
Episode 8-『帰ってきた怪盗ルシファー』第7話 女神は誰に微笑むか?
ルシファーの姿は消えた。ここで一旦深森探偵がまとめに入る。
「やられましたな。あちらにも連絡を入れておかないとなりませんが……誰かあのアパートの電話番号を知っている人はおりますか」
その問いかけに飛鳥刑事もミサエも頭を振った。だが、すぐに反応しなかったとある人物が言う。
「あたし知ってるっす。……自分ちですし」
そもそも何で最初から恩納月女史に聞かなかったのかという話である。まあそりゃあ、一人暮らしで自分の部屋の電話にかけることなどほぼないだろう。それでもいろいろな申請などで記入することになるのだから覚えていて当然なのだ。だから、恩納月女史のことを信用していなかったわけではない。単純に、彼女が部屋の主であることを失念していただけであった。そっちの方がよっぽどひどかった。
そんなやりとりを後目にひっそりと行動を始める者がいた。初代ルシファーが誰にも気付かれず別室に移動し、着替えを始めたのである。もちろん、気付いたからと言って覗きたがるような変態はこの中に……何人かいるが、実際に覗くほど非常識ではない。
「ルシファー、うちにも来ますかねえ」
「さあ。しかし、ルシファーは真っ先に絵……つまりは様じゃない方の女神に向かっていきました。つまりは真の狙いはやはり絵の方だったということですな。であればもちろんあなたのおうちにも現れるのでは」
深森探偵の推理に恩納月女史は悶え始める。
「おおぅ……。そいつはたまらん!そんな場面に居合わせることができないなんてあり得ない……。急いで奴を待ち受けねば!」
ルシファーが恩納月邸に向かう──それは今のところ推測でしかない。だが、本人の口からその意志が継げられたことにより確定事項となるのである。どこからともなく声が響く。
「偽物でこのあたしの目をごまかせると思わないことね!あんたらの考えなんて全てお見通しよ!本物を一ヶ所に集めたことを後悔させてあげるわ!」
偽物であることに気付いたようだ。むしろ、気付かないようであれば切ない。そして本人もそれは分かっているようで、わざわざ偽物に気付いたことを言いに戻ってきたらしい。
「全てお見通しなら何でこっちに来たのですかな」
姿は見えないが颯爽と去ろうとしていたのだろう。しかし深森探偵の冷静かつ非情なツッコミに戻ってきたようである。少し間はあったがルシファーは答える。
「……うっさいわね!えーとえーと……念のためよ!」
こんな答えなら堂々と無視した方がマシであった。図星を突かれたのが丸わかりである。まあ、こっちに人が化けた女神様と素人が画用紙にささっと描いたアクリル絵の偽物セットしかなかったのだ。もう一ヶ所に本物が集められてると考えるのは自然である。
今度こそルシファーは去ったようである。なお、初代の方のルシファーも無事に着替えを終えて人心地だ。さらに初代ルシファーは廊下で縛り上げられていたミサエを発見し解放してやっていた。ミサエも人心地である。なお、盗まれかけていた『小悪魔の微笑み』もミサエと一緒に置き去りになっていた。
ルシファーが次の行動に移ることを踏まえ、探偵たちも動き始めた。全員、恩納月邸に移動だ。
ここアトリエジョニーが留守になってしまうが、正直ここには怪盗が盗むべきものはない。戸締まりだけしておけば良しと判断された。さらに、ここからはリージェント画伯の協力が必要となるのだ。
何せ、移動手段がないのだった。覆面パトカーは刑事たちとともにすべてあちらにある。ここに乗り付けた乗り物で唯一残っているのは深森探偵の自転車だけだ。遅いしおまわりさんに怒られるのを覚悟でニケツしたところでもう一人しか運べない。そこで救いとなったのはアトリエジョニー所有の社用車であった。
