地平線伝説の終焉

三幕・四話 神王宮奪還作戦

 この日の救出計画で社サイドが失った戦力はかなりのものだった。
 捕らえられた者は正規兵、ごろつきを合わせると五十名は下らない。さらに三名の役人が捕らえられている。ごろつきの傭兵の中には逃げ出したものもおり、その数約三十。傭兵部隊は半分以上がいなくなってしまった。
 それでも正規兵はどうにか多く残っているものの、初戦でこの調子ではいつまでもここに立て籠もってもいられない。社は焦れていた。
「まさか伽耶様にあれだけの戦力があったとは。いや、あれは伽耶様のものではないな。その配下達が集めたものだろうが……見くびっていたわ」
 社の言葉に考創社の若者が口を開いた。
「戦力で負けたわけではありませんよ。我々は敵の策に落ちたのです。見くびっていたという点に違いはありませんが……。敵にも切れ者がいるようです。少し慎重にならないといけませんね」
「ふむう……」
「このままではこの城を奪い返されてしまうのも時間の問題です。これ以上の被害が出る前に一度退いて戦力を蓄え、機会を窺うべきでしょう」
「時期尚早であったと言うことか。しかし、時間は長くとれんのだ。伽耶姫の執政は善政で評価も高い。人心を捉えるのは目に見えている。月読様の時代の記憶が薄れる前でなければ手遅れになる」
 社達は、月読の時代よりは多少マシな政治をすることで「これでもあの頃よりは」と思わせるのが狙いなのだ。
 前々から、社は政権を狙っていた。
 月読に仕えていた頃は月読からの信頼で共に甘い汁を啜ってきた。しかし、月読が不在となってからは今までのやり方は通用しなくなってしまった。あの頃の栄華を取り戻すためには、自らが月読となるより他にない。
 息子である長貞を伽耶の婿とすることで血縁関係を作り、ゆくゆくは天照となって天珠宮から出ることがなくなる伽耶に代わり実権を握る。計画の本筋はそこにある。
 各地からの陳述書などを全て握りつぶしてきたのも、伽耶の執政に対する期待を薄れさせるための工作であった。もともと影響の及びにくい遠方ならこの政治の激変にもほとんど揉まれることがない。今まで通りの政治を行っていけば中央の事情など庶民は知らぬままだ。善政と噂されてもどの様なものかは分かるまい。
 激務に追われる伽耶に気付かれぬように、社の協力者を地方に置き、重税を継続させたりもした。このような水面下の行動が功を奏し、リューシャーから離れるほど伽耶の影響は薄く、中には月読がまだ存命であると思っている地域さえあるほどだ。
 計画は順風満帆かと思われたが、伽耶が社の行動に気付き追放したことで全てが水泡と帰してしまった。慎重に慎重を重ねていたにもかかわらずだ。
 これも、ひとえに伽耶のサポートを買って出ていた颯太や泰造達を甘く見すぎていたことに起因している。泰造の人脈は各地での不穏な動きを伝え、颯太の能力でその実態を知ることとなった。圭麻の発明は各地の連携を強めることで情報の流入に貢献し、一番身近な場所でサポートをし続けていた那智の脳天気っぷりは社に伽耶サイドの力量を大きく見誤らせたのだ。現に、今回もこうして油断しやられ放題である。
 社は追放され、行動を封じられたことで焦りが生じた。そして急遽、一気に片を付けるべく今回の行動を起こしたのだ。
 秘密裏に神王宮を占拠し、伽耶を実質人質とする。伽耶を操り人形にして自分の思うように政治を進めていく。かなり危険な賭けではあったが、うまく行ったかのように見えていた。
 しかし、このざまである。完全に相手を見くびっていたのだ。こんなに早く露見することも、風来坊かと思われた泰造がこれだけの人を集めてくるのも、救出のための作戦も、何もかもが全く予想外だった。
 敗因は敵を知らなすぎた事にある。これ以上の籠城は危険を増やすばかりである。
 社は勇退を決断した。

「実質、神王宮の敷地には一カ所からしか出入りできません」
 圭麻は見取り図の正門を指した。
「ここを塞いでおけば陸路からの撤退はできません。言ってみれば追いつめたも同然です」
