地平線伝説の終焉

五幕・一話 最果てへ、そして最果てより

 関所を通り抜けてから何日が経っただろう。
 北へ北へと向かう、泰造と潤、健を乗せた『ラピッド・シューティング・スター・改』号は、真新しい街道を突っ走っていた。
 道の左右には平原が広がっていたり、森が広がっていたり、海が広がっていたり。
 主要な町同士を最短距離で結ぶ幹線道路だ。道の近くにある町は脇道に逸れないとたどり着かない。
 ということは、この道を真っすぐ突き進んで行く限り、ほとんど人の住む所は通らない。大自然のど真ん中を突っ走れるのだ。
 自然に飽きるとこの景色は退屈すぎる。対向車すら無い。この道路を造る意味はあったのかと思うほどだ。
 実際、この道は空遊機がこっちでももっと普及することを当て込んで作られた道。普及する前に普及を進めていた月読は居なくなり、今は空遊機そのものの増産もされなくなっている。生活道としては旧来の街道がある。この道は作られるなり用済みになってしまったのだ。

 オトイコットを通り過ぎて数日。ようやくギャミに到着した。
 『ラピッド・シューティング・スター・改』号の燃料も尽きかけている。『ラピッド・シューティング・スター・改』号の燃料は純度の高い精製燃料だ。空遊機に使うような質の悪い燃料でも辛うじて走るのだが、何分能率は落ちるし、汚れた煤煙を振り撒く。何よりその臭くて体にも悪い煤煙を自分が吸いたくない。
 かといって、そんな特殊な燃料を簡単に手には入れられない。そもそも、この辺りでは空遊機用の粗悪燃料すら手に入りにくいのだ。空遊機があまり普及しなかったことをいいことに、この辺りで売られる予定だった燃料もリューシャー近隣に回されたせいだ。
 だが、泰造は圭麻から秘策を授けられていた。邪神霊酒(メテイル)を使え、と。
 恐ろしげな名前だが、たいした代物ではない。古来より各地で親しまれてきた蒸留酒である精霊酒(スピーリ)から、有害成分を取り除き度数を高めた神霊酒(エテイル)を作り出すときに出る有害成分が邪神霊酒だ。月読が酒税を吊り上げた際に、密造酒として粗悪な精霊酒が大量に作られた。
 劣悪な環境で作られた密造の精霊酒には邪神霊酒の成分が多量に混ざり込む。そのような劣悪な品物は飲用の酒と認められないため、酒税がかからず安く売れると言うこともあり、需要がそこそこにあったのだ。そのままこれを飲んで体を壊した者も少なくないが、しっかりした人は自分で神霊酒を抽出し、それを飲んでいる。結果として、家庭などからもかなりの量の邪神霊酒が出た。業者は安くこれを買い取り、工業用に回したり、精霊酒に混ぜて売ったりと言うことをしていたようだ。
 伽耶が新体制を敷いてから、酒類の理不尽な税率設定は解除になり、密造酒の需要がなくなって大量にだぶついた。そのままでは売り物にならない粗悪精霊酒の分離が進められている。神霊酒は物好きや酒豪に飲まれることもあるが、医療分野で消毒薬としての需要が急速に伸びている。そのため大量に作られるようになり、邪神霊酒も多量に抽出される。飲むと体に悪いが、燃やすとクリーンな燃料なのだ。そのため、工業用の燃料として使われることもある。
 燃料に邪神霊酒を使えばパワーも出せるし、そのうえ空気もあまり汚れない。コストはそこそこかかってしまうが、ここでけちってはいられないし、これでもだいぶ安く上がっている方だ。
 邪神霊酒は燃えやすい上、蒸気を吸い込むのも体に悪いので劇物扱いになっている。タンク単位でしか売ってないのでタンクで買ったが、積み込む場所がない。4人乗りの座席を一つ使ってタンクを置いた。
 危険物、取り扱い注意、劇物という紙の貼られたタンクの隣に座る羽目になった健は、かなりテンションが下がったようだ。鳴女を救出したらこのタンクが占拠している席も空けなければならない。このタンクを中身の残りごと売り払うか、潤か健を置き去りにしないといけないだろう。邪神霊酒を置いていくという考えはない。環境のことはもちろんだが、金を払って手に入れた物を打ち捨てるのは泰造の性に合わない。
