
Episode 8-『帰ってきた怪盗ルシファー』第3話 悪魔の復活
これは筋肉が見せる幻なのか。一瞬そう思う友貴だが、幻にしては鮮明すぎるし、そもそも幻であるならば記憶の中にある姿で出て来るはずである。友貴の知っている彼女から見れば今目の前にいる女性は大分老け……いや大人になっている。そして、声を出さないように友貴の口を塞いでいた手の感触は幻ではあるまい。
「昔はあんなに情熱的に追いかけてくれたのに、こんなつれないこと言うんだと思ってたら……なんか変な夢見てたみたいね。何の夢を見てたの?本物とか筋肉とか言ってたみたいだけど」
相当寝言がダダ漏れだったようである。先程までルシファーの手で塞がれていた口で答える。
「やめろ、思い出させるな……。まあ、どうしてもと言うのなら、同じ夢を見るくらいに語ってやってもいいぞ。剛毛だけをその身に纏ったマッチョマンのことをな……」
「遠慮しておくわ」
寝言ついでにさっきのモノローグが口から出ていないかひやひやものだが、ルシファーの様子からしてそれはなさそうである。特に、老けたとか言うのを聞いていたら激怒していてもおかしくない。
「久しぶりだな、ルシファー。……あれから随分経つな」
「うふふ、時効でしょ。色々と、ね」
薄闇の中で艶っぽい笑みを浮かべるルシファー。
「色々って何だ……。とにかく、このタイミングで現れたって事は……」
「そ。もちろん偽ルシファーの事よ。私の方が本物なんだからね。……いや、あの本物って言うのは夢の中のことだからルシファーのことじゃないのか。何のことだったのかは……聞かない方がいいのよね」
「いちいち蒸し返されるのは困るから、さわりだけ話してやるさ。俺が見ていたのは全裸マッチョのナイスガイの夢だ。そいつがあろう事か、俺の女房を騙り……いや、俺の女房がそいつだった。さあ、この続きを聞く勇気はあるか」
もしもルシファーにその勇気があったら、飛鳥刑事にその先を思い出す勇気はなかった。幸いなことに、ルシファーの返事は。
「ないわ、断じてね。……その話はもうやめておきましょう。で、その偽ルシファーだけど……どんな奴?」
「まあ、気になるよな。そうだな……俺もまだそんなにじっくりと姿を見たわけじゃないんだが……見た感じ、女子大生か女子高生、中学生かも知れないな。そのくらいの若い女だ」
「その幅の広さがいかにもよく見ていないって感じね……。やっぱりあたしに憧れてその名前を選んだのかしら」
嬉しそうにするルシファー。
「憧れてる人のことを年増とか言わないだろ……」
「ちょっと。何それ詳しく」
一転しルシファーの声が殺気を帯び、掴みかかってくる。自分が無神経であったと悔いる飛鳥刑事。だが、自分の発言ではないのは幸いである。
「ベッドで馬乗りになるのはやめろ、お互い家族がいるだろう。……いやな。二代目ルシファーにお前はあの時のルシファーかって問いかけたら、私があんな年増に見えるのかとか言っててな。ああ、この二代目って呼び名はあいつが自分を呼ぶ時は真・ルシファーか新・ルシファーって呼べとか言ってたから、喜ばす義理は無いってんで決まった呼び方なんだが」
「そいつが新ならあたしは旧って訳?なめないで欲しいわ。私に対するリスペクトもなくルシファーを名乗るのは許せないわよ。その二代目って言う呼び方も撤回してちょうだい。そんな奴に跡を継がせる気なんか無いからね。偽で十分よ、そいつは偽ファーよ。フェイクファーよ」
偽物どころか別物になった。
「……それで、そいつはどうなの?手強そう?」
「そうだな、俺と庸二、それに探偵が……一応三人なのかな、半人前が二人で探偵二人分ってことにしておいた方がいいのかな。その人数で追いかけられてもしてやられた」
「探偵……?」
「ああ、最近知り合った変な探偵がいてな。そのおっさんと……飛び入りの女子高生探偵、あと自称探偵の俺の息子がな」
