Episode 7-『Return back』第1話 再会
警察との激しい戦いの末、ストーンの姿は聖華市から消えた。
その後も細かい犯罪は後を絶たなかったが、それでもストーンがいなくなった影響は大きい。盗品を買い取っていたブローカーがいなくなったことで泥棒たちの生活は一気に苦しくなり、足のつきやすい質屋などに同じノリで換金しに来て検挙されることも増えた。そしてパトロールの強化などの成果もあり、1年と経たないうちに窃盗事件は激減した。泥棒と犯罪の町から、本来の穏やかな貿易の町に戻ったのだ。
本来の自分である倉橋優香という人物のことさえも忘れていた小百合も、今は記憶と共に穏やかな日々を取り戻していた。
今はその本来の名を捨てて小百合として暮らしているが、決して過去を捨てたわけではない。しかし、西川小百合としての穏やかな生活も捨てられなかった。それだけだ。
ストーンを周囲から遠ざけたことで、ストーンの影に脅えることも、復讐の念に身と心を焦がすこともなくなり、彼女の暮らしの穏やかさは揺るがなくなった。
そして、自分のアパートで起こった自殺事件がきっかけで飛鳥刑事ともどもアパートを追い出されてからは、転居先のアパートでそれが当たり前のように同居生活を始め程なくそれは結婚生活となった。飛鳥刑事の巡査長への昇進のおかげで生活も安定したことも大きい。
やがて二人の間には子供も産まれた。
さらに時は流れ、二人の間に産まれた子・大貴が幼稚園に通うようになる春。
長かったのか、あまりにも短かったのか。そんな二人と一人の平穏な日々は、そっと、そして唐突に幕を下ろそうとしていた……。
「ぐおわあああ!ま、またか……!」
聖華警察署の廊下に悲痛な叫びがこだまする。
廊下の掲示板には人事異動の辞令が張り出されている。叫び声の主、佐々木庸二刑事に対する辞令は一切ない。それはつまり、これからも実質ヒラの巡査長としてがんばれと言うことだった。今回も昇進試験に落ちたのだ。
そんな佐々木刑事の背後に、試験に落ちた悔しさを増幅させる人物が忍び寄っていた。
「よぉ〜じぃ〜。こんなところで何でかい声出してるんだい、よぉ〜じぃ〜」
慰めようなどと言う優しさを微塵も感じさせない満面の笑みで、嬉しそうな声をかけてきたのは飛鳥刑事だった。
飛鳥刑事は2年前に階級をさらに一つ上げて巡査部長になった。刑事課内の立場で言えば捜査班の班長だ。実質、佐々木刑事の上司になっていた。
「くっそおおぉぉ!次こそは……次こそは受かって、昔のようにおまえに敬語を使わせてやるからな!」
「んー……ふっふっふ。その前に俺が昇進して庸二に敬語を使わせてやるぜ」
と。二人の関係はこんな感じになっていた。
佐々木刑事は試験直前になると飛鳥刑事への対抗心を燃やして勉強を始めるのだが、なにぶん日頃が日頃だ。日頃女遊びに費やす時間を勉強に充てていれば飛鳥刑事に追いつけるだろうし、そもそも飛鳥刑事に追い抜かれることもなかっただろう。外見や日頃の行動からは想像もつかないことだが、佐々木刑事もなかなかに優秀な刑事なのだ。……真面目にやれば。
一方、飛鳥刑事は遊んだりせずにまじめにやっていた。何せ、遊ぶほど金がない。階級は上がり給与も増えたが、寿退職した小百合に加えて大貴も養わねばならない。アパートでは手狭すぎるので広いところにも住みたいので貯蓄にも相当回す。そうすると遊ぶ金など残らず、結局昇進試験の勉強くらいしかする事がなかった。この辺は、独身貴族とマイホームパパの差と言ってもよかった。
刑事課の仕事のほうは、相変わらず忙しかった。裕福な家の多い区画では相変わらず窃盗や詐欺が多発。程度の低いこそ泥ばかりが残ったので検挙率こそ悪くはないが、発生数もそれなりに多い。
