Hot-blooded inspector Asuka
Episode 3-『仮面の復讐者』

第5話 XVI・Tower

 彼女にとってそれは予期せぬ出来事だった。信念は崩壊し、窮地に立たされる。できることは、投獄の時を待つのみ。

 何も起こらないまま、伊藤美代子が消えて三週間がたった。
 連日プレッシャーに苛まれる志賀は、会社から長期の休暇を与えられたが、会社で働いていた方が気が紛れると言うことで、警官たちに見張られながら通勤を続けている。
 志賀の心労は大変なものだ。日に日にやつれていくのが分かる。
 しかし、社内では、特に女子社員の間ではいい気味だと言われている。それだけ嫌われていたと言うことだ。どの部署にも一人くらいは志賀に弄ばれた女子社員がいると言うから当然だろう。男子社員とて、嫉妬心であったり義憤だったりするが、いずれにせよ良からざる感情を多くの者が抱いている。こんな状態にありながら、孤立しているのだ。
 警察内部でも志賀のこれまでの話を聞いて嫌悪感を示すものは多い。だが、仕事は仕事と割り切らざるを得ない。
 悪戯に時は過ぎる。ついに、警備課は志賀の護衛を中止する決定を出した。
 伊藤は出てくる様子がない、と判断されたのだ。おそらくはすでに諦め、どこか遠いところに潜んでいるのだろう、と。
 事態が急転するのはその翌日であった。

 その日から志賀に護衛はつかなくなった。
 志賀は一人で出勤する。会社の近くのマンションを出て、徒歩数分のバス停からバスに乗り、会社まで数分のバス停で降りる。いつも通りだ。警察の護衛がないためか、心なしか足早になる。
 社内にはいると落ち着く。さすがにこれだけ人がうろついていれば伊藤が入り込んでくる可能性はほとんど無い。社内の人間なら伊藤のことをよく知っている。見ればすぐに分かるだろう。
 志賀は営業でも外回りには出ずに、しばらく社内での仕事をすることになっている。社内にいればまず安心だろう。
 だが、帰宅の時間になればまた誰がいるか分からない道を歩かねばならない。不安に身を縮めながら志賀は会社をあとにした。
 会社からバス停までの短い距離。人通りは少なくない。そこに油断があった。
 一人の男が路地に入っていくのが見えた。バス停は近い。だが、その路地の前を通りがかった時、志賀に飛びかかってくる人影があった。
 志賀は咄嗟に避けた、と言うか驚きのあまり腰を抜かし、その場に倒れ込んだ。そのおかげで一撃は急所からそれた。その様を目撃したのだろう誰かの悲鳴があがる。志賀は自分を襲った相手を見上げた。別人かと思うほどに表情を歪めた伊藤美代子だった。
 伊藤は手に持った長い棒に出刃包丁の刃を取り付けた「凶器」を振り上げ、志賀にさらに一撃を浴びせた。肩の辺りに突き刺さった。さらに振り上げ、振り下ろす。身を守ろうとした志賀の腕に痛みが走る。最後に振り下ろされた凶器は志賀の脇腹に突き刺さった。柄から固定の甘かった刃が外れた。
 伊藤は刃を失った凶器を手にしたまま振り向き、路地の向こうに駆け込んでいった。途中に積まれていた空箱を手で崩し、追っ手を足止めしつつそのまま逃げていった。いずれにせよ、凶器を持った相手を追おうとする者はいなかった。

 通報を受けた警察は、すぐに警官を送った。通報内容は『男性が女性に襲われた』と言うもので、誰が誰を襲ったのかは分からなかったが、事件の起こった場所がまさに志賀の通勤路であったこともあり、警察側も志賀が襲われた可能性をすぐに察した。
 そのため、1係の刑事たちと共に2係の飛鳥刑事と佐々木刑事も現場に急行した。
 現場に着くと、すでに救急車が先に来ていた。救急隊員に囲まれ倒れているのは紛れもなく志賀だった。
「刑事さん、美代子だ」
 顔を歪めながら志賀が言う。
「どこに行った?」
 佐々木刑事の問いに志賀は伊藤の消えていった路地を指さす。飛鳥刑事はその路地に駆け込んでいった。
「くそったれ!もっと早く捕まえてりゃこんなことにゃならなかったのによぉ!」
 佐々木刑事は壁を蹴飛ばしながら怒鳴る。
「警察の所為じゃねぇ、俺が悪いんだ」
 志賀はぼそっと言う。
「あいつの顔みて分かったよ、俺がどれだけ憎まれてたか。……会社でも俺の味方はいなかった。今回のことは身から出たサビだ。これであいつの気が済むならそれでいい」
 力無く志賀が呟く、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「ずいぶんと弱気だな。あんたらしくねぇ……いや、俺はあんたのこのとなんか何も知らないか」
 志賀の乗せられた担架は救急車に収められた。
 佐々木刑事も路地に消えかけた飛鳥刑事の背中を追って駆けだしていく。

