
Episode 8-『帰ってきた怪盗ルシファー』第11話 ルシファーの休日
「事件は会議室で起こっているんじゃない。そして確かにここは事件現場だった場所だ。だが、俺は会議室の方がマシだと思うんだ」
佐々木刑事は今日もまた、この店――アトリエ喫茶ジョニーに不服のようである。十年も未来の映画のセリフを先取りするほどに。
「そうは言うがな。警察署の会議室に民間人は連れ込めんぞ、また怒られるしな。それにこの店だと利点もあるじゃないか」
飛鳥刑事はそう言うと、探偵チームに目を向けた。深森探偵と初代ルシファーは鬼気迫る表情で原稿に向かっていた。この二人が大人しくなるだけでもだいぶ平和になるのである。
そして、少年探偵団は。ミサエは何もしていないが大人しくなっている。自分をモデルにした美少女キャラが大活躍するマンガを描いている連中に囲まれているこの状況で、極力目立ちたくないのである。じっとしていても顔をスケッチされてしまうくらいだ、その一挙手一投足が漫画のネタになりかねない。みんなが大人しいので大貴は寝ている。内容が内容でありこの漫画は絶対に読むなと言われているので、することがないのだ。どちらにせよ手書き文字の同人誌、ルビも振られていないセリフの漢字は読めない。中学生くらいになったら読む許可も出るとは思うが、まあその頃には誰も覚えてはいないだろう。
マンガではまだあの肉体美を履き違えたアルフォンソの事件すら、終わっていないどころか始まったばかり。それなのに現実では次々と事件が起きている。それを元に大まかなシナリオはできているので後は描くだけなのだが、そのシナリオもあらかじめみんなに見せて細部について意見を述べてもらっている。出してもらった小ネタは次々と取り入れるのでページ数は進んでも話は全く話は進んでいない。
いや、事件関係は遅々として進まないが小ネタとして展開されるサイドストーリーがものすごい勢いで展開はしているのだ。マンガの最初の2ページが豪華ゲストということもあり主要キャラ勢ぞろいの対峙シーンから始まっていたので、その後しばらくはミサエの分身たるヒロインであるミカの基本設定を掘り下げる回想シーンになっていた。パパが描いた自分のヌードの絵を取り返そうという話だ。
実在の少女がモデルだけに描かれた絵もそれを描くシーンも描写されないまま、あれが世に出たらお嫁に行けないとかいう一昔前の貞操観念で悩む姿が描かれていた。その点はクラスメイトの男子に自分の裸像を見られてもけろっとしている某エスパー女子中学生のように剛胆ではない、普通の女の子なのである。まあ、それなら何でヌードでモデルになったのかと言いたいが。
執筆には関わっていないミサエだが、マンガ自体にはがっつり関わっている。シナリオというかヒロインのキャラ監修だ。ミカに関するセリフを一つ一つチェックし、暴走するおっさんたちに好き勝手な言動をさせられないように見張っているのだ。
そしてようやくアルフォンソ事件になるかと思いきや今度は刑事たちのキャラ掘り下げが始まる。これまで少女探偵と少女怪盗というギャルメインの女子や萌えオタに受ける方向性だったが、急に飛竜刑事と獅子木刑事の男臭い物語になっていた。
いや、ある意味女子受けはするのだが……それは別としてここに来て新たな客層が開拓されていた。この店の雰囲気にそぐわない野郎ども。大都市ではそろそろ絶滅危惧種になりつつある旧時代的なヤンキーたちである。
アニオタとは対極にありそうな彼らではあるが、当然ながら少年誌は普通に読んでいる。むしろ授業をサボって屋上でマンガを読んだりする日常である。そしてヤンキーマンガに影響を受けバトルマンガに興奮しちょっとエロいラブコメでも別な意味で興奮したりしているのだ。時には青年誌でよりディープな暴力とエロスに満ちたマンガにも触れたりしているわけである。
そしてヤンキーだってマンガ好きなら描くのがうまいのも普通にいる。そんな漢マンガ野郎が任侠味溢れる刑事たちのページに参戦していた。その絵柄で好きな漫画家が想像できる。ほぼまんま輝野魂悟朗であった。彼が参戦したと聞いて駆け付けたクチなのだろう。
