
Episode 8-『帰ってきた怪盗ルシファー』第1話 怪盗は探偵を呼び寄せる
ガシャアアン!
窓ガラスをぶち破って飛び出してきたのは長い髪を棚引かせた細身のシルエット。
赤色灯、サーチライトが忙しなく動き回り、その漆黒の影を嘗め回す。
それらの光を舞台照明として、怪盗ルシファーの初演は滞りなく幕を下ろした……。
時は遡り、その事件が起こる数日前。あの熾烈な戦いからまだ半月と経たぬある日。
その戦いの勝利者である森中新市長が早速辣腕を振るい、公約通り市政の腐敗分子をつつき始めて全国紙にまで取り上げられ始めた頃、その話題に隠れるように一つの出来事が動き始めた。
マスメディアと警察宛に同一の内容の手紙が届いたのが事の発端である。丸っこい文字で書かれたその内容は。
『今夜、C美術館より名画“月下のアルフォンソ”をいただきます。怪盗ルシファー』
動き始めた時は新市長の活躍に隠れるようにだったが、さすがにメディアに予告状まで送れば忽ち話題性で逆転する。C美術館には警察とマスコミ、そして報道を聞きつけた野次馬が一斉に押し掛け、朝には森中新市長の話題で持ちきりだった聖華市のニュースも夜には怪盗ルシファー一色となった。
そして、その夜。恐るべきことが起こるのである。それは未曾有の事態でもあった。
警察を含む多くの人が見守り夜を待つC美術館の上空に、垂れ幕をぶら下げたラジコンヘリがどこからともなく出現した。ルシファーが現れた。誰もがそう思った。
「なんて書いてあるんだ!」
「遠いし、字が小さくて読めねえ!」
ラジコンヘリは一度観衆の頭上を通り過ぎ、バックで戻り、ホバリングするでもなく行ったり来たりし、急にカクンと高度を下げたかと思うとグインと急上昇する。その動きを見た誰もがこう思った。この操縦、へたくそだ。実際、何人かは口にも出している。
結局、ぶら下げた垂れ幕を誰も読めないままラジコンヘリは通り過ぎた。しかし、すぐに戻ってきた。ご丁寧に先ほどより高度は低めだ。そして、頭上にピタリと停止する。観衆は思う。操縦がうまい人に交代したんだと。
そんなことより、垂れ幕の内容である。
『大事になりすぎたので予告は延期します。ごめんなさい。怪盗ルシファー』
なんだよふざけんな、ただのいたずらなんじゃねーの、などと言いながら観衆の半分が散った。残りの半分はこれが油断させる作戦だと読み深夜まで様子を見たが、結局朝まで何も起こらなかった。
これが後の世に語り継がれる、怪盗ドタキャン騒動である。
「結局何だったんだろうな、昨日の」
いつも通り寝不足の佐々木刑事が、煙草を咥え机に突っ伏したままぼやいた。こんなことをしていてはぼやくどころかボヤが起こるとお思いになるかも知れないがご安心召されよ、煙草は咥えているだけで火が点いていない。そんな佐々木刑事の寝不足の理由はいつもであれば今夜は寝かさないぜというお決まりのアレであり、寝かさないということは自分も寝られないからであるのだが、昨夜の場合は言うまでもなく例の怪盗ドタキャン騒ぎのせいであった。野次馬の中にもあのドタキャンが油断させる作戦だと予測する者はいたが、警察もまたその可能性が否定できない限り軽々に撤収はできない。万が一に備えて夜通し警備・捜査に当たったのだ。佐々木刑事、そして飛鳥刑事も然り。
「本当に出る気なんだか、それともただの悪戯か……。今更あいつが帰ってくるとは思えないんだがな。予告状を出しておいて自分から辞めるような奴じゃあなかったし」
飛鳥刑事は言いながら自分の持つ煙草の火を佐々木刑事の煙草の先に押し付けて火を点けようと試みていたが、セリフが終わったことでそのチャレンジを中断し煙草を自分の口に戻した。
「お前より若かっただろ、ルシファー。そんならまだ行けんじゃねーの」
「スポーツ選手ならともかく、よっぽど体を動かす仕事にでも就かないと体力落ちてあんな動きはできなくなるぞ。それにそろそろ結婚して、子供がいてもおかしくない歳だ。出産を経ると益々厳しいだろ」
再び佐々木刑事の煙草への放火にトライする飛鳥刑事。気付けば、その煙草の先から出る煙が佐々木刑事の煙草に吸い込まれている。ちゃっかり吸われているようだ。そして、佐々木刑事の咥えている煙草は想像以上に強固なシケモクである。火が点く様子はない。
「それもあってビビっての延期とか?……まあ、さ。延期だっつってんだ。やる気があるならそのうちまた予告が来るだろ」
