
Episode 8-『帰ってきた怪盗ルシファー』第10話 ルシファーの真実
視界が悪くルシファーの姿は見えない。視界が悪いのは自分たちが散々吹かしまくった煙草のせいであり、ルシファーが見えないのは天井裏に居るからであって因果関係はない。
ルシファーが天井裏に籠もっている限り刑事達には手が出せない。ここ数回の遭遇で刑事達は悟ってしまったのだ。加齢、そして喫煙。かつて初代ルシファーを追いかけたときのような活動力は失われたのだと。
だからこういう時は若いのに任せるのが吉だ。今や爺にとけ込んでる深森探偵が少年探偵団に連絡しているのを聞いていた。なので、今は様子見でいいだろう。まあ少年探偵団の片割れは箱罠の中で噎せているのだが。
欠けた片割れの代理を務めるのは初代ルシファーである。今や一児の母とのことで断じて少年ではなく年齢も飛鳥刑事とそうそう大きな差はないはずだが、何せ元の身体能力が段違いだし何より喫煙していないのが大きい。活動力は若者のミサエ以上である。現に天井裏を軽快に進む初代ルシファーにミサエがヒイハア言いながらやっと付いてきていた。
「探偵ガールズ見参!」
活動力も大したものだが、今やガールの母親をやっているというのに自分でガールズを名乗っちゃう胆力も相当だった。初代の貫禄を見せつけてくれる。そもそも、探偵組に入ってはいるが事務所で事務員のバイトをやっているだけであり、みんなの認識も探偵ではなく元怪盗である。つまりたった今挙げた名乗りを構成する全てのワードが偽りなのである。
「ちょっと。元怪盗がなんで探偵面してるの。探偵とコンビ組んでないで組むならあたしとにすればいいじゃない」
ルシファーの難癖もごもっともであった。最初に陰口で年増扱いしていなければその道もあったかも知れない。
「あんたと組んだって脱がされるだけじゃない。人の名前使って性癖をさらけ出すんじゃないわよ、変態娘!」
今までその可能性はあると思っていたが状況証拠しかないので確定まではされていなかったそれを、初代ルシファーはついに本人にぶつけてしまった。
「なっ、ななっ……なんてことを!」
「ミサエちゃんだってあんたみたな変態とは組みたくないって。ねえ?ふふん、残念ねえ、ミサエちゃんが着ると思ってミサエちゃんサイズのドレスを予告したのに、それに感づいて着るの止められちゃって。本当のお目当てがドレスを奪うときに拝めるミサエちゃんの裸だってのはお見通しよっ」
「違うからっ!」
手出しのできぬ場所で繰り広げられる初代ルシファーの暴挙だが、男からはちょっと切り出しにくい話を本人に確認するチャンスとして見守っておくことにする。なお、向こうの声が丸聞こえであるようにこちらからも口出しくらいはできるが、今はその時ではないのだ。
「裸が続いてたのはたまたまだから!『月下のアルフォンソ』もインパクトのある絵で話題だって紹介されてたからだし、女神のやつだって名前が似てるのに気付いて思いついたからだし!どんなのかは知らなかったもん!」
上で勝手に進む会話にさながらラジオを聴きながら意見をするリスナーたちのように下の男たちが意見を交わす。
「情報ソースは聖華タイムスですか」
「あの髭親父の絵がルシファー以外で話題になったことなんてあったか?」
あの髭親父がああ見えて実は意外と若いとかいう点はおいといて。
「そんな事実はありません。ですが宣伝文句というのはそういうものですよ。話題になるようなインパクトはありましたからな、嘘ではないです」
「話題になった」と書けばそれは嘘だが、公開前に「インパクトで話題!」で止めておけば「話題(になること間違いなし)!」「話題(になりますように)!」「話題(にしてください)!」という意味だったと言い訳できる。言葉のトリックである。そもそも、学芸員の間くらいでは話題になったからこそ、そう書かれたともいえる。
