地平線伝説の終焉

九幕・六話 旅立ちの日に備えて


 少しずつ、準備が整ってくる。もちろんバカンスのである。
 作業場を神王宮に移したことで圭麻の作業環境が大幅に改善し、開発資金も恐ろしくゆとりができてエンジンの開発も順調に進んだ。時々覗きにくる那智に集中を乱されてそれでもなおだ。あまり人の来ない作業場は少しサボ――休憩を入れるにはちょうどいいらしい。誰も見てないからと言って無防備な寝姿を晒しているが、圭麻はその誰かのうちに入れてもらえてないのが困りものである。那智にとって圭麻は見られてもいい相手という事のようだが、圭麻にとっては見ていいかどうか悩ましいのである。
 作業に集中していればそんないろいろな意味で悩ましい寝こける那智に気を取られることもないが、そこまでの集中がいる作業ばかりではない。それに集中していても那智の寝言一つで簡単に集中が途切れる。そうなってしまうともう諦めるしかない。そんな時は室内の那智と言う現実から目を逸らすために窓の外を見るしかないのだが、窓の外にもまた現実が待ち構えているのが辛いところであった。
 資金にゆとりがあっても、むしろだからこそ心にゆとりがあったわけではない。窓の外にはゆとりある資金の元となる資産の納められた倉庫がある。この資産がまた圭麻の神経を蝕む毒であった。
 圭麻の資産である王鋼は当初、大量購入させられたのはいいがじわじわと下落を続けていた。その頃でも十分目を逸らしたい現実だったのだが、ようやく価値も下落幅が小さくなったと思いきや、その数日後には逆に跳ね上がることになる。値上がりすることは予想通り且つ予定通りではあったが、跳ね上がる幅に関しては圭麻の予想通りではなかった。と言うか、そもそも予想はしていなかったのである。
 手に入れたところで加工にコストが掛かりすぎ、買い手がつかなかった王鋼。加工技術がある工房や、値段が下がったところで投資のためにギャンブラーが購入するくらいであった。政府が確保に動いたことでようやく下落幅が小さくなったくらいである。
 政府としては、いくら加工コストが掛かるとはいえ密造武器に流用されかねない素材が流出するのを嫌って確保したのだと考える者が多かったのだが、そんな中で極秘情報が流れた。王鋼の加工に関する新技術が開発されたというのである。世界に激震が走った。使えれば凄いが使うに使えない。そんな素材だった王鋼が使える素材になるのである。下落していた価値は急上昇に転じた。
 しかし、それも政府から正式発表がされるまでの僅かな期間であった。武器の密造に使える技術がそう易々と一般に流れるわけもなく、当然のように秘匿技術である。それでもその技術を取り入れた計画の概要くらいは公開された。
 秘匿されているのに公開できるのは、真似しようと思えば国家事業レベルの出費を覚悟せねばならないと見せつける目的もある。なにせトリト砂漠に広大な土地を確保してびっしりと施設を設置するのだ。個人はもちろん大掛かりな密造組織にだって実現は困難だ。資金的に実現できたとして、とっても目立ってしまう。国家だからこんなことをできるのだ。
 それが判ればもうこんなものは国家以外買い手がいない。バブルはあっという間に弾けた。安いうちに買い込んでいた者や高値が付いていたうちに売り抜けた者が得をしただけである。
 たとえば圭麻がそれである。もっとも運用したのは鳴女だ。恐ろしいのは政府の動きを知っていてそうしたことだ。当然である、政府を動かしているその一人なのだから。何なら、発表のタイミングどころか事前の情報のリークまで操っていた張本人である。
「それってインサイダー取引じゃないですか」
 その話を聞いたとき思わずそう言ってしまった圭麻である。もちろん本人の前でそんなことは言わない。怖いし、そもそもインサイダー取引などと言う言葉が通じるべくもない……と思っていたのだが、今は知っている模様。圭麻が件の一言を言った相手、鳴女の所行を圭麻に漏らした颯太こそ鳴女にインサイダー取引を教えた張本人だった。
