路傍の雛罌粟のように

01.美女と普通

 なんかこう、とんでもないことになった気がする。
 駅のホームでこちらに向かって笑顔で手を振る美少女を見るにつけ、夢でも見ているんじゃないかという気になる。彼女と俺が待ち合わせをしているなど、とても現実とは思えない。だが、これが現実であることが12月の冷たい風共々身に沁みる。こんな寒さの中で夢を見ているのなら、俺はそのまま凍死する運命だろう。最後に見る夢なら、このくらい幸せな夢でも誰にも文句は言わせない。しかし、やはり現実だ。これが現実であるなら、俺に文句を言いたい奴はいくらでもいるのだろう。
 ほんの一週間前までは、振り向いてもくれないごく普通の女たちを何とかしてこっちに向かせようと必死に、いや割と諦め気味でダレ気味に多分無駄な努力を重ねていた。それでも最近は少しずつ、悪くない雰囲気が出始めていたような気はする。とはいえやっぱり、道のりはまだまだ遠く険しそうだった。
 それが、どうだ。この状況は。
 昨日までは俺の名前すら知らなかっただろう彼女が、こうして俺のためだけに微笑みかけてくれる。正直、いまだになぜこんなことになったのか俺にも理解できていない。ただできることは、この夢のような状況を甘んじて、いや御馳走さまと言わんばかりに享受するだけだ。

 昨日までの彼女のように、みんな俺の事なんてよく知らないだろうから自己紹介しておくことにする。さあ、ここから俺のこれまでの人生をまとめた言わばあらすじがしばらく続くことになるから覚悟してくれ。
 特に何事もなく幼稚園小学校中学校を終え、高校に進んでテニス部に入った。
 なんという事だろう。俺の人生をもう語り終えてしまった。何せ、語ることなんてまるでない人生を送ってきたんだ。誰だって、普通はそうだろ。俺にだって人並みに思い出はある。しかし、それを語ってどうなるだろう。とにかく、これまでの人生を振り返って胸を張って大きな声で言えるのは一つ。俺は、普通なんだ。
 俺は三沢明弘。情報科の一年に俺によく似た名前の女子がいるらしい。あちらはさわの字が難しい字で、弘ではなく奈で終わっているとか。あちらはクラスでも数少ない女子、しかも彼氏のいないフリーの女子としてかなり持て囃されていると覚え聞く。
 それに比べて俺はどうだ。自己紹介しているはずなのに他の人にスポットが当たるような日陰の人生。別に、性格が暗いとかそういうことは特にない。ただ、特徴もこれといった長所もなく、悪いところもないので悪目立ちもせず、ただひたすら、普通。大きな病気もなく、怪我をするような冒険もなく、褒められるような活躍も特になく、ただひたすら平凡なだけの人生。
 そして、運が悪いことに俺のそばにはいつもちょっとだけ目立つ奴がいる。小学校では俺の友達がとてもひょうきんで目立つクラスの人気者だった。中学校では俺と一緒に目立たなかった奴が部活で大活躍して急に人気者になったりした。高校に入ればクラスではイケメンとヤンキーのはざまでその他大勢に落ち着き、部活でもハーレムを作ってる奴の横で見向きもされず粛々と練習をこなす。さっき言ったように俺と似た名前の人気者が他の科におり、1年でみさわと言えばそっちだ。
 こんな俺でも、こうして主役になれるようなドラマは突然降って湧くものなんだ。
 ……いや。もしかしたら、いつものようにものすごく目立つ奴がそばに来て、その光に照らされているだけなのかもしれないけれど。