ライトバンであり、ここにいる全員に加えて深森探偵の自転車さえ積んで恩納月邸に行くことができるのである。
「この車です、さあどうぞ」
あちらの刑事たちにルシファーの出現などを伝えるべく電話をかける深森探偵と、そのために自宅の番号をダイヤルする恩納月女史を残して、車がガレージから出されるのを待っていたミサエと大貴、そして初代ルシファー。特に女性二人は目の前に現れた物に瞠目を禁じ得なかった。
車体を埋め尽くさんばかりに美少女たちのイラストが踊っていた。後の世で痛車と呼ばれるようになる物の走りであった。これに乗るの、という思いが彼女たちにこみ上げる。なお、大貴は子供なのでこの車に特に違和感などは抱いていない。
電話組が店から出てきたところで店を施錠する。そして彼らもちょっと引きながら車に乗り込み、舞台は恩納月邸へと移るのだった。
二代目・怪盗ルシファー。少女怪盗である。何なら美少女怪盗といっても差し支えないであろう。
しかし、美少女かどうかはこの際問題ではない。重要なのは少女であること、その年齢なのだ。自動車の免許が取れない、その年齢。一応原付なら取れる年齢ではあるがそれには彼女の事情というのもあるし、この状況では原付の免許があっても話にならないだろう。自動車には勝てないのだ。
彼女が努力をしてもどうにもならない、圧倒的な機動力の欠如。それが彼女を否応なく苦境へと追いやった。
彼女が彼女なりの全力で次の標的の場所である恩納月邸に向かっている間に、恩納月邸には彼女の敵が勢ぞろいしてしまうのだ。
飛鳥刑事と警官たち。深森探偵と少年探偵団。初代怪盗ルシファー、そして怪盗の標的である作品の所有者たち。
一人足りない?そうかもしれない。そしてそのたった一人が彼女にとって最悪の状況を作り出していたのである。
「暑いですな」
端的に現在の状況について述べたのは深森探偵である。この中で最高齢の彼にはこの暑さは酷であった。西日のほとぼり冷めやらぬこの狭苦しいアパートの一室に限界を超越した人数が押し込まれているのだ。これでも警官二名は室内の警戒を飛鳥刑事と探偵ほかに任せて涼しい外の警戒に当たっていてうらやましい限りである。それでも7名。暑いに決まっていた。
怪盗が来るというのに、窓が全開である。閉めるに閉められないのである。窓からの夜風がこれほどまでに心地よい夜はないだろう。
しかし、幸いなのはこの状況が長く続くわけではないということだ。二代目ルシファーだって可及的速やかに、ここに向かっているのだから。
アトリエジョニーと同じように何の前触れもなく部屋が暗転した。
「ひゃあ!ななな、なに!?」
トイレを借りていたミサエが慌てたように喚く。しかし、すぐには出てこない。ちゃんと流してからである。
そうこうしている間にも窓からルシファーが飛び込んできた。レディの特権を振りかざして窓辺を占拠していた初代ルシファーにぶつかる。
「痛いわね!気をつけなさいよ!」
そう言いながら組み付いてきた初代ルシファーを振り払って逃げると、またすぐに誰かにぶつかった。柔らかい、大きな肉の塊。太そうな肉体。
「Oh,Lucifer?」
体同様太い声でネイティブに呼びかけると、太い腕がルシファーの細い体に絡みついてきた。日本の乙女にとって怖すぎる状況である。その皮下脂肪の分厚い腕を引き離そうと掴むとその繊手に剛毛が絡みついてきた。お世辞にも心地よい手触りではない。そして流石は男。引き離すのは楽ではない。だが意外な弱点があった。
「いやあっ、やめてエッチ!」
別にエッチなところを触られたわけではないが、男に抱きつかれたという状況がその声を上げさせた。すると腕の力が弱まり振りほどけた。やはりリージェント画伯は案外紳士なのだ。