 飛鳥刑事は路地をひた走る。
 T字路に突き当たり、左右に視線を走らせる。どちらの路地もビルの裏手で物が雑然と積まれているが、片方はそれが崩れている。飛鳥刑事は迷わずそちらへと向かった。
 行く手を阻むゴミ袋を押し分けながら足を進める。
 ゴミ袋を退け終わるころには佐々木刑事も追いついてきた。
 さらに先に進むと、再び路地が分かれている。直進か、右に曲がるか。二人は二手に分かれた。
 飛鳥刑事は直進した。路地は急に狭くなり、しばらく行くと行き止まりになった。引き返す途中で佐々木刑事と出会った。
「どうだ?」
「行き止まりです。そっちは?」
「通りに出た。だがその途中でおっさんが樽を洗っててな、ここ1時間くらいで若い女が通った記憶はないって言ってた」
 飛鳥刑事も佐々木刑事が通っていった路地を覗き込む。そこは食品工場の裏手らしく、白衣にゴムの前掛けをつけた初老の男が、こちらに禿頭を向けてホースとブラシで漬け物樽を洗っていた。横には同じような樽がいくつも積まれており、ずっとそれを洗っていたのなら、確かに1時間ほどはこの場所にいたはずだ。
「どこ行ったんでしょうね」
「わざわざ足止めをしたんならこっちのはずだが……。こっちに注意を引きつけるためにわざわざ崩したのか?」
 佐々木刑事は急いで反対側の路地を調べに行く。
 飛鳥刑事はその場に残り、あたりを見渡してみた。日の暮れかけたこの時間、ただでさえ光の差し込まない、ビルに挟まれた狭い路地は薄暗い。この路地の方を向いた窓はトイレばかりらしく、小さな窓から漏れてくる灯りもやたらと薄く、無いに等しい。
 ふと、その視界で何か動いたような気がした。
 目を向けると、トイレの窓辺に誰かが立っているようだった。窓がそっと開かれる。だがすぐに窓は閉められ、人影は消えた。
 まるで、逃げるように。
「先輩!」
 飛鳥刑事は佐々木刑事を呼んだ。それと同時に、そのビルへの入口を捜す。
 路地の突き当たりに裏口の扉があった。だが、押しても引いても開かない。中から鍵がかかっているようだ。
「どうした、飛鳥!」
 佐々木刑事が戻ってきた。
「今そこの窓に怪しい人影が!」
「伊藤か?」
「分かりませんが……こちらの姿を見つけたら逃げるように消えました」
「なるほど、怪しいな」
 佐々木刑事もすぐにドアから入ろうとする。
「鍵がかかってますよ」
 飛鳥刑事の言う通り扉には鍵がかかっていた。だが、佐々木刑事が諦めて前に回ろうとしたその時、カチリと言う音がし、扉が開いた。
 扉からはしょぼくれた小柄なハゲ親父が顔を覗かせた。とぼけた顔で見上げるハゲ親父に警察手帳を突きつける。
「すいません、警察です。このビルの中に怪しい人物が入ってきませんでしたか?」
 警察と言われてオヤジは驚いたようだ。
「怪しい人物、ねえ……。特に誰も見てませんがね」
「ちょっと失礼しますよ」
 飛鳥刑事はとっととさっきの人影を追ってビルに駆け込んでいった。そして途中まで行って引き返してきた。
「すいません、上に登る階段はどこですか」
「そこの廊下をまっすぐ行けばすぐだよ」
 オヤジは飛鳥刑事がいる廊下とはあさっての方向を指さした。
「このドアはいつも鍵がかかってるんすかね」
 佐々木刑事の問いにオヤジはかぶりを振った。
「いや、いつもみんなが仕事してる間は開けてあるよ。帰る時に閉めていくんだわ」
「んじゃ、足止めのために鍵をかけたかも知れないって事か。ますます怪しいな。……あ、どうも」
 オヤジに軽く一礼し、佐々木刑事も飛鳥刑事の後を追った。

