Hot-blooded inspector Asuka

Episode 8-『帰ってきた怪盗ルシファー』

第14話 そんなKANJI

 遊び疲れても一晩寝れば元気溌剌である――と言いたいところだが、疲労度が限界を超えていたようで筋肉痛が残されている。アトリエ喫茶ジョニーには大人しくマンガを読みふけるミサエの姿があった。かつて大貴が詰められていたリュックに借りたマンガを入れて重い足取りで店に辿り着いたが、座ってしまえば人心地だ。
 元々この喫茶店にはマンガを読む客とマンガを描く客しかいないのでマンガを読むミサエは違和感なく店の雰囲気に溶け込んでいる。溶け込みきれない理由があるなら相変わらずのホームズコスプレのせいだろう。
 そして、いつもなら手持ちぶさたになっていたミサエに話し相手になってもらえていた恩納月ウェイトレスが今日は構ってもらえず寂しそうだった。今日はマスターも暇ではないらしい。アトリエ喫茶になってからでもアトリエとしての依頼は減るどころか怪盗騒動で知名度も上がって絶好調なのだ。暇であればウェイトレスに構っていちゃついたりもするがそんな暇も無いようである。
 なにせコーヒーやお茶を淹れる作業すらウェイトレスに丸投げだった。この店のコーヒーには何のこだわりもない。大手ブランドの定番ブレンドの豆を機械でガーっと挽いて、図書館で借りてきた『おいしいコーヒー・お茶の淹れ方』と言うタイトル通りの内容だけなら10ページももたない内容を豊富な写真やイラストで間を持たせてコーヒーやお茶の豆知識――コーヒーだけに、ってお茶はどうなるのか――も盛り込んでアメリカンコーヒーよりも水増ししたような書店で購入したらコスパ悪過ぎで図書館で借りるにとどめたのは大正解と思える本で一夜漬けした程度の知識で淹れている。
 まあ、この店の外見で本格的なコーヒーを期待して入ってくる人はいない。客も普段缶やインスタントのコーヒー、ティーバッグ――しかもそれをティーパックとかティーバックとか呼んでいる有様――のお茶を飲んでいる人々だ。レギュラーコーヒーというだけで日頃自分が飲んでいるのは一体何なのだろうと思わせるに足る。
 そして訪れる客もまた、そんなコーヒーメーカーに匹敵するあるいはいっそちょっとくらいなら上回っているかも知れないコーヒーさえもほったらかしでマンガに集中している客なのである。マスターが淹れようがウェイトレスが淹れようが判るまい。そもそもマスターもウェイトレスも腕は同レベルである。二人とも同じ本で同時期に淹れ方を覚えているのだから。
 そんなコーヒー一杯で粘りまくる客しかいないこの店で暇を持て余しまくるウェイトレスに救世主が現れた。
「おっ。読んでるわねミサエちゃん。続き持ってきたわよ〜」
 初代ルシファーがやってきたことでミサエも一旦マンガを読むのをやめておしゃべりモードになった。すかさずウェイトレスも混ざる。
「ほうほう。少女マンガは初めてっすか」
「親が厳しくて読ませてもらえませんでしたからね。最近はOKは出ましたけど何を読んでいいか分からないし、そういうのより探偵物って感じですし。おねーさんもマンガとかよく読んでたんですか?」
「まあ人並みには。でも、少女マンガは少女と呼べる頃には読まなくなっちゃってたっすけど。少年マンガ派だったんすよ」
「へえ。かっこいい男の子目的?」
「その頃にはもう女のヌード好きになってたんす……。少女マンガより少年マンガの方がお色気シーン多めでげしょ?グフフ」
「げしょってなんです……。少年マンガももちろんあんまり読んだことないからわかんないですよ」
 そもそも、彼女が女だてらに女の裸好きの変態になったきっかけも少年マンガだった。彼女にも幼なじみの男の子がおり、小学校中学年くらいまではお互いの家によく遊びに行っていた。高学年になるとまだ普通の女の子だった彼女には異性であるという意識が生まれて頻度は下がったがそれでもたまには遊びに行っていた。このままつき合っちゃったりするのかな、なんて漠然と考えるような関係性だった。
