
Episode 8-『帰ってきた怪盗ルシファー』第9話 マンガとガンマン
友貴が家に帰った時には既に夕食の準備は終わっていた。鹿肉のカレーは明日以降になる。
「ルシファーの今度の予告はドレスですって?今回はまともそうね」
結婚退職で民間人となった小百合には直接そういう話はいかなくなった。テレビや新聞頼りでようやく話が来たらしい。
「まともな狙いかどうかは怪しいがな。みもっさんはドレスを守るために少女探偵が着たところを引っ剥がすつもりだって推理してたぞ。だから着るのは禁止にされてたな」
もちろん、事件に関する警察の捜査内容は秘密である。だが今友貴が口にした内容は、事件のことだが警察の捜査内容ではなく、民間人である探偵が推測した内容とそれを元にした探偵少女の行動への決定でしかない。警察の方針はまだ別にある。
その民間人である探偵が推測した内容とそれへの対策すなわちミサエがドレスを着るの禁止という決定に基づき、大貴にも予告の内容を解禁したのだった。これで大貴が良くない物を目撃させられる最悪の事態は回避できたという判断である。もちろん怪盗のすることなのでどんな斜め上の結果が待っているかはわからないが、さすがにミサエのストリップショーを越える最悪の事態はないと信じたい。
なお、友貴も本人の前でなければ深森探偵のことをみもっさんと呼んでいるのだ。とてもどうでもいい話である。
ドレスや河津夫人とのエピソードについても話す。これも捜査情報というほどではない世間話だ。というか、ドレスについては小百合の方が詳しかった。ゴシップの一種として主婦というか女性市民の間でちょっと知られた話だったらしい。
そして話は旦那についてへと移る。もうここまでくると完全に怪盗と直接関係のない世間話だ。
「なるほど、それでさっきのお肉に繋がるのね」
「庸二が鹿の解体を手伝わされてたぞ。まさかドレスを見に行ってあんな血塗られたひとときが待ってるとは思わなかったろうぜ。それにしてもこんなおしゃれな町で猟師に会うとは思ってなかったぞ」
市街地はおしゃれなのだが、やはり郊外に行くと別荘地として人気が出るくらいには自然溢れる、忌憚ない言葉を使えば田舎なのである。何せ、山奥には天文台まで出来ているくらいなのだから。
「山中さんちもイノシシが出たって言ってたもんね」
「なんだと。こんな近所までそんなのが来てるのか」
衝撃の事実だったがこれが現実だった。獣が多いのではない、猟師が足りていないのだ。しかしそれは別の問題であり、警察がどうこうすべき問題でもない。ただまあ、街中にそういうのが出てきたら警察が動員されることにはなるのだが。
そして飛鳥家の食卓に鹿肉のカレーがあがらなくなった頃、予告の夜がやってくる。
「なあ。もうそろそろやめないか」
佐々木刑事はなにが不満なのだろう。
「やめるってなにを?」
「会議をこの店でやるのをだよ」
「そ、そうですよ!睡蓮通りに近いお店の方がいいじゃないですか」
佐々木刑事の提案にミサエも食いついた。この店とはアトリエ喫茶ジョニーである。相変わらず流行ってはいない。しかし疎らだが客はいる。誰にも聞かれないし会議にちょうどいい、そんな理由はそろそろ通らなくなってきているのは確かだ。
「そんなことよりもだぜ。あんまり通ってると俺たちまでこういう趣味の人だと思われちまうし、そろそろアレが俺たちだってバレるぞ」
アレとは超美化ルシファー事件イラストポスターのことである。
「俺は今更その心配はしてないな。むしろなぜまだバレてないと思うんだ?」
スーツの地味なおっさん三人は確かに顔ぶれだけではわかりにくいだろう。だがそこに女子高生が一人混ざっているだけで大分目立つ。二次元好きな男が集まりがちなこの店ではただでさえ女子というだけで注目を浴びるのに、素っ頓狂なホームズコスプレである。目立たないわけがないし、ポスターでダブルヒロインを張ってる片割れそのものなのはすぐにわかるだろう。
