路傍の雛罌粟のように

02.乙女はより華やかに

 翌朝、今日も長沢さんと約束通り駅で待ち合わせて一緒に電車に乗る。もうこれ以上話題があるのかどうか不安だったが、電車を降りるまでどうにか話題はもった。話題もだんだん普通の世間話になり、テニスの経験不足が問題にならない。見ているテレビ番組も男と女という根本的な差のために話は合いにくかったが、それでもいくつかは同じ番組を見ていたのでどうにかその話題で話を繋いだ。ドラマの趣味はことごとく合わなかったが、何の役にも立たないと思いながら見ていたバラエティ番組がこんなところで役に立つとは。
 着いた駅で長沢さんと別れた。もちろん、夕方の待ち合わせも約束して。約束と言うよりは、ただ一言「放課後、駅でね」と言われただけなので、命令に近い感じかもしれない。
 昨日と同じくいつもより少し早く学校に着く。今日も一番乗りだ。部室とテニスコートのカギを開け、朝練の準備を始めた。いつの間にか、コートの隅で町橋先輩も準備を始めている。こちらの準備はもちろん化粧の準備だ。
 ちらほら他の1年男子部員も集まってくる。吉田も竹川さん同伴でやってきた。
「いよう。朝晩ナガミーと一緒に通学してるらしいじゃないか。いよいよもってうまいことやったな」
 吉田がにやけながら小声で言った。なぜバレているんだ。俺は後ろを振り返る。
「う?あ、あたし言ってないよ」
 直前までファンデーションのパフをパタつかせていた手をパフが飛びそうなくらいばたつかせて慌てる町橋先輩。すると竹川さんが言う。
「あのね、長沢さんからメールが来てね」
「部外者の樹里亜にメールして寄越す程度の事だからってんで俺の耳にも……な」
 リーク元はまさかの長沢さんだった。竹川さんにそのメールを見せてもらう。
 メールには絵文字もなく、女の子が年下に宛てて送るゆるいメールとは思えないですます調で書かれた宿題の作文のような文章だった。しかし、内容はまさにガールズトークそのもの。電車での俺の行動が、かなり事細かに書かれていた。もちろん、ガラにもないイケメン風キザカレシ演技についてだ。それがバレているだけでも大概恥ずかしいが、それに対する長沢さんの感想が完全に浮かれたのろけトークでさらに読むのが恥ずかしい。何より恥ずかしいのが、それがくだんの真面目な文体で書かれていることだ。俺の恥ずかしい行動が、報告書でまとめられているような気分だ。
「これが竹川さんの所に行ったのか!くはー!」
 竹川さんは大丈夫だと思って吉田にも見せたようだが、俺的には大丈夫じゃないです。竹川さんにこれが知られたって事でもまるで大丈夫じゃない。むしろ吉田よりも竹川さんに知られたくなかった気がする。いややっぱり吉田こそ……どっちも知らずにいて欲しかった。
 だが、バレてしまった以上もうどうしようもない。それに、吉田たちにも読んだ分の責任は取ってもらう。
「なあ、これさ。読んだ感じ、なんていうか……俺のこと、好き……っぽいよな」
 この発言にどれだけの勇気を振り絞ったことか。
「まあ、どう見てもそうだな」
 一笑に付されたら一生立ち直れないところだった。そして、吉田にとは言えお墨付きをもらったことで、ますますどうしたらいいのかわからなくなる。一周回って一蹴された方が清々しかったというのか。
「正直なところ……わけが分からないよ。俺のどこが良かったんだろ」
 俺にすらわからないことを吉田に聞いたところで分かるわけがない。そう思っていた。だが、吉田には考えがあったようだ。
「ナガミーはトラウマがあるからな。お前のその、当たり障りのない空気感がいいんだろう」
 空気感と言うと普通は雰囲気と言うような意味で取られるが、この場合は俺の存在感が空気っぽいというニュアンスが多分に込められている。……多分。吉田は更に続ける。
「それに、女の扱いに慣れてるいかにもモテそうな男はトラブル回避のために自分から避けてきたみたいだし、ナガミーは見るからに面倒そうだからモテる男ならもっと楽そうな他の女に流れるから接点が出来ない。それ未満の男だとどうせダメだと思ってるから積極的にアプローチなんかされたことないんだろう。それで、良くはないが悪くもない当たり障りのない顔のお前に芝居とは言え珍しく甘い言葉を掛けられて舞い上がったんじゃないのか。日曜日の時点でもかなり嬉しそうだったもんな」