 俺に手を振っていた彼女は長沢美香。一つ年上で、隣の中学校から隣の高校に進んだひたすら隣の女の子だ。もちろん、これまでに俺との接点は皆無だった。それが今、こうして俺の隣にいる。
 俺自身よく分かってはいないが、こうなったいきさつはこうだ。
 昨日、成り行きで長沢さんの彼氏のフリをすることにした。彼女のとても地味な後輩が、俺のダチでそして俺と負けず劣らず地味な、しかしテニスという特技だけは持っていた奴とカップルになっていた。それを見た長沢さんが、見栄を張りたくて諸事情でたまたま近くにいた俺をカレシだという事にした。おかげで、その日だけ長沢さんのカレシ面をして役得と言わんばかりにいちゃついたりできた。思いもかけず、楽しい一日だった。
 そして、そんな一日が終わり普通の日々に戻る。……はずだった。
 別れ際、ノリと雰囲気で長沢さんとメルアド交換し、夜にはにやけながらそのアドレスを眺めていた。来るはずないと思っていたメールが来たのは、ひと風呂浴びた後だった。
 明日の朝、何時の電車に乗るの?7:40頃のです。7:10のに乗れない?乗れます。待ってるわ。
 待ってるわ、などと言われて興奮しないわけがない。さっそくお袋に明日の練習が早くなったから早めに朝飯と弁当頼むと言うと、二つ返事でオッケーが出た。準備はそのくらいだし万端だが、こんなことになったら眠れなくなって明日寝坊しちまいそうだ。
 布団に入って枕に顔を埋めながら明日のことを考えてふおーとか言っているうちに、その日一日テニスし通しだった疲れと長沢さんのカレシを演じた気疲れでいつもより早く眠っていた。

 そして、朝が来た。本当にいるのかな、などといまさら不安になりながら駅前に来ると、本当に長沢さんが待っていて、俺に手まで振っている。
「おはよう」
 笑顔で言う長沢さん。
「お、おはようございます」
 そういうと、長沢さんが不機嫌な顔になる。たったの一言で早くも機嫌を損ねたか。俺が一体何をしたというのか。
「昨日みたいにしてよ」
 昨日みたいに、という事はカレシのフリをしろという事だ。もしかして、昨日の後輩にまた見栄を張らないといけなくなったのだろうか。
「おはよう、美香」
 耳元で囁いてみた。正直、朝っぱらから恥ずかしいし緊張する。そしてやりすぎのような気もする。長沢さんが伸びあがったり縮こまったりした。そのあと、あちらから話題を切り出す。
「あの、あの。昨日言ったことなんだけど。……日曜日、予定とか空いてるかしら」
「空いてま……空いてるよ」
 言った後に少し思い直して、もう一度言い直す。
「俺はいつだって君のものさ」
 ノリで思いついたことを言ってみたが、やっぱり恥ずかしすぎて後悔した。長沢さんはちょっと俯いたまま言う。
「……あ、ありがと」
 何のありがとうなのかは分からない。長沢さんも対応に困っているのが見え見えだった。お互いのために、もう少し抑えめにした方がいい気がした。
「それで……コートなんだけど。高工のテニスコートって、使えないかしら」
 さっきの俺の余計な一言のせいでそわそわしながら長沢さんが言う。
「使えると思うよ」
「練習とかしてない?」
「日曜日に練習なんて、よほどの非常時だけだね」
 お恥ずかしい話なんだけどな。
「……そう。さすが、やる気のないテニス部ね」
「お褒めに与り、どうも。……高商のコートは使えないの?」
「うん。普通に練習ね。……私は用があって休むって言っておくけど」
「そこまでしてくれるの」
 長沢さんが!俺なんかのために!