余談にはなるが萌えオタとヤンキーが必ずしも相容れないわけではない。何せこの町にも族車に『女神様の微笑み』のような痛カウルを装着しようとするヤンキーがいるのである。もちろん彼も件のヤンキーグループの中にいる。彼は残念ながら描く方はからっきしダメだが、アトリエジョニーの取引先として深森輪業に置かれていたコピー本を見て絵心あるヤンキー仲間を誘いここにやってきたのだった。
こんな感じで口コミでマンガも結構話題になり、じわじわと客も増えてきていた。マンガを読む客も、描くのに参加したい客も。その割に原稿を描いてる客が少ないのは、読みに来る客の邪魔にならないように、あるいは集中できるように自宅に持ち帰っている人が多いからだった。ここで描いてるのはリラックスできる自宅よりここの方がペンが進むタイプかコーヒーでも飲みながら書きたいタイプ、探偵チームのようにみんなで集まるついでに描いているタイプ。つまりここで描いてるのは氷山の一角なのだった。そんな人数で描いているのだから見る見る本ができあがっていく。
そこまではよい。刑事たちも自分がモデルになったキャラとは言え所詮は脇役。どんな描かれ方をしても気にするほどではない。マンガでも軽薄キャラである佐々木刑事など現実が更に酷いのだ。悪役でない以上現実よりはマシなキャラにしかならない。まともな刑事として描かれている飛鳥刑事など文句を言うところすらない。顔が多少濃く描かれてはいるがそれがどうしたというのだ。
問題は、現実では探偵事務所事務員であり作中では先輩女探偵ということになっていてミカをビシバシ鍛えている本名不明の女探偵・ガブリエルだ。原型が無さすぎるが元は初代ルシファーである。女キャラは天使シリーズにするようだ。名前は有名な天使ならラファエルの方が響きが可愛くないかと言われたが、字面にラフが入っているのが裸婦像まみれになる今後の展開からみても縁起が悪かった。絶対ヌード担当にされそうである。
ガブリエルという名前になったことで、キャラ付けがツッコミ役ですぐにガブリと噛みつく野犬みたいなキャラになったが、それは許容範囲だったようで文句もなかった。そして、決して貧相ではないものの日本人らしいスタイルである現実から乖離し、外国人としか思えないレベルの巨乳を振り回す実質お色気担当のエロ女である。それにも不満はないどころかノリノリであった。
そしてその色気を振りまく対象としてロックオンされがちなのが飛龍刑事なのである。刑事二人組とガブリエロ……いやガブリエル探偵は、飛龍刑事に迫るガブリエル、ガブリエルを口説こうとする獅子木刑事という三角関係の構図になっていた。この辺全て初代ルシファーによる発案である。飛鳥刑事は反発したが押し切られた形だった。今のところ飛龍刑事が硬派で色気に靡く様子がないからどうにかなっている感じだが、そのうち主人公たちを差し置いてロマンス展開にでもなったら小百合に見せられなくなる。マンガの存在は大貴から確実に伝わるから隠しようもないのにだ。
そんな女好みの展開になりつつも漢マンガヤンキーが文句も言わずに描いているのはひとえにエロいからに決まっていた。少女マンガみたいな恋ではなくストレートな欲望が描かれている。これならヤンキーも許容範囲なのだ。
なお、字面が裸婦を想像させたので却下されたラファエルはぴったりな人に冠せられる予定がある。裸婦といえばぴったりなお姉さんがいるではないか。ただの変態女で被害者である彼女がどうやって探偵グループに加わるのかが疑問であったが。
「裸婦像を嗅ぎ当てる超感覚とか持ってそうだな」
そんな飛鳥刑事の非道い軽口が採用されることになりそうだった。乙女としてそれでいいのか。
「いつまでも乙女ではいられないんす。……大人になるって悲しいことね」
この反応に女子二人が食いついた。男たちとしては変態同士が惹かれあって一線を越えようが好きにしろとしか言えない。女たちが静かになった今のうちに話を進めることにした。
「それで、新たな予告状ですが」
一時ペンを置いた深森探偵は自分の所に届いた予告状を取り出す。
「何かの罠にしか思えません。そちらには違う内容のものが届いているに違いない」
以前自分だけ違う予告状を受け取り刑事たちと引き離されそうになった例もあり、そう疑って言いきった深森探偵だが、警察への予告状と見比べても一言一句違いなどなかった。
『今週はお休みにさせていただきます。次の登場までおまちください』
