Hot-blooded inspector Asuka

Episode 8-『帰ってきた怪盗ルシファー』

第5話 マルガリー・ロマンス

 名画・マルガリーの女の作者であるジョナサン・リージェントは語る。
「あの絵は……取られました」
「まさか怪盗に?」
「いや、モデルの女にです」
 マルガリーの女。それは作られた名画であった。一介の美大生が描いた本来なら二束三文の絵が、口伝の尾鰭と評論家たちの勘違いで名画にされてしまったのだ。
 しかし、名画と呼んで差し支えのない作品であったのは確かだ。海を越え日本に渡ったことで会うこともできなくなった片思いの女性。会えない日々の中でどんどん美化されたイメージを若者ならではの極限の妄想と混ぜ合わせキャンバスに叩きつけて生み出された絵だ。飛鳥刑事たちが目にした着衣の絵もこの世のものとは思えない天使のような美しさだった。評論家たちが名画に認定したヌードの絵はそこにはちきれそうな色気まで満たされていた。作者もすぐに禁断の三作目を描き始めたくらいである。まあ、評論家もエッチな人だったのかもしれない。
 そのモデルとなった女性はジョナサンがハイスクールで片思いしていた相手であった。しかし、時は残酷なもの。留学を終えアメリカに帰ったジョナサンが目にしたのは、すでに三人の子持ちとなり、四人目を妊娠していると言ってくれた方が救いのある大きな腹を揺らす太り切った彼女の姿だった。
 それを機に、大事に抱えていた『マルガリーの女』シリーズを手放すことにした。一番買い手のつきそうなヌードを適当な店に売り、最初に書いた着衣の絵は大学時代の友人に売りつけた。実在の女性の絵を本人の許可なく人に売るのはどうかとも思えるが、美化され過ぎて別人になっているのが実際の所である。
 そして一番エロいほぼポルノの絵は日本で自宅アパートの押し入れにひっそりと仕舞い込んでおいたのだ。
 と。ここまでは既に以前掻い摘まんで聞いた話だ。
「それが何でまた、モデルのお姉ちゃんにとられることになったんです?そもそも、なんで日本にそんな絵があることがバレたのは一体なぜ?売ったヌードの絵のせいですか」
「ええまあ、そんなところですかね。茶飲み話がてら問い詰められて、家探しされるよりは素直に出しちゃった方が身のためかと。……他の隠しておきたいものも、いろいろありましたから」
 さらっと聞いたが、少し考えてみると謎が深い。絵は日本にあったはずだ。なのに、家探しされそうになったという事は、彼女は日本にいたのか。そもそも彼女は片思いの相手だったはず。それなのに、日本にまで会いに来るほど親しい……?
 その辺について詳しく聞いてみると。
「ああー……まずこれを言わないとややこしくなりますかね。あの絵に描かれていた女性スーザンは今、私の義理の姉なんです」
 何がどうなっているのか。想像以上に複雑な事情が絡んでいるようである。きっと、どうでもいい話だ。しかし、ここでの目的である『女神様の微笑み』については既に確認できたので、世間話をするのも悪くはあるまい。……仕事中のような気がするが気のせいだ。

 ジョナサン・リージェント。芸術家を目指していた彼が日本に渡った理由は、割とありがちに浮世絵の影響であった。来てみたはいいが侍も芸者も忍者も歩いていないことに驚くというこれまたありがちな経験もしたが、侍も芸者も忍者も手軽に見ることはできた。テレビでである。
 時代劇から始まり、忍者アニメに。その辺を皮切りにアニメを見始めるとあっさりオタク化したのであった。最初こそ侍や忍者が登場するもの中心だったが、お姫様が主人公のアニメをサムライニンジャカテゴリーに含めて見始まると、男のさがかオタク素養のせいかその可愛さにイチコロ。やがて魔女っ子ものをこれは現代版のニンジャガールだ、バトル物を現代版サムライだと言い訳しながら視聴。そして少女向けの恋愛物に手を出す頃には心の中での言い訳さえやめた。