「いいの。うちでの部活なんて、どうせ私には練習になんかならないんだし。部員だって私がいないと練習にならないっていう事もないでしょ」
 言うねえ。まあ、その通りだとは思うけど。
「それに。……あ、明弘君と一緒のほうが、楽しい……もん」
 おおう。何その一言、超くらっと来るんだけど。下の名前で呼ばれるってたまらん。うちのテニス部の女子ですら下の名前で呼んでくれる子いないぞ。そして自分の所の部員より俺を選んでくれたことも当然嬉しい。そしてそんな一言を少し照れ気味になんか言われた日にはこのまま世界が滅んでもいいと思えるくらいだ。だがしかし。こうなった以上せめて日曜までは滅ぶな。
 お互いあまりにもこっ恥ずかしい発言をしあったこともあって、電車が来て乗り込んでも駅までの半ばあたりまで無言が続いてしまった。ところで、俺のこっ恥ずかしい発言の原因とも言える恋人のフリだけど。特に誰かに見せる様子もないし、一体何のために。沈黙を破る話のネタとして聞いてみようかとも思ったが、理由や返ってきた答えによってはやっぱりこっ恥ずかしいので何か他の話題でも振ってみる。そうだなぁ。
「昨日の大会で相手した室野って奴、どう思う?」
 一応中学では主将を張る程度に実力があった奴だ。うちの部の桐生先輩とも対等に渡り合える、いやそれ以上かも知れない。
「眼中にないわ」
 即答する長沢さん。
「あれ。結構手強かったって言ってたけど」
「えっ。あっ。そうね。えーと、でも眼中にないわ」
 なんか急におたおたし始めてそのあと真っ赤になってしまった。室野を手強いと言ったことを忘れてただけかと思ったが、赤くなる理由はないような。忘れてた自分に赤面した……?ヤベエ、よく分かんねえ。とりあえず、無難な話のはずがそうでもないことになってしまったという事だけは分かった。
「由美子ちゃんが連れて来た時は本当にびっくりしたわ。あの子、そういう感じじゃなかったし」
 んー。これはテニスの選手としての話じゃなくて男としてという話をしてるな。もしかしてさっきの眼中にないっていうのも男としてだろうか。同じレベルの俺としてはちょっと悲しいところだ。
「私、彼女の邪魔をする気はないわ。もうあんな思いをするのは嫌だから」
 目を伏せる長沢さん。過去に何かあったようだが、これは明らかに触れないほうがいい話だ。うん、気にしないことにしよう。
 とりあえず、この話題をきっかけにして由美子ちゃんという昨日見かけた印象に残らない女子のあまり語るべきところのない思い出話とか、桐生先輩や吉田みたいな俺たちの共通の顔見知りについての話が広がった。
 そして、気が付けば駅に着いていた。前半の沈黙の間に感じた時間の長さが嘘のようだ。思えば、カレシの演技も忘れて普通に話し込んでいたな。まだまだ話し足りない気分で一杯だ。でもそれは長沢さんも同じだったようで。
「帰りも駅で待ち合わせよ。私は多分6:25の電車に乗れるはずだと思うけど……遅くなったらメールするわね」
 俺がいつも乗っている電車より一本遅い。今まで、一本早い電車で登校し、一本遅い電車で下校していたってことだな。それは会わないわけだ。とにかく、帰りも一緒になれるなんて嬉しい。たとえ終電まで待たされても構うものか。
 最後に、思い出したように彼氏のフリをしておくことにした。
「待ってるよ。君のために」
 何とも当たり障りのない取ってつけたような一言だった。そんな一言を目を閉じて耳元で囁く。目を開けたまま顔を近付ける勇気がなかっただけです。はい。
「あ。ありがと」
 目を瞑っていたせいもあって距離感がいまいち掴めず、思ったよりも近い所から声がした。そのまま目を開けるのはちょっと怖い。一歩下がったら知らないオッサンにぶつかってしまった。最後の最後になんてカッコ悪い。
 電車の扉が開き、改札を抜けて暫しの別れ。手を振って駅からそれぞれ別々の方向へと歩き出した。
 短い時間だったけど楽しかった。楽しかったけど、なんかもう既に一日が終わったような疲労感が。昨日の疲れも全然取れてないからなぁ。こりゃあ、学校では思う存分ゆっくりしないとな。