 当初は単純にこれから価値が上がる王鋼を安いうちに押さえておくと言う、ほとんどただの投資でしかなかった。しかし、せっかく大量に発掘された王鋼をしっかり利用できる技術を政府が模索していることを知っている身でそれをやるのはちょっとインサイダーっぽいなあと言う話から鳴女にインサイダー取引について茶飲み話の話題の一つで聞かせたのだ。
 まさかここまでやるとは、と言うのが颯太の本音である。なんなら、鳴女は王鋼が発掘されている永久凍土の遺跡をその目で見ており、発掘している人物も顔見知りだ。膨大な埋蔵量、安定的な採掘技術。需要を大幅に超える供給量も把握しており、値崩れするのは予想済みだった。
 だからこそ効率的な加工法を取り急ぎ模索していたわけだが、敢えてその動きを一切表に出させなかった。それにより最初の暴落まで仕組んだのである。
 ついでだが、圭麻や泰造の物であるはずの王鋼は本人たちの関知しないところで二度ばかり売却され買い戻されていることを、なぜか無関係の颯太から聞くことになった。
 一回目は購入されてすぐのことである。少し価値が下がりだした頃であり、この売却は完全に赤字である。なぜここで手放したのかというと、王鋼に関する計画が立てられたのがこのタイミングだったからである。加工施設の建造計画ではなく、運用の計画だ。安いうちに確保だとか上がったら売ろうとか、そんな生温いものではないインサイダー紛いというかそのもののえげつない運用計画。この時から、計画は動き始めていた。
 王鋼がまだいくらかでも高値であるうちに一旦現金化した上で、底値で買い戻す。その間、現物は一切動いていないので圭麻も全く気付いていなかったが、言われてみればまだまだ値段が下がりそうだからそのときに買い直すとか言われた記憶がうっすらとある。安くなってから買った方がお得だなんてのは圭麻どころか泰造ですらわかることだ。さほど気にもせず了承したはずである。
 いつか圭麻名義で購入された王鋼の鉄骨が納品された倉庫を見に行った時点では、圭麻のスペースに置かれていた鉄骨は既に一旦他人の所有物になっていたのである。なお、見ず知らずの他人の倉庫に物をタダで置かせてもらうなどと言う虫のいい話はなく、その間倉庫にはレンタル料が発生。それも買い戻す資金に追加されていた。
 あの時倉庫には圭麻と関係ない鉄骨が大量に運ばれていて勘違いで目眩がしそうになったものだが、勘違いだと油断していたのは失敗だった。底値であの倉庫丸ごと買い戻されていたのだ。圭麻のための区画どころの話ではない、目眩がしそうな王鋼の鉄骨はすべて圭麻の物になっていた。さらに言えば、あの時国家所有と言うことで倉庫に置かれていた鉄骨はその後にリークされる加工技術開発の布石になるものである。この国家による購入が、リークされた情報に信憑性を持たせることになる。あの倉庫の存在が王鋼の価値を暴騰させたのだ。
 この買い戻された鉄骨が売られた二回目、それはもちろん加工に関する情報がリークされた後のバブルのさなかである。概要のはっきりしない情報に踊らされて鉄骨の買い占めに走り囲い込まれ流通しないことで値がつり上がる。最終的な値段はもはや売らないという意思表示に等しいものであった。なお、この時点で永久凍土で王鋼を発掘している咲夜たちには一旦鉄骨の出荷を止めてもらい流通量を絞る念の入れようである。
 そしてバブルは弾けた――膨らませていた当人の手によって。夢と欲望に溢れた噂話は現実的で正確な情報となり、マネーゲームの参加者たちは楽しかった夢のひとときの代償をしこたま払わされることになった。これによって大損した連中が相当いたわけだが、心は痛まない。と言うのもこれで大損した人間に禄なのがいないからだ。