 そんなある日。男の子の部屋で、その子は彼女を部屋に残し部屋を空けているという状況。ちょっとしたいたずら心で引き出しの中とかをこっそり覗いていたら『それ』を見つけてしまった。マンガ雑誌から抜き出したマンガの束を。好きな作品ならコミックスを買えばいい。現にその子の本棚にはたくさんのコミックスも並んでいた。しかしそのマンガは特別だったのである。
 この頃の少年誌には今ではあり得ないくらい露骨な内容のお色気作品が掲載されていた。国民的アニメの一角でもある児童向けアニメ・マンガの金字塔として今なお定番であるネコに見えないネコ型ロボットのマンガだって女の子の入浴シーンに男の子が突入しまくっていたくらいだ。
 もう少し対象年齢が上ならもっとすごい描写が溢れかえっていた。話の流れでお色気シーンが挟まれる程度のものではなく、主人公が変態だったり、学校そのものの風紀が乱れ女子も羞恥心が欠如していたり。そんなマンガはさすがにコミックスでは買いにくかったのだ。だから雑誌から切り抜いてこっそり溜め込んでいたのである。
 そんなものを見つけてしまった恩納月少女の心中は複雑である。そして思わず固まっていたところに男の子が戻ってきてしまい「うわあだめだめぇ」みたいな騒ぎになりちょっと気まずいことになったりした。
 家に帰ってからも心はざわついたままだった。ちょっと意識していた男の子のあんな一面を見てしまったのだ。自分もあんな目で見られていたりするのかな、なんて考えてしまってドキドキである。しかしあの時思わず見入ってしまったマンガに登場していた女の子たちは誰も彼も豊かさに満ちたたわわを揺らしていた。それに比べて自分は。膨らみはじめの中学生が男の欲望を具現化させた虚構の産物ある意味虚乳と比べてもそれこそ虚しいのだが。
 そんなこんなで一晩女の裸を想像しながらドキドキしていたら女の裸に反応してドキドキする変な性癖がついた。最初こそ男の子の反応を思い出しての連鎖反応的な感じだったが、やがて連鎖が高速化してほぼダイレクトに女体に興奮するようになったり、なぜか時の流れから取り残されたように早々に身長や胸の成長が止まってしまった自分の体がこうだったらとイメージするようになったり、そんな感じで女体好きが高じていったのだ。なおその時の男の子との距離は結局再び縮まることはなかった。
 そんな自分の体への否定感から生じた性癖も、自分の貧そ……ロリボディを好みだと言ってくれるロリコン外人との出会いにより改善――はされず、好みのエッチなイラストやフィギュアを供給してくれる点も併せて満たされて幸せにだけはなった。類が友を呼び変態同士がパートナーになったことで相乗効果で悪化したような気がしてならない。
 このような事情を知り合って間もない未成年相手に公共の場でべらべら喋るほど恩納月女史も配慮のない恥知らずではない。精々自分が少年マンガきっかけで羨ましさからお色気キャラ好きになったことと、自分がこんなだったらと妄想するのが楽しいことを話したくらいである。
 そしてこの程度を話す間にも、ミサエの興味は離れて初代ルシファーが持ってきたマンガの続きに向いていた。あるいはこの程度でも聞くに耐えなかったのかも知れない。
 そして初代ルシファーとてこんな話を聞いている暇はない。こちらはこちらでマンガに用がある。読む方ではなく描く方で。この店の目玉であるこのマンガを店員の立場で邪魔してはいけない。ウェイトレスにはまた誰も構ってくれない時間が訪れたのだった。

 しかし、程なく再びウェイトレスを構ってくれる人物が現れることになった。刑事たちである。
「よーう。何か動きは……無さそうだな」
 探偵チームに佐々木刑事が声を掛けるも、頭を振るミサエと原稿から目も離さず手だけ振って見せる深森探偵、そして無反応の初代ルシファーを見れば別段変わったことはないのが明らかだった。