「じゃあ、本当に今週は現れないつもりなのですか」
「まあドレスについてはしてやられましたしねえ。ひとまず満足したんでしょうよ」
「満足して勝ち逃げ?男にあるまじき行為ですな!」
いきり立つ深森探偵。
「いや、どうみても女でしょうに」
あの時のルシファーの様子をずっと見ていれば、ぬめる池にはまったり、虫の墓場を歩かされたり、熊もしくは敵兵と間違われて一斉射撃を受けたりして精神的疲労がマックスを超越した可能性にも気付けただろうが、生憎おっさん達の目に映っていた時間はそれほど長くないのだ。まあ、あのザマを全部目撃されていたらお休みどころか引退だったかもしれない。
「そう言うことなら仕方ありませんな。……マスター。今週はもう1ページ描けそうですぞ」
「いや、本業やれよ。浮気調査とかの」
ペンを振りかざす深森探偵に佐々木刑事がツッコんだ。
「今はそっちは休業です。うちの留守電を聞けばよくわかります」
そう言い事務所直通のどこに需要があるのかわからないテレフォンカードを見せる深森探偵。一応依頼継続中の依頼人に持たせておいて緊急の連絡なんかに使っているらしいが……。
そのカードは刑事達も要らないが押しつけられるようにもらって持っている。カードを入れるだけでダイヤル不要で探偵事務所に電話が繋がる。よって、他の用途には使えない。貴重な機会として使ってみる。店の近くの公衆電話から誰もいない探偵事務所に繋げた。
『お電話ありがとうございます、深森探偵事務所です。現在怪盗ルシファー対策のため電話に出ることも依頼をお受けすることもできません。お問い合わせなどがありましたら発信音の後にメッセージを』
と言う、初代ルシファーの声がした。それを聞き届けてアトリエ喫茶ジョニーに戻る。と言うかここはそろそろマンガ喫茶と名前を変えた方がいいのではないか。そう思う飛鳥刑事だが、後に流行ることになるマンガ喫茶とはかなり別物である。
「事情はわかった。わざわざ公衆電話までいくほどの事じゃないと心から思ったがな」
「そんなわけで、早く怪盗を捕まえないと収入がありません。ここで休みとかとられると困るのですがね」
それなら怪盗など相手にせず本業に戻れとしか言えない。
「その調子だと、羽丘さんも給料出るか不安でしょうな」
慮る飛鳥刑事だが。
「そうでもないのよねえ。お金には余裕あるのよ、所長ってば。探偵は金持ちの道楽みたい」
何となく、それもそうかと思えた。深森探偵はこう見えてこの町でも指折りの名家の出身。口では困ってると言いながら、実際には別段そんなことはないという事だ。
甥っ子の昭良だってあんな一般人が寄りつかないような店を経営していても羽振りはよいのだ。その例が異常なコストパフォーマンスのチューンアップである。あんな作業場での手作業であそこまでの改造ができるとは思いにくい。どこかに秘密の研究所でも保有していて、改造費の9割は昭良が負担してそうだった。そうでなくてもこの町で貧乏なのは飛鳥刑事みたいな公務員か出稼ぎの余所者くらいだろう。
「まあ、出てこないものは出てこないのだから騒いでも仕方ありません。今我々にできることをするだけです」
余裕ある態度でそれを裏付けて見せる深森探偵であった。
「ふむ。今できることというと……」
考える飛鳥刑事。例えば、情報の洗い出し――。
「目の前にある原稿に粛々と立ち向かうことですな」
「おい」
まあ、道楽でやっている探偵なら優先度などその程度か。そう思っていると。
「私はね。このマンガがルシファーをおびき寄せる餌に必ずなると思うのですよ」
そんなことを言い出した。
「ああ、エロ探偵が出てきたからっすか?」
「しかし、裸狙いじゃないって本人が否定したばかりだぞ。それにエロ探偵ったって別に裸になるシーンがあるわけでもないだろ」
「ちょっと。ラファエルちゃんっていう名前があるんだからその名前で呼んであげてよ。お色気キャラだからってエロだけで呼ばないで。エロを連呼しないで。エロい目で見ないでよこのエロ刑事がっ」
酷い刑事たちの考察に、目下一番エロを連呼しながら初代ルシファーがぼやいた。ノリノリでそういうキャラに仕立て上げた本人が。
「誰がエロ刑事だよ」
「まさか自覚ないのか」
飛鳥刑事もさすがにフォローできない。
「すんませんっした」