その腕から逃れたルシファーの行く手には人の姿はない。室内の電力はまだ回復してないがめいめいに手に持つ懐中電灯の光が照らした場所のみならず部屋全体をうっすらと浮かび上がらせているのだ。部屋に入ってきたとき、ルシファーは赤外線ゴーグルをかけていた。しかしそれはすでにはずしている。西日の余熱と人いきれで体温くらいにまで上がっていた室温に安物のゴーグルの視界が一面明るくなり、さらには結露でも滲み真っ白になり動けたものでなかったのだ。ぶっちゃけ、窓から入る街の明かりで十分である。
目で直接見ると、今までは見えなかった人影が見えた。いや、人ではなさそうである。だがルシファーは人がいた以上の警戒心を抱き、動きを止めた。
『女神様の微笑み』。先ほどは初代ルシファーが中に入っていて肝を冷やした。それどころかピンチに陥ったと言って過言ではないだろう。しかしその初代ルシファーは窓辺にいた。それに先ほどとは明らかに体型が違うのだ。ならば今度こそ、これは本物ーー。
しかし、実のところ『女神様の微笑み』は『女神の微笑み』から警備を引き離すためのブラフだった。それでも予告は出したのだし、このまま『女神様の微笑み』を奪って立ち去るのも手ではある。何せこの自由に動くことさえままならぬ状況だ。目当ての『女神の微笑み』はどこにあるかまだわからない。ならば。
そんなことを考えるルシファーの背中を押す者がいた。いや、背中ではない。おしりをふにっとされたのだ。太股にも何か絡みついている。とっさにルシファーの脳裏を過ぎったのは先ほどの毛深い太った外国人。背後にはまだ奴がいるのだ。
ルシファーのおしりをふにっとしたのは実は大貴であった。声の方に目を向けうっすらと見えていた影に組み付いただけであり、その身長でしがみつける高さがそこだったと言うのは先ほど実証されたとおりだった。リージェント画伯の紳士ぶりはルシファーには伝わってなかったのだ。
おしりの感触に乙女のルシファーは反射的に前方に飛び上がってしまった。前には全てを優しく受け止めてくれそうに腕を開いた女神様がいた。と、女神様は蠢く。腕が少し持ち上がった程度でいくらもポーズは変わらない。だが今や女神様は哀れな獲物を待ち受けるように腕を広げ待ち受ける悪魔のように見えた。
だが、やはり悪魔は窓際に陣取り女神様をかぶってはいない。女神様の皮をかぶっていたのは悪魔ではなく、変態レディであった。
「どぅへへへへへ。ルシファーちゅわぁーんっ!いっただきまーすっ」
本当に食われそうな恐怖心に襲われ急制動をかけるが、無駄な努力であった。ルシファーは女神様の腕の中に抱きしめられた。
何よりおぞましいのはそのぬめぬめとした感触であった。もちろん先ほど初代ルシファーが身につけていたボディースーツであるが、先ほどとは大きな違いはあがた。それはこのボディースーツが着られてからいくらも時間が経過していないことである。これは水で濡らして柔らかく粘着力のある状態にして身につける。先ほどは着てから時間も経過していたし、広い場所であったこともあって体温で乾きかかっていた。しかし今回は着てからものの数分。しかも人いきれで湿度も高い。ぐっしょりという表現ができるほどの濡れ方だ。
この状態はまだ乾いていないので剥がれやすい。しかし乾いていないのでまた体に張り付けやすいのである。それ以上に特徴的なのはその手触りだ。水気をたっぷり含んでいるのでよく言えばぷるんぷるん。悪く言えばぬるぬるぬめぬめ。恐怖心とともにこの感触を味わえば、悪い感じを受けてしかるべきだ。当然、体温で生温かい。恒温両生類といった感触なのだ。ルシファーは両生類くらいに体温が下がりそうな思いである。