「へえ、女子高生……ね。ルシファーも若いし、楽しそうな現場じゃない」
とても棘のある言い方をするルシファー。実は、ミサエのことはまだ小百合には話していない。どうも……話すのはやめておいた方がいいのかも知れない。小百合までこんな感じになったら針の筵である。
「最盛期のあたしより手強いと考えていいのかしら?ああ、今は女として最盛期だとは思うけど」
「どうだろうな……」
このどうだろうなには今のルシファーが女として最盛期なのかどうかという疑問も含まれている。そちらはひとまず保留にして。
「あんたの最盛期は俺たちにとっても最盛期だ。今のこちらの陣営はヤニ中で若い頃の無茶が祟った中年二人と萎びかけた壮年、変な女子高生とちびっ子だ。あの頃とは戦力からして違うからな、比べてどうだか」
思い返せば随分無茶をしてきた物である。友貴は仕事で、庸二は女で。
「……オッケー、決まったわ。探偵が二人も三人もいるってんなら、もう一人くらい増えてもなんの問題も無いわね。名探偵・元祖本家の真・ルシファーここに爆誕よ」
「やめてくれ、これ以上現場に部外者の女が増えたらますます小百合に話しづらくなる」
「大丈夫大丈夫、あたしもう人妻よ?それどころかママよ?ラブラブ一家よ?他の男のところにしけ込んだりしないって、小百合さんも分かってくれるはずよ」
人妻が余所の男の寝室でベッドの上で馬乗りになりながら何か言っている。
「でもまあ、探偵なんて素人の真似事としてもやったことなんてないし、その女子高生探偵とやらと並んで比べられるのはごめんだからね……。あたしはあたしのやり方でやるわ。そういう事だから、じゃあね。おやすみなさい、もう変な夢見ちゃダメよ」
出来ればそれも遠慮してくれないかな、と言う暇も与えずにルシファーは窓から出て行った。
飛鳥刑事は決心する。これも夢だったと思うことを。
そして。町を行く全ての人が探偵となって偽ルシファーを追いかけ、飛鳥刑事が追い詰めようとした所を黒山の探偵だかりに押し潰される夢から覚めると、朝になっていた。
男と女が言い争うような声がする。女の方は泣きじゃくり、男の声からは苛立ちを感じる。
またか。
飛鳥刑事はそう思いながら刑事課のドアを開けた。
案の定、女に泣きすがられているのは佐々木刑事であった。だが、飛鳥刑事が想像したように佐々木刑事がまたぞろ女性トラブルを引っぱってきたというわけではなさそうである。
「うああああああ、見捨てないでくださいいいぃぃぃ……」
号泣している女に見覚えがありすぎるほどある。探偵セットは身に付けていないが、ミサエである。
「セーラー服で誤解を招くようなことを言うんじゃねえ!お、友貴、こいつをなんとかしろ!」
「仕方がないな……。みんな、聞いてくれ。この子はただの女子高生だ、別に庸二が手を出して泣かせたコスプレ女じゃない」
ミサエの肩に手を置きながら、飛鳥刑事は高らかに宣言したのである。
「何のフォローにもなってねー!むしろコスプレ女だという線が消えて女子高生に手を出して泣かせた鬼畜にしかならなくなっただろうが!」
まあ、昨日は探偵のコスプレをしている女子高生だったが。
そして、ミサエは肩に触れられたことで飛鳥刑事にも反応した。
「うああああああ、見捨てないでくださいいいぃぃぃ……」
「げっ」
まったく同じ科白で飛鳥刑事にも縋り付いてくるミサエ。
「待て待て待て待て、何があった」
まずはそこからだが当人は泣きじゃくるばかりで話にならない。それは佐々木刑事も同じだったようで。
「それがわかんねーから困ってんだよ」
ミサエは何かが原因で、見捨てられることを恐れている。見捨てられるような何か……例えば、失敗。
「そう言えば、昨夜何かでしきりに謝ってたな。……何に謝ってたんだっけ」
飛鳥刑事はその時の状況を思い出す。屋根の上で、泣きながら謝っていた。……恐らく、ルシファーに逃げられてしまったからだろう。そのくらいで謝っていては、飛鳥刑事など何度謝っても足りない。
