Reincarnation story 『久遠の青春』

09.絡まる糸

 中学生活も半ばになると、そろそろ将来の進路というやつを決めなければならない。
 正直、今は俺も塾のおかげで成績上位をキープできているが、凡才の両親から生まれ凡才の魂が入った人間は、所詮凡才なのだと分かってきた。年の功と人並み外れた努力で秀才と張り合っていると、そのうち燃え尽きるだろう。
 このまま行っても、最終的に天下りで何もしなくても金が稼げる高級官僚だの何だのと言った人生の勝者の座を勝ち取るのはまず無理なのは自分でもよく分かる。
 それが見えているのに普通の進学校に通い、普通に一流大学を出てもつまらないサラリーマンにしかなれないだろうな。
 前世は2流の大学を出て、それなりの企業でサラリーマンを続けていたが、これっぽっちも面白くはなかった。
 ちょっと前までは仕事が生き甲斐だと胸を張って言えるサラリーマンも多かったが、それはバブルまっただ中で働けば働くほど会社が大きくなり、自分も昇進していくのが気持ちよかったからに他ならない。
 今のサラリーマンは、そうやって勝ち登っていった連中の奴隷のように働き、自分を殺して会社のために奉仕して辛うじて生かされてだけの存在にしか見えない。企業のトップはバブルの甘露の味が忘れられない老人達の集まりだ。こいつらが牛耳っている以上、下で働く連中に未来はないだろう。それはこの国そのものにも言える。勝ちのぼれなかった連中は税金を納めるロボットだ。
 どうせそんな将来に明るい展望の見えない社会でなら、楽しそうなことをして日々を過ごした方がいいに決まっている。平たく言えばただのサラリーマンは御免ってことだ。
 俺は志望に工業高校を挙げた。県内ではトップランクの工業高校だ。それでも俺の成績からはもったいないらしい。もっといい高校に進むように勧められたが、成績が悪いならいざ知らず、良いことを理由に進路を決められたくはない。
 両親には反対されるかと思ったが、そんなことはなかった。どちらも2流以下の大学出なので、進もうとしている高校の偏差値の高さを聞いただけで満足してしまった。
 限界が見え、必要もないと分かるとあまり勉強する気は起こらない。まあ、中学にいる間くらいは、順位をキープするためだけに勉強しないとな。高校に入ったらレベルの違いを言い訳に少しサボるか。

 直之に塾を辞めさせられた樹理亜は、中学生ながら恒星の家庭教師として俺の家に通うようになった。恒星も樹理亜の顔は見慣れているはずだが、間近で話すことは今まであまり無かったので、今はまだ少し緊張気味だ。
 そもそもこいつは俺みたいに女にたかられる子供時代を送っていない。俺は娘だと思って樹理亜に付き合ってやっているうちに、つるんでいる不良仲間以外の男友達があまり出来ないまま今に至ってしまった。一方、こいつは普通に男同士で遊び、連れてくる友達も男の子ばかりだ。俺の人生が間違ってしまっているのだろう。そもそも、生まれ変わること自体が何かの間違いだと思う。
 気が小さいはずの樹理亜の方は、男の恒星相手でも案外けろっとしている。なんだか滑稽だ。もっとも子供相手に意識することもないのだろうが。
 いくら家庭教師と言う理由でも、年頃の娘が同じ学年の異性の家に遅くなるまで居続けるのは父親なら気が気じゃないものだが、直之の方はまったく素知らぬ顔をしているようだ。本当にこいつには父親だという意識がないらしい。もちろん、直之から離すためにうちに預けてるのだから、詩帆の方は黙って見守っている。
 この事は伽椎には言わなかった。関係がややこしくなりつつあるので、余計なことを言ってやきもきさせる必要はない。
