Episode 3-『仮面の復讐者』第4話 X・Hermit
彼女は先走ることなく巧く身を隠しただろう。だが、孤独はいやが上にも彼女を追いつめてゆく。
伊藤美代子のアパートの部屋の玄関のドアを叩く。
応えはない。中で息を潜めているか、あるいは……。
ドアのノブを回してみる。鍵はかかっていなかった。飛鳥刑事の脳裏に予感が走る。
そして、アパートにはその予感通り、美代子の姿はなかった。
「帰ってきてないな」
佐々木刑事はため息混じりに言った。
「飛鳥、警視に戻ってきてないと伝えておいてくれ。その間に戻ってこないかどうか俺がここで見張ってる」
「はい」
難しい顔のまま、飛鳥刑事は覆面パトカーに戻り、無線で森中警視に伊藤美代子がアパートに戻っていないことを伝えた。
『そうか……。今から警官を向かわせる。そこは彼らに任せて、君たちは戻ってきてくれ』
無線から森中警視の応答。予測は出来ていたらしくあっさりとした口調だった。
程なくパトカーが赤色灯を回しながら伊藤美代子のアパートの前に停まった。サイレンは鳴らしていないので近所の住人はまだ寝静まったままだ。
「それは消しておけ、犯人が帰ってきたらすぐに逃げちまう。パトカーも目立たない場所に停めた方がいい」
佐々木刑事はパトカーの赤色灯を指さしながら警官たちに命令し、自分は覆面パトカーに乗り込んだ。飛鳥刑事も続く。
静かに走り出す覆面パトカー。
「面倒なことになりましたね」
「だな……。まぁ、戻ってきてるかどうかは半々だと思ってたけどな。ああいう気の弱そうな女が犯行を見られてすることと言ったら大体は家に逃げ帰って縮こまるか、行方をくらませるかのどちらかだ」
佐々木刑事は苦い顔で言う。
「喧嘩になった時も大体そうだ。頬を引っぱたく度胸のない女は、家に帰るか家出するかだ」
「そりゃ、家に帰るか帰らないかならどっちかでしょ」
「……ん?確かにそうだな……」
緊張感のない会話をする二人だった。
飛鳥刑事と佐々木刑事は志賀宅の前の森中警視と再度合流した。
「戻っていなかったとなると、何がなんでも決着をつけようということか」
森中警視はぼそっとそうこぼした。
「今までの話を考え合わせると彼女が一番恨んでいるのは志賀だ。その志賀に一番最後まで手を出さなかったと言うことは恐らく彼女は志賀を殺したあとで自分も命を絶つつもりかも知れん。それほどの覚悟があるとすればますます野放しには出来ない。何をするか分からん」
「とにかく、伊藤の潜んでそうな場所を片っ端から探しましょう!」
そう言い、駆け出そうとする飛鳥刑事を森中警視は諫めた。
「待ちたまえ。探すのはいいが、『潜んでいそうな所』に隠れてはいないだろう。彼女は慎重だ。おいそれと見つかるような所に隠れているとは思えない」
「それじゃ、どうすればいいんですか」
いつでも走り出せるような体勢の飛鳥刑事とはうってかわってのんびりと構えた佐々木刑事が森中警視に尋ねた。
「もちろん、探す努力は最大限する。その間、彼女の自宅と志賀の周辺を常に見張っておく。まさか彼女があらかじめ逃走のために大金を持ったまま犯行に及んだとは思えん。となれば今の彼女はほとんど何も持っていないはずだ。彼女の行動を封じ、時を待てばあちらから姿を現すだろう」
「だとよ。まぁ、相手は女だしな。女ってのは金も時間もかかるもんだ」
飛鳥刑事もふぅっとため息をついて緊張を解いた。
その後は何事もなく夜が明けた。
伊藤美代子のアパートと、志賀の周囲に警備課の警官が配置された。もちろん、犯人である伊藤が現れやすくするため目立たないようにだ。