それはともかく。このマンガはお色気ネタは多いが健全な少年向けマンガだ。お色気といっても裸のシーンすらない。連呼されるほどのエロ要素はないのだ。それはそうだろう。件のエロ探偵とやらもまだ事件現場でしか登場していないのだから、そんな所で脱いでいたらただの変態だ。……予告の場所でほぼ裸の姿で待ち伏せるという一幕が現実の方に存在した記憶があるが気のせいだろう。
いずれそのシーンが再現されたり、入浴シーンくらいはあるかも知れないが、今のところ言うほどエロくはないのだ。たぶん、本人も自分がモデルのキャラをそこまでの変態にしたくはないだろうし。
「そうです、探偵ラファエロだってモデルになった当人の希望でキャラには散々口出ししてます。ミカエルだって然り。ですが、ルシファーは現実で本人に否定された裸好きキャラということで強行していますし、今後も本人からすれば許容できない展開もいろいろと出てくるのではないでしょうか」
初代ルシファーからの「ラファエロじゃないってば」とのつっこみはスルーしつつ深森探偵が言う。
「つまりはこっちでルシファーを非道い扱いにしてやればたまらず文句を言いに出てくるんじゃないかってことか」
「しかし、そもそもこのマンガのことを知ってるのかね」
このマンガはこの喫茶店に漫画家やマンガ好きが集まってたことから始まったもので、そこからも内輪の口コミによる狭いコミュニティの中で成り立っている。知名度は低いはずだ。ルシファーが知っているかどうかは確かに疑問である。
「知ってると思いますよ」
そう口を挟んできたのはこの店のマスターでありマンガの首謀者であるジョナサン=リージェント氏である。彼によるとこんな出来事があったという。
とある数日前の昼下がり、この店に一人の来客があった。それは目を引く人物である。何せまずこんな平日の昼下がりには学校に行ってそうな美少女だったから。まあ創立記念日とか予備校生とか、この時間は暇な仕事をしてるとかいう正当な理由でここにいるのかも知れないし、別に学校をサボっていたとしても関係はないのだが。
そしてもう一つの目を引く理由。思いっきり挙動不審であった。それも別に珍しくない。まずこの店に来る客は基本的に挙動不審な客が多い。まあそういう人はむしろ店の中に入ると同類に囲まれることで堂々伸び伸びとし始めるのだが。逆に、何も知らずに待ち合わせ場所にこの店を指定された一般人がこういう態度になりがちだ。
そんな感じで美少女がそわそわしていればいやでも目を引く。ましてほかの客も少ない中だ。そして、じっくりと見てみれば。
「おわっ?お客様、もしかして怪盗ルシ」
「気のせいです人違いですおじゃましましたっ」
気にはなっていたが言い出せずにいたリージェント氏の代わりに、お冷を持って近付いたおんなづきウェイトレスが反応すると、電光石火で美少女は動き出した。
「待てーっルパーン!」
最初の一文字しかあっていない怪盗名を叫びながら美少女を追って店を飛び出していったウェイトレスが、汗塗れになりながら帰ってきたのは三十分後であった。日頃運動不足の癖にどれだけの大捕り物を繰り広げたやらだ。
「くぅっ、逃げられた!」
その後、着替える前にここにはシャワーはないので店の奥のキッチンで水浴びを、
「ああ、その話は別にいい」
恩納月女史のセクシーシーンはスキップされた。
とにかく、怪盗ルシファーもここに来ていたのである。その理由はやはりマンガが気になったからだろう。
「しかし、だとしたらこのマンガのことをどこで知ったんだか。余所にも置いてあるったってそんな何ヶ所もないだろ」
現状実質休業中で部外者が入れない深森探偵事務所、ヤンキーのたまり場である深森輪業。飛鳥刑事が知っているのはその程度だが。
「執筆に参加した人はみんな本を持って行って知り合いに見せたりしてますよ」
そして、作られた本はこの店で買えるのである。置いてあるという考え方がそもそも間違っていたようだ。それなら結構知っている人がいても不思議ではないか。
「好き勝手なマンガを描かれればそれを止めたいとおびき寄せることができる、いわゆる餌になると……。でもまあ、その餌はもう使ってしまったようですが」
「いや、まだ餌を見に来てすぐ逃げただけ、食いついてもいません」