「確かにそうだ。だが海がある」
 颯太は正門の反対側を指した。
 神王宮は半ば海にせり出している。人工的に作られた断崖の上にあるのだ。
 水晶のドームは海にまで及んでいるが、断崖の下はドームがない。船着き場があり、月読がクルージングに使っていた船やその他雑用に使っていた船が合わせて三艘ある。
「ここから船を使って逃げられる可能性は十分にある」
「ええ、しかし……」
 圭麻は顔を上げ続けた。
「少なくとも今は船はありません」
「三艘とも出払っているのか?」
「ええ。まあ、正確にはちょっと拝借しているわけですが」
 圭麻によると、また龍哉たちに頑張ってもらって、こっそりと船着き場に潜入してもらい、三艘とも出してしまったという。とりあえずご褒美として月読専用だった豪華クルーザーを今日一日乗り回していいことにし、今はリューシャー付近の海で海釣りに興じているとのこと。多分坊主だろうが。
「しかしそうなると立て籠もって出てこないだろ」
 泰造の言葉に圭麻は不敵な笑みを浮かべた。
「出てこない者は、出るように仕向けるまでです」
「どうやって?」
「神王宮の構造を利用するんですよ。神王宮は中央塔を中心に五つの塔で構成されています。その塔それぞれのてっぺんの窓からこれを投げ込みます」
 圭麻は壺を指さした。
「……なんだ、うまいものでも入ってるのかと思ったら違うのか」
 さっきから気になっていた壺の中身が期待していたものとは違うことを知り少し残念そうになる泰造。
「さっきから変な臭いがするのはその壺のせいか。中身はなんだ?」
「スペシャルアロマミックスと言いますか。各地下層地区に溜まっていた排気や廃液の濃縮スペシャルブレンドです」
「うげぇ。そんなのぶち込んでどうするんだ」
「蓋をぴっちりとしていてもその臭いです。中身の臭いは凄まじいですよ。まともに嗅げば三日は食欲がなくなりますね。あの白銀花が萎れかかるほどです。空遊機の排気もかなり入っていますから目や喉にもしみます」
 泰造はふと不安になった。
「そんなのぶちまけて大丈夫なのかよ。俺達は月読じゃねーんだ、環境を破壊したり病気を振りまくような真似はならねー」
 圭麻は少し愁いを帯びた顔になる。
「地下層地区の住人はずっとこれを吸ってきたんですよ?」
「そうだったな」
 泰造も表情を曇らせた。圭麻は元の表情に戻り、続けた。
「確かに毎日吸い続ければ病気になるでしょう。しかし少しの間ならば大した影響はありません。それに神王宮はドームがあります。ドームのおかげで風も出ないので拡散もしにくいでしょうしそこから外に漏れる量も少なくすむでしょう。低いところに溜まる排気は最終的に一段低い庭か地下に溜まるはずです。そこを回収する予定です。もったいないですから」
「排気までもったいないのかよ……」
 少し呆れ顔をする泰造。
「何かに使えるじゃないですか。現にこうして使おうとしてますし」
「まあ、確かにな……」
「とにかく、上の方からこの目や喉にしみる強烈な悪臭が来れば耐えきれずに飛び出してくるでしょう。まして自分たちが催眠ガスなんて使ったあとです。ともすれば本当に毒ガスだと思いこむかも知れません。燻し出されてきますよ。船がないとなれば、一カ所しかない出口に殺到します。そこを片っ端から捕まえていけばいいんです」
「なるほど。で、これはいつやるんだ?」
「準備ができれば今すぐにでもできます。いや、早い方がいい」
 圭麻は腰を上げた。

 泰造は賞金稼ぎ仲間や傭兵達に再招集をかけた。すぐに来ることができる人数はさほど多くはなかったが、それでも十分な人数だろうと颯太は判断した。
「どうせ狭い出入り口でつまる。そんなには一度に出てこないだろう」
「じゃあ、俺はこの出入り口で待ちかまえてりゃいいんだな?」
 泰造は準備運動を始めるが。
「いえ、泰造には俺の方を手伝ってもらいます」
 圭麻は泰造を銀蛉号に連れて行った。銀蛉号には人の代わりに壺が積まれている。
「この壺を窓から投げ込んで欲しいんです。これが終わったら下の人たちと合流できます」