聖華市にローカルテレビの支局ができたことも犯罪発生に拍車をかけていた。何せ、この町のブルジョアジーの暮らしを紹介するレギュラー番組ができたのだ。週代わりで豪邸を見せられれば、そこに忍び込んで人生を変える賭に出ようと心に決める者も少なからず出てくると言うもの。まさに、撒き餌状態だ。
撒き餌が撒かれたところに魚は寄ってくる。その番組で紹介された邸宅を見張っていれば結構な確率で泥棒が釣れたが、その間によその邸宅でも泥棒が発生する有様だった。
そんな番組に、つい先日飛鳥刑事にとって、とても馴染みの深い人物が登場した。森中秀雄警視だ。
森中警視の邸宅は、ごく一部をみればごく普通の豪邸だが、少し視線をずらすとどこかの軍事基地のようになっている。この番組で取り扱うには些か異質な空間だった。
当初、森中警視の豪邸を紹介して泥棒を誘いだし、一網打尽にしてやるトラップのようなつもりで紹介させる趣旨だった。だが、ごく普通の邸宅部分を紹介しただけでは番組が持たず、多少趣味の部分を紹介してもらうことになった。
森中警視はマニアだ。マニアは趣味の話を始めると長い。いくらでもしゃべれる。収録したVTRも兵器コレクションの紹介ばかりになった。
番組プロデューサーも悪のりしてその紹介部分を多めに放送し、結局森中邸にはこそ泥どころか郵便配達さえ怖がって近寄らない有様になった。
しかし悪いことばかりではない。その放送があった週は森中警視の邸宅だけでなく聖華市全体で犯罪の発生率が低下した。
悪のりした森中警視はパトロールに装甲車を使う提案をしたが、当然のように無事却下され、聖華市の平和は守られた。
森中警視は階級こそ警視だが、立場上はヒラの刑事という扱いになっている。もちろん、そんな扱いができる人はいない。この奇妙な状況に加えて、森中警視の性格が性格だ。おっとりとしているようであってすぐに悪のりするトラブルメーカー、その上階級は自分よりも上。そんな部下を持った木下係長の気苦労は計り知れず、ここ数年の間に一気にやせて老け込んでいる。一方、森中警視の恰幅はよくなる一方だった。森中警視相手に平然としていられるのは、邸宅であいも変わらず武装家政婦を続けているおばさんくらいだった。
飛鳥刑事はその日の仕事を終えて自宅アパートに帰った。
「お帰りなさい。ねえあなた、今日はいい物件見つけちゃったの」
「物件?新居の?」
「うん。結構きれいで小さな庭のある一戸建てでね、800万円」
「え。1800万じゃなくて800万?中古とはいえ安すぎない?」
「そうかなぁ」
「どこ?」
「古後田ヶ丘2丁目の……裏通りだったかな」
「え。そこってこの間一家無理心中事件があったところじゃなかったっけ」
「え、そうなの?……もしかしてそういうことなのかな」
「後で資料を漁ってみるけど……様子見だなぁ」
「はあ……。うまい話ってなかなかないわねー」
この町で一戸建てとなると、かなり立派な邸宅が多くなる。安定した公務員だし昇給したこともあってローンを組めば何とかなるかも知れないとはいえ、なかなかいい物件は見つからない。ここは一つ、がんばってもう一つくらいは階級をあげておきたいところだが、ノンキャリアには厳しい注文だ。
「大貴も手が掛からなくなってきてるし、あたしもパートでもした方がいいのかしら……」
「え。これでも手が掛かってないの?」
大貴は誰に似たのかえらいやんちゃ坊主だ。これまた誰に似たのか悪知恵もよく働く。たまの休みに家にいてもひっかき回されてちっともくつろげない。
そんな大貴について、小百合は言う。
「これでもねー、自分のことはちゃんと自分でやるようになったし、あなたよりマシなのよー」
「うぐ。俺は仕事が忙しくてだな、その」
洗濯も食事の上げ下げも、部屋の掃除まで小百合任せの飛鳥刑事には返す言葉もなかった。
「分かってるわよ。市民の暮らしを守る大切なお仕事ですものね。家庭を守るのはこっちに任せておいて」