 日曜日の時点では芝居とかに必死過ぎて相手のリアクションなんか見ていなかったので言われて初めて知った。でも、確かに昨日も今日も嬉しそうにしていた印象はある。それにしても吉田は何で長沢さんのことをこんなに知ってるんだ。ああ、そう言えば。
「お前、長沢さんとごにょごにょ話してたっけな。昔誰かのカレシを取っちゃって嫌われた、みたいな?」
「違うよ。友達から、告ったのにふられたのはあんたに気があるからじゃないの、あんたのせいよ、みたいなことを言われたんだよ」
 竹川さんに訂正された。なるほど、長沢さんには非は無いのな。そりゃあ、トラウマにもなるわけだわ。
「だから今も誰も狙わなそうな男を周りに侍らせるらしいぜ」
 そういう理由であの取り巻きが選ばれているのなら、取り巻きはちょっと可哀想な気がする。……奴らの顔を思い出したらそうでもなくなったが。
「俺もあいつらと同じカテゴリーなのか。……でも、それならその取り巻き中の誰かと仲良くしそうなもんだけど」
「それは男どもの方の問題だな。あの取り巻きはどうせ誰からも相手にされないなら少しでもキレイな女子にすり寄っておこうってな感じだ。あの中に、ナガミーに迫ったり言い寄ったりする度胸のある奴がいると思うか」
 その質問には即答できる。
「いや、全然。……でもさ、俺も成り行きで芝居しただけなんだけど。いいのかな」
「いいんじゃないの。その芝居を最後まで続ける根性があるならな」
 長沢さんが好きなのは、俺と言うよりは俺が演じているイケメン風の誰かという事か。そう考えると少し気は楽になったかもしれない。ただ、それはそれで……容姿に関してはイケメン風でも何でもない俺でもいいのかっていう問題が出てくる気がする。ああそうか、俺みたいな当たり障りのなさが安心するんだっけ。

 ひとまず、本人に確認したわけじゃないからそれで確定ってこともないんだが、俺の中では疑問は消えた。部活が終わり、今日も長沢さんと待ち合わせだ。今朝までよりは気楽に長沢さんに会える。
 心配だったのは今朝の時点で既に話題がネタ切れ気味だったことだが、話のネタが切れているのはこっちだけの話。思えば女というのはのべつ喋っていて話題が尽きることは無い。俺ならばそんなこと長沢さんに話すことじゃないなと言うような、自分の部活で起こった些細な出来事なんかもネタにしてくるのだ。そんなエピソードトークで実名を挙げられたところで誰が誰だか判らないのだが、長沢さんは構わず話す。俺も相槌だけ打っていればよかった。そして、こっちも部活で起きたどうでもいい話をした。長沢さんとうちの部員は2度ほどコンタクトがあったし、顔くらいは見たことがあるだろうがその顔と名前が一致するのなんてほとんど居ないだろう。そんな部員の話だが気にせずに話すと、それが誰なのかなど細かいことは気にせずに聞いてくれた。話が出来れば、内容なんてどうでもいいのかも知れない。ああそうだ、その声が聞けるなら内容なんてどうでもいい。
 長沢さんは積極的に話しかけてくるので、こっちが何を言っていいかわからないのはうまいこと誤魔化しながら自然に会話ができる。そして、気が付くとあっという間に駅に着いている。これはやっぱりこの時間が楽しいってことなんだろう。これまでは緊張もあったが今日はそれも薄らいだせいなのか、いつもよりもますます駅までが近い。
「それでさ。日曜日の事なんだけど」
 いよいよ駅が近くなってきたところで、いかにも今日の本題と言った感じの話題が出た。
「ああ。楽しみだね」
 注文通り芝居がかった言い方はしているが、本音であることは言うまでもない。
「ええと、そのね。二人きりの方がいいんじゃないかとは思うんだけど……お、お友達も呼んじゃダメかな」
 これまで立て板に水と言った感じで言葉を紡いできた唇が、口籠もりがちになった。
「えっ」
「ええとね。せっかくお友達になれたんだし、その、女同士の友情ってのも大事にしたいの」