理由は概ね掴めた。ならばどうやって立ち直らせるかだ。そう言えば昨日はあの後、一度正気に戻っていたはず。一晩明けてまた思い詰めてしまったようだが、それならば同じ方法で一度正気に戻せるはずだ。
あの時、何があっただろうか。……そうだ、思い出した。
飛鳥刑事は縋り付くミサエを佐々木刑事に擦りつけると刑事課を飛び出し、近くのゴミ置き場からゴミの詰まったゴミ袋を運び出して刑事課に戻る。そしてドアの前で少し考えた後、ゴミ袋に自分のスーツを被せてドアを開け、それをミサエに投げつけた。幸いゴミ袋の中はコンビニ袋や発泡スチロールが多くて軽い。投げるのも楽だし、変な汁も出ないし、ぶつけてもそれほど痛くはないだろう。もっとも、ぶつけられるほどの腕力が飛鳥刑事になかったが。
「見捨てなギョエエエエエエエエ!……はっ。あたし、こんなところで何を」
転がりながら迫ってくるスーツを纏ったゴミ袋でミサエは一瞬パニックになったが、ただのゴミ袋だと分かりすぐに落ち着く。そして、驚いたショックで正気に戻っていた。昨日、一時正気に戻った理由は深森探偵に追い回されたショックであった。ならば、今日もショックを与えればと思ったのである。これで正気に戻らなければ、飛鳥刑事も咽び泣く少女にゴミ袋を投げつけるとんでもない鬼畜というイメージを持たれていたことだろう。
「なんとか落ち着いたか?」
「何と言うか、落ちきりました……」
裏返りながらの胴体着陸だったが、生きて地面に着けばよいのである。
「話を聞かせてもらいたいが、こんな所じゃなんだし、誰も居ない所に行こうか?まあ、取調室しかないがね」
「それは勘弁してくださいよぅ……」
「ならば俺の知ってるお洒落なカフェで友貴がパフェでもおごるってのはどうだ」
「はい、それで」
「ちょっと待て」
ミサエと飛鳥刑事の声が被った。タイミングは同じだったが、レディファーストである。
「安心しろ、俺の給料で何とかなる店だし、お前の給料なら屁でもねえよ」
「独身貴族と妻子持ちじゃ自由になる金が違うだろうが……」
ぶつくさ言いながらも、女子高生におごるという状況はまんざらでもない。飛鳥刑事はゴミ袋に被せたスーツを着直し、ゴミ袋を手に歩き出した。その後ろ姿はどこか、出勤するサラリーマンのようであったという。
パフェをつつきながらも物憂げに語るミサエの話はこうだった。
昨日、ミサエは絵を取り返した。ただしそれは深森探偵が用意した偽物、あのまま持って行ってくれた方がよっぽど良い、むしろ持って行かせるための代物であった。そして、それを奪い返されたことでルシファーは代わりに別な絵を盗んでいくことになる。深森探偵の偽物はもとより、『月下のアルフォンソ』よりもまともで高価な絵を、数点もだ。
つまり、ミサエが余計なことをしなければ被害は最低限、どころかほぼゼロで済んだと言える。
「つーかさ、奪い返したって、どんな風によ?」
「ええと、ルシファーをこう、追い詰めて。絵を捨てて逃げないといけない感じになって。それで……」
混乱のせいか記憶があやふやらしく、言葉がうまく出てこないようだ。この後屋根の上で泣き濡れていたことから察せられる展開は。
「その時に、この絵は諦めるけど他の絵を持っていくって言われた訳か」
「ええと……そんな感じです」
それで、自分が調子に乗って追い詰めなければあの偽物の絵を持っていくだけに留まったはずだと悔恨のあまり泣いていた訳か。
「でもまあ、捕まえようとはしてるんだから持ってる絵が偽物だからって追いかけない訳にもいかないし、追いかけず放って置いたら放って置いたで絵が偽物だって気付くかも知れないしなぁ」
たとえ食いついた餌が囮でも、全力で釣り上げるのが飛鳥刑事のポリシーである。
「それによ。嬢ちゃんにはあの状況なら、取り返した偽の絵を隠して持ち去られたフリをするって言う選択肢だってあった訳よ。まあ、最終的にはルシファーの方が取り返されたのバラしちまってたから無駄だったろうが、それをせずにちゃんと絵を残しておいただけでも十分いい子ちゃんだと思うぜ」