そう言ってもらえると助かるが、こういうことの積み重ねでだんだん嫁に頭の上がらない亭主になっていくのではないかと思うとこの先が不安になってくる。
「そう言えば。大貴の幼稚園のことなんだけどね」
「おう。決まったのか?」
「それはまだ。今日は聖ポーリア学院付属幼稚園ってところの説明会に行ってきたんだけどね」
「えーと。わりと最近できた学校だよな。どうだった?」
「ミッション系だけに厳しくしつけてくれそうなのはいいんだけど、やっぱりお値段が。説明会に来ていたご父兄も身なりがいい人が多くて」
やたら元気のいいきかん坊の大貴には、せめて人並みに落ち着いた子に育ってほしい。そのためには厳しくしつけてくれるところがいい。しつけの厳しさは重要なポイントだ。
「それでね。その中に何となく親しみやすい身なりの人がいたからその人の近くに座ったんだけど、世間話をしてたら昔あなたにお世話になった人みたいなの。若くてきれいな人だったわよ。お世話になったのは8年くらい前らしいからあなたが刑事になりたての頃よね。……あの人、そのころは中学生か高校生だと思うけど、いったい何をお世話したのよ」
じとっとした目を向ける小百合。
「え。いやいや。仕事でお世話した人にやきもち焼くなよ。そもそもどこの誰かも聞いてないのにそんなこと言われても」
「あ。そか」
相変わらずすっとぼけてるなぁと思いながら飛鳥刑事は考える。そのくらいの時期に関わった、若い女性。やはり真っ先に思い浮かぶのは怪盗ルシファーだ。しかしまさか。だが、あり得ないことではない。
「ええと。サトミさんって言ってたわよね。ミモリサトミさん」
「ミモリ……」
しばらくの間、まったくもって誰も思い浮かばなかったが、ようやく一つの顔が浮かんだ。
深森昭良。あの無頼の熱血漢。あの男が救出した女性の名前がサトミと言ったはずだ。……いや。実を言うとよく覚えていない。
飛鳥刑事は思いだしたことを小百合に教えた。当時の市長の息子だった小悪党が起こした馬鹿な事件を。
「あの二人、あのまま結婚してたんだなぁ。よく親が許したなぁ」
「そうねぇ。幼稚園からあんないいところに入れられるくらいじゃ、いい家でしょうに」
よく思い出せない。しかし、どちらもそんなにいい家だったような記憶はない。そもそも、小百合が親しみを持てるような身なりでやってきたのだから、今の暮らしもそれほどいい訳ではないだろう。
何はともあれ、この言い方からして、いい家に育っていない大貴はよその幼稚園に通うことになりそうだ。
この話はこれで終わった。……その時は。後日、予想もしないところから蒸し返されることになる。
「飛鳥君。聞いたよ、大貴君を聖ポーリアの幼稚園に入園させるそうだね」
朝、署に顔を出すなり森中警視にそう言われた。
「え。いや、あそこは……ちょっと先立つものがなくて見送りました」
「おや。そうかね。つまりあれだね、先立つものがない不幸をお許しください……と」
「縁起でもない言い方ですね。そりゃあ、確かにあそこに入れるとなると経済的に崖から飛び降りるくらいの覚悟が要りそうですけど……。それにしても、どこから聞いたんです?」
「深森さんだよ。君も息子さんが巻き込まれた事件を担当したことがあるから名前くらいは覚えているはずだ」
「そう言えば、小百合が嫁さんに会ったって言ってましたね」
「ふむ、それでか」
小百合が説明会に現れたことで、入園するものとして話が伝わったらしい。
それはいいとして、今の話にはちょっとだけ気になるところがある。森中警視が口にした、“息子さん”という言葉だ。
「森中警視、深森君の父親と知り合いなんですか?」
「うむ。我が家と深森家は古く深いつきあいだよ」
「初耳ですね。どんな関係なんです?」
「森中に、深森。どちらも森が入っているだろう」
