Episode 3-『仮面の復讐者』第2話 XII・Hanged Man
その者にとってそれは試練だった。状況は覆った。不本意ながら、ここに無意味な生け贄が捧げられる。
とにかく、今の時点でも被疑者が多すぎる有様だ。少しでも減らしていかないとやっていけない。それにはひとまず詳しい事情を聞くことが先決だろう。
一人ずつ署に呼んで取り調べるのも億劫なので、西洋商事の方は社ビルの小会議室を一つ借りてそこで順次話を聞くことにした。
その役を買って出たのは佐々木刑事と飛鳥刑事だ。
そして、もう一人。
飛鳥刑事はその人物を迎えに行く。迎えに行く、とは言っても署の同じ階の同じ廊下にある部屋なので目の前なのだが。
開けっ放しのドアから飛鳥刑事が顔を覗かせるとその人物は待ちかねていたと言わんばかりに立ち上がり駆け寄ってきた。
「相変わらず暇そうだな」
苦笑いを浮かべる飛鳥刑事に、その人物は不機嫌そうな顔をして見せた。
社内の小会議室を借りての取り調べ、となると見張りを立てておかないとドアに耳を当てて聞き放題だ。そこで、一人警備課から回してもらってドアの前に立ってもらうことにしたのだ。
飛鳥刑事の前に立っているのは小百合だった。
「しょうがないでしょ、婦警に回ってくる警備の仕事なんてそんなに多くないんだから」
ふてくされながら飛鳥刑事の後に付いてくる小百合。二人はそのまま佐々木刑事の覆面パトカーに乗り込んだ。
「小百合ちゃんがドアの前に立つんじゃあんまり荒い取り調べできないなぁ〜」
佐々木刑事が冗談めかして言った。小百合にちゃん付けしている時点でまるっきり冗談だ。
「それなら署の方での取り調べなんかもっと大人しくやってるでしょ。部屋の前を婦人警官が通りまくりじゃないですか」
つっこみを入れたのは飛鳥刑事だった。
「んあ?あいつらは別にかまわねぇさ。署の婦警共のツラももう見飽きたからな。新しい可愛いコでも入ってくりゃ話は別だけどよ」
「あーっ、私のこと可愛いって思ってないんだぁ。ひどーい」
小百合の反応は早かった。
「小百合ちゃんは別だよ」
慌てて取り繕うが。
「どうせ他の婦警さんの前でも同じ事言うんでしょ」
駄目だった。
「俺を取り調べるな!ほらほら、着いたぞ、とっとと降りやがれ」
「あと500メートルくらいありますけど」
飛鳥刑事が冷静につっこみを入れた。
「ここまで来れば着いたようなもんだ。そうだろう?……なんで変わるんだ、このクソ信号!」
信号相手にクラクションを鳴らす佐々木刑事。
「恥ずかしいからやめてくださいよ」
多少落ち着いた佐々木刑事はぼそっと言った。
「ちくしょう、あまり問いつめるから浮気がバレた時のこと思い出しちまったじゃねぇか」
「それでいらついてるんですか?自業自得じゃないですか」
飛鳥刑事にまで言われて凹みきる佐々木刑事だった。
車の中で悪くなった機嫌を多少でもマシなものにするためにも、事情聴取は佐々木刑事の希望通り女子社員を最優先して行うことにした。
まずは佐々木刑事のお気に入り、受付嬢の伊藤美代子が呼び出された。
緊張を隠せない様子の美代子に佐々木刑事がまだ容疑者が特定できたわけではなく、被害者のことを知っていそうな人物に話を聞いている段階なのでそんなに緊張しなくていい、嫁げると美代子は少し落ち着いたようだ。さすがは女性の扱いになれているだけあって女性相手の話術はうまい。相手が男だとぞんざいですぐに言葉を荒げてしまうのだが。
「水村課長のことはあまり良くは知らないんですけど……」
会社が同じだけという立場である美代子は何故自分が呼ばれたのかさえもいまいち分かっていないようだった。