 一方、日本に来た本来の目的も忘れたわけではない。浮世絵漁りも続いていた。そしてここでも劇的な出会いがある。春画である。
 アメリカではポルノコミックの規制と排斥が進んでいた頃合い。ヌードの絵といえばクラシカルな芸術作品くらいだった。春画だってカテゴリーはクラシカルな芸術作品になるのだろうが、内容は完全にポルノだ。そんなものが規制も排斥もされず存在し続け、まとめた物が書籍として普通に流通までしていることに衝撃を受けたのだった。
 ましてや浮世絵と言えばまずこの名が上がる葛飾北斎まで女がタコに触手責めされるエロマンガなどの春画を描いている。しかも、鉄棒ぬらぬらなどという下品な名前で。美人画の大家・喜多川歌麿もまた、美人を描いてエロを描かない道理はないと言わんばかり。有名な浮世絵師は大体春画を描いているのである。とは言え、この頃の春画の認識はエロスというより下ネタギャグ的な扱いだったようであるが。
 まあ、そんな古典作品に頼らずとも本屋にはエロマンガがあり、挙げ句児童向けの作品ですら少年は少女の浴室に突撃し、女教師のスカートをめくりまくり、少年向けになれば行為がないだけでヌードシーンなどいくらでも。青年向けには何でこれに成人指定がないのかと言いたくなるような作品もある。当時はお色気シーンもギャグの要素が強かったとは言え、それがその頃のマンガ事情──と言いたいところだが、現代でも殊に対象年齢が高めの物に関してはそれほど状況は変わっていない。
 とにかく、そんな日本にジョナサンはカルチャーショックを受けた。サブカルチャーショックと言ってもいいだろう。それは衝撃であり、衝動であった。描いていいんだ、てなもんである。
 淡い思いを寄せながらも結局は兄貴に寝取られたクラスメイト、スーザン。米国の某州、ジョナサンの故郷からほど近い場所にある、かつては大草原だったが今やちょっとした都市になったマルガリーフィールド・シティ。そこのハイスクールでクラスメイトとして二人は出会う。まあまあいい感じにまではなれたもののジョナサンが思いを伝えきれずに片思いのまま終わった恋。
 遠く離れた地日本でそのイメージはえも言われぬ美しさに美化され、ジョナサンはそのイメージを元に既に1枚目の『マルガリーの女』を仕上げていた。それをベースに続編の制作に取りかかった。
 ジョナサンはまずヌード絵の練習からしなければならなかった。グラビアをモデルにデッサンを繰り返すうち、会心のデッサンが仕上がった。元になったグラビアのポーズもスタイルもツボだったのである。そのグラビア、顔は今ひとつ好みではなく、それ故あまり期待していなかったので喜びも大きかった。
 早速そのデッサンを元に2枚目の『マルガリーの女・裸身』を描き始める。後に評論家たちは情熱と魂のこもった絵だと評価するが、まさに行き場のない情愛とありったけのリビドーを叩き込まれた一枚である。だが、これはまだ過程であり道程である。ジョナサンの目的は、己に溜め込んだエモーションを解き放つ作品、情愛とありったけのリビドーの行き場なのだ。
 とは言え、リビドーの行き場がなかったわけではない。冴えなくても金髪碧眼というだけでジョナサンはこの国ではそこそこモテた。後の流行言葉で言うモテ期である。全てをぶつける対象は不要になっていた。
 だがやがてジョナサンの状況にも変化が訪れる。大学を卒業するとジョナサンの周りから女性が急に減った。そしてその頃、祖国アメリカではジョナサンが介した形で知り合い、おつきあいに発展したジョナサンの兄マイケルとスーザンの結婚が決まっていた。ジョナサンは結婚式に参加するために帰国。日本にいる間脳内でやりたい放題してきた彼女と再会することになったのである。