フォローする佐々木刑事の悪徳が過ぎる。こんなフォローで立ち直られては教育にも悪い。ちゃんとフォローすべきだ。
「ま、ミサエくんは悪くないさ。別に見捨てたりはしないよ」
雑なフォローではあったがミサエは飛鳥刑事に潤んだ目を向けた。
「それにだ、考えてもみろ。警官は男ばかりだ。そこに俺と友貴、それにみもっさん、友貴んとこの坊主。……むさっ苦しいったらありゃしねえぞ。これで嬢ちゃんががいなかったら現場ほったらかしてキャバクラ行くね」
欲望丸出しのフォローだった。
「女子高生にキャバ嬢の代わりを期待するな……。そもそもルシファーは若い女なんだから、それで十分じゃないか」
「どこが十分なんだよ。ルシファー抜きで待ちぼうけしている時間の長さと出没してる時間の短さ考えろ。そんなルシファー相手じゃトークもスキンシップも出来ねぇだろうに」
「ミサエくんならスキンシップし放題みたいな言い方するな。それならむしろルシファーの方だろ、取り押さえる振りして組んず解れつできるし……と、そうそう」
飛鳥刑事は今朝のことを切り出すことにした。別に、組んず解れつから朝方の出来事を思い出したというわけではない。
「実はな、ルシファーの奴が俺の家に現れてな」
「うぇっ!?」
ミサエは驚いたようである。
「ほう。犯行予告でもしに来たか」
佐々木刑事は暢気である。
「そうじゃなくて。……ああ、ややこしいわなぁ。元祖本家の真・ルシファーって奴よ」
「ほぉう。懐かしいねぇ、元気だったかい」
この言い方で通じるようである。
「元気そうだったぞ。まあ、俺の方が寝ぼけててよく分からないうちに帰られたけど。とにかくよ、あいつ、偽ルシファー打倒に燃えてるみたいだぞ」
「に、偽って……。なんでそんなことに」
やっぱりミサエは驚いたようである。
「偽ファーが最初にルシファーのことを年増とか言ってたの、うっかりバラしちまってな……」
「言う必要あったのかよ、それ」
「なかったよなぁ。黙ってりゃ、あいつも話するだけで帰っただろうにめんどくさいことになっちまってよ」
思えば、女子高生とお茶をする会が、いつの間にか女子高生をほったらかしておっさん同士で話し込む会になっている。
そして、話題はそのまま飛鳥刑事の見た悪夢になる。ルシファーが蒸し返したせいで記憶に焼き付けられ、忘れるに忘れられなくなってしまっていたのだ。この苦しみ、庸二にも共有させてやる。そんな思惑に、ミサエも密かに巻き込まれるのだった。話している相手は庸二であっても、一緒にいる以上ミサエにだってその話は聞こえてしまうのだから。
結局、女子高生とのお茶はむさ苦しい夢の話で幕を引き、各自微妙な気持ちでそれぞれの生活に戻ることになったのである。
次の予告状がきたのはそれから一週間は経たないある日のことだった。そして予告の日が、前回からちょうど一週間後となる。
『次の土曜日。恩納月邸より加賀野太真吾作・女神の微笑みをいただきます。追伸・小さなお屋敷ですので警備は最低限でお願いします。』
「最低限でっていうけどよ、その手に乗るかよってな。床が抜けるほどの大人数で押し掛けてやるさ」
佐々木刑事は不敵に笑うが、それは明らかに家人に迷惑であろう。とは言え。
「どうせ配置するのは外だろうしな」
「で、恩納月ってどこのどいつよ」
「お前だろ」
「俺は女好き。聞いてるのは恩納月だ」
名前は判っているのにどこに住んでいるか判らない人物の住所を調べるのに手っ取り早い方法がある。電話帳である。
恩納月と言う珍しい名字は一人しか掲載されておらず、特定は容易いがこの人が件の作品を所持していなければ大変なことになる。だが、電話に応対した女性はその名画を所持していると答えた。