「ずいぶんと嫌がらせを受けていたという話がありましたので」
飛鳥刑事がそう言うと、美代子は驚いたような顔をした。
「えっ。でもそれって私だけじゃなくて会社の女の子はみんなじゃないんですか?」
「ええ、まあそうなんですけど、どうも伊藤さんは水村氏のお気に入りだったらしくて特にちょっかいを出されていた、と言う話ですので」
「そ、そうなんですか?みんな同じようなものだと思ってましたけど」
美代子は明らかに困惑したようだった。自分が集中的に狙われていたという自覚はまるでなかったらしい。
受付嬢で、水村も気に入っていたと言うだけあってなかなかの美人である。長いストレートヘアにぱっちりした目にすらっと高い鼻、化粧のセンスもスタイルも良くまるで女優のようだ。社内では一番の美人なのではないだろうか。
水村を含め、第二営業部の方にはまるで詳しくなかった。あとで聞いた話だが、第二営業部の女子社員も彼女があまり美人すぎるため付き合うのを敬遠しているようである。自分が霞みたくないという心理だ。
「それと、こちらの被害者も面識があるはずですが」
秋庭の写真を見ると美代子は顔をしかめた。
「ああ、この人……。いえ、面識とまではいかないんですけど、昔お説教されたことが……」
「どんなことで?」
「ええと……。まだ入りたてだった頃に言葉遣いがなってないと……。それ以来はあまり受付に来ることもありませんでしたけど」
その一件があって以来、その出来事を秋庭の顔を見るたび思い出してはいたが、その後はこれと言って接触はなかったそうだ。ただ、そのおかげでその説教のイメージしかないという。
次に呼ばれたのは水村の部下、第二営業部の笹川弘枝だ。こちらは大人びた雰囲気の美代子と違い小柄で、ショートヘアの印象も相まってまだ何となくあどけなさの残る顔つきだ。だが、年齢は結構いってたりする。
美代子の時と同じように落ち着かない様子の弘枝を佐々木刑事が言葉巧みにリラックスさせる。落ち着いたところで飛鳥刑事が切り出した。
「笹川さんは被害者の水村氏から嫌がらせを受け、殺してやる、と言っていたと証言がありましたけど」
いきなり直球を投げる飛鳥刑事。弘枝は緊張しながら答える。
「え、ええ。ずいぶんといやらしいこともされましたし……。でもまさかこんなことになるなんて」
美代子が一番社内で嫌がらせを受けていた、と言う話を持ってきたのも彼女である。彼女の話を聞いていくうちに、彼女は自分のされたことに対して水村に怒りを抱いていたのではなく、女子社員全員の話を聞いた上で女性の敵として殺してやりたい、と言っていたらしいのだ。物言いは過激だが、割と正義感の強いタイプであるようだ。
秋庭について聞いた時も、女性を見下している感じが許せない、と言う。警察相手に、被害者に対してここまで言えるのは肝が据わっているのか、それとも事態がよく分かっていないのか。
彼女は取引の話で西洋商事を訪ねてきた秋庭に、お茶を出した時の細かな振る舞いでこっぴどく怒鳴られ、あまつさえそのまま秋庭は帰ってしまったという出来事があり、腹に据えかねているはずである。
自分以外の人が被害者たちに対してどうだったのか、と言う質問にはやはり女子社員に対する嫌がらせなどを事細かに憶えていた。そのくせ、男のことにはあまり詳しくないようだ。
他の社員から聞いた話では、あまり男にモテないので男に対してだんだん攻撃的、それでいて無関心になってきているらしい。そのせいで、ますます男ひでりが長引いているとか。
一応、他の第二営業部の女子社員にも話を聞いてはみたが、水村に対しての感情は大体弘枝と似たり寄ったりだった。彼女たちは秋庭とは直接接触はなく、弘枝が怒鳴られているのを遠巻きにみていただけだったが、やはり嫌われてはいる。
