Hot-blooded inspector Asuka

Episode 7-『Return back』

第2話 事件現場に名探偵有り


「私立探偵の深森貞男です。人呼んで青写真のモリサダ……、お見知り置きを」
 探偵はそう言いながら名刺を差し出した。ジャングル探偵という事務所の名前とはかけ離れた華奢な男だ。青写真のモリサダと名乗ったが、青瓢箪のモリサダと言った風情である。
「うおー。たんていさんだー!かっこいー!」
 戦隊ヒーローものよりもなぜか名探偵が好きな大貴は、目を輝かせている。
「お気付きですか?深森の深をさんずいから手偏にすると探偵の探、そして貞男の貞に人偏をつけると探偵の偵。まさに、生まれながらにして探偵になるべき男……それが私です」
「はあ」
 深森探偵の渾身の自己紹介に気のない返事をする飛鳥刑事。小百合は言う。
「深森の森に男をつけると森男……よね」
「そうだね。……で?」
「え?で、って?」
 特に深い意味はなかったようだ。
「……事件の話をしましょうか。……とっとと」
 始まる前に脱線した話を飛鳥刑事は元に戻す。深森探偵は事件について話し始めた。
「とある人物の調査を依頼されたのです。調査を終え、あとは依頼人への報告だけと言うとき……事件は起きました。報告のために待ち合わせた喫茶店に向かったのですが、なんだかよくわからないうちに調査報告書はおろか、調査のために揃えた資料の一切合切一汁一菜きれいさっぱりすっきりはっきり奪い取られたのです!」
「調査……浮気調査ですか」
「ええもうおそらくは」
「……おそらく?」
「ハッ。えーと、いわゆる……。そうです、断言してもよいでしょう。浮気調査の依頼だったと!」
 飛鳥刑事は思う。この人、依頼人の素性や事情などをいっさい鑑みることなくほいほいと調査を受けているんじゃないだろうな、と。
「やはり、最初からその調査報告が目的だったんでしょうね。……奪われたというのは、やはり事務所が荒らされて?」
「いや。……いや。……その通りです」
 さっきから変なしゃべり方をしている。見るからに変わり者なので変なしゃべり方もこれが彼にとっての普通なのかと思い気にはしていなかったが……もしかして、何か隠しているのではないだろうか。警察に言えないことがあるというなら厳しく追及しなければならない。なんにせよ、まだ事件の概要さえつかみ切れていない有様だ。もっとよく話を聞いて追求の糸口を見つけなければ。
 一体どんな依頼だったのか。それを知ることがこの事件の関係者を知ることに繋がる。
「依頼してきた人物か、調査の対象になった人物に何かありそうですね」
「おっと。その件については何も答えることはできません、悪しからず。何せ守秘義務というものがありますからね。探偵の鉄則、守秘義務……便利な言葉です」
 深森探偵は瞑目し顎をさすりながら物静かに言う。飛鳥刑事は気になった一言を思わず反復した。
「便利?」
 深森探偵は目を開き、手の動きを止めた。
「ハッ。……と、とにかく。依頼について答えることはできません。すべては守秘義務の織りなす魅惑のハーモニィ……。おお、そう言えば私が調査した人物……主婦だったかも知れません。何となく、スーパーに足しげく通う様を思いだしたような気のせいのような」
「守秘義務と言ったそばから……。ただ単によく覚えてないだけじゃないですか。いったいいつの話なんです?」
「あれは忘れもしない強い日差しの降り注ぐ初夏の昼下がり……。今週の月曜日です」
 飛鳥刑事の質問に、顎をさすりながら答える深森探偵。
「最近じゃないですか!で、依頼を受けたのは?」
「そう、あれは忘れもしない……忘れもしない……はずなのですが。今はちょっと思い出せませんな」
「もう忘れてるんじゃないですか……。そんなに忘れっぽくて探偵がよくつとまりますね」
 何気ないツッコミに深森探偵は肩を震わせた。
「失礼な!青写真のモリサダの異名を持つ私の記憶力、なまじのものではありませんぞ!」
 青写真……光を当てると、光が当たったところがじわじわと青くなる物だ。
「確かに覚えたら忘れなさそうですけど、覚えるのに時間がかかりそうですね」