 前提として、あの鉄骨を買い込める人間というのが相当金のある人間だけである。宝くじのように家においておけるような代物ではない。重くて嵩張るし、インテリアには到底向かない代物だ。圭麻の分だって大きな倉庫に格納していた。このような置いておける場所と運搬する人員を用意できなければ買えたものではない。そして、そのような代物を少量だけ買っておいてもとてもじゃないが割に合わない。纏め買いできなければ金の無駄だ。
 そして。この王鋼をさらに高値で買って使用するのが誰かということだ。精錬して加工するコストまで考えると、まともな使い道ならとてもじゃないが割に合わない値段である。それでも儲けのでる用途など密造武器に決まっているのだ。新しい技術を当て込んで買い込んだ密造師にせよ、連中に横流ししようとしている輩にせよ、ろくなもんではない。
 そもそも、情報をリークした相手というのが武器密造の組織と繋がっている役人や富豪であった。儲け話だと思ってまんまと一泡吹かされたわけである。高値で掴まされ通常価格で売らざるを得なかった彼らから、少し色を付けた値段で買い取って恩まで売る念の入れようだ。その色の分の何十倍何百倍の金をふんだくった本人だと知りもせず感謝している様は、滑稽を通り越して哀れである。
 ほかに損をしていそうな人達というと、鉄骨を底値で売った商人たちだが、ここには絡繰りがある。
 そもそも、この上なく安いのに売りたいと思う人はいない。ここからさらに値が下がると思うのならば損切りということもあるだろうが、そうでないならただの損でしかない。それでも手放せるのは少し相場より高く買い取ってもらえて損が少なくなる場合だ。
 使うつもりで確保したわけではない保有者は値段が下がり始めた時点で慌てて売ろうとした。しかし商人たちとは連絡がつかず値段が下がるまで売れずじまい。金持ちの道楽で投資目的だったケースを優先的に買い取っていて、たちの悪い連中からは買取りを遅らせ損を出させたのだった。
 そうやって買い集めた商人にさらに少し上乗せした価格で政府が買い取る。ゆくゆくは跳ね上がることが予想できるのだから安いものである。この商人たちももちろんグルなので、その金を元手に自分たちが儲ける分の元手に回し更に鉄骨を買い漁っていた。なお、この動きもリーク情報の布石として一役買っているのだ。
 犯罪すれすれどころか普通に犯罪じゃないかというような阿漕極まりない手口だが、犯罪ではない。なぜなら、この世界にはまだこのような価格操作を取り締まる法律がないのだ。
 先代の月読は世界の大半を掌握し牛耳っていた。月読自身は無茶な方法で経済をも操っていたが、他者が同様のことをしようものなら容赦などしない。そもそも月読の息が掛かっていないのにそんなことをできる力を持てもしない。誰もそんなことはできず、法で縛るまでもなかったのだ。
 民の自由や権利が向上することで悪用する者も出てくる。だから法整備が急務であり、伽耶や鳴女ついでに颯太や那智までも大忙しなのだが、これもそんな法整備のための実証実験の一環なのだ。……名目は。
 現在、圭麻が所有している鉄骨は最初に購入した分のさらに半分程度のみとなっている。鳴女からは値段が上がって頃合いなので、必要な分だけ残して売却すると言われてその量を残したのだが、まさか売却された量が倉庫丸々だとは思うわけがない。
 買取の査定に来た商人が「それじゃあ、これだけ残してこの倉庫の分は全部売却ですね」などと話しているのを耳にして疑問を抱き、鳴女との取引の会話に聞き耳を立てているうちにその事実をようやく知った次第である。なお、話を聞いて何となくそれを悟った圭麻だが鳴女に確認する勇気はなかった。聞きたくもないのに颯太が勝手に話してようやくそれが事実だと確信したのだった。