 だが、伽椎の母親はその喋りのけたたましさに比例して口が軽い。子の心親知らずなどと言う奥歯が疼きそうな言葉はないが、子供の事情は親にまで伝わるよしもなく、実にあっさりと伽椎にこの事が知れてしまった。
 塾に顔を出した俺に、神妙な顔をした伽椎が声をかけてきたのは、樹理亜の家庭教師が始まって三日もしないうちだ。
「うちの両親も面倒見がいいからな。小さな頃からよく知ってる樹理亜が辛い思いをするのを放って置けないんだろ」
 とりあえず親のせいにしておく。嘘はついてないんだからこれでいいんだよ。とりあえずそう思っておく。
 ただ、伽椎はそれでも浮かない顔のままだ。無理もない。ただでさえ俺を意識している伽椎をどうしようと思っていたのに、余計話がこじれそうだ。困ったもんだ。
 とりあえず話題を変えることで事態の悪化を引き延ばすセコい作戦に出ることにした。しかし困ったことに切り替えるべき話題が見あたらない。
「進路、決まったか?」
 辿り着いたのは我ながら実につまらない話題だ。
「うん。出来るだけいい学校狙うってだけだけどね」
 進学塾に通っているのだから当たり前と言えば当たり前だ。この塾に通ってる人間で工業高校を狙っているのは俺だけかも知れない。
「流星は?」
 話を振り返されたので、工業高校を狙っていることを打ち明けた。それを聞いた伽椎は俺の予想以上に驚いた。大声を上げたのでこちらに視線が集中する。めいめいが色々な感情をこめた視線だが、その中にポジティブな感情はないと言っても過言ではない。集中している時に邪魔するなと言う訴えや、静かに出来ないのかこいつは、と言う蔑みや、男と女が仲よく話していることに対する妬みが露骨に感じられる。特に取りたててそう言う感情を抱いていない奴は、そもそもこっちをわざわざ気にも止めず、テキストに向かっている。
「もったいない。せっかくこれだけいい成績なのに」
 伽椎は幾分小声になる。いい成績と言っても、この塾の中じゃせいぜい並の上だがな。
「親以外にはよく言われるよ。うちの親はどっちも平凡な学歴の人間だし」
 そんな親から生まれた俺が平凡じゃない成績を維持するための苦労。そして見えてきた限界。限界ぎりぎりでひーこら生きるより、楽しく生きた方がいいやという持論を聞かせてやる。
「俺ももう限界が見えてきたしな。小学中学レベルのぬるい勉強なら余裕だけどさ。やっぱり人並みだ。不相応の人生を歩もうとすると無理ばかりしなきゃならない。同じ人生なら気楽に生きた方がいいだろ」
 伽椎は納得行ったような行かないようなだ。
 そして、ふと不安げな顔をし、妙に真剣なまなざしを俺に向けながら切り出した。
「流星も塾辞めちゃうの?」
「え?なんで?」
 正直考えたこともなかった。だが、考えてみれば、俺が目指している高校はこの塾に通わなくても十分合格できる。この塾に通い続ける必要はどこにもない。それならば月謝を払ってまで塾に通う必要性もまたどこにもない。そもそもが樹理亜を直之に近づけないために塾に入れたのがきっかけで、俺もそれに付き合わされて塾に入ったに過ぎない。その樹理亜が塾を辞めてしまった今となっては、ほとんど惰性で通っているようなものだ。
 伽椎はその表情の通り不安なのだ。樹理亜がやめ、俺もまたいなくなってしまえば伽椎は独りだ。こんな友情の育ちにくい熾烈な競争の場に、一人取り残されてしまう。今でも、伽椎がこの塾で気軽に声をかけられるのは俺だけだ。俺だって他の連中に声をかけられないし、かけたいとも思わない。そして、伽椎の通う学校もまた同じようにエリートになるべく、他人を蹴落とし踏んづけていこうという空気に満ちあふれた学校。どこに行っても楽しく友達と遊ぶなどと言うことはない。塾で会える俺達幼馴染みだけが心の拠り所になっていたのだ。
