Hot-blooded inspector Asuka

Episode 8-『帰ってきた怪盗ルシファー』

第2話 怪盗は怪盗をも呼び寄せる

 不意に美術館の電灯が消えた。
「おいでなすったか!」
 飛鳥刑事は辺りの気配に集中する。
「へっ。暗闇の中で女相手にどうこうするのは俺の得意技だぜぇ……?」
 佐々木刑事も科白はともかく気合十分だ。
「とにかく、絵のところに戻ろう」
「おう。どこで待ち伏せるよりもそこが一番確実だからな」
 ただしそれはまだ絵が盗られていなければの話である。
 懐からペンライトを取り出し、辺りを照らしながら絵のところに戻る二人。そして、“月下のアルフォンソ”が架けられていた場所を照らすが。
「あれっ。なんかエレガントでいい感じの絵になってる……?」
 飛鳥刑事は思わず叫んでしまった。ペンライトの弱く範囲の狭い光だと、深森探偵の描いた雑でチープな偽物も粗が目立ちにくいのだ。しかし、さすがに元の絵の強烈なインパクト故、偽物にすり替わったことはすぐにわかる。
「あの絵がいい感じじゃないとでもいうのですか!」
 学芸員の声が闇の中から聞こえた。その学芸員からその絵が偽物であること、本物は子供たちが余所に運んでいることを知らされる。絵はすでに、ある意味盗られていたのである。そうこうしているうちに、その子供二人が帰ってきた。ミサエは気分がすぐれないようである。
「どうした嬢ちゃん。疲れたなら休むかい、俺の腕の中で」
 佐々木刑事の質の悪い冗談にも大した反応ができないほど消耗しているようだ。
「ううう。男の体は5年くらいノーサンキューですぅ……」
 何にそんなに打ちひしがれているのか尋ねてみれば、あの絵の下側を持たされたとか。それは……ご愁傷様である。そして思い出させてしまってごめんなさいである。
「おいおいおい。5年も待ったら嬢ちゃんも本格的にいい女になって冗談じゃなく口説きたくなっちまうだろ。って言うか、そんな乾いた青春時代でいいのか。あんな絵に負けるんじゃねえ」
「あんな絵とは何ですか!」
 この中で唯一、あの絵をあんな絵だと思っていない学芸員が激昂した。誰も共有も共感もできない怒りである。
「お前は少し乾かした方がいい。とにかく、ルシファーが近くに迫ってるはずだ。警戒しろ」
 警戒しろと言ってやりたいのはお前もだ、と言いたくなるようなユルい雰囲気で飛鳥刑事が言い放った。
 辺りは静寂が包み込み、絵を見張る者達の息遣いのみが聞こえる。
 と。
 飛鳥刑事が持っていたペンライトの光の中に、黒い影がよぎる。天井から、下に向けて。そして絵の前でストっと音がした。絵を照らしていたペンライトは、次の瞬間には壁を照らしていた。
「へへーん、いっただきぃー♪」
 陽気な声が聞こえた。声はとても若い。かつてのルシファーのそれよりも子供めいて感じる。そのかつてというのもだいぶ昔のこと故にはっきりと覚えているとは言い難いが、それでも当時で飛鳥刑事より少し若いくらいだったことを考えると、かつてのルシファーと同一人物ではなさそうである。
「ルシファーか!?何者だ!」
「いや、だからルシファーだって」
 どのようなルシファーなのかを問いたかった飛鳥刑事の誰何の意図は伝わらなかったようだ。
「お前は、10年くらい前にも現れたあのルシファーなのかと聞いている!」
「ひっどい!あたしがそんなに年増に見えるっての!?」
 年増に見えるも何も、そもそも姿自体がまだよく見えていないので何とも言えないのである。だからこその誰何だったのだが。何はともあれ、あのルシファーでないということは確定した。
「とりあえずお前はルシファー2号ってことでいいな?」
「新・ルシファーのほうがいいなー。いっそ真・ルシファーでもいいんだけどぉ」