 残した王鋼については素材に使用するも良し、資金のために売却するも良しだが、今更売却の必要はないだろう。使いやすいようにインゴットにも加工してくれるという話だが、サービスというわけではない。取り扱いが楽なインゴットの方が価値も高くなるのでやっておいて損はないのだが、加工の費用は圭麻持ちなのだ。いくら新技術を導入したとは言え結構な出費になるはずだ。しかし鳴女は言った。
「費用については気にするほどのものではないですよ」
 安いとは思えない費用に対してこの口振りである。しかもこんなこともあった。作業場を神王宮に移したことで、地下層区のお宝の山から手に入れた可能性のカタマリを使いにくくなった上、気合いを入れて造りたい新生ブルー・スカイ・ブルー号はもとより、伽耶が乗ることになるだろう『タッチ・ザ・ストラトスフィア壱号』もちゃんとした材料で作っておきたい。よくわからないお金を持っているのもなんか落ち着かないので使っていいなら使ってしまおうということで、ちゃんとした材料を揃えることにしたのだ。
 何かを作るというのは物入りである。取り急ぎ『タッチ・ザ・ストラトスフィア壱号』に最低限の素材だけリストアップしてみたが結構な量になってしまった。そうなるとあとどのくらい予算が残ってるのかは当然気になるところだが、それを確認してみると。
「小動もしてませんね」
 それならば零号もリニューアルさせようと同量を買い増しするとどうなるか尋ねたが返答は変わらなかった。怖くてどのくらいあるのか聞けなかった自分の資産が、いよいよもって怖くて聞けなくなった瞬間である。これまで趣味として楽しく開発を行ってきたが、今回の作業は仕事の重圧を強く感じるとても疲れる仕事となったのである。
 ブルー・スカイ・ブルー号についてはまだ外装の骨格だけだが、金に糸目をつけずに贅沢に素材を確保している。精神にくるのでどのくらい資金が減ったかは気にするのをやめた。
 ……のだが、無計画にも使えないので後日覚悟を決めて確認してみた。そしてまだ一割も減っていないと聞かされ後悔した。そして圭麻は決断する。その圭麻には扱いきれない資産を社会のために役立ててもらうことを。ただでさえまだ法がないから犯罪じゃないという、法でセーフでも圭麻的にはぎりぎりアウトの金なのだ。しかも巻き上げた相手が武器密造組織絡みときている。お金は大好きな圭麻でもこんな恐ろしい金に関わりたくない。
 圭麻は知らない。社会のために差し出したその金が考創社をはじめとする各種研究機関のサポートを行う財団の基金となり、やがては利権マネーを生み出していくことを。なお、泰造の方もジャンルが治安維持方面になるだけで同じ運命を辿るのである。
 後に颯太は思うことになる。鳴女は天珠宮から出してはいけなかったのではないかと。結姫の苦悩に心を痛め涙した純粋な彼女はもういないのだ……。しかし、何となくだがそれも自分たちのせいのような気がする。純粋だった彼女はふれ合う人々に影響を受け、正義感と行動力は泰造から、分析する冷静さを颯太から、策謀の悪知恵を圭麻から、それを躊躇い無く実行する無邪気さを那智から身につけた……ような気がする。いや多分気のせいだろう。

 そんなこんなで圭麻の開発資金は潤沢になったのだが、金でどうにもならないことはある。時間は金で買えないのだ。
 他人の時間を買うことはできる。お金あげるから手伝って、みたいな話でそれは要するに雇用である。それにより作業が早く終わって自分の時間も買えるようなものだが、そういう問題ではない。自分しかできないこと、人に任せられないこと、単純に自分でやりたいこと。それらのための自分の時間は有限なのだ。
 開発は試行錯誤だ。期限を決めて妥協することもできるができればそれはしたくないところ。まして今回は伽耶や鳴女など重要人物を乗せることになる。トラブってごめんで済むか怪しいのだ。逆に言えば泰造や那智辺りならごめんで済ます気満々とも言えるが気にしてはいけない。