ざっと見た感じでは、女子社員たちは水村のことを嫌いではあるが殺したいほどの激しい憎しみ無さそうである。どうでもいいが、彼女たちは水村を裏で水虫と呼んでいたそうだ。
次に男子社員が呼び出された。こちらは数が多い。佐々木刑事もやる気がなくなったのであまり口を挟んでこなくなり、ペースは上がったのでどうにか今日中に終わりそうである。
梅川了一、スポーツマンタイプのがっしりとした好青年だ。性格も体育会系の突撃タイプで営業も足で行うタイプのようだ。商店回りなどを得意としている。社内でもそのさばさばした性格で好かれているようだ。女子社員にもそこそこ好感を持たれているが、恋愛にまでは発展しないらしい。そこが却って男子社員にも好感を持たせているらしい。
松村孝明、こちらは少し気弱そうだが、なかなか口達者だ。梅川とコンビを組んで商店回りをすることが多いそうだ。社内でも地味な方である。誰に聞いても、これと言った印象はないという有様だ。
この二人は以前秋庭相手に新しい取引を成立させるための接待を任されたが、さんざん金を使わされて結局取引は成立しなかったため水村に大目玉を食らったことがあった。
腹は立ったが、良くあることなのであまり気にしてないと本人たちは言う。ただ、梅川はしばらくそのことで同僚に愚痴っていたらしい。その同僚たちにその時の話を詳しく話しており、彼らから大まかな事情が聞けた。
最初は割と乗り気な雰囲気だったので、言われるままに接待を続けていたが最後の最後で最初からそんな契約結ぶ気はない、と態度を覆したらしい。
手当たり次第愚痴っていた梅川に対し、松村の方は表には出さないが、腹の中は煮えくりかえっていただろう。こういうタイプの方が爆発した時に何をしでかすか分からないという感じがする。
柴田兼之、笹川美代子のお茶の一件で秋庭が帰ってしまった時に商談のとりまとめを任されていたため、笹川共々どやされた。スーツをぴっちりと着込んだ見るからに真面目そうな男だ。
その後しばらく美代子とは不仲だったが、秋庭がああいう性格だとだんだん分かってくると今度は二人で秋庭の愚痴を口を揃えて言うようになり、今ではすっかり気があっているらしい。美代子の性格があれなので関係は進んでいないが、最近美代子も少し丸くなってるので結構いい仲になるんじゃないか、と女子社員が言っている。ただ、本人たちをみるとあまりそんな気はしない。
志賀直行、結構いい男だ。そして、それに恥じぬ派手な女遍歴を持っている。それを知っている女子社員にはあまり好かれていない。名前の読み方はナオユキだがチョッコウと呼ばれることが多い。もちろん名前のそれから来ているが、女を口説いてホテル直行、と言う揶揄も含まれているそうだ。
モテるだけに女好きの水村から妬まれていていろいろと嫌がらせのようなこともされている。最近はやたらと秋庭相手の取引の相談などに駆り出され、何かトラブルを起こしては怒鳴られていたが、水村は秋庭が一癖ある人間だと知った上で、志賀を仕向けてトラブルを起こさせるるためだけ取引を続けていたところがあるらしい。ただ、それが裏目に出て彼を気づかいお節介を焼く女子社員も少なくはないようだ。そして水村がまた嫉妬し嫌がらせをするという悪循環になりつつあった。
全体的に、男子社員は女子社員に比べてセクハラを受けない分だけ水村への反感は小さいが、仕事の方ではねちっこい嫌がらせをするので嫌いな人は徹底的に嫌い、と言うパターンだ。そして、誰もが明日は我が身と戦々恐々としていたところがあり、ある意味部内の結束は強い感じを受けた。