 5階建てのボロビルにはエレベーターさえなかった。
 飛鳥刑事は一気に階段を駆け上る。先ほど伊藤と思しき人影が見えたのはおそらくは2階。
 あたりに伊藤の姿を探そうとした飛鳥刑事の耳に、頭の上から階段を駆け上る足音が聞こえてきた。飛鳥刑事もその後を追うべく再び階段を登り出す。
 3階、4階。元陸上部というだけあって伊藤はなかなかの体力の持ち主で、飛鳥刑事もなかなか追いつけない。屋上に出るドアが閉まる音が聞こえた。下からは佐々木刑事も追いかけてきている。足音が聞こえる。
 階段を登り切り、屋上の扉を開ける頃には飛鳥刑事はすっかり息が上がっていた。
 肩で息をしながら屋上を見渡す。伊藤の姿はない。
 高いビルに隣接した二方はフェンスが張られ、下が路地になっている面と通りに面しているところは手すりになっていた。
 まさか、と思い、手すりに駆け寄り下を見下ろす。特に変わった様子はなくほっとした。
 佐々木刑事も屋上に姿を現した。
「いたか?」
 飛鳥刑事はかぶりを振る。
「屋上のドアが閉まる音がしたんでここには来てると思うんですけど……。飛び降りてはいないようです」
「屋上のどこかに隠れているか。よし、探すぞ」
 探すと言っても探すところなどそうは多くない。
 貯水タンクの影に気配を感じた。近づくと、長い髪を束ねた女性が飛び出してきた。髪を縛っただけでもかなり印象が変わっていたが、伊藤美代子に間違いなかった。
 伊藤は飛鳥刑事を突き飛ばし、そのまま手すりに向かって駆け出す。
 佐々木刑事がその後を追うが、距離は決して近くはない。
 伊藤は手すりを乗り越え、身を投げようとしている。飛鳥刑事はとっさに拳銃に手をかけ、空に向けて発砲した。
 銃声に驚いた伊藤は身を竦め、動きを止めた。その隙に佐々木刑事が手すりから伊藤を引き離す。伊藤は悲鳴を上げながらコンクリートの上に投げ出された。
 それでも伊藤は立ち上がり、再び手すりに手をかけた。今度は飛鳥刑事が伊藤の腕を引っ張り、手錠をかけた。
「放して、死なせて!」
 喚く伊藤を落ち着かせようと佐々木刑事が声をかけた。
「このまま死んでいいのか!?何も言わないまま死んで、あんたそれで満足なのか?……このままじゃ志賀の奴は『かわいそうな被害者』で終わっちまうぞ?……あいつと何かあったんだろ?」
 伊藤は大人しくなったが、口を開こうとはしない。
「なぜ、秋庭を殺した?聞き込みした限りじゃ、確かに腹は立つし蹴っ飛ばしてやりたいとは思うが、殺したいとまでは思いそうにねぇ。あのオヤジとは何があったんだ」
 伊藤はまだ黙ったままだ。
 下の方では、飛鳥刑事の銃声を聞きつけて警官たちがこのビルを包囲していた。
「伊藤を確保しました!」
 飛鳥刑事の声に頷き、警官たちと一緒に駆けつけた森中警視もビルに入った。
 一方佐々木刑事は、座り込み手すりにしがみついたまま動こうともせず口も開かない伊藤に対する呼びかけを続けている。
 何人もの女性を口説き落としてきた佐々木刑事ならば、このまま伊藤の気持ちをほぐし、自殺の決意を鈍らせることができるだろう。
「……あんたはまだ若いんだ、まだやり直しは利くさ。そりゃ、人並みの幸せはもう手に入らないだろう。でもな、今までいろいろなことに耐えてきたんだろ?こんなことのためじゃないだろ?」
 佐々木刑事の説得を黙ったまま聞いている伊藤。
 そこに森中警視が警官や刑事を引き連れて現れた。飛鳥刑事は敬礼で迎えた。森中警視は年甲斐もなく階段を駆け上ったせいか苦しそうだ。
「さっきの銃声は?」
 息を切らしながら森中警視の問いに飛鳥刑事が答える。
「伊藤が飛び降りようとしたので脅かして動きを止めようと空に向けての発砲です。弾は空砲です」
 警官の拳銃は誤射防止のために一発目が空砲になっている。
「そうか……」
 森中警視は回りの様子を伺いながら、飛鳥刑事に何かを小声で伝えた。飛鳥刑事は訝りながらも頷き、その通りにする。
 佐々木刑事の説得で、伊藤も手すりから手を放した。差し出された伊藤の手に、佐々木刑事が手錠をかけようとした、その時。
 銃声と男の呻き声に、その場にいた全員の視線が一点に集まった。
 少し遅れて固いものがコンクリートに叩きつけられる音。
 白い煙を立ち上らせる銃を構えていたのは森中警視だった。
「無理をして階段を駆け上った甲斐はあったようだな」
 森中警視が見下ろしながら声をかけている、手を押さえてうずくまっているのは制服警官だ。
 そこに居合わせた多くは何が起こったのかまだ理解出来ない。
 森中警視はコンクリートの上に投げ出された『何か』を手に取った。手に取られると、それが小型の拳銃であることが一目で分かった。
「ベレッタか。警官が持つ銃ではないな」
「警視、これはどういう事です?」
 飛鳥刑事の問いかけに、森中警視は振り向く。
「どうやら警察署の中に、よからぬ目的を持った人物が紛れ込んでいるようだ。しかも一人や二人ではないな。一体何人いる?」
 警官は俯いたまま答えない。
 やがて、警官の顔の下のコンクリートに小さなシミがぽつぽつと出来たかと思うと、警官は前のめりに倒れた。
「む、毒物か!」
 森中警視は警官に駆け寄る。警官の脈と呼吸を調べ、かぶりを振った。
「一体何がどうなったんです?」
 佐々木刑事は何が起こったのかまるで分からないようだ。
「詳しい話は署でするが、さっき言った通り警察内に何かを企んでいる人物が紛れ込んでいる。彼らは恐らく伊藤に協力している。そうだね?」
 問いかけられ、伊藤は目をそらすが、小さな声ではい、と答えた。飛鳥刑事も佐々木刑事も驚いた顔をする。
「これ以上は署に帰ってからだ。が、署には彼の仲間がいる。しばらくは気を抜けない」

