路傍の雛罌粟のように

03.レストレス・レストラン

 午前中に予定外のハプニングが色々とあったが、予定通りダブルデートが始まった。そしてこれも予定外だが、4人で昼飯を食べることになった。まさかお昼前に二人が来るとは思っていなかった。近場のファミレスに向かう。
 吉田は気を利かせて俺たち二人と別行動にしてもいいぞというようなことを言ったのだが、化粧のおかげで150%くらい近付き難いオーラが増強されている長沢さんに腰の引けた俺が悩んでいるうちに、自分の化粧を気にして更に弱気な長沢さんがみんなで食べようと言い出した。内心ほっとしたのは内緒にしたいところだがどうせバレバレだろう。
 店内に入り、窓辺のボックス席に陣取った。俺の目の前には、吉田と竹川さんが肩を並べて座っている。長沢さんが最初にボックスに踏み込み、次いで長沢さんと友達という事にはなっているがそうなってまだ日が浅くその上年上相手で肩を並べて座るほどこなれてない竹川さんがその向かいに座った。その横に誰が座るのかは自ずとと決まってしまうわけだ。至って自然な流れで俺と長沢さんも肩を並べて座ることになった。
 眩しすぎるそのご尊顔を正面から直視せずに済むのは気楽だが、距離の近さは記録更新だ。どうにかお互いの体が接触しないギリギリのポジション。この状況に俺はすっかりガチガチだが、それは長沢さんも同じだ。そんな長沢さんを見ているとますます緊張してくるが、きっとそれも長沢さんも同じなのだろう。緊張の相乗効果である。一方、目の前の二人は慣れているようで気楽なものだ。吉田は頬杖までついた気楽すぎるポーズで「代金は自腹で頼むぜ」と竹川さんの肩に手を置き、竹川さんはその手を気にする風情もなく「分かってるわよ」とあしらう。
 女性陣とは午後に落ちあう予定だったので昼飯を奢ることになるとは思ってもいなかったのだろう。ダブルデートと言うことになってこそいるが、名目としてはただのテニスの練習。吉田と竹川さんは二人で会うのもいつものこと。気負って特別な準備まではしていないようで、吉田は自分の食事代だけしか持ってきていないようだ。
 だが俺にとっては大切な初デート。粗相の無いように準備は怠らない。
「君の分は俺がおごるよ。たまには男らしいところを見せないとな」
 余計な本音も口を突いて出てしまったが、それはとにかく金はしっかりと用意してあるので食事代くらいなら出してあげられる。
「わ、嬉しい。でも、大丈夫なの?」
「何があるかわからないから、お金は多めに持って来たんだ」
 俺の方はばっちりだが、そうなると吉田が相対的にダメな男みたいになってしまう。
「流星はさ、お金多めに持ってこなかったの?」
「まさか早く来るとは思ってないし。今更いざという事態が何も思いつかないし。……ホテル代でも用意しておいた方がよかったか?」
 そう言われた竹川さんはまさにジト目と言う目つきになったくらいで大した反応はない。むしろ俺の隣の長沢さんの方が大きく反応する。手に持っていたコップの水がバシャッと跳ねた。飲んでいる最中だったらギャグ漫画のように吹き出していたのかも知れない。
 ここで竹川さんはちらりとこちらを気にした。そして恐らく、長沢さんが竹川さんの話など聞いていられる状態じゃないことが確認できたためか吉田に小声で言う。
「まださすがに、二人だけじゃちょっと気まずくてね……」
 ただでさえ知り合って指折り数える程度の日数しか経っていないし、実質何の接点もない他校の生徒であり、メールでのやり取りは結構しているらしいがこうして顔を合わせるのはあの日以来だ。まして竹川さんにとって年上、気楽な相手じゃない。まだ4人でわいわいしてた方が気が楽だろうという判断だったようだ。見た感じ、長沢さんは今でもそれほど気楽そうではないけど。