「やっと終わりですか」
一日中立ちっぱなしだった小百合がふうーっと言いながらよろよろと歩き始めた。
「うわー、足がぱんぱん」
むくみきった足を屈み込んで揉み始める小百合。
「車ん中で好きなだけやれよ」
「それもそうね」
飛鳥刑事に促され小百合は立ち上がったが歩き方はまだぎこちない。
「しかし、社内だけでもこれだけ嫌われてるような被害者じゃなぁ……。絞れるかと思ったらちっとも絞れてねぇぜ」
佐々木刑事は疲れ切った顔で言った。よく考えてみれば最初の頃女子社員相手にちょっと最初の一言をかけていただけで、あとはほとんど何もせず飛鳥刑事一人が聞き込みを行っていたような気がするが、何故疲れているのだろうか。
「うーん、むしろ誰も彼も殺すほどの動機には思えないんですが……。確かに腹は立つでしょうがこのくらいで殺意に繋がってたら日本はアメリカ並みの犯罪大国になってますよ?」
飛鳥刑事はメモを取った手帳を読み返しながら言う。
「まぁな……。誰も知らないような深い恨みがどこか別なところにあるのかもしれねぇ」
三人は覆面パトカーに乗り込む。乗り込むや否や小百合は足を揉むことに専念し始めた。飛鳥刑事は手帳を開き、今日の聞き込みをまた反芻する。
「今日は疲れたなぁ……。もうしばらくこんな長いのはごめんだわ」
小百合がぼそっと言った。
「……明日は最初の事件の被害者の会社の方で聞き込みをするから……またよろしくね」
申し訳なさそうな飛鳥刑事の言葉に小百合は足を揉む手を止め、後部座席に沈むのだった。
ごねる小百合をどうにかなだめ、逃げるように警備課の部屋からまろび出た飛鳥刑事は、疲れ切った顔で刑事課に戻ってきた。
「いろいろ、ご苦労だったな」
苦笑いを浮かべながら木下警部が飛鳥刑事を出迎えた。
「報告はすでに佐々木くんから受けている。状況にめざましい変化はなかったようだが、なかなかの成果があったようだな」
「ええ。……どれも殺したいと思うほどの動機ではありませんね。同僚とビールでも飲みながら愚痴ればそれで済むような……」
「まぁ、そうだな。しかし人によって同じ出来事から生まれる憎しみの大きさはまちまちだ。些細なことに思えることから激しい憎しみが生まれることも珍しくはない」
「同じ一言でもジョークとして笑い飛ばせる人もいりゃ根に持って別れ話に繋がることもあるって奴っすね」
佐々木刑事が口を挟んでくる。
「君の例えはなにか実体験から出てそうな例えだな」
「ええまさについこの間。はぁ」
「先輩、いい加減立ち直ってくださいよ」
「冷てぇなぁ。最近小百合ちゃんといい感じになってきたからってよぉ」
飛鳥刑事に絡む佐々木刑事。
「な、なに言ってんですか。特にいい感じとかはないですよ」
フェイスロックを食らいながらも必死に弁明する飛鳥刑事。
その時、刑事課のドアが開いて森中警視が部屋に入ってきた。分厚いファイルを抱えている。
「……一日聞き込みでさぞや疲れて帰ってくるだろうと思っていたが、それだけ元気なのは若さかね?それとも二人でたっぷりとさぼってきたか?」
いじわるな笑みを浮かべながら森中警視は言う。
「俺はさぼってませんよ」
すかさず言う飛鳥刑事。
「なんだその『俺は』は。俺はさぼってたみたいじゃないの」
フェイスロックがより締まる。飛鳥刑事は足をばたつかせた。
「メモ取ってただけで一言も喋って無いじゃないすか!」
「喋ったろ、最初の方は」
「女性相手の時だけであとは喋ってないでしょ」
「おうおう、言ってくれるじゃないの」
飛鳥刑事は落ちる寸前だ。
「まぁ、まだ犯人が絞れた訳じゃないからな。佐々木君は黙ってても問題ないだろ」