 置き去りの件については、その時まで言わない方が良さそうだ。

 オトイコットとギャミの間は長かった。ここからモーリアまではワッティ国を抜けるのみ。ターキア・ワッティ間で起こっていた戦乱も終わり、通行の邪魔となるものは無いだろう。もっとも、ワッティ国はかなりだだっ広いのだが。
 しかも、ギャミ・オトイコット間にあったような街道は建造途中で頓挫し、ほとんどできあがっていない。旧来の曲がりくねった田舎道を通るしかない。まだまだ長い旅になりそうだ。
 しばらく、大きな町に寄ることはない。と言うか、町そのものがしばらく無い。まともな食事を取る機会もしばらく無い。少しだけ奮発して、いつも食べているものと同程度の食事を取ることにした。潤と健はもちろん自腹で払わせる。奢れと言ったらここで捨てていくいい口実になる。
 しばらく缶詰や干物、道端の木の実やうっかり轢いてしまった動物の新鮮なおいしいがテンションのあがらない肉などを食べていたので、落ち着いて摂る食事は久々だ。田舎の大衆食堂らしい質素なメニューだが、安いのが何よりいい。
 飯にがっついていると、店に誰かが入ってきた。全く気にせず、目の前の食い物にだけ全神経を集中させていたが、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。
「やはり泰造殿でしたか」
 こんなところで名前を呼ばれたこと、そしてその聞き覚えのある声に泰造は思わず口の中の物を吹き出しそうになる。
「うもっ!へめえはやひろ!ほんなほほろええっくわうとあ!」
「……とりあえず口の中の物を飲み込んでから物を言ってくだされ。分かりませんぞ」
 大急ぎで口の物をよく噛んで飲み込む。
「社!てめー、捕まりに来たか!いい度胸だ!鳴女さんを返せ!」
 口に物が入っていたときとは微妙に違うことを言う泰造。
「そのことで話があります。手荒な真似をするようなら、話は出来ませんな」
 詰め寄ろうとする泰造に、牽制するように社は言った。泰造も動きを止める。
「身代金を取ろうってのならお門違いだぜ!俺は金がねえ!颯太に請求しろ!」
「いやいやいや。そう言うわけでは。それに、この近くに鳴女殿がいるわけでもありませんぞ」
「……?どういうことだ?鳴女さんはどこだ!」
「文明殿がモーリア方面に連れて行く所です。今頃、ワッティ国の上空を飛んでいる頃でしょう」
「なんで一緒じゃねーんだ?」
「私には少し用事がありましてな。別行動を取ることにしたのです。……ただ、文明殿の鳴女殿への扱いには私もさすがに目に余りましてな。……裏切るわけではないが、鳴女殿を文明殿から引き離していただきたい」
 敵であるはずの社がわざわざ頼み込んで来るというのはよほどのことではないのか。泰造は動揺する。
「な、何をされてるんだ、鳴女さんは!」
「文明殿の目当てはただ一つ、鳴女殿の失われた記憶。そのためなら鳴女殿の肉体が傷つこうが構わないと考えておる。流石に目に余るので、記憶を失った理由を探り、解決の手段を模索するという名目で、医師団に預けてありますが、私の目のない所で文明殿が何をするか分かりません」
「なんだとぉ!あのやろー、許しちゃおけねぇ!行くぞ、潤、健!」
 泰造は皿の上に残っていた料理を口と手持ちの小さな袋に押し込み、二人を連れて店を飛び出していった。どのような状況に於いても全て食うつもりらしい。
 そのせこさに呆れながら店を出ようとした社は、店主に呼び止められた。
「あんた、今の人らの知り合いだろ。お金払ってくれないかい?」
「は?」
「代金だよ、代金!」