一方『女神の微笑み』は地元出身の漫画家・輝野魂悟朗が新刊を出すという記事でデビュー前に描いた作品として聖華タイムスに紹介されていたし、『女神様の微笑み』は読者の投書コーナーで買い手を探していたのだ。間違いなく新聞が情報ソースである。そして、新聞には文字での情報しかない。『女神の微笑み』だけは小さく写真が掲載されたが、投書コーナーには文書で投稿すれば文字だけだ。『月下のアルフォンソ』のようなタイトル詐欺の出オチ作品は事前に写真を見せたらもう誰も見になど来ない。
そんなこんなで新聞だけ見て盗むものを決めていたのならそれがどんなものかを事前に知りようがないのも無理からぬ話であった。美術館は入館料を取られるので気軽に下見もできないだろうし、個人所有の絵画を見せてもらうのも直接交渉なしでは難しい。アトリエジョニーは見るだけならタダだろうが、あんな流行ってない店に踏み込んだだけで顔を憶えられるし、そもそも入るには勇気のいる店だった。やはり下見はできなかったのだ。下見できる獲物を狙えと言いたいところだが、情報源が新聞くらいではそうも言ってられないのだろう。
「それじゃあ、ドレスを選んだのはミサエちゃんに着せて脱がす為じゃないって言うの?いざとなったら自分で着て脱ぐって言う話もなし?」
「違うってば。っていうか後半のは初耳だけど!?そんなこと誰が言ったの!?」
下で聞いていた刑事たちは言い出しそうな人の方を見た。その人は手を挙げて言う。
「私です」
やっぱり深森探偵だった。
「いざとなったらこの場で生着替えをして自分の裸を晒していくのも変態ルシファーとしてはアリかもしれないな、と」
「ぶっちゃけアリえないから!変態前提で予想を立てないでくれる!?」
天井を踏み鳴らすルシファー。そこに初代が横槍を入れる。
「もしもあんたが本当に変態だったら怪盗ルシファーから怪盗アスモデに改名するように勧めようと思ってたんだけど」
「アスモデ?なにそれ」
「色欲の悪魔」
「誰が色欲よ!」
そもそもこの悪魔も新妻の初夜を邪魔しまくっただけでいやらしいことはしてないのに理不尽に色欲の悪魔扱いされた悪魔だったりする。とにかく理不尽に変態なイメージをつけられていた二代目ルシファーも裸好きの変態少女ではないと言質がとれたということだ。
「とりあえず、裸体は晒さなかったが本音は晒してくれたってことでいいのかな」
飛鳥刑事がひどいコメントでまとめに入るが。
「変態丸出しで歩いていても、それを人に指摘されると恥ずかしいパターンかもよ」
佐々木刑事が横槍を入れた。
「それでうまくまとめたつもり……ってそこ!変態に戻そうとするな!」
「なあ。一応幼稚園児がいるんだし、長々と変な話をしないでくれるか。息子の教育に悪い」
飄々とした他人事の真顔で飛鳥刑事が言った。
「変な話を始めたのはそっちでしょ!はあ……いいわ、やめましょこんな話。で、何の話をしてたんだっけ」
男たちは誰も憶えていなかった。
「ルシファー同士で組まないかって話だったよ?」
変な話の間はじっと天井裏で息を殺していたので、声しか聞こえていない下の男たちからはそこにいることさえ忘れられていた、あるいは気付かれていなかったそんなミサエが初めて声を発する。
「ああ、そうだったかも……。さんざん変態呼ばわりしてくれた相手と組む気はもう起こらないけどね」
「変態は誤解だったってわかった今なら組んであげてもよかったんだけどね。年増呼ばわりのことは忘れてあげてもいいし」
「変態は誤解だけど年増は事実でしょ」
初代は歩み寄る態度を見せたが二代目はその気はなしである。
「どさくさに紛れてあちらに寝返る算段をつけるんじゃない。年増呼ばわりは自業自得だ」
飛鳥刑事の言葉に初代ルシファーが歯噛みしているのが天井越しでもわかった。
「いいもん、あたしにはミサエちゃんがいるもん!ばっちり鍛え上げてゆくゆくはシン・二代目ルシファーとして大活躍してもらことになってるんだから!」
「うえっ!?」
ミサエの驚く声はそんなことにはなっていないことを如実に示していた。
「その娘に怪盗は無理だぜ?ちょっとトロいからな」