「このままだらだらと通い続けると思うぞ。親父もお袋も、この塾通わなくても狙ってる高校に受かるかもってところまで頭回ってなさそうだし」
 安心させるためにそんな事を言ったが、実際その通りだと思う。これを聞いて伽椎もほっとしたようだった。

 樹理亜からの提案で、俺が塾から帰って来たらすぐ、その日の講義の内容を樹理亜に教えることになった。
 それにより、樹理亜は学校から帰ったらすぐにうちに来て恒星に勉強を教え、その後は俺に教わるという形になった。俺も樹理亜も相当な勉強漬けだ。俺は俺で塾で教わったことをすぐに復習出来ると言うメリットがある。さらに樹理亜にとっては勉強以外にもこの提案をするだけの理由があったことは、すぐに察することが出来た。家に帰る時間がますます遅くなればそれだけ直之と顔を合わせる時間も減る。
 加奈子との親子水入らずの時間も増え、最近では直之の機嫌もよくなって来たそうだ。樹理亜も含めてこそ親子団欒だと思うが、相も変わらず依怙地であるようだ。
 加奈子も処世術を身につけつつあるらしく、そんな直之に表面上は懐いているとか。その裏で、樹理亜に対してはそんな直之の耽溺振りに、しつこいだの何だのと不満を言っているらしい。どちらが本音なのかは知る由もないが。
 性根の曲がった父親を持つと子供の気苦労は大変なものだ。直之の場合、連れ子のいない女と家庭を持てばただの子煩悩パパとして丸く収まっただろうに。大方、自分なら連れ子を含めて詩帆を愛することが出来ると自負して詩帆と結婚したが、いざ自分の血を引いた子が生まれると、樹理亜が鬱陶しくなり、しまいには憎らしくなったということだろう。よくある話だ。変な自信で自滅する分には自己責任だが、周りを巻き込み、苦労や迷惑をかけるのはのはいただけない。人間謙虚でないとな。
 まあ、そもそも樹理亜がこんな父親を持つ羽目になった原因は、俺が詩帆と生まれたばかりのと言うか生まれる直前の樹理亜をおいて逝ってしまったことにある。その辺は反省しなければならないだろう。実は俺が父親なんて事は言えないし、金もないので父親らしいことは何一つできないが、そばで見守ってやることくらいはできる。って言うか普通の父親は学校まではついていけないから、その辺は得なんだけどな。
 いつかこんな樹理亜も俺の元から離れていく日が来るのだろうか。

 学校が終わるとすぐに男の家に駆け込み、日が暮れから自宅に帰るという、奥手でおとなしそうな顔に似合わないことをやってのけている樹理亜の評判は、元来嫉妬深いと言われる女子の間では当然よくはない。
 自分で言うのも何だが、結構ワルいのに成績がよい俺は顔不相応に女子から憧れの的になっているらしい。
 俺のどこがワルいのかと思ったら、露骨に授業中やる気がないからだそうだ。そりゃあ、前世で既に習ったことを、予習の名目で塾で蒸し返され更に詳しく教わり、その後の授業で軽く触れる程度のことを言われても、今更過ぎて聞く気も起こらないだろ。もう学校は遊ぶところと割り切ってるよ。
 で、見るもの全てに欲情するような多感な時期である男子に、毎日家に女がやってくる俺がどう思われているかというと、悪ガキから不良になりかけている俺の取り巻きはますます俺を持ち上げるようになって来た。どうも、俺に媚びへつらうことで自分は俺に近い人間なんだとアピールし、それで箔がつくと思っているようだ。
 社会不適合者予備軍と後ろ指をさされる不良だが、上下関係はしっかりしていて、こう言うところだけ妙に社会的なんだよな。こういう悪ガキを狂犬に喩えたりする大人もいるが、上だと思ったものに頭が上がらず、尻尾を振ってついてくるあたりはある意味犬っぽい。上司に媚びへつらうサラリーマンとそっくりだ。