 一番変わっている事と言えばミサエが熱心にマンガを読んでいることだが、このくらいの青少年がマンガを読んでいることに不思議は何もないし、読んでいるのがミサエでもそれに違和感を抱くほど刑事たちはミサエの日常を知っているわけではないのだ。
 とりあえず、誰も彼も邪魔しちゃいけない雰囲気であった。話しかけてくるのはウェイトレスくらい。
「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
 別人かと思うかも知れないが、性癖まで明らかなくらい馴染みのこのウェイトレスも顔を合わせるなり馴れ馴れしく接してくるわけではない。仕事は仕事、仕事中の雑談はまた別だ。刑事たちも普通の喫茶店のようにコーヒーを注文する。そしてそのコーヒーが運ばれてきた。
「お待たせいたしましたぁ。……今日は誰も構ってくれないんす。構って構ってー」
 猫ならぬウェイトレスを被るのはここまで、本性を現した。刑事たちも今のところ構えるのはウェイトレスだけだと言うことは察している。別段構いたくもないが他にすることもない。飛鳥刑事は無言でコーヒーを啜り始めたが、佐々木刑事がウェイトレスに応じた。
「ん?今日はジョニさん居ないんか」
「あいやジョナサンっす」
「別に言い間違えた訳じゃ……いやそんなことはどうでもいい。店長はお出かけ?」
 そう問いかけて佐々木刑事ははたと気付いてしまった。店長が出かけていようがそれもどうでもよかったなと。しかし、答えを聞いてみるまでは結論を出すのは早計だろう。
「アトリエで絵の仕事してるんす。なんかのショーで使う看板みたい」
「あ。早速やってくれてるんだ」
 これまで執筆作業に没入し何事にもリアクションが薄かった初代ルシファーが反応した。
「あんたが持ち込んだ仕事か」
「そ。うちの人のショーでさ、今までお師匠さんから払い下げ……受け継いだいかにも怪しい感じの看板使ってたんだけど、うちの人ってそういうタイプじゃないから。看板が古くなったのもあって、せっかくだからこの機にファンシーなのに刷新しようと思って」
「珍しく外注がきてると思ったら身内みたいなものじゃん。アトリエ儲かってるんか」
 ウェイトレスに向き直る佐々木刑事。
「甘く見ちゃダメっすよー。この後も立て込んでいるからそれほど急いでいない仕事でもどんどん片付けているところなんすから」
「そうなんか」
「そっすよ。だいたい、この喫茶店がそんなに儲かっているように見えまして?」
「ああいや、これっぽっちも」
 店内を見渡してみれば席は埋まっているが、テーブル席を一人で占領しコーヒー一杯で数時間粘る客だらけ。とても儲かっているようには思えない。そもそもがアトリエにおいといても何も役に立たない創造性のないニート女にやることを与えるのが主目的の業務であって、相変わらず本業はアトリエの方なのだ。
 そして。やっぱりどうでもよかった。
「まあいい、暇人が少しでも多い方が助かるってもんだ。その前に、どんなの描いてんだ?差し支えないようなら見せてもらってもいい?」
 どうでもいいが、どうでもいいことしか話題は無い。話は継続だ。
「えーと。さっき仕上がったこの辺なら、誰かに見せても大丈夫そうっすね」
 そう言って差し出されたのは一枚のイラスト。何人かの漫画なら間違いなくモブと言った人物が描かれており、上の方にはロゴなのであろう、『けいさつだより』の文字が。
「これも身内じゃねーか!誰だよ頼んだの!」
「俺じゃないぞ」
 この場に警察関係者はもう一人しかいない。そのもう一人である飛鳥刑事が答えた。
「まあそうだろうな、友貴が広報に関わってるなんて話は一度も聞いたことがない」
「まずそんな事実がないからな」