 飛鳥刑事のツッコミは無視された。
「ときに。一昨日の朝は何を食べましたかな?」
「え」
 言い淀む飛鳥刑事にかわり、作った本人である小百合が口を挟んできた。
「えーと。トーストとトマトシチューとあじの開きとたくあんだったかしら」
 そう言えばそうだったかも知れない。
「ふむ。刑事さん、あなたは?」
「トーストとトマトシチューとあじの開きとたくあんですが」
「同じものを言っただけではないですか」
「ええ、夫婦ですから同じものを」
「む……。私はわかめの味噌汁と、卵を入れた納豆でした。その前の朝は卵の味噌汁とアオノリ納豆。その前はわかめと卵の味噌汁に納豆。今月の一日の朝食は……豆腐と卵の味噌汁とノリの佃煮でしたな」
「はあ。卵と海藻と大豆食品で揃ってますね」
「細かいことはどうでもよろしいのです。重要なのは私の卓越した記憶力です」
「事件のあった日の朝食は?」
「あのような事件のあった一日のこと……。もちろんあらゆることをより鮮明に覚えておりますとも。あの日の朝食は……確か……」
 そのまま深森探偵は固まった。
「あ。思い出せないなら別にいいです」
 しかし、深森探偵は固まったままだ。
「む。むむむ……。どうやら、見えてきたようですな」
「何がです」
「事件の前……数日間のことがさっぱり思い出せない!」
 びしっとカッコいいポーズを決めながら、カッコ悪いことを言う深森探偵。
「……事件の時、頭でも殴られたんですか」
「さあ。記憶にありませんな」
 記憶がないことを認めてしまった今、それは堂々としたものだった。
「でも、事件があったことは覚えてるんですよね」
 飛鳥刑事の質問に、自信満々に頷く深森探偵。
「左様。事件は確かに起きたのです。記憶の糸も、そこまでは繋がっていた……。気がつくと私はこの事務所に一人佇んでいました。目の前には書類棚……引き出しが開かれておりました。素人には特におかしな点はないと思えるような、整理された状況でした。しかしそこはそれ。不測の事故により記憶がすっぽり抜け落ちようと、抜け落ちたファイルの痕跡に目敏く気付いてしまったのです!まさに探偵ならではの洞察力、そして私の卓越した記憶力あっての奇跡と言えましょう」
「その書類棚……見ても大丈夫ですか」
「私の卓越した整理整頓にて調査の資料はすべて封筒に収められております。封筒さえ開かなければ調査の内容は分かりません。見ていただいても結構」
 深森探偵はポケットの中の鍵を使い問題の引き出しを開いた。確かにこれでもかと言うほどきっちりと封筒が収められている。引き出しの半分ほどは使われておらず、代わりに未使用の封筒が横たわっている。その未使用のものまで含めて封筒には番号が振られていた。
 使いかけの一列をざっと見ると、C31からC40までとD1からD40までの封筒がある。……いや、D16だけ見あたらない。D18からは空っぽで引き出しにまとめて重ねられている。
「盗まれたのはD16の封筒ですか」
「ほう。よくわかりましたな。さすが見事な洞察力です」
 これは小百合にでも分かる。
「一つだけ、不自然に抜けた調査記録……。それに気付くことができた私ですが、その調査の内容を思い出すことはできませんでした。記憶の糸を手繰り寄せようにも空しく、まるで納豆の糸を手繰っているかのよう……」
「毎朝食べてますもんね、納豆。……で、事件の朝、納豆は?」
「……手繰っても空しいようですな。とにかく。資料もなく、調査の内容を思い出すこともできない。なまじの者ならばこの時点で調査すらなかったという結論に至るのもやむなしですが……そこはそれ、この青写真のモリサダ。調査のことは薄ぼんやりと灰色の脳細胞に焼き付いておりました。調査の詳細を思い出すことはできませんでしたが、断片的に……。そして事件のことも思い出したのです。報告書を持って約束の喫茶店に向かったこと、そして……むむっ、……そのくらいですな」
 今何かを言いかけてやめたような。怪しい。何を言おうとしたのか思い出せないか、あるいは言いたくないのか。
 とにかく、ここまでの話を整理してみよう。何か見えてくるかもしれない。