 不良ではない真面目な男子はどうかというと、気にしていないか僻むかはそれぞれだ。言うなればモテそうなやつほど気にしないよな。実際そう言う奴には自分にも彼女がしっかりいるので僻む理由がない。
 俺が実際以上に怖い奴だと思われている所為もあり、女子も樹理亜を虐めたりはしないようだ。ただ、関わりはあまり持ちたがらない。樹理亜も女子の輪にはなかなか入れず、たまに寂しそうな顔をすることもある。
 そのせいもあり、樹理亜は休み時間に、給食のデザートなどを賭けた男子のトランプゲームに混じってきたりするようになった。友達は選べと言いたいが、俺が言えた義理ではないのが痛い。いずれにせよ、こいつらは樹理亜に手を出すことはないだろう。そんな度胸はない。

 そうこうしているうちに3年になり、いよいよ受験に向けて、バカしかいなかった俺の取り巻きまで不相応に真面目に勉強するようになってきた。ただ、今まで遊び呆けてきたおかげで今更教科書を眺めても、最初のページからちんぷんかんぷんで頭を抱えている奴が多い。当然だ。やる気をいくら出した振りをしても、やっぱりバカのままだ。
 せっぱ詰まってきたそいつらに比べ、成績も問題ない俺は余裕綽々だ。樹理亜は成績を維持するのがやっとのようではある。
 驚いたのは、樹理亜が俺と同じ高校を目指すと言い出したことだ。成績的には問題はないと思う。問題なのは、辛うじて共学とは言え、工業高校なので野郎ばかりだろうと言うことだ。現に去年も120人の枠に10人しか女子が入っていない。
 小学校では伽椎のおかげもあって男子との交流もあり、今も男子に混じって遊んでいる有様なので、男ばかりの所にいることに特に抵抗はないのだろうが、むしろ樹理亜が放り込まれた周りの男たちが間違いを犯すことが不安で堪らない。
 俺はそんな思いを何気に遠回しに樹理亜に伝えた。樹理亜は妙にはしゃいだ様子で、それなら流星が私のことを守ってよ、と言った。同じクラスになればいいんだが、余所のクラスになるとその保証はできないぞ。いずれにせよ、樹理亜の意志は固いようだった。既に詩帆にはその話をし、許しも出ているそうだ。
「直之……親父はどう言ってるんだ?」
「パパにはまだ話してないんだ。多分ママからは話が行ってると思うけど何も言ってこないし。どうせ興味ないんでしょ」
 いくら血が繋がっていないとは言え、父親が娘の進路に興味がないというのもどうかと思うが。
 とにかく、もう樹理亜の進路に障害はない。親の背中を見て子は育つと言うが、俺の後について男の園に飛び込んでいくことになるとは。樹理亜が自分で決めたことだとは言え、これで何かあったらと思うと気が気じゃない。困ったもんだな。

 樹理亜が俺と同じ高校に進みたがっているという話を伽椎にもした。これは伽椎の方から進路の話を始め、そこから樹理亜の話を振ったのだから俺のせいじゃない。
 とにかく、伽椎も驚いたようだ。工業高校であること、成績的なもったいなさもそうだが、俺の同じ学校ということに。
「そうなんだー」
 涼しい顔を作って言う伽椎だが、明らかに声のトーンがおかしい。相当動揺しているのが見て取れる。返す返すも話題を切り出したのは伽椎だ。俺のせいじゃない。
 とは言え、フォローしない訳にも行かない。どうしたものか。
「俺もさ、あいつがどんなつもりでこんな事を言い出したのかは知らないさ。あんな男だらけの中に放り込むのも不安だし。でも、あいつが自分で決めたことだから俺はとやかく言える立場じゃない」