 実の所、一連の怪盗事件とは全く関わりのない広報課の課長にだって事件が起きた店の情報くらいは伝わっており、その夕飯の会話で「あんたの所の面白味のない広報もこういう所にイラストでも外注してポップにした方が読んでもらえるんじゃないの」などとカミさんが、主婦の間では広報誌がつまらないと評判である厳しい現実とともに提案を突きつけてそれが取り入れられたという、刑事たちとはほぼ関係のない一件であった。
 こんな感じで事件によって店の知名度が上がり依頼が増えたものの、案外マスターが今日のように店に出ずにアトリエに籠ってまでそちらの仕事をしていることは少ない。それにはいくつか理由がある。
 まず、第一に。これが第一なのはちょっとどうかと思う理由ではあるが、有名になった事件がかの『女神様の微笑み』であり、それが代表作のように扱われている。よって、そう言う昼間から人前で堂々とやれないお色気系の仕事が多めなのだ。似たようなことをしているデザイナーでもプライドから断ったりきれいなお姉さんで頼みにくかったりする内容でもウェルカムで頼みやすいのはアドバンテージなのだ。
 そう言う仕事はカノジョと二人きりの夜の時間を削って進めざるを得ない。幸いにもこういうモノを見て大喜びするカノジョであるので、作業しながら二人で盛り上がれる。そして盛り上がってくればそのテンションのまま――いや、そっとしておいてあげよう。
 もう一つは、意外と店の中で依頼をこなしていることもある点。たとえばこのけいさつだよりのように紙に描くだけの仕事なら、アトリエにこもらずともここでできる。何せ、この店はウェイトレスが暇を持て余すくらいに注文は少ない。であればマスターだって暇に決まっていた。看板はさすがにアトリエでないと作業ができないので今日はそちらに籠もっているのだ。
 さらに言えば、イラスト程度の仕事なら外注してもいい。依頼者だって、絶対にリージェント氏の絵でないと困るなんて言うケースはない。そして、外注できる人材なら店内でコーヒーを飲んだりコーヒーそっちのけでペンを動かしたりしている。捌ききれないほどの依頼があっても斡旋だけするという手があるわけだ。
 たとえばけいさつだよりのように別段こだわりがあるわけでもない依頼は、依頼者に誰かに頼んでもいいかと確認すれば大体(そんなのどうでも)いいですという返答があるのだ。むしろ、同人誌を参考に誰に頼むか選ばせると、他の人の絵柄の方がイメージに合っているなんてことも多い。そんな感じで頼める相手の幅の広さも繁盛する理由の一つだった。
 実のところ初代ルシファーが深森探偵ほかの原稿で背景を手伝ったりしているのもこのシステムを利用したものであった。ほぼ趣味で描いているマンガだが、であればこそ自分の描いたページに自分では描けない立派な背景がつくと見栄えもするし気分もいい。ただの自己満足だけではなくみんなで描いてみんなで読むマンガの出来が良くなるのはもちろんみんなの利益にもなるのだ。
 そしてもちろんただではない。外注の仕事に関してはちゃんと現金でもらうこともできるし、内輪の手伝いでもこのマンガの原稿料と同じで現金の報酬は出ないが、この店のコーヒーやスイーツ、そして自分たちの描いた同人誌に引き替えできるポイント券がもらえる。初代ルシファーもスイーツのために目の色を変えて原稿に取り組んでいるのだ。
 ちなみに、けいさつだよりのイラストはわざわざ外注するほどではないと判断し本人がささっと即日終了させていた。
 そんなわけで。この店は喫茶店ではあるのだが、その実体はイラストレーターのスタジオみたいになっているのだ。昼間からこの店にずっと籠もって生活できているのか心配になる客もいるが、この店のおかげで生活できているような人もいるのだった。
「って言うか深森探偵。原稿は昨日で終わったんじゃないんですか」
「ええまあ、急ぎの奴は。今やってるのは今週中に仕上げればいい奴ですので、中断してそっちを手伝えというならいつでも。まあ、そう言われるまでは原稿の方に集中させてもらいますがね」
 無事締め切りに間に合わせて今は新しいページに取り組んでいたようだ。