「しかし。それだけで散々追い回されてトラウマになったんじゃ……。当分来そうにないですが」
「ううう、面目ねえっす……。つい情熱が迸ってひた走っちまったっす」
とにかく。マンガのことはルシファーも知っていて気にもしているらしいということ。それならば確かに、マンガの展開如何によってはいずれ再びアクションがあるかも知れなかった。深森探偵が執筆にかまけても無駄や無意味ではないのかも知れない――。
探偵チームはマンガに集中したいならすればいい。しかし刑事たちはそういうわけにもいかないのだ。捜査協力者との打ち合わせと言う大義名分があるからこんなところでサボっていられたのだが、その捜査協力者が捜査とあまり関係ないマンガ描きに没頭している状況では一緒に居ても刑事たちはただのサボリになる。刑事たちは店を後にした。
予告状で現れる場所が判っている怪盗なら待ち受けて捕まえてやればよい。たまにフェイントをかけてはくるが二代目ルシファーは律儀なことに概ね予告通りに現れているので相手にしやすい。
しかもルシファーは狙う物がしょぼい。この町には宝石やちゃんと価値のある美術品を狙う泥棒も多い。そんな中価値的に微妙な物ばかり狙うルシファーは、話題性の面では無視できないが優先度は低く設定せざるを得ない。警察が動かす人員も刑事二人以外は予告現場の警備と事後の現場検証だけだ。それでも怪盗の話題性に免じてエース二人を投入してやってるのだからそれ以上の人員投入は期待できないのだ。
現場百回とはよく言うが、今更現場で得られる情報はほとんどないだろう。それが殺人現場なら現場を立ち入り禁止にして保全できるが、しょぼい盗犯にそこまではできない。怪盗に盗まれたものがあったところだけを封鎖するにしても、あまり長引けば捜査による迷惑が被害を超えるのであまり長いことはできない。そして現場の規制を解除し通常の営業や生活を送ればあっという間に証拠の痕跡は消え去るだろう。
たとえばこの開店早々寂れていたアトリエジョニーなどは、アトリエ喫茶ジョニーとしてリニューアルまでしているのだ。流行ってないのをいいことに適当に喫茶店要素を追加したら急に繁盛しだして椅子やテーブルを適宜買い足している有様。目まぐるしく状況が変化する現場なのだ。
そもそも現場の証拠はその手口や犯人の正体に迫るためにこそ必要なのだが、今回は5W1Hの大半が既に明確なのだ。予告に記載されていた「いつ」「どこで」「何を」そして「誰が」。そして、「どのように」もまた警察や探偵がその場に居合わせて目撃している。判明していないのは「なぜ」そして、分かり切っている「誰」の怪盗ルシファーという答えの向こう側にそもそもその正体は誰かという謎もあるがそのくらい。
警察は名探偵ではない。悠長に正体を暴く必要などなく、現場で取り押さえて取調室でその正体と目的を吐かせればよい。とは言え、週一回のチャンスである現場であっさり逃げられ続けている以上、それ以外の道も探さなくてはならない。となると、正体はどこの誰かというのもやはり重要な情報になってくるのだ。
しかし正体に迫るための情報はあまりにも少ない。最大の情報である顔が判っているとは言え、顔だけでどこの誰か判るようなものでもない。それができるなら街角で見かけた美女イケメンの自宅を突き止めて突撃するストーカー犯罪がもっと横行する。まあ、それはそれで現状でも十分すぎるくらいに横行しているのだが。気合いと根性、あとは欲望のためにモラルをかなぐり捨てる反社会性さえ持っていればやってやれないことはない。もちろんやっちゃダメである。
とにかく逆に言えば、ルシファーが刑事たちに堂々と顔を晒している時点で顔で捕まることはないと確信しているとも考えられる。であればルシファーの正体が近所の高校生である可能性はほぼ消えるだろう。登下校時に校門前で張り込めばいつか見つかってしまうからだ。週末しか現れないところから、他県から週末だけ通ってる高校生という可能性があるくらいか。体格のいい中学生だったとしても条件は同じ。
大学生だったり社会人だったりすると厄介になる。大学は県をまたいで通ったりするなど高校より通い方にもバリエーションが増えるし、講義に合わせて時間どころかその日行くか行かないかすら不定になることも珍しくない。企業に至っては勤務体系もまちまちだし、そもそもこの町だけでもいくつの企業があることか。そしてその究極はその行動に規則性などない無職だ。