一瞬固まったルシファーだが、危険意識が臨界点を突破し火事場の馬鹿力が発動した。脚に大貴を、首に恩納月女神様をぶら下げたまま窓に向かって走り出した。初代ルシファーが立ち塞がるが、軽いとはいえ3人分の体重でのタックルはさすがに重く押し負ける。しかも二人のルシファーに挟まれる形となった恩納月女神様の樹脂製マスクがベキッという音とともに砕け、中身も「むぎゅ」と唸ったあと至福の表情でダウンした。
その勢いでルシファーは窓の外に飛び出した。太股にしがみついたままの大貴は「うぎゃあああああ!」と叫び声をあげた。そんな息子の身を案じてか飛鳥刑事は外に飛び出していく。
こうして第一ラウンドはルシファーの一時撤退で幕を閉じた。
ルシファーはまだ諦めてはおらず、第二ラウンドに突入した。それを告げたのは窓から投げ込まれた甘い匂いの煙を吹き出す玉である。ブレーカーが復旧し明るくなった室内の視界が今度は煙で包まれる。
「こ、これは……催眠ガス!?」
自分独自の価値観でそう決めつける深森探偵だが、他の人はそんな危険なものをほいほいと使ったりはしないのである。ただピンクでフルーティな香りの煙玉だ。
窓から飛び込んできたのはこれだけではない。まず大貴の声が飛び込んできた。
「くっそー!出せー!きったねーぞ!」
何かされたようだが無事のようである。元気そうで何よりだ。放っておいて大丈夫だろう。
続いてルシファーが戻ってきた。窓からの町明かりを背にその陰がぼんやりと窓辺に浮かぶ。即座に窓辺に陣取っていた初代ルシファーが飛びかかるが今度はひらりと躱し部屋の中に降り立った。
その時、外からとんぼ返りしてきた飛鳥刑事が玄関のドアを開けた。中の状況がわかるとそのまま開け放って換気をしつつ入ってくる。大貴はまだ外で喚いているあたり、我が子を助けに行ったわけではなくあくまでルシファーを追っていただけなのだろうか。とにかく、煙が室外に流れて薄れてきた。
「くそっ。こっちがくさや作戦を断念したってのに似たような真似をするとは」
「いやいやいや。同じ煙でもくさやとこれならこっちの方がましっすよ。やめて、乙女の部屋だから!」
飛鳥刑事の罵声に答えたのはこの部屋の主であった。そして、ごもっともであった。続いてルシファーも口を開く。
「ふふふふふ、さっきはよくも偽物なんて掴ませてくれたわね。私くらいになれば無価値な偽物か価値ある本物かなんて一目で見抜けるのよ!甘く見ないことね!」
ここに居合わせた多くの者が思う。なに言ってんだこいつ、と。一目で見抜けるなら何でさっきは偽物を掴んで持ち去ったのか。それ以前に、偽物は確かに無価値だが、本物だって大した価値のない作品なのである。価値を見抜けるなら、そもそも狙わない作品なのだ。
この二代目ルシファーに審美眼を期待はできない。その証拠に。
「その名画『女神の微笑み』は頂いていくわ!」
そう言い放ったのである。
気付いた人もいるだろう。今、ここには佐々木刑事がいない。ではどこにいるのかという話だ。
ルシファーが偽物しか置かれていないアトリエジョニーに現れたことで、次にこの場所に現れる確率が非常に高まった。アトリエジョニーにいる探偵達ほかが移動したことでここが決戦の地となると言う印象も濃厚であろう。
そして、その連絡を入れたときに電話に出たのが佐々木刑事だった。いつ怪盗が現れるかしれないこの状況でのたくたと行動し、未だに恩納月邸から引き返してもいなかったのだ。
それを知った深森探偵は一計を案じた。高確率で次に怪盗が現れるだろう恩納月邸から本物を持ち去り、ここを偽物だけにしてしまってはどうかと。
佐々木刑事は今頃、本物をアトリエジョニーに運搬中であろう。しかし佐々木刑事のミッションは決して成功することはない。アトリエジョニーは店主が施錠してしまったからである。まあ、入れないと分かったらそこら辺で時間を潰すか引き返してくるだろう。別にそれでよい。いっそアトリエジョニーにあるよりどこかわからない路上を運ばれている方が怪盗にとっても狙いにくいはずだ。
