもただならぬ仲であるようだ。
 ベシラが最初で最後の晴れ舞台と言ったのも、来年の祭りはガラチの妻として、ササナミ森の村人としての参加になると言うことを示しているのだ。
 ベシラがクラシビに選ばれたとなると、相手もそれなりでなければならないだろう。だが、若くしてイトヤヅチに選ばれれば相手にとって不足はないはずだ。
 まるで森羅万象の精霊達にも祝福されているかのようなこの二人だが、一人だけ祝福していない人物がいた。ベシラにものすごい嫉妬の視線を投げかけているポンだった。

「はぁ。あの子が相手じゃ勝てないよねー……」
 ポンはがっくりと肩を落としている。
「そうだよねー」
 あっけらかんと言い放ったヤネカチは、ポンにすごい形相で睨み付けられた。
「でもお似合いの二人だったよね。いいなぁ、あたしにもああいう人見つかるのかなぁ」
 ミルイがあの二人をお似合い認定したこともポンにダメージを与えた。
「そうだよね。お似合いだったよね。あたしなんか入り込む余地無いよね。そうだよね。……いいもん、あたしにはまだスバポさんがいるから!ああ、早いうちに粉かけておかないとまた誰かにとられちゃう!」
 ポンは勝手に決意を固めた。どうやって近づいて懇意になるかをあれこれ考え始めている。こうなるとしばらくはポンに話しかけても反応しないだろう。
 ポンを放っておいて、ミルイとヤネカチはどこかに行くことにした。

 キャンプの中を歩いていて、ふとミルイは若い衆の姿がないことに気付いた。
 近くにいる大人に訊いてみると、若い衆は妖怪退治に駆り出されたらしい。
「妖怪?この辺にいるの?」
 少し怯えながらミルイが訊く。
「ああ、なんでもここ数日、朝にひどく大きな声で鳴く鳥がいてな。ただの鳥じゃないってんで騒ぎになってるんだ。俺も確かに朝方に一度鳥の声で目覚めたし」
「あたし知らない」
「女子供はみんなぐっすり寝てたな。長旅で疲れたんだろう。俺達は体力もあるから目が覚めたんだな。起きるには早そうだったからもう一度寝たけどさ」
「じゃ、みんなはその鳥を捕まえに行ってるの?」
「ああ。まぁ、朝しか鳴かない鳥だ。昼間に探しに行ってもどの鳥か分かりゃしないと思うけどな」
 確かに、鳴かないことには見つけようもない。
「そんなわけだから、明日の朝はみんな早起きして鳥を探しに行くことになった。俺もそんなわけで早起きしなきゃならん。日が昇る前に起こしに来るそうだ」
「へぇ。大変ね」
「まったくだ。まぁ、どうせ大してすることもないから昼寝すりゃいいんだけどな」

 ミルイとヤネカチは、朝に水を汲んだ河原に降りていった。しかし、ヤネカチは何かが気になるようで、ミルイが話しかけてもどことなく上の空のような感じだった。
「この川、どこから流れてきてるのかな。ねぇ、辿って行ってみない?」
「ごめん、ちょっと用事があるのを思い出したんだ。すぐに追いつくから先に行ってて!」
 突然、ヤネカチはそう言い残して駆けだして行った。
「何よー!」
 一人残されたミルイは不機嫌なのを丸出しで、ヤネカチの背中に向かって大声を出した。
「もう!」
 ミルイは一人で川を遡り始めた。最初はヤネカチが追いついてこられるようにゆっくり歩いていたが、機嫌が悪くなっていたミルイはちょっと意地悪をしていつになく早足で河原を歩き始めた。
 しかし、決して足場がよくはない河原を早足で歩いたためか、すぐに疲れてしまった。強い日差しも頭の上から容赦なく照りつけてくる。ミルイは木陰に入って一休みを始めた。
 ふと見ると、ミルイが入った林に小さな沢があった。目で辿って行くと、木の間に泉が見えた。
 ミルイは誘われるように泉に近づいた。澄んだ水が滾々と湧き出ている。そう言えば喉も渇いた。
 ミルイは泉の水を手ですくって飲んだ。冷たい水が喉を通って胃に流れていくのが分かる。
 その冷たい感触に反する、温かな、いや、熱いと感じるほどの熱がミルイの胸元で起こった。
 なんだろう。
 驚いたミルイは、その辺りに手を置いてみて、触れた固い感触でそこに勾玉を入れたことを思い出す。
 あの不思議な勾玉が熱を帯びていた。取り出してみると淡い光を放っている。とりあえず、熱いのを冷まそうと水につけてみることを思いついた。
 泉を覗き込んだミルイは、水面に自分ではなくそこに見覚えのない人物が写っているのを見た。
 ミルイは訳が分からなくなり、慌てて今来た道を引き返す。河原の石に足を取られ、転んで膝を擦り剥きながらも必死に走った。
 ふと、さっき泉に映った顔に覚えがあることを思い出した。今朝の不思議な夢。その中にいた人だ。
 何かよく分からないが、不思議なことがあった。
 スバポさんに話してみよう。
 少し落ち着いたミルイは、息を切らせながらスバポの小屋を目指した。

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