「ったく、せっかくローズマリーがおとなしくなったと思ったら今度はルシファーか……」
飛鳥刑事は諦めたようである。もちろん煙草の火のことだ。そうなると、佐々木刑事も煙のお裾分けは諦めねばならなくなる。
「昨夜はキャストが揃っていなかったのです。延期もやむなしでしょうな」
足元から声がした。気が付くと、いつの間にか見覚えのないゴミ袋が置かれている。佐々木刑事はゴミ袋を足蹴りで転がし、飛鳥刑事は煙草の火を押し付けた。
「何をするのですか!」
ゴミ袋はバサッと翻り、人間になった。嫌な臭いはしているが、火は点かなかったようである。
「邪魔なゴミ袋をどかそうとしただけさ」
「ゴミは焼却だろ」
「野焼きは法律違反ですぞ。まして屋内でなど言語道断!……まあそんなことはどうでもよろしい。大事なのはただ一点、昨夜は怪盗が出没するには決定的に足りないものがあったのですよ。そう、ライバルたる名探偵の存在っ!」
大仰な、それでいてよく分からないポーズで見得を切る深森探偵。飛鳥刑事は昨日の様子を思い出す。
「そう言えば、昨日は一度も顔を見せませんでしたね。寝てたんですか」
「失礼な。他の事件を追っていたのですよ。詳しく教えることはできませんが……歓楽街に跋扈するハート泥棒に絡み取られた被害者の妻から助けを求める声がありましてね」
浮気調査で手が離せなかったようだ。
「延期というので今夜だと思いニュースの続報を待っていたのですが音沙汰なく。ならばとこっちに顔を出してみた次第なのですが。……何もありませんか」
「ないな。それよりみもっさん。その愛の虜囚の妻ってのは、美人かい」
佐々木刑事が興味を持ったようだ。
「昔は美人だった……可能性もあまり高くないと思いますな」
「ああそうかい」
佐々木刑事が興味を失ったようだ。
「浮気相手のほうは流石という感じでしたぞ。まあ、金目当てで弄んでいるのが見え見えでしたが。何人のパパがいるやら」
「そういうのは足りてるわ。で、今夜は空いてるんですかい」
「ええ。来るべき怪盗との決戦に備え、新しい依頼は泣く泣く断り。承っていた依頼も迷子の猫探しという怪盗との対決の片手間でもなんとかなる依頼だけ残して片付けておきました。頑張りましたよ、いつもよりずっと!」
「でもそれ、浮気調査より厄介な仕事なんじゃ……」
飛鳥刑事は想像してみた。浮気はこっそり行うものとは言え、調査対象は家なり仕事場なりから尾行すればさほど苦労せず浮気の現場まで導いてくれる。だが、気儘な猫はいつどこに出没するか分からない。
「猫のたまり場は大体抑えてあります。そこで見つからなかった時の奥の手だってありますぞ。山に籠って死んだというわけでないのなら、何日かすれば気まぐれで家に帰るでしょう。そうしたらさも自分の手柄のように言って金だけ貰えばよいのです。まあ、猫などどうでもよろしい。猫より怪盗です」
「その通りですね」
「怪盗ルシファーなら子猫ちゃんみたいなもんだぜ。おっと、そろそろ大猫か」
その次は大熊猫にでもなるのだろうか。
「今夜、来ますかな」
「今のところ予告はねえっすね。予告なしで来るのに備えて一応警備は置いてますがね、予告なしで現れるってことはないと思いますぜ。……なぜならよ」
佐々木刑事はテレビに目を向けた。時は昼下がり、暇なマダムに向けたワイドショー花盛りの時間帯である。そしてワイドショーを賑わす話題はもちろん怪盗ルシファーだが、結局予告状だけで終わった怪盗だけでは話が持たず、森中新市長の話題とセットという形をとる局が殆どだ。そして、森中市長はここぞと言わんばかりに記者会見を開き、怪盗を挑発する。
『私が警察を去ったところを狙いすましたかのように現れるばかりか、自分の呼んだ人だかりに尻込みして撤収とは情けないにもほどがありますな。昔の怪盗はこうじゃなかった。歳……なのでしょうかね。とにかく、ここでなお予告状なしでこそこそ現れるような情けないことをすればそれはもう怪盗でも何でもない、ただの泥棒と言わざるを得ませんな。それに、これだけ話題になった後です。怪盗ルシファー以外の泥棒も怪盗が狙うような名画を狙い美術館を襲うわけです。そんな泥棒が逮捕されてから「私こそ怪盗ルシファーだ」と名乗ったとして、それが本当か嘘かも判らないでしょう。そういった手合いが続々と現れることを考ええば、早いうちに次なる予告状が来るものと思われます』