 それに、今回は新生ブルー・スカイ・ブルー号に繋がる圭麻の力を使った乗り物の実験も兼ねている。そのためには実験できるところまで圭麻自身の力を高めておかねばならないのだ。
 そのためにはどうするべきか。泰造にアドバイスを求めたら努力と気合いと根性だと言われたので、感謝の言葉を述べつつ無かったことにしたのだが、颯太や那智からのアドバイスも似たようなものだった。創意工夫でズルできるものではないと悟り、諦めて素直に反復練習を続けている。こちらも時間が掛かりそうである。
 いずれにせよ、伽耶たちも心置きなくバカンスを決め込めるくらいに仕事をしっかり消化しなければならない。こちらもそう簡単ではないはずだ。ないはずなのだが……バカンスが待っているせいか気合いの入り方が違う。油断はできない。そしてそんな頑張った伽耶達のバカンスを圭麻の作業の遅れで先延ばしになどできないのだ。
 バカンスの参加メンバーも決定した。まずおなじみの颯太・圭麻・那智・泰造。神王宮から伽耶・鳴女に加えて光介・凛。ゲスト枠がナナミの知り合いらしいので会わせておきたい健だが、ナナミのことはサプライズになっている。単純にサプライズという事もなく、万が一名前が同じだけで健の知らないナナミだったときは何事もなかったように流されることになるだろう。
 そして仲間外れにするのもなんなので潤と咲夜も極北の地から呼び寄せた。この二人に関しては別件もある。別件とはもちろん極北の遺跡の発掘についてである。咲夜たちの個人事業として進んでいた採掘を国家プロジェクトとして囲い込んでしまったのだ。その打ち合わせの為も兼ねて呼び寄せられた。そして滞りなく取引は成立し、プロジェクトリーダーを接待旅行にご招待――という建前もあるのである。
 日も差さない極寒の極北から灼熱の砂漠にバカンスに行くのは流石に無理が過ぎ、苦行になりかねない。そのため暑さや日差しに体を慣らすため、チーム泰造として圭麻の作業の手伝いに当たって貰った。室内作業が多いので都合もいい。
 圭麻にとって人手としてもありがたいのだが、何よりありがたいのは咲夜がさぼりに来た那智の話し相手をしてくれることだ。さらに言えば、圭麻や泰造、颯太の前では乙女としてのガードがどうでもよくなる那智だが、潤や健の前ではちゃんとする。那智に惑わされずに作業ができるようになった。
 咲夜とははじめましての人も多かったが、そんな中でも颯太は咲夜を見てとても驚いたのである。
「えっ、何?私たちどこかで会ったことがあるとか?」
 中性的でなかなかのイケメンである颯太に見つめられてちょっとドキドキしちゃった咲夜である。颯太も砂漠を巡る透視人、咲夜はその砂漠で暗躍していた盗掘者。会ってる可能性が無きにしも非ずなのだが、別段そういうわけではなかった。
「とりあえず、挨拶代わりに除霊をしておきたいのですが、よろしいですね?」
 砂漠の遺跡で盗掘を続け、極北の遺跡にまで行っていた咲夜は、遺跡から霊をごっそり引き連れていたのである。
「大丈夫、悪霊はほとんどいないですよ」
「ほとんど!?ちょっとはいるの!?」
「砂漠にせよ永久凍土にせよ、人が近付かない所にある遺跡だと、さまよう霊もどこに行っていいかわからず留まり続けるんです。だから最初に近づいた人間にまとめてくっついていくわけで。あなたに憑いているのはそういった霊です」
「悪霊は大丈夫なんですか?早く、早く祓って!」
 颯太が言いたかったのは、こういう数千年単位の地縛霊は生前の記憶すらほとんどなく、珍しくやってきた人に集りがちだが悪霊であることはほとんどない。そして、颯太に見えているまさにごっそりと言うべき量の霊をいちいち悪霊かどうか判断する気にもならないので十把一絡げにして確率で語ったというだけの事だった。
