路傍の雛罌粟のように

04.ダブルス・デート

 いよいよ本日のメインイベント、テニスの練習にかこつけたデートが始まる。一緒に食事をした時点でデート感は既に満杯でお腹いっぱいな感じではある。だがこれは予定外の突発的な出来事でしかない。とは言え、そっちが濃厚すぎてメインイベントが薄味に感じそうだ。何せ、言っても練習は練習だからな。
 学校が近付いたところで、女子二名は少し急ぎ足で一足先に部室に向かい、着替えを済ませておくことになった。準備運動の軽いジョギングも兼ねているみたいだ。
「わざわざ先回りして着替えって。買ったばかりの下着に替えたりするんじゃないだろうな」
 本気ではないだろうが、吉田はリアクションに困るようなことを言った。
「長沢さんと竹川さんって、一緒に下着替えられるほど仲良くなってるのか?」
 しかし、俺とて吉田相手にリアクションに困ったりする必要はない。
 テニス部の部室には女子の部室に限り外から覗けないようにカーテンがつけられているので下着を替える気になればそれも十分に可能であろう。だが、個人が着替えられるスペースはないので部室の中にいればお互い丸見えだ。
「んー。まだだろうなぁ。あの二人もぎこちない感じするしな。ナガミーのシャイぶりからすると下着になるのすら試練じゃね?……つーかさ。本人の前じゃ美香呼びしてんのにいなくなったらさん付けかよ。普通逆じゃね。見栄とか張ったりしてさ」
 吉田は痛い所を突く。本当にドSである。小西さんはこいつらにドM判定されているらしいが、吉田にすり寄るわけである。まあ、それは今はどうでもいい。
「普通はそうだろうさ。だが俺たちが普通に見えるか」
「まあ、見えないわな。三沢はザ・普通だがナガミーはなぁ。つーか、練習で運動する前に新しい下着にはしないか。替えるなら、終わった後だな」
 何とも失礼なことを言われたが、全くその通りだ。下着を替えるタイミングについても、俺がザ・普通であることについても。そのせいで、またこの疑問が鎌首を擡げてくる。
「長沢さん、なんで俺がなのかってのはなんとなく分かったけどさ。本当に俺でいいのかね」
「俺に聞くなよ。そうだな、もう少し気軽に話ができるようになったら、『俺のどこが好き?』とか聞いてみればいいんじゃね」
 なんとも気軽に言ってくれる。まあ、そのなんとなく分かったのも、吉田の勝手な推論でしかないし。結局は本人にしか分からないことなのだから、どうしてもと言うなら本人に聞くしかない。
「気軽にそんなことが聞けるようになるまで何年かかるんだろうな……」
「気軽に言えるようになるまで待つことはないだろ。勇気を最大限振り絞って聞けばいいじゃん」
 やっぱり気軽に言ってくれる。
「そもそも俺が全力で勇気を振り絞り尽くして枯れ果てながらそう切り出したとして、長沢さんがそれに答えられると思うか」
 そう、俺が勇気を振り絞るだけじゃダメなんだ。それだけだと、真っ赤になって口をぱくぱくさせる金魚のような長沢さんが目に浮かぶようだ。吉田も同様であったようで。
「無理」
「だろ」
「あのうぶな乙女みたいな反応してるうちは流石にダメか。もうちょっとナガミーが色々ほぐれてこないとな」
 みたいなも何も、長沢さんはうぶな乙女なんだけど。
「それにも1年と何ヶ月かかるかなぁ。しばらくはこの不思議な気持ちのままでいるしかないや」
「そこで諦めるのがザ・普通のザ・普通たる所以だな。ここで諦めず前に進めりゃ物語の主人公にだってなれるかも知れないのによ」
「だからさ。俺が前に進むだけじゃないんだってば。俺は長沢さんにまで痛みや恥じらいを与えて平気な、むしろ喜ぶような、吉田みたいな人間じゃないんだよ」
「ちっ。すっかりドSキャラが定着してやがんな……。でもまあ、1年過ぎればどうにかなるのは確定なんだな」