「……と、まあ。こんだけ言われりゃ、予告状を出さないわけには行きませんぜ。本当に出る気があるなら、ね」
「ふむ。合点がいきました。予告状を出す以上、出現の数時間前……基本的には夕方くらいまでには出されると考えていいでしょうな。ぎりぎりに出したら不意打ちと何ら変わらず、それこそ怪盗でも何でもないの条件にはまることになりますし。今の時点で何もないというのは、今日は何も起こらないと見て良いのでしょうか」
「自分で夕方までって言ったんですから、夕方までは待ちましょうや」
午前中であるのに気の早いことである。
「そうですな。しかし、夕方までに出してもらわないと些か困りますな。夜になろうものなら……猫の集会が始まってしまう。猫にかまけて怪盗を逃したとあっては探偵として末代までの恥です。……おお、そうだ」
深森探偵は懐から無線機を取り出した。
「もしも私が猫探しに出てから予告が届くようなことがあれば、これで連絡してくだされ。頼みましたぞ」
そんな都合のいいことを頼んだ後、深森探偵は。
刑事課で図々しくもテレビを見始めるのであった。……このまま、夕方まで待つつもりなのであろうか?
そして、夕方。結局怪盗ルシファーからの予告状は来なかった。そして、残念そうに深森探偵は猫探しに夜の街に繰り出していく。佐々木刑事もまた、夜の子猫ちゃんを探し求め夜の街に繰り出す。飛鳥刑事は真面目に自宅に直帰である。
「父ちゃん。怪盗が出たって本当か!」
家に帰った飛鳥刑事は、大貴に詰め寄られた。昨日幼稚園から帰ってきた後はすぐにどこかに遊びに出掛け、夕方に帰ってきたらお風呂に入りすぐに寝た大貴は、テレビはいつものアニメと戦隊ものしか見ていない。朝にはすっかり小さなニュースに落ち着いていた怪盗騒ぎは幼稚園で初めて聞いたのだ。
「本当とも言えるし、嘘とも言えるぞ。何せ予告状が来ただけで、本人はまだ出ていないしな」
「予告状!?いつ来るって!?」
大貴は膝の上に座ってきた。顔が近い。
「昨日」
「えっ。じゃあもう昨日怪盗が出たのか!?」
飛鳥刑事をよじ登りだす大貴。
「だからまだ出ていないっての。予告状だけ来て、土壇場で延期になったんだよ」
「なんだ、つまんねー。でもさ、延期ってことは次また来るんだろ。いつだよ!」
大貴は飛鳥刑事の頭からずり落ちた。
「さあ。それが分かってたら苦労はしないさ」
苦労をしているのは警備課の警官たちだが。
「ううー。あ、でもこれから来るんならとうちゃんが捕まえるところ、見に行けるよな!」
今度は背中側から登り始めた。
「あいつら、出るなら夜中だぞ。無理無理。それに一般人は締め出されるから遠巻きにしか見られないだろうよ」
「そうだ、探偵のおっちゃんに頼んで助手にしてもらえばいいんだ!」
深森探偵も一応一般人だから普通に締め出されるだろう。……何らかの手口で忍び込んでくるに違いないが。というか、佐々木刑事が入れてしまいそうだ。
「まだ名探偵の出番かどうか見極められないから今回は様子を見るらしいぞ」
適当な嘘で切り抜けることにした飛鳥刑事だが。
「本当か?そんなはずないんだけどなぁ。まあ、本人に聞けばわかるか」
「げ。本人に聞けるのか、お前は」
「おう。これは絶対に秘密の探偵グッズだが父ちゃんには特別に見せてやる。どこにいても探偵のおっちゃんに連絡がつけられるカードさ」
大貴は幼稚園のカバンから一枚のカードを取り出した。それはテレホンカードであった。
それも恐ろしいことにオートダイヤルカードである。今やその名を初めて聞く人も多そうな、それでも当時は全盛期だったテレホンカードには、差し込むだけでダイヤルまで出来てしまうカードが存在する。よっぽど何度もそれも公衆電話からかけるようなところでないと使いにくいが、ハイヤー呼び出しなどには便利なカードだ。
このカード、繋がる先はもちろん深森探偵事務所である。公衆電話から、それも何回も探偵の事務所に電話をかけるというのは、よっぽどの事情ではなかろうか。依頼継続中の連絡にでも使うのだろうか。そんなことより幼稚園児のカバンから『浮気・不倫調査します』などと言うカードが出てくることのほうが問題だと思う。どうせ、大貴には読めないが。
「どこにいてもって言うがな、大貴よ。これは近くに公衆電話がないと使えないし、探偵が事務所にいないと繋がらないぞ」
「事務のお姉さんもいるから昼間なら繋がるよ」
「……今度一回俺にも掛けさせろ。探偵が留守の時を狙って掛けてみたい」