「マンガを読んでる暇な女子高生はもちろん手伝ってくれるとして、羽丘さんは……」
 テーブルを見渡していた飛鳥刑事の目が初代ルシファーに留まる。二人の視線は――。
「ごめん、無理。これは生活がかかってるの。本来のバイト先が休業中だし」
 二人の視線は交わらず、ルシファーは顔も上げなかった。その発言に雇い主である深森探偵が口を開く。
「事務所は閉めてますが給料は出しますし、何なら怪盗特別手当だって出しますぞ」
 その資金がどこから出ているのかは不明だが、さすがは金持ちの道楽でやっている探偵事務所である。だが問題は給料が出るかどうかではないようだ。
「ここでのティータイムを楽しみにお昼軽めで済ませてるのよね。それで食費も浮くし。ポイントで払った分は家計簿に載らないから完全犯罪よ!」
 お金が掛かっていなければ領収書も発行されないので証拠が残らないわけだ。さらに言えばお菓子を買って帰れば夫や娘にも知られて、分けたり奪い合いになったりして自分の分は減るが、外食に関しては家族にバレない。現金よりもある意味嬉しい報酬と言えた。
「ご飯を食べずにお菓子を食べればいいのよ」
 ルシファーは悪魔の笑みを浮かべた。
「マリー・アントワネットみたいなこと言ってんな」
「実はマリー・アントワネットってあの有名な『パンがないならお菓子を食べればいいじゃない』って言う言葉、言ってないらしいな」
 飛鳥刑事が指摘しなければ佐々木刑事によって冤罪が生み出されるところであった。被疑者は死亡しているが、だからと言って罪を着せてもいいじゃないとはならないのだ。
「ありゃ、そうなの?俺のイメージじゃあそれを言ったら国民がキレて革命が起こった感じなんだが」
「知ってる!産業革命でしょ!」
「フランス革命な」
 辛亥革命ならぬ論外革命な初代ルシファーの過ちは雑に訂正だけしてスルー。しかし、本当に論外なのは黙って大人しく話を聞いているミサエである。何せマリー・アントワネットとヨーロッパの何かの革命が朧気にでも結びついていた初代ルシファーと違い、マリアン・トワネットって誰、などと思っているのだから。
 なお、一説ではこれはとある哲学者の自伝にて、彼がワインのつまみが欲しくなりパン屋に行こうとしたがそれにはちょっと気合いの入りすぎた場違いな服装であり、だがその時どこかの王女が言ったという件の言葉を思い出して自分も高級菓子店に行くことにした、そんなエピソードトークが元ネタだと考えられている。
 その自伝が出版された時マリー・アントワネットは9歳。自伝に書かれたエピソードがその何年前の話なのかによっては生まれていない可能性すらあるし、本人だとしてもちびっ子の無邪気な発言であろう。
 これはつまりとんだ濡れ衣であるか、あるいは一桁年代の発言を恣意的にあげつらってまで印象操作をすると言うさながら犯人の卒業文集を引っ張り出して何が書いてあっても将来犯罪者になる兆候を指摘するワイドショーの如き所業といえた。
 と言うか、なぜ学校は将来卒業生が犯罪者か雛壇芸人になった時にテレビで晒される以外には黒歴史すぎて出す気にもならない人が大半だろうそんなものを書かせるのであろう。そして今でもそんなものを書かせているのだろうか。
 まあ、それはそれとしてだ。マリー・アントワネットの性格の悪さを示す言葉として、創作の可能性もある他人の言葉あるいは何も考えてない幼少期の言葉をチョイスしたそいつこそ名誉毀損で卒業文集を晒されるべき人物であろう。さらに言えば、これが本人の発言だとしてマックスで9歳の幼女に対して貧困に喘ぐ農民に対する意見を聞きその答えを吹聴して回った人物も相当な悪意がある。そいつの卒業文集も晒すべきだ。いや何も9歳金髪お姫様と聞いて味方したくなったとかそんなことでは断じてないのだが。
「それより、今日はちゃんと手伝ってもらいます。さあ、薄い本を描くのはやめてこの分厚い本を」