 まださっきの高揚感と疲労感が残っていて尋常ならざる気分だが、いつも通りに朝練が始まる。昨日尋常ならざる変身を遂げて俺たちの前に現れた町橋先輩も今日はいつも通りの顔で現れ、定位置に陣取りいつも通りの顔を仕上げていく。
 そんないつも通りの中、やっぱりいつもと違う俺の気分は態度に表れてしまうらしく、すぐに吉田が声をかけてきた。
「よう三沢。昨日の事でまだ浮かれてるんか」
「ここだけの話だけどよ。昨日だけの事じゃねーんだ。今日にも未来にも続いていくんだぜ」
「ほう。デートの約束でも取り付けたか」
 全力でぼかしたつもりなのにズバリと核心を突かれた。こいつの勘の良さは何なんだ。っていうか、本当に勘なのか。
「どうだろうなー」
 とぼけたが、バレてそうな気がする。吉田は何事もなかったように練習に戻った。って言うか、なんでそこまで感付きながら驚いた様子が無いんだろう。どこまでバレてるんだっていう。
 授業もそっちのけで熟考した結果、こういうことはバレて言いふらされる前にこちらから情報を提供し、その代わりに口止めをしておく方が賢明だという結論に至った。
 一年の男子だけが集まっているときにそれとなく、次の日曜日に長沢さんに練習つけてもらえることになったと打ち明けた。みんなは驚いたようだが、やはり吉田は驚いていない。そして、ばらすなよと言い添えるのはもちろん忘れない。
 だがしかし。コートに出た途端、予測不能な出来事が起こった。2年の先輩男子に絡まれたのだ。
「お前何ちゃっかりナガミーと仲良くなってんだよ」
「日曜日に一緒にテニスするって?……ざけんなオラ」
 しっかりバレていらっしゃる。しかし、1年男子には今そこで話したばかり、そこから漏れたとは思えない。近くに2年がいないことは確認したし、吉田は俺が話す前から知っていた感があるものの、口が堅いというか他人がどうなろうが知ったこっちゃないという感じでみだりに口外したりはしないタイプだ。もうどこかに盗聴器でもついてたとしか思えない。
「誰に聞いたんすかそんなこと」
 出所を直接聞いてみる。
「鴨田に聞いたんだよ」
「何で鴨田さんがそんなこと知ってんすか」
「町橋が根室に話してるのを聞いたらしいぞ」
 もうすでにかなり伝播されているみたいだ。何で町橋先輩が知ってるのかは本人に直接聞いた方が早いだろうな。
「お前一人がただいい思いをするのは許さん」
「もしかして押し掛けるつもりっすか」
「それはない。俺たちの印象が悪くなるからな」
「俺たちに出来ることはお前の幸運を分けてもらうことだけだ。直に見たいのはやまやまだけどよ。とりあえず、間近で写真撮って俺たちに回せ。それで許してやろう」
「ただしツーショットは禁止な。ナガミー一人で。出来るだけいい顔でな」
 どうやらこの二人の主な目的はこの機に乗じていい写真をゲットする事らしい。まあ、これはとりあえずご注文通りのいい顔の写真だけ見せて、後は好きなように撮ってそれは見せずにおけばいい。何とでもなるだろ。

 俺に絡んできた2年男子の用は済んだようで、言いたいことを言うと去って行った。後は……何で町橋先輩がこのことを知ってたのかだな。気になるので早速聞いてみることにした。
「んー。内緒」
「いやいや。人の内緒話の内容言いふらしておいてそれはないっすよ」
「うあー。ごめーん。ついー」
 変な動きで謝られた。今はナチュラルメイクなのでただの変な動きだが、放課後のヤマンバメイクでこの動きをされたら呪いの儀式のように思うだろう。
「ついというには悪意がありすぎる気が。特に、話す相手の人選に。なんで根室先輩に話すんすか」
 言ってから根室先輩に対して悪意のありすぎる一言だった気がしてきたが、気にしないことにした。
「いやさ、もちろんりさこを狙って話した訳じゃないよぉ。みんなに話してるし」
「なおさら悪いっす。誰から聞いたのか教えてくださいよ。吐けー」
 元々地べたに座っているので、一歩踏み込むだけで追い詰めたような感じになる。町橋先輩も逃げようとしているかのような動きはするが、尻が全く動いていない辺りを見ると逃げる気は無いのか。
「ううー。しょーがない、教える。……誰から聞いたのかっていうことなら三沢から聞いたんだけど」
「え。俺っすか」