「そうか」
「早速行きますよ」
 二人は銀蛉号に乗り込む。ブブブブブ、と羽ばたきの音がだんだん強くなり、銀蛉号は再び空を舞う。
 朝と同じようにドームの綻びから侵入する。今度は見せつけるような飛び方はしないが、それでも警戒を強めていたせいもあってかすぐに発見され、下では大騒ぎになっている。
 そんな様子もお構いなしに、圭麻は塔の一つに近づいた。
「あの窓がいいですかね。じゃ、頼みますよ」
「おう、任せとけ」
 泰造は壺を担ぎ上げ、窓から壺を投げ込んだ。ガシャンという音と共に壺は砕け、中からねっとりとした黄褐色の液体がどろりと床に広がるのが見えた。
「次行きますか」
 圭麻はそう言うと次の塔に向かった。順番に塔の中に壺を投げ込み、最後は中央塔へ向かう。
「ここは大きいですから三カ所から投げ込みます」
「そうか。この残ってる壺を全部使っちまうんだな」
 壺があまっているのが少し気になっていた泰造も納得した。
 中央塔の三カ所から全ての壺を投げ込み、作戦の第一段間は問題なく終了した。少しいやな臭いがし始めている。
 再びドームの穴から飛び去る時、少し振り返ってみると淀んだ白い煙が塔の窓からあふれ出し、下に向かってゆっくりと流れ落ちていくのが見えた。

 神王宮の中では、銀蛉号の再来に色めき立った兵士達が駆け回っていた。
 自分の主を護る者、城内に異常がないか調べる者、そして銀蛉号の動向を見守るもの。
 銀蛉号が塔の上方に何かをしたことは見守っていた者たちはすぐに気付いた。何人かは状況を確認すべく塔を駆け上る。
 すると、塔の上から駆け下りてくる者と出くわした。
「何があった!?」
「う、えには……行くなっ……!」
 駆け下りてきた兵士は苦しそうに答える。そうしているうちにも、上の方から煙と共にいやな臭いが這うように漂ってきた。
 これはすぐに社に伝えられた。社が慌てて部屋を駆け出すと、もう目前までその煙が迫ってきている。
「気をつけてください!有毒ガスかも知れません」
「しかし、奴らがそこまでする連中だとは思えん……」
「いいえ。我々は相手を見くびっていた。それは先ほどの失敗で明らかです。連中はすでに人質を全て救出した。となれば多少手荒い手段にでることも十分にあり得る」
 考創社の青年が戸惑う社に言うと、社もそんな気になってきた。
「うぐぐ……。とにかくここを逃げ出すことが先決だ!」
 社は窓から外を見下ろしてみた。正門付近では配下の兵士達が門を挟んで敵と睨み合っているのが見えた。
「やはり正門で待ち伏せているか……。ならば海だ、船を使って海に逃げよう」
 社は役人達と共にリフトを使い海に降りた。
 だが、そこにはあるはずの船が一艘もない。
「しまった、先回りされていたか!」
「打つ手はないのですか!?」
 役人達と共に社についてきた考創社の男は追いつめられた顔で社に問う。
「……なくはないな」
 社は暫し考えたあと、ぼそりと呟いた。

 その頃、神王宮の下層にまで悪臭は届いていた。
 塔の中を這うように進んでいた煙はもちろん、窓からわずかに漏れだした悪臭はいち早く庭に到達し、庭一帯に充満し始めていた。
 神王宮の中にいた兵士達もまさに燻し出されて庭に出てきていた。
 数の少なさゆえ睨み合っていた正門付近の兵士達も多少は有利になるかと思ったが、皆悪臭に粘膜をやられ、咳が止まらぬ者、涙目でまともに前が見えない者など、とても戦力にならない有様だ。
 挙げ句、庭に充満する臭気はますます強まり、ちらほら上がる命に関わる有毒ガスかも知れないという言葉に根負けし、続々と投降していった。
 門前で待ちかまえていた泰造達は抵抗もなく出てくる兵士達に拍子抜けした。
 最後の方になると、臭気にやられ、涙と咳が止まらずひどい有様の兵士ばかりだった。
「ちょっと量が多すぎましたかね……」
 圭麻は少し申し訳なさそうな顔をする。
「喉が……痛い……。薬を……くれ……」
 苦しそうに訴える兵士。