 そう言えば、泰造達は代金など払わずに店を出て行っている。
「……なぜ私が。まあいい。どうせはした金だ……」
 社は渋々、泰造らの飯代を支払った。実に安い定食で、三人分でも本当にはした金だった。

 『ラピッド・シューティング・スター・改』号は北に向けて進み始めた。
 文明は今、ワッティ上空をモーリアに向けて進んでいるという話だった。泰造達も程なくワッティに入る。スプラノフィンで一度引き返した後の追跡だが、文明の飛行船との距離をかなり縮めている。ということは『ラピッド・シューティング・スター・改』号の速度は文明の飛行船を大幅に上回っているということだ。
 二日後、モーリアに到着したとき、文明はまだ来ていなかった。追い抜いたのだ。生憎、文明は直線で飛んでいるため飛行コースは街道から遠く、どこで追い抜いたのかも分からない。
 ここは歴史ある小さな町だ。この町で何かをしていればとても目立つ。
 町の外れの広野にいくつかの真新しいテントがあった。いかにも怪しげだ。
 泰造は様子を探るべく少しずつ近づく。テントの周囲には学者風の男が何人もいる。そこにたびたび新しい学者がやってきては名刺を交換しあっている。どうやら彼らはあまり面識のある面々ではないらしい。各地から文明の呼びかけに応じて集まった学者達だった。
 もしかしたら、学者のふりをすれば紛れ込むことができるのではないか。
 どう化けても学者に見えるはずのない三人は、そんなことを思いついてしまうのである。
 だが、身の程をわきまえない賞金稼ぎたちは、鳴女が絡んでいることで判断力が落ちている泰造の提案を飲んだ。
 集まってくる学者を捕まえて物陰に引きずり込み、身ぐるみを剥いで、後で解放してやるからそれまで我慢しろ、と言いながら縛り上げる。
 そして奪った服を着込んで偽学者を気取り、学者たちに混ざり込んだ。
 いかにも几帳面そうなきっちりとした髪形で、華奢で小奇麗な学者たちの中に、白衣の中を日に灼けた筋肉でパンパンにした、ぼさぼさ頭で生傷だらけの三人組がさりげなく入り込む。無茶だ。本物の学者たちは、違和感あり過ぎの偽学者の登場に狼狽えた。が、敢えて関わろうという勇気のある学者はいなかった。泰造たちの胡散臭さと迫力は、学者の好奇心に勝ったのだ。
 誰も泰造たちに関わろうとしないまま時が経ち、やがて遠くの空に文明の飛行船が現れた。
 飛行船到着の知らせを受け、テントの中から屈強な男たちが現れた。なんて事だ。こっちに混ざった方が何の違和感も無かったのに。
 文明の飛行船が着陸すると、学者たちはぞろぞろと船内に入って行く。当然、泰造とてこのチャンスを逃すはずが無い。
 学者たちは船内の一室に入って行く。中にはトイレを探しに行くものもおり、泰造たちがこのまま鳴女を探しにどこかに行っても何の問題も無さそうだ。
 先程テントから出てきた屈強な男たちが船内に資材を運んでいる。テントの中身は船内に積み込む資材だったようだ。
 そんな男たちの一人が、怪しい学者の存在に気づいた。
「おい、あんた。本当に学者か?俺と同じ人種の臭いがするぜ?」
「何だと?お前は何者だ?」
「見れば分かるだろう。頭の方は今一つの筋肉馬鹿さ!」
「ぐっ!失礼な奴だ!」
 会心の笑みを浮かべながら言う男に、泰造は吐き捨てるように言った。人間、図星を突かれると頭に来るものである。
 とにかく、出入り口方面は荷物を担いだ男たちが右往左往しているので歩きにくい。それに、鳴女がいるとすればもっと前の方だろう。文明も操縦室に近い場所にいるはず。そこからそう遠くない場所に鳴女もいるのではないだろうか。
 関係者以外立ち入り禁止の扉を見つけた。もちろん入ってみる。中は船内の主要区画らしい。機関室や制御室などがあるようだ。
 前方から誰か近づいてくる。話し声と足音が近づいてきた。泰造たちは慌てて近くにあったダストシュートに潜り込み、身を隠した。