 朝練で話したのを聞いたのかな。いや、朝はまだ断言してないはず。
「あたしさ、あんたらが二人でいちゃついてんの、見てたんだよね」
「ちょ。マジっすか。電車の中のことですよね?うわー、小っ恥ずかしい」
 知ってる人が誰も見てないと思ってるからあんなことできるんだぞ。……いや、昨日は知り合いの坩堝の只中でやってたんだけど。あれはまあ事情もあったし。
「えっでも……俺、周り見ましたよ。話してる内容分かるくらいじゃ相当近くですよね」
「うん。……あのね。明日も同じ電車に乗ったりしても……あたしのこと探さないでね」
 そんなこと言われても。多分、超探すわ。
「でもさー。いつの間にあんたらあんなことになったの?昨日はなんかお芝居だったんだよね?」
 逆に質問された。まあ、それは気になるところだろう。
「そっす。ってゆーか、今日も芝居のつもりだったんですけど。俺も急に呼ばれて顔を出したら昨日みたいにしてって言われて。また誰か……昨日の後輩でも来るのかと思ってたんすけど何にもなくて……」
「んー。日曜もデートだよね。ちょー脈ありじゃね?」
「マジっすか。もしそうだとしても何でそんなことになったのかさっぱりなんすけど」
「昨日のあの子、楽しそうだったもんね。ま、うまくやんなよ。それと……明日は探さないでね」
「いや、探しますんで嫌なら俺から見えないところにいてくださいよ」
 また小っ恥ずかしい会話に聞き耳立てられても敵わないし。
「ううー。しょうがない……」
 よし、これで安心だ。……と思うがどうだか。

 部活も終わり、駅で長沢さんが来るのを待つ。町橋先輩に脈ありなんて言われたのでますます緊張するが、冷静に考えてみれば俺みたいな特にいいところのない男があんなずば抜けた女子に脈ありだなんてないわーと言う気になった。
 待っている間にもみるみる日は沈み辺りはすっかり暗くなった。暗いが、長沢さんがやってきたのが見えた。この薄闇の中でも輝いて見える。……こんな時間に歩いてくる生徒はまばらだから、街灯の下を歩くと目立つってだけだけど。
「待たせたかしら」
 そりゃあ、電車一本分だからなぁ。その質問に答える前に、軽くやっておくべき事がある。……知り合い、誰もいないよな。よし、いない。では。
「待ってたよ、美香」
「あ。ありがと」
 このリアクションでいいのか。って言うか、このリアクションよくするよね。
 とりあえず、伝えておかないといけないことがある。
「なんかさ、日曜に俺たちがテニスするってのバレてたわ」
 それほど驚いたり困った様子はなさそうに答える。
「そう。あたしは別にそっちの学校で知られるのは構わないの。でも、うちで知られるとちょっと困るかな」
 まあ、俺みたいなフツメンと遊んでるのバレたらちょっと恥ずかしいよな。でもそれならそれで、何でそんなにしてまで俺と通学したりテニスしたりしてくれるのか。まあ、聞けないけどな。
 長沢さんは自分の学校で知られると困る理由について述べた。
「多分、明弘君に迷惑がかかるわ」
 そっちかい。
「俺は大丈夫さ。美香のためなら、なにがあってもね」
 売り言葉に買い言葉、的な?もちろん、言ってて小っ恥ずかしいですとも。
「あ。ありがと」
 もしかして、こっちはこっちで小っ恥ずかしくてリアクションしにくい時にこれが出るのかな。
 とりあえず、深く考えずに発言しているので本当に何かあった時は全く大丈夫じゃ無いと思われる。その時はその時だ。そしてその時が来ないことを祈ろう。
 そういえば。この電車に町橋先輩いるのかな。あのまま直帰してれば一本早い電車で帰ってるはずだけど……、あの人化粧直しがあるからなぁ。朝も同じ電車に乗ってた割には朝練見に来たの妙に遅かったし。……うわあ、今ここに居そう。
 周りを見回してみる。うちの制服かジャージの女子は……。いるけど、町橋先輩っぽくはないな。
「どうしたの?」
「いや、何でも」
 いきなりキョロキョロし始めたからちょっとだけ気になったらしい。まあ、そりゃあ気になるだろうな。それでも俺に何でもないと言われたので気にせず話を切り出してきた。
「そっちでバレたっていうけど、それで迷惑掛かってない?」
 タカビーキャラっぽい割には結構気遣いしてくれるよな。