 特に今は、竹川さんは軽く受け流した吉田の軽いそれでいて悪いジョークの流れ弾が長沢さんを直撃しており、そのせいで気も漫ろになっているようである。真っ赤になって俯いたまま、ものすごく小さな声で「ホテル……」と呟いた。タイミング的にも悪いジョークだった。いや、このタイミングしかないジョークではあったんだが、俺にとっては最悪だ。なにせ、何かあった時のためにお金を準備していたと言ったばかり。俺としてはその何かを限定してなどいないし、精々まさに食事や軽食をおごったり、コンビニで何か買うような用ができたりといった程度のことを想定していたに過ぎない。だが今の吉田の発言のせいでその何かが“あわよくばホテルに”なんて意味だと捉えられかねない。っていうか、耳まで真っ赤になっている長沢さんの反応。これはそう捉えられているような気がしてならない。
「変な事言うなよ。誤解されるだろ」
 あくまでも誤解であることを印象付ける必要がある。そりゃあ確かに、俺としてもホテルに連れ込むだけの金の準備こそできているが、心の準備ができていない。だからそっちは完全に想定外だ。マジで。
 長沢さんはまだ俯いたままもう一度、「ホテル……」と呟いた。誤解なんだよう。

「ま、こっちもショッピングだからさ。お金は持ってるからね」
 竹川さんは気にせず話を戻した。そうだ。その調子だ。頑張れ竹川さん。
「で、何を買ったんだ」
「ないしょー」
 こんな何気ないやりとりの最中でも長沢さんはビクッとしている。何か、ヤバいものでも買ったのか。
 そして、そんな長沢さんの微妙な挙動不審ぶりに感付いた吉田は本腰を入れて内緒の買い物の内容を詮索を始めるのである。
「ショッピングの割に結構早く終わったよなぁ」
「んー、まぁ……ね」
 まずは外堀を埋め。
「買ったのが着る物だったらもうちょっと時間掛かってただろうな」
 一気に敷地に踏み込む。しかし、中に踏み込むのはまだだ。
「そうでもないよー。着る物でも色々あるでしょ。部屋着とかならすぐ決まるよ」
 何か核心を突いているらしく、長沢さんのおどおどが止まらない。もうやめてあげて。
「そりゃそうか。買ったものはもう置いて来たのか」
「そんな時間無いよ、まだ持ってるよ」
「ありゃ。荷物少ないからてっきり。……買ったの、服だろ?」
 外周を取り囲んだところで門をぶち破り出す。
「うん。そんなとこ」
「どれ。どんなの買ったんだ」
 遂に本丸に突入。
「やだ。見せらんないよ」
「……ああ、下着か」
「や、ちょ。やだぁ」
 落城である。図星だと分かるリアクションであった。そして、隣の長沢さんも無言ながら動揺の色が隠せない事でほぼ確定的と言えるだろう。二人で下着を買ったのだ。
 実は、話の途中でピンと来ていた。買った物はどうやら着る物らしく、そして長沢さんがおどおどしてしまうような物。この時点でお察しだった。竹川さんはガード緩すぎ、情報を与えすぎである。先程から空とぼけて吉田の方を見ているというのに、視界の外から露骨にそわそわしている感じやらビクッとしている動きやらが丸分かりの長沢さんも動揺を態度に出しすぎである。
 まあ、目の前の二人の関係性ならこのくらいのことは別にバレてもさほど問題ではないのだろう。吉田は竹川さんに溜め込んだエロ画像の隠し場所までバレているらしいし。だが、俺と長沢さんのことも考えてください。お願いします。
 とにかく、長沢さんに下着とホテルの事を忘れてもらわないと話もできない。とりあえず、手近な話題と言えばメニューの事である。

「いろいろ教えてほしいの」
 長沢さんは俯いたまま、恥ずかしげにそう囁いた。
 俯いているのはメニューに目を落としているからである。そして、恥ずかしそうなのは吉田が竹川さんから内緒の買い物の健を引き出してしまったこともあるのだろう。
 だが、それだけではなかったようだ。かと言って、ホテルの件を引きずっているというわけでもなかった。そして、教えて欲しいこともホテルでのあれこれでは断じてないのである。そもそも俺がそっち方面でいろいろ教えられるほどの経験を積んだ男に見えるほど長沢さんの目は曇っていない。俺が彼女にいろいろと教えてあげられるもの、それはファミレスのシステムについてである。