そして、刑事たちは電話帳にあった住所を訪ねたのだった。電話で言われたとおりの建物がそこにあった。四階建てのそれを見上げる。
「邸宅、ねえ……」
佐々木刑事はそう呟くと建物の中に入っていた。飛鳥刑事もそれに続く。
狭い階段を二階分昇る。そこから少し歩いて扉の前に立つと、横のネームプレートに確かに恩納月の名が記されていた。304と書かれた扉を叩く。
レジデンスゆうやけロマン304号室。それが恩納月正美の居所であった。新しく小綺麗だが、しょぼいアパートだ。
電話帳で名前を見た時点ではまだ男の可能性はあったが、電話に女性が出、居所がアパートだと知り夫婦である可能性も薄らぎ、訪ねてみて確信に至る。イメージしていた女好きのおっさんは居なかったのである。
出てきたのは若い……と言えなくもない地味な女性であった。地味であるがゆえに齢が分かりにくい。女性に齢は聞けないし、割と興味も起こらない。謎のままにしておくのが一番だ。
警戒心剥き出しの彼女に警察手帳を見せ、怪しいものではないことを示した。
「警察は市民の味方、俺は特に女性の味方ですよ。特に淋しい女性のね」
ストライクからは程遠いどボール球だが、暴投レベルではない。佐々木刑事は一応念のため、口説いておくことにしたようである。せっかく警戒心が解けかけたというのに。
「はあ。そうですか」
露骨に脈の無さそうな反応。元々一応念のためなのだ。ここで深追いする必要性を全く感じなかったようで佐々木刑事は黙った。
早速、『女神の微笑み』なる作品を確認する。
「えーっと……」
部屋の隅の棚に板のような箱がいくつか立てられていて、そのうち一つを取り出した。作品であることは予告状に書かれていても、絵なのか彫刻なのか、いっそ小説や漫画の原稿だったりするのかどんな作品なのか分らなかったが、絵画だったようである。箱の中で絵は更に紙でくるまれている。その包みを開くと簡素な額に収まった絵が出てきた。日本画チックな絵柄だが、モチーフはギリシャ神話の女神チックだ。とりあえず、素人目に見てもそこそこ美しいとは思える絵だ。
「これはどういった絵なんですか」
「えっ。……ええーとぉー」
飛鳥刑事の問いかけに、恩納月女史は戸惑った。
「ああ、いえ。分からないなら別にいいんですが。それにしてもずいぶんと絵をお持ちのようですが、これはどういった経緯で……ああ、これは捜査のための質問ではなく雑談ですので話したくないなら無理にとは言いませんが」
そちらについては話してくれた。これらの絵はそれなりに裕福だった父の遺産の一部であるらしい。
「あまりいい父とは言えませんでした。母は父が度々浮気をするので私が幼いころに離婚してしまい、弟と一緒に出ていきまして……。父と二人暮らしになってからも度々新しい女性を連れてきて、父は私の面倒を見てもらうために連れてきた家政婦さんだと言っていましたが、明らかに男女の関係でしたね」
佐々木刑事は耳が痛そうである。
「その父が数年前に死んで、遺産のうち屋敷は弟が、これらの絵を私が相続しました。どうやら父が趣味で集めていたもののようです」
今まで住んでいた家は弟と母が住むことになり、彼女は家を出た。別に追い出されたわけではない。今の私のことを他の家族にあまり知られたくなかったから、と彼女は答えた。深い事情がありそうだが、絵に関係あるとも思えないし、立ち入って聞く話ではあるまい。
「父の形見ということなら大事な絵なのでしょうな」
飛鳥刑事の言葉に恩納月女史は言い淀むが、事実を吐露した。
「父にはあまりいい思い出もないし、財産と割り切ってはいたんです。いたんですけどぉ……」
恩納月女史は棚から絵を数枚引っ張り出し、包みを解いて並べた。にこっと、いやむしろニヘラッと頬を緩ませる恩納月女史。
「きれいでしょ」
「ええ、まあ」
名画と呼ばれるものには、美しくないものをありのままあるいはなおさらに汚らわしく描いたものもある。だがそれは名画であればこそ。売り物にするための絵は分かりやすく美しいのが普通であろう。みんなピカソより普通にラッセンが好きなのだ。