 逮捕され署に連行された伊藤は、すぐに取り調べ室に連れ込まれた。先に一人だけ取り調べ室で待たせ、その前で刑事たちが顔をつきあわせている。
 飛鳥刑事も佐々木刑事も、先刻の出来事がまだ何事なのかよく分からないままだ。それ故、口火を切ったのは森中警視だった。
「飛鳥君。以前西川君が警備課の一部の人間が職務怠慢だという話をしていたことがあったろう。その時、小耳に挟んだ話がいくつか引っかかっていたんだよ」
「確かにそんなことがありましたけど……。どんな話ですか?」
「田村警備課長にその話を進言するために西川君に詳しい話を聞いてみたんだが、警備課の不破という人物はどうもくさいのだよ」
「くさい?」
「ああ。飛鳥君から聞いた話を西川君に改めて詳しく聞いてみたんだが、その日の彼の行動は全体的におかしい。西川君の知っていた限りでは彼はスーパー付近での見張りを担当していた。予定ではスーパから出てきた志賀を自宅まで見張るのが彼の分担だった」
 だが、小百合は森中警視にそう言った説明をしているうちに、自分で頭がこんがらがってしまった。
 小百合が無線連絡を受けて飛び込んだトイレから出てきた時に見た警官は、一目で警官と分かる制服警官だった。だからこそ、小百合も外を慌ただしく駆け回っていたのが警官だと分かったのだ。
 その日、スーパー付近を制服警官が見回る予定などはなかった。志賀を守るという名目だが、実際には志賀本人を半ば囮にするような作戦だ。制服警官などを歩かせ警戒心を抱かせれば、確かに抑止力にはなり志賀を守るという目的は果たせる。が、伊藤をおびき出すと言う目的は果たせないだろう。
「さらに、西川君はその警官が誰なのか分からなかった。警備課の人間しか関わっていないのだから、顔を見ればそれが誰なのかくらいは分かりそうなものだ。決して遠い距離ではないし、顔もはっきりみたが誰かは分からなかったそうだ。つまりこの警官は西川君のよく知っている警備課の人間ではない」
「パトロール中の地域課署員じゃないんですか?」
 森中警視は飛鳥刑事に顔を向ける。
「事前に連絡が行っているから、邪魔になるようなタイミングで巡回をすることはあり得ないと言っていた。現にその時間、あのスーパー付近を巡回していたという事実はないそうだ」
「それじゃ、その警官って何者なんすか?」
 森中警視が言葉を切ったところで佐々木刑事が単刀直入に質問をぶつける。
「それはまだ分からん。偽警官かも知れないし、不破の命令で動いている部下かも知れん」
「不破は何者なんです?さっきの警官も関係あるんですか?」
 森中警視は顎に手を添えながら押し殺した声で答えた。
「まだはっきりはしないが、おそらくは署内に良からぬ企みを持って入り込んだ人間がいる。犯行を手助けしたり警察の情報を収集するためのスパイだ」
「まさか!警察にそう易々と侵入出来ませんよ」
「侵入などしていないさ。彼らはちゃんと正規の手続きを踏んで警官になった。不破の経歴もおかしいところはどこにもない。ただ、目的が普通の警官たちと違うだけだ。おそらくは子供の頃からそのために教育を受けているのだろう」
「子供の頃から……?そんなことがあるんですか?」
「私が調べた限りでは、そうとしか思えん。学生時代の同級生が見ても彼は不破だと言っていたからな。別人がすり替わった可能性は低い。それにその同級生から興味深い話があった。学校以外での彼を誰も知らんのだ。塾に通っているとは聞いていたそうだが、どこの塾なのかも分からないし本当に塾だったかどうかははっきりしない。そんなだから友達と呼べる人も少なく、日曜日に誰かと遊ぶと言うこともなかったようだ。特に目立つ人物でもなかったから誰も気にはしていなかったそうだが……。警察官となった現在もその調子らしいな。愛妻家で通し仕事が終わったらすぐに家に帰っている」
「妻がいるんですか」
「ああ。だが、本署に勤めていた頃の同僚はそんな話は初めて聞いたといっていた」
「怪しいですね」
「ああ。だが、そうそう気付かれることはない。聖華署の面々は本署にいる頃に結婚したと思っていたし、本署の連中は聖華署に移ってから結婚したと思うからな」
「確かに。家庭のことまで気にする人はそんなにいませんよね。でも、なんの目的で警察に入り込んだんですかね。何か大きな事件でも起こすつもりなんでしょうか」
「分からんよ。ただ、伊藤は何かを知っている。そうでなければ命を狙われたりはしない。そうだ、飛鳥君にはこれを返さなければならないな」
 森中警視は飛鳥刑事に拳銃を差し出した。
 ビルの屋上に着いた森中警視は、飛鳥刑事の話を聞くと、飛鳥刑事に自分の銃と飛鳥刑事の銃を少しの間だけ交換するように頼んだのだ。
 なぜそんなことをしたのか分からなかった飛鳥刑事も、あのような出来事が起こり、その意味に気付いた。普通は拳銃の一発目に空砲が入っている。森中警視の銃も空砲だったはずだ。だが、飛鳥刑事はそれを既に使っていた。次からは実弾だ。森中警視は緊急の事態を予見し、すぐに実弾が撃てる飛鳥刑事の銃を借りたのだ。
 飛鳥刑事はあらためて森中警視は凄い人物だと実感する。だが、それと同時にまたしても、なぜこのような小さな署に派遣されたまま、県警にもどこにも行かずに留まっているのか、と言う疑問が沸き起こってきた。