警察は彼女がすぐに姿を現すことはないと踏んでいた。伊藤はこれまでの犯行でも証拠の少なさはもちろん、なるべく自分に容疑がかからないように工作をする慎重さを見せてきた。警察が彼女をマークしていることに気付いているかどうかは定かではないが、どうあれ警戒はするだろう。
案の定、その日から彼女は会社に姿を現さなくなった。上司には親が危篤でしばらく会社を休むという連絡が入ったらしい。
彼女の欠勤を確認した飛鳥刑事と佐々木刑事は署にその旨を伝えた後、西洋商事聖華支社のあるビルの屋上で一服入れることにした。二筋の紫煙が空に向かって伸び、たまに吹くそよ風にかき消えてゆく。
「しかし、森中警視の言った通りだったなぁ」
佐々木刑事は長々と煙を吐き出した後、ぽつりとそう呟いた。
「ですね。でも、伊藤って俺の憶えてる限りじゃ犯罪なんて起こしそうにない、大人しそうな女性だったじゃないですか」
「まぁ、そう言うタイプが怒ると怖いって事だよな。すぐ怒るような軽いタイプは冗談も軽く流してくれるから楽だけどな……。ああいうタイプは心を開かせるのも、その後も大変なもんだ」
少し言葉を切り、思案するような目でさらに続ける。
「見つけてからも大変だぞ」
紫煙を孕んだため息はビルの上を駆け抜ける強い風に瞬く間に霧散した。
警察は伊藤が自宅、志賀宅、そして会社のどこかから、そう遠くないところに身を潜めていると断定し、捜索を開始した。
その最中。一報が飛び込んできた。
伊藤美代子の車が発見されたのだ。車はすでに中古車ディーラーによって買い取られていた。
警察が近隣のディーラーに伊藤が車を売却する可能性に気付き、先回りして見つけたら通報するように要請を始めたところだった。そして、その連絡を入れたディーラーから、開店一番に売りに来た車がまさに伊藤の車だという返事があったのだ。
「やられたぞ」
苦々しげに言いながら木下警部は受話器を置いた。
「車はいくらで売れたんですか?」
飛鳥刑事はそれが気になる。伊藤の所持金が増えれば潜伏もしやすくなるからだ。
「20万円くらいらしい」
「しばらく潜伏できますね」
「ああ。長期戦になるかも知れんな」
「出てくるのを待つより探し出した方が早いっすね」
佐々木刑事が口を挟んできた。
「そうだな。しかし遠くに逃げた可能性もある。難しいぞ」
「とにかく、彼女に関する情報を集めていくのが先決でしょう」
飛鳥刑事はもうじっとしていられない。
「ああ。……警部、西洋商事に行って伊藤美代子について情報を集めてきます」
「うむ、頼むぞ」
佐々木刑事も腰を上げたので飛鳥刑事は走り始めた。
社員の中でも特に伊藤と親しかった女子社員に話を聞くことにした。
しかし、プライベートまで知っている友人はなかなか見つからなかった。よく一緒に買い物に行ったり、アパートに遊びに行ったこともある、同僚の受付嬢に話を聞いてみたがよく考えていれば彼女については知らないことが多いという。
特に、伊藤はシャイな性分だったのでプライベートなどあまり話さない。
「ダメか……」
「先輩、最初から梅川に話聞いた方が良かったんじゃないですか?」
飛鳥刑事が突っ込むが、佐々木刑事はそれを一蹴する。
「バカ。女が自分の好きな男にそうなんでもぺらぺら喋るわけねぇだろ」
「そんなもんですかね」
「お前は本当に女心が分かってねぇな。そんなんじゃ刑事として務まらねぇぞ?」
「えーっ。それとこれとは関係ないじゃないですか」
一笑に付す飛鳥刑事だが、佐々木刑事は真顔だ。
「関係ないもんか。俺たちゃ男だ。だから相手が男なら自分ならどうするか当てはめりゃ大体相手の考えそうなことは分かる。だが男と女ってのは考え方が別モンだ。そのまま考えてたら全く予想がつかないって事になっちまう」
「そんなもんですかねぇ」