なんだ、冗談か。
飛鳥刑事はそう思ったが、話には続きがあった。
「秘密は森の中にあり。森中家は古来、秘密の多いこの町で特に重要な秘密を扱う役目を負っていた。平たく言えば役人だ」
この地は江戸時代、キリシタンの隠れ里だった。秘密が多いどころではなく、彼らの全てが秘密と言っても過言ではなかった。町には今でもその頃の名残が色々と残っている。ストーンが利用していた地下通路などもその一つだ。……ということは、森中警視はあの地下通路のことを最初から知っていたのだろうか。もっとも、全ては過去のこと。記録が失われていても不思議はない。
「そして、深森家は森の深くに身を隠し、それを見守る。今風に言えば秘書……といったところだが、実際には隠密と言っていい」
「忍者ですか」
「分かりやすく言えば、な。昭良君が夜道をバイクで走り回るのが好きだったのも、闇夜に紛れて暗躍していた頃の血が騒ぐからだろう」
何ともこじつけ臭い話だ。
「あれ。深森ってそんなにいい家だったんですか。確か、自転車操業の自転車屋を引き継いだ記憶がありますし、小百合が奥さんと会った時も、それなりの身なりで近付きやすかったって話でしたけど」
「彼の父親は三男坊だからな。ふらっと家を出てやりたいことをやってるクチさ。私が特に付き合いが深いのは彼の父親の兄……長男の方なんだが、そう言う家系だから今でも化学方面に強くてね。先々代が興した化学工業の工場を受け継いでいて、催眠ガスや粘着材、火薬なんかをよく分けてもらっているよ」
ルシファーやローズマリーを追っていた頃から、森中警視はよくそう言った化学兵器を多用してきたが、出所はそこだったらしい。
「催眠ガス……って、作ってるんですか、今でも」
このご時世に、大量生産して使い道がありそうな代物ではない。
「薄くして香水に混ぜて“安眠の香り”として雑貨屋に卸しているようだね。結構人気があるみたいだよ」
物は使いようと言うことか。そして、今目の前でそのことを話している人物は、どちらかというと悪用に近い使い方をする人物ではある。
「ちなみに、次男坊は秘密を守ったり人の動きを見てきた血が騒ぐのか、探偵をやっているよ。もっぱら浮気調査だがね」
「はあ。変わった人が多い一族ですね」
類は友を呼ぶ。森中警視と深森一族の繋がりが深いのも、昔の家系の因縁だけではないだろう。
「昭良君夫婦は裕福ではないかも知れないが、一族は儲かってるからね。出産祝いを貯めておけば学費くらいは出るだろうね」
「はあ。羨ましい。うちもパトロンがほしいですよ」
「はっはっは。若いうちに苦労するのはいいことだよ、君」
苦労を知らなそうな人に言われたくはなかった。
結局、大貴は極めて無難に聖華中央幼稚園に通うことになった。選んだ決め手は、やはり何と言っても安さだ。
「ようちえんっ!ようっちえん♪」
明日入園を控えて大貴はテンションも上がりきっている。朝見た時に踊っていた奇妙な幼稚園の舞を夕方にも続けていた。これは典型的な、明日の入園式には疲れ果てて寝通すパターンか。
「今日はずっとこの調子だったのか?」
「さっきまでお昼寝してたわよ。今目を覚ましたところ」
そうでもないようだ。
「明日から、この部屋も静かになりそうね」
「静かな時間は俺は仕事中だから、俺にとっては何も変わらないよな。まあ、非番の日くらいは実感できるかな……」
ここで、唐突に話は変わった。
「そうそう、そう言えばこの間の深森さんの奥さんにスーパーであったわよ。うちの子が他の幼稚園に行くことになったのを知ってビックリしてたみたい。あたしはそのことをあの奥さんが知ってることにビックリしたけど」
「森中警視が深森君の伯父さんと知り合いで、そっちから話が行ったみたいだ。スーパーで会うってことは、近所に住んでるのかな。自転車屋は修道院通りに近いところだったはずだけど」