「想像以上の働きをしてくれたことに礼を言う。次の仕事も頼むぞ」
 やけに落ち着き、知性を鼻にかけるようなすかした腹の立つ喋り方。文明だ。そして話している相手は。
「へっへっへつ。俺無しじゃあ、これだけの大プロジェクトは無理って事をよぉーく分かっているな。さすが天才同士、引かれ合うものがあるんだろうぜ」
 落ち着きも無く伝法で、知性の欠片も無いべらんめえ口調。源だ。
「まさか、ここに到着する前に実質一人で船を完成させるとは驚いたよ。では、橋の方もこの調子で頼む。もちろん報酬は弾ませて貰うぞ。私は功績や能力には見合った対価が支払われるべきだと思っているからな」
 報酬と聞いて泰造が軽く反応した。
「俺にとって金なんて欲しいときにいくらでも片手間で稼げる物だぜ。俺は歴史に名を刻みたい、望む物はそれだけよ」
「何かかっこいいこと言ってやがる。俺もあんなことを言ってみてぇ」
「しっ」
 独りごちる潤を諌める泰造。
「この船、そしてその橋。まさに俺の名前を歴史に刻むためのタガネとして相応しい。まさに俺とあんたの建築に対する愛の結晶って奴だ」
「気持ち悪いことを言うな。とにかく、期待しているぞ」
「俺様に任しておきゃあ大船に乗ったつもりでいて大丈夫だぜ!わは、わははははは」
 なぜか泰造の頭には先日乗った高速フェリーでの一幕がよぎる。船首で那智が両腕を広げて、何かの映画を気取っていた一幕。タイタニックも大船だ。それはそれは、大きな。
「あの辺りにはカコーガ大橋ってのもあるだろ。実はあれも俺様の作品なんだぜ。今のところ最高傑作と言ってもいい。橋の下が谷から海に変わっても俺様の橋は健在だしな。俺様が掛け直さなかったら、今頃海の藻屑よ。歴史あるカコーガ大橋の再建はそれは大きなプロジェクトだった。でも、今度のプロジェクトはそれを上回る規模になる。俺の歴史が塗り変わるぜ。俺の歴史が塗りかわるってこたぁ、世界の歴史が塗り変わるって事よ。じゃあ、そっちはそっちで新しい時代って奴を作っててくれよ。わは、わは、わははははは」
 源は上機嫌でどこかへと歩いて行った。源の高笑いが聞こえなくなった。
「早く仕事を終えてくれて、本当に助かった。あんなお調子者にいつまでも付き合わされては、疲れてかなわん」
 そう言い残し、文明も戻って行ったようだ。

「あの野郎、どこか別な所に行くみたいだな」
 源と文明の話からするに、源は次の仕事のためにどこかへ向かうらしい。
「追いかけるぞ!地の果てまででも追いかけて一発痛い目を……」
 潤と健は今にも源を追いかけていきそうな勢いだが。
「待て、鳴女さんを救出する方が先だ!」
 出入口に向かおうとする二人を呼び止める泰造。
「見失っちまうだろ!」
「大丈夫だ、ここに来るまでは大分長いこと一本道だったろ?あいつはカコーガ大橋がどうこう言ってた。あれはリューシャーの先だ。そこに行くなら、俺らがここに来たときとと同じ道を通るしかねーし、その途中で追いつく」
「……まあそうかも知れねぇ。そうとなったらとっととあの姉ちゃんを助けるぜ」
 泰造の地獄突きが健の喉に食い込む」
「姉ちゃんとか言うな。鳴女さんと呼べ。いや、鳴女様だ」
「面倒くせえなぁ。まあいいや。とにかく早く見つけよう」
 捜し回っていると、壁に貼り付けられた船内の見取り図のプレートを見つけた。
 鳴女のいそうな場所はどこだろうか。そういえば、社は鳴女を医師団に預けたと言っていた。ということは、医務室にいるのではないだろうか。
 医務室は船室の近くだ。先程通った立ち入り禁止の扉の外になる。
 泰造は医務室の扉を乱暴に開いた。
「鳴女さん!」
 そこに鳴女はいた。白い衣を着てベッドに横たわり、無数のケーブルを頭に取り付けられている。まるで危篤の患者のように見えるが、単に検査で脳波を計っているだけのようだ。