「お前は真面目だからな……。女と付き合ってみりゃ分かる。男にとって女は最大の謎だってよく言われてるが、全くその通りだ」
とにかく、このままでは進展は望めない。
学校などに話を聞き、伊藤美代子と学生時代に特に親しかった友人を訪ねてみることにした。
伊藤に父親はいなかった。まだ伊藤が幼かった頃に離婚し、母親に引き取られたという。母親に女手一つで育てられていたが、その母親も伊藤が高校生だった時分に無くなっていた。なので、もっとも彼女について詳しいのは学生時代の友人だろうと判断したのだ。
村木光子という大学生だった。片田舎から出てきて今はアパート住まいをしている。一人暮らしの女子大生と言うこともあり、不安を抱かせないように事前に連絡を入れてアパートを訪ねる。
何を期待していたかテンションが高まっていた佐々木刑事だが、村木の顔を見るとテンションは大きく下がったようだ。
村木は二人をアパートの中に招き入れようとしたが、いえ、ここで結構です、と飛鳥刑事が返した。佐々木刑事もなにも言わない。
ひとまず伊藤の高校生時代の話を聞くことにした。
村木と伊藤はどちらも陸上部に所属していた。1年の頃はクラスが別々だったが、2年からは一緒になった。当然、知り合ったのは部活が最初だった。
「ミヨは凄かったですよ。インターハイ予選でもいいところまで行ったんですから。出場まではいけませんでしたけど」
伊藤は部活では相当優秀な選手だったそうだ。学業の方は決して優秀ではなかったが、無難な線ではあったらしい。
当時からかなり男子にもモテていたそうだが、不思議と男子にはあまり心を開こうとしないところがあった。
「お父さんのことがあったみたいなんですよね。私も詳しくは知らないんですけど」
考え込むようにして村木は言った。
込み入った家庭の事情なのであまり深くは突っ込まなかったらしいが、どうやら幼い頃に家を出て行った父親と何かがあったらしい。その影響もあり、男性に対して恐怖にも似た感情を抱いていたという。
そんな中、伊藤は母を失う。悲しみに暮れ、どうすればいいのかさえも分からない有様の伊藤を、村木は励まし続けた。そのことでよりいっそう絆を深めた村木は伊藤の支えとなり、卒業までを過ごした。伊藤はそのまま高校を卒業すると西洋商事に入社した。
「村木さん。伊藤さんが好きだった場所とかに覚えはありませんか?」
飛鳥刑事の質問に村木は考え込む。
「学校の外であの子がよく行っていた場所って言うと市営のグラウンドくらいですね」
聞き込みを終えた二人はその市営のグラウンドに行ってみる事にした。学生がサッカーをしていたり、中年男性がジョギングしていたりする姿が見える。
ひとまずそこにいる人たちに伊藤美代子をみていないか尋ねて回ったが、それらしい姿を見た者はいなかった。
「ここに来ますかね」
飛鳥刑事はベンチに腰掛けながら呟く。
「さあな。俺は来ないような気がする」
「何でですか?」
「お袋が死んで途方に暮れていた時期なんて一番辛い時期だ。何もそんな時期のことを今になって思い出したくもないだろ」
「それもそうですね」
「こう言う時に思い出したがるのは幸せだった時のことだ。……小学校や中学校の頃はどうだったんだろうな。親父はいなかったがお袋と暮らしてた時期だ」
「母親と二人、どんな暮らしをしてたんでしょうね。裕福だったとは思えない……」
「貧しかろうが幸せを感じることはできるさ。……一旦署に帰ろう。警視が調べている伊藤の家族関係で何かが分かるかも知れない」
気になる父親のことを森中警視はよく調べていてくれた。
伊藤の父親は木原佳仁。伊藤とは母親の旧姓だ。そして、その木原は製材工場で働いていたが、伊藤の母が亡くなるよりも早く事故で死んでいた。