それを踏まえてスーツのおっさんたちをみれば、佐々木刑事のロン毛と飛鳥刑事の似合ってない髭が完全に一致する。目立つ特徴の無い深森探偵もその特徴の無さでイラストと合致する。イラストと見比べられればバレない方が不思議だ。コスプレだと思ってくれればいい方だが、それでも話を聞かれると本物なのが丸分かりになるのだった。
「睡蓮通りで新しい店を探すの面倒なんだよな。それに今夜の予告が終わったらまた新しい店探せってか?」
飛鳥刑事の言葉に大きく頷く深森探偵。この二人のずぼらがこの店に留まる大きな原因でもあったのだ。
それなら予告の河津邸でいいんじゃないかという話になるが、これは怪盗対策でもある。犯行予告してある家の中で作戦会議など、怪盗に聞いてくれと言っているようなものだ。盗聴器のチェックくらいはもちろんしているがすべての盗聴器をチェックできるわけではない。
たとえば送信機をケーブルで繋いで外に置くだけで電波を調べるチェックでは簡単に見つけられなくなる。工事と言えるレベルの作業がいるし設置できる場所も限られるのであまり現実的ではないが、その辺はやる気次第だろう。それに、電波を使わずもっとシンプルに盗み聞きをする方法がある。床下や天井に直接潜むのだ。もちろん潜めそうな所は調べてあるが、巧く隠れていればやり過ごせる。こちらが調べて立ち去った後に潜むというのも手段としてはありだ。
そのようなことを警戒すれば無関係の場所で会議をするのは当然の選択である。まあ、この店も前回の予告の場所なので何か残ってるかも知れないが、そこは気にしない。アトリエ喫茶への改装時に何も出てきてないのだからきっと大丈夫だろう。
それにここでの会話を盗み聞きしていたなら黙ってはいられまい。
「おや。ルシファーII世の2話ができあがってますな」
深森探偵が手に取った小冊子が曲者である。有名な怪盗マンガを堂々とパクったタイトルのそれはそのタイトルで判る通り、二代目ルシファー事件を虚実を織り交ぜて描き上げられているマンガである。一昨々日に1話が出たところだが続編が早くも仕上がったらしい。
原作は一応梨蝉慈夜奈すなわちジョナサン・リージェント氏ということになっているが、根本的にベースになっているのが深森探偵とミサエのホラや誇張を織り交ぜた自慢話だ。それだけで虚の割合が跳ね上がるが、さらにそれを漫画的にアレンジしている。さらにいえば登場人物の見た目が虚の盛り合わせである。例のポスターと見比べても誰なんだと言いたくなる。
その絵柄の差は、なぜわずか1週間でマンガが2話分も、それも簡易的ながら製本まで仕上がっているのかという話にも繋がってくる。このマンガはリージェント氏が探偵組へのインタビューを元にまとめた原作をみんなで一つの作品にしているのだ。漫画家とアシスタントなどというようなものではない。一人1ページ。ページごとに描いている人が違うのだ。リレーマンガのようなものだが原作有りなので少し違うだろうか。
だから各ページが同時に進行していてできあがるのも早いのだが、ページごとに絵柄も違う。キャラクターデザインのベースはリージェント氏入魂の壁のポスターだが、そこから各自自己流にアレンジもされている。人によって絵柄が違うのは仕方がないこと。描き手の個性も尊重するという事で絵柄のブレは気にしないことになっている。
それどころか最低限の特徴で誰か判ればそれでOKなのである。例えば飛鳥刑事なら口髭、佐々木刑事ならロン毛という基本的な特徴で見分けられるが、ページごとに同じキャラと思えないくらい変わっている。例えば、最初のページで線の細い美青年だったのに次のページでは劇画調のマッチョになっていた。飛鳥刑事の髭も最初のページではカイゼル髭だったのに次のページではハルク・ホーガンみたいになっていた。なお、次のページではカトチャン髭の三頭身である。佐々木刑事のロン毛もページによって肩までだったり腰までだったりとばらばらだ。腰まであるのはもはやロン毛の範疇に収まっていない気がしてならないが、まあ気にしてはいけないのだろう。