 薬と言われてもそんなものがあるわけはない。そもそも強い毒ガスではないので、しばらくすれば治るはずだった。
 だが、圭麻はひらめいた。大急ぎで、袋に入った何か、黒いクッキー状の物体を持ってきた。
「これを食べれば半日ほどで喉の痛みは消えます」
 薬と聞いて群がる兵士達。それを次々に口に放り込む。
「うぐっ……な、なんてひどい味の薬だ……」
 暫し呻いたあと、兵士は動かなくなった。息はあるようだが……。
「あちゃー……予想以上に効き目が……いや、効き目というかなんというか……」
「その薬はなんだ?」
 颯太が訝しげに訊いた。
「那智がこの作戦に携わった人たちに振る舞おうとした感謝の気持ちをたっぷりと込めたお菓子です。まあ、大失敗して、今那智はこの失敗のショックと試食した時のダメージが堪えて寝込んでますが」
「……なるほど、毒ではないんだな。しかし、苦しんでいる人たちにこんな物食わせるなよ。鬼かお前」
「いや、気休めにはなるかと思ったんですけど……。プラシボ効果っていうんですか」
「まあ、プラシボなら……でも気絶させといてプラシボもないような……」
 そんな颯太の思いもよそに、「薬」をもらった人たちが次々に大人しくなっていくのを見た他の兵士達が、効果があるんだと勘違いして再び圭麻の元に殺到した。

 城門の前の騒動は一段落した。だが、そんな中、社を初めとする今回の首謀者達の姿がないことに泰造が気付いた。
「まだ城内に残っているんでしょうか?」
「臭いにやられて失神してるのかも知れないぞ」
 泰造はすぐさま神王宮に突入して探そうとするが、圭麻に止められた。
「待ってください。今この中に飛び込むと危険です。まだ俺の家に白銀花のキャンディの残りがあります。それを取ってきますからちょっと時間をください」
 圭麻はそう言うとすぐさま自宅へ向かう。
 待っている間に颯太が社達の居場所を占ってみることになった。
「はっきりとは見えないが青い光が見える。海の近く、船着き場かも知れない。あそこに追い込まれているんじゃないか」
「そう言うことか」
 程なく圭麻が戻ってきた。
「なあ、これさ、賞味期限大丈夫なのか?」
 ふと不安げに泰造が言う。
「お前の口からそんな言葉が出るとは。雪でも降るんじゃないか?」
 颯太がぼそっと言ったのを泰造は聞きとがめた。
「んだとぉ?俺でもさすがに半年以上前のものを食うのはちょっと気が引けんだ」
「大丈夫ですよ、安心して食べてください」
「まあ、その言葉を信じてやるか。……圭麻の言葉は信じられねーけどよ……」
「えー?どうしてですか」
「自分の胸に聞いてみやがれ」
 そう言いながらもキャンディを口に放り込む。
「よし、それじゃちょっと様子を見てくっか」
 泰造は城門を開き、中に入っていく。城門から胸の悪くなるような臭いが漂ってきた。
「ひどいな、これは……」
 颯太は顔を青ざめさせながら言う。
「キャンディを食べれば臭いも多少は薄まります。毒味が泰造なのが不安ですけど、まあ大丈夫だと思いますから俺達も……」
 圭麻がキャンディを颯太にも手渡そうとしたその時。
「てめー!毒味ってのはなんだー!」
 泰造が門の向こうから怒鳴ってきた。驚いて圭麻はキャンディをばらまいてしまった。慌てて拾う。
「泰造、まだいたんですかっ」
「まだいたも何も今入ったところだろうがっ!あとで憶えてやがれ」
 今度こそ泰造は行ってしまったようだ。
「ああもう、びっくりしたなあ。ああそうそう、これですね」
 今度こそキャンディを渡す圭麻だが。
「落とした奴じゃないか」
 颯太は受け取らない。
「三秒セーフです、大丈夫です」
「落ちたことに変わりはないぞ」
「でもこれしかありませんし」
 そう言われては颯太は渋々ながらも受け取るしかない。
「賞味期限切れの上落としたキャンディか……抵抗あるな……」
 一応袖で拭いてからキャンディを口に放り込む。キャンディの甘い香りが口の中に広がると、悪臭をほとんど感じなくなった。圭麻もキャンディを食べる。
「ところで。俺も毒味に使われたって事はないよな?」