「事故?」
飛鳥刑事は思わず聞き返す。
「ああ。運転中の衝突事故だ。速度超過の上カーブでハンドル操作を誤り対向車と衝突した。この事故では相手方も死亡している。乗り合わせていた家族のうち妻もだ。後部座席にいた娘は死は免れたが大怪我をし孤児になった」
「その子は?」
「引き取り手もなく孤児院にいる」
「親族はいなかったんですか?」
「いや、この事故の時に木原が死亡していることを理由にとっくに離婚が成立している伊藤美代子の母親相手に賠償を請求しようとしている。もちろん離婚した配偶者には相続権もないので支払い義務はないがな」
「ガキを引き取るのはいやがって金だけふんだくろうってのか。胸糞悪い話だ」
毒づく佐々木刑事。
「その親族について分かりませんか?伊藤はもしかしたらその親族を狙うかも知れない」
「その可能性も考慮して今調べているところだが、消息が掴めていない。大分前に借金を作って失踪している」
「失踪!?」
「我々も必死にその行方を捜している。……我々でさえこのざまだ、伊藤一人に見つけ出せるとは到底思えない。よほどの偶然があれば別だが……」
「どこを目指しても掴み所がありませんね……」
飛鳥刑事はため息をついた。
「とにかく今は志賀をマークしておくべきだろう。とりあえず警備課の連中に志賀の自宅と勤務先の警備は任せているが仕事が終わった志賀が自宅に帰るまで手薄になる。一応会社から自宅に帰るまで目を離さないでくれ。できれば本人にも気付かれないように尾行した方がいい」
「尾行?なぜです?」
「しっかりと警備しているともしも伊藤が近くまで来ていた時に出づらい。帰宅中の隙を狙って伊藤が動くかも知れないということだ」
「つまり、志賀を泳がせて犯人を油断させるわけですか」
どっちが犯人なのか分からないような佐々木刑事の言いっぷりに飛鳥刑事も苦笑いする。
「平たく言えばそう言うことだ」
「警視、もしかして志賀が襲われても構わないとか思ってません?」
飛鳥刑事はつっこみを入れた。
「そんなことはないが。いくら力の入りやすいピック状の凶器を使ったところで、男相手に致命傷を与えるのは難しい。今までの犯行はいずれも熟睡している被害者を狙っているからこそうまく行っている。相手は大の男だ。まして自分が狙われていると知っているわけだから警戒はしてるだろうから怪我くらいで済むはずだ」
完全に志賀を囮として使おうとしている。
「何かあったらどうするんだろう……」
飛鳥刑事はなんだかとても不安になってきた。
志賀が退社した。
志賀には、ちゃんと離れて見張っていることを告げてある。見失うことの無いように、事前に通るルートの確認をとり、そのルート上に私服警官が待機している。時々交代したりして怪しまれないようにと言う配慮をしつつ、常に目を光らせている。
顔を覚えられているだろう飛鳥刑事や佐々木刑事はこの中には入れない。かわりに、覆面パトカーに乗り込み何かがあったらすぐに行動できるようにして待機している。
もちろん志賀も余計な寄り道はできない。そんな気分にもなれないだろうが。
『喫茶店チャペルヒル、曲がりました。異常ありません!』
『スーパー聖華の交差点、予定の方向へ進行中。異常なし!』
続々と何もなかったという報告が飛び込んでくる。
もちろん、そんなにすぐに何か起こるとは思っていない。無事、志賀が自宅に到着し、一同さっさと撤収した。あとは志賀の自宅を警備するチームに任せておけばいい。
同じようなことが何日か続いた。
捜査の進展はほとんど無く、伊藤の方に動きもない。
「飛鳥刑事ー」
もうすぐ志賀の退社時間という時に、小百合がひょっこりと刑事課に現れた。私服である。