 できちゃった結婚だったのでウェストとバストは育っていたが、まだこの頃は多少グラマラスになった程度だったスーザン。顔も大人びていたがあまり変わっていない彼女がそこにいた。こうして見てみると、それでもイメージの中で美化しすぎていたようだ。
 それはともかく。スーザンはジョナサンに、あの頃の君がもうちょっと積極的だったら今こうして隣にいるのは君だったかもね、などと言った。そして、それは惜しいことをしたと思うだけで終わらない。更に言う。まだ君のこと諦めた訳じゃないけどね、と。ちなみに、新婚の旦那の前である。新婚の新妻を誑かすようなことを言う弟に、兄はお前ちょっと顔貸せや的なことを言うわけである。そして気がつけば初夜の寝室に連れ込まれ、彼女を兄弟で後ろと前から挟んでいた。
 可憐で清廉な少女だったスーザンは死んだのだ。いやもしかしたら最初からそんなものはいなかったのかも知れない。しかし、ジョナサンが脳内で育て上げた理想のスーザンは消えていない。そのイメージは現実の過激で性練なスーザンと化学反応を起こした。そして、これまでたった一枚のヌードを描くにとどまらせていたスーザンへの遠慮も氷解した。
 こうして生み出されたのが『マルガリーの女-乱-』(命名・佐々木庸二)であった。キャンバスに描かれたのは一枚のみだが、何枚ものスケッチやコマ割りされたマンガなども含めて作品群と言っていい。もちろん、世には出さず全てしまい込み、精々大学時代の友人に見せて共ににやける程度であった。
 それから数年経ったある日。兄が突然日本に来ることになった。旅行ではない。軍人になっていた兄はキャンプシュワブに配属されることになったのである。引っ越しの手伝いのためにジョナサンはアメリカに一時帰国。久々に再会したマイケル一家は、人数も夫婦の体重も大分増えていた。今度こそ、可憐なスーザンは死んだのである。なお、その頃体重が増えていたのはジョナサンもであった。
 日本に戻ったジョナサンは、過去の幻影を断ち切る決断をした。マルガリーの女シリーズを手放すことにしたのだ。最初に書いた着衣の絵は友人に売却。2枚目の裸婦像は、もはや美化が進みすぎてハイスクール時代の写真と見比べても同一人物だと分からなそうなのでその友人を介し美術品オークションに出品してもらった。困ったのはただのポルノである3作目である。もはやスーザンの原形は留めて無くてもさすがに他人の目に触れさせるのは躊躇われたし、焼いてしまうには思い入れがある。押し入れの奥底に封印された。
 程なく、事態は動く。先程からちらほら登場する友人というのは今更言うまでも無く今ここに居る八雲氏である。聖華市在住の彼が出品するオークションなど、もちろん金の余った好事家の集まる聖華市のオークション。ぱっと見美しく、更に日本で絵を学んだために日本人好みの絵柄だったその魂の一枚は、結構な高値で落札されて名画扱いされた。そして、八雲氏はそんなことになるとは思いもせず、出品の際に作者名を正直に伝えていたのだ。
 一部の美術好きの間にしか話題にならなかったものの、ジョナサン・リージェントのマルガリーの女として話題になると、海を越えたマルガリーフィールドシティでもすぐに話題になり、そっちから日本にいたスーザンの耳にもすぐに話が届くのだった。
 いくら超絶美化されていようと情報が揃いすぎている。さすがにスーザンがモデルだとバレた。自分の裸の絵が世に出たとは言え、超絶美化である。誰だか判らないし、むしろここまで綺麗に描いて貰えるとむしろ気分がよいと彼女は見た目通りの太っ腹で許してくれた。しかし、これだけで全てではないことも見抜いていた。
 まだまだあるんでしょ、と問い詰められたジョナサンは封印された作品群を開封せざるを得なかった。美化が進んで益々誰か分からないこと、そして他の人に見せてはいないので(八雲氏に見せたことはバレてない)これも笑って許してはくれたが、絵は全て没収された。