「ええと。依頼を受けた日時は不明ですね」
「左様。しかしながら、先月末にはまだ受けてないはずです。先月末の朝食……はっきりと思い出せます。フレンチトーストにわかめサラダ、そして納豆のポタージュ……」
「な、なんですそれ。発酵した大豆なら味噌汁でいいじゃないですか」
「パンに味噌汁は合わないでしょう」
「ポタージュに納豆も大概でしょう……」
 どうでもいい話にこだわっても仕方がない。飛鳥刑事は話を戻す。
「それで、事件が起きたのは月曜日の午後。その間の記憶はごっそりなくなっていた、と。……気付いた時、頭に痛みがあったりとかは?」
「いや、まったく。至って健康でしたぞ」
「部屋に倒れてたんですよね?」
「いや。気がつくと、その棚のそばに佇んでいたのです。二本の足は確かにしかと大地を踏みしめていた……!」
「え。鹿がいたんですか」
「しっかりとという意味です」
「ああ、それですか。大地と言いますけど、ここは2階ですし大地でもないですよね。……で、殴られたような痕跡はなしですか。それなら、電気ショックかもしれませんね。立ったまま意識が朦朧としていたのかも。部屋を荒らされた様子は?」
「そんな物があったなら、誰でも事件があったことに気付けたでしょう。目立った痕跡がなにもないところから事件に気付く……。それが私です」
 露骨に封筒の番号が飛んでいたのだから、誰でも気付きそうなものだ。
「数少なくあまり目立たない痕跡だったなくなった書類ですけど。この書類棚は普段鍵が掛かってるんですよね?」
「いかにも」
「その鍵は普段はどこに?スペアはあるんですか?」
「唯一無二の鍵はこの私のポッケに入れて肌身離さず。剣道初段将棋三段囲碁四段のこの私が持っていればこれ以上安心なところはありません。スペア?笑止、そのような物このモリサダには不要です。とうの昔にどこへやら」
「なくしたんですか」
「どこにしまったか忘れただけです。何せ、必要のない物ですから」
 記憶力が自慢だったはずだが、憶えてはいないようだ。
「事件の時にこの棚を開けたのはその唯一無二の鍵で間違いないですね。事件後、鍵は……鍵穴に刺さっていたんですかね」
「……そうですな。棚も開いてましたし」
「襲われた時に鍵は奪われたんでしょうね。……整理してみると、調査報告に行く途中何者かに襲われた。……恐らくスタンガンのようなもので気絶させられ、鍵を奪われた……」
「お待ちあれ。気絶させられていたとするなら場所はこの探偵事務所のはずですぞ。途絶えていた記憶が再び始まるのがこの場所ですからな」
「あれ?調査報告のために依頼人と会いに行く途中に襲われたんじゃ?」
「断片的に残された記憶の中に、依頼人に会うべく喫茶店に向かう場面があった……それだけです。その次の場面は記憶も鮮明なこの場所での出来事。……その間になにがあったのか?行く途中で襲われたののか?はたまた帰路で?ここへはどう戻ったのか?……すべては藪ら小路ぶら小路、藪の中でブラックアウトです」
 どうやら、この間になにが起こったのか……それを調べるのが近道のようだ。簡単に調べられることが一つだけある。事件の日、その喫茶店に深森探偵が現れたかどうか。現れていたとしても店の人が覚えているかどうかは分からないが、調べてみる価値はあるはずだ。

 軽食喫茶・サンビーカ。事件の日、深森探偵が向かった喫茶店だ。
 店内には色とりどりのステンドグラスから光が注ぎ、神秘的な雰囲気が漂う。そして店内を包み込むように静かに流れる音楽。……店内に置かれている古びたジュークボックスから流れるフォークソングだ。このあたりはただの喫茶店の雰囲気を漂わせている。
 サンドウィッチとコーヒー紅茶、お子さまランチとクリームソーダを注文し、これを今日の昼食にする。そして、聞き込みだ。飛鳥刑事は店長に警察手帳を見せ、次に深森探偵の写真を見せ、事件の日にこの人物が店に来なかったか聞いてみた。
「ああ、この人。たまに来る人だね。なんか挙動が怪しい人だったけど、やっぱり何か事件を?」
「いや。どちらかというと被害者よりなんですけど」