このプロジェクトが始まったのは、アトリエ喫茶の開店祝いと怪盗騒ぎの話を聞きに、リージェント氏が昔アシスタントをしていた少女漫画家・現レディコミ漫画家が遊びに来たのが切っ掛けだ。リージェント氏が密かにネームを描き始めていたこのマンガに興味を持ったのだ。暇でもないので1ページだけ書こうかという話になり、その日もこの店で作戦会議という名目で軽くサボっていた刑事・探偵チームと共にシナリオやキャラの設定を煮詰めていった。
見た目だけは実際の関係者に似ているが、それ以外は大幅に手を加えられている。飛鳥刑事は飛龍刑事に、佐々木刑事は獅子木刑事にされているが、名前しか変わっていないこの二人はまだいい方だ。深森探偵とミサエなど親子にされている。パパが絵のうまい探偵で、娘がヌードモデルになった絵がルシファー二世に盗まれ、その絵を取り戻すために美茂座探偵とその娘の少女探偵ミカエルことミカが警察に協力しているという設定だ。なぜか娘がエスパーという設定も出かけたがやめたようである。何か元ネタがあったようだが刑事や探偵チームにはよくわからなかった。
ミカがルシファーと幼なじみという設定はミサエの大反対で没になった。こんな感じで注文やいちゃもんは聞き入れてもらえたが、そんなのには反対するのにヌード周りの設定を渋々ながらも受け入れたのは謎だ。まあ、ヌードの絵が存在しているという設定だけで絵はすでに盗まれていて登場しないし、取り返すときも他の人に見られる前に布を掛けて持ち去るような感じになり描写はされないということになっているから許容範囲に収まったのだろう。そしてそこで折れてまでルシファーとの幼馴染を回避したがるほどミサエがルシファーを嫌いだとは思わなかった。嫌いなら関わらなければいいのにとも思うが、嫌いだから捕まえたいのか。まあ、どうでもいい。
どうでもいいと言えばそもそもこのマンガ自体どうでもいいのだが、とにかくそんな感じで漫画家がマンガの話をしていたものだから、店にやってきたマンガ好きの客が黙っていない。客の中で画力に自信のある人が次々と名乗りを上げ、仲間も呼び寄せた。そうして10ページ以上が同時進行する状況ができあがった。
1ページはレディコミ漫画家。男が線の細い美青年になるわけである。現物は枯れ果てた感じの深森探偵もロマンスグレーと言うにふさわしいナイスガイになっているほどだ。2ページ目は輝野魂悟朗(かがのたまごろう)というこちらもプロ漫画家で、青年誌で任侠マンガやコンバットマンガを連載していた。
どこかで聞いた名前だと思ったら『女神の微笑み』の人だった。自分の昔の絵が事件に巻き込まれて気になって見に来たようだ。絵柄が違いすぎて言われるまで気付かなかったが、その頃から変わっていないのは女性の胸を大きめに描く傾向だろう。怪盗少女も少女探偵も大人びた顔とボディで大人にしか見えない。あまりじっくり見られていない怪盗の方はともかく、探偵は現物と見比べると可哀そうになるが、将来こうなれる可能性は秘めている。今後に期待であろう。
3ページ以降を描いたのは素人だが、漫画家が参加するこの作品に名乗りを上げるくらいなのでみんなそれなりである。3ページ目は参加者のハードルを下げるかのように三頭身の絵だが、下手ではなくむしろファンシーでかわいらしい。この絵を元にグッズ展開したら女子受けしそうである。ほかのページもそこまで極端ではないがバラエティに富んだ絵柄が踊る。いくらそういう人が集まりがちな店とは言えよくこれだけの人数を揃えられたものである。
探偵や刑事たちにも一通り声は掛けられていたが、飛鳥刑事も佐々木刑事もマンガを描けるほど暇でもない。お断りするのに言葉はいらない。使い物にならない画力を見せつけて黙らせた。ミサエはちょっと参加したそうだったが画力的に飛鳥刑事サイドであった。まあ設定などには散々口出ししたのだから十分参加者のうちに入れる。