「そんなことはありません」
 はっきりと否定する圭麻だが本心は圭麻にしか分からない。
「このキャンディの効き目は凄いな。俺達も泰造の後を追おう。ちょっと気になる」
「どこに行くか分かってるんですか?」
「ああ。船着き場に向かっているはずだ」
 颯太達も神王宮に入っていく。さすがに中にはいるとキャンディだけでは中和しきれないらしく、いやな臭いを感じた。
「凄まじいな、これは」
 袖で鼻と口を覆いながら進む二人。
 船着き場に繋がるリフトのある部屋まで来ると一気に悪臭が引いた。扉が閉まっている上、外と繋がっているので悪臭が溜まっていないようだ。
 上がってきたリフトには泰造が乗っていた。
「どうだった?」
 颯太は尋ねる。
「いねーぞ」
「なんだって」
 そうは言うが、全くその可能性を予期していなかったわけではない。颯太は再び占ってみることにした。やはり見えるのは青い光だ。揺らめき、輝いている。
「海じゃなくて空って事は考えられませんかね。あれが空遊機の排ガスだと分かれば下に溜まる特性の逆をついて上に逃げればいいというのは思いつくかも」
「いや、やはり海だと思う。さっきよりもはっきり見えた。波立って輝いている」
 颯太の言葉を受けてポンと手を叩く泰造。
「船がないから仕方なく泳いだり岩づたいに逃げたとか」
「そんな体力ありますか、あの歳で」
「死ぬ気になれば……」
「マジで死にますね」
「ちょっと待ってくれ!」
 泰造と圭麻のやりとりに颯太が唐突に割り込んだ。颯太は目を凝らし、水平線を凝視している。
「水平線の上に何か見える。船……?」
「まさか!他に船が隠してあったのか!?」
 泰造もその姿を探すが颯太の目は特別だ。
「銀蛉号で追いましょう!」
 三人は大急ぎでとって返し、銀蛉号に飛び乗り海の上へと飛び出した。
 先ほどまでの汚れきった空気に引き替え海の上の風はすがすがしい。しかし今はそれどころではない。
 すぐに水平線の上を漂う船の姿が見つかった。
 だが、近づくにつれがっかり感が強くなる。
 龍哉たちが今日一日乗り回している豪華クルーザーだと言うことがはっきりしたからだ。
「紛らわしいところにいやがって、一発ぶん殴ってやる!」
 泰造は船の甲板に銀蛉号を下ろさせた。船の上では奴や達が釣り竿を放り投げて逃げまどっている。
「てめーら、こっちは大変なのにのんきに釣りなんかしてんじゃねー!」
「うっせー!てめーこそビビらせるんじゃねー!でっかい虫が襲ってきたんじゃないかと思って今度こそダメだと思ったじゃねーか!」
 龍哉は腰を抜かしたまま泰造に向かって吠えた。情けない姿だ。
「すまなかった。まあ、この事は水に流してクルージングを楽しんでくれ」
 落胆を隠せない力の抜けたこれまた情けない姿で颯太は龍哉に声をかけた。
「楽しむどころじゃないっすよ……。海がこんなに怖いところだなんて知りませんでした。バカでかい魚に襲われかけて逃げ帰る途中だったっス」
「バカでかい魚?」
「ええ、こーんな、こーんな。まるで海竜みたいな恐ろしげな魚で、しかも三匹も四匹もいて生きた心地がしなかったっス」
 大物を逃した釣り人がするように両手を目一杯広げて大きさをアピールする。
 その姿を思い描いた颯太ははっと目を見開いた。
「斑魚!」
「あっ!」
 圭麻も気付いた。斑魚の存在を忘れていたことに。
 忘れていて当然だ。ぬめぬめぬるぬるの大きなお魚があまり好きではない伽耶は、その世話を社に一任していた。
 そもそも、あの斑魚というのは神王宮で飼っていたわけではない。近海に住み着いていたものを月読が手懐けかわいがっていたのだ。放っておいても斑魚たちは好き勝手に海を泳ぎ回り、餌を見つけ、自分の力で生きていく。呼びたい時に呼び寄せ、気まぐれで餌を与えていたにすぎない。
 社が神王宮を追われてからは神王宮で斑魚を呼び寄せる者もいなかった。
 面倒を見ることなどなかったし、元々関係ないことだと思っていた颯太達にとって、まさに斑魚は死角だったのだ。