 なんか妙にしどろもどろだな。たぶん、何か本音があるんだろうか。俺としては、そのお友達の女の子というのもちょっと見てみたい気が……っていや待て。もしかしてその子って。
「もしかして、この間の後輩の子?えーと確か……佐藤?斉藤?」
 室野のカノジョの。とても地味な。
「あ。由美子ちゃんじゃないの。ほら、明弘君もよく知ってる、ヨッシーの彼女よ」
「ああ、なるほど。……ヨッシーって誰?」
 すまん。なるほどなんて相槌打ってはみたものの、ヨッシーが分からない。どうしても髭の配管工をを乗っけて走ってる爬虫類を思い出してしまうんだが。ついでだが、長沢さんが由美子ちゃんと呼んだので由美子ちゃんが佐藤なのか斉藤なのかも思い出せないままだった。
「明弘君のお友達の、馴れ馴れしいリア充よ」
 馴れ馴れしいリア充で、ヨッシー……。
「吉田か」
「そう、その彼」
 割とそのままだった。……ってことは、お友達って竹川さんか。
「っていう事は……吉田もついてくるのかな」
「そう……なるのかな」
「そっか。ダブルスでやった方が二人の距離も近いもんな」
「!?」
 ……なんだこの今言われてそれに気が付いたみたいなリアクションは。なんかどんどん赤くなってくし、見てるこっちの方が恥ずかしい。
「せっかくだから、手取り足取り教えてほしいな」
 割と、マジで。テニスのためだと思えば多少は気楽になるんじゃ……。いや、なんか逆効果だったみたいだ。何とも微妙な表情で固まってしまった。むしろ、こうなって当然の科白を何故吐いてしまったのか。俺の思考回路も大概止まっている。
「う、う、う。と、とにかく!竹川さんを誘うわよ。竹川さんがヨッシーを誘うかどうかは彼女に任せることにするわ」
 もしも吉田が何も聞いていないような雰囲気だったら、それとなく吉田にバラしてみるか。しれっと隣でプレイする絶好のチャンスだからな。

 翌日。朝練の前に吉田が声を掛けてきた。
「よう。……なんかお前の週末デートに俺たちもお邪魔することになったみたいだな」
「ああ、やっぱりそうなったのか」
 もしも吉田抜きになった場合、俺と竹川さんが対戦する形式になるのかな、などと考えたりもしたが、まあ収まるべき形に収まった形か。
「なんかさ。ナガミーからダブルスでやりたいから俺を誘えって樹里亜にメールが言ったみたいでよ」
「えっ。そうなのか」
 彼女に任せることにするわ、なんて言っていた割には誘うの前提で話をしているような。これはあれか。長沢さんも俺とダブルスしたかったとか。いやいかんいかん、過剰な期待というか幻想は持つな。話が端折られているだけで竹川さんの所にはあくまでも誘いたければ誘いなさい的なメールが来たのかもしれないし。とにかく、より近い距離で長沢さんとプレイできることになりそうだ。
 そんな良い兆候が出始めたその日の午後。事態はさらに動くことになる。ただし、ちょっと悪いかもしれない方向にだ。
 何もないはずだった日曜日の朝、突然朝練が入ることになってしまったのだ。しかも、理由が変な理由だ。俺と同じテニス部の男子である連城が、女に触るために身に付けた化粧のテクニックを女子相手に実践する場を設けるべく、朝練の名目で部員を集めるらしい。
 吉田は言う。
「そう言えば。今更だけどよ、例のデートって何時の予定だったんだ?俺はどうせ丸一日開いてるし、前日に聞けばいいやと思ってたからまだ知らないんだが」
「実を言うと、俺たちの方でもまだ詳しく決めてなかったんだよな。竹川さんも特に予定はないみたいだし」
 そうなると、丸一日やることになったのかも知れない。しかも、コートは貸し切り。何と言うか、普通の練習より圧倒的に過酷だ。長沢さんと一緒じゃなければ絶対に逃げ出す。
「そうなのか。……お前から樹里亜の予定を聞くことになるとは思わなかったがな」
 苦笑する吉田。
「いやいや、長沢さんから聞いたんだよ」
「分かってるって。……とにかく、朝練ぶっこんでも別に大丈夫みたいだな。デートとしてもあれだろ、そっちの方がいいだろ。朝っぱらからデートして明るいうちに別れるよりは、暗くなるまでってな」