 長沢さんの場合、家に帰ればいつもご飯ができていて、一家揃って食卓を囲む。そんな幸せなファミリーがそこにある。まさにファミレスいらず、ファミレスレスである。出かけるときもお弁当を用意してもらい、あるいは自分で作り、ビニ弁すらいらない。そして、ファミレスに一緒に行くような友達はおらず、一人でこういう店に入る勇気はない。
 そんなこんなで長沢さんは恥ずかしながらファミレス初体験だそうだ。そう。初めてを、俺と!……ファミレスの話だ。ホテルに引きずられまくっているのは俺であった。何せ顔面も既にホテルである。いや、火照っている。なお、長沢さんが恥ずかしがっているのはこんな常識を知らない自分を恥じているのであった。
「メニューに飲み物がないわ。私、どうしたらいいか……」
 これしきのことでここまで悲痛な面持ちになれるのかと言いたくなるような顔をする長沢さん。これは何としても助けてあげたくなる。
「飲み物はドリンクバーだよ」
 助けてあげると言ってもこの程度だけど。
 長沢さんはドリンクバーに向かう。そして機械をしばらく眺めた後、戻ってきた。
「お任せするわ」
 どうしたらいいのか分からなかったようだ。そんなにわかりにくい機械じゃないんだけどなぁ。今度は二人でドリンクバーに行き、肩を並べてオレンジジュースをカップに満たした。こんなに楽しいドリンクバーは初めてである。とても甘酸っぱい気分なのは鼻先のオレンジジュースのせいだけではないだろう。いつもはドリンクの出る遅さに焦れるものだが、今日はもっとゆっくり出てもいいんだよと言ってやりたい。出る量がけちくさい量で、そのスピードの割に早く注ぎ終わることについてはいつも以上にがっかりだ。
 席に戻り、食べるものを決めたところで吉田が店員を呼び注文した。俺のおごりという事もあって長沢さんは少し気を使って安いのを注文している気がする。ただ単にカロリーを気にしているだけかもしれないけど。その点を踏まえ、大盛りサラダを追加した。
「サラダは二人で分けて食べよう」
 この提案については、二人で食べるなら長沢さんもあまり気を使わないだろうというのが一点。気にしているのがカロリーならサラダがいいだろうというのが一点。あと単純に俺も食べたいというのが一点だ。
 やおら長沢さんが真っ赤になった。何が起こったというのか。少し考えてみたらなんとなく想像できた。こういう場面でありがちな、つい箸が触れて間接キスにとかそういうことを想起してしまったのか。あるいはもっと発想をぶっ飛ばして「はい、あーん」なんていうのを想像してしまったのか。これについては俺の発想が飛び過ぎだと思う。俺まで赤面不可避だ。
 とりあえず、取り分け用の箸を準備しておくことにした。奥側に箸箱があるために、箸を取るときに結構体のあちこちが接触してしまった。照れ隠しのつもりが完全に逆効果だ。幸いなのは、俺も長沢さんも元々真っ赤なのでいまのでどうこうという事はないという事だった。

 ランチの時間だけあって、客の出入りは多い。懸案のサラダが真っ先に俺たちの前に運ばれ、ドレッシングをかけてこれ見よがしに取り分け箸を添えさせていただいたところで一人の女性客がやってきた。要らぬトラブルを招かないように極力そちらに目を向けないように通り過ぎるのを待つ。女性客は足早に俺たちの横を通り過ぎ、冷たい外気の欠片を残していった。誘惑に負けてチラ見してしまったが、外気並みに冷たい雰囲気を持つ生真面目そうな眼鏡女だった。心なしか、見覚えがある気がした。
 やおら竹川さんが立ち上がり、その女性の席に向かって行った。まさか竹川さんがトラブル上等で因縁をつけに行ったとも思えない。
「何やってるんですか、先輩」