 これが、名画・マルガリーの女にまつわるストーリーの全てである。それを聞いた飛鳥刑事の感想は。
「俺たちは何の話を聞かされているんだ」
 話を振ったことを少し後悔したのである。割と、時間の無駄だった。
「その絵はもう、本人の手で処分されているかも知れないのですな」
 名残惜しそうな深森探偵。
「いや、最近旦那が構ってくれなくて寂しいから、この絵で気分を盛り上げて誘うんだって言って担いでいきましたし。使ってるんじゃないですか」
「話を聞いた感じ、ダイエットすれば構ってくれるような気はするけどな」
 まあ、マイケルが太め好きならそうとは言い切れない。そして、本当にどうでもよかった。
 我々が今考えるべきは、過去のことではない。今目の前にある『女神様の微笑み』の事だ。……見れば見るほど、これについて考えるのもどうかと思うのだが。だからこそ、『マルガリーの女』の話に逃げたという一面すらもある。
 『おねがい女神様』。主人公の前に突然現れた女神様が、日頃の善行を認めて一つだけ何でも願いを叶えますというと、その美しさに舞い上がった主人公は「ぼ、ぼくと付き合ってください!」などとぬかし、何でも叶えると言った手前本当におつきあいが始まってしまうと言う物語だ。
 内容もバイクが絡んだその作品にちなみ、バイクとアニメが好きな少年がバイクのフロントカウルをその女神様が描かれた物にしようと注文したという。だが、注文した相手が悪かった。暴走族御用達の深森輪業に注文したせいで、一般的なサイズのカウルにちょっとしたワンポイントイラストくらいを期待していた客は、眼前に聳え立つ裸身の女神様ロケットカウルを目にすることになる。これではいろんな意味で街を走れない。恥ずかしすぎるし、警察やヤンキーも寄ってくる。いや、ヤンキーは逃げるかも知れないが。
「いやー、お客さんも電話帳で見つけた店に軽い気持ちで踏み込んだら、店主もお客もおっかなくて。何も言わずに帰るのすら怖くて、聞かれるままに希望を話したはいいけど細かい注文まで出せなくて、そのくせ何もせず帰る度胸もなくて。このキャラのカウルが欲しいです、くらい言ってさっさと逃げちゃったみたいでね。で、アキラさんはああ言う店の店主だし、うちに来たんならこういうのだろって思ってできたのがこれなんだよね」
 その後、金髪でも大分話しやすい雰囲気のジョナサンにちゃんと事情を説明し、期待通りの品を作り直して無事話は済んだのだが、既に作ってしまったこのロケットカウルはどうしたものかと頭を抱えていたところらしい。
 ちなみに。
「って言うか、何で深森輪業なんて水と油みたいな店の取引相手になってるんですかい」
 それは気になるところである。佐々木刑事の質問に飛鳥刑事も頷いてジョナサンの方を見る。
「まあ、確かに客層は真逆ですがね。バイクにペイントを施したいという客は多いんですよ。まあ、私もそういう需要がこの町にあると聞きつけて店を出すことにしたわけですし」
 深森昭良候補が立候補して以来、走りで目を引こうとする暴走族は大人しくなり、代わりにバイクや車へのペイントや電飾で目を引こうとする動きが強まった。奇しくも、ペイントや電飾に金をかけたことで壊したくないライダーが自ずと安全運転し始める効果もあり、良いことだ。聖華市の道路は去年に比べて大分平和になったものである。その代わり、けばけばしくなっているのはご愛敬だ。
 そして、こうなってくると派手な装飾はヤンキー達だけのものではない。若い女性が車をピンクの花柄に染めたり、ガンダ△や▽クロスのような配色の車があったり、車のボンネットに目の光るおっかない虎が描かれていてどんな怖い人が乗ってるのかと思えば服も同じようなデザインのただのおばちゃんだったりするのだ。この勢いだと、プレーンな車で走ってると逆に目立つようになる日も遠くはないのではないだろうか。