幸い、今の飛鳥刑事には探偵が留守のタイミングを知りやすいだろう。飛鳥刑事は大貴にこそっと囁いた。
台所のほうから足音が近づいてくる。
「聞こえてるわよ」
殺意に満ちた声でこれだけ言うと、小百合は台所に戻っていった。今の一言は流石に印象が悪かった。浮気・不倫の調査をされてしまいそうである。それにしても、なんという地獄耳だろうか。警備課の警官時代にきっとあの聴覚を活かしていたことだろう。だがしかし飛鳥刑事にはそんな場面が思い当たらなかったが。……最近身につけたスキルなのだろうか。
怪盗ルシファーとは何だったのか。
さすがに丸一日音沙汰無しでは世の中はそんな感じにもなる。だが、忘れられては困ると言わんばかりにこの日の夕方に遂に動きがあった。予告状が来たのだ。
前回はマスコミにも予告状を出した結果大騒ぎになったのを踏まえてか、今回は美術館にのみ予告状が届いた。警察には美術館からの通報でその知らせがもたらされた。
『先日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今夜こそ、名画“月下のアルフォンソ”をいただきます。今度は本当です。怪盗ルシファー』
なんか、腰の低い怪盗であった。そして、先日はと言うかこれから本格的にご迷惑をおかけしようとしている輩の文面ではない。
「なーんか、その辺もまた前のルシファーとなんか違うんだよなぁ。あいつはもっと大胆不敵で、何も考えてなかった」
「だよなぁ。これがあのルシファーなら、初めてじゃあるまいしって言ってやりてぇ」
「言い慣れたセリフか」
「ああ、意味合いは違うがな」
などと言いながらパトカーに乗り込み、C美術館に向かう。
今回予告の件はマスメディアには伏せられた。また大騒ぎをされて出そうだった怪盗が引っ込んでしまっては元も子もない。怪盗など出ない方がいいのだから大騒ぎさせて引っ込めた方がいいと思うかも知れないが、出るのかでないのか分からない状態で延期を繰り返されるよりはとっとと出てくれた方が警察のためなのだ。もちろん、狙われている美術館だってとっとと終わって欲しいに決まっている。
いまや館長ともすっかり顔見知りである。そして、美術館で待っていた見慣れた顔は館長だけではなかった。
「ふ。ふふふ。ふはははははははは!遂にこのモリサダと対決する気になったようですな、怪盗ルシファー!いい度胸だ、いい度胸ですよ!フゥーひゃひゃひゃひゃぁ!」
悪そうな高笑いで怪盗ルシファーではない刑事二人を出迎えたのは深森探偵であった。
「ああ、やっぱり湧いたか」
「行動が素早いですね、探偵」
「当然ですぞ。この時のためにひたすら来る仕事を断り続けてきたのです。そしてそんなときに限ってどういうことでしょう、いつもよりもおいしい仕事が続々と舞い込んでくるのですぞ。断腸の思いのダンチョネで断りまくりましたとも。怪盗めには断った仕事で稼げた分も補填してもらわないと割が合いませんな!」
「そこまでせずに、素直に依頼を引き受けてくれて一向に構わなかったんですがね。それにしても、我々はまだ連絡してませんが、よく今夜だと分かりましたね」
できれば連絡などせず黙殺するつもりだったが、来てしまっては仕方ない。あくまでも後で連絡する気だったんだよと言うアピールをさりげなく織り交ぜつつ飛鳥刑事は問いかけた。
「探偵さんには私から」
館長にも連絡先を教えていたようである。勝手に来たというならともかく、館長が呼んだとなると追い返しにくい。
「……で、これは何です」
飛鳥刑事は深森探偵の足元で同じポーズをとっていたちっこい大貴をつまみ上げた。
「怪盗が出るんだ、探偵がいなくてどうするんだよ」
深森探偵のようなことを言う大貴。どうやら、例の秘密のカードで連絡を取り合い合流したらしい。
「おい坊主。ここはガキの遊び場じゃねえ。親御さんのところに帰るんだな」
佐々木刑事に言われて、飛鳥刑事のところに移動する。その間およそ一歩。もちろん、佐々木刑事もこうなることを分かって言っているのである。
「俺じゃない親御さんのところに帰るつもりはないかい」
ここに小百合まで来ていたらこの発言も意味をなさないが、どうやらその心配は無さそうだ。
「ない」
そしてその気も無いのだった。
「やれやれ……」
まあ、今日は深森探偵のオプションとして存在しているということにすれば、放置しておいてもいい……のだろうか?