とにかく、探して見つかるような人物なら堂々と顔は出さない。そんなことも警戒しないほど危機感がない人物という線もまたない。正体に繋がる証拠が一切ない用心深さがそれを物語っていた。靴痕や使い捨てた道具なども、例えば大貴が詰められていたものを今はミサエがお下がりしているリュックなどもありふれた量産品だ。
リュックはほぼ新品で大した痕跡も残っていなかった。怪盗の活動のために購入し使い捨てたのだろう。資金力は結構あるようだ。一番最初の予告の延期告知に使われたラジコンヘリも安いものではない。予告の延期など予定外だったはず。そんな事態にも高価なものをねじ込んでいる。
あのラジコンヘリには気になる点もあった。最初は操縦がへたくそだったのに次に出てきた時には見違えるほどうまくなっていたのだ。それを見るだけでも複数犯なのは間違いない。ルシファーだけに囚われていてはその正体に迫ることはできないのだ。
これは断じてルシファーの正体の追求に行き詰まっているから言っているのではないのである。とは言え、協力者の方こそ何の手がかりもないのだが。
思えば、美術館の事件も恩納月コレクションほか一点の事件も盗まれた物の数は多い。美術館が保有していたためしっかりした記録が残されていてオークションなどで捌きにくい、それでいて大した価値もない雑多な美術品、裸婦像に価値を見いだせなければやはり大した物ではない恩納月コレクション。オタクと暴走族という稀な組み合わせの属性を持たねば使うに使えず嵩張り扱いに困る萌える粗大ゴミ。こんな物盗んでどうするのかと問いつめたくなるこれらを、乙女の部屋に仕舞ってあるとは思えない。特に、『月下のアルフォンソ』など盗むのに成功していたらとんでもないことになっていただろう。
ウェディングドレスだって女子高生の部屋のクローゼットに仕舞っておく代物ではない。それらを仕舞っておくスペース、あるいは足が着かないように売り捌くルート。ただの女子高生に確保できるものでもない。
初代ルシファーにも当時の話は聞いてある。自身のずば抜けた運動神経があれば捕まらないという自信でノリで始めた怪盗。こんなものどうするんだというようなものから高価なものまで盗んでいたが、換金手段を持たない宝石や美術品も盗んでどうするんだと言わざるを得ない。盗むことそのものが目的なので問題なかったというのが実際だが、盗品の管理には困ったらしい。
様々な小道具を使ってもいたが、あれらは大体手作りだった。OLの給料というそれなりの資金力でよく頑張った方だと言えよう。やはり主力は体の方だった。
今のルシファーは体力はそれほどでもない。しかし小道具が結構ゴージャスだ。ラジコンヘリもそうだし、暗視ゴーグルを使っていたこともあった。ドレスの事件の時だって、結構な距離を渡れるほど長く、包丁でもなかなか切れない軟骨のように頑丈なロープが使われた。鋸で切られたから回収できたようなもので、そうでなければあのロープも使い捨てていたのだろう。あれだって決して安くはあるまい。
一見へっぽこな少女怪盗のバックにどれだけの組織力があるやらである。少なくとも学生のお小遣いだけでは資金が足りるまい。バイトで稼いだ金を趣味の怪盗につぎ込んでいるという可能性はあるが、最低でも親くらいのバックはあるはずだ。
もちろんイノシシの血や脂が残るロープの切れ端やリュックについては調べてある。リュックは量産品で女子にそれなりに売れている。これが手がかりになりそうな感じはしない。
一方ロープはなかなかに珍しい商品だった。自衛隊や消防署、工事や清掃などの高所作業がある業種がよく購入する、プロ好みの製品だ。最初に大量に購入してその後は数を増やしたいときだけ買い足される、ちょっとだけ置いてあってもあまり買われない商品であり、ちょっとしたホームセンターなどでは手に入らない。問屋から仕入れないといけないのだ。
最近そのロープを仕入れた会社や団体を調べてみることにした。最寄りの取り扱い問屋の記録で最近の購入者に目を向ける。『クラブロック』と言う……店だろうか。
「なんだこれ、怪しいな」