 その装飾のため、各地から芸術家が集まり腕を振るっている。元々美術品好きの多い町だったが、いよいよ美術の町として発展しつつある。落選しても深森候補の効果は覿面であった。次に立候補したら市長はともかく市議会議員くらいなら楽々なれるのではないだろうか。
 ジョナサンもこの町に住む友人をつてにし、そのビッグウェーブに乗った一人だ。そして、波の発生源直々に目をつけてもらったというわけだ。実際の所、ふらっとこの町にやってきたジョナサンが開業に際し手当たり次第に営業をかけた結果なのだが。少女漫画家のアシスタント経験のあるジョナサンは可愛らしい絵柄が専門とは言え、他の絵柄だってある程度はいける。そんなつもりで営業をかけてはいたが、そのような芸術家はすでにたくさんいるのだ。むしろ、アニメ絵が描けることでお眼鏡にかなったようなものだ。深森輪業としても、急激に需要が高まるペイントの相談で紹介できる場所を探していたので、双方の利害が一致した形である。そして、そんなジャストなタイミングで件の客が来たわけである。

「偽ルシファーの奴、どこでこいつの話を聞きつけたんだろうなぁ」
 話を聞いた感じ、ごく最近間違って造っちゃったような代物である。関係者数名くらいにしか知られていなさそうなものだが。
「ああ、それなら私、新聞に広告出しましたからね。それででしょう」
 その広告を見せてもらう。聖華タイムスの隅っこに、小さな写真と共に“ご希望の方にお売りします”という紹介文と共に新聞ならではの解像度が低く分かりにくい小さな写真が載せられている。プラスチックの質感も、何ならアニメ顔も分からない、石膏像か銅像のような美術品に見える写真だ。作品名とキャラ名、そしてロケットカウルとは書かれているので分かる人にはどんなものなのか分かるのだろうが、逆に言えば分かる人以外には暗号みたいな物である。ほぼ原寸大のサイズ感に加えオーダーメイドのハンドメイドで売値もそこそこだし、これを見てどんなものかも分からず盗むターゲットにしちゃった様が見て取れた。
 さて。そうなると次に問題になるのは『女神の微笑み』と『女神様の微笑み』どちらがルシファーにとって本命であるのかだ。
 普通に考えて、こんなプラスチックよりは絵画の方を狙うだろう。だが、『女神の微笑み』の価値は持ち主にすら分かっていない状況なので価値のある作品なのかは分からないし、そもそもルシファーが価値で狙っているのかどうかさえ定かではない。少なくとも、今の飛鳥刑事達の判断では『狙っているのは裸(男女問わず)』だ。どちらも条件としては満たしている。『女神の微笑み』はもしかしたら価値があるかも知れないし、裸狙いでも周りに切り替えられるターゲットが山ほどある状況。真の狙いがそれで無いとは言い切れない。一方、『女神様の微笑み』はものはどうあれ立体であると言うアドバンテージがあるとも言えるし、実用性も備えた品。元となった作品がルシファーが好きな作品かも知れないし、全く予想がつかないのだ。
 と、ここでジョナサンから有力情報が入ってくる。
「加賀野さんなら存じ上げてますよ」
 『女神の微笑み』作者について知っているようである。
「加賀野さんもこの聖華市で活躍している画家さんですね。まあ、会ったり話したことはないんですが」
「そうなんですか。聞いたことないなあ」
 飛鳥刑事は頭を掻いた。
「この町にはそういう人が一杯いますから。えーと……この人」
 ジョナサンが取りだしてきたのは『聖華市・ぶらぶらグルメマップ』である。マップと言っても広げて使う類いのものではなく、冊子であり地区ごとにおすすめのお店が記されている。マップにはラーメンをすするおじさんやパフェの前で喜ぶ女の子などのイラストが添えられている。
「ほら、この人」