 飛鳥刑事は電話帳を配った。まだ個人情報についての意識が緩くて町中の個人宅まで住所氏名電話番号が網羅されていた電話帳である。
「ええと。この電話帳で何をするんです?」
「この間のクラブロックがストーンの運営する機関の隠れ蓑でそこにルシファーが潜んでいたことを受けて、他にもそういう怪しい店や施設がないか洗い出しておきたい」
「なるほど。石や岩が含まれる名前を抽出していこうと。とりあえず、石井さんとか岩井さん辺りからいきますか」
 深森探偵の言葉にかぶりを振る飛鳥刑事。
「いや、個人はきりがないから結構。それにストーンの構成員が堂々と電話帳に名前を載せてるとも思いませんな。電話帳に載せる必要があるならもう少し分かりにくい名前にするでしょうし」
 警察に潜り込んでいた構成員は石和(いさわを名乗りその上でその字を敢えて伊沢と別な字に変えてまでいた。多くの人目に付くことになる名前なら同様の小細工はしてきそうだ。
「あくまで今回は多くの人が出入りしても違和感のない店などに絞ります。さっき言った通り、いろいろと名前に石が入ってると気付きにくいような小細工をしてるでしょう。例えば、この間の石廊崎シャクナゲパークみたいに音で聞いただけだと石という字が入ってると判りにくいパターンですな。漢字で書いてあれば一目で判るでしょうが仮名で書かれてた場合厄介です」
 そう言いながら飛鳥刑事は石廊崎、石南花を紙に書く。難読でも構成している文字自体は易しいシャクナゲはともかく、イロウザキの方は若干間違っていた。まだれの中に収まっているのは朗ではなく郎が正しい。しかしそれを指摘できる人物はここにいない。佐々木刑事は間違いに気付かず、深森探偵は間違ってるのには気付いたが正しい字を書けるか不安があり見て見ぬ振りを決め込んだ。
「そんな難しいことをあたしに手伝わせようとしてたの?そんなのは学のある人たちだけでやって頂戴な」
 内容がどうであれパスを決め込んでいた初代ルシファーだが、今日ばかりは学の無さを胸を張って主張できた。
「私も無理そうなんですけど」
 ミサエもおずおずと言うが。
「若者は自分で自分の可能性を狭めてはいけない。もっと自分を信じるんだ」
 詳しい話を聞くまで一応やる気だったミサエを留めておきたい飛鳥刑事が言い。
「一応頭脳派で売ってんだろ、名探偵さんよぉ。この程度チョロいはずだよなあ?」
 佐々木刑事が煽り。
「老眼と無縁で頭もまだまだ柔らかい。それだけでも十分戦力です」
 深森探偵に懐柔されてミサエとしてもバックレにくくなった。そして恩納月ウェイトレスも言う。
「暇人を探してるってことは、あたしもそれを手伝えって話でげしょ」
「なんだ、げしょって。まあ、手伝って欲しいというのは間違ってないですな」
「あたしのようなダメ人間でもできる程度のミッションに後込みしてちゃダメダメっすよー。あたし以下になったらもう裸になる以外価値のない女になるっす」
 そんな脅しに屈することなく辞退を敢行したら罰として脱がされそうなのでミサエは諦めて手伝うことにしたようである。
「とりあえず、探すワードの方針を確認すんぞ」
 ワードを決めてしまうとそれ以外を見落としかねないので方針だけ決めるのだ。
「友貴率いるインテリチームは難読漢字とかひねった奴を頼む。そして俺たちノータリンチームはわかりやすいのに絞って質より量の質量保存の法則で調べる」
 とても入りにくい名前のチームに迷いなく加わっていく恩納月ウェイトレス。
「ちなみに、質量保存の法則ってどういう意味かわかってるのか」
「質より量で保存が利くのは便利だが味は期待できない」
 飛鳥刑事の質問に淀みなく出鱈目に答える佐々木刑事。
「勉強になります」
 そして感心するミサエ。
「悪い大人の言うことを信じるな。犯罪に巻き込まれたくなかったらな」
 この場合大人として性格が悪いのか、頭が悪いのか。まあどっちもだろう。そしてこんなのに騙されかかるミサエがインテリチームに組み込まれることを誰も疑問に思っていないのが不思議だ。