 どちらかというとではなく完全に被害者なのだが、それはどうでもいいだろう。
「いつも店では違う女性待ち合わせてたけど、やっぱり女性とのトラブルで殺人事件に?」
「いや。殺されてはいないんですけどね」
 どんな事件の聞き込みだと思っているのだろうか。はっきりと説明しないと勝手に話を作ってそれに合わせて答えてきそうだ。しかし、探偵であることやその探偵が泥棒にやられたなどと言う話をばらまいてしまっては深森探偵の業務に多大な支障を来すことになる。だから警察に届けることもできずにいるのだから、飛鳥刑事としても話すわけにはいかない。このまま話を聞くしかないだろう。
「確かにこの店に来ましたよ。あの日もやっぱり女性と待ち合わせていて……いつになく艶っぽい話をしてましたね。欲しいのとか、ちょうだいとか、連れて行ってとか。そのあと二人で店を出ていきましたよ」
 この人は自分の中で勝手に話を作る癖があるようなので、全て真には受けられないが、事件があった日には深森探偵はちゃんと待ち合わせ場所に現れ、恐らく依頼人と思われる人物とも会っていたようだ。
「どんな女性だったか覚えてますか?」
「うーん。年は若いとは言えないけどまだ中年とは言えないくらい。顔は際だって美人でもなければ悪いわけでもない。化粧は濃い目、服は地味ではないが派手でもない、言うなればシックなデザインと言ったところですね」
 役にたたなそうな特徴しかでてこない。確実に言えることは、化粧が濃かったと言うことくらいのようだ。
 とりあえず、深森探偵はここに来ていた。それだけははっきりした。この情報で深森探偵が何か思いだしてくれることを期待しよう。

「ほほう。この私が……サンビーカで依頼人に会っていたと?……なるほど、言われてみればそんな気がするようなしないような。……思い出してきましたぞ」
 依頼人とは会ってないと教えれば、会っていなかったことを思い出しそうな風情だ。しかし、ダメ元で話を聞いてみる。
「事務所に現れ、調査を依頼していったのは男でした。しかし、調査の報告を受け取りにきたのはその妻……女性でしたな。むむむ……顔や名前は全く思い出せませんが」
 思いの外、ちゃんと思い出していたようだ。思ったよりも速いテンポで前進できている。
「深森さん。その女性を事務所に連れてきたんじゃないですか?サンビーカの店主は深森さんがその女性と一緒に店を出ていくところを見ていたみたいですし」
「言われてみればそんな気がするようなしないような。……むむむ、思い出してきましたぞ」
 女性は一人で店を出たと言えばそのことを思い出しそうな不安な感じだが、さっきのこともあるので侮れない。
「依頼人の妻という女性とサンビーカで話をしたのです。しかし、話が話なので人の居ないところがいいと。しかし、事務所に連れてくるつもりはなかった。……あの店からはほんのりと遠いですからな。店を出てそこいらの路地裏にでも入って話をするつもりでいたのです」
「それで?結局この事務所にその女性は連れてきたんですか?」
「……さっぱり思い出せませんな」
 前進はここで止まりそうだ。
 深森探偵が会っていた女性が事件の鍵になりそうだ。本来の依頼人である男性のことも含めて何か思い出せないだろうか。
「依頼人は……顔は全く思い出せませんが、若くもなく年寄りでもありませんでしたな。体格は……中肉中背で標準的な日本人の体型、これと言った特徴はなかったかと。ありふれたサラリーマンと言った風情でしたな」
 思い出してきたようではあるが、役に立つとは思えない情報だ。女についてもサンビーカの店主と同じような特徴しか覚えていなかった。
「依頼は、とある人物の素行調査だった……ような気がします。ええ、そうです、間違いないような気がします」
 不安だ。だが、それが正しいという前提で話を進めた方がいいだろう。
「その人物とは?」
「守秘義務……便利な言葉です」
 思い出せないようだ。
「あなたに教えられることは……そう、その依頼を受けたことで私がいざなわれた冒険の日々!その姿を見られ存在を悟られてはならない探偵にとって、人目の多い場所とは危険地帯。ましてやそこが何にでも興味を持つ子供の坩堝であったならば危険もひとしお!」