 ジョナサンが指さしたのはぱっと開いたページに描かれた、おばさんがお団子を食べようとしているイラストだが、このおばさんが加賀野さんというわけではなかろう。このイラストを手がけたのが加賀野さんなのだ。確かに、後ろの方のクレジットには『イラスト・加賀野太真吾』と書かれていた。言われてみれば、イラストのタッチは少しかの絵画に似ているような、そうでもないような。現在の路線は『女神の微笑み』とはかなり違う方に向かっているようだ。こちらの方が食いっぱぐれがないと言うことだろうか。
 とりあえず、これにより『女神の微笑み』についても作者はそんなすごい画家ではないと判断して良さそうだ。益々、どちらを狙うか分からなくなってきた。

「で、どうする。こいつは俺たちを分散させて警備を手薄にさせる作戦かも知れねえ」
 店先に出て、煙草に火をつけながら佐々木刑事が問いかける。店を出たのは喫煙者としてのマナーからの行為ではない。店の雰囲気に耐えかねたのである。
「あの予告の変更が本当かどうかって話でもあるな。何なら、警備の甘い方に行くって言う手だってある。ならば一ヶ所にまとめて守るまでだ」
 飛鳥刑事も煙草を咥える。が、火はつけない。
「だがよ。下手すりゃ一網打尽だぜ」
「そこはそんなことにはならないという気概を持って臨んでもらいたいがな」
「はいはい。で、まとめるってどこによ?」
「あの狭苦しいアパートよりはこっちのアトリエの方が色々やれそうだ」
「まあ、そうなんだけど……。うへえ」
 萎える佐々木刑事。今回、佐々木刑事は大人しくなるのではないだろうか。良いことだ。とは言え、ここに集めるというのも本決まりの作戦ではない。そもそも。
「そういや、みもっさんが絵の方は囲い込んでるんじゃなかったか」
「そういやそうだな。ならば、あのプラスチックもみもっさんの事務所に置いて警備するか?」
「それがいい。うん、そうしよう」
 この通り、すぐに方針は変わる。そもそも、これですら刑事二人の立ち話に過ぎないのだ。
「と、言うことになった」
 店内に戻り、ジョナサンと話し込んでいた深森探偵にもまだ本決まりでもない立ち話の結論を伝える。
「どういうことですかな」
 深森探偵の反応に飛鳥刑事は嘆息した。
「せっかく斯く斯く然々みたいにして説明を端折ったんですから聞き返さないでくれますかね。お宅の事務所にこの女神様をお連れすると言っているのですよ」
「それについて聞いているのではありませんぞ。何で私の事務所に『女神の微笑み』があるのです」
「お宅が囲い込んだんでしょうに」
「誰がそんなことを言ったのです」
「そりゃあ、お宅の事務員が」
 飛鳥刑事は判断に迷う。これはどういうことなのか。バラしちゃいけないことを事務員が刑事達にさらっとバラしてしまい、深森探偵がとぼけている状況なのか。それとも。
「お宅に事務員のおばさんは……?」
「おりませんよ、そんなの」
「と言うことは、さっき電話をかけた時に出たのは……!」
 一体何者だったのか。すわ、ルシファーが事務所の秘書を装って絵を既に奪っていたのではあるまいか。緊迫気味に問いかける飛鳥刑事に深森探偵は飄々と答える。
「うちにいるのは若い事務員のおねえさんですぞ」
 幼稚園児から伝えられたおばさんという評価と、初老の深森探偵から見た若いお姉さんという評価。相対的な年齢の評価の差異が招いた混乱だったようである。
「どうやら、そのイケない事務員を問い詰めないといけないようですな……。ちょうどいい、ならばいっちょ行きますかね。女神様にもご同行頂いた上で」
 こうして、アトリエジョニーより預けられた『女神様の微笑み』は覆面パトカーで護送される運びとなったのである。飛鳥刑事は女神様を助手席にセットし、自分は後部座席に乗り込む。
「俺が運転するのかよ。しかも隣に女神様を乗せて?」