 伊藤は犯行の動機や詳細についてを素直に自供してくれた。
 やはり最大の動機は志賀にあった。
 伊藤に志賀が近づいたとき、伊藤はまだ入社したての新人だった。仕事に慣れず、失敗の多かった伊藤に励ます言葉を投げかける志賀に、いつしか伊藤はほのかに恋心を抱くようになる。だが、全ては新人を油断させて手込めにするための下準備に過ぎなかった。
 その頃の志賀は、女癖の悪さが営業二課の中でも知られ始めた頃で、周りの目が厳しく自由が利かない営業二課から外に目を向け始めていた。その目にとまったのが伊藤というわけだ。高校時代は部活動に打ち込み、恋に現を抜かすことの無かった伊藤にとって、それは初めての恋だった。
 強引な志賀の誘いにも素直に従い、二人は結ばれた。志賀にとって遊びでしかなくても伊藤は本気だった。志賀に言われるままに社内では素知らぬふりをし、赤の他人を装いながら仕事が終わった後、幾度も逢瀬を重ねた。
 そのたびに強まる伊藤の思いに反比例するように志賀は伊藤に飽きていく。伊藤も志賀の態度でそれを察した。新しい相手を見つけたら捨てられると。
 だが、伊藤にとってチャンスが訪れる。生理が遅れ、やがて吐き気を催すようになった。
 検査の結果、妊娠していることが分かった。
 これで志賀は自分を捨てられなくなる。そう期待した。
 だが、志賀は伊藤の妊娠を知って態度を大きく変えた。冷たく堕ろせと一言だけ言い、それっきり伊藤と口を利こうとはしなかった。失意のまま、伊藤は堕胎手術を受けた。
 伊藤が志賀に受けた仕打ちはこれだけではない。水村への殺意も志賀が関わっている。
 志賀の上司だった水村は、受付嬢の伊藤を気に入り、ちょくちょく声をかけては下品な言葉を投げかけていた。志賀も、性根の悪い水村のことは嫌っていた。そこで、志賀は水村への嫌がらせを思いつく。
 伊藤とのベッドでの出来事を水村に聞かせることで当てつけたのだ。馬鹿なことである。
 結果、水村は志賀への嫌がらせを激しくした。それでも、志賀は優越感を覚えていたらしく、負け犬が吠えてやがる、くらいの気持ちでいたようだ。
 それと同時に、水村は伊藤への嫌がらせにその話題を出すようになった。伊藤は自分の痴態が水村に知られたことを恥じた。それがやがて殺意にまで膨らんでいく。
 そして、水村は伊藤に驚くべき事を告げた。
 伊藤のベッドでの写真を志賀に見せられた、と。
 この時、既に伊藤は志賀と別れていた。伊藤は志賀を問いつめる。志賀はふてくされたような態度で、事実を認めた。
 志賀は伊藤を抱いた後、眠り込んだ伊藤の姿をカメラに収めていたらしい。時には目を覚まさないように睡眠薬を知らずに飲まされていた時もあったようだ。伊藤は志賀から写真を全て奪い取り、燃やした。
 だが、肝腎のネガのことを忘れていた。そして、最初の被害者である秋庭に話が繋がる。
 秋庭もまた下世話な男だった。受付で応対にあたる伊藤にいやらしい視線を投げかける。それがやがて下品な言葉になる。
 秋庭は営業の間では難物としてマークされていた人物だ。ただ、水村とは気が合った。趣味も合っていたのだろう。
 志賀はそんな秋庭が伊藤を気に入ったことを知り、交渉材料に伊藤の写真を利用したのだ。秋庭は志賀の思惑通り契約書にサインをした。
 秋庭の伊藤を見る目は変わった。以前よりもいやらしい目だ。そして、服を脱がないと見えない場所にあるほくろのことを口にした。また志賀の仕業であることは察しがついた。もう伊藤は志賀を問いつめることさえしなかった。
 この時、既に伊藤は志賀への殺意を固めていた。
 伊藤は中絶手術で自分が子供を産めない体になっていたことを、その頃知ったのだ。
 そして、志賀を殺す前に秋庭と水村の二人も殺す。自分の裸体の写真を手にし、それを本人に平気で喋るこの二人は、伊藤にとって自分を辱めたに等しく感じられたのだ。