 子供がいるような場所が危険とは思えないが、探偵にとっては危険なのだろうか。
「学校にでも潜入したんですか」
「幼稚園だったような気がします」
「誰の素行調査をしてたんですか……」
「私が幼稚園児の素行調査をするとお思いですか」
「しないでしょうね。幼稚園児って調査しなきゃならないほど行動に意味があるわけでもないですし」
 飛鳥刑事も大貴をみていてつくづくそう思っている。深森探偵は胸を張って答えた。
「つまり!私はその保母さんか親御さんを調査していた。そうでしょう!?」
「……いやいや俺に聞かないでくださいよ。でもまあ、そんなもんでしょうね」
「むむむ……どうやら、保母さんではない。子供の手を引いて帰途につく調査対象の姿を思い出しました。そう、私が幼稚園の近くで息を殺していた状況……思い出してきましたぞ。調査対象を尾行し、幼稚園に入っていくところを目撃した。そして……幼稚園には入りにくいので出てくるのを待っていたのです。危ないところでしたな、子供を迎えに来たわけではなくそこが密会の現場であったとしたならば……!あるいは、裏口からこっそり抜け出されていたならば……!」
「子供達がうようよいるような幼稚園でさすがにちちくりあったりはしないでしょう……。それならもうちょっと遅く来ますよ」
 何はともあれ、だんだん思い出してきたようだ。この調子で調査されていた人物が分かれば、そこから依頼人にたどり着けるかもしれない。
「で、調査対象は……相変わらず守秘義務ですか」
「子持ちの主婦……。それ以上のことは守秘義務により思い出すことができませんな。……どうも奇妙なのですよ。エッチなビデオは肝心なところにぼかしが入っているではありませんか」
「ちょっとちょっと。子供の前で何を言い出すんですか!」
「む、失礼。ですが、いくつか調査の場面とおぼしき光景を思い出すことはできるのですが、その調査対象の顔にはそんな感じでぼかしが入ったようになっているのです。依頼人、そしてその妻を名乗った女性も、やはり思い出される顔にぼかしが」
「どういうことですか、それ」
「さあ。忘れたと言うよりも記憶を塗りつぶされたような不気味さがありますな」
 一体何がなにやらだ。別な方向からアプローチを試みた方が良さそうだ。
「うーん。ほかの部分は思い出せるんですか?たとえば……その主婦の旦那とか子供のこととか」
「私の依頼は主婦の素行調査です。旦那?子供?ハッ、笑止!私には関係のないこと、覚えてなんになると言うのです」
「……朝食のメニューを一ヶ月分も覚えておくよりは有意義だと思いますよ」
「しかしながら。視界に入ってくるのは不可抗力。そして視界に捉えてしまった以上、このモリサダの記憶力から逃れることができないのもまた不可抗力です。……多少ならその特徴を語ることもできるでしょう」
「それじゃ、思い出せる範囲で話してもらえますかね」
「よいでしょう。そう……その子供は、幼稚園児くらいの子でした」
 深くを目を閉じ、厳かに言い放つ深森探偵。
「……っていうか、幼稚園児だったんですよね?幼稚園に潜んで待ってたわけですし」
 半分目を閉じ、冷ややかに言い放つ飛鳥刑事。
「むむ。さすがの推理力ですな。そして……その子は男の子でした」
「ずいぶん情報を小出しにしますね。で、ほかに覚えていることは?」
「むう。……くそやかましいやんちゃ坊主でしたな。断じて関わりたくない、関われば果てしなく疲れそうな子でした」
 もう少しマシな特徴を覚えてはいないのか。
「幼稚園児と言うことですが、歳はどのくらいです?この子くらいですか」
「……そうですな、この子と同じくらいの……同じ……」
 やっぱりよく思い出せないのか。飛鳥刑事はそう思ったが、どうやらそういうわけではなかったようだ。深森探偵は大貴の顔をまじまじと見た後、おもむろに口を開く。
「この子です」
「はい?」
「調査していた主婦が迎えにきた子供……この子です。この落ち着きのない頭の悪そうな……おほん、活発そうな顔。間違いありません」
「ということは、調査していたのってこの子の母親……」