深森探偵はマンガは初めてだが絵心はある。使い物にはなったようである。初代ルシファーもまあまあ絵心はあったが人は描き慣れていない。しかし、隠蔽の小道具で鍛えたので背景が異常にうまかった。アシスタントとして大活躍し始める。二人とも3話を絶賛執筆中である。
とまあ。この店は今こんな状況である。客はそこそこ入っているのだが、大体原稿に集中していて話など聞いていなさそうである。ついでに、日頃うるさい探偵チームがマンガの手伝いで忙しく静かになったのも喜ばしいことであった。
そして、二代目ルシファーがここでの会話を聞いていたのなら、深森探偵の勝手な想像で作り上げられた裸好きの完全なる変態少女と言う設定が広まりゆくのをただ指をくわえて黙って見過ごすまい。まあ、本人が気にしていなければ別だが。当初から露骨に裸狙いしているし隠す気もないかも知れないが。それでも、ルシファーはリージェント氏に顔をはっきりと見られている。正体不明の怪盗なら性癖丸出しでもいい――そう思っていたなら正体に直結する顔が知られるのは困るはず。困ってる可能性は十分ある。邪魔しに動いてくることも十分に考えられるのだ。
今のところ何の動きもないしここでの会話は聞いていないと思っていいだろう。しっかり聞いてはいたが動けもせず頭を抱えてる可能性はあるがその時はその時だ。何にせよ、ここでも大した話はしない。怪盗が出るまで暇だったのでマンガに集中していた深森探偵や初代ルシファー、幼稚園帰りの大貴に現状を伝えるくらいだ。河津氏の方でも怪盗対策に動いているので、その状況を見るまで細かい作戦は保留である。
河津邸は銃で武装した男たちが闊歩し、さながら戦場のような物々しい雰囲気であった。
「怪盗との戦いの前の景気付けも兼ねてひと狩り行ってきたんですよ」
まあ、彼らが赴いていたのは戦場ではなく猟場なのだが。今日は牡丹肉であった。まだ肉というより死にたてほやほやの血も乾ききっていない死体だ。二頭のイノシシが地面に横たえられていた。お肉の塊になっていればともかく、ミサエにはキツい代物だったようで目を逸らしている。
「脇腹と眉間に銃創。こっちのは側頭部に一発か。即死だろうな」
検死を始める飛鳥刑事。普段盗犯しか担当しないので一係のような殺傷事件にちょっとした憧れはあるのだ。別に人間の死体を見たい訳ではないのでその辺は注意してほしい所だが。
「あら!いいところに見えましたのね!」
「え、いや。その……」
一方佐々木刑事はカナエさんに捕まった。
「解剖は頼んだぜ、佐々木先生」
「俺、医者になるなら監察医じゃなくて産婦人科がいいんだけど」
「監察医だって若い女性の被害者をいじり回せるかもしれないぜ」
「生身がいいわ……。まあ、獣じゃどっちでもいいけどよ」
ブツクサ言いながらもカナエさんについて行った。なんだかんだ言っても女性の頼みは断れないのだ。
「うおー!鉄砲だ!すげー!」
大貴に至ってはイノシシなど眼中になかった。
「ぐわははは、こいつでルシファーとやらも一発で仕留めてやるぜ!」
豪快に笑う猟友会の爺さん。
「いやいや。まさかそれで撃つ気じゃないでしょうな」
「まさか。はずしたら家の壁に穴を開けちまうよ」
それも困るのだろうが、当ててしまった時の方が大問題である。確かにルシファーなんて名前からしていかにも外来種っぽいし、駆除しようとしているようなものである。しかし、人間なので傷つけるのはまずいのだ。
「弾は込めないし、入れても威嚇用の空砲くらいさ。ビビらせて追い払うための鉄砲よ」
「ビビらせるのにいろいろ持ってきたんだぜ」
猟友会のみなさんは刑事たちを河津邸の一室に案内する。そこはもうお化け屋敷かと思うような空間になっていた。まず目に付くのが無数の生首だ。いや、剥製になってたり皮だけになってたりするので生ではないのか。そして大量の白骨である。
「これはまさか……人骨」
「の訳がないでしょう。食べかすですよ」
もちろん獲物の骨であった。頭蓋骨を見れば明白だ。