「泰造さん!」
 鳴女は起き上がろうとする。
「動いてはいけない!……ああ、もう少し動かずにいれば検査結果に異状無しと書けるのに!」
「先生!どうせ異常は無さそうですし、再検査は面倒ですし、異常無しって書いちゃいましょう」
「君!私は医者としてそのようなことは!……まあいいや、書いちゃえ」
 医者たちが落ち着きを取り戻したころ、鳴女は頭に取り付けられたケーブルを引き剥がして泰造に駆け寄ろうとした。後ろにいくつか取り残しがあって途中で止まってしまうが。泰造も鳴女に駆け寄る。鳴女は泰造の胸の中に飛び込んできた。泰造は鳴女の顔を抱き寄せ、ついでに後頭部のケーブルをはずしてやる。
「怖かった……!あの文明と言う人、私の記憶が戻るかもしれないと私の頭をハンマーで殴ろうとしたり、電気でショックを与えると言い出したり……!」
「もう大丈夫です。それにしてもなんてひどいことを!それだけやられても無事でよかった」
「いえ、あの。やられそうになっただけでやられてはいません」
「あら」
 泰造の先走りすぎである。
「あの人、何が何でも私の記憶を戻そうと……!私、何を知っていたのでしょう。それ程までに欲しがる記憶とは何なのですか?」
 鳴女は俯きながら問いかけた。泰造も、詳しく知っているわけではない。だが、思兼神と言えば、あらゆる知識を持つ賢人であることは誰もが知っている。
「颯太はあなたが世界の全てを知っていたと言っていました。奴はその記憶が欲しいのでしょう。きっと、あなたのことを開けなくなった百科事典のようなものだと思っているんだ。とにかく、ここから逃げましょう、そして帰りましょう」
 鳴女の手を引いて、泰造が駆け出そうとした時。後ろから医者が呼び止めてきた。
「あー、君。 まだ検査は終わっていないんだ。連れて行かれると困る。……だが、そう言われて連れて帰るのをやめそうな雰囲気じゃないね」
「ったりめーだ!とっととこんな船おさらばしねーと!」
「それならば。検査で分かったことを簡潔に伝えておこう。彼女の記憶が失われた原因は医学的に解明できなかった。よって記憶を戻すための方法も不明だ。恐らくショックを与えても簡単には戻らないだろう。それと、彼女の体を検査した結果、ひとつ問題が見つかっている」
「鳴女さんの体に問題……だと!?な、何だ。言ってみろ!」
 よもや、重大な疾病が!?
「ちょっと運動不足なので体を動かした方がいいと思う」
 大した問題ではなかった。
 とにかく、もうここに用はない。文明に見つかる前に逃げた方がいい。
 泰造たちは鳴女の手を引き、出入口へ向かった。後は途中で源を取っ捕まえるだけだ。
 出入り口の扉は閉ざされている。ロックが掛かっているらしく、把手を引いても開かない。
「おい、泰造!見ろ!」
 近くの窓を覗き込んだ健が窓の外を指さす。泰造も窓の外覗いてみた。
 青い空が見えた。そして、その下もまた青かった。
 海だ。海は飛行船の真下まで続いている。
 飛行船は海の上を飛んでいた。

 もちろん、海に飛び込んで逃げるということも考えた。だが、陸地は遠い。泳ぎ切れる保証はなかった。まして、医者に運動不足を指摘されるような鳴女には泳ぎ切ることはほぼ無理だろう。
 もはや文明に見つからずにどうこうしようというのは難しい。
 どうにかして船を奪ったり占拠したりしても、誰がどうやって操縦するのか。操縦の仕方など誰も分からない。
 操縦できる人物を脅して引き返させると言う方法はあるかもしれない。丸っきりハイジャックだが、やるしかない。
 鳴女を加えて四人になった泰造たちは操縦室へと向かった。
「動くな!」
 扉を荒々しく押し開けて操縦室に押し入る。
 動こうとする人物は誰もいなかった。それどころか、誰もいなかった。人など、どこにも。
「……あれ?パイロットは?」
 部屋を間違えたか?