 怖がっているのをスルーしてまで説明するより、さっさと祓ってしまうのがいい。見るからにヤバそうな悪霊はおらず、悪そうなのでも精々が若い女性を見て喜んでいるオッサンらしき霊とか若い女性を妬んでそうなおばさんの霊くらい。追い払ってどこかに行っても誰かに迷惑をかけるわけでもないだろう。何よりそんな無害な霊でも颯太自身が見ていて怖いのだ。
 サクッと霊を散らしたが、ほんの少し残った。いちいち説明しても怖がらせるだけだし、こういうのはむしろ守護霊になってくれるかもしれない。颯太としても耐えられないほどじゃないので放っておく。そんな一幕もありつつ、浄化された咲夜ほか二名も圭麻の手伝いに加わったのだった。
 これで余裕だと思ったのだが、そんなことはなかった。伽耶達のバカンスに対する熱意には、俄かのお手伝いさんが増えたくらいで巻き返せるものではなかった。神王宮の仕事が片付くタイミングが伝えられたが、それに合わせて出発するためには突貫作業が必要となった。
 そして、その日。すべての準備は万端、バカンスに旅立つ時がきたのだ。

 神王宮前の広場にバカンス参加者が集まった。頑張って仕事を終わらせて気合十分の神王宮組。一方、圭麻やその手伝いをしていた泰造たちは燃え尽きる寸前である。昨日休みをもらった泰造たちはまだいい。圭麻などは最後の詰めの作業でほとんど寝ていない。
 この大人数だと移動手段が心配になるところだろうが何の問題もない。新生『タッチ・ザ・ストラトスフィア』シリーズは最大八人まで搭乗可能なのである。零号機はマスラヲ号、壱号機はタヲヤメ号となっている。名前が示す通り男はマスラヲ号、女はタヲヤメ号に乗る……はずなのだが。
「おい、何で乙女の俺がマスラヲ扱いなんだよ!颯太と逆だろうがっ!」
 那智が騒いでいる通りである。那智に言いたいことを言われた颯太も黙ってはいるがハリセンを手に腕を組み、吽形よろしく睨みつけている。ならば口を開けて騒いでいる那智は阿形か。
「どうせいつも通りあっちでは男とかゆるふわウェイビーがガーリーとかいうネタだと思ってツッコんでいるなら考えが甘いですよ?」
「ゆるふわガーリーだと思われていたのか、俺」
 余計なことを言ってしまっていたようだが、さらっと流して話を進める圭麻。
「マスラヲ号とタヲヤメ号は外装こそ同じですが、中身は別物です」
「内装がキュートでラグジュアリーなんだろ?」
「オレにキュートでラグジュアリーな空間を演出するスキルがあるとお思いですか」
「思ってたぜ?なんだよ、ないのかよ!」
「ありませんよ!オレのモットーは機能美なんです!そもそも、俺の家を思い出してください。ラグジュアリーがありましたか?」
「う……。ご、ごめんよ……」
「いいから違いって奴をとっとと白状しろ」
 那智が黙ったところで追及が颯太にバトンタッチされた。
「白状するような悪事はしてないんですが……まあいいでしょう。端的に言えばマスラヲ号に乗ることが許されるのは選ばれし者なんですよ」
「端的に言ってるのか、それ。全然わからん」
「選考理由はズバリ……体力!」
「あ、なんかわかった」
 つまり。マスラヲ号とやらはむくつけき野郎たちが乗るに相応しい人力エンジン搭載機なのだろう。颯太にとっては体力と言うワードだけでもそこまで推測するのに十分である。そして、その推測通りであった。突貫工事で乗れるようにはなったが、片方はちゃんとしたエンジンが搭載できなかったのだ。安全面を最優先にしたため、快適な動力にまで手が回り切らなかった結果である。圭麻の手伝いをしていたチーム泰造に、バカンス前日から休息を入れてもらっていたのは動力として期待していたからに他ならない。恐ろしいのは偉大なる月読陛下さえも肉体労働要員に入っていそうな点だ。まあ、その偉大なる月読陛下は頼まれれば喜んでやるタイプだが。
「しかし、俺と圭麻に言うほどの体力差はないだろ。圭麻だって自分でも楽をしたいだろうに、何で俺だけ……」
 颯太だって見た目は華奢だが砂漠を歩いて旅してきた透視人。腕力に自信はないが、結構な健脚である。何なら籠もって開発研究にいそしんできた圭麻は、腕力こそまあまあだが下半身は結構貧弱なのだ。