そして。変な探偵はこの二人だけではなかった。
「ふははははははははぁ!さあ、どこからでも現れなさい怪盗ルシファー!この灰色の脳細胞が火を噴くわ!」
颯爽と現れたのは鹿追帽にインバネスコート姿の典型的なホームズスタイルで身を包んだ少女であった。見るからに探偵である。そうでなければ不審者である。なんともものすごい勇気だ。怪盗に立ち向かおうとしていることよりも、この格好で人前に出られることがである。
少女は警官二人に右肩と左肩を掴まれ、ズリズリと外に引きずられていく。
「ちょ、ちょ、ちょっと。同じ探偵でしょ、なんであの人は良くて私はダメなの!?」
その言葉と共に指さされた深森探偵がいいと言うわけではない。もう深森探偵については諦めているだけである。
「おい嬢ちゃん。ここはガキの遊び場じゃねえ。親御さんのところに帰るんだな」
先程とほとんど同じセリフを吐く佐々木刑事。流石に、相手方のリアクションは異なる。
「私……今夜は帰りたくないな……」
目を潤ませながら佐々木刑事を見上げる少女。
「そう言うことはもうちょっと大人になってから言いな。まだ早すぎるぜ、歳も、時間もな」
意外なことに、佐々木刑事はその手には乗らなかった。インバネスコートの下には学校の制服が見え隠れしている。探偵のコスプレに加えて女子高生のコスプレまでしているというわけでないのなら、未成年者だと思われる。それなら佐々木刑事もさすがに手は出さない。
「まあまあ。今夜ルシファーが現れるということを掴んでいるだけでも大したものではないですか。もしかしたら、案外やるクチかも知れませんぞ」
そういう深森探偵に目を潤ませたままの笑顔を向ける少女。
「で、あんた誰」
今、誰もが問いかけたい言葉を大貴が投げかけた。
「明比(あけび)ミサエ。名探偵アケビちゃんと呼んでくれていいのよ」
「なるほど。ハクション大魔王の……」
ポンと手を打つ大貴に、語気荒く詰め寄るミサエ。
「アクビちゃんじゃなーい!名探偵よ、名探偵!明智に寄せようとしてるの!小五郎よ、小五郎!」
「じゃあ、なんでホームズの格好で来たんだ……」
「だって。明智小五郎のコスプレって、わかりにくいじゃない」
ごもっともであった。
「子供同士気が合ってきてるんじゃないか?おもりでもしてもらうか」
佐々木刑事は子供二人を顎でしゃくる。飛鳥刑事も頷いた。大貴にあの探偵娘のおもりをさせるというのは悪くない考えのような気がしたのである。しかし、大貴の教育に悪いかも知れない。それに何より、あまりにも正体不明すぎる少女だ。ぶっちゃけ、彼女が怪盗なんじゃなかろうか。
「とにかく、狙われてる絵のところに行きましょうか。“月下のアルフォンソ”……だっけ?」
「仕切るなよ、新入り」
偉そうな幼稚園児。そして、仕切るなとは言いつつもミサエの後について歩いていく。まだ子供二人で掛け合いを続けている隙に、飛鳥刑事は佐々木刑事と深森探偵に耳打ちする。
「あの娘、もしかしたらルシファーかも知れないぞ」
「まあ、有り得るよな。若すぎるとは言え、今度のルシファーがあのルシファーと同じだとは限らないんだし」
「精々目を向けておきますかな」
いつの間にか、前を歩く子供二人は大貴が追い越して前になっていた。
「まだ着かないの?」
そう問いかけられて、大貴は振り向いた。ミサエのほうではなく、飛鳥刑事のほうを。
「父ちゃん。……その絵、どこにあるんだ?」
ミサエは固まった。信じていたものに裏切られたような顔で。裏切られたのではない。信じるべきものを間違えたのである。そして、後ろで暖かな目で見守っていた大人たちには、こうなることが分かっていたのだった。何せ、まだ大貴にも絵のありかなど教えていないのだから。
「こ、これが……“月下のアルフォンソ”!」
見上げたミサエは、その絵に衝撃を受けたようである。