 だが、この部屋はどう見てもコックピットと言ったレバーや計器であふれている。やはりここのようだ。
「パイロットも無しにどうやって飛んでるんだ!」
 焦る泰造だが、何のことはない。他に衝突してくるような空を飛ぶ乗り物などほとんど無いし、しばらくはひたすら何もない海の上を飛ぶだけ。この飛行船はコンパスと連動した進行方向自動制御装置や高度維持装置などもあるので、飛ぶ方向さえ決めてしまえば、放っておいて何ら問題はない。自動航行にしてパイロットたちはみんな休憩に行っているのだ。
 これはある意味チャンスだ。誰にも気付かれずに船を操れる。
 そこまで頭が回らない泰造だったが、誰も操縦桿を握っていない状況に焦り、操縦しようとしたので結果は同じだった。
 そして、どちらにせよ、どこをどう弄ればいいのかなど泰造には見当もつかないのだ。
 とにかく、一番操縦桿らしいものを見つける。バルブの開閉にでも使うようなハンドルだ。
 回してみるが、かなり固い。それもそのはず、自動航行システムにより、進行方向が変わらないようにロックされているのだ。もし進行方向を多少変えることができたとしても、すぐさまその船首の向きのずれを直されてしまうだろう。
「くそっ」
 自動航行解除の方法どころか、今この船が自動航行になっていることさえ分からないのだ。どうしようもない。
 その時、鳴女がふと呟く。
「この船、どこに向かっているのでしょう?」
 絶海の上空を水平線に向けて飛び続ける飛行船。確かに、その行く手に何があるのかは気になる。
 羅針盤にはこの船が向かっている方向が示されている。北々東。
「ちょ、ちょっと待てよ!?」
 健は慌てて荷物から地図を取り出した。
「モーリアの北って……何もねーじゃねーか!」
 確かに、地図の北側、一番上はモーリア。その先など存在しない。
 だが。
「永久凍土……」
 泰造はかつてこの辺りを訪ねたときに小耳に挟んでいた。最果ての、その先にある知られざる世界の伝説を。
 凍りついた極北の大地。遠い昔には人が住んでいたというが、神の怒りにより氷に閉ざされてしまったという幻の大地。
「潤、健。それに鳴女さん。あの学者たちのところに帰ろう」
「えっ。どうしてだ?」
「この船は訳がわからねえ。何をどうすればいいのかさっぱりだ。俺たちじゃ動かそうったって無理みたいだ。それに、永久凍土とやらに何があるのか、文明の野郎がそこで何をしようとしているのかも興味がある。それに文明も、まさかそこに住み着く気でも、そこで死ぬ気でもないだろう。それなら、一番安全かつ確実に帰る方法があるとすれば、連中が帰るときに一緒に帰ることだ」
「で、でもよ。それじゃ源の野郎は……」
「今はそれどころじゃねーだろ」
「た、確かに」
「それに、さっき聞いただろ。文明は源に何かを頼んでいる。とんでもなくでかいプロジェクトみたいだ。そんな物、いくら手の早い源でもそうそうすぐに終わりゃしねーさ。場所はカコーガの近く、なんにもない所だ。そんなところで何かやってりゃ嫌でも目立つ。すぐに見つかるぜ」
「そうか、そうだな!」
 潤、健も納得したようだ。
 泰造たちはとにかく、一度学者たちの場所に戻ることにした。

 泰造たちの下手な学者コスプレは目立つ。そして、鳴女の服装も病人が着るような寝間着だ。このままではさらに目立つ。
 幸い、先程医者から取り返すときに、医者から鳴女が攫われた時に着ていた服を返してもらっている。鳴女はトイレで着替えてきた。これなら泰造よりは学者の仲間らしく見える。鳴女効果で泰造たちの放つ違和感が薄らいでくれるといいのだが。