 知り合いだったようだ。竹川さんの知り合いならと振り返って椅子の背もたれ越しによく顔を見てみると、竹川さんの知り合いどころじゃなかった。見覚えがあるように感じたが、気のせいではなかったのだ。
「うわ、バレた」
 その声で、根室先輩であることが確定した。いつの間にか衣装までチェンジして美人社長秘書風に……うん、風なら言い過ぎかと思われる美人を残しておいてもいいや、とにかくそんな感じに化けていたので全く気付かなかった。冷たい雰囲気を感じたのは、鴨田先輩への日頃の仕打ちを目にしているからだろう。ああ言う眼鏡の女性は怖いという印象が焼き付けられているらしい。しかし、眼鏡そのものにそう言うイメージがついているわけではないと思う。竹川さんとよく連んでいる一年の眼鏡女子からは何の威圧感も感じないし。今度、長沢さんに眼鏡を掛けさせて実験してみたいところだ。
 竹川さんが座っていた席は先輩たちのいる奥の席の方を向いている。それに、先に来て席を取っていた沢木先輩が自分だけバレないようにこちらに背を向けて座ったのは作戦ミスだ。女同士とは言え二人ならボックス席で何もわざわざ肩を並べて座ることはない。そうして竹川さんにより馴染みのある根室先輩がナチュラルにこっちを向いて座ることで、あっさりとバレてしまったという事だ。
 正体が分かったことで、吉田が動き出した。席を立ち、竹川さんと一緒に二人を弄りだす。俺と長沢さんは二人取り残された。
 そうしている間にも次々と料理が運ばれてくる。忙しい時間帯だけに店員も誰が何を頼んだのかはうろ覚えのようで、ひとまず今この時席についている俺達の前に並べられた。
 吉田たちは結構な長話を始めたようだ。横に竹川さんがいなければ、OLをナンパする身の程知らずの高校生のような構図だ。竹川さんがいたところで風変わりな組み合わせに見えるのは仕方ない。いや、いっそ休日の女教師に話しかける生徒。うん、見える見える。しかし向かいに座っている声から察するに沢木先輩と思しき女性は教師にはちょっとあるまじき雰囲気だ。こんな生徒を食い散らかしそうな教師はアダルトビデオにしか登場しない……はずだ。
 話に聞き耳を立ててみると、スパイとして様子を探りに来ていた先輩たちに吉田が情報を垂れ流していた。まだ話は長そうだ。
「先に食べてようか」
「そうね。……あの人たち、さっきの?」
「うん、そうだよ。……そうさ」
 なんとなく言い直したが、果たしてその必要はあったのか。
 俺たちが食べ始めると割とすぐに二人が戻ってきた。
「お、来てる」
「お先にいただいてるわ」
「ったく、全部バラしちまいやがってよ。みんな見に来るじゃねーか」
 吉田に言ってやると言い返してきた。
「それは学校にのこのこやってきた樹里亜らに言ってくれ。俺は見せつける気満々だったと解釈したぞ。それならギャラリー多い方がいいだろ」
「見せつける気は無いけどぉ。長沢さんが別にバレてもいいから早く三沢君に逢いたいっていうから」
 長沢さんが取り乱して箸を取り落した。
「あ。言っちゃまずかった?」
「べ、別にまずくはないわ。ただちょっと恥ずかしかっただけで」
「嬉しいよ、美香」
 嬉しさのあまり少なくとも俺は二人だけの世界にトリップし、長沢さんと二人きりの時しか言えないような科白を吐いてしまった。正面の二人がにやにやしながら見ているのに気付き我に返る。
 竹川さんの発言は別にまずくはなかったもののちょっと気まずかったようで俺たちの口数は減った。さらに。
「なあ、それうまそうだな。一つくれよ」
「いいけど。代わりにこれちょうだい」
 などと吉田たちがやり始めたのを見て、長沢さんはたぶん自分たちがそれをやることを想像したのかまた密かに真っ赤になり、ただでさえ皆無だった口数の回復する機会が奪われた。席を立っていた吉田たちより先に食べ始め、さらに黙々と食べたことで俺も長沢さんもさっさと食べ終わってしまう。見事に手持無沙汰だ。これは、覚悟を決めて話しかけるしかない。