 我ながらすばらしく言い訳じみてるな。浮気なんかしてばれてもこんな調子なのかもな。まあ、浮気なんぞしないに限るってこった。
 伽椎には、俺が必死に放り出したこのしょうもない言い訳も届いていないようだった。心ここにあらずと言ったところだ。伽椎はそのまま何も言わず自分の席まで戻ってしまった。テキストを開いてはいるが、目線は明らかに床に向いており、何か物思いに耽っているのが見てとれる。
 こりゃまた話がややこしくなりそうだなぁ。勘弁してくれ。

 予想に反してその後しばらく何も起こらなかったのだが、夏も近づいて来たある日、とうとう伽椎が動いた。むしろこう言うのが怖いんだけどな。
 伽椎が妙に緊張した顔で「流星、終わってから、いいかな」と声をかけて来たとき、ついに来たかという気持ちだった。
 そういう話は講義の後にしてほしいものだ。大体話の内容は想像できるのだが、それでも勉強にいまいち身が入らない。もっともそれは伽椎の方がひどいようではあるが。
 今日の講義もどうにか無事に終わり、他の塾生は一斉に席を立ち出した。俺と伽椎だけが残った。
 伽椎はまだ覚悟が決まらないのか俯いたまま席から動かない。俺は伽椎の横の席に座った。
 ようやく肚が決まったらしい。伽椎がこちらを向いた。
「ねえ、流星。流星は樹理亜とつきあってるの?」
 そうきたか。
「いや、まだだ」
 俺がそう答えると伽椎ははっとしたようだ。
「まだ?まだって?」
 俺も特に深く考えて発した言葉ではなかったが、俺は心のどこかでいずれは樹理亜と『付き合う』事を視野に入れていた。
「あいつ、俺と同じ高校に入る気だろ。男ばかりの工業高校にさ。そうなったらあいつのことを守ってやらなきゃならない。そのためには付き合うのが一番いいと思ってる。……もちろん、あいつが別な誰かに惚れたってんなら話は別だけどな」
「それって……流星はそれでいいの?流星は樹理亜の事、どう思ってるの?あ、愛して……いるの?」
「ああ、愛してる」
 ためらいがちな伽椎の言葉に俺ははっきりと答えた。伽椎の目から涙がこぼれ落ちた。その涙を隠すように伽椎は俯いた。
 たとえその愛情が親子愛と変わらないものであっても、愛には変わりない。
「悪いな、伽椎」
 俯いたままの伽椎にそっと声をかけた。傷つけたくはなかったが、いずれはこうなっただろう。
「いいの。これで、諦めつくから」
 無理をしているのが丸解りの震える声で伽椎が言う。
「樹理亜が流星と同じ学校に進むって聞いてから気が気じゃなくてさ。勉強にもすっかり身が入らなくって、これじゃだめだと思って。きっと、こうなるんだろうなってのは分かってたよ」
 自分に言い聞かせるように呟く伽椎。
 その後しばらく黙って俯いていたが、不意に顔を上げた。
「流星、あたしのこと、嫌いじゃないよね?」
「ああ」
「それじゃ……き、キス、して。それで、諦められるから」
 そう言うと、伽椎は真っ赤になって俯いてしまった。これじゃキスもできないぞ。
 俺はそんな伽椎の手を取り立ち上がらせ、腰に手を回して抱き寄せた。前世では詩帆相手に散々繰り返した動作だ。
 言い出しっぺは自分とは言え、俺のいきなりの行動に伽椎は驚いて目を見開き、俺の上の中ですっかり固まっている。いかんな、相手はうぶな乙女だった。
「きれいになったな、伽椎。初めて会った頃は見るからにお転婆な、生意気そうな女の子だったのに」
 伽椎の癖の強い髪をそっと撫でながら耳元で囁く。緊張を解してやるつもりだったのだが、ますます緊張してしまったようだ。目を見つめると、慌てたように伽椎は目を閉じた。
 髪を撫でていた手を止め、腰に回していた手でそっと引き寄せ、唇を重ねた。全身に華奢な伽椎の体温と鼓動が伝わってきた。