 佐々木刑事は不服そうである。
「助手席に女を乗せるのは慣れたもんだろ」
「服を着てない女は乗せたことねぇよ……」
 幸い、あくまでもこれをバイクに着けて公道を走り回ることを想定されて造られた代物ゆえ、彩色まではされていないので本物の人間には見えないだろう。それに、移動距離も長くはない。ごねるよりもとっとと目的地に着いた方が得策である。

 深森探偵事務所に到着し、女の扱い離れているがプラスチック製の扱いには慣れていないとごねつつ女神様を抱きかかえた佐々木刑事をしんがりに事務所に入っていく一行。
 彼らを迎えたのは、一度はルシファーなのではないかと疑われまでした事務員である。そんなこととはつゆ知らず、気楽な出迎えをする。
「所長さんお帰りなさーい。あら、刑事さん達もいらっしゃーい」
 飛鳥刑事達を一目で刑事だと見破ったこの事務員の正体とは。
「何でここに居る、ルシファー」
「あら。あたしの職場よ、ここ」
 一度はルシファーなのではないかと疑われまでした事務員は、ルシファー(ただし元祖の方)であった。
「どういうことですかな。ルシファーはもっとぴちぴち……いやその、小娘だったはずでは」
「所長、それは偽ルシファーのことでしょ。何を隠そうあたしこそ元祖本家の真……」
「どういうことかはこっちが言いたいですな」
 ルシファーと深森探偵の間に立ち塞がって話を遮りつつ飛鳥刑事は尋ねた。
「彼女はごく普通に、新聞に出した募集広告を見て応募してきたのです」
「そうよ。怪盗から浮気調査まで名探偵におまかせ……」
 それはいつものこの事務所の広告だが。
「その広告の下の方に一言沿えておいたのです。電話番から子守りまで名探偵がおまかせできるスタッフ募集、と」
「何で子守りなんです」
 深森探偵は独身で今後もモテる予定はない。子供ができる予定も然り。
「何でも何も。最近この事務所が子供のたまり場になっているではありませんか。例えばお宅の息子さんとか!」
 逆に深森探偵に詰め寄られる飛鳥刑事。
「それはアケミちゃんに任せればいいじゃないですか」
「そのアケミちゃんの子守りは誰がするというのです」
 誰からもアケビどころかミサエとも呼んで貰えなくなっていた。それはともかく、深森探偵は彼女が元祖ルシファーとは知らずに雇ったようである。一方ルシファーとしてはもちろん、ここが新ルシファーを追う探偵の事務所だと分かった上で潜り込んだのだろう。
「それより羽丘さん。ここに『女神の微笑み』があると言うのは本当なのですかな。なぜそんなことに」
 事務員を問い詰める深森探偵。今さらっとルシファーの本名の一部が明らかになった気が……まあ、偽名かも知れないが。
「犯行声明文の通りですよ?」
「犯行声明文?何ですかなそれは」
 全くピンと来ていない深森探偵。
「もしかして、アレじゃないか」
 佐々木刑事には心当たりがあるようである。
「なるほど、アレだろうな」
 やはり心当たりのありそうな飛鳥刑事は、その心当たりに手を伸ばした。深森探偵の背中に貼り付けられた正体不明の謎の封筒……。
「おわ。そんなものが貼り付けられていたなら早く言ってくだされ!」
「ちょっと!女性からのお手紙をここまで無視してるのってどうなの!?」
 各方面から非難殺到である。
「いや、だってみもっさんだし。みもっさんについては細かいことを気にしたら負けっしょ」
 佐々木刑事は何の勝負をしているのか。
「宛名も差出人もないし、女性の手紙だとは一目じゃ分からんぞ。どこかの領収書か、『バカ』『アホ』『この人痴漢です』みたいなことが書いてあるだけかと思うよな」
 背中に貼り付けられる領収書とは一体。そしてこの人痴漢ですは主に女性からの告発ではないかと思われるが。
「そんなものが貼り付けられたと思っていたなら剥がすか教えるかしてくだされ」