「先輩に妬まれたりはしたけど、そのくらいかな。バレたついでに君みたいなステキな子と日曜日が過ごせることを自慢してやったよ」
「そんな、ステキだなんて」
 露骨に照れてにやける長沢さん。俺としても芝居のつもりだからどうにか耐えられるが、素では照れて絶対に言えない一言だ。それにしても長沢さんは結構自分で自分のことを可愛いとか言いまくってる割には、人から言われると素直に喜ぶな。
「あっ。そういえば日曜日に練習したりしないか確認するの忘れたな。まあ、俺がその日にこっちで練習なのはバレたし、そこにわざわざ練習入れたりしないか」
「でも、妬んでる先輩っていうのが妨害のために練習を入れたりしないの?」
「そういうことして美香に悪い印象を持たれたら嫌だから、先輩たちも日曜日の事を聞いても邪魔してこないんだ。むしろ、また君を見るチャンスが来たって事で様子を見に来たりするかも知れないね。そもそも、俺たちの練習は自主練だから先輩は口出ししてこないよ」
 長沢さんは少し考える。
「……明弘君のテニス部って、どういう仕組みになってるの?なんか変わってそうよね」
 考えてもよく分からない、独特の世界だったようだ。こっちだって、何が普通なのかは分からないくらい特殊なテニス部なのは自覚している。何せ、やる気がまるで無いし。
「一番上の学年の男子が女子を独占するために放課後はコートを占領してるんだよね。先輩と女子はコートを使えて、部活の間一年の男子だけハブられるんだ。俺たちはその間ジョギングとか筋トレとか、素振りとか。そんで俺たちは朝とか休みの日とかにコートを使ってる」
「放課後の部活の時は何人でコートを使ってるの?」
「2年の男子が7人、女子が全部で11人かな」
「あなたたちの時は?」
「6人と、飛び入りの女子が二人居れば8人でダブルス2面とか」
「……どう考えても、一年生のほうが濃密に練習できるわね」
「うん。確かにね」
 言われて今更気付いた。今の2年生はテニスへのやる気はあまりないので朝練もしてこなかった。3年生がいる間、全くテニスの練習らしきことはできていなかったわけだ。そして、ようやくコートを使えるようになっても2学年分の女子との折半で時間はかなり限られる。上達なんかするわけない。うちのテニス部、特に男子がやたらと弱かった理由が今更ながら分かった気がする。

「高商のテニス部はどんな感じ?……知りたいな、君の……テニス部の事」
 漫画とかでイケメンがいかにも吐きそうな、取ってつけたような言葉を添えて質問してみた。それなりの効果はあったらしく、少しもじもじしながら答える。
「え、えっとね。うちのテニス部も普通のテニス部とはちょっと言い難いかしら。元々あまり強くないから小さな部活だったし」
 ちょっと気になることがあるが、それはひとまず置いておこう。
「四天王とか、いたよね」
「まあ、自称よね。確かにうちのテニス部の中じゃ一番うまい部類だとは思うけど、実力は……普通ね」
 確かに、うちではマシな方だが多分人並みの吉田たちのペアといい勝負してたっけ。途中から、毒でも盛られたみたいな崩れ方してた気がするけど。アレがなかったら吉田らも勝ったかどうか分からない。その点を踏まえてみても、テニス部員らしく普通に強いが、とても強いという感じではなく普通だ。
「うちの部員は女子が全部で7人、男子が12人。うちの場合、男子はやる気があるんだけど、女子の方がね……」
 それは何かわかる気がする。四天王になれば長沢さんの側近みたいな感じになれるんだし、その座を狙って激しい競争が起こるだろう。一方女子は長沢さんがいる限り何をやっても日陰者になってしまう。男たちからも見向きもされないか、されても妥協された感じがありありか。そりゃあやる気も出ないだろう。
 さっきちょっとだけ気になったことをぶつけてみる。
「どうして……君くらいのプレイヤーが、そんなテニス部に何もないような学校に入ろうと思ったんだい?」
 なんか自分でも変なキャラになってきた気がする。キラキラを引きずりながら動き回る気障で滑稽なキャラの雰囲気だ。そういうキャラは大体イケメンないし残念イケメンくらいのものだが、俺みたいなイケメンですらない残念なだけの男がやっていてもただのコントにしか見えないだろう。そろそろツッコミを入れて欲しい気分だ。