「確定というか、理想だよ」
「なんて志の低い理想……。理想なら年内とか言え」
「年内って。あと何日だと思ってんだ」
 そういう事はせめて、夏くらいに言ってくれ。
「……でもよ、樹里亜がさ。お前らが結婚がどうこう話してるって気にしてたけど」
「ああ、うん。大した話じゃないけど、そんな感じの話はしたな。家庭も持ってないのにファミレスに行っていいのかみたいな、まあ軽いジョークだよな。俺たちが結婚しようなんてことは言ってないぞ」
「だろうよ。流石に気が早すぎる」
 ゆくゆくは、みたいな些か気の早い雰囲気は出してたけどな。
「それにしてもよく聞いてたよなぁ、竹川さん」
「男と女じゃ耳から通じてる神経の作りが違うんだよ。奴らの耳はマルチタスクだ、あっちでくっちゃべってるからこっちの話は聞いてねえと思ってるとしっかり聞こえてやがる」
「そうなのか」
 逆に言えば、こっちが男同士で喋っているときに近くで女が喋っていたら、女の感覚ではその会話に聞き耳を立てられていると思うわけだな。そんな余裕ないのに。口で女に勝てる男は詐欺師くらいだってのに、耳ですら負けてるなんて不利すぎる。
 そして、女はさりげなく聞き耳を立てるのもうまい。
「ファミレスにいた先輩らも、電話かけまくってたけどこっちの話聞いてたかもしれねえぞ」
 吉田は怖いことを言った。でも。
「距離的にそれはどうだろうな。別に聞かれて困る話もしてないし。……そう言えば、沢木先輩と根室先輩。さっき来てなかった女子にも電話かけてたよな」
「そうだっけ。よく聞いてたな」
 ファミレスじゃ長沢さんに話しかけるタイミングや話題を探りながら所在なく先輩たちの声にも聞き耳立ててたからな。女じゃなくても、このくらいは。
「連城に連絡しておくか。すっぴん女子を見かけたら化粧しておくようにって」
 既に奴の手に掛かった女子達なら仲間が増えることに異存はないはず、止めだてはするまい。連城にすれば更に化粧をする好機だ。逃すはずはない。俺は携帯を取り出した。
「そちもワルよの」
「いえいえお代官様の足元にも及びませぬわ。……割とマジで」
 吉田にはワルと言われたくない。

 その旨を伝えると連城は快く了承した。連城はそのうち来るだろう。そして、女子もそのうち来るだろう。あちらはあちらで勝手にやっててもらうに限る。もうこうなったら俺の完治する所ではない。
 学校に到着した。まだ二人の着替えは終わっていないらしく、外にその姿はない。
 女子の部室の中は今、いつになく禁断の空間になっている。いや、決して普段の女子の着替えが言うほど禁断でもないと言いたいわけじゃない。ただ、普通ならこの部室を使うことはない、他校の長沢さんとテニス部員ではない竹川さんというイレギュラーな二人が着替えているのだから、いつもとは大違いだ。それに加えて先程吉田から二人が下着を換えている可能性が示唆されたばかりである。これからすることが練習なのだから下着を替えるなんて事はまずないことだとは思うが、万が一という事もある。出来るだけ、部室そのものが視界に入らないように気を配る。
 いや。俺たちの到着から程なく二人が現れた。着替えは終わってて、外は寒いから俺たちが来るまで部室で待っていただけか。ちょっとほっとした。残念だとは思わない。どうせ覗く予定はないのだから。
 これまでおしゃれ着の女子とジャージの男子という凸凹な組み合わせで街を歩き食事をしたが、ここでようやく服装が揃うことになるはずだった。まあ、どうせ真冬のこと。上着を着てれば上半身のジャージは隠れるからバランスがとれてないのもバレにくいんだけど。