「泥棒を喜ばす義理はない。2号で決まりだ」
 話し声を頼りに飛鳥刑事が距離を詰めていく一方で、佐々木刑事は密かに動いていた。警官たちを部屋の入口に移動させ、ルシファーの逃げ場を塞いでいく。
 そこで電源が回復したようで、辺りが明るくなった。
 ルシファーの姿と盗まれつつある絵が目の当たりとなる。黒い全身タイツ、短い髪。口元も覆面で隠され、涼やかな目だけが見える。そこそこの大きさで重そうな、明るくなったことでいかにも安っぽい全容を現した水彩画を左手で抱え、右手では天井からぶら下がったワイヤーに取り付けたリールのような機械をしっかりと握りゆっくりと上昇していくところだ。
 もう地面の上から手を伸ばしても、さらにジャンプをしても、ルシファーの足先に手を触れることもできそうにない高さにいる。さながらカンダタのよじ登った蜘蛛の糸に群がった亡者の如く警官たちが群がるが、飛鳥刑事と佐々木刑事はそれに参加しない。自分の歳をわきまえているのである。
「うわー、やめてー。切れるー!やめてってばー!こらー!」
 ワイヤーの心配をするルシファーこそキレそうである。
「いいぞ、このままワイヤーを切って落としちまえ」
 酷い作戦を伝える佐々木刑事。だが、そんなに甘くはない。ルシファーは自分の足くらいの位置でワイヤーを切り、警官たちのほうを落とした。もはやカンダタである。カンペキにタダのカンダタである。しかし、ルシファーの上にはそれに呆れて糸をぶった切る蜘蛛もお釈迦様もいない。これでもうジャンプくらいではワイヤーの先に手も届かない。しかし。
「肩車すれば届きそう……。身軽なあたしがいきますっ!誰か肩車を……」
 ミサエはそこまで言ってハッとする。ここには男しかいないのである。乙女のミサエには恋人でもない男に肩車されるのはかなり勇気がいる。
「さっきは手をこまねくばかりで何もできなかったからな。ここは俺が」
「なんの、それは俺も同じだぜ。だから俺が」
 佐々木刑事と飛鳥刑事が小競り合いを始めた。
「お嬢さん。この男は夜毎違う女を寝床に連れ込むような実に女癖の悪い奴でね。そんな男に体を預けるなんて危険だと思わないかい」
「そういうお前は嫁の尻に敷かれて他の女と楽しいことをする機会に飢えてんだろ。嬢ちゃん、あんた楽しまれちまうぜぇ?」
 とうとうというか早々に貶し合いに発展した。どう考えてもどっちも信用ならなかった。
「明け透けスケベとむっつりスケベの差でしかないですな。いっそ、この枯れた中年に任せてみるのはいかがですかな?」
 深森探偵も参戦する。そして、ぎらついた眼はどう見ても枯れてそうにない。
「え、ええと。……少年、お願いできるかな……?」
「無理だし。それにあの紐に届くと思えねーぞ」
「だよねー……あっ」
 ミサエは何かに気が付き、走り出した。揉めて揉み合う飛鳥刑事と佐々木刑事が、いい感じで階段として使える体勢になっていたのだ。飛鳥刑事の膝を踏み台に佐々木刑事の背中に、そこからさらに飛鳥刑事の肩に飛び移り、ワイヤーを掴んだ。
「くっ、なんて奴だ!」
 怪盗が逃げた時より悔しそうな飛鳥刑事。
「まったくだぜ、スカートの下にブルマは反則だ」
 怪盗をとっ捕まえようとやってきたのであれば、捕り物で駆け巡ることも当然想定できるだろう。であるならばどちらかというとそれは普通に当然の処置であった。そして、それは重要ではない。今はスカートの中よりルシファーである。
「大貴も追いかけろ!」
「よっしゃあ、任せとけ!俺を思いっきり、ぶん投げるんだ!」
「よしきた!」
 飛鳥刑事は大貴の尻を手に持ち、思いっきり振りかぶった。そしてワイヤーめがけて投げつける。大貴の手がワイヤーに伸びる。空を掴む。ワイヤーが顔面を叩く。そして顔面は壁も叩いた。
「惜しかった!」