 しばらくして唇を離すと、伽椎はそのまま椅子にへたり込んでしまった。考えたら、中学生相手には濃密過ぎるキスだったかもしれない。
 ひとまずこのままここにいる訳にも行かない。見回りの足音も近づいてきた。自分の分と伽椎の分の荷物をまとめて担ぎ上げ、まだ惚けている伽椎の手を引いて塾を出た。
 塾の近くの駅から乗った電車の中でもずっと黙り込んでいた伽椎が――そうそう、樹理亜が塾を辞めたことで、伽椎母の送迎は中止になっている――改札を抜け別れる間際ふと口を開いた。
「ねえ、流星」
 その声からは先ほどの思い詰めた様子はすっかり消え失せている。
「ん?」
「もしも、もしもだよ。もしも、樹理亜とうまくいかなかったり、樹理亜が流星以外の誰かを好きになったときのために、あたし誰とも付き合わないで待ってる!」
「ええっ!?」
 一気に捲し立てた伽椎は、驚く俺をよそに、思い詰めていたのも、さっきまで惚けていたのも嘘だったんじゃないかと言うほど軽い足取りで駆け出していった。
 これで諦めるという名目でせがまれたキスだが、却って焚き付けてしまったらしい。今日は何かとすることが裏目に出る日だ。
 そして、そんな事があった直後に、樹理亜が待つ家の玄関を通るときの気まずさ、気の重さといったら。俺には浮気は出来んな。今の状況、かなり浮気に近いけど。
 結局、そんな俺の様子に樹理亜は特に気付いた様子はなかった。いや、女は侮れない。おくびにも出さないが気付いていたというのはあり得る。そしてこっちが忘れた頃にいきなりその話を切り出すのだ。
 翌日、心のつかえが取れた元気な伽椎が見られるかと思ったら、前の晩は舞い上がって眠れなかったらしく、起きているのがやっとという有様だった。

 樹理亜が俺と同じ高校を志望したという話を聞いてからしばらく冴えなかった伽椎の成績も、すっかり元に戻った。
 あの日以来、伽椎が大胆になってきた気がする。もちろん、塾の衆人環視の中では何かそう思わせるようなことをしたりはしないのだが、帰り道での距離は近い。手を伸ばせば触れそうな場所を歩いている。電車の中でも、斜向かいの席に座ったり距離を置いて座っていたのが、隣に座ったりしている。端から見れば恋人同士のようだ。諦めるとか言っていたのはなんだったんだ。
 樹理亜にこれがバレないかと思うとびくびくだ。いや、なにもどちらとも交際しているわけでもなんでもないのだから後ろめたいところなどなにもないのだが。
 その樹理亜もすっかりうちに馴染んできていた。恒星ももう樹理亜の前で変に緊張することもなくなった。恒星の成績も順調に上がっている。塾に入れている訳でもないのだから随分と安上がりだ。服もお下がり、おもちゃもお下がりだったが勉強までお下がりに近い形だ。俺は手のかからない子で恒星は金のかからない子だと両親も喜んでいる。
 一方、樹理亜によると、直之は樹理亜が塾を辞めたことで浮いた金で、加奈子を伽椎と同じ市立中学に入れるつもりらしい。そのために、加奈子がいく塾をワンランク上のものにすることに決めた。依怙贔屓炸裂と言ったところか。
 わがままなところを父親から受け継いだ加奈子は、既に不平たらたらのようだ。新たに入れられようとしている塾は厳しいことでも知られている。そして、目指すことになる私立中学も、今までそのつもりで勉強をしていたわけではない加奈子が、そのつもりで勉強していた連中と受験で競わなければならない。加奈子の出来は悪くはないが、俺や伽椎に教えを請いながら、粘り強く勉強してきた樹理亜に比べれば平凡だ。今からその分を取り戻すには、かなりの勉強をしなければならない。