 そして、凸凹ぶりは解消されないことが判明した。竹川さんはジャージなので俺たちの仲間になったが、長沢さんはちゃんとしたテニスウェアだった。まともなプレイヤーと素人かそれに毛が生えた程度のプレイヤーの差を見せつけられた気がする。
「なんかさ、こう……ヒエラルキーっての?はっきり出てるよな。教えてもらう人間と、教える人間っていうな」
 吉田の発言には頷くしかなかった。
「うん。確かにな」
 そして、頷きながら俺は少し別なことを考えた。長沢さん、テニスウェアだ。スカートだ。
 めくれることを考えて、見せパンとかに替えた可能性が……。
「じゃあ、よろしくお願いしますよコーチ」
 冗談めかして言う吉田に対し、少し照れたように長沢さんは返す。
「うーん。教えるのって、あんまり自信ないのよね」
「でも、そっちのテニス部じゃ当然他の部員に教える側でしょ」
 俺の言葉に長沢さんは小さく頷いた。やっぱりそうか。うちの学校にもこのくらい素敵なコーチがいてくれれば俺だって今頃は。でもこれからは。
「そうね。でも……こんなこと言っちゃうのもなんだけど、教えてもあんまりうまくなってないような」
 長沢さんにこんな顔をさせるなんてとんでもない連中だ。その怒りも込めて言ってやった。
「君は悪くないよ。彼らの教わり方が下手なんだよ」
 でもなんというか。あの四天王とか自称している連中も言うほど下手じゃないよな。雰囲気はへっぽこ感を惜しげも無く醸し出してはいるものの、少なくとも俺たちよりはうまいし。
「そうね。きっとそうだわ」
 でもそういうことになってしまったようだ。もしかして、俺たちもちゃんと上達できないと教わり方が下手だったという事になってしまうんじゃないだろうか。ハードルを自分で上げてしまった気がする。頑張らないと。
 緊張感が増した気がする練習を始める前に、吉田がどう組分けするかを改めて確認する。
「やっぱり男女ペアっすかね。一番へっぽこの樹里亜が長沢さんと組むってのもバランス的には悪くないんすけど」
「へっぽこなの?」
 聞きにくいことだが言われちゃったんだし、と言った感じで本人に直接尋ねる長沢さん。竹川さんにとっても隠すほどの事ではないようだ。
「ええ。基本を知ってるってくらいですよー」
「なにぶんコーチが長くやっててもただの素人の俺っすからね」
 なぜ胸を張る、吉田。そして実質吉田がコーチなのは俺も同じだ。今の話でパワーバランスは把握したらしく、長沢さんは頷いた。
「今の時点では何もバランスにこだわる必要はないわ。いつか実力がついたらそれでやってみましょ」
「そうですね。せっかくのデートだし」
 竹川さんがさらっと言った。
「で。……デ?」
 さらっとは受け流せず真っ赤になりつつ硬直する長沢さん。そういえば、今日のことはすっかりデートと言う認識だったものの、今に至るまで長沢さんの前ではデートと言う言葉は一度も使ってない気がする。さすがに、気恥ずかしかったし。そのせいで長沢さんも今日の事はあくまでも練習と言う認識だったらしい。だからこそ、竹川さんを呼んだり、おまけに吉田までついてきた。まあ、そのおかげでダブルデートになったんだけど。
「ん?俺たち、普通にダブルデートっていう認識でしたけど。なんか違いました?」
 無表情で言う吉田。分かってて言ってるなこいつ。
「最初は長沢さんと三沢君の二人だけだったんだもんね。でもダブルスの方が二人の距離が近いからって私たちが誘われて……」
 竹川さんは言った。こっちは吉田の意図はよくわかってなさそう。ダブルスありきで誘いをかけてきたことまでバラされて長沢さんが慌てた。それは内緒のつもりだったようだ。まあ、竹川さんが誘いをかけられたことを吉田に伝える時点で既にそこまで話してあったみたいだし、吉田も隠す気は無かったからすでに俺も知ってるんだけど。