これまでにストーンがらみでいろいろあったのでロックと言うワードが引っかかる飛鳥刑事。
「ああそうだな。酒飲んで踊る店でロープなんか要らねえだろうに。人を縛るにしたってここまで丈夫なロープはいらねえだろ」
パリピ要素の一切ない飛鳥刑事にはその発想はなかった。そのクラブじゃないだろ、としか思えない。しかし、そのクラブじゃないかどうかは行ってみないことには何とも言えないのだった。
なので、行ってみた。町外れの何とも崖っぷちの建物である。山際ですぐ後ろに岸壁が聳え立っていた。こんな所にナウなヤングが飲んで踊ってフィーバーできるお店は開かないだろう。騒音対策だとしても極端すぎる。そして建物も無骨すぎである。一応ロックミュージックは聞こえてくるが、むしろこんな昼間からというのはますますそういうお店っぽくない。見た目の印象は事務所だ。それも土木系の。
中にいたのは日に焼けたマッチョな兄ちゃんたちだった。この若さはちょっとそういうお店っぽいところだが、内装はむしろやはり土建屋である。
「ちょっと話を聞かせてもらいたいのですがね」
警察手帳を見せながら声をかける。
「なんでしょう」
「こういうロープを使っているところを訪ねて回っているんです。ああ、そこにありますね」
飛鳥刑事の視線の先には件のロープが大量に置かれていた。壁際の棚に金具類と一緒に巻かれたロープが並び、室内の長テーブルの上にも雑に巻かれたロープがあった。
「クラブロック、とのことですが……ここはどういったクラブで?」
「ロッククライミングのクラブになってまして。まあ見ての通り、実際に登っているのは崖ですが」
確かに、外の崖をロープで登っている人影がいくつか見える。夕方と言うこともあって学校が終わった子供たちが多いようだ。もう少し後の時代になればボルダリングやフリークライミングが流行してくるのだが、この頃はまだ壁面を登ると言われて思い浮かべられるのはほぼ「ファイトー!」「いっぱーつ!」のコマーシャルである。これだけの子供たちが壁に向かっている姿はまだまだ珍しい光景と言えた。
「子供ばっかりなんですね」
「え、ええまあ」
なんか歯切れの悪い兄ちゃん。
「平日のこの時間じゃまだ野郎どもは仕事の真っ最中だろ。……夕食の買い物ついでに立ち寄る主婦とかがいないのは……」
「汗塗れでスーパーに買い物には行けないだろ。スーパーの帰りに寄ってもナマ物とか傷むし。なるほど、この時間じゃ子供ばかりで当然か」
「ええもうその通りで」
さっきからこの兄ちゃん、なんか奥歯にものが挟まった感じなのである。怪しい。ひとまず雑談で探りを入れつつ警戒心を解こう。
「何でクラブロックという名前に?ロッククライミングクラブにすれば分かりやすかったでしょうに」
「クライミングっていう言葉はそのまますぎて使いたくなくて。ちょっとひねった結果なんです」
「クラブクライムじゃ登るのか犯罪なのかわかんないっすからね。そんでどちらかというとクリフ登りなのクラブロックになったと」
冗談混じりにいう佐々木刑事もさりげなくドアの前に立って逃げ道を塞いでいる。climbとcrimeは英語では発音が違うが日本人にとってはどっちもクライムだ。
「犯罪集団だと思われるのは冗談じゃないですが、そうじゃなくて、その。クラブクリフって言いにくいじゃないですか」
「そうですかね」
「十回言ってみてください」
「クラブクリフ。クラブクリフ。クラブクラフ……っと」
「ラブクラフト全集って本があったから恋愛小説かと思って読んだら全然違ったっけなあ」
「余計なことを言うな、気が散る。クラブリフト、クラブリフトクラブリフトクラブリフトクラブリフトクラブリフトクラブリフト。よし、言えた」
「言えてません、途中から変わってます。リフトで登ってどうするんです」
飛鳥刑事は論外とは言え、まあまあそこそこ言いづらいのは確かだった。まあ、それで困るのは連呼することもあるかも知れない従業員くらいだろう。
「まあ、そういうことなら納得です。いやあ、私がよく関わる犯罪組織が石とか岩とかそういうのがやたら好きでしてねえ。ついつい、関係あるのかなと勘ぐりたくなっちゃうんですわ」
「へ、へえー。それはその、大変ですねえ」
相変わらず怪しい兄ちゃんたちの反応を聞きながら、飛鳥刑事は長テーブルの上のロープを何気なく手に取った。突然事件の香りがした。ロープの先端に血が付いていたのだ。