そう言う佐々木刑事はする事がないのでまたタバコを吹かし始めている。探偵チームの二人は天井の穴からはちょっと離れているので煙の直撃はない。
「ミサエ君はうちの事務所のホープとして探偵になってもらわないと困るのですがね。……ミサエ君。万が一ルシファー側に寝返った場合は探偵ミカエルのヌードの絵は作中に登場することになりますぞ」
アトリエ喫茶ジョニーで描かれている同人マンガのキャラで明確にミサエがモデルの探偵少女ミカエルことミカは、パパが描いた自分のヌードの絵をルシファーに盗まれたということになっているのだが、作中では既に盗まれた絵であり盗まれる時の描写があるわけでもない。ミサエへの配慮もあって絵自体はまだ登場していないのだ。
「あたしの分身を人質にしないでもらえます?」
「なあに。我々を裏切らなければいいだけの話です」
一番の悪魔はこいつだと誰もが思える発言である。
「聞いたとおり、ミサエちゃんは私たちに逆らえない、完全にこちらサイドなの。あんたの誘いに乗ることはないわ、諦めることね」
悪魔ぶりで本家が負けられないと言わんばかりに初代ルシファーが言い放つ。
「えっ?じゃあまさか本当にその女と組む気なの?あたしはどうすればいいの?」
それに狼狽える二代目ルシファーにミサエは冷たく言う。
「私、別にあなたと組んだ覚えはないよ?」
「……そうでした」
あまりの冷たさにルシファーもクールダウンした模様。
「確かに誘われたけど断ったからね?盗んだものの半分を山分けっていうけど、あんなおっさんの絵なんか下半分どころか上半分だっていらないし」
手に入れた世界の半分で勇者を寝返らせようとした何かのラスボスのように、ミサエに誘いをかけていたようである。あのラスボスだって、そいつをもう倒せるほど強いから目の前にまで辿り着けたのだろう勇者があそこで「はい」と言ってしまうような奴なら、世界を支配下に入れた途端に勇者が裏切りラスボスを始末して世界の全てを独占するに決まっている。まして世界の半分を差し出すくらいにビビってるのがバレバレで足元を見られるに決まっていた。悪手にもほどがある。所詮はトカゲの化け物である。
そしてルシファーの場合は盗んだ物の半分を差し出されたところで、ぜんぜん心が動かないわけである。清潔感に欠けるおっさん(実年齢は若い)のヌードの絵、それよりは美しいが価値はあまりない裸婦像。今のところは泥棒ならびに変態の汚名に勝るだけの価値を見いだせないことだろう。変態については誤解でありあんな入手履歴になったのもたまたまだとの話だが、信用は初手で失われている。その信用を取り戻すには長い時間が掛かるのではないだろうか。
天井裏で言い合いをしている間にも静かに警察は動いていた。高くて手が届かないからとその手をただ拱いていたわけではない。
河津邸にはボウガンがあった。猟銃があるのでそれを差し置いて猟に用いられることなどないただのインテリアではあるが、たまに的当てゲームなどに使うのでいつでも使えるようにメンテナンスはされていた。
河津氏がそのボウガンを使い、天井裏に先ほどルシファーが落としたフックを撃ち込んだ。フックは無事に天井に引っかかる。
「今です、刑事さん!」
「任せろ!」
ロープを昇り始める飛鳥刑事。力強くロープを握るとぐっと体をたぐり寄せ……。
「……中年に何をやらせようとしてるんだ」
十年前でもこんなことができたかどうか怪しいのだ。この歳でそれは無理であった。よく任せろなどと言えたものである。
そうこうしている間にルシファーも事態に気付き、引っかかるフックをはずそうとするが、下の飛鳥刑事が文句を言いながらも手を離していないのでびくともしない。ミサエと初代による雑談攻撃は警察の動きから意識を逸らすためのものだったとルシファーは悟ったわけだが、そこまで考えてもいないしそれほど連携できてもいないので気のせいである。