「アバラの間の肉は食べづらいけどうまいんですわ。あと、こういう太股とかね。真ん中あたりだけ残してやると……昔あったでしょ、『はじめ人間ギャートルズ』。あれに出てくるような肉になってねえ」
後の世ではマンガ肉と呼ばれるアレあるが、そんなことは重要ではない。そうやったりやらずにきれいに肉をこそぎ落とした骨は、量が溜まれば業者が買い取って骨粉すなわち肥料や、肉骨粉すなわち後の世ではBSEで問題になる飼料の原料となるのだ。つまりここにある量ではまだ買い取ってもらえず、溜めている最中らしい。
首の方はいろいろバリエーションがあった。王道の鹿頭の壁掛けを趣味で作ってた人がいるのだが、問題が起きる。まず、掛ける場所がなくなった。自宅の壁は有限。それにこんな物全ての部屋に飾りたい物でもない。ハンター仲間などにも配り、ほかにも欲しいという人がいれば販売もした。
そのあたりで次の問題が発生した。これは致命的だった。たくさん作りすぎて飽きてきたのである。狩れる獲物は鹿だけではない。イノシシ、熊。他の動物も壁掛けにすることで少し変化ができ多少は続いたがさほど長続きするものでもない。程なくそれらも飽きたが、ただ捨てるのはやっぱりもったいなくてどうにかならないかと思いながらも全ての頭を剥製にし続けていたという。
さらにバリエーションを増やすべく、置物も作った。正直、首の切断面の向きが変わっただけでそれほど変わっていない。それでも設置できる場所が増えたのは良い。
そして彼は巡り会う、奇跡のアイディアに。それは被り物だった。これまでの剥製に比べて詰め物が少なくて済むので作業量も製作コストも少ない。なのでバザーなどに出すときも安く済みパーティグッズとして結構捌けた。それ以上に、在庫としてしまい込むのにもあまり嵩張らない。今は主力商品になっていた。
「で、これを被れと……?」
鹿マスクには2タイプある。顔の上半分のみがついたまさに被るタイプと、首まである頭に乗せると鹿の首が頭から生えたようになるタイプだった。これはさすがに邪魔すぎる。本当に被るならまだハーフタイプだろう。これでもまだ角が邪魔そうだが、角だけならまだまだマシだ。手に取る飛鳥刑事。
「それですか、お目が高い。それを被ると本多忠勝みたいになりますよ」
さすがにならないと思われた。そもそも消去法みたいなものなのにお目が高いとか言われても困る。
佐々木刑事が何とも言えない顔で手に取っているのは猪頭の被り物だ。
「お目が高い。それは何十年かするとバズりますよ」
「バズるって何……?」
なお、これも頭の上に猪の顔を乗せるような被り物なので何十年か先にバズる猪頭とはだいぶ形が違う。乙事主みたいな大物でも出ないとさすがにすっぽり被れて顔を隠せるような猪マスクは難しいのだ。
「ふははは。なんか強くなったような気になりますな。タイガーマスクならぬ熊マスク……くますく」
言い直すならせめてベアマスクではなかろうか。そんな言葉通り深森探偵は熊を頭に乗せている。強くなった気になるのは勝手だが、強そうに見えるかというとそんなことはない。お目が高いと言われないくらいには似合っていなかった。もっともお目が高いの判断基準は単純に在庫の余り具合であり、狩れる数も多くないが人気も高めの熊は捌けてもさほど嬉しくないのである。
「うわ。うさぎさんもあるっ」
女の子らしく可愛らしいものに飛びつくミサエ。耳の付け根に顔もついているし色も茶色いのでバニーガール感はあまりない。ここにあるということはもちろんこれも狩られたということだろう。
「河川敷とかで結構増えてるみたいだもんな」
「山だけじゃなくてそういうところにも行くんすね」
「町中だし外国みたいに鉄砲で狙ったりはしませんがね、罠にはよくかかるんです。肉もうまいし毛皮も使い勝手がいいしさすがは世界共通の獲物……」
「そういう話しないでくださいっ」
うさぎに懇願されては黙るしかなかった。
準備は整い、後はルシファーが来るのを待つばかりである。もちろん、動物の被り物以外の準備もいろいろ整えている。