「あっ、それは!事件性はないのです!その血はイノシシの血でして!」
「……我々が探しているのもまさにこんな感じでイノシシの血の付いたロープだったんですがね」
「ああっ、しまった!」
問題は血が付いていることではなくその血が付いた経緯だったのだが、テンパりすぎて血自体に事件性がないアピールのためについうっかりいらない真実を話してしまったようだ。
「何でこのロープがここにあるんですかねえ?」
「ビンゴだったってのは間違いねえな」
「とりあえず、お名前をお伺いしても?」
不適な笑みを浮かべる刑事二人。
「い……佐藤です」
「伊藤です」
「加藤です」
「うっわ嘘くさっ」
なぜ伊藤ならともかく佐藤というのに「い」と言い掛けたのか。石とか岩とか言おうとしたに決まっていた。というかさとうは以前砂島と言うのがいたのでギリアウトである。
もっと詰問しようと飛鳥刑事が身を乗り出したとき、佐々木刑事は外から近付く足音に気付いた。このままドアが開かれたら内開きのドアに当たるので少し避ける。
「千々岩さん、課題終わりましたよ。あ、石廊崎さんと石南花山さんも帰ってたんですか」
必死に隠そうとしていた兄ちゃんたちの名前を気持ちいいくらいにぶちまけながら元気よく入ってきたのは……ルシファーだった。千々岩はともかく他の二人は石の字が入っていることに気付くまでにしばらく掛かりそうな名前だった。なお聡明なる読者諸君は問題なくこの漢字が読めていると信じている。読めていないなら目の前の箱なり板なりで調べていただこう。
「あれ、お客さん……ってなんで刑事がここに!」
カラフルなスポーツウエアに身を包んだ黒くないルシファーはなんか新鮮で、あまりにもただの女の子である。
「ここにもいるぜえ?」
「うぎゃあああ!」
ルシファーが開けたドアの裏から顔を出す佐々木刑事。
「ここは俺たちが食い止める、逃げろ磨輝!」
石廊崎の叫び声を背に磨輝と呼ばれたルシファーが、言われるまでもなくとっくの昔にドアから外に逃げ出していた。なおその人物が石廊崎だと特定できたのは、さっきうっかり「い」と言いかけた自称佐藤だからである。苗字がいで始まっているのは石廊崎ただ一人。
「待ちやがれ!」
ドアの横にいた佐々木刑事が、それに続いて飛鳥刑事も兄ちゃんたちに背を向けてルシファーを追って飛び出していった。男たちが言った俺たちが食い止めるとは何だったのか。
外に飛び出したが、ルシファーはすぐに崖際に追いつめられた。――いや。
「みんな!逃げて、警察よ!」
「けいさつ!?」
「つかまっちゃう!」
「つかまったらたべられちゃう!」
子供たちは警察を人食い鬼か何かと勘違いしていそうである。そんな声に応じる佐々木刑事。
「男は食わねえよ!女も未成年はな!」
鬼はいたようである。とにかく、ルシファーと子供たちは蜘蛛の子を散らすように、いやむしろ散りかけた蜘蛛の子が一斉に引き返すように、糸ならぬロープを手繰って崖を登り始める。
警察を見て逃げ出すということはそういうことなのだろうか。あの男たちはストーンの一味であり、子供たちは泥棒とか。しかし今は、もう現役なのかまだ予備軍かもわからない顔も知らぬ子供たちよりルシファーただ一人を追いかけるべきなのだ。
「俺たちも行くぞ!」
「おうよ!」
二人の刑事はロープを掴み崖に足を掛ける。そしてロープを手繰り寄せて崖を上り始めた。
どれほど登っただろう。下を見ると2メートルは優に登っていた。3メートルに届くかもしれない。
飛鳥刑事と佐々木刑事は顔を見合わせ、頷く。
「今日はこんなところで勘弁してやるか」
本音からすれば今日はこんなところで勘弁してください、という感じであった。言うまでもなく、ルシファーを含めた子供たちは全員軽快に崖の上に逃れた後である。
「だな。こんなところで鬼ごっこをして事故で怪我人が出たら話にならねえ」
その危険がある筆頭が自分たちなのは言うまでもない。追跡断念の決断の半分はやさしさでできていた。自分への。
そして事務所の方にも戻ってみたが、この短い時間にもぬけの殻になっていたのだった。
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