 とりあえず、さっさと練習に入った方が余計なことを考えなくて済むだろう。そう思い、長沢さんに声をかけた。
「さあ、せっかくの機会なんだから練習練習!手取り足取り教えてくれるんだよね?」
 ポンと肩を叩く。
「テトラシトリっ!?」
 とどめにしかならなかったらしく、謎の単語を口走りながら飛び上がるる長沢さんだった。

 緊張しすぎて練習になりそうもない。
 俺が緊張するかもと言うのは想定していた。だが、実際に練習にならないほど緊張しているのは長沢さんの方だった。むしろ長沢さんの緊張具合を見ていたら和んで俺の緊張が解けたくらいだ。
 長沢さんがサーブを打つのは今の所無理っぽいので俺が打とうとしたのだが、今サーブを打っても長沢さんが動けないのではないかと思い、結局サーブが打てない。あと、とてもどうでもいいが、緊張のあまりちょっとへっぴり腰になっている長沢さんの後ろからサーブを打とうとしたら、ちらっと短パンが見えた。短パンを穿いていたことに残念な気持ちが少しだけあるが、大いにほっとした。
 そんなことより。長沢さんが照れ屋だというのはなんとなく気付いていたが、デートだと意識しただけでこうにまでなるとは。今日になる前にデートだと意識していたら、今日の練習は延期か中止になっていたかも知れない。しかし、このままでは実質中止みたいなものだ。どうしたものか。
「えーと。まずはさ、教えられる側の実力を掴んでもらうために男女に分かれて試合形式やらない?」
 その間に長沢さんもクールダウンするだろう。そう思って提案してみると。
「だなぁ。俺も樹里亜のへっぽこ具合を長らく確認できてないからなぁ」
「あんまりへっぽこへっぽこ言わないでよ」
 一部不満はありそうだが、俺の提案に対してではない。男対女で向かい合っての試合形式が始まる。こうするとデート感はかなり薄らぎ、長沢さんの緊張もかなり解けてきた……と思う。長沢さんは後衛に入ってるので遠くてちょっとよくわからないかも。
 ではいよいよサーブを打とうというその時。
「おーい」
 吉田が何かに気付いて大声を出した。吉田の視線を目で追うと、そこに怪しい人物が手を振っていた。連城であった。だが、先程とは顔が変わっている事に気が付く。顔が変わると、怪しくなくなる。よって怪しい人物と言うのは撤回させてもらう。連城はこっちに寄ってくる。
「早いおつきだな。……化粧は落としたのか」
「化粧したまま外を歩けると思うのか。俺は男だぞ」
 吉田がありふれた男に戻った連城に話しかけた。
「多分女子は部室に籠城しながらこっちの様子を見ると思う」
「へー。じゃあ、……部室に隠れてりゃいいのか」
「それはやめとけ。来るなり着替えだす奴とかいるかもしれない。そんなところに潜んでたら、着替えを見たことにされるぞ」
 なぜ女子の部室に潜む前提で話をするのか。
「じゃあ、物陰に潜んでおくな」
 そしてなぜ男の部室に潜んでおくという発想が出ないのか。……いや、そりゃまあ互いの部室から状況なんてわからないんだけどな。女子は騒がしいから目に頼らず耳で感知できるかも知れないが、向こうもこっそり近付いてきたら対処できないし。一応考えてはいるんかな。
 連城の登場で多少気分も変わり、長沢さんの緊張も一段階解けた感じだ。でもまだ固い。
 吉田の方から提案があり、まずは軽く打ち合ってみることになった。それで俺たちの、特に竹川さんの惨憺たる実力を長沢さんに理解してもらおうという事である。
 たまに吉田とコートでもない場所でポコポコ打ち合って遊ぶくらいだという竹川さんの実力は、速くない球なら相手のコートに打ち返せる程度のものだった。サーブは正確さがないもののパワーは強い。これは園芸部での経験が活きているらしい。鍬を振り下ろすつもりでラケットを振るとのこと。鍬が出てくるレベルだと、園芸じゃなくて農業なんじゃなかろうか。そういや、文化祭で芋とか野菜出してなかったっけ。