「ん?何だ?まだ退社の時間じゃないぞ」
「その件なんですけど。今日は志賀さんがスーパーに寄るそうです。なので一足先にスーパーに行って店内を警備することになったんですけど、スーパーで目立たないようにするって言うとやっぱり買い物するのが一番じゃないですか。だから何か買う物があればついでに買ってきますよ」
「おっ、そうか。ちょっと待って」
メモ用紙に買ってほしい物をリストアップし始める。いずれにせよ、それほど種類があるわけではないのだが。
「じゃ、これお願い」
「はーい」
小百合の用はそれだけのようだ。
「おまえらだんだん夫婦みたいになってきてるな。式はいつ挙げるんだ」
佐々木刑事がぼそっと言った。
「やだー、もう何言ってんですか」
小百合が裏拳でつっこみを入れた。結構力が入ったらしく効いたようだ。佐々木刑事は顔を歪めた。
「そもそもこんな生活苦しいのに結婚なんて夢なんですけど。自分がまともに食っていけないのに家族を養うなんて無理です」
飛鳥刑事は侘びしさ溢れる意見を返した。確かに辛うじて食っていける程度で、着る物もほとんど買えない有様だ。薄給とは言え普通はそこまで追いつめられはしないのだが、飛鳥刑事の場合は早々とマイカーを買ってしまったので維持費にローンにとこまめに飛んでしまうのだ。
「ああー、俺も思い出すなぁ。新入りの頃のうっすい給料袋!……今も大して変わんねぇけどさ……」
佐々木刑事は深く納得した。佐々木刑事は女好きとは言え女性に金を使うタイプではない。遊んでそうなタイプを見つけては声をかけて一晩だけのデートを楽しみ、あとはさっぱりお互いのことを忘れてしまう。時々気のあった女性とは付き合ってみたりもするが、結局は飽きるか飽きられるかで別れてしまう。
マイカーはなくバイクだけだ。なので金の使い道はそれほど多くはない。ただ、飛鳥刑事とは違い服代で消えている。酒も飲む方なので結局は金は貯まらない。ギャンブルはやらない。と言うか、手が出ない。
なんだかんだ言って慎ましやかな暮らしをしているのである。
二人の会話は小百合を置き去りにして、暮らしの惨めさ自慢大会の様相を呈してきていた。
夕暮れ時。
志賀も退社時間となった。予定通り、志賀はいつもの通勤路をそれてスーパーへと立ち寄る。
店内では小百合が主婦のふりをして買い物をしている。貧しさ自慢ができる飛鳥刑事の買い物を足したところで、買う物なんてたかが知れている。あっという間に買い物は終わってしまい、他のものを見るふりをして店内で志賀を追跡する。
志賀がレジにならんだので小百合もレジに向かう。怪しくないように、一番空いている列に自然に並ぶ。ふと小百合の買い物籠の中で無線機がなった。連絡のために一応持ち歩いているのだ。さすがにこんな怪しいものを人目のつくところで使っていてはバレバレなので、列を離れて慌ててトイレに引っ込んだ。
「西川です」
無線機に呼びかける小百合。
『おお。様子はどうだ』
無線機から外で待機している警官の声が返ってきた。
「異常があったら連絡しますって。見失っちゃうじゃないですか、もう!」
小百合はこう見えて結構短気だ。とっとと無線を切ってトイレから出る。
志賀はちょうど会計をすませて、買った物を袋に詰めているところだった。
スーパーの外で、外で待っていた警官達が慌ただしく動き始めている。志賀が店を出るので慌てて準備でもしているのだろうか。あんな不自然な動きをしていてはバレそうなものだが。小百合でさえいろいろと気を遣って行動しているというのに。
とにかく、スーパーでの警護は無事何事もなく終わりそうだ。
ドアチャイムなどついていない質素なドアをノックする。