その間にも警察は次の作戦に移行していた。天井の穴の下に集まった警官たちが、飛鳥刑事の踏み台となるべく人間ピラミッドを形成したのだ。あくまでも自分たちが天井裏にいく気はなさそうである。そんなに中年を働かせたいのか。いや違う。自分より偉い刑事に花を持たせたいのだ。例えその花がプランターごとでちょっと重くてもお構いなしで。
大広間の天井は高い。人間ピラミッドの上で佐々木刑事が押し上げてようやく天井に手が届いた。ここまでくれば中年の体力でも何とかなる。だがしかし、ここで一つ問題が発生する。飛鳥刑事の頭に乗っていた鹿の頭の被り物が邪魔で天井の穴に入れないのだ。
被り物を外せばいいだけであった。天井裏に乗り込んでの飛鳥刑事の第一声は。
「おいお前ら、喋ってないでルシファーを捕まえろ」
何もしない仲間への苦情であった。
飛鳥刑事は懐中電灯でルシファーの姿を探す。そして理解した。なぜ女子らは天井裏で何もせず口だけの争いを繰り広げていたのかを。天井裏には惨状が広がっていた。足下には無数の朽ちた骸。そしてそれを生み出したものの姿が至るところに。
蜘蛛の巣だらけだった。そして蜘蛛を養うに足るだけの餌もまた。ここは郊外で自然豊かだ。生き物もたくさんいる。虫くらいでガタガタ言っていては生活していられない。とはいえ夏場は特に不快な虫が多すぎるので定期的に燻煙剤で一網打尽にする。室内の死骸は掃除で除去される。しかし天井裏はどうなるか。そこはそこで掃除屋がいる。虫たちである。餌場となった天井裏にはまた虫が寄って来る。するとまた死の煙が屋敷を満たすのだ。
こう書くと凄そうだが、足下に気をつければ虫は踏まずに済むくらいの余裕はある。それでも女子が踏み込みたいような場所ではあるまい。この現状を見て皆足を止めていたのだ。
それはおっさんさえも躊躇させる光景だった。だがおっさんではちょっと躊躇するだけで終わりである。蜘蛛の巣を突っ切り虫を踏み潰しながら突進するのも難しいことではない。
「ひいいいいい」
これにはルシファーとて逃げずにはいられない。飛鳥刑事がこちらを照らす懐中電灯のおかげで足元は見やすいが、見たくもない現実も照らし出されている。全力のやけくそで走り出すルシファーだが、動きは鈍い。梁の上に逃れたルシファーの足を飛鳥刑事の手が掴んだ。
「ひゃああ」
柔らかなふくらはぎに指が食い込むが、ルシファーが足掻くと思ったよりもすんなりと足は抜けた。その原因は飛鳥刑事の手に残された。薄い深緑色のぬめりとして。
「なんだこれ、気持ち悪っ」
「レディの体に触っといて感想がそれってひどくない!?一応言っとくけど、それ池にはまったせいだからね!」
言われて飛鳥刑事は思い出す。この邸宅の庭には小さな池があったなと。
「なんではまるかね」
「そこに池があるからよ、悪い!?」
まあ、何かが悪いから池に落ちたのだ。池がよく見えないくらいに目が悪いか、池の場所も調べないくらいに手際が悪いか、たまたま足を着こうとした場所が池と言うくらい運が悪いか。
ルシファーは飛鳥刑事の頭上を越え飛鳥刑事が通ってきた穴に飛び降りた。下では警官の人間ピラミッドと佐々木刑事が待ち受ける。人間ピラミッドは手も足も出したら崩れるので待ち受けているとは言えないが。
ひとまず障害になりそうなのは佐々木刑事だ。天井裏から牽制の蹴りを放つルシファー。
「へっ、若い姉ちゃんの蹴りなんて足を掴んでくれって言ってるようなものさ……って気持ち悪っ……おわっ」
掴もうと思っていた足から逃げた佐々木刑事は人間ピラミッドの上で仰け反るという無理な体勢のせいでバランスを崩した。
「池のせいだから……ってまだ触ってもいないじゃないの!」
「池の水だけでそうはならんだろ、ゴミだらけだぞ」
「えっマジで!?」
ひとまずルシファーは佐々木刑事が落ちて空いた場所に飛び降りそこからさらに床に降りた。
「本官はこそ泥に踏まれるために這い蹲ってる訳じゃねえであります!」
「本官は這い蹲って女の子に背中を踏まれて満更でもねえであります!」