それにしても。どうやら蒐集された絵にはある傾向がみられるようだ。
「いい趣味してますね」
佐々木刑事がいい趣味だと思うような絵。全もあれば半もあるが、どの絵も裸婦像である。『女神の微笑み』もまた、腰布一つでポーズを取る女神なのだ。
「売るにしても高く売れるものばかりでもなければ、こっちは素人なので価値ある絵を安く買い叩かれてもわかりませんし。だったら手放したりしないで時々眺めてた方がいいなって」
「はあ」
要するに、大事ではあるが父の形見だからではないと言いたいらしい。割とどうでもよかった。
「しかし、こいつは面倒なことになったぞ。この絵の山はよ」
「そうだな……」
月下のアルフォンソの時の挙動からして、今度のルシファーは予告の物を盗むことに拘らない。目的の物が盗めないとなれば周りから手頃な物を見繕って持って行くだろうし、首尾よく目的を果たしたところでそれだけで満足するのか、更なる獲物を求めるかはわからない。
この部屋には代わりに持って行くにも追加で持って行くにもよい絵がいくらでもあるのだ。幸い狭い部屋、まとめて守ればよいのだが、守り切れなければ逆に一網打尽もあり得る。
「あのー」
考えを巡らせていた飛鳥刑事に恩納月女史がおずおずと声をかけてきた。
「何か?」
「その……刑事さんはルシファーを見たこと、あるんですか」
「ええ、ありますよ」
「女の人なんですよね。どんな感じ、でしたか」
「そう言われても……。若い女でしたね。高校生くらいかな。顔まではよく見てませんがね、まあまあ可愛かったと思いますよ」
「おおっ」
見るからにテンションが上がる恩納月女史。飛鳥刑事は何となく言い添える。
「ルシファーを追っかけてる中に美少女探偵もいましてね」
情報について美しさが過剰に盛り気味だが。
「おおおぅっ」
恩納月女史も盛り盛りだ。もりもりの、さかりざかりだ。
飛鳥刑事は悟った。浮気で離婚した上裸婦像をかき集めていた彼女の父は名前通りの女好きだ。そして娘もまた女だてらに女好きなようである。父の集めた裸婦像に執着する理由もこの辺りにありそうである。
まあ、どのような理由であれ、大切にしている物を奪おうとしている怪盗を放っておくわけにはいかない。いや、怪盗を名乗っているのであれば何もしてなくても捕らえるまで。予告の日時までまだ時間はある。万端の準備で迎え撃つべきである。
「私、ここにいていいんですね」
あれから何日か経っているのにミサエはまだネガティブから脱し切れていないようだ。しかしこの糞暑い中、鹿追帽にインバネスコートとう暑苦しいホームズコスプレ姿で落ち込んでいても、あまり深刻に見えないのは如何ともし難い。時間的に学校帰りのはずだが、学校にこの嵩張りそうなコスプレグッズを持ち込んでいるのだろうか。落ち込んでいる少女のやることでは無い。ともあれ、女性が落ち込んでいるなら慰めるのは男の義務だ。
「もちろんだとも。むしろ居てもらわないと困るくらいだよ」
飛鳥刑事の言葉にミサエは目を潤ませた。この言葉は本心である。何せ飛鳥刑事は恩納月女史に、美少女怪盗を美少女探偵が追いかけると言ってしまっている。言ってしまった以上、美しいかはともかく少女たちの追いかけっこは実現してくれないと、飛鳥刑事の評価は女性を騙した男という佐々木刑事以下のものになってしまうのである。佐々木刑事はああ見えて後腐れのないことを信条としており、悪い嘘はつかないのだ。
これでミサエも安心して本題を切り出せる。そろそろ怪盗がらみで何が動きはなかったかを訊きたかったようだ。動きなら丁度あったところ。先述の事情もあることだし、話すのは吝かでもない。
しかし、刑事課に女子高生が居座っているのも具合が悪い。しかも先日押し掛けて泣き喚いていたその人だ。ますます注目の的であろう。やっぱりここにいるのは些かよろしくないようである。どこかに、なるべくお金のかからないどこかに連れ出すことにした。