「今、いいですかー?」
部屋の中に呼びかけると、中から返事が返ってきた。
「小百合?いいよ、入って」
ドアには鍵などかかっていない。開けると万年床の布団の上に座ったまま、テレビを見ている飛鳥刑事の姿があった。
「うわ。久々に来たけど相変わらずきったない部屋ですね」
素直な感想を述べる小百合。
「しょ、しょうがないだろ。男やもめなんだから」
とりあえず何の用件かは分かっている。さっきの買い物で、飛鳥刑事のために買った物を持ってきたのだ。
「これでいいんですよね?」
渡されたものをチェックする。とりあえず問題はない。
「いくら?」
「560円です」
飛鳥刑事は財布から五百円札と百円玉を取り出して渡した。小百合はすぐに財布から40円を出して渡そうとする。
「いいよ、とっといて」
たった40円とはいえ、気前のいいところを見せるつもりの飛鳥刑事だが。
「あんな話聞かされて、余計なお金もらえませんよ。この40円が元で水道が止められたとか言う話になったら大変でしょ。はい、受け取って」
そこまで俺の暮らしはせっぱ詰まってない、とは言えない飛鳥刑事。ここまで言われてしまうとみっともないが受け取るしかない。
「で、警護の方はどうだった?」
「まあ無事には終わりましたね。でもなんかここの警備課ってダメかも……」
「えっ、何で?」
「だって……あ」
話が世間話に移ってきたところで小百合がふと言葉を切る。
「ん?」
訝しげな顔をする飛鳥刑事に小百合は言う。
「ちょっと上がっていいですか?」
「な、何で」
「だって。なんか長話になりそうだけど、その部屋の片づいて無さを見てると落ち着かなくて。部屋を片づけながら話します」
「別にいいよ」
「何か見られると困るものでも置いてあるんですか?」
「そうじゃないけど」
「それならいいじゃないですか」
小百合はもう部屋に上がっている。飛鳥刑事は説得を諦めた。刑事としてあるまじきことである。
飛鳥刑事の部屋は散らかってはいるが、貧乏人の部屋だけに、物はあまり無い。読み捨てられて置きっぱなしの新聞をまとめ、食べたままの食器を片づけ、ゴミをゴミ箱に捨てるだけで片づいてしまう。
金が無くて着る物が買えないと言うだけあって、着る物はこまめに洗っているようだ。そうしないと着る物がなくなる。
その片づけの間、小百合は飛鳥刑事に延々と職場の愚痴を聞かせた。夕方の無線機の一件がかなり癪に障ったようだ。
「あの不破って人、絶対サボってましたよ!それであんな無線連絡入れたんですよ。慌てて駆け戻ってくるのが見えましたし。人の命がかかってるんですよ?まったく、ああいう志の低い人が警察内にいるなんて信じられませんよね!」
「そ、そうだね……」
佐々木刑事には聞かせられない一言だ。
よくこれだけ愚痴が言えるなぁ、と呆れる飛鳥刑事だが、部屋の片づけが済むと愚痴も収まった。先ほど言ったように片づける物もさほど無い部屋だ。
「愚痴聞かせちゃってすいませんでした。おかげでスカッとしちゃった」
「ああそう、それは良かったね……。こっちも部屋はさっぱりしたから助かるよ」
なんだかもやもやした気分で答える飛鳥刑事。小百合は最後に、布団は干さなきゃダメですよ、とだけ言い残して隣の自室に戻っていった。
ドアを閉め、改めて自分の部屋を振り返る飛鳥刑事。
片づけられた自分の部屋が、あまりにも閑散としているのに愕然とせずにはいられなかった。
「いやー、四畳半の部屋を広く感じる日が来るとは思いませんでしたよ。あれには参った」
翌日。朝っぱらから侘びしい話をする飛鳥刑事の姿があった。
「でもよ、結局は小百合を部屋に上げたわけだろ。なんだかんだ言っておまえらも進展してんじゃん」