「くそー、この大海原じゃもう探すに探せねーぞ!」
 地団駄を踏む泰造。
「最後の最後にやられたか……」
「ですね……」
 一様に暗い面持ちで呟く二人だった。

 社達は大海原の上にいた。
 四匹の斑魚の背に乗り、海面上を跳んでいく。
「父さん、これはまた、乗り心地の悪い魚だね」
 社の息子、長貞はうんざりと言った面持ちだ。頭の先までずぶぬれになっている。
「ぬるぬるしてるし鱗だらけだし……」
「文句を言うな……」
 うんざりした顔で社が言う。
「これからどこへ向かわれるのですか?」
 考創社の若者が社に尋ねた。
「さあな……。私は全てを失ってしまった。また、一から出直さなければならないな……。またどこかに身を隠さなければなるまい」
「なあに、金ならいくらでもあります。すぐにでもやり直せますよ」
 気楽なことを言う役人。
「確かに今回はうまく行きませんでしたが……」
 若者は一度言葉を切る。
「私の目的は果たせましたから……。収穫としては十分ですよ」
「しかし、何一つ持ってくることができなかったのでは……」
 今回、神王宮を占拠したのには二つの目的があった。一つは言うまでもなく政権の奪取。
 そしてもう一つ、この若者がそもそも社に協力したのはこの神王宮に存在する秘文書を見ることだった。多くの書物が収められた神王宮の書庫。その奥に隠された小部屋には世界の真理について記された秘文書が収められているのだ。
 斑魚の背の上ではそのような文書を持ってきても濡れてしまう。そもそも、あの煙のために書庫にはすでに近づけなかった。
「確かに持ってくることはできませんでした。しかし……」
 若者は人差し指で頭をとんとんと叩く。
「全てここに入ってますよ」

「文明とかいて『フミアキ』」
 圭麻が読み上げているのは考創社に探すように頼まれた男の資料だ。
 今回、社と組んだ若者、その名は文明。
 改めて資料と見てみると、泰造が見た男は間違いなくこの人物であった。
 考創社の中でも切れ者で知られており、若くして考創社研究部の中でもチーフクラスの研究員だった。知識の分野は多岐に渡り、最先端の技術から考古学、神話学、錬金術や生物学など枚挙にいとまがない。
 それほど優秀な研究員だっただけに、裏切られたことに対する考創社のショックもダメージも大きかった。
「その人物が社に協力しているのか。何が目的なんだ」
 颯太はこの人物に関しては初耳である。
「まあ、金でしょうね。社が権力を握れば金は湯水のように使えます。そこから研究費用を回してもらえばできない研究はないでしょう」
「今でも資金はあると思うぞ。社が連れ回していた役人連中は重税をかけてほくほくしてた連中だからな」
 泰造が以前捕まえに行ったが、その時はすでに逃げていた役人達の顔も見られた。賞金がかけられていた者は今回捕まった者もいるが、何人かは社と共に逃げおおせているだろう。
「月読の遺志を継ぐ社とあらゆる分野の知識を持つ文明か。また嫌な二人が手を組んだものだな」
 颯太は難しい顔をした。
「ろくでもないことを始める前に止めねーとな」
 泰造は腕まくりをしてやる気十分だが。
「とにかく、連中の居場所を探さなくちゃなりませんね」
 斑魚に乗って広い海に逃げた連中の行き先を突き止めるのは難しい。
「金があるなら何をするにしても派手にやるだろう。そうすれば目立つし、目立てば情報も入ってくる。結局は連中が動くのを待つのが一番得策だろう」
「ちっ、かったりーぜ」
 颯太の言葉に泰造はふてくされたように座り込んだ。
 確かに社と文明の動きは気になるが、やるべきことはまだたくさんある。
 神王宮での出来事の後始末、その間に溜まった仕事。そして、鳴女のことを天照に聞いてみなくてはならない。
 それらをこなしているうちに自ずと社達は動き出すだろう。
 むしろ、それまでにやるべきことを片づけなければならないのだ。これからは忙しくなる。

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