 三人も殺すとなると、単純な方法は使えない。少なくとも志賀を殺すまでは捕まるわけにはいかないのだ。
 伊藤は自分の体力を頼ることにした。高校時代、陸上部で鍛えた体を最大限に活かす。
 しばらく使わずになまった筋肉を取り戻すためトレーニングに励んだ。それと同時に殺害のためのプランを練る。
 秋庭の殺害のプランは、アパートの庭から1階のベランダをよじ登り、その手すりの上から2階のベランダにロープをかける。ロープを縛って登りやすくし、そこに手や足を引っかけながらベランダに上がった。ちょうど植え込みがあり、向かいが林になっているこのアパートでは1階の住人にさえ見つからなければ誰かに見られる恐れはない。
 深夜に行動を起こすのは都合がよい。闇に紛れられるし、ターゲットも眠っている。他に容疑が掛かる人達も皆眠っておりアリバイが証明出来ない。狙い通りだった。
 秋庭が寝込み、部屋が真っ暗であることを確認するとガラス切りでガラスに穴を開けて窓を開ける。
 凶器は身の丈ほどの棒に包丁の刃を固定したものだ。これはより確実に息の根を止めるためでもあり、また、力任せに刺したように見せることで女性の犯行と思わせない策でもあった。森中警視の見抜いた通りである。
 熟睡している秋庭の心臓目掛けて凶器を振り下ろす。薄闇の中でも驚くほど綺麗に胸部を捉えた。だが、念を入れてさらに一撃を加える。喉の傷だ。そして、志賀が渡した写真を探した。机の引き出しに入っていた。さらに貴重品を盗み、物取りのように見せていたのはこの写真を回収するためであった。被害者が自分のこのような写真を隠し持っていては疑われる。それに、清純だった彼女には他の第三者にさらに写真を見られるのは耐えられなかった。
 これで全てであることを確かめるため念入りに探しつつ、部屋の中を乱す。本を一冊一冊調べ、開けるところは全部開いた。そして、これで調べ尽くしたと思うや、物音が立つように荒々しく植木や調度品を倒し、ベランダに出て窓をたたき割る。物音に驚いた1階の住人が階段を駆け上るのと入れ違いにベランダを降り、ロープを切って回収して逃げたのだ。

 水村の殺害は秋庭に比べて簡単だった。一人暮らしの一軒家だ。周りの目に気をつけて侵入してしまえば後は容易い。深夜のため、あたりは寝静まっていた。いざというときのためにガラス切りも持っては来ていたが、浴室の窓が少し開いていたのでそこから侵入した。これは警察の捜査でも分かっていることだ。
 水村の家は一人暮らしには広く、いくつかの部屋を探しようやく見つけた。熟睡している水村の眉間に凶器を突き立てた。微かな呻き声を最後に寝息がとまった。しかし、一人暮らしの男を放っておいては発見が遅れる。普段から嫌われている上司だ。出勤せず、電話にも出なくても心配する人はそうはいないだろう。そうなればますます発見は遅れる。発見を早めるにはどうすればいいかを考えて思いついたのが放火だった。
 水村の死体が焼けてしまっては工作の意味が無くなってしまうので、死体を下の階にまで引きずり降ろし、2階の布団に火を放った。
 少し離れたところからも火が見えるくらいにまで燃え上がったところで公衆電話から消防署に自ら通報。そのまま逃走した。