 その覚悟を決める覚悟をするのに少し手間取った。その間、俺の後ろの方から聞き覚えのある話し声が聞こえる。沢木先輩と根室先輩だ。耳を澄まして聞き入るが、全く会話がかみ合っていない。それもそのはず、二人はめいめいに携帯電話で誰かと話していた。
 話の内容からして、俺たちが午後は学校のコートに戻ることをみんなに知らせているようだ。今暇かどうか確認するところから始めている相手もいるあたり、朝来ていなかった部員にも声を掛けているようだ。
 程なくそれも終わり、今度こそ会話をし始めた。
「悲しいのはせっかくの日曜日にスケジュールが塞がってるのが洋子だけってことよ」
「だよね。クリスマス近いってのにさ」
 洋子は市村先輩の事だな。そのスケジュールはかなり高い確率で桐生先輩とのデートだろう。という事は、市村先輩以外はスケジュールが開いていたという事。穂積先輩も江崎先輩とデートくらい入ってそうなものだがどういう事だろう。そして、どうでもいい事だろう。

 これまで黙々と食事を進めてきた俺たちだが、吉田達より先に食べ始めていた上に吉田達はじゃれ合いながら食べているのでなかなか食べ終わらない。まあ、じゃれ合いながらと言ってもいかにも恋人同士という感じの、例えば「はい、あーん」などと言うようなラブラブなやりとりではない。吉田が竹川さんにちょっかい出して小突かれたり、竹川さんが吉田のおかずを強奪して別なおかずを奪われたりと言った、まあ仲はいいんだろうと思えるようなやりとりだ。
 その程度のおかずの交換さえまだ恐れ多い感じの俺たちは、それを見習うように少しくらいは言葉を交わしつつも、すぐに食べ終わってしまった。口は動いているが食うより喋る方が多い吉田達の食事はまだまだ終わりそうにない。
 手持ちぶさたになった俺は、ついにこちらから話しかけることにした。
「なあ。そんでこれからどうする。先輩らに場所バレてるけど、そのまま行くか?」
 ただし長沢さんにではなく吉田にだった。
「面倒くさいから場所を変える気は無いって言っちまったよ。……そっちが見られるの恥ずかしいってんなら今から考えないでもないがな」
「練習でしょ?何も恥じることなんてないわ」
 長沢さんが胸を張って言った。我が校メンバーではダブルデートという事になっててそのせいもあって盛り上がるやら恥ずかしいやらという感じだったが、彼女の中ではあくまでも練習という事になっていた。盛り上がり損だったかもしれない。がっかりしつつほっともする。
「だな。別にいいや」
 デートじゃないならどうでもいいやという気分になった。
「むしろ恥じるべきは俺たちのテニスの腕かも知れない」
 吉田の言葉に竹川さんが苦笑いをしながら頷いた。
「流星はいいよ。私、悲惨すぎるよね」
「まあ、部員じゃないから仕方ない。俺もここの所教えてやるのサボってたしな。……なにせ、寒いし。これを機にまた腕を磨けばいいさ。今度こそ、留奈に勝てるくらいまでさ」
 小西さんの名前が出たことで竹川さんの目に炎が宿った。ような気がする。しかし、テニス部員に部員でもない普通の素人が勝とうって言うのはなかなかハードル高いと思う。
「誰のこと?」
 長沢さんが小声で訊いてきた。
「竹川さんの恋敵……かな」
「ああほら、全裸の」
 吉田が口を挿む。っていうかいきなりなんてことを言うんだ。
「ああ、あの子」
 分かるのか。確かに小西さんと全裸を結びつける出来事に心当たりはあるけど。ああそういえば、市民大会の日に小西さんとも話をしてた気が。面識はあるわけだな。で、面識くらいじゃ記憶には大して残らないだろうが、インパクトある話が……。でも、自分じゃ言わないよなそんなこと。どうなってるんだ。……吉田が吹き込んだとしか思えない。ピュアな長沢さんになんてことをしやがるんだ。しかし長沢さんの口から全裸なんて言葉が出たのはなかなか素敵なことだと思う。それだけはグッジョブと言っておく。