「おいおい、流石に無茶じゃなかったのか、今のは」
「俺の息子を甘く見ちゃあいけないぞ。ああ見えてあのくらいの高さからはしょっちゅう落ちてる」
 だからあのくらいは慣れっこなのだが。
「しょっちゅう落ちる様なトロくさい奴を行かせようって時点で無茶だ」
 落ちて当然であった。
「しかし万が一ということがあるからな」
「万が一の可能性に賭けるようになったら終わりだ」
「ああ、どうせ終わってたみたいなもんだし、いいだろ」
「まあ、それはそうだな」
 納得してしまう佐々木刑事。確かに、もうここでやれることなど何も残っていない。次にすべきことは逃げた怪盗を追いかけることである。

 逃げたルシファーを追い、刑事たちは階段を昇る。探偵も階段を駆け昇る、そこで力尽きた。歳をわきまえてゆっくり昇るべきであった。大貴も一気に階段を駆け昇る、そのままどこかに行ってしまった。大貴は炎のような心を持ち、それでいて水のような物。曲がることも、止まることもなくどこまでも突き進むのだ。それでいて、低いところではなく高いところに昇りたがる。液体ではなく湯気であろう。であるなら、ハートの熱さも炎ではなくお湯に喩えたほうが良いのだろうか。
 とにかく、怪盗がそっちに行ったかどうかはまだわからない。大貴について行くと飛鳥刑事まで迷子になりかねない。
 開け放たれ、ワイヤーが垂れる窓が見えた。ルシファーが出、ミサエが後を追った窓である。
「さて、どうする」
 佐々木刑事が飛鳥刑事に問いかけた。
「行くしかないだろ」
 ここからでもワイヤーを昇るのはさすがにキツそうだが、それこそ一人を足場にすれば窓に手が届きそうだ。窓の外に出られたらもう一人も引っ張り上げればよい。
 狭い足場を通り、刑事達も換気窓から屋根に出た。人が通ることを想定した窓ではない。飛鳥刑事は割とすんなり出られたが、いくらかガタイのいい佐々木刑事は通り抜けるのに苦労した。ここからまた戻るのは億劫だ。それに、きっと怖い。上を見ながら進めばいいのぼりと違い、降りるときはその高さをしっかりと目に焼き付けてからになりがちである。とにかく、その時のことはその時に考えればいい。今から考えて絶望することはないのである。
 既に、ルシファーの姿はない。それどころかミサエすらどこにいるか分からない。……いや。頭の上から物音がする。飛鳥刑事は懐中電灯を取りだしそちらに向けた。その光に反応し、声が上がる。
「そこかっ!覚悟しろルシファー!」
 颯爽と人影が宙に躍った。そして、あまり落差のない屋根にくるりと回転しドスンと墜落した。この躍動感溢れるトロさ。この小ささ。そして、聞き慣れた声。
「息子か。おい、上にはルシファーはいなかったんだな」
「なんだよ、父ちゃんかよ。上には誰もいなかったな。階段は一本道で、扉しかなかったぜ」
「さすがにもう逃げたか……?」
「畜生!」
 苛立たしげに地団太を踏む佐々木刑事。
「おい、諦めるにはまだ早いぞ」
「そうじゃねえよ。……上からこの屋根に降りられるんなら、苦労して窓から出る必要なかったんだ」
「あ」
 しかし、過ぎてしまったことは致し方ない。それに、見たところ上に戻るには支柱か雨樋ををよじ登るしか無さそうである。帰る時にも使える窓と言うルートを確認しておいたのだと思って諦めることにする。
 屋根はそこそこに広く、建物の形に添って複雑に入り組んでいる。水はけのために起伏もあり、見通しは利きにくい。少し高いところに昇り、周囲を探る。灯りを付けるとルシファーにこちらの居場所を教えることになる。耳と仄かな街灯りだけが頼りだ。
「……女の声がする」
 佐々木刑事の女センサーが反応した。飛鳥刑事も佐々木刑事が目を向ける方向に意識を集中させる。確かに聞こえる。女の……すすり泣く声?