「オッサンじゃん!しかも変態じゃん!」
名画“月下のアルフォンソ”はイタリアの貴族がその肉体を描かせた絵である。イタリアの貴族という言葉から美麗な伊達男のイメージを抱きがちだが、ボディビルダーを思わせるガチムチの体の上にはその体に相応しくもある厳つい髭面が乗っかっている。髭のイタリア人と言われると日本に限らず今や世界中でおなじみと言えるあの兄弟を思い出すだろうが、あれとクッパ大王を掛け合わせたような感じだと思ってほしい。
「オッサンとは聞き捨てなりませんね!こう見えても24歳の時の姿なんですよ!」
館長は熱弁を振るう。アルフォンソ・マッツォモッリはこのむさくるしい容姿で若者なのであった。さらに言えば、若くしてイタリア戦争にて落命しており、オッサンなどと呼ばれるような年齢になったことすらないのだ。そのような時代である。貴族とは軍を率いる騎士なのである。強くなければ生きていけないし、強くても生き延びるとは限らない。ムキムキで然るべきである。
「この肉体のディテールをとくと見なさい!すごいでしょう!」
「ひぃ。ご、ごめんなさい、ちょっと直視できないですぅ」
そう。この絵の主役はアルフォンソ氏だが、その中でも特に肉体が主役だ。見るからに自慢できなそうな顔は割とざっくりと描かれているが、自慢の肉体のほうはまるで写真のように細かく描かれている。幸い股間はぎりぎり隠れているが本当にギリギリである。乳首ですら生々しすぎて直視に耐えない。これで股間が描かれていたら日本では展示不可能だっただろう。今時こんな絵を描かせたら変態である。そして、すっかり熱くなりミサエを絵の前に押し込む館長も変態と謗られてもおかしくない。
「で、狙われるってことは狙うに値するだけの価値があるってことですよね」
別段、価値に応じて警備の程度をどうこうしようなどとは考えていないが、飛鳥刑事は一応聞いてみた。
「ううーん。実を言うと、それほどでも……。作者もモデルもほぼ無名ですし、そのうえ男の裸ですし。価値の8割は古さで出来てます」
「……つまり、この絵を狙ったのは男の裸見たさか」
酷い結論を出す飛鳥刑事。
「それなら裸で待ち受ければルシファーが見惚れて足を止めるかもな」
輪をかけて酷い提案をする佐々木刑事。
「ひぃ。ご、ごめんなさい、ちょっと直視できないですぅ」
まだ誰も脱いでないのにミサエが引いた。この場にミサエがいる限り、その作戦は却下であろう。いなければやらされた可能性もあり、この時ばかりは少しだけミサエに感謝する飛鳥刑事。
「とにかく、この変態髭野郎と変態女怪盗時の邂逅を避ければいいんだ。奪われても奪い返すしな」
「奪い返すのはいいが、そうなるとこの全裸髭をがっちりホールドしなきゃならねえ。……気の進まない仕事さ」
そんなやり取りをする刑事二人の後ろでミサエが顔を曇らせた。露骨に絵を守ろうというモチベーションが下がったようである……。
警察には警察のやり方が、そして探偵には探偵のやり方があるのである。チーム探偵と警察に分かれ、言い換えれば大貴とミサエを深森探偵に押し付け、飛鳥刑事たちは自分の仕事に専念する。
男二人のいつも通りの仕事よりは花もある探偵チームを眺めることにしよう。
「では、二人しかいませんが少年探偵団ということにしますぞ」
深森探偵もまた大貴をミサエに、ミサエを大貴に押し付ける気満々であった。
「ううう、呼び名をアケビちゃんって明智小五郎に寄せたのに、小林少年ポジションか……」
さっきからテンション下がり気味のミサエ。
「俺たちは何をすればいいんだ?」
大貴もまだまだちびっこ、しかも探偵気取りでも弟子なのは理解している。指示待ちである。
「正攻法の警備は警察がやってくれる。我々は搦め手を突きますぞ」
「搦め手……ってなんだ?」