 そんな話をしているうちに吉田達も食べ終わり、俺たちはファミレスを出て学校に戻り始めた。
 そして、ここに来てついに俺は自分から長沢さんに話しかける決心を迫られることとなった。なぜなら、後ろを歩く吉田たちは二人で既に会話を始めているからである。いつも、近くに知り合いがいないと思ってあんな雰囲気だけイケメンの話し方をしているが、今日は知り合いがいる。一番最初にこの芝居をしていた時にも居合わせていた奴だが、これを続けているのがバレるのはちょっと恥ずかしかった。だが、そうも言っていられない。なぜなら。
「しかしまあ、これから男と合流するってのに、下着なんか買うかね」
 なぜその話を蒸し返すのか。俺たちのことも考えろと言ったはずだ。……ああそう言えば、言ったのは心の中でだった。色々見透かしたような奴ではあるが、テレパシー能力は持ち合わせていないようで何よりだ。
「だって。女の子同士で買い物なんかしたことないから、どんなのがいいか教えて欲しいって言うし。もう、あんまりその話しないでよ、流星のスケベ」
 素直に話しちゃう竹川さんも大差ないと思います。
 そう。今、まさに、この瞬間。長沢さんがぶら下げているシンプルなデザインのトートバッグの中には、下着が入っているのである。知るべきではない事実だった。知るべきではない事実を知ってしまった後ろめたさをごまかすために、そしてこんな会話を長沢さんと並んで黙って聞いている状況を打破すべく、固まりかけていた決心を無理やり固めて声を捻り出した。
「長沢さん」
「はいっ!?な、何でしょう!?」
 焦りのせいで思わずいつもの美香呼びを忘れてしまった。半分くらいはこの二人の前で偽イケメン演技は恥ずかしかったせいもある。そして長沢さんは長沢さんで、動揺しているところに声を掛けられて、思わず敬語になってしまう。タイミング的には最悪だったことが窺える。今日初めて俺から切り出す話題だったのに。とりあえず、これは全面的に吉田が悪い。吉田のせいだ。
「いやその、美香。どうだい、ファミレスは。満足できたかい」
 さっきの反動でかいつになくキザなイケメン風の口調になってしまった。ファミレスごときで。
「そうね。他にも食べてみたいメニューもあったし、また行きたいわ。……でも、まだ分からないことも多いし、一人じゃ行きづらいかな」
 無難な話題にほっとしたように、いつもの調子で答える長沢さん。
「じゃあ、今度は二人で行こうか」
 何気ない風の誘導で、とんでもないことを口走らされてしまった。だって、ああ言われたらこういうしかないじゃん。そして、向こうとしてはやはりこう答えることを期待していたのだろうか、驚いた風もなく返す。
「ええ。……でも。いや、何でもないの」
「まだ二人きりは恥ずかしいかな」
 それは俺の心情です。ええ。
「そうね。二人きりで行くなら他のお店にしましょ。ハンバーガーも牛丼も、カーネルおじさんも食べたことないから」
 最後のは食べ物じゃないよな。おじさんが存命で長沢さんが魔性の女なら食い物にならすることもあっただろうけど。そもそも、俺はカーネルおじさんという呼称に懐疑的である。あれはもうおじさんじゃなくておじいさんだろ。うん、どうでもいい。
「他の店ならいいんだ」
 ファストフード系か。ファミレスもそうだが、こういう気軽な店に入ったことがないようだ。
「ええ。ファミリーレストランはちょっと、気持ち的にまだハードル高いかな。まだ私たち、高校生だもの。家庭のことを考えるにはちょっと早いわ」
 ファミリー向けの気軽なレストランのハードルがチョモランマ並みに高くなった。絶対に、そこまで重く受け止めることではないはずだ。
「Start a famiry」
 長沢さんはそう言った。なんだろう、家族を始めよう?これはつまり気の早すぎるプロポーズ……まさか。
「ファミリーのリーがLなのかRなのか。最近、それを知るために辞書を引いた時に……」