「バカンスに行こうとしたら肉体労働を強いられる羽目になった乙女を気遣う言葉は無しかよ」
「ないな。体力面でも妥当だし、こう言うときに那智の能力は役に立つだろ」
「言われてみればそうですね」
「それで選んだんじゃないのかよ」
「それで選びました」
「……そういうことにしておいてやるよ、めんどくさいし」
 溜息をつく颯太。
「とにかく、颯太がタヲヤメ号に選ばれたのは、客と言うよりはクルーとしてですね。操縦そのものは割と簡単ですから誰でも大丈夫でしょうが、トラブルの時に対応して欲しいんですよ」
「俺にそこまでのスキルがあると思ってるなら買いかぶりすぎだぞ」
「もちろんエンジンを直せとまでは言いませんし直さなきゃならない事態が起こるような甘い出来ではありません。万が一の時に冷静に不時着させたり、砂嵐や虫の巣を回避して危険を回避する役目ですね」
「なるほど。それなら俺向けだな」
 乗員を全員女性にしてしまうとそういうときに対処できる人がいなさそうである。鳴女がぎりぎりどうにかできそうだが、砂漠にも乗り物にも颯太の方が圧倒的に慣れている。遠くから危険が迫っているのを視る目もあるし、マシントラブルの原因さえも見えるかも知れない。クルーとして入れておくには適材だ。
 そして、言われてみればの那智の効果。那智には直接人力エンジンに携わってもらうより、応援要員に徹してもらった方が効率がいいかもしれない。
「でも。男だらけの所で俺の魅力ダンス披露したら……犯されそうで怖いんだけど」
 その魅力ダンスとやらを普段見せつけている颯太や圭麻、泰造あたりは女性に対してヘタレなのを把握しているので那智としても平気だが、今回は他の男たちもいるのである。
「無法者の集団に放り込まれるわけじゃなし、大丈夫だろ」
「むしろどんなダンスを披露するつもりなんですか。見せられる方のことも考えてくださいね」
 圭麻は船に乗り込んだら後は泰造たちに任せてとっとと寝てしまうことを決めたのだった。

 『タッチ・ザ・ストラトスフィア』零号ならびに壱号、改め『マスラヲ号』『タヲヤメ号』は空へと舞いあがった。サニーサイドアップと言う別名をやめたが二機並んで飛行する今こそ目玉焼きと呼びたいところであった。
 リューシャ―の上空を飛ぶ奇妙な物体に、市民の目が集まる。そしてすぐに離れる。近頃はこんな変な物が飛ぶのは割と日常であり、”またなんか変なのが飛んでる”などと思うだけなのである。まさか中に陛下が乗ってるなどと思いもしないのだ。
 そしてその光介月読陛下は今、栄えあるマスラヲ号人力エンジン正式稼働第一号の役目をノリノリで受け持っている。圭麻の「ペダル漕ぎたい人―!」と言う呼びかけに一番乗りで手を挙げるほどにノリノリである。
 実はこの人力エンジン一号は取り合いになるほど人気であったのだ。何せ、やっておけば一周するまで回ってこない。どうせやらされるなら早めに終わらせてしまいたいと思うのも心情だ。特に、最初のうちは気候も穏やかなリューシャ―近辺。順番が後になると確実に砂漠に突入し、強烈な日差しの中での過酷なペダル漕ぎになる。まあ全員一度は砂漠でペダルを漕ぐことになるのだが、その回数は減るに越したことはない。
 更には最初の人が一人当たりのペダルを漕ぐ時間の基準になる。体力の化け物泰造なんかが基準になっては一大事なのである。その泰造こそ回避されたが、潤や健にとってはこの光介も未知数で怖い。なにせ、見るからにいいガタイをしているのだ。
 そんな潤や健から見ても圭麻などは見るからに体力が劣る。さらには徹夜作業明けなのでそんな基準を無視して短めで切り上げても文句は言われまい。ヤバいのはこの二人だけである。
 そんな光介の脚力でリューシャ―の空を駆け抜けたマスラヲ号。大いなるバカンスへの飛翔が始まった。