「あ、あたしいぃ!?」
 小百合は思わず立ち上がり叫んでいた。

 一つの謎は解けた。だが、それは新たな謎を呼んだ。あまりにもよくあることだ。
 深森探偵が調査していたのは小百合だった。その事実が明らかになれば次の疑問がでてくる。いったいなぜ、小百合について調べさせていたのか。そしてその調査を依頼した人物とは。
 その謎に迫る前にさし当たって一つの勘違いを正さなければなかった。
「あたし、浮気なんかしてないわよ!」
「え。ちょっと待て。依頼したのは俺じゃないぞ!だいたい、その妻ってのが調査報告書を受け取りに来たんだろ?俺の妻は誰だよ」
「……あたし」
「だろ?そんな女知らないよ」
「待ちなさい。浮気相手が妻や亭主を名乗るのはよくあることですぞ」
 深森探偵がよけいな口出しをして、鎮火した火にガソリンをぶちまけるような結果をもたらす。
「そうか。そうよね!……その女誰よー!」
「だああああ!変なこと吹き込まないでください!おまえもちょっとは考えろ、俺がそんな調査依頼してたらわざわざおまえらを連れてここにこないだろ!」
「そうか。そうよね」
 小百合はようやく依頼人が飛鳥刑事でないと納得したようだ。ほっとする飛鳥刑事。森中警視が一目置いていた名捜査官の血を引く娘と思えない思慮の浅さだ。
「そもそも、その子供って間違いなく大貴だったんですか?」
「間違いありませんな」
 深森探偵は迷い無く答えた。
「でも、ずっと居たのに今まで気付かなかったんでしょう?」
「それは無理もない話です。何せ、私は依頼人について調べていたのですぞ。子供の顔?ハッ、笑止!私には関係のないこと、覚えてなんになると言うのです」
「……朝食のメニューを一ヶ月分も覚えておくよりは有意義だと思いますよ」
 さっきも同じ科白を言った気がする。
「思い出すのに時間は掛かりましたが、間近で見た顔ですからな。そう忘れはしません」
「間近で?」
「尾行中に纏わりつかれたのです。気付かれたくない尾行中の出来事……。顔は覚えつつ、その鬱陶しさから記憶を封印しておりました。いわゆる、思い出したくもないと言う奴です」
「だってさ。大貴、覚えてるか?」
 大貴はかぶりを振る。
「当然でしょう。探偵たるもの、その存在を極力気付かれないようにするのは基本中の基本。この子とて私の顔は見ていないのですよ。……しかし。坊や、これならどうかな」
 深森探偵はばさっとコートを翻し、そのまま裏地をこちらに向ける。裏地はつやつやした光沢のある生地になっていた。何となく見慣れた質感だ。深森探偵はそのまましゃがみ込む。すると、その姿は誰がどう見てもゴミ袋だった。
 一瞬の変わり身に皆驚く。大貴はスゲースゲーといって目を輝かせていたが、すぐに反応が変わった。
「あーっ!これ、幼稚園の前で見たー!」
「何だって!」
「ゴミ捨て場でもない場所に朝じゃないのに転がってて気になってたんだ!こいつは事件だと思ったんだ!」
「事件って……。何の事件だよ」
「決まってんじゃん、ほほうとうきだよ」
 少し考えて不法投棄のことかと理解した。どこでそんな言葉を覚えてきたのだろう。
「なるほど。それでこの上なく巧妙に正体を隠しているはずの私に、しつこく絡みついて来ていたのですか。正義感、そして探求心……それは時に、この上なくうっとうしいものですな。しかし、私の正体には気付けていなかった。この私に勝とうなど10年早いのです。ふはははは」
 深森探偵は高笑いした。大貴もあと10年……弱冠14歳にもなれば勝てるようだ。
 それはともかく、どうやらその正体を隠していた深森探偵と大貴は確かにニアミスしていたようだ。となれば、深森探偵が調査していたのはやはり小百合だったということができる。
 それでは、その調査の依頼人は誰だったのか。そちらの手がかりは相変わらず全くない。男がおり、妻を名乗る女も居た。それだけだ。妻と名乗っていても、浮気相手であることも多々あるという。同様に恋愛感情が皆無でも名乗るだけならいくらでも妻を名乗れるだろう。あてにはできない。
「依頼人の顔は相変わらず思い出せませんか」