「ノータリンチームはそれこそ一目で判るそのまんまの奴から探してくれ。石橋とか岩本とか、砂とかそういう石の入った漢字とかな。あとストーンとかロックとかもだ。インテリチームが思いついた読み方に関する奴も探すぞ」
「ふむ……。ストーンとかロックとかだけで満足するのもどうかと思いますな」
 深森探偵が口を挟む。
「ってーと?」
「それらは英語でしょう。しかし世界にはいくつもの国があり、いくつもの言語がある。フランス語、ドイツ語、イタリア語。中国語韓国語タイ語スワヒリ語……。そういえば最近何かと話題に挙がる『ピエとろ』もいしいいわおのいしから来てましたな」
 あの時は一目では石だと思えないが、難しいだけで意味はそのまま石だった。それなのにストーンと関係ないのだからややこしいのだ。
「うーあー……。忘れていた……のか考えないようにしていたのか。とにかく認識してしまった以上その辺の外国語も意識しないわけにはいきませんな。……で、フランス語で石は何と言うんですかな」
「さあ」
「……」
 飛鳥刑事の質問はサクッと蹴散らされた。まあ、これだけではあんまりなので一言。
「フランス語は存じませんがアインシュタインは確か『一つの石』という意味だったはず。ならばドイツ語はシュタインで決まりでしょう。ストーンにシュタイン。この調子だとフランス語の方も響きは似たような言葉だと思われます」
「あのー。うちのダーリンの第一外国語がフランス語なんすけど。聞いてきます?」
 恩納月ウェイトレスが挙手と共に提案した。
「それは是非」
 外人部隊への応援要請を出している間に話を進める。
「外国語は想定外だったが、一応漢字については漢字字典持ってきたんだよな。学生の頃に使ってた奴だ、こういうこともあろうかと思って取っておいてよかった。辞書とかってなんだかんだで結構使うよな」
「そうか?俺の場合捨てちゃいないはずだがどこに仕舞ったかも定かじゃねぇぞ」
 そこら辺は解らない言葉を見かけたら調べてみるか気にせず見なかったことにするかのスタンスの差だ。
「部首に石がある漢字はまあまあ多いが、木偏や魚偏に比べればまあましだな。それに馴染みが無さすぎて店の名前に使いにくそうな言葉が目立つ。おまけにそういう言葉はいしぶみだのいしばりだのひらがなにしてもいしが入ってて偽装にならないしな」
「いしぶみ……なるほど石碑のことですな。こうして考えてみると碑がそれだけでいしぶみと読めて明らかに石でできてることを示しているなら、わざわざ石碑というのは頭痛が痛いみたいにちょっと無駄な言葉ということになるのでは」
 この指摘がまず無駄だった。だが、この話は少し掘り下げられることになる。
「うーん。だからといって『ひ』だけじゃ『そこに碑があるよ』と言われた時に燃えているのかと思いそうですしなぁ。かと言っていしぶみと言われても何それってなりそうですが」
「まほろにて雅なるの大和言葉もオツなものではないですか。復権させましょうよ福建省」
 全力で漢語に押し潰されそうな胡乱にして烏龍なおやじギャグが添えられた。
「ちょっと気をつけた方が良さそうな字は例えば砧とか。以前警察に潜り込んでいたストーンのスパイにも漢字を変えて絹田とか名乗ってた奴がいましたし。碓なんてのも同じ読みの臼という字があるんでそれも併せて注意したいところですな」
「臼井も碓井も普通にいる名字ですな」
「後は碇なんてのも」
「いかり……そんな名字の奴いるんかね」
 この頃、まだ新世紀には少し遠い。逃げちゃダメだの碇君もその父上の碇指令も登場していなかった。まあ、登場したところでここにいる面々がその作品に触れる可能性は低いが。ちなみに、飛鳥刑事とやたら声が似ている船長が出てくる褐色少女アニメさえもまだである。
「この字も金偏の錨という字もあるから注意だ」
「いかりと言えば。イノシシを狩る猪狩という名字を見かけたことがあるわよ」