「な。な。なんかお化けっぽくないか?」
 大貴がビビりだした。確かに、この闇の中ですすり泣く女というのはいかにも怪談っぽいが。……あまり幽霊が出そうなシチュエーションではない気がする。
「よし、俺が行ってこようか」
 佐々木刑事が一歩踏み出すが。
「まあ待て。お前に任せると普通の生身の女性だった場合、その人が危険だ」
「んだと」
 場合も何も、多分実際に生身の女性であろう。そして、多分その人物は。
 案の定である。屋根に突っ伏し、すすり泣いていたのはミサエであった。逃げられたのが泣くほど悔しかったようである。……おや、近くに何かが落ちている。
「泣くのはおやめ、お嬢さん」
 折角佐々木刑事がいないのだ。早速口説きに掛かる飛鳥刑事。いや、そういうワケではない。泣いている女性を慰めるのは紳士のマナーだ。男の義務なのだ。
「うううう。ごめんなさい……ごめんなさい」
「何も謝ることはないさ」
 無精髭の生えたオッサン顔も弁えず、背景にバラの絵がちりばめられそうなポーズで優しく言い寄る。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
 とりあえず、ミサエはミサエで聞いちゃいないようである。ひとまず、泣き濡れる乙女をこんなところに放置は出来ない。飛鳥刑事はその背中を押して佐々木刑事達の待つ方に向かわせ、自分は足下にうち捨てられた物を回収する。
「……ゴミか」
 本物の『月下のアルフォンソ』よりも女子受けのする深森探偵の描いた絵は、ゴミ扱いされた。

「……んな……めん……い……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 闇の中から声がゆっくりと近付いてくる。
 どう聞いてもこの世に未練がたっぷりあるタチの悪い幽霊であった。大貴は全力で逃げ出したが、逃げ場はない。
「ぎゃああああ!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 大貴もパニックになり、幽霊と同じ事を口走りだした。しかし、程なくその正体がミサエだと分かり、脱力する。
 その後ろをついてくる飛鳥刑事が見覚えのある絵を持っているのを見て、佐々木刑事は言う。
「あー。バレたか、偽物」
「まあ、本物と全然違うからなぁ。一旦は持ってってくれただけで万々歳だろうよ」
「ちょっと待て。偽物に気付いたと言うことは」
「……あ。いかん、本物が危ない。万歳してる場合じゃなかったわ」
 刑事二人が慌てて本物の元へ走り始めたその頃。
「こ……これが、本物の……『月下のアルフォンソ』!」
 ルシファーは絵の前で息を呑んでいた。
 刑事達の思った通り、絵は危なかった。そして、刑事達は知っていたがアブナい絵であった。それはもう絶句物である。闇の中でペンライトで照らしながら見ると更にとんでもない。かと言って、明るいところで見たいかと言われると、断じてノーである。
 最大の障害となる刑事や探偵はいなくなった。だが、ルシファーにとってこの絵そのものこそ乗り越えねばならぬ最大の障害と言えた。
「うん。要らないわこれは」
 乗り越えるには高すぎる障害だったようである。
 ルシファーが立ち去った絵の前に、入れ違いに刑事達が駆けつけてきた。なお、絵はさりげなく廊下の壁に掛けられている。
「よかった、絵はまだ無事だ!」
「ちっ、無事かよ!またこのオッサンの裸を拝む羽目になるとはな!」
 リアクションが割れた。どう考えても飛鳥刑事のリアクションが正しい。
「よし、気は進まないが俺がここでしばらく見張ってる。庸二はここに警官をまわしてくれ」
「合点!」
 飛鳥刑事はその場に残り、佐々木刑事は意気揚々と、かつほっとしたように走り出した。
 急げ、急げ庸二……割とマジで。