 俺の実力は履歴書やプロフィールにテニス部員だと書くのはちょっとためらわれるが、『趣味:テニス』となら胸を張って書けるくらい。吉田は普通にテニス部員、普通を超えることはない普通のテニス部員だ。普通が売りなのに普通にさえなれていない俺より普通になれている。まあ、うちのテニス部が普通じゃないのは認める。
 そんな実力が露呈したところで、さらにコート外での動きがあった。着飾った華やかな女たちが大挙して現れたのだ。何事かと思ったが、我がテニス部の女子だった。男子に比べれば圧倒的に普通のテニス部している女子のテニス部員達だが、今の恰好は学校に来るには普通ではないし、きっと彼女らにしてみても普通ではあるまい。
 化粧に合わせて服を着替えてきたらしい。さっきはいなかった女子もまた、とても気合の入った服装で加わっている。あとで聞いた話だが、呼び出しに際して理由は説明されず、できる限りおしゃれな服でただしすっぴんで集合と言う号令がかかっていたらしい。すっぴんで呼び出された女子は呼び出した女子があまりにも化粧ばっちりだったので戸惑ったが、その後に待ち受ける運命について説明されたときの方が戸惑ったとか。
 そんなおめかしした、保護者や教師の集団にしては明らかに若く、そのくせ制服やジャージでない一団は学校の風景に合わずあまりにも目立つ。目立っているが、やっていることは他人のデートのデバガメなので行動はこそこそとしていた。殺風景な校庭の隅や物陰を伝いながら派手な人影が動くのはさらに目立ってしまう。
 そして、そのこそこそした動きはやはりこそこそと隠れていた連城と鉢合わせする原因となった。取り囲まれ、女子の秘密の花園すなわち女子部室に連行される連城。ある種羨ましい状況だ。よく見ると、取り押さえているのは先程化粧された女子で、まだ化粧されていない女子としてはこのままリリースしておけば自分たちは無事で済むという考えからか、遠巻きに見ているだけだ。しかし、連城とて吝かではないのだから逃亡を企てることなくあっさり投降する。
「やだぁ、私の脱いだ服もあるのに」
 竹川さんが慌てる。吉田は落ち着いて言った。
「女子もいるんだし、変な事はしないだろ」
 他人事であった。
 確かに、女子に囲まれている以上連城が変な事をすることは考えにくいことだろう。だがしかし。女子の方が変な事をする危険性は僅かながら残されているのではないだろうか。何度も死線を掻い潜った人間と言うものは常に最悪の状況と言うものを想定して行動するものである。俺だって、死線なら幾度となく掻い潜ってきた。もちろんゲームでの話だが。
 この状況で、女子がしそうな変な事について想定してみる。服に何かする前に、まずは連城に何かするだろう。
 そう、今連城は化粧を落としてただの男に戻っている。今日の化粧イベントの趣旨は化粧した連城になら化粧されてもあんまり怖くないのではないかと言うところから始まっていた。中須さんは『大差なし、むしろ化粧した方がヤバい』と言うような結論だったと思うがこれはあくまで個人の意見だし、ただの男に実際に化粧されてはいない以上この感想はあくまでも想像との比較。巻き込まれたとは言えここに能動的にやってきていた先発組に呼び出された後続が完全な男に化粧されることになるのはやはりアンフェアであろう。シチュエーションを揃えるために連城も化粧させるのではないか。あるいはいっそ逆襲としてみんなで取り囲んで化粧してしまうパターンか。