「五十里と書いてもいかりと読みますな」
 初代ルシファーと深森探偵に続き、ちょうど戻ってきたウェイトレスも再び挙手と共に発言する。
「そんな捻ったごまかし方をするってんなら、さっきの錨をばらして金の苗とかやるのもありなんじゃねっすかね。ゴールデン……なえ」
「苗も英語にしろ」
 佐々木刑事は萎えた。
「そんなこと言われても。ネイティブの人にまた聞いてくるっす。で、フランス語の石ですけど……ピエールだそうっす」
「人名じゃん」
「まさかのピエトロ系列でしたな。そう言えばピエトロで真っ先に思い出されるべきサン・ピエトロ大聖堂も聖人ピエトロさんが名前の由来ですし、これも人名ですな」
「アインシュタインにせよサン・ピエトロさんにせよ、日本で言うところの石田さんみたいなもんか。石なんてものは身近にいくらでもあるものだから人名にも使われやすいんだろう」
 必要性があるかは疑問だがゴールデンなえを完璧な英語にしてもらうべくウェイトレスが店の奥に駆け込んでいる間に話の続きだ。
「読み方が同じ石の入ってない字をバラして英語にまでするんじゃ、さっきの五十里だってフィフティーマイルズとかになるよな」
「マイルか……。ポンドの方だったら石偏の漢字なんだよな。使いにくいだろうと思ってひとまず保留にしておいたんだが」
「どんな字よ」
 磅である。
「なんか『路傍の石』を一文字にぎゅっとしたみたいな字だな」
「この調子だと、『一握の砂』をぎゅっとしたような字もあったりしませんか」
 もう一握されてる時点でぎゅっとしていると思うのだが、幸いそんな字は存在して無さそうである。
「まあ、ポンドなんて結局使いにくいから気にしなくていいと思うけどな。ほかに何かありますかね」
「石の字を石と読まない難読漢字も多数ありますな。石榴、石竜子、石刁柏……」
「で、どういう字を書くんです」
 佐々木刑事に見せるために書いている間に読者諸君には念のために読み方を教えておくと、ざくろ、とかげ、アスパラガスである。
「アスパラガスに漢字なんてあったのか」
「日本基準で考えると外来語なんてカタカナで書いておけば済むだろうが、隣には漢字しかない国もあるんだぞ」
 佐々木刑事の質問に答えたのは飛鳥刑事だった。
「それもそうか」
 漢字しかない中で異国から入ってきた物を表現するために、そのものの特徴から新たな名前を付けたり異国語の名前にそのまま当て字をしたりしていた。前者がたとえば麦酒(ビールで後者は珈琲など。
 コーヒーのような当て字系は割とそのまま読めたりするので良いのだが、特徴系は往々にして日本国内で一般的な西洋的な呼称が読み方として当てられるので難読漢字になりがちだ。
 例えば陸蓮根などは輪切りにするとまさに蓮根のようなオクラの特徴をよく表した漢字である。このくらい分かりやすくてもまあ、文字だけでオクラをイメージするのは難しいのではなかろうか。この場合はそれより、納豆との相性も良すぎるくらいだし名前の響きもなんか和風な感じがするオクラが元英語という事実がイクラがロシア語であることと同じくらいに衝撃の事実だと思われる。
「アスパラってむしろなんか竜の髭みたいな字だった記憶があるんだが」
 ひげはひげでもあごひげを示す漢字を使った竜鬚菜である。JIS規格外の文字を含まないその字の方がパソコンで出しやすいのでこれからもこの表記の方が主流であってほしいところ。まあ、普通にカタカナで書けばよいのだが。
「それはともかく、これもカナで書かれるとわかりにくいパターンですな。注意しておいた方がいいか」
「……注意しなきゃならないものがどんどん増えるな」
 ぼやく佐々木刑事。うんざりしているのかミサエも相当顔色が悪い。
 とにかく、方針は決まった。この辺で決まったことにしておかないと探すべきものがさらに増えそうだった。

Prev Page top Next
Title KIEF top