「それがねー。バイクが結構売れてて羽振りもいいみたいなのよねー。それで、最近この辺りに店舗移転してきたんですって。聖エレーナ公園のところだって」
言うほど近所でもないようだ。
「それでさ。ふと思ったんだけど、あたし自転車ほしいな。それに、大貴も新しい自転車を買う時期だと思うのよね。あの子、すぐに壁に真っ正面からぶつかっていくから結構がたがたなのよね。誰に似たのかしら……」
真っ直ぐつっこんでいく性格は父親譲りで、おっちょこちょいは母親譲りだと思われる。
「どっちも経済的に厳しいなぁ……」
「買ってくれる日を楽しみにしてるわよ。がんばってね、パパ」
「は、はい……」
ここはがんばるしかないようだ。
「欲しいと言えば。そろそろ二人目も欲しいなぁ」
「それも経済的に厳しいなぁ……。それに。俺の体力的にもちょっと……」
これも、出世すれば多少は仕事が楽になって余裕ができてくるかも知れない。せめてもう一階級。……しかし、そのための勉強でさらに疲れるというスパイラルに陥っている気はする。
森中警視は若い頃の苦労はしておけと言っていた。
いつか、この苦労が報われる日が来ると信じたい。
それから数日経ったある日の午後。強盗事件が発生し、飛鳥刑事たちは現場に急行することになった。
そして、飛鳥刑事はふと思い出す。事件のあったこの店は、聖エレーナ公園にほど近い場所にある。ということは、深森の新しい見せもこの辺にあるということだ。
「えーと店主さん。強盗に魚と金をとられたんでしたっけ。……その怪我も強盗に?」
佐々木刑事は被害者に聞き込みを始めた。
「いや、魚を盗んでいったヤツは強盗犯とは別な奴で。この怪我はそいつに」
「……どう見ても猫のひっかき傷ですね」
飛鳥刑事の指摘通り、店主の全身に刻まれた爪痕は、猫の爪による物だった。
店先に並んでいたイサキが、猫に奪われたのはまさについさっきの出来事だった。事件の発生を知った店主は、包丁を片手に逃走する犯人……猫を追いかけた。犯人は隣の店に逃げ込んだが、そこで追いつめられた。
包丁を持って突然押しかけてきた魚屋の店主に、隣の店の店主は特に驚いた様子もなかった。なにせ、いつものことだったからだ。
いつも通り、その店を通って外に逃げようとする猫。だが、いつも通りには行かなかった。窓の外に、水を張ったゴミバケツがおかれていたのだ。あまりにもしょっちゅう猫が通り道にしていくので、店主が罠を張ったのだ。
罠に掛かり、水の中でパニックになっていた猫を魚屋は捕らえた。だが、激しい抵抗を受け、格闘の末に取り逃がしてしまったという。
「あの猫め、今度会ったら三味線にしてやる」
鼻息荒く語る魚屋。
「あの。事件の話をしてくださいよ」
魚屋の店主が猫との死闘の末取り逃がした、その頃。
留守になっていた鮮魚店には今回の事件の犯人が侵入していた。猫を追いかけて店を飛び出していく店主の姿を見て、今がチャンスと通りすがりの泥棒が忍び込んだのだ。
隣の店で繰り広げられた魚屋と猫の死闘は、猫と魚屋の怒号として近隣に響き渡っていた。それが聞こえている間は、魚屋は戻ってこない。店におかれていた釣り銭や売上金をポケットに詰め込み終わったところだった犯人は、死闘が続いていることを知ってさらに大胆に店の奥を物色し始めた。しかし、その店の奥までは死闘の声がよく届かない。犯人は、死闘の終わりに気付かずに物色を続け、戻ってきた店主と鉢合わせた。
『な、な、何をやってるんだお前!』
そう言いながら包丁を振り上げる店主に驚いた犯人は、たまたま目の前にあった秋刀魚を手に取り店主に斬りかかった。秋刀魚は店主の眉間に当たり、怯んでいるうちに逃げられたという。
「俺はよ。近くに刺身包丁も置いてたから、それでやられたと思ったのよ」