 飛鳥刑事は焦れつつも言い出してしまった以上絵の前から離れられない。一刻も早く、こんな全裸オッサンのお守りから解放されたい。警官達に押しつけて若いお姉ちゃん……否ルシファーを追いたい。
 と、その時。どこからともなく絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。ミサエか、はたまたルシファーか。
 急げ、急げ庸二……これこそマジで。
 飛鳥刑事は更に焦れた。そして、ようやく駆けつけて来た警官達に絵の守りを頼むと、飛鳥刑事は屋根に向かって走り始めた。
 距離的には遠回りになるが、階段を上ってドアを開け、手すりを乗り越えて屋根の上に飛び降りる。長い階段はそろそろ中年の体には応えるが、窓をよじ登るよりはマシだ。息を切らして、むしろ息を上がらせて駆けつけてみると、ミサエには危機が迫っていたようだがまだ無事なようである。
「大丈夫か!」
「なんの!私がついていますぞ!」
 いつの間にか深森探偵がそこにいた。
「一体何があったんだ、なんの悲鳴だ!」
「その人が、その人がああぁぁ!」
 深森探偵を指さしながら泣き叫ぶミサエ。話を聞いてみると、どうやらルシファーやミサエを追ってようやく屋根に辿り着いた深森探偵は、ルシファーに気取られることのないように例のゴミ袋変身術でこそこそと動き回っていたらしい。……屋根の上にゴミ袋があったら不自然だと思うのだが。とにかく、そんな深森探偵はミサエを見つけ、ゴミ袋ローリングでミサエに急接近したのである。誰もいない薄闇の中で正体不明のゴミ袋が転がってきては、悲鳴を上げるのも当然であった。
「逃げても追いかけてくるんだもん!」
 それは益々怖い。
「なんでその態勢で私の位置が正確に分かるんですかっ」
 ゴミ袋変身時はアルマジロのように体を丸めているのだ。そこにゴミ袋まで被っているのだから周りなど見えないはず。
「悲鳴上げながら逃げてりゃ、そりゃ分かるだろ」
 飛鳥刑事は冷静に言うが、そうではないようだ。
「じゃなくて、最初!」
 このやりとりだけでは窺い知ることは出来ないが、そもそもミサエは最初屋根の上にぬっと姿を現したゴミ袋に気付き、嫌な予感がして屋根の影に隠れながらそっと逃げたのである。確かに、そんなところに不自然に存在するゴミ袋はいかにも罠っぽい。それに物騒な昨今、不自然なところに捨てられているゴミ袋には何が入っているかわからない。爆弾、死体、使い古した大人のおもちゃなど。そんな何が入っているかわからないゴミ袋からは離れたくなるのは道理である。だが、ゴミ袋は動き始め、そればかりかミサエの動きを追って正確に進行方向を変えてきたのだ。撒いたと思って様子を見たらこちらに向かって転がるゴミ袋。ここで悲鳴を上げたのである。
「ああ、それはですな。ミサエ殿のスカートにチョイと発信器を」
「ギャーッ!なな、何ですって!きゃー、取って、取ってー!ギャー!」
 スカートに虫でもついていたようなわめき散らしながら、結局自分のスカートに貼り付いていた虫のような発信器を引っ剥がし、投げ捨てた。深森探偵はそれをスライディングでキャッチする。
「乙女に発信器を付けるな!このまま帰ってたら危なかった……!」
「ああ、その点心配は要りませんぞ。この発信器も安い物ではないのです。ちゃんと回収するつもりでした」
 ミサエのプライバシーは発信機より安く見られているようである。
 あの時、ルシファーを追ってワイヤーを昇り始めたミサエ。深森探偵もその後に続きたい気持ちはあったが、色々と無理なのは分かっていた。そこで、ミサエの居場所が分かるようにすることで自分もルシファーを追えるようにと、どさくさに紛れて発信器を仕込んだのである。
「なんてこった、俺なんかスカートに注目してたのにまったく気付かなかったぜ」
 とても正直な佐々木刑事。
「お前はスカートの中に注目してたから外側には気付かなくてもしょうがない」