「いやいや、さすがに暗くなったところでどうこう出来るような所まで行ってねえ」
 何を言わすんだこいつは。
「そんなわけで、悪いがナガミーにも朝練があるから午後に集合って伝えてくれないか。ま、たぶん樹里亜の方からも話が行くとは思うけど」
 そんな話が出たことで、直前だというのになんとなくほんわかとイメージしていただけの長沢さんとの週末デートが、にわかにはっきりと形あるものに思えてくるのだった。

 部活も終わり駅にて。帰りの電車が来るまでの間、長沢さんとホームで待つ。その間に先程出た話を切り出した。
「日曜なんだけど。急に朝練をすることになってさ。俺たちの待ち合わせは午後になるそうだよ」
「そうなの?竹川さんにも伝えたほうがいいかな」
 さすがに、長沢さんにはまだ話は伝わっていなかったようだ。
「吉田から話が行ってるはずだから大丈夫だと思うけど……あいつ適当だからなぁ。念のため、それとなく確認しておいてくれると助かるかも」
「分かったわ。それで、その練習が終わる時間は何時の予定?」
「……ヤベエ。さっぱりわからないや」
 何せ、普段通りの練習じゃない。これまでに休みに集まって練習した時のことを考えれば昼前には解散になっていたが、今回練習するのはテニスじゃなくて化粧らしいし。なんだよ、この部活。
「ま、その辺は吉田が取り仕切って昼前には終わらせてくれるんじゃないかな。早めに終わるようなら電話するよ」
「そうね。……うーん、それなら私も午前中はうちの練習に出ようかしら」
「ああ、そっちも練習やってるんだっけ」
 さすが、うちと違って真面目だなぁ。うちは日曜に練習するのは久々だし、その上テニスの練習じゃないもんなぁ。
「私はいつも顔を出すくらいなんだけどね。私の相手をできる部員はいないから」
 さらっと言ってのける長沢さん。
「まあ、そうだろうね」
「でもね。男子は私がいるとやっぱりやる気が違うのよ」
 今度はなんとなく自慢げに話す長沢さん。まあ、本当に自慢なのだろう。
「それについてもそうだろうね。君みたいなかわいい子が近くで見てるってだけで男はやる気が出るよ」
「当然よね」
 満面の笑みになる長沢さん。臆面もなくこれに当然と言ってのけるのが流石だと思う。
「でも、女子は逆だから……あんまり長居できないの」
 苦笑いするしかない。でも、このことが長沢さんのトラウマの元にもなってるんだよなぁ。ただ笑ってていいものか。
「女子は女子で、美香がいることで気合入るんじゃないかな。勝てないのは分かっていても、やっぱり対抗心は燃やすだろうしさ。美香が帰ってから本気出してるかもしれないよ。いなくなった今なら……みたいな感じでさ」
「そうかもね。……今度、私が帰った後のこと、誰かに聞いてみようかしら」
「いいんじゃないかな」
 小さな一歩だが、前に出るために背中は押せたのかもしれない。……これがもとでドツボにはまったらどうしよう。悪いことが起こらないように祈っておこう。

 週末に向けて、ある種共犯者ともいえる吉田とこっそり打ち合わせをする機会が増えた。そして、いよいよXデイが明日に迫った日のこと。
「女は怖えなあ」
 唐突に吉田が言った。
「ん?なんでだ?」
 俺にその話をすると言うことは、デート絡みで何かがあったと考えるべきだろう。悪い予感がする。ここまで来て、折角のダブルデートが中止だろうか。
「いやさ。明日の練習……こっちの朝練の方の話だけどさ、樹里亜がなんか感付いたかもしれないんだよな」
「何のことだ」
 ダブルデートの参加者である竹川さんが今更感付くようなことなんて、何かあったっけ。とりあえず、参加者である竹川さんの話というならさっきの嫌な予感は取り越し苦労と言うことになるが……詳しい話を聞くまでは安心できない。
「普段日曜に練習なんてしないのに珍しいじゃないってさ。まあそれはその通りだが、それで何か企んでるんじゃないかと疑ってやがる」
 そっちか。そっちの方か。
 一応、竹川さんにはその練習がテニスじゃなくて化粧がメインだという話は伝えていないようだ。バレてもどうってことない話だが、アホらしいので隠しているらしい。このことに関しても黒幕はこいつだしな。