凶器となった秋刀魚は投げ捨てられ、地面で銀色の鈍い光を放っている。
「鑑識!指紋の採取を!あと……血痕がついているな。被害者の物かも知れねえ」
猫に引っかかれて血だらけになっていた店主を殴ったのだから、血も付く。
「はっ!見たところ……死後数時間といったところでしょうか。新鮮です!」
「秋刀魚の死亡推定時刻はいいから」
店主に話を聞くと、盗まれた物は店先に出てた釣り銭ならびに今日の分の売り上げ約2万円、住居部分の居間に置いてあった京都土産の仏像の置物2千円相当、その横に並べておかれていたマリア像5千円相当。
「犯人は……なぜ仏像やマリア像を手に持っていたのに、わざわざ秋刀魚を手にとって反撃してきたんだ?」
「安物だって知らなかったから、壊したくなかったんだろうなぁ。知ってたら、そもそも盗もうと思わなかっただろうし」
その後、近所で聞き込みを行ったところ、仏像とマリア像を持った怪しい近所のオジサンを見たという主婦の証言を得ることができ、その近所のオジサンの家を調べたところあっけなく仏像とマリア像を発見、逮捕することができた。顔を覚えられているご近所で犯行に及んだのが拙かったとしか言いようがない。何ともあっけない事件だった。
そして、周辺での聞き込みの最中に新しい深森の店を見つけることができた。
その時は、聞き込みの最中。軽く挨拶と事件の話だけをした。気が向いた時にまた顔を出すことを約束し、その日は店をあとにした。
再会の機会はしばらく後のことになった。
夏の暑さも盛りになった頃、大貴の誕生日プレゼントに自転車を買ってやることになった。そのため、一家総出で自転車屋に押し掛けた。
深森輪業と書かれた大きな看板。小さくミモリ・モーターサイクルラボと書かれている。バイクを中心に取り扱っているようだが、自転車も置いてある。
「おー!すげー!かっこいー!」
大貴は自転車そっちのけでバイクを見始めた。やはり男の子らしくこういうものにも興味があるようだ。
「いらっしゃい……おや、飛鳥のアニキ。えらい久々じゃないっすか。来ないかと思いましたよ」
「や。なかなか時間と先立つものが工面できなくて。こいつがうちの子なんだが、こいつに自転車を買ってやろうと思ってさ。見ての通り、前の自転車はこのざまだ」
大貴が乗ってきた自転車を見せてやる。
「おや、これはひどい。ダンプカーにでもひかれましたか」
「いやいや、そういうわけじゃなくてさ。元気がよすぎる上に向こう見ずなところがあって、しかも向こうどころか前も見なくてさ。車の来るところじゃ乗るなって言ってあるからその点は安心なんだけど、車が来ないと思うと気が大きくなってかっ飛ばして、それで壁にぶつけたり柱にぶつけたり……」
「いいね。何も恐れずに真正面から突っ込んでいく根性……。おまけにタフだ。男はタフでなければ生きていけない……この子はいい漢になりますぜ」
「え、そう?それより自転車だけど……これより一回りか二回り大きいのがいいかな。……いや、すぐに壊しちゃうかも知れないし、一回りでいいや」
「いいでしょう。かっとぶ奴を見繕いますよ」
「あ、待って。あまりかっとぶと危なくないかな。今の自転車だってあっちこっち歪んで、それでスピードが出なくなっているおかげでひどいことにならずに済んでる感じだから……」
「ふうむ……。それならペダルを重く改造してスピードが出ないようにしましょうか。ずっと乗ってると足腰が強くなりますぜ。ケンカキックでドアくらいは破れるくらいに」
「それはいいことなのかな……。でも、事故るよりはマシかな。お願いしたいけど、その……高くならない?」
「サービスさせてもらいますよ。この調子だと、安く売っても修理代で元が取れそうですからね」
そう言い、昭良は快活に笑う。
「助かるよ」