 そして、その場合やりそうな悪乗りとして、手近にある女子の服を着せて完全女装させてしまうという事が考えられた。もちろん、この突発的事態にそんな衣装を用意してきた計算高い人物は居ないだろう。だからといって自分たちの服を着せると自分が裸になってしまうのでそれはあり得ない。だが、お誂え向きにそこに脱いだ服があったとしたら……。
「それ、私の服も危ないんじゃないかしら」
 進言してみたら長沢さんも慌て始めた。まあ、そりゃそうだ。
「ま、どっちの服が誰の服かはさっき見てるんだし分かるんじゃないすか。まだ服を勝手にいじれるほど親しくない長沢さんのは大丈夫っしょ」
 長沢さんを安心させるために吉田がそう言った。それを言い出したら、竹川さんだって学校が同じってくらいでうちの女子とそんなに深い関係があるわけじゃないな。大多数が顔を知ってるとか何度か口を利いたことがある程度だろう。恋敵認定して敵対心を燃やしている小西さんもいるが、彼女も吉田に好かれたいという行動理念に基づいて動いている。嫌がらせとしても本人の目の届かないところで吉田のカノジョの服を男に着せるようなことをして吉田の好感度を下げたりはするまい。つまり、俺の懸念は的外れだったか。と結論付けたところで吉田が言う。
「ただし樹里亜のは根室先輩の権限で使われる可能性が」
「うわー」
 その可能性を失念していた。不覚である。
 そして。ゲームででも何度も死線を掻い潜った人間と言うものは常に最悪の状況と言うものを想定して行動するものである。俺が導き出した最悪の状況、それは。
「……どっちがどっちかわからなくなって美香の服が使われる可能性も……」
 ちなみに、最近潜り抜けた死線は万端の準備をして臨んだ中ボスでまさかの護衛雑魚右と左の大技クリティカルヒット2連撃を受けてパーティメンバーが一人死に、蘇生と回復でもたついているうちに全滅したことだ。準備は万端だったのだ。その証拠に、そのままやり直してみたら護衛はあっという間に蹴散らしボスもタコ殴りで楽々と倒せた。運だけでここまで運命が変わるのだから準備の意味などないと考える人もいるだろうが、運命に抗えるだけの準備はするに越したことはない。そして、抗いきれぬ運命への最大の抵抗……それは、覚悟である。万端の準備に慢心せずちゃんと直前にもう一回セーブしたからこそ、そのままの状態での再戦も為しえたのだ。そして、現実を見据えることもまた然り。護衛が二体とも同じキャラしかも一番脆いメンバーを狙い、同時に大技を繰り出し、それがどちらもクリティカルヒットなどと言う滅多にないだろう偶然が原因であることを弁えていたからこそ、挫けずそのまま再挑戦し、勝利を勝ち取ったのだ。
 まあ、長々と偉そうに語るほどの事でもないけど。って言うかそもそもこれ、死線をくぐり抜けられず死んだ話だった。
 そして俺の想定した最悪の事態と言うのも、どっちが誰の服かわからないなら普通は使うのをやめようとするだろうからまずありえないシチュエーションだったけど。
「まあ、自信満々に勘違いする奴いくらでもいるしな。勘違いした奴が長沢さんの服を『これが樹里亜の服だ』とか言って、間違いに気付いてる奴も言い出せないままとか」
 ありえないシチュエーションでもなかった。吉田は吉田で結構な修羅場をくぐってきたらしい。なかなかのネガティブシンキングぶりだ。
 俺たちが焚き付けたせいで、長沢さんと竹川さんは部室の様子を探る決断を下したらしい。この二人が大丈夫だと判断すれば、俺たちが覗くこともできるだろうし。……ひとまず、今この場合考えられる最悪のシチュエーションは、中で連城がパンツまで剥かれていてそれを長沢さんが見てしまうパターンか。まあ、無いな。
 窓から覗き込んだ二人はほっとした。という事は、あらゆる最悪の事態は回避されていたという事だ。そして、俺たちが見ても大丈夫な状況だと言うので覗かせてもらうことにした。まあ、そうだろう。連城が中にいるのに俺たちに見せられない状況になっていたら連城が羨ましすぎるしな。