「相変わらず、きれいにぼかしが入ってますな。依頼人も、その妻も、調査対象も、顔がさっぱり思い出せません」
 おや、と飛鳥刑事は思う。調査対象はほぼ小百合で間違いないはずだ。それが分かってもまだ顔が思い出せないのだろうか。飛鳥刑事は深森探偵に小百合の顔をよく見るように言う。
「調査していたのってこいつですよね」
「むむう。顔はさっぱり。しかし、このモリサダはただでは転ばず、転んでもただでは起きず。顔は覚えておらずとも。体は忘れておりません」
「え。なんかやだなあ。どこを見てたのよこのオヤジ……」
 小百合は思わず身構える。
「その立ち姿、歩き方……特徴は掴んでいます」
「うーん。確かに、足が太くて短いからペンギンみたいな歩き方だなぁってたまに思……」
 飛鳥刑事は後頭部を平手でひっぱたかれた。深森探偵は言う。
「そういう感じの特徴ですな。こうして見てみると、やはり似てます」
「ペンギンに?」
 小百合が手を振り上げた。小百合の体は飛鳥刑事の方を向いているが、深森探偵も慌てる。
「いやいや!調査対象の話です。しかし、いくら確信を強くしても記憶に掛かった顔のぼかしは消えません」
 気味の悪い話だ。
 何はともあれ、深森探偵はいろいろなことを思い出した。もうこれ以上思い出すのは期待しない方が良さそうだここからは調べて突き止めるしかない。それでもとても大きな手がかりをつかめている。
 だが、その肝心な大きな手がかりである調査対象・小百合に全く心当たりがないと言うのが痛い。
「誰なのよー。ほんと、気味悪いわね。何で旦那以外の人に浮気調査なんかされなきゃならないのよ」
 当たり前だが小百合は不機嫌だ。
「本当に心当たりないのか」
「ないわよ」
 そこに深森探偵が口を挟んできた。
「マドモワゼル。お言葉ですが、依頼は浮気調査ではなく素行調査でしたぞ」
「大差ないわよ」
「小百合の素行なんか調べて、いったい誰が得するんだろう」
 腕を組んで考え込む飛鳥刑事。小百合もそれとは違う心情で腕を組んだ。
「その言い方はご挨拶だわね。……でも、確かにそうよね。もしかして、あたしじゃなくてあなたが原因なんじゃないの?昔捕まえた犯人が、復讐するためにあたしを攫いに来ようと下調べしてるとか」
 怖いことをさらっと言う小百合。飛鳥刑事としても心当たりが多すぎるだけに笑えない。最近はこのあたりもすっかり平和になったが、数年前はこそ泥から怪盗まで跳梁跋扈する窃盗事件多発地帯だった。
「ん?怪盗……?」
 だいぶ昔のことなので忘れかけていたが、かつてこの町には怪盗がいた。それも二人も。一人はすばしっこいだけのいたずらっ子だったが、もう一人は催眠術を操る難物だった。
 怪盗ローズマリー。あの女なら、こんな風に記憶にぼかしを入れるような芸当もやりかねない。早速、その可能性を深森探偵に確かめてみる。
「催眠術ですと?」
「ええ、その依頼人の妻という女と喫茶店を出た後のこと、何か思い出せませんか」
「むう。……思い出せませんな。しかし、これが催眠だというのなら、手はありますぞ。深森式催眠破りという秘術があるのです。深森家は敵の多い一族でしたから眠り薬などを盛られることも多かったのです。そこで編み出されたのがこの秘術なのです」
「へえ。詳しくは興味がないのでちゃっちゃとやっちゃってください」
「しからば御免被りまして」
 深森探偵は唐辛子を目の下に擦りつけた。
「くっ……ぐおおおおおおおおおおお!目が、目がああああ!」
 悶える深森探偵。
「あー。入試勉強の時にやったなあ。あたしの場合は筋肉痛の薬だったけど」
「確かに目は覚めるだろうけど……催眠による暗示ってこういうことじゃ解けないと思うけどなぁ」
 これで思い出すことには期待しない方が良さそうだ。
 とにかく。まだ断言こそできないものの、この一件にはローズマリー絡んでいる可能性高い。そうなるとローズマリーがつるんでいた依頼人というのはかなりの確率でストーンだろう。
 ストーンが、この町に戻ってきた。連中はまだ、諦めてなどいなかったのだ。

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