「あ。そうだ。ちょっと解決して欲しい事件があるんですけどね。引き受けてくれたらさらに割り引きますよ」
「事件?何?」
とりあえず、まずは話を聞いてみることにした。
「何日か前に、俺のオジキの仕事場に泥棒が入りましてね。資料が盗み出されたみたいなんです」
「……って、それは普通に事件だよね。警察には……?」
そう言ってから、警察に言っていれば自分の耳に入らないはずがないことに気付く。
「いや、オジキも仕事が仕事だし、あまりおおっぴらにできないらしくて、警察に言うにも言えずに頭を抱えてたんですよ」
「えーと、森中警視に化学兵器を横流ししているって言う?」
飛鳥刑事の記憶の中で、少し事実がねじ曲げられていた。
「いやいや、そっちのオジキじゃなくて。探偵をやってる……」
飛鳥刑事は森中警視に聞いた話を思い出す。そう言えば、深森の父親にはその森中警視の化学兵器の元を生み出している兄の他にもう一人、印象に残らない方の兄が存在していた。
「そう言えば。次男が探偵をしてるって聞いたなぁ。確か、浮気調査専門の」
「別に専門でやってるワケじゃないですよ。オジキはオジキで、それこそホームズばりの名探偵を目指しているつもりなんですけど、実際舞い込んでくるのは浮気調査ばかり、しかもそれが肌に合っているのか腕がいいとすっかり評判で、舞い込む依頼はますます浮気調査ばかりになるって言う……」
「いるよな。才能はあるけど自分の望む才能じゃない人って」
「オジキにはホームズを目指してる意地もあるし、事務所から依頼人に関する資料が盗まれたとバレたら事務所の評判にも響くから大ごとにできなくて。こっそり解決してやってくださいよ」
「解決できるかどうかは分からないけど……、自転車が安く買えるならこっそり引き受けてもいいな。……個人的に」
飛鳥刑事はその探偵事務所の場所を聞き、早速そこへ向かった。
探偵事務所へも一家揃ってぞろぞろと向かうことになった。
探偵と言っても、大貴が期待しているような名探偵でないのは話を聞く限り明らかだ。そんな男女の怨念渦巻く浮気調査の探偵事務所にまだ幼い大貴を連れて行くのは躊躇われたが、探偵と聞いて大貴の目の色が変わってしまったので置いて行くにも行けなかった。探偵に対する夢が壊れなければいいのだが。
事務所はすぐに見つかった。サラ金やキャバレーの入った雑居ビルに、大きな字で『ジャングル探偵』と書かれている。深森、深い森にかけてジャングルという名前にしたとのことだが、この名前は色々と問題がありそうな気がする。
薄汚い階段を登り、事務所に入る。
「こんにちはー。……深森さーん」
事務所の中に人影はない。ドアは開いていたのだから、留守と言うことはないはずだ。もしもこれで留守だというのなら、泥棒に遭うのも無理もないという話になる。だが、探偵は確かに留守ではなかった。ただ、事務所の中には居なかったようだ。
「ようこそ、我が探偵事務所へ!」
「きゃあ」
「うおっ」
飛鳥刑事の背後、事務所の外で探偵らしき男の声、そして小百合と大貴の声がした。外を見ると、先程あまり気にもしなかったドア横のゴミ袋がもぞもぞと動き、人になった。ばさっとゴミ袋を翻すと、それはスーツの裏地となり収まる。
「……何やってるんですか」
「弟より話を伺っていたので、玄関先までで迎えを。探偵とはその存在を相手に悟られてはいけないのです。よって、このような形の出迎えに」
「気付かれないように出迎えって……意味あるんですか」
「……この世界の全てには、何か意味があるのですよ」
特に意味はないととっていいようだ。
大貴は純粋にスゲースゲーと目を輝かせているが、この人から話を聞くのは骨が折れそうだった。飛鳥刑事は引き受けたことを早くも後悔し始めていた。
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