緩やかに夜は更けていく。その異常に気付いたのは各所を見回っていた飛鳥刑事と佐々木刑事であった。標的であるドレスが設置された大広間に入ったが、ここで寝ずの番をしている猟友会と大貴が床に倒れていたのである。
「おい、どうした!」
ただ一人立っていた警官に声をかけると、低い声で笑い出す。まさかこの警官はルシファーの手先?と言うことはドレスは既に……いや、見た感じ何事もなさそうだ。
猟友会の皆さんは、爺である。寝ずの番を買って出たのはいいが、いつもならとっくに寝ている時間。ただでさえ狩りで疲れているところ、しかもこの人たち、イノシシの焼き肉で一杯やっていた。決戦を前に景気付けも兼ねてなので本当に一杯位だが、眠くならないはずがない。寝ずの番なんて無理な話だったのだ。
怪盗が来たら起こしてくれと言って続々と寝始める爺たち。床上での雑魚寝だって慣れたもの、絨毯まで敷いてあるのだからこれでも寝心地はいい部類だ。こうなると退屈な大貴も起きてなどいられなかった。斯くてこの状況ができあがったのである。警官も苦笑いするしかないわけだ。
まあ、いつも通りなら夜更かししがちなピチピチの若者であるルシファーの出現はもう少し遅い時間だし、もうちょっと寝ていても大丈夫だろう。
次に動きがあったのは夜も更けた頃。いつも通りなら正にそろそろルシファーが出てきてもいい頃合いである。
相変わらず各所を見回っていた刑事二人は異常に気付いた。屋敷の玄関の外に張られていた網が破られているのを見つけたのだ。
今度こそ何かあったに違いない。頷き合うと大広間に向けて走り出した。するといくつもの銃声が鳴り響く。到着した大広間は硝煙の臭いで満たされていた。
「何事だ!」
「熊だ!」
「いや、何とかファーだ」
「ファー……毛皮か」
「それそれ」
「いや、ルシファーだろ」
軽く混乱しているようなので落ち着かせて話を聞くことにした飛鳥刑事。ドレスも見た感じ無事だ。
聞いてみると、今し方まで爺らは眠りこけていた。その時玄関の方でばたばたと動きがあった。言うまでもなく異常を見つけた飛鳥刑事たちが動き出したためだ。室内にいた警官は無線で状況を確認しようと声を出す。
その声に眠りの浅かったその爺が目を覚ますのと同時に天井からルシファーが降りてきた。全身黒ずくめの怪盗が。ほろ酔い寝起き爺の回転の鈍った頭で眼前の状況を判断した結果、怪盗という非日常よりもっと身近で日常的な状況に置き換えられた。
「熊だー!」
その声でほろ酔い爺は狩人として起動する。熊という叫び声、罠の近くを蠢く黒い影、自分たちの手には銃。なまじ寝ぼけているので行動に迷いなどない。熊だと思ってぶっ放した連中はまだいい方である。最高齢の爺さんなどなんだかよく分からないがみんな銃を構えているので自分も構えたら目の前に人がいた。人だと認識したのである。なのに容赦なくぶっ放したのは若き日の南の島での夢の続きだと勘違いし、その人物を米兵だと思っちゃったからだ。意識がはっきりしているうちに実弾を抜いて空砲に入れ替えてなかったら大惨事かつ大事件だった。
まあ、空砲でも家の中で乱れ撃ちというのはまあまあな大惨事かつ大事件ではある。爺たちと一緒に寝ていた大貴など、騒ぎで一度は目を覚ましたが鉄砲の音で目を回してまた眠りに落ちている。
「それで、ルシファーは?」
「ワシらが寝ぼけてる間に逃げたようですな」
銃口まで向けられていたルシファーは大貴よりも悲惨だ。まあさすがに実弾が入ってたとは思わないだろうが、それでも仕切り直し止むなしなのは致し方あるまい。
ルシファーの侵入は確定した。ならば予告のドレスの防衛強化とついでにルシファーの退路封鎖に戦略を切り替えるまでである。
仕切り直しは難航しているようで、ルシファーはなかなか現れない。さっきので尻尾を巻いて逃げてしまったかも知れないが、まだまだ夜明けは遠いので油断はできない。午後12時を過ぎれば日曜だが土曜26時などという言い方だってあるのだ。