踏まれた警官の反応など気にせず、ルシファーは少し離れた場所でゴミだらけという足の状態を確認する。
濡れ手に粟という言葉がある。楽してごっそり利益を得るという言葉であり、粟粒のような小さく軽いものは塗れた手で触ると一杯付いてくるところからきている。
それは濡れている部位が足でも同じである。そして天井裏には干からびて軽くなった虫の死骸が散らばっていた。大部分はただの埃であり見てわかる虫関連のゴミなどいくらもないのだが、主張が強いので虫だらけに見えるのだ。
「ぎゃああああ!」
自分の足の現状を知ったルシファーは謎の部族に踊りのように飛び上がった後一目散に大広間の外に駆けだした。
「追うぞお前ら!」
「了解であります!」
体勢を立て直して号令を飛ばす佐々木刑事に人間ピラミッドを散開させた警官たちが続く。そして。
「おい待てっ!行くなら俺を降ろしてからにしろ!おいー!」
飛鳥刑事は続くことができなかった。
「ふふふ、引っかかったわね」
警官を率いて駆ける佐々木刑事が通り過ぎた後、廊下に飾ってあった――置き場がなくてそこにあっただけかも知れない――熊の剥製の裏からルシファーが現れた。
作戦通り、そう言わんばかりの科白とキメ顔だが、虫だらけを意識して思うように動かない足での全力疾走を早々に諦めて、目に付いたものの裏に隠れたらいい感じで保護色だったため、うまくやり過ごせただけである。
処置のしようもない足の汚れは一旦意識の外に追いやり悠々と大広間に戻ったルシファー。待ち受けるのは深森探偵率いる猟友会鉄砲隊と檻の中の大貴。そして檻の上からぶら下がったままのフック付きロープで下に降りようとしている飛鳥刑事である。
「あのロープも回収しとけばよかったなあ」
そう独りごちつつドレスの箱罠に駆け寄るルシファーに鉄砲隊の空砲一斉射撃。それに一瞬怯んで動きを止めるが。
「ここ、虚仮威しなんて怖くないんだから!」
怖いのに強がっているのが丸見えである。いやいっそ自己暗示をかけているのか。前進を再開するルシファー。
箱罠の檻は獣には開けるのが難しいが人間ならさほど難しくない。入り口を開けて体をねじ入れる。
「ドレスはわたさないぜ!」
檻の中では大貴がドレスをがっちりとホールドしている。死んでも離すもんかという覚悟で。
ルシファーはそんな大貴ごと檻から引きずり出した。
「ひきょうだぞ!」
どう見てもただの正攻法であった。
苦労しつつロープを降りていた飛鳥刑事もロープの中程から捨て身のダイブで檻の上に落ちてきた。力尽きて落ちただけかも知れない。そのまま床に転げ落ちた飛鳥刑事に続き身軽に飛び降りてくる初代ルシファー。
「逃がさないわよ、偽者……ひゃあっ!?」
格好良く箱罠の屋根に着地した初代ルシファーだが、組み立てただけの箱罠はそんなに頑丈ではない。この緩さのおかげで中で獣が暴れてもその衝撃を散らせるのだが、今回はそれが悪い方に働き着地の衝撃でちょっと歪んでバランスを崩す初代。その間にルシファーは立ち上がる。
「ドレスは頂いたわ!」
大貴ごとドレスを抱え扉に向かって走り出すルシファー。しかし扉の外には警官と佐々木刑事が現れる。一度はルシファーの横を通り過ぎた佐々木刑事達だが、現場からの連絡で速やかに帰ってきたのだ。
「このまま逃げられると思ったら甘えぜ」
「もちろんそんな甘いことは考えてないわ」
ルシファーは踵を返した。背後から迫っていた初代と交差する。
「捕まえた!さあ、私の娘になって真の二代目ルシファーに生まれ変わるのよ!」
「いやだ!怪盗にも娘にもならないぞ!」
だが初代の手にしっかりと抱きしめられていたのはドレスから引き剥がされた大貴であった。
ルシファーは窓に向かって走る。その時、深森探偵の声が轟く。
「飛鳥刑事!上を」
それに釣られて上を見る飛鳥刑事。上では天井裏に最後まで残っていたミサエがスカートを揺らしながら降りてくるところであった。
「見てはいけませんぞ……手遅れのようですが」