 覗き込んでみるとその連城は女装どころか化粧すらしていなかった。すっぴんであるがすっぽんぽんではない。化粧を強要されるでも、着替えのために生まれたままの姿に剥かれるでもない。引きずり込まれたままの姿だ。男のまま女子に化粧をしている。
 その様子で自分たちの服に災難が降りかかることはなさそうだと判断したらしく、長沢さんと竹川さんはコートに戻り、俺たちもそれに倣った。

 さあ、本来の目的に戻ろう。初デートというビッグイベントが後から属性として付与されたので影こそ薄くなったが、デートというのもそもそもの目的ではない。本来の目的はもちろんテニスの練習だ。
 まずは総合的な実力差がある程度縮まりそうな男女に分かれてのペア、俺と吉田、長沢さんと竹川さんと言うチーム分けでの打ち合いをするという話だった。……始める直前にバタバタして忘れかけていたけれども。
 その連城絡みのドタバタで、ただの練習のつもりで来たら初デートだった事による長沢さんの緊張もちょっとくらいは吹っ飛んだ感じはするが、まあ男女に分かれたペア編成でさらにクールダウンしておこうというところか。とは言え、確かに距離が近いというのも緊張するところだったがこうなったらこうなったで問題になるところがある。敵対する立場になると、どうしても向かい合うのだ。向かい合って、見つめ合うのだ。せっかくのデートなのに男とペアという事で楽しみが半減するかと思ったが、前に女の子二人と言うのはむしろこっちの方が楽しいんじゃないかってくらいだった。
 気楽な俺にしてみればそんなところだが、デートを意識してしまっている長沢さんは向かい合うだけで緊張してしまっているようだ。なんか、こうなるともう何をしてもダメなんじゃね。
 だがしかし。ラケットを構えてボールに集中し始めるとスイッチが切り替わったようであった。俺たちは集中して全力で倒すべき相手でもないし、集中して全力を出さないと勝てない相手でもないし、そもそもそういうシチュエーションですらないが、それでもだ。今、長沢さんの瞳の中に俺は居ない。いるのはただ、勝負の相手のみ。
 ……つまり、俺は心置きなく長沢さんを正面からガン見できるのである。そういう事じゃないような気はするが、そういう事だよな。
 まずはこっちから、吉田のサーブ。竹川さんに向けて、打ち返しやすそうなゆるゆるとしたサーブだ。竹川さんはそれを必死に打ち返し、どうにかこっちのコートの中に放り込んだ。高く打ち上げ、ネット際に落ちる。狙ってやったわけがないが、それは打ち返そうとすると結構面倒な球だった。ネットの上を掠りそうになる。
 このレベルの低い打ち合いで長沢さんのモードがさらに切り替わった。見るからに力が抜けて構えがゆるくなった。って言うか今まで割と本気モードでしたか。相手を見てください。ウォンバットを狩るチーターくらいの本気度で勝てる相手ですよ。
 そんなお互いの力量を量りあうための打ち合いなので、キツいスマッシュなどは無しにゆるゆると打ち合いが続いた。少なくとも、竹川さんはスマッシュに対応できるほどの腕前ではないという事だ。そして、スマッシュを打てる腕前でもない。長沢さんの本気のスマッシュはうちの部員にまともに返せる奴はいないだろう。いつものノリなのか、竹川さんは割とキャッキャウフフ的である。長沢さんもすっかり臨戦態勢は解除した。
 そして、ここでちょっと残念なことがあった。長沢さんは本気モード解除で俺と正面から見つめ合っていることに気付いたらしく、急にそわそわし始めた。このまま、目で殺す……何て言う選択肢もあるのかも知れない。だが、俺はそんなことはしないのさ。だって、俺の方がそんな長沢さんを直視できるわけがないからな。お前を殺せば俺も死ぬ。一蓮托生って奴だ。多分、違うが。