にやけながら言う佐々木刑事。
「進展って何すか」
「いまさら何もあるか。わざわざ部屋に呼びつけるなんざ……。で、そこまでしといて何も無しってことはないよな?」
「呼びつけてませんよ。愚痴だけ言って帰りましたし」
「ん〜なわけあるか!」
「マジですって。昨日の警備の仕事で上司がサボったとかそんな下らない愚痴っすよ」
「ほう?その話、詳しく聞きたいものだね」
突然後ろから声がしたのでビビる飛鳥刑事。振り向くといつの間にか森中警視がそこに立っていた。
「いや、別に刑事課の話は出てませんから」
慌てる飛鳥刑事。
「そう言われると刑事課の話が出ていたように聞こえるが?」
「そんなことはないです」
「まあそうだろうな。昨日の警備に関しては刑事課はノータッチだ。ただ、職務怠慢な警察官がいると聞いてはさすがに黙ってはいられないからな。詳しく聞かせてもらえないかね。もちろん、西川君や君のことは言わないが、警備課の課長に進言しておこう」
そこまで言われて断る理由はない。話半分に聞いていた、うろ覚えの話の子細を、必死に思い出しながら話す。
「警備課の不破君か。確か県警から出向してきたばかりで、なかなかのやり手だと聞いたが」
「そんなやり手が、ちょっと前に怪盗騒ぎがあったとは言えこんなに平和な町に、なんでわざわざ出向して来たんすかねぇ」
佐々木刑事がだるそうに口を挟んできた。
「まあ、事情があるんだろう。さぼり癖があるというのなら頷ける話じゃないか」
ふと、また飛鳥刑事の脳裏に、森中警視がこの刑事課に居続けるのはなぜだろう、と言う疑問が頭をもたげてきた。森中警視はまさにエリートに相応しい能力を持ち、勤勉な人物だ。このようなところに半ば左遷のようにして飛ばされてくるような人物には思えない。
まあ、過激な趣味を持っているからな。何かやらかしたんだろ。
飛鳥刑事は勝手に決めつけた。
伊藤美代子が行方をくらましてから二週間あまりになる。何も起こらないと判断した警備課は志賀に対する警戒を解くことになった。
もちろん、伊藤がこの警戒に気付いていて、警戒が解かれるのを待っていると言うことも考えられる。実質、警戒は刑事課に引き継がれたことになる。
志賀のほうも、ストレスで精神的に追いつめられている。この状態が長く続くと体調や神経に異常がでるかも知れない。だが、伊藤の行方は杳として知れない。
探しても見つからず、待っても姿を現さない。このままでは八方塞がりである。本当に伊藤は志賀のことを諦めてしまったのか。
この付近に潜伏しているのなら、目撃例があってもおかしくはない。志賀の自宅と勤務先は警備が厳重なので、狙うとすれば通勤路だ。今志賀は敢えて人通りの多い道を通っているので、狙っていればどこかでその姿を見られる可能性は高い。それなのに、全く姿を現さないというのは、まだどこかで潜伏しているのか、諦めたか。この状況では手が出しにくいのは確かだ。なので諦めることも確かに考えられる。
いずれにせよ、伊藤の所持金はさほど多くはないはずだ。全てを捨てて行方をくらましたのなら、その所持金を使い切る前に志賀の前に現れるか、そうでなくても何らかの行動に出るだろう。最悪、追いつめられて自殺に踏み切るかも知れない。それは避けなければならない。
しかし、佐々木刑事は言う。
「女の執念ってのは恐ろしいからな。このまま諦めるわきゃぁねえ。自殺するくらいなら警備を強行突破してでも志賀を殺しに来る。それで捕まったら舌でも噛み切るだろうよ」
その言葉を信じて、現れるのを待つしかない。
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