「だって……学校は、テニスをする場所じゃなくて勉強をする場所でしょ。推薦入試でテニスの名門校に通うこともできたけど……。授業についていけないまま3年間を過ごすのは辛いもの」
「それはまあ、そうかな」
 言われてみれば、高商はそんなに偏差値の高い学校じゃない。もしかして、勉強の方はあんまり……なのかな。
 とりあえず質問してはみたが、まさか雑魚共の中に飛び込んだ方がでかい顔できるなんて言う理由だったらどうしようなどという徐に鎌首を擡げてきた不安は杞憂で終わったようだ。……そうだったとしても、わざわざ口に出したりはしないだろうけど。
 そして、こうして二人で自分のテニス周りについての話を続けていれば。
「明弘君は何でテニスを始めたの?」
 ついに、その質問が来てしまったか。
 俺がテニス部に入った理由は言うまでもない。高工の男子の間で細々と語り継がれていた『ヤれるペ○ス部伝説』に釣られてのことだ。
 俺が高工への進学を決めた時、クラスメイトだった室野からこっそりと高工のテニス部についての噂を教えてもらえた。室野は高校を選ぶ時の参考にテニス部の情報は集めていたため、こんな噂も知っていたという事だ。
 話を聞いた時はフーンで終わったのだが、いざ高校に進みクラスに女子がいないという状況を目の当たりにすると、俺の青春時代にみるみる暗雲が立ち込めるのを感じた。このままでは乾ききった高校生活を送ることになるのではないか、と。そこで、テニス部の伝説を思い出した。俺の未来を、この伝説に賭けてみよう。
 まあ。伝説は伝説であって、“今”ではなかったわけだが。俺がテニス部で目にしたのは、ごく普通にイケメンが女子を侍らせ、普通以下は権力を笠に着てどうにか女子と接触し、権力も何もない俺たちは女子に近付くことさえできないという現実。最近は随分と雰囲気が変わっては来ているけどな。
 とにかく、この不純過ぎる動機をいかにマイルドに伝えるかが問題だ。できれば嘘はつきたくない。今咄嗟についた嘘を、俺が後々まで覚えているわけがないからだ。その一方で女はこういう些細な話をよく覚えていて、後々話が合わなくなって嘘が露見するという話をテレビなんかで何度も見ている。嘘はつかず、できるだけぼかして伝えなければ。
「テニスは……モテるって聞いたからさ」
 とてもカッコ悪いことを意味なくカッコつけて言ってみた。まあ、こんなもんだろう。
「……そうね。確かに、モテるわ」
 頷くが、あんたはテニスしてなくてもきっとモテるから。そして、俺はテニスをやっても別段モテてないから。とにかく、納得はしてくれたようだ。それに間違いなく嘘はついてない。
「美香がテニスを始めた理由は?」
「パパがやってたから。子供のころはよくパパとテニスをしたわ。小学校の終わりころには一緒にテニスをしてくれなくなっちゃったけど」
 さみしそうな顔をする長沢さん。たぶん、パパが長沢さんに太刀打ちできなくなったんだろう。やっぱり小さいころからやってるというのはかなりの力になるんだな。
「今、いい勝負ができる相手っているの?」
「そりゃあ、いるわ。伯城高校の臼井幸菜さんとか、福井の千葉さんとか」
 俺ですら名前を聞いたことがある、県内とか全国のトップレベルですね、ええ。
「さすがに、身近にはいなさそうだね」
「まだまだいい勝負にはならないけど、強い人と言うなら塚本コーチが強いわ。やっぱり、世界大会経験者は一味違うわよ」
 俺は長沢さんとのレベルの違いを思い知りました。そのレベルのコーチに教えてもらってるのか。そりゃあ強くなるわけだ。
 そんなレベルに歴然とした差のある二人のテニス談義は、俺がボロを出す前に電車が駅に着いたことで終了した。思いがけず、楽しい一日になったが、別れ際に長沢さんから「また明日ね」と言われ、明日も楽しい時間が過ごせることが判明した。
 心配があるとすれば、そろそろ二人で話す話題が尽きそうなことだった。明日、大丈夫かな……。

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