「素直に話しちまえよ」
「素直に話して暇潰しに見にでも来たら、痴態を晒すなかスッチーがちょっと可哀想な気がしてな」
「それほどのことをされるんだっけ……?それに、恥を晒すのはどちらかというと連城の方のような。……とにかく、朝練ってことにしてるんだから一年男子はみんな来るんだぞ。今更一人くらい増えてもどうってことないだろ」
 更に言えば、暇な女子が眺めに来ることも考えられる。なかスッチーこと中須さんのクラスメイトでもある小西さんはその筆頭だ。中須さんをからかうためにも、ほぼ来るような気がする。
「それは確かにな。ただ、問題は樹理亜一人だけで来るかだ。午後待ち合わせまでしているナガミーが、現場の下見を兼ねて顔を出さないとも限らない。……部員じゃない樹里亜どころか、他校のナガミーまでワケの分からない我が部の活動を目の当たりにする……」
「それは困るな!ものすごく困る!」
 そして、俺がそんなテニス部に所属している……そんな目で見られてしまうわけだ。吉田が珍しく人のことを可哀想なんて思いやるようなことを言うと思ったら、それは建前で本当の事情もちゃんとあったってことだ。
「そういう事情があるなら、竹川さんならきっと気を回して長沢さんを引きつけておいてくれるはずだぞ。やっぱりここは素直に話すべきだと思うんだ」
 竹川さんのことをよく分っている吉田は、その通りだと言わんばかりに頷いた。
「ああ、それがいいかもな。よし、そうしよう。じゃあ、それは俺に任せておいてくれ」
 こういう時、吉田はとても頼もしく見えるのだ。

 そして当日。
「おっす吉田。竹川さんにはばっちり話してくれたよな」
「あ。すっかり忘れてた」
 吉田はとても頼もしく見えるが、実際にはあんまり使えないのだった。多分吉田にとって、今日のメインイベントは中須さんの化粧だろう。そのための調整も色々あっただろうに昨日の部活の最初の段階で竹川さんの件を話してしまったこと、そして最後に念押しもしなかったことが敗因だ。
「長沢さん、午前中は竹川さんとショッピングをするって言ったけどな」
 昨日の帰りにこの話を聞いた時、吉田から話が行った竹川さんがそういう風に手を回してくれたものだと思っていたんだが。
「そう言えば樹里亜もそんなこと言ってたな。女の子同士でショッピングしたことないっていうから、連れてってやるって」
 たまたま午前中に二人で遊ぶ予定を入れていただけのようだ。部活の練習に出るという話は立ち消えになったのだろうか。長居はし辛いとも言っていたので、最初に顔だけ出してそのままショッピングに向かうのかも知れない。ともあれ、女のショッピングは長いと聞く。なのでそうならば午前中の心配は要らないだろう。
 日曜だというのに朝練の噂を聞きつけたのか、コートの隅ではいつものように町橋先輩が化粧をしている。ただ、その隣にはいつも通りではない風景が。
 男の連城が、化粧をしている。普通に女がする化粧だ。そして、それできれいでかわいく女っぽく化ける様子はない。出来上がりつつあるのは化粧をした男という化け物、ボーイッシュな少女に見えることすらない。俺は今、連城がとても男らしい顔をしていたことを実感している。せめてロングヘアのカツラくらいは無かったのだろうか。
 そして、その連城に視線を投げかけ続ける女子が一人。今日、この化け物に生贄として捧げられることが決まっている中須さんだ。今日はツインテールにはしていない。そう、これから彼女は化粧モンスター・連城に襲われ、吸血鬼のように化粧を伝染されることになる。少しでも大人びた感じにして化粧が似合うようにツインテールはやめているのだろう。
 本当なら、連城が化粧することでちょっとでも男に化粧される恐怖を薄らげようという作戦だったはずだ。しかし、こうしてみると別種の恐怖が増幅しそうに思える。実際、今の中須さんの不安げな顔はまさにそれだろう。
 そして、そんな生贄ショーを堪能すべく、呼ばれてもいない女子も随分集まっている。まあ、これだけの人数に見守られていれば連城だってそんな悪いことはできないだろう。