 少し、正直ではなかったようである。そして、飛鳥刑事の発言は割と飛鳥刑事自身にも当てはまるのであった。どちらにせよ、目立つようなものではない。アニメなんかでよく見るような、赤いライトがちかちかしてわざわざありかを教えるような親切な発信器ではないのである。
「そして、楽そうな出口を見つけて屋根におり、発信器を頼りに追いかけたのです」
「ルシファーを取り逃がしてから追いついてもしょうがないけどな」
「まあ、それはそうなのですがね」
 結局、ミサエに恐怖を感じさせただけであった。
「偽物がバレた。今の所、本物は無事だ」
 今更ではあるが、合流した二人に今の状況を説明する。
「で、ルシファーはどこに?」
「分からん」
 と、その時。
「今日のところは私の負けみたいね!」
 頭上から高らかに声が響き渡った。

「ルシファーか!」
 飛鳥刑事が叫ぶが、この状況でこんな科白を吐く人物が他にいる訳がなかった。ルシファーが現れたのは先程大貴が現れたのと同じ高い扉。飛び降りて屋根に降りることは出来るが、よじ登るのは大変そうである。月明かりにルシファーのシルエットだけが浮かび上がっている。ただの人影ではなく、何か大きな四角いものを抱えているのが見て取れる。
「『月下のアルフォンソ』は取り返されてしまったけれど、手ぶらじゃ帰れないから適当な絵をいくつか見繕って頂いていくわ。それじゃあ今夜はさようなら、またいつかお会いきゃあっ……ぎゃああああああああ!」
 決め科白というか捨て科白というか、それが途中で悲鳴に切り替わった。ルシファーはその場でしばらく暴れるとそのまま屋根に飛び降り、抱えていた絵の重さでバランスを崩しながらも絵をかばって体から屋根に落ちた。暫しぽかんとその様子を見ていた飛鳥刑事が気を取り直し駆け始めた頃にはルシファーも体勢を立て直し、逃走を開始した。
「ちっ、逃がしたか」
 先程までルシファーが颯爽と立っていた場所には佐々木刑事がいた。別にルシファーを追ってきたという訳ではない。先程階段を直進していった大貴が屋根の上に現れたのを覚えていた佐々木刑事は、ワイヤーを昇らず階段から屋根に登る道を選んだのである。すると、行く手でルシファーの声がしたので、そのまま忍び寄り……あと一歩で取り押さえられそうだった。だが、築かれ悲鳴を上げられたので、とりあえずそのまま組み付いたのだ。掴みかかる場所を選んでいる暇などなく、低くした姿勢のまま、思いっきり腰の辺りにしがみつく形になった。
 ルシファーとて若い女の子、中年オヤジが腰に手を回してしがみついてきたら殴る蹴るの抵抗の末に逃げるのは当然であった。泥棒と刑事であるならなおさらだ。あまつさえ佐々木刑事は言ったのである。「へへ、こんな若い女は久々だぜ」などと。乙女として、そして泥棒として、そして最後にはやっぱり乙女として全力で抵抗し、どうにか振り切る。
「ちくしょー!もう来んなー!」
 先程言いかけた言葉と正反対の捨て科白と共にルシファーは逃げ果せた。
 その後、状況確認が行われた。ルシファーが最後に言った通り、美術館所蔵の絵が数点、それもどれも『月下のアルフォンソ』よりまともな──内容だけではなく価値的に──絵が無くなっていた。結構な損害額になったそうだ。
「んー。あのまま偽物掴んで帰ってくれりゃよかったのになぁ」
 佐々木刑事はぼやく。
「いっそ、本物盗んでいってもこのザマよりはマシだったなぁ」
 アルフォンソ氏の裸体は、元の場所で燦然と輝いている。目が潰れそうなほどに。
 ルシファーは自分の負けだと言っていたが、このザマではむしろ警察の方が明らかに負けであった。

 今夜は眠れるだろうか。
 ルシファーに実質してやられたことももちろんだが、未だに脳裏にあの姿がちらつく。月明かりに照らされた、アルフォンソ氏の肉体美。