それは警察署内にあった。小会議室が空いていたので一つ借りることにした。これから会議の予定も、先に無断で使用しているカップルもいない。
「ここなら給湯室でお湯を沸かせばお茶はタダだ」
「じゃ、私お茶煎れてきましょうか」
立ち上がるミサエを制する飛鳥刑事。
「いや、給湯室の場所とか分かんないだろ」
まったくその通りであった。
「ここは俺のおごりってことにしといてやるさ」
「金は税金からだがな」
代わりに佐々木刑事は給湯室に向かう。その様子を見送ると飛鳥刑事はぼそっと言う。
「ふぅーん。あんた、女だと思われてないな」
「はい?」
「俺はてっきりあいつのことだから俺を給湯室に行かせてその間にミサエ君を口説きにかかるものだと思っていたがな」
「はい!?」
居なくなった相手に対するガードを固めるミサエ。
「ここってそこの鍵をかければ密室だろ。だからそういう目的で使われることも多くてな。って、高校生に言うこっちゃないが」
「ええもうほんとに」
たとえそれが佐々木刑事で無くても、そんな部屋に男と二人きりという状況は不安であろう。
「ま、俺は妻子持ちだしその点安心だよな」
飛鳥刑事は何の根拠もない気休めを言った。わざわざ言ってしまう辺りにミサエの警戒心は高まる。
そして佐々木刑事はなかなか戻ってこなかった。
「あの野郎っ」
飛鳥刑事は今更ながら佐々木刑事の目的に気付いた。ミサエを一人部屋に待たせて給湯室に向かう。案の定、佐々木刑事はお湯をとろ火で沸かしながら婦人警官たちと歓談中であった。
「お前が楽しくお喋りすべき相手はもっと若い女だろ」
飛鳥刑事は火力レバーを最強にスライドさせながら言った。
「若すぎだろうよ、手も出せねえじゃん」
「なあに、小学生でも連れ込んだ?」
派手な婦警はキャバ嬢のような所作で佐々木刑事に問いかけた。
「んなわけねーだろ。その言い方だと中学生までなら手ェ出しそうだと思ってんだろてめー。高校生よ、高校生」
「手を出されても高校生なら自分の選択に責任持てる歳じゃないの」
警官とは思えない発言をする婦人警官。自分の高校生時代がそうだったから出た発言であろう。でなければ佐々木刑事とこんなところでお喋りなどしない。
「手を出される方の目でものを見るんじゃねえ。全責任とらされるのは手を出した方だろ。酒場で捕まえた女が歳ごまかしてた女子高生でも叩かれるのは男の方だぜ。だってのに見るからに女子高生なら完璧アウトだろうが」
「えぇー。じゃコスプレは?幼児プレイは?」
その会話に飛鳥刑事は割って入った。
「そういうどうでもいいところを掘り下げるんじゃない。ほれ、お湯が沸いたぞ。女子高生とお茶したら次は大人のお姉さんとこ連れてってやるからよ」
どこのお姉さんのことかはすぐにピンと来たようである。
「ああ、そうだなぁ……。お待ちかねだろうしなぁ」
彼女はそう、小綺麗な安アパートで平面的な美女に囲まれながら待っているのだ。佐々木刑事では無くミサエの方を。
「つってもソッコーでフられたお姉さんだしなぁ。俺、パスしていい?」
佐々木刑事としてもフられて未練を抱くような相手ですらない。
「それじゃ裸のお姉さんの相手でもしてりゃいいさ。とりあえず来い」
「それが無難だねえ……」
佐々木刑事はポットを手に歩き始めた。飛鳥刑事は手にティーセット──急須と湯飲みとほうじ茶オンザお茶盆──を持ち後ろに続く。そして。
「何でついてくるんだ」
振り返りながら冷ややかに言う飛鳥刑事。
「何よ。いくら妻子持ちだからって今のはちょっと冷たくない?」
なぜか婦人警官たちもそれに続いていた。
「決まってるじゃない、面白そうだからよ。口説くわけでもない女子高生と何をするのか気になるし、よーちゃんがソッコーフられたお姉さんとかも気になるし」
「暇なのかお前ら。……暇に決まってるか」