 連城にちょっかいを出しに行っていた不破と土橋が、隣の町橋先輩を弄りだした。
「あれー。町橋先輩、化粧しないってことはもしかして連城が化粧させてくれっていうの誘ってたりします?」
 化粧はしている。だが、薄化粧だ。それを聞き付けた諸悪の根源・吉田も口出しした。
「どうせこの後厚塗りするんだし、やらせてもらえ連城」
「うぇっ。まぢありえねー。チョーヤバいんだけど」
 ゆらりと立ち上がり、両手を挙げて町橋先輩に襲い掛かりそうなポーズをとる連城。
「先輩っ!俺を男にしてくださいっ!」
 襲い掛かろうとしていたのではなく、勢いよく土下座に移る前の態勢だったようだ。男だか女だかわからないような、いや分からないとは言い切れないが、そんな顔で言う科白じゃないとは思う。
 土下座に弱いのは日本人の性か、それとも土下座のまま貞子のように這い回り追いかける連城に根負けしたか、まずは町橋先輩が連城の餌食になることになったようだ。“まずは”というのは、町橋先輩が中須さんの身代わりになったわけではなく中須さんの前菜として戴かれる形になったことを示している。
 町橋先輩が、いつかの美人メイクにされていく。思えば、今日来ている女子の中にはこういう町橋先輩を見るのは初めてという人もいるんじゃなかろうか。男に覆いかぶさられ、身悶えしながら変な声を上げる町橋先輩の姿はさながらエロビデオのようではあるが、こちらから見ると連城の化け物顔がはっきり見えるのでどちらかというとホラー映画のようだった。
 そして、どう見てもこの光景を一番恐怖に満ちた目で見ているのはこれから同じ運命をたどることになる中須さんだった。先ほど「助けてお兄ちゃん!」と言いながら不破の胸に飛び込んだまま、震えながらちらちらと振り返って様子を見ている。不破はさすが本当に妹を持っているだけあって妹の扱いには慣れている。実際には血の繋がりのない同い年の男女が抱き合っているというシチュエーションなのに、本当に兄妹のようだ。
 とんでもないカオスな状況になったものだが、カオスぶりはさらに加速していく。連城は予定通りいたいけな中須さんを餌食にした。少女は大人の女に……なるかと思いきや、ちょっと背伸びした少女止まりになった。中学生に見えるように精一杯努力した小学生、そんな感じだ。
 連城はもはや止まらず。その場に居合わせた女子を片っ端から餌食にしていくのだった。先んじて連城の餌食にされた町橋先輩は、鏡を見ながら言う。
「なんで自分でやった時よりいいのさ……納得いかねぇー」
 あれだけ化粧で化ける町橋先輩がそういうのだから、腕前はお墨付きと言った所か。つくづく、なんでこんなスキルを身に着けたんだか。
 2年の女子がお互いを売る形で全員餌食になり、1年は覚悟を決めて自ら生贄として進み出た。
 いつもと違い過ぎる女子たちに、男子もちょっとそわそわしている。残念なことにちょっと手を出すにはハードルの高い2年生と吉田にべったりの小西さん、普段女同士で二人の世界を作っている片割れの舞ちゃんと言うメンバー構成なので今一つ乗れないのがアレだ。手を出せそうなのが見た目がギリギリ中学生の中須さんくらいでそれはそれでイケナイことのような気がするし。
 全員の化粧が終わると女子プラス一名で撮影が始まった。女子の輪にノリノリで入り込む連城。もちろん、タンカーから流出した重油の如くヘヴィに浮いている。
 諸悪の根源・吉田が根室先輩のデジカメで写真を撮った。
「よく撮れたかな」
 などと言いながら取れた写真を確認しようとした吉田に、怒涛の勢いで根室先輩が駆け寄りカメラを奪い取った。どうやら、あまり見られたくない写真もデジカメの中に残っているようだ。そして、吉田はそういう物を躊躇いもなく見るキャラだと認識されていたようだ。なお、俺もそういうキャラだと認識している。
 一応、根室先輩の操作で写真の仕上がりを確認させてはもらえたようだ。結果、合格点とのこと。そして、この行動できっと吉田は思うだろう。あのデジカメの中には何か秘密があるのだと。早く対処しないと危ないだろうな。
 そして、そんな修羅場の中。あろうことか長沢さんと竹川さんがここに来てしまったのである。