 学者たちの中に戻った。やはり、違和感は消え切らないようだ。だが、いくらかはマシらしい。あまり気にしている人はいないようだ。学者たちが泰造たちに慣れただけだったのだが。それに加えて学者たちが泰造たちと目を合わせたくなかっただけなのだが。
 とにかく、気持ち的には学者に溶け込んでいるつもりの泰造たち。
 特にすることもない。学者たちの話にでも聞き耳を立てることにした。
 すると、部屋の外から言い争うような声がした。
「なぜ逃がしたんだ!」
「いや、その。決してわざとでは。無理や連れ去られたんです」
 文明と医者だ。恐らく、鳴女を連れ出したのがばれたらしい。いや、連れ出せてはいないのだが。
「くそっ!まあいい、どうせ帰る場所はリューシャーだ。社殿が気づいて手を打ってくれる。そうでなくても取り返すチャンスはいくらでもあるだろう。それに、奴らの仲間が勝手に記憶を取り戻させてくれるかも知れん。あいつらだって思兼神殿を手元に置いていながら、その知識を無駄に眠らせてはおくまい。我々は、今我々がすべきことをするだけだ」
 そう言うと文明は去っていったようだ。
 鳴女が奪われたことが知られたことで厄介なことにならなければいいのだが。幸い、まさか逃げ遅れて船内に潜んでいるとは思っていないようだ。このまま文明の目を逃れ続け、帰るところまで漕ぎ着ければ。
 泰造は、再び聞いていると眠くなる学者たちの雑談に耳を傾けた。途中から、聞いてさえいなかったが。
 これからどのくらい、帰ることが出来ずに北の大地に留まることになるのか。泰造も鳴女も帰らないままだと、颯太たちが心配するかもしれない。それだけが気がかりだった。

「颯太ぁ。泰造たちなんだけどさぁ」
 天珠宮で天照の話し相手を終えて帰ってきた那智が、颯太に声をかけてきた。
「昨日、文明に追いつきそうだって言ってたよな。どうなった?」
「それがさ。あの飛行船に潜入したのはいいんだけど、鳴女さんを助け出す前に飛んじゃったみたいなんだよな、飛行船。とりあえず、鳴女さんは無事助け出して、今は泰造と一緒にいるって」
 なんのことはない。天照が全部空の上から見て知っており、そこから情報が颯太たちにも丸々流れていた。
「文明の船、北に向かってるんだってさ。何かあるのか?大陸の北の端だったんだろ?」
「永久凍土と呼ばれる、別な大陸があったはずだ。ものすごく昔には人が住んでいたらしいが、何回か前の神々の黄昏で完全に滅亡したらしい。海流のせいで一度渡ったら簡単には戻ってくることが出来ないし、誰も行こうとする者はいなかった。だが、空を飛ぶ船なら海流なんか関係ないってことだな」
 モーリアの北の岬は、大陸の北西側と南東側を沿うように通ってきた二つの海流が合流し、北向きの激しい海流がその永久凍土に向けて流れている。この海流に流され、二度と帰ってこなかった者は少なくない。
 長らく空を飛ぶ乗り物が作られなかったこの世界では、行けば二度と戻ってくることは出来ないだろう永久凍土については、伝説の中だけの物になっていた。
 泰造たちのことも気にはなるが、それよりもこちらに向かってきている社と、その息子の長貞。その動きも気になる。何かを企んでいるに違いない。
 そして。動き始めたはずの源の話は出なかった。

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