暇でなかったら給湯室に屯して駄弁ってはいないのである。
会議室に戻るとミサエは廊下に出て二人の帰りを待っていた。
「そんなに俺の帰りが待ちきれなかったのかい」
「待ちきれなかったのはお茶だろ」
佐々木刑事の言葉に冷静かつ冷徹にツッコむ飛鳥刑事。
「どちらかというと刑事さんたちの方ですぅ。っていうか後ろの人たちは……?」
見慣れない人を連れてくれば気になるのは仕方ない。
「ただの暇なギャラリーだ。気にするな」
「そうそう、ただのお色気要員だ。対抗したければ色気をつけて出直してきな」
「ええー。部外者連れてこないでくださいよー。それと、お色気要員私じゃダメですかー?」
「うん。それは君が警官になってから言おうな」
「でもってもっと色気出てから言いな」
「はうあっ……」
そうこう言っている間ににも警察から見ての部外者は会議の部外者たちに取り囲まれた。
「へー、君が話題の女子高生?まあまあ可愛いと言えなくもない感じ」
「生まれるのがあと5年早かったら、よーちゃんにこの部屋でエッチなことされてたよー」
「なにこれコスプレ?名探偵?」
ミサエが囮になっている間に刑事たちは会議室に入っていった。ポットを置いた佐々木刑事とお茶盆を置いた飛鳥刑事は会議室を見渡す。いくつかの備品以外目に付く物のない会議室であることは先ほどと変わりない。ただ一点を除いて。
煙草もくわえていないのにライターを取り出した佐々木刑事は、会議室の隅にしゃがみ込むとライターを点火する。
「庸二、何をしてるんだ」
「何って。見りゃあわかんだろ。燃やすんだよ、ゴミをよ」
会議室の隅に忽然と現れたゴミ袋は、炎を避けるようにローリングを始めた。だがその方向には壁が聳えている。
「室内で燃やすのはどうかと思うぞ。外に出した方がいいなぁ。ちょうどそこに窓もあるし」
そう言いながら飛鳥刑事が開け放った窓では、三階の高さから聖華市の町並みが一望できる。ゴミ袋を窓辺に向けて引きずっているとゴミ袋は解けてスーツ姿の紳士が現れた。
「おやおや、これは驚いた。探偵殿でしたか」
「何を白々しい。私がただのゴミ袋だったとして、火ィ着けたり三階から落としたりしますか」
「しませんね。危ないし」
「まったく。人間として扱って欲しいものですな」
「人間として登場すればそれも吝かじゃないんですがね。……ミサエ君が廊下に出てたのもあんたの仕業ですかい」
「まあ、そうなるのでしょうな」
後々ミサエに何があったのか尋ねてみると、この時の恐怖体験を語ってくれた。飛鳥刑事が佐々木刑事を追い会議室を出てミサエが一人取り残されると、程なくノックの音がした。返事はしたがそれに対する反応はなく、扉を開けると足元にゴミ袋。小さく悲鳴を上げて飛び退くとゴミ袋は追いかけるように転がってくる。会議室のテーブルをゴミ袋に追い掛けられ一周し、部屋を飛び出したそうである。
「あの夜でトラウマになってるのに……。鬼ですかあんた」
「いいえ。ゴミです」
「それは見た目だけにしとかないと、いつか埋め立てられますぜ」
なお、ミサエが会議室を飛び出して扉を閉めると、さすがに扉を開けてまで追跡しては来ず行き場を失ったゴミ袋は刑事達が目にした隅のポジションに静かに転がっていったようである。全員揃ってから人間として登場するつもりだったようだ。揃う前に、処分されかけたが。
「それにしても、わざわざここに現れたということは予告状のことを聞きつけたんですか。まだ正式発表も出してないのに」
どこから聞きつけたのかと感心する飛鳥刑事だが。
「そりゃあ、私には弟子がいますからな」
「あ」
そう言えば。大貴には予告状のことを話してあるのだ。詳しい内容までは教えていないが、探偵を呼び寄せるには十分な餌といえる。何のことはない、深森探偵を呼び寄せたのは飛鳥刑事自身だった。
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