そんなわけで、ここにも本物などないのだった。よって、ルシファーの言う『その名画』とやらはどの名画なのかという話である。そもそもここに名画と言うほどのものがあったかどうかからして定かではない。
「甘いわ!あなたはここでも目的の品は手に入れることができず帰ることになるんだわ!」
ミサエが見得を切った。一応、予告した作品はどちらもここにないもののついでに狙うんじゃないかと思われる恩納月コレクションはここに存在してはいる。直前まで飛鳥刑事達が鑑賞会を開いていたが、女性陣と子供を含む探偵団がこちらに来ると言うことを受け速やかに片付けられていた。この状況でそれらを棚から引っ張り出すのは困難だろう。
「……大した自信ね?私がライバルと認めたあなたが守っているならそうなのかもと思うけど、こっちだってそうですかとあきらめるわけには行かないわ」
ルシファーはなぜかミサエをライバル認定しているようである。まあ、ここにいる中ではミサエが一番年格好も近いしライバルにするには妥当だったのだろう。
ルシファーがさらに何かを言おうとしていたが、それは一旦中断された。女神様をかぶった変態が忍び寄るのを察したのである。
不意さえ突かれなければ対処は難しくなかった。しかし、躱すくらいではこの変態はゾンビのように何度でも立ち上がり襲ってくるだろう。立ち上がれなくしてしまうべきだ。その方法にも目処が立っていたのだ。
微笑んだ仮面の下ではげびたにやけ面であろう恩納月女神様のタックルを躱したルシファーは、女神様のぬめった肩に手を置いた。そのまま掴んで引っ張る。ぬちゃっという不気味な音とともに純白の肌ーーボディースーツが剥がれ、本物の肌が剥き出しになった。
女神様を被っていたのが悪魔だったときも、ボディースーツが剥がれて動きが鈍ったのをルシファーは見逃していなかった。そして先ほどのぬるぬるとまとわりつくような感触。素肌に着ていて、とても脱げやすいのではないかと見抜いたのだ。
「んぎゃー!」
幸運にも乙女として絶対に見られたくない部分の露出は免れたものの、それ以外の部分だってなるべくなら見られたくないのである。人目を気にせず欲望のままに行動する彼女でもこういう羞恥心は持ち合わせていたようである。
女神様の動きは封じた。女同士ということで救いの手を差し伸べる初代ルシファーもしばらく何もできまい。そして男たちはきっとお色気シーンに釘付けに違いない。
「……ちょっと。誰かこっちに興味持ってくれない?女としては見られるより屈辱なんすけど」
「今それどころじゃない」
「俺は他で間に合ってるんで」
「もっと大人になってから言いなされ」
「育ちきってこれなんす……」
……とにかくルシファーとしては口上を述べるなら今がチャンスだ。
「あたしがライバルと認めたあなたが守るその扉の向こうにこそお宝があるってことね?いいわ、勝負よ!」
いや、別に守ってはいないのだ。レディのことなのでデリケートな話題ながら、ミサエがそこにいるのはたまたま直前にその扉の向こう――すなわちトイレに入っていただけ、慌てて出てきてそのまま動いてないだけなのである。だからこそ、誰もが「こいつは何を言っているんだ」と思ったのである。
ズバリと言ってのけたルシファーに皆が怯んだ――正しくは呆気にとられたその隙に、ルシファーはミサエに突進。取っ組み合いでねじ伏せるとそのまま扉の向こうに消えたのであった。ドアにロックがかかるガチャリという音が響いた。
「なんだ、トイレに行きたかっただけですか」