 このまま眠ったら悪夢を見るのではないだろうか。せめてもう少しじっくりルシファーの姿を拝めれば、同じ悪夢でも筋肉に絡み取られる夢ではなく少女に手が届かない夢になりいくらかマシだったのだろうが。
 ああ、始まった。やはり奴が現れた、窓の外にあの逆三角形のシルエットが見える。くそったれが。
 徐に窓が開かれ、風が吹き込んでくる。筋肉に蒸された生温かい風だ。アルフォンソ氏は窓から現れた怪盗ルシファーのように軽やかにそれでいて重厚に跳躍し、着地。家が大きく揺れた。
 なぜお前がここにいる。
「昔のことを語らうのも悪く無かろう、戦友よ」
 そうか、この夢ではそういう設定なんだな、などと冷静なことも考えつつ、夢の中で友貴は言う。
 何をしに来た。帰れ。ここはお前の来る場所ではない。
 この男は戦死したはずだ。それがこうして現れたということは、つまりそういうことなのだろう。
「つれないことを言うな。結婚したから私に冷たくなったのか?」
 何を言っている。男とそういう関係になる趣味はないぞ。
「寝ぼけたことを。私は女だぞ」
 何を馬鹿な……。
 だが、そこで友貴は気付く。アルフォンソ氏だと思っていたその人物が掛けている、見慣れた眼鏡。
 まさか、お前は……。
「ふふふ、そうだ。私はお前の妻の小百合だよ」
 違う。本物を出せ。本物はどこだ。
「私は本物だよ。いつまでもひ弱な女でいては友貴さんの足を引っ張るばかりだもの」
 アルフォンソ氏の顔がモーフィングして小百合になった。声もごつい偉丈夫らしい声から聴き慣れた妻の声になる。だが、体は全裸マッチョマンのままだ。
「父ちゃん。これからは頭も体も鍛えないと生きていけない時代だぜ」
 後ろで大貴の声がした。振り返るとマッチョマンの体に大貴の顔が乗った生き物があのポーズをとっている。
「さあ、あなたも行きましょう。筋肉の目くるめくフロンティアへ!」
「時代は筋肉だぜ!」
 やめろ。筋肉なんていらない!
 友貴は腕を振り回した。筋骨隆々たる腕を。見下ろすと、自分の体はアルフォンソ氏など比べ物にならない筋肉の塊に……。
「うおっ!」
 ようやく飛び起きる友貴。
 案の定、悪夢を見た。……のだろう。いや、悪夢というほどのものでもなく、ただひたすらシュールな、そう言う意味では普通の変な夢だったような。
「起きた?」
 闇の中から声がした。ベッドの上、自分の足元に見慣れない女がしゃがんでいる。いや、この顔はどこかで見た。ごく最近、何らかのきっかけで思い出したばかりの顔のような。
 怪盗ルシファー。それも、昔追いかけたほうの、ルシファー。
 のわあああああああ!?
 叫び声をあげそうになる友貴だが、口を塞がれたのでさほど大きな声は出なかった。

 久しぶりのこの町。懐かしい夜景。そして、屋根の上を歩くこの感覚も懐かしい。こんなことは久々だ。あの頃はとんだおてんばだった。今、同じことをしようとしても体がついてこないだろう。だから、調子に乗って無理はしない。
 あの頃と違うのは、その行き先。待っている人は同じだが、あの頃の安普請のアパートと違い、なかなかお洒落な屋敷に住んでいる。調べた限りでは中古物件だったがローンはそれなりに大変そうである。安定的な公務員でなければ大冒険もいい所だし、ちゃんと出世できるかどうかを考えれば公務員でもちょっとした冒険である。
 ルシファーのことが話題になり始めてから慌てて調べたうえ、調べた結果がこの冒険に満ちたマイホームである。ので、この家で本当に正しいのかどうかは不安だったが、ちゃんと表札に飛鳥と書かれていて一安心だ。
 問題は、どの部屋かだが……。この部屋は、飛鳥刑事の妻と子供の部屋だ。やんちゃそうな男の子で、なんとも可愛らしい。忍び込んでその子に頬ずりしたい衝動を抑え込み、目的の部屋を探す。見つけた。似合わないヒゲを伸ばしているので断言できないが、多分この人が今の飛鳥刑事だ。……忍び込んで、別人だったらどうしよう。まあ、さすがにないか……?