 だが、後日行われた事情聴取では伊藤が真っ先に取り調べを受けることになった。
 実際には佐々木刑事の好みの順で選んでいたという、深い意味などない順番だったのだが、真っ先に選ばれてしまったという事実は嫌が上にも伊藤の不安を煽った。焦りを覚えた伊藤は疑いを自分から背けるべく必死になった。そして第3の事件が起こる。
 自分と関わりが無く、他の社員、できれば男子社員に関わりの深い人物。いくらでもいそうだが、自分と関わりのない人物は、当然知らない。
 必死に考えた時、以前女子社員に無理矢理やらされた梅川との疑似デートの時の話を思い出す。梅川も伊藤も、野球部陸上部という違いはあれど、体育会系の部活で高校時代の思い出話に花が咲いた。数年前の高校野球で地区大会の決勝まで勝ち残り、残念ながらそこで敗退したという話を聞いた。地方紙では連日のように記事に載ったと。
 図書館でその頃の地方紙を掘り返すと、確かに他のチームメンバーの名前と一緒に梅川の名前が出ていた。伊藤はその記事を写し、その記事に載っていた名前を電話帳で探す。そうして見つけたのが室谷宗次だった。新聞の記事に載っていた不鮮明な写真と見比べても、すぐに分かるくらいにその容姿は変わっていなかった。
 彼にとって不幸で、伊藤にとって幸運なことがいくつも重なって室谷は殺害された。
 室谷が田舎を離れてこの聖華市で働いていたことがそもそもの不幸だが、室谷を見つけてその日の夜も更けぬうちに住所を頼りに室谷のアパートにに向かった伊藤は、室谷がいるはずの部屋が真っ暗で、人気がないことを不審に思う。だが、そのアパートの前で身を潜めていると、程なく酔っぱらった室谷が上機嫌でアパートの部屋に入っていくのが見えた。
 室谷は酔いのために、帰ってそのまま鍵も掛けずに居間で眠り込んでいた。鼾をかいて眠る室谷の部屋に易々と入り込み、凶行に及ぶ。
 だが、ここで困ったことが起こる。室谷は体ががっしりとしすぎていたため、天井に吊すには重すぎたのだ。仕方なくベランダにぶら下げて大急ぎで逃げた。これが元で犯人が女性だと確定したのは伊藤にとって大きな不幸だった。

 伊藤にとって梅川はひととき、無理とは分かっていながらも思いを寄せた相手だ。彼に疑いがかかるのは心が痛んだ。
 彼を早く自由にするためにも、最後のターゲットである志賀を早く殺害し、自分もそのまま命を絶つつもりだった。
 遺書をしたため、ポケットに忍ばせて志賀の住処に向かう。だが、車を停めて志賀のアパートに入ろうとした矢先、近くに停まっていた車から悲鳴が上がり、驚いた伊藤は自分の車で自宅まで引き返した。

「気が動転して、慌ててアパートの部屋に駆け込みました。しばらく玄関から動けなくて……。その時、後ろの……玄関の扉がノックされたんです」
 まさに、伊藤はその時絶望の淵に立たされた。警察が追ってきたと思ったのだ。三度目のノックに、観念した伊藤は扉を開けた。
 そこに立っていたのは黒いスーツに身を包んだ男たちだった。
『我々は警察ではありません。もうすぐあなたを警察が追ってきますよ。必要な物を持って今すぐ逃げるのです。外で待っています』
 訳が分からないまま、伊藤は有り金と簡単な荷物を持ってアパートを出たという。そこには先ほどの男たちが待っており、自分達の車のあとをついてくるように、と言った。
「何者……?」
 思いもしない展開である。飛鳥刑事は素直に疑問を投げかけた。
「砂川と名乗っていました。彼らの言う通りにすれば警察に捕まらないように守ってやる、そして志賀を殺す手伝いをしてやる、と言われたんです」
 そして、その交換条件としてある男の世話をすることを頼まれた。世話と言っても、炊事洗濯など家政婦のような仕事だった。
 車を売り飛ばすように言ったのも彼らだった。代わりの車は彼らが用意してくれていた。自分の車を売った金でその車を買い取る形になった。
 それからと言うもの、驚く程詳細な警察の情報が毎日のように伊藤に伝えられた。警察が志賀を護衛していると言うこともその情報の一つだった。彼らはその護衛をうまく操り隙を作るので、その隙に志賀を殺せ、と言った。とあるスーパーで護衛が手薄になると言う。伊藤は路地に隠れ、時を待った。
「スーパー?まさか、小百合が言っていた……」
 飛鳥刑事は小百合の話を思い出した。不破が不審な動きを見せたあのスーパーでの一件。まさに、この時近くに伊藤が志賀を狙い待ち構えていたのだ。
 スーパーで志賀を見張る小百合には、事前に無線は人目を避けてトイレで使うようにとの命令が出ていた。主婦の振りをしていても、無線機を使うのは明らかに怪しい。この命令にはまったく不自然なところはない。だが、その無線にタイミングを合わせて連絡を入れ小百合をトイレに誘い込み、志賀から目を離させることで、伊藤に志賀を殺害させる機会を作り出そうとしたのだ。
 だが、小百合は殊の外短気ですぐに無線を切り、トイレから出てしまった。そのため慌てて伊藤を止めなければならなかった。それが、小百合の目にした警官たちだった。生憎ながら伊藤の証言からは、この警官たちが誰なのかまでははっきりはしなかったが。