違うだろ。深森探偵の発言に誰もがそう言いたかった。だが、僅かながらその可能性も捨てきれない以上、誰も口にすることはない。そして、その可能性が捨てきれない以上、トイレのドアはちょっと開けられない状況になったのだった。
さすがに、トイレにしては長い。そう思えてきたのでドアを開けることにした。
扉を開けるのは一応女性である。変態だが、まあどうせ中のルシファーは逃げた後だろう。もし本当にのんびりトイレタイム中だったら先にトイレに行っておかなかった準備不足を後悔してもらうだけだ。
ドアにロックは掛かっているが、中で非常事態が発生したときのためにドライバーかコインがあれば簡単に開くタイプだ。今は正に非常事態であろうから、容赦なく行かせてもらう。中の状況によっては超級の非常事態になるかも知れないが、諦めてもらおう。……扉は開かれたが中はやはり蛻の殻だった。獲物を諦めてトイレの窓から逃げたのだ。
「それじゃ今から着替えるっすけど、無理やり鍵開けて覗かないでくださいよ」
トイレの中を確認した恩納月女史がそう言ったときには、トイレの方を向いている男など一人もおらず、ドアロックの音が少し寂しく響いたのだった。
完全勝利かと思われたがそれほど甘くはなかった。落ち着いたところで改めて確認してみたところ、恩納月コレクションの中から数点が盗み出された形跡があったのだ。鑑賞会をやめて絵を片付けた飛鳥刑事の記憶では棚にはぴっちりと絵が納められていたはずだが、少し隙間が空いていた。
恩納月女史にとってラッキーだったのは彼女のお気に入りは手つかずだったことである。作品の価値とかについてはあまり興味がなく、見た目の好みの問題だ。よって、ルシファーが価値のある作品をチョイスした可能性はわずかにある。しかし、盗まれた絵の位置からして99%とっさの手当たり次第だろう。
ルシファーには僅かながら――おそらくはだが――収穫を許してしまったものの、こちらにもわずかな収穫があった。先ほどからリージェント画伯が鬼気迫る勢いでスケッチブックに鉛筆を走らせていたのだが、それが描き上がった。
描き始めたタイミングからして恩納月女史のあられもない姿をスケッチしていたのかと思われていた。何せその前から合意の元に女神様に扮する色気のない貧相な恩納月女史の体をスケッチしていたのだ。
しかし。恩納月女史の言っていた誰も興味を示してくれないと言うのは本当であった。リージェント画伯の興味はそんな貧相な体にではなく目の前にいる美少女だったのである。
まあ、描いた理由が美少女だったからと言うわけでもないだろう。そうなのだとしたら描かせて欲しいと頼まれてもいないミサエが不憫なことになる。これはむしろ、犯人の似顔絵を描こうとしただけなのだ。そんなわけで、二代目ルシファーの似顔絵が手に入ったのである。惜しむらくは、絵柄がマンガチックであることだ。
なお。誰にも興味を持ってもらえていなかった恩納月女史の体をリージェント画伯がスケッチしていたのは、その少女のように貧相な体が貴重だったからである。時代的にマンガなどには少女の裸がほいほいと登場していた。小学生の入浴シーンや父のためにヌードモデルになる中学生等々。それでも現実でそれを見るのはさすがに困難だった。手段はあっただろうが、良心の呵責もあった。
そんな中、貧相……いや少女のように愛らしい体を持つ恩納月女史は、後の法規制されたる世で言うところの合法ロリと言うものであったのだ。……体だけは。そんなわけで、貴重な資料としてその体を提供していただくことになったのである。恩納月女史への報酬はこんな体でも需要はあるんだという自信と、リージェント画伯作の巨乳イラストであった。未成年者の前なのでかなりこそこそ取引をしたようだが、こそこそしても筒抜けである。ミサエは大貴が大人の汚い部分を見たり聞いたりしないように気を引いてくれていたようだが、純ロリとして自分に火の粉が降りかからないように聞こえないようにしていただけかも知れない。