よもや、また爺たちが待ちくたびれて寝るのを待っているのではあるまいか。いやそれは下策か。また寝ぼけて銃を向けられかねないし、こちらの状況が掴めていないと寝ぼけてるせいで今度は実弾を込められる危険性さえ考慮しなければならない。状況は悪くなる一方なのだ。
ルシファーは静かに動き出していた。音もなく、天井裏からロープが降りてきていた。大広間にいた人の殆どはそのロープの先端に取り付けられたフックが箱罠の格子にぶつかりながら引っかかるカチャカチャガチンという音でその存在に気付く。ただ一人、天井からそのロープが下りてくることに気付いていた爺はただぼんやりとそれを眺めていた。何のためにここにいるやらだ。
フックは箱罠の端を捉え、箱罠を吊り上げていく。端がわずかに持ち上がったがそれ以上は動かない。当たり前だ、この箱罠を大人何人掛かりでこの部屋に運び入れたと思っている。大の大人の男というには萎びすぎてはいるが、相手が華奢な少女なら対等だろう。これを持ち上げるならウィンチのような機械を使うか、アルフォンソ氏くらいのマッチョにできれば服を着せて連れてこなければなるまい。
まして今はさっき気絶した大貴を重石代わりに箱罠の中に入れているのだ。せめてドレスを取る邪魔になればと思っての処置だが持ち上げる邪魔にもなる。箱罠が吊り上がる振動で目を覚ましかけた大貴は、吊り上げてたルシファーが力尽きて落とす衝撃と、その振動で箱罠の入り口が閉まる大きな音で完全に覚醒した。
「うおっ、なんだこれ!?やってくれたなルシファーめ!」
確かに、入り口が閉まったのはルシファーのせいなので強ち間違っていない。檻の中に大貴を設置したのは飛鳥刑事だがそれは黙っていればわかるまい。
佐々木刑事が天井から下がったままのロープをぐいっと引っ張った。少しだけ抵抗があったがすぐにするっとロープが落ちてきた。その先端にルシファーはついていない。箱罠を引っ張って既に力を使い果たしていたので引っ張り合いも長続きしないのである。
「降りてきやがれ!」
「やだ!」
「降りてこないとドレスは取れねぇぞ」
「降りないで何とかする!」
撃たれたのがトラウマにでもなったか、佐々木刑事の誘いに乗らずそんなことを言い出すルシファー。
飛鳥刑事は箱罠の上にテーブルクロスを敷いた。それだけで箱罠の中は上からは見えなくなり、上からは何もできなくなる。
「いじわる!」
ルシファーは喚くが、元気な怪盗に優しくしてやる義理はない。天井からまたロープが下りてきた。テーブルクロスをはずすためらしく、今度は先端が粘着材になっているようだ。飛鳥刑事は近くにあった椅子をくっつけてやった。ルシファーでも持ち上がらない重さではないが、苦労して持ち上げたいものではない。しかし椅子をはずすには持ち上げないとならない。無駄な体力を使わせることはできるか。いや、その前に粘着力が耐えられなかった。椅子はスポンとはずれて箱罠にゴシャンと落ちた。
「うおっ!?ななな何だ!?」
上から箱罠の中が見えないということは箱罠の中からも上が見えないのである。大貴はパニックになっているが、どうしようもない。
飛鳥刑事は佐々木刑事を誘って煙草を吸い始めた。意を酌んだ爺たちも集まって一斉に煙草を吹かし始める。先ほどは硝煙の臭いにに包まれていた大広間が今度は紫煙で煙る。煙は高いところに昇るものだ。特に煙草の先から立ちのぼる有害な副流煙などは。
「煙い!臭いっ!」
もちろん天井裏のルシファーを直撃である。
「けむい!くさいっ!」
上昇気流など刑事と爺のほのかな体温由来、それも夏なので気温と大差ないという条件下、主流煙は箱罠のあたりに漂いがちであった。逃げ場のない大貴も巻き込まれた。
刑事たちの怪盗燻しだし作戦は、出ようとしない怪盗と出られない大貴を燻すだけ燻して失敗に終わったのである。
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