 もはや、ここにテニスをしている人間はいない。ラケットを手にした男はいるが、みなその手を止めて女子を眺めている。
 その光景に、わが校のテニス部の練習を視察に来たつもりの長沢さんは戸惑ったことだろう。想定外の出来事が起こっているのだから。
「何やってんの……?」
 吉田に詰め寄る竹川さん。
「連城のメイクアップショー。さあお二人もおひとついかが」
 吉田の言葉に乗って変なポーズで誘う連城を見て竹川さんは逃げ出したが、長沢さんは逆に進み出た。
「面白そうね。やってみなさい」
 こうしてここにやって来たことにも増して、このリアクションも想定外だった。俺はもちろんとして、連城もだ。ついでに竹川さんにも想定外だったようで、狼狽えている。この流れでは自分もやらざるを得なくなるからだ。何せ、学校すら違うクイーンオブ部外者の長沢さんがやろうというのだ。長沢さんに比べれば竹川さんなど身内の部類。部外者であることを口実に逃げることはもはやできない。
 これまで、女子達は覚悟を決めて連城の前に進み出ていた。しかし、今度は連城が覚悟を決める番だった。どぎまぎしながら長沢さんに化粧をする、羨ましく妬ましい連城。とりあえず、俺の立場なら嫉妬してもいいはずだ。
 一方長沢さんは何をされても全く動じない。ノリノリで化粧されている長沢さんが、動じるほどのこととなると通報案件になるかも知れない。ひとまず、警察が来るより先にここの女子に血祭りだろう。もちろん俺も加わるぞ。
 元の顔がいいこともあって長沢さんへの化粧は実にあっさりと終った。連城が緊張に耐えられなかっただけかもしれない。ただでさえ輝かしい長沢さんの顔がさらに輝かしくなった。眩しすぎて直視に堪えない。連城の気持ちもわかる気がする。よく頑張ったと思う。そして、良くやったとも思う。化粧中は妬ましくは思っていたが、今はありがとうと言いたい。
「ねえねえ明弘くん、どうかな。きれい?」
 こちらに駆け寄ってきた長沢さんは、いまさら聞くまでもないことを聞いてきた。聞くまでもないのでその顔を見なくても答えることはできるが、それはさすがに失礼というもの。俺はできるだけ顔を見るようにしながら今更言うまでもないことを言う。
「うん、きれいだよ」
 顔を見るという事はほぼ目を見るという事に同義だ。結果として、真っ直ぐに目を見つめながらこの一言を言う形になった。言う身としては大変こっぱずかしいのだが、言われる方も大概だったようで一瞬変な顔になり、視線がそこら中を駆け回っているうちにみるみる顔が赤くなり、照れ隠しのように「当然よね」などと言うとこちらに駆け寄った以上の勢いで走り去っていった。走り去ってくれなければ俺が全力で走り去りたいところだったので、ありがとうと言いたい。
 しかし思えば。これだけの人が見ている前でこんなやり取りをすれば俺たちのことがモロバレになってしまう。案の定、女子がこちらを町中に現れたアルパカを見るような目で見ている。びっくりしつつ、いいものを見たと言いたげな目だ。長沢さんはこっちにバレるのはいいと言っていたが、俺としてはもうちょっと隠しておきたかった。
「ところで、なんで長沢さんがここに来てんの」
 そう吉田に話しかける連城にだけはバレていなかったようである。
 吉田は俺への配慮なのか、それとも持ち前の適当なのかはわからないが、その理由をメル友になった竹川さんと一緒に遊ぶからだと答えた。質問の答えとしては一番的確だ。結果として、そのメンバーに俺が入っていることは連城に伝わらないままだ。
 連城にとってこのやり取りは吉田に話しかけるための前ふりのようなものだった。本題に入る。竹川さんにも化粧をさせてほしいというお願いだ。吉田は本人の意思を尊重しつつ断りにくいように説得をした。卑劣である。どういう説得をしたのかはわからないが、最初は「やんなきゃダメ?」などと尻込みしていた竹川さんが「あたしやるわ」などと固い決意で臨む感じになった。連城もこうなることを期待して吉田経由で頼んだんだろう。ゲスの極みだ。
 斯くして、ここにいる女子は一人残らず顔だけならばとても華やかになったのである。