そう言えば、先ほどから姿の見えないその大貴である。果たして無事なのだろうか。……と言うかそろそろ助けてやらないと近所迷惑になりそうである。
先程ルシファーを追いかけて外に飛び出した時、首だけ出した状態でリュックに詰められ、木の枝にぶら下げられていた大貴の姿を飛鳥刑事は見ていた。それと同時にアパートの雨樋をするすると登り恩納月邸に迫るルシファーの姿も見えた。大丈夫そうな大貴よりそちらを優先した飛鳥刑事は”大人しく待っていてくれ、息子よ”そう念じて大貴を放置していたのだ。
その場所に戻ってみれば、大貴に父の願いは届いていなかった。決して細くはない木の枝がぽっきりと折れて大貴入りのリュックが地面に落ちていたのである。ぶら下げられたまま、暴れ倒していたのは明らかだった。地面に叩きつけられても元気なのはずっと聞こえていた声が示していたが。
「あっ、父ちゃん!……なあ、さっき俺のこと無視しなかった?」
大貴は大貴で飛鳥刑事に気付いていたようである。
「無視とは違うぞ、怪盗を優先しただけさ」
それを無視というのだが、大貴はこれで丸め込まれた。
「そっか。それでルシファーは捕まえたのか?」
「残念だが逃げられた。だがあちらも今回は失敗だろうさ」
正確には絵が数枚盗み出されていたのだが、その被害確認が今進んでいるところなのだ。
「何だよ。俺がいないとだめだな」
小馬鹿にした顔をする大貴。飛鳥刑事は決意した。こいつをリュックから解放するのはもう少し後にすると。
しばらくして、本物の女神たちを連れ回していた佐々木刑事も戻ってきた。女神も女神様も無事である。
どちらの現場にもルシファーは現れ、撃退された。そして日付はまもなく変わる。しかし一応夜明けまでは油断できない。
「というわけでオールナイトドライブ、頼むぜ」
似合わないパステルカラーのリュックを背負い、そこから寝こける大貴の首だけを覗かせた飛鳥刑事が佐々木刑事の肩を掴む。
「勘弁しろ。できれば鍵のかかったお家に届けるためのもう一往復さえも遠慮したいところさ」
「それなら提案がありますよ」
リージェント画伯が口を挟んできた。
「ほう?」
「お買い上げになればアトリエに持って行く必要などありません」
「却下だ。持って帰る先が変わるだけだろ。アトリエか警察署かっていう」
「何で警察署なんだ。庸二の家でいいだろ」
「よくねーよ、こんなのが置いてある家に女を連れ込めると思うか。そもそも連れ込んだ女で足りてるっつーの」
「ふっふっふ。ならばあたしのうちに置いていけばいいのさ!」
恩納月女史も加わる。金さえあれば自腹で買いそうだ。なお、彼女もすでにボディースーツから普段着に着替えている。
「なんであんたに貢がにゃならんの……」
そもそもそんな心配は必要なかったのである。ここにはアトリエジョニーの車がきている。帰りはその車に乗せて運べばよいだけだった。なお、その車を見た刑事たちは絶句したのである。
その後。恩納月邸は警察が朝まで警備を継続。少年探偵団は解散。飛鳥刑事が呼んだ小百合が車で連れて帰った。リュックを寝袋代わりに熟睡する大貴を見て不思議そうな顔をしたものである。
少年じゃない探偵は捜査の邪魔にならないように自転車で撤収。元祖ルシファーも娘が心配だし旦那が心配するし嫉妬もするかも知れないので帰宅した。
捜査は粛々と進み、女神たちを巡る悪魔たちの戦いと警察や探偵の奮闘も終わった。しかし、それは始まりの予兆でしかなかったのである。
静かに始まった、二人の愛のメロディ。どうでもいいので割愛のメロディである。
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