「英語なら最初にDon’tが来て判りやすいんですがね、日本語はこう言う時に都合が悪いですな……。大丈夫、今日もブルマは穿いてました」
しかしそこはパンツが見えてなければいいと割り切れないのが乙女心だ。ミサエは静かに天井裏に帰って行った。
そうこうしている間にルシファーは窓に到達していた。立ち上がろうとする最中に初代に頭を踏み台にされてまた座り込んでいた飛鳥刑事も立ち上がっている。しかし一番最初にルシファーに向けて動き出したのは佐々木刑事と警官達である。
「逃がさないぞ!」
「見逃すものか!」
警官たちは口々に疾駆する。何人かは天井の方を見ていたようだがが気のせいだろう。ルシファーは警官隊の到達までには窓を開けて身を踊り出していた。
その間、猟友会鉄砲隊の皆さんはルシファーに銃を向けたまま、特に何もしていない。いつもなら寝ていて然るべき時刻に起きているのに軽く酒まで入っている爺たちに、若者との追いかけっこを期待するのは酷どころか残酷である。
「やられた!だがまだ庭に仕掛けられた罠がある……!」
そんな佐々木刑事の乗り出す窓の隣を飛鳥刑事があけて懐中電灯で外を照らす。
「……いや。すでに引っかかって抜け出しているようだ」
「違うもん!見破って解除したんだもん!」
連続で引っかかったのでそれ以降慎重に動き、いくつかは見破って解除しているので強ち嘘ではない。
そんなルシファーは窓から伸びて外に広がる闇の向こう――おそらく山林の木のどれか――に繋がるロープを伝って移動している。
「よし、ロープを切れ」
「ちょっと、やめてよー!」
非情な判断を下す佐々木刑事。
「刃物がありません!」
「本官が歯でいきます!」
「いや、ライターで炙ります!」
佐々木刑事の指示はあくまでもルシファーを揺さぶる目的で、実際にロープが切れるとは思っていなかった。……のだが。
「それなら私にお任せを!」
大広間の入り口に血で汚れたエプロン姿のカナエさんが現れた。銃声を聞きつけて押っ取り刀――というか手にしているのは肉切り包丁だ――で飛び出してきたようである。正直、怖い。
血と脂で切れ味の落ちた包丁でも時間は掛かれどロープは切れる。ゴリゴリと音を立ててロープを切るカナエさん。
「膝部分の軟骨を切るような手応えです!」
「そういう感想は結構です」
膝の軟骨を切ったことはないのでピンとは来ないが、とりあえず怖い。
ブツンとロープは切れたがルシファーはすでに渡り終えていた模様。
「ロープの回収が楽になっちゃった、ありがとー」
ナメた発言をするルシファーだが、ロープの切り口が脂と血でべとべとなのは許容できるだろうか。一方、警官たちが窓の外に気を取られているうちにこっそりとロープを降りるミサエの姿があった。
「今回は何があっても諦めずに挑戦を続けたルシファーの粘り勝ちだったな」
「裸好きとかいう勝手なイメージを払拭したくて頑張ったのかも知れねえな」
諦めた刑事たちが総括を始める中。
「駄目よ諦めちゃ!諦めたらそこで試合終了よ!」
初代ルシファーはまだ諦めていなかった。開け放たれた窓から外に広がる闇に飛び込み消えていった。そして。
「きゃあああああ!」
絹を裂くような悲鳴の後全速力で戻ってきた。
「闇の中にっ……不気味に光る目がたくさんっ……!」
なぜか夜中にわざわざ民家のそばに現れがちな鹿の群に遭遇していたのである。初代ルシファーと二代目ルシファーの今回の試合は、無関係な鹿によるブロックにより終了した。
ルシファーを捕まえられなかったばかりか予告の品であるドレスをしっかり奪われてしまった。今回は完敗である。
「ドレスは残念だったけど……せめて盗んだあの子が自分の結婚式で着てくれることを願いましょ」
登美子さん――河津夫人である――は少し寂しそうに言う。
「流石に人生の晴れ舞台で盗んだドレスって言うのはないんじゃないですかね」
「自分がルシファーの正体だと言ってるようなものだしな」