首を傾げる大貴。天井に目を向け思案したミサエは答えに行き着く。
「災害?」
「それはカラミティですな。搦め手は弱点とか、予想外のところと言ったところです」
予想外の所に向かった答えを方向修正すると、深森探偵は居住まいを改め小声で続ける。
「私はこの時のために件の絵について少し調べたのですがね」
興味深そうに聞き入る少年探偵団。
「さっぱり分かりませんでした」
ずっこける少年探偵団。
「なんだよ、何やってたんだよ」
大貴は噛みつくが。
「しかしそれも無理からぬ。何せ、調べても出てこない程度に無名なのですよ。インパクトがすごいだけで大した絵ではないのです。この美術館も当初の展示数稼ぎのために購入し、稼いだ金で新しい美術品を購入出来たら早々に倉庫に仕舞い込み。この度他の大した価値のない作品と入れ替えてリフレッシュするために久々に倉庫から出したという経緯……」
「ちょっと!聞こえてますよ!」
言いたい放題の深森探偵に館長が詰め寄った。
「どこか、違うところでも?」
「……いいえ。すみませんっした」
詰め寄せては返す、波のような館長であった。
「この作品について詳しく知っているのは日本広しと言えどもこの館長くらいなのではないですかな。怪盗ルシファーがこの絵について大した予備知識も持っていないことが考えられます。タイトル以上のことを知っているかどうかは怪しい」
「なるほど、確かに」
ミサエが深く頷く。何せ、自分も勝手なイメージで思いっきり美化したイメージを抱えたままこの絵と対面し、ショックを受けた身だ。
「そこで。偽物を置いておけば本物と見分けなどつくものかと。素人目には無理でしょう」
「でも、偽物っていったいどうやって準備すれば……」
「なあに。もう用意できていますよ」
深森探偵はそう言うと、丸めた紙の筒を取り出した。広げると、一枚の水彩画である。
「こ、これは……」
「私が描きました!1時間でね!」
こんな偽物に引っかかる怪盗とは、どんな怪盗だろうか。
「……本気を出せば結構うまいんじゃないですか、おじさん」
水彩画であるとか割と雑とか、偽物としては微妙なこの絵であるが、絵としてはそこそこである。特にどこがいいかと聞かれると、描かれている人物がむさ苦しくないのがいい。雰囲気だけなら少女漫画に登場しそうな美形である。雑だからこそ脳内補正がバリバリ掛かっているのだろうが、本物と並べればこっちを選びたくなる。特に、女の子なら。
「この絵は、本物を見ながら……?」
「いいえ。想像で描きました」
それはそうだろう。深森探偵とて、あの絵を見たのはさっきが初めてだったのだ。
本物を見る前のミサエのイメージとしてもこんな感じだった。本物を見てしまうとそれに引きずられてむさ苦しい偽物が出来上がってしまいそうである。
「では、この偽物を代わりに飾っておきましょうか」
「ちょっと!勝手なことをしないでくださいよ!私が架け替えますから!」
館長が慌てて深森探偵を止め、自分の手で絵を交換し始めた。
「偽物飾るのは止めないんだ……。クオリティ、微妙なのに」
「当館としても偽物を掴んでくれたほうがいいですから」
それはもちろんその通りである。
「それでは少年探偵団の諸君はこの本物をどこか目立たないところに……」
深森探偵は名画“月下のアルフォンソ”を大貴とミサエの方に持ってきた。迫り来るヒゲマッチョからミサエはダッシュで逃げた。
「ひゃあ。あんまり近付けないで!」
「何やってんだよ、姉ちゃん。さあ、行くぞ!」
大貴は絵の頭側をしっかりと持った。
「よりによってあたしこっちなの……?もうヤダぁ」
半ベソをかきながらミサエはなるべくアルフォンソ氏の体から遠いところを持とうと努力するのだった。
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