 一方、鼻糞ほじってても楽に受かる高校を選んだ俺たちは、クラスメイトたちが夏休み返上の勢いで今更の猛勉強に勤しむ中――おっとこれは俺たちのように低めを狙って余裕かましている奴や、日頃からまじめに勉強しているのでこの期に及んで焦ったりする必要のない奴、もうすっかり諦め切って今までと変わらず遊びほうけている奴らは除外な――余裕綽々でサイクリングに出掛けたり、海水浴に出掛けたり――これは両方の家族総出だ。伽椎は忙しそうで誘えなかった――と、親子水入らずというか何というか、そんな夏休みを過ごした。
 そんな充実した夏休みが終わって顔を合わせた伽椎の第一声、「随分焼けてるじゃない」に無意味に慌てふためいてしまう。そして、そんな様子のおかしさに訝るような目線を向けた伽椎に更に焦った俺は「そうか?普通こんなものだろ?」と、夏季ゼミに自主参加したり自宅で勉強に明け暮れた色白揃いの塾生の中で一際黒い肌で言ってのけ、完全に疑いの目を向けられる羽目になった。
 海に行くときは伽椎も誘ってるんだから、家族総出で海に行ってることは伽椎も知ってて当然なんだよな。下手にしらを切るような言い振りをしたせいで余罪に感づかれたか。女の勘は怖い。
 っていうか、どちらとも付き合っている訳でもないのになんでこんなに慌てなきゃならないんだ。そもそもその付き合っている訳でもない伽椎が何でこんな目で俺を見るんだ。俺にはなにも疚しい所なんかないじゃないか。
 伽椎が俺と同じくらいに焼けている樹理亜と会ったらまた何か言われるんじゃないだろうか。いや、だからべつに疚しいことはないんだけどな。
 俺は受験よりもこの伽椎からの重圧がきつい。伽椎が余計なことに気を回すゆとりを無くすだろう受験シーズンが今から待ち遠しいよ。

 長い2学期も、着実に進んでいく。伽椎も季節の移り変わりと共に、俺の期待通りに気持ちを切り替えて受験勉強に打ち込むようになり、俺と樹理亜のことをあまり気にしなくなった。俺も邪魔しちゃいけないし、せっかく収まってるのに下手につついてまた伽椎をその気にしてもいけないので、少し距離を置くようにした。そうなると、伽椎はますます俺のことを気にかけずに勉強に打ち込むようになる。
 伽椎のことはもう心配いらないと思う。心配しなきゃならないことがあるとすれば、ちゃんと入試に合格するかどうかくらいか。伽椎の学力ならば十分だとは言われているが、気は抜けないらしい。
 俺達だって受験がないわけではない。俺は前世で既に経験済みだが、樹理亜は初めての受験になる。不安も大きそうだ。
 樹理亜は結局、最初の意志を曲げることなく俺と同じ高校を受けることになった。俺は電子機械科、樹理亜は情報技術科を志望している。ゲームにさえあまり手を出さないほどの機械音痴の樹理亜が、はたして工業高校でまともにやっていけるのかは俺も不安だ。
 科が違うので、二人とも合格したとしてもクラスは別々になるだろう。そうなると樹理亜に俺の目も届きにくい。そっちの方も俺は不安だ。ただ、違う学校じゃないだけマシなのは確かだ。さらに、科が違うことで心配なのは、習う内容も違うだろうから、樹理亜に勉強のことで何か聞かれても答えられなくなることがあると考えられることだ。そもそも、俺にとっても工業高校の専修科目などは未知の世界だ。習ってないことを教えることはできない。
 樹理亜の成績はよい方だが、それは俺や伽椎が粘り強く教えてきたからと言うのもある。理解力に優れているというわけではない。みんなの努力の賜物と言える。独力で学習しなくなった時、果たして樹理亜がちゃんとついていけるのか。
 何とも、将来は不安だらけではないか。しかも俺がどうにかできることばかりじゃないのが何とも歯痒い。周りが受験のことで気を揉んでいる中、俺は一人受験の先のことで気を揉んでいる。