 とにかく、窓を開けて入ってみる。窓は鍵がかかっているが、このくらいチョロい物である。あっさりと開く。
「なぜ……お前がここに……」
 あら。起こしちゃったか。あちゃー、腕落ちたなぁ。
「だって。偽物なんか現れてるしさ。ま、ついでに昔の話でもしたいなーとか?」
 小声でそう話しかけるルシファー。
「何をしに来た……帰れ。ここは……お前の来る場所ではない」
「わ、つれないことを言うなぁ。結婚したから私に冷たくなったの?ひどいなぁ」
「何を言っている……男とそういう……関係になる……趣味はないぞ」
 会話はかみ合っている感じだが、声はムニャムニャしているし、よく見れば目も開いていない。
「……もしかして寝ぼけてる……?私はどう見てもナイスバディな女でしょ」
 女であることは間違いないが、ナイスバディかどうかは賛否が分かれると思われる。いずれにせよ、飛鳥刑事は見てはいないのだが。
 窓を開けた音、吹き込む風、そして囁き声。それらでうっすらと覚醒しかけた飛鳥刑事だったが、これが夢だと判断すると、再び緩やかに眠りに落ちつつあったのだ。この辺りまではルシファーの声も聞こえていたが、やがて完全に夢の世界に筋力ずくで引きずり下ろされていく。当初は耳に届いたルシファーの言葉をなぞっていたアルフォンソ氏の言葉も、一人歩きを始めていた。いや、この辺りから夢の中ではアルフォンソ氏は小百合にモーフィングを始めているのだが……。
「まさか……お前は……」
「そうよあたしよ、ルシファーよ。さすがにあの怪盗丸出しの格好はしてないけどね」
 あくまでも動きやすく。それでも、出来るだけのおめかしをしてきたのだ。気分はちょっとした同窓会である。そんな盛り上がりつつあるルシファーの気持ちに水を差す飛鳥刑事の一言。
「違う……本物を出せ……本物はどこだ」
「あたし、本物よ。……あー、まあ、今出てる方を本物って言いたくなる気持ちは分かるけどさ……。まあ、初代とか元祖とか、いっそのこと真・ルシファーとか呼んでくれてもいいのよ。まあ、今日は格好もこんなだし、髪型もあの頃とはちょっと違うし、顔だってそりゃあ、あの頃みたいにはさすがに……はぁ。引退してからは大人しくしてたからすっかり筋力も落ちちゃって、あの頃みたいな動きなんて出来なくなっちゃったし……」
「やめろ。筋肉なんていらない!」
 突然飛鳥刑事が叫ぶ。
「えっ、何?やっぱり女性はこっちの方が……ってちょ、ちょっとどうしたの」
 ルシファーが胸を寄せると飛鳥刑事が苦しみだした。
 私の魅力で……じゃないわよね?
「うああ……なんだこの筋肉は……俺の筋肉か……?俺は筋肉だ……世界は筋肉だ、筋肉は世界だ……今こそ我々と共に、世界を筋肉に染め上げようではないか……」
「……」
 そしてルシファーは気付くのである。今まで二人で会話をしていたつもりの飛鳥刑事は、夢の世界の住人であったのだと。寝ぼけているどころか、完全に寝ていて寝言と話していたのだと。
 叩き起こした方がいいのかな、と思うルシファーだったが、そんなことをせずとも飛鳥刑事は筋肉に耐えられず飛び起きるのであった。

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