 そうこうしているうちに俺がちょっとやらかしてサーブ権があちらに移った。別に長沢さんに気を取られたわけではない。いつも通りの実力だ。
 竹川さんのサーブ。小気味良い音を立てて打ち出されたボールは真っ直ぐネットの直上を掠めた。そして、俺たちの頭上を勢いよく通り過ぎコートを囲む金網をも飛び越えた。アウトだ。そしてすごい弾速だ。
「樹里亜。力み過ぎじゃね?」
 吉田が弄り始めた。
「だあって。このレベルの中じゃしょうがないじゃないの」
「久々すぎて力の加減も分かんないんだろ?秋から冬にかけてまた筋肉増えたろうし」
「うっさいわね。体脂肪率は減ったからいいのよ」
「率はってことは脂肪そのものは減ってない、と。やっぱり筋肉増えてんじゃん」
「揚げ足取んないで」
「っていうかそもそも、そのフォームからしてちょっと怪しくね?」
 吉田が竹川さんの方に駆け寄り、フォームを直々に直し始めた。せっかくなので、俺も長沢さんに直してもらおう。
「あっちが終わるまで、俺のフォームも直してくれない?」
「えっ」
 そう声を掛けると長沢さんは少し躊躇い、あっちすなわち吉田たちの方に目をやった。吉田は竹川さんの腕や足を掴んで直接フォームを直している。挙句腰にまで手を回し、「変なとこ触んないでよ!」「触んないと変なとこ直らないだろ」などと言い合う。
「あそこまでは!しなくていいからね!」
「そそそそうよね!」
 長沢さんにあそこまでされたらせっかく、教わったフォームとか今日の他の思い出とか全部すっ飛ぶ。
 結局、長沢さんは口頭で指示を出して俺のフォームを少しずつ修正していくのだが、口だけでは説明しきれない微妙なところはやはり手を使って微調整せざるを得ない。ぎこちない手つきだ。
「ううう。なんかいつもみたいにできない……」
「いつもって……そっちの部活?男子にもフォームとかの指導してるの?」
「うん。いつもなら普通にあんな感じでやってるんだけど……」
 吉田たちの方に目を向ける長沢さん。吉田の指導にはさらに熱が入っており。
「やだもう長沢さん見てるのにそんなことしないで」
「何かしたか、俺。……ふむ。……言わなきゃ何をされててもバレないんだぞ。痴漢がなぜ泣き寝入りされるか知っているか」
 痴漢してるのか、吉田。
「あんな感じではやってないから!」
 そういう真っ赤な長沢さん。羞恥なのか、怒りなのか。まあ、どっちもだろう。
「そうだよねそうだよね」
 日頃痴漢してることになっちゃうもんな。……って言うか。あちらのどう考えても恥ずかしい会話がダダ洩れであるくらいにはこっちのやり取りも聞こえてただろう。……あいつら、わざとやってんな。人生悪ふざけの吉田はともかく、竹川さんがこんなにお茶目だったとは。でもって吉田。お前竹川さんのお茶目なジョークを察して発言しただろ。こいつらってば……。だがこんな長沢さんを見られたのでグッジョブだ。ただし俺も恥ずかしいのでどうにかしろ。
「とととにかく。腕とかなら触ってフォームを直すくらいのことはしてるんだけど。明弘くん相手だと緊張しちゃって……」
 あの四天王とかもお触りありでフォーム指導されてると思うと羨ましいが、それができないくらいに意識されてると思えばそれはそれで誇らしい気分だ。でも、触って直して欲しいです。しかし無理はさせない、無理なら我慢だ。
「やだぁ、またそんなとこぉ」
「このくらい我慢しろ」
 あっちはまだやってた。肩掴まれててどんなとこを触られてるって言うんだ竹川さん。いい加減にしなさい。

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