 そこまで言って長沢さんはハッとする。
「やだ、ちょっと。何言わせるの」
「いや、言わせてないけど」
 自分から言いました。
「そ、そうよね」
 明らかに恥ずかしそうな顔をする長沢さん。家庭を考えるとか、もしかしてプロポーズかもなんて思っちゃったりした科白ですら平然としゃべっていたというのにだ。その辺からしてみてもやっぱりプロポーズなんて言う赤面必至のセリフじゃなかったことの表れだったが、ならばなぜむしろ辞書を引いた話でこんなに恥じらう。いや、考えれば分かることか。調べた単語がファミリーだし、理由に至ってはそのスペルだとあっては、英語の成績の程が知れるというもの。……ものすごく酷いことを心の中で言ってしまった気がする。
「とにかく、辞書を引いたの。その時に見つけた熟語よ。そのままだと家庭を始めるって感じだけど、意味としては子供をもうけるってことなんだって。日本人って、結婚したらもう二人は家庭を持ったような気持ちになるけど、英語圏だと子供ができて初めてファミリーなんだ、って印象に残ったのよね。……そんなことを知ってしまった後だと、ファミリーレストランに来る覚悟が、なかなかね」
 いや、そこでファミリーレストランに繋げないでください。気が付けばファミレスのハードルが五段階くらい上がっていた。もうマリアナ海溝の底から見上げているくらいの高さだ。さっきホテルの話をしていた頃が懐かしい。もうその先を見据えている。
「でも、いつか二人でまた来ようね、ファミレスに」
 この前フリでそれを言われると、今度こそプロポーズなんじゃないかと思ってしまう。……恥ずかしそうには言ってないから、ファミレスの方の認識を普通にしたうえでの発言なんだろうけど。そもそも……三人じゃないからStart a famiryしてないし。プロポーズの言葉が一緒にファミレス行こうなんてのもなんだかだしな。
「ところで。子供ができるまでファミリーじゃないなら、子供のいない夫婦はなんて言うのかしら」
「うーん。考えたことなかったな。……英語の教科書って、中学の時は中学生の目線で会話が進んでるような内容だったし、高校に入ってからのも新婚夫婦を取り上げるような話は出てこなかったもんな。まあ、盛りがついてるのに抑制を強いられる中高生に新婚夫婦の話題なんか出したら、夫婦生活の妄想させるばかりで碌なことにならないから……」
 話し相手が長沢さんであることを思い出して俺は言葉を切った。なんてことを。
「そうよね。中学の教科書ですら、ケンイチとユミ、ジョンとスージーはそもそもどんな関係だったのかとか、金髪、黒髪の異性と知り合ってその関係がどうなっていくのかとか考えたもの。……恋愛を匂わせる表現なんて一切ないのにね」
 女子は考えるんだ。男子は精々女の子二人の胸の大きさ見比べるくらいだったがな。まあ、その辺の反応にも個人差はあると思うけど。って言うか、同じ教科書使ってたみたいだ。
「ドロドロの四角関係だね。まあそれは勝手にやってもらうとして……夫婦、だっけ。ネットで調べてみるよ」
 こういう所で力になれる男でありたい。あるべきだ。さくっとケータイで検索してみた。力になっているのはケータイであった。
「……えーっと、カップルとか、ペアとか……。結婚してなくても当てはまりそうな単語だなぁ。明確に結婚してることを言いたいならそれらにmarriedとかweddedをつけるといいみたい」
「そうなんだ。……これからペアを組んでテニスをしようという時に、なんてことを知ってしまったのかしら」
 ペアを組むことへのハードルもちょっと上がった気がした。でも大丈夫だ。marriedとかweddedさえついていなければどうってことない。
「うわあ。もう結婚の話してるの」
 耳聡い竹川さんがにやにやしながら言った。長沢さんはなんとも言えない顔をした。俺もきっと、同じくらいなんとも言えない顔をしていただろう。