 そして今日。この日から志賀に護衛がつかなくなるのは当然分かっていた。伊藤もこの日に全ての決着をつけるつもりだった。
 計画通り、志賀が利用するバス停近くの路地に身を潜め、志賀を待つ。志賀が退社し通りがかるのは、伊藤を保護しているうちの一人が知らせることになっていた。志賀を襲撃するところまではうまくいったと言えた。あとは路地を駆け抜け、反対側に待つ車に乗り込みそこを立ち去るだけのはずだった。
 だが、番狂わせが起こった。日頃から人などほとんど通らない路地だったが、駆け抜ける予定だった路地の途中で、伊藤が待っている間に惣菜工場の社員が桶を洗い始めていたのだ。声をかけるなりしてどいてもらえば問題はないのだが、犯行の直後に堂々と人と話せる程、伊藤は肝が据わっていなかった。
 程なく救急車のサイレンが近づいてきた。救急車とは言え、サイレンの音は伊藤に大きなプレッシャーを与えた。伊藤は近くのビルに、飛鳥刑事たちと同じ裏口のドアから忍び込んだ。男子トイレの個室に身を潜めているとパトカーのサイレンが聞こえた。下の路地で飛鳥刑事と佐々木刑事の声がした。その後、少し待ってから窓を開けて下を覗き込もうとした。その時、下にいた飛鳥刑事が、窓を開く伊藤に気付いて伊藤の方を見上げたのだ。その後は飛鳥刑事も知っているように階段を駆け上り、屋上で追いつめられ、身を投げようとしたが佐々木刑事の説得で思いとどまった、と言うわけだ。

 やはり気になるのは伊藤を保護したという連中である。
 彼らは、昔伊藤の父親が起こした事故の相手の親族で、伊藤の母に金をせびったりしていた人物について調べてやってもいい、と持ちかけていたそうだ。その代わり、伊藤がしていた男の世話をずっと続けること。愛はなくてもよいので、形だけの妻になれ、と言うことだった。
 迷いがあったことは確かだ。だからこそ、志賀を襲ったあと、逃げ道を断たれると死を選ぼうとした。
 だが、死への恐怖は確かにあった。それが伊藤に死を思い止まらせた。
 彼らは知りすぎた伊藤を、警察の手に落ちる前に始末するための根回しも怠ってはいなかった。警察が持つはずのないタイプの銃を持っていたあの制服警官だ。結局あの警官については、誰なのかもまったく分からないままだ。
 そして、その日を境に聖華署からその不破の姿が消えた。
 志賀の傷は深かったが、いずれも急所を外しており、命に別状はなかった。
 伊藤の証言から得られた志賀の行動のいくつかは法に触れるものだ。回復を待ち、志賀を逮捕することになった。
 犯人が伊藤で、自分が狙われていると知った時、自分が伊藤にしてきた仕打ちを思い出したという。社内に味方がいないという事実も彼を追いつめていった。いつしか、伊藤には殺されても仕方がないと思うようになったという。
 伊藤にしてきたことの罪は償うことはできても消すことはできない。遊びや些細な目的で一人の人間の人生を台無しにしたことはあまりにも大きかった。警察病院のベッドの上で、志賀は何度もいっそあのまま死んでいれば、と言う言葉を繰り返した。
 何とも言えない後味の悪さと、大きな謎を残して事件は一応の解決をみた。
 この事件はその後の聖華署におこる出来事のきっかけとなる。
 そして、「彼ら」にも……。

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