 とにかく、重要なのは中身であろう。封筒を開くと中にはこれなら女性からの手紙だと分かりそうな可愛らしいメッセージカードに、短く文章が認められている。
『名画・女神のほほえみはニセルシファーにかわりこの真・ルシファーがおかりして深森探偵事務所におあずけしています。詳しくは事務所の美人ひしょまで』
「こ、これはルシファーからの犯行声明文っ!」
 驚く飛鳥刑事。わざとだけあって、わざとらしい。
「開く前から分かってたでしょ……。それはあと20分くらい早く、あたしのいないところでやって欲しかったわ」
 サービス精神で大げさに驚いて見せた飛鳥刑事だが、ルシファーには興醒めだったらしい。
「あ、ちなみにこのほほえみって部分、正確には漢字だぞ。……って言うかひらがなが多いな。秘書くらい漢字で書けよ」
「ふっ……。その手には乗らないわ。調子に乗って漢字で書いて、間違えたらエッチな言葉になっちゃうんでしょ!?」
「……ちなみに、どんな字だと思う?」
「候補は二つ……書くって言う字と所って言う字よ」
「正解とエッチな言葉の二択かよ。で、どっちが正しいと思う?」
「書くって言う字!」
「残念。正解だ」
「何で正解で残念なの……。ま、あたしは飛鳥刑事のこと信じてたから?正解とハズレって言ってたから先に言った奴が正解だろうなってさ。じゃ、折角だし漢字に直しておくわ」
 ルシファーは飛鳥刑事から犯行声明文を奪い取り、ささっと修正して返した。ひらがなでひしょと書かれていたところに新たに書かれていた言葉は密書であった。飛鳥刑事は突っ込むのは保留にしておいた。
「で、佐々木刑事さん。それは何?今の彼女?」
 どさくさに紛れてそっと『女神様の微笑み』をソファに座らせた佐々木刑事にルシファーが問いかけた。なお飛鳥刑事が密書をスルーしたことに触れてこないあたり、本人に間違えている自覚は無いようである。
「いくら次の彼女を探してるところでも、こんなプラスチック人形を彼女にするほど追い詰められてねぇ」
「こいつは偽ルシファーの次のターゲット、『女神様の微笑み』だ」
 飛鳥刑事の言葉に、ルシファーは首を傾げた。
「ん?え?ちょっと待って、じゃああの絵は何なの?」
「名前が似てるから間違えた……。のか、まあどっちかが囮なのか。どういうつもりかは分からん。とにかく、予告についてお詫びと訂正が出た」
 飛鳥刑事が取りだした予告の変更状をひったくって読むルシファー。
「ええええええ。……でも、これ……。怪盗が狙う?」
 怪盗が盗むものとしては、些か不似合いなプラスチック製品である。
「今回のルシファーは分からんぞ。この間ターゲットになった絵も、高くもなければ美しくもない絵だったし」
 アルフォンソ氏自慢の肉体美は相変わらず理解して貰えていない。まあ、筋肉そのものは美しいのだ。日本で受け入れて欲しければ、せめて体毛を剃ってからモデルになるべきであったのだろう。そしてもちろん日本人に媚びるつもりなど毛頭無かったはずである。毛頭無いから毛だらけなのだ。
「ついでに言えば、裸ならなんでもいいんじゃないかってのが俺たちの見解だぜ」
 さすがは佐々木刑事である。こんな科白を、女性に対して躊躇いもなく吐く。
「何……それ。そんなことのためにあたしの名前を使わないで欲しいものだわ!」
「泥棒なんかやるからこんな事になる。反省しろ」
 飛鳥刑事は冷徹である。
「うう。ちょっとだけ、反省した……」
「よろしい。手癖と趣味のよろしくない二代目に反省させるのは先代の役目な」
 飛鳥刑事は泥棒を捕まえる自分の役目を放棄しようとしていないか。
 そうこうしている間にも、そろそろ少年探偵団も学校や幼稚園が終わる頃合い。メンバーが揃ったら本格的な作戦会議を行うことになった。

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