 当の樹理亜も高校生活に高校に進んでからの不安を口にする。特に、機械音痴が工業高校に進むことに対する、俺も抱いているような不安を口にしている。だが、そういった時の樹理亜は楽しそうな顔をしている。気楽なものだ。

 やがて雪が降り始め、いよいよ受験のシーズンがやってきた。
 一足先に伽椎の私立の受験があった。直前あたりの伽椎は落ち着きがなく、本当に不安そうだった。直後になれば少しは落ち着くかと思ったが、自信を持てるような結果ではなく、より落ち着かなくなってしまった。
 程なく合格発表があり、無事合格しているのを見てようやく人心地がつけたようだ。今まで塞ぎ込んでいたのが嘘のように快活になる伽椎。
 あんたらも受験頑張りなさいよ、などと周りのいやな視線も気にせず快活に話しかけてくる伽椎。周りには伽椎と同じ学校を受けて落ちた奴もおり、そういう奴はまさにいつ襲いかかってきてもおかしくないような形相だ。
 俺達の公立高校の試験の日もやってきた。俺が目指す高校を志望する人間は俺と樹理亜の他にも数人いる。いずれも野郎だ。俺と同じクラスの奴はいない。
 学力試験は特に問題もなく終了した。面接も、公立高校の面接などよほど問題のありそうな生徒以外はパスできる。倍率は決して高い方ではない。落とされることもないだろう。
 樹理亜も学力試験は特に問題はなかったという。ただ、初めての面接にちょっと緊張してしまい、ちょっとポカをやってしまったかも、と言っていた。ただ、樹理亜の学科は定員割れしている。よほどのことがない限り落ちることはないから安心しろといっておいた。
 そして、合格発表の日。
 俺は発表を見に行くまでもなく、地方紙に載っていた合格者一覧に俺と樹理亜の名前を確認していたが、樹理亜に誘われて発表を見に行くことになった。樹理亜も新聞に合否が載っていることは知っているのだが、怖くて一人で見る気が起こらないという。
 樹理亜と一緒に電車に乗り、高校まで向かう。もうすぐこの道を通り高校に通うのだ。
 樹理亜は俺の腕にしがみついたまま、自分の番号を探す。
「あった、あったあった!」
 樹理亜は俺の手をひっつかんで振り回した。こんなにはしゃいでいる樹理亜を見るのは初めてかも知れない。ちなみに、定員80名のところを受験したのは73名、合格者は72名だ。落ちた一人が気になる。
「よかったな、樹理亜」
 もう結果を俺は空とぼけて言った。他に受けた連中のうち、村川と我孫子と中川は受かっていたが、太田と川口は落ちていた。どいつともあまり交流がないので知ったこっちゃない。科も違うしな。
 なお、家に帰ってから改めて新聞の合格者一覧を詳しく見てみると、情報技術科の合格者で明らかに女と分かるのは、樹理亜の他には三澤明奈だけだ。源和実と言うのもいるが、男か女か明言できない名前だ。
 二クラスになるので、女を一人ずつ振り分けられてしまうかも知れない。仮に二人とも同じクラスになったとしても、源和実が女で3人になったとしても、男の比率が高く居づらいクラスになりそうであることに何ら変わりはない。
 ちなみに、俺の受けた電子機械科も見てみたが、これまた見事に男ばかり、女らしい名前は多く見積もっても5人しかいない。こっちも2クラス、女を振り分けるのか、片方に集めるのかは分からない。この有様じゃ、むしろ男ばっかりの方がすっきりするかもしれん。
 この女っ気のなさが俺の不安要素に新たに加わった。この環境じゃ、俺が真っ先に間違いを起こしそうだ。ヤバいなぁ。

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