ウェディングドレスに使うつもりで盗んでいたなら、少なくとも時効まで結婚できなくなりそうだ。まあ十五でお嫁に行くのも普通だった時代は既に遠いし、大した問題でもないかも知れないが。
今回は河津氏率いる猟銃爺団の協力もありかなり強力な態勢が敷けたと思うのだが残念な結果に終わった。現場検証の傍ら反省会に突入する。
「正直たかがガキの遊びの模倣犯だと思ってルシファーを舐めてたが、場数を踏んで結構手強くなってきてやがる」
「それよりも俺は寄る年波ってのを感じる日々だ」
「それに、前提が間違っていたのですから作戦が空振りに終わったのも無理からぬ話ですな」
変態前提の変な作戦を立てたのは探偵チームのはなしでこっちは関係ないと思う飛鳥刑事だが、ミサエがドレスを着るとルシファーに脱がされると最初に言い出したのは飛鳥刑事であることを自分で忘れている。
「だから私がドレスを着ていれば……!」
悔しそうに言うミサエだが。
「それはミサエくんの裸が目当てじゃなくてもドレスを奪うには脱がすしかないのは変わらないがね」
「う。で、でもあたしがしっかりガードしてれば盗まれなかったもん」
確かに少女怪盗でも抱き抱えれば余裕で連れ去れた大貴よりは抵抗できたとは思う。しかし絶対安心かは保証できない。気絶させたりして身動きを封じれば何とでもなるからだ。
「今回盗まれたのはドレスだけか?」
「それは確認してみないと何とも言えないが……少なくとも一つ消えたものがあるな」
「ん?何だ?」
「これだ」
飛鳥刑事は大貴の頭を指さした。
「……ああ、確かに」
飛鳥刑事が頭に鹿を、佐々木刑事が猪を乗せていたように大貴も頭にキツネを乗せていたのだ。それがなくなっている。キツネは害獣駆除ではなく怪我していたのを保護したものの助からなかったパターンなので希少な一点ものなのだ。まあまあな損害だった。
それはおいておくとして、本格的な被害の確認がされる。目立った被害はドレスくらいのようだ。キツネの頭もルシファーが逃げ出すときにロープを縛り付けておいた木の下に『怖いのでお返しします』というメッセージとともに置かれていて戻ってきたのである。これがウサギとかだったら持って行かれていたかも知れない。
そうこうしているうちに朝が訪れた。怪盗の時間は終わり、爺たちの活動時間である。刑事たちも一旦切り上げる。
「最後に一つ。俺としては解明しておきたい謎があるんですが、いいですかね」
佐々木刑事が言う。
「カナエさん。この写真に写っているのはあなたではないですか」
そこには賞状を掲げた少女――ダジャレではない――の姿があった。
「ええ、そうですね」
「あなたが表彰され、それを記念して撮られた写真と言うことですね」
「そうですけど、それが何か?」
「賞状に書かれた名前はカナエさん、あなたの名前のはずです。しかしここにはこう書かれている。野村幸子……俺はこれを見てあなたの正体に気付いてしまった……」
「あら。聞かせてもらいましょうか」
「あなたは……人妻だったんですね」
佐々木刑事にとってとても残念な、そしてとてもどうでもいい事実であった。
「ワシんとこの嫁じゃぞ!」
この金江菊太郎さんの三男・龍三郎の妻で金江幸子というのであった。なお、写真に写っているこの屋敷で行われたイベント、今風にいえばジビエ料理コンテストである『猪鹿肉調理会』で旦那と出会い、さらには河津邸に雇われる切っ掛けにもなったのであった。
「口説けもしない人妻のために俺はこの手を血に染めてしまったのか……!」
「でもそのお肉ならあたしも分けてもらったし」
そういう初代ルシファーも人妻であった。
「そう……。今回は完敗だったわけね」
帰宅した友貴から報告を受けた小百合は残念そうに言った。そしてもっと残念そうに言う。
「お肉のお裾分けも今日でおしまいなのね」
獣臭いとかどう調理していいか分からないとか言いつつも、ちょっとは助かっていたのである。
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