森中警視の言葉に思わず佐々木刑事は手を離した。飛鳥刑事は這々の体で席に戻る。
「俺は居なくていいみたいじゃないっすか」
「君はちょっと迫力がありすぎるからな。取り調べには向いてるが事情聴取だと恐怖を与えすぎる」
「俺はこう見えてなかなかジェントルマンですけど」
「女性には、だろ。……冗談はおいといて、だ。君たちが事情聴取をしている間にこちらは物証を当たってみたんだ。で、これがそれをまとめたものだ」
冗談じゃないんだけどな、と言いたげな顔をする佐々木刑事。自分の席でしきりに頭を振っていた飛鳥刑事もふらふらしながら開いたファイルをのぞき込みに来た。
ファイルには無数の写真が挟まれていた。
「まず、最初の事件の現場写真がこれだ」
本や花瓶などが散乱した部屋の様子が写真に写されていた。
「犯人は窓から部屋に忍び込み、被害者を殺害。その後部屋を物色し金品を奪い、散らかして帰っていったと思われる……。問題はその間、ほとんど大きな物音を立ててないことだ。音がすれば階下の住人が聞いているかも知れないが、そのような証言はなかった。よく見たまえ。本などは一見乱雑に散らかされたように見えるが伏せた本をひっくり返してみた結果、ページに折り目が付いたものは見当たらなかった。適当に落とせば伏せられた本のページに折り目が付いてもおかしくはない。それがないということは丁寧に置かれたと言うことだ」
本を一冊一冊めくった写真が撮られている。
「陶器の花瓶なども落ちているが割れていない。乱雑に見えるが丁寧に作り上げられた現場なのだよ、これは。おそらくは下の住人に物音で不審がられないようにな」
「めんどくさいですね」
佐々木刑事がぼそっと言う。
「だが、これなら力はいらない」
「警視。それなら実行犯が女性である可能性も?」
飛鳥刑事の言葉に森中警視は頷いた。
「床にぶちまけられた物も重い物は一つもない。倒されていたベンジャミンの鉢も木の上の方を引っ張れば梃子の原理で軽く動く。殺害の方法はまだ確定はしていないがいくつかあがっている。絞れてはいないがね。さて、次の事件だが……」
森中警視はファイルをめくる。
「この事件で注目すべきは寝室から死体が発見された部屋まで続いていた血の跡だ。寝室の寝具に残された血の量からみて殺されてすぐに引きずられているようだが、そのペースは遅い。血の跡が太いんだ。力のない女性のような人物が犯行を行ったことを示唆している」
「そんな……。力業の印象があったので男性を重点的にマークしてましたよ」
飛鳥刑事は顔を曇らせた。
「もちろん力のない男性かも知れない。ただ、女性である可能性が高いのは事実だ」
飛鳥刑事は今日事情聴取をした女性たちのことを思い出した。
あの中の誰かが犯人なのだろうか?
それとも明日調べる予定のサニースカイ・インテリア社の社員の方にいるのだろうか?
一夜明けて。
今日はサニースカイ・インテリア社の社員たちに話を聞く日だったが事情が変わってしまった。
しかも、もっとも起こって欲しくない形で、である。
新たな被害者が出てしまったのだ。
その新たな被害者は室谷宗次、建築会社で働く屈強な身体を持つ男性だ。そしてその男性の大きな肉体が、彼のアパートのベランダからロープで縛られ逆さづりになって揺れていた。
やはり深夜に眠っているところを刃物で刺されてから吊されたようだ。傷は眉間と心臓で、いずれもかなり深い。
ちょうど昨日、犯人は女性の可能性が高い、といったところでの大変な力業である。この傷に加え、被害者を吊し上げる労力も大変なものだ。
通報があったのは深夜である。まだ夜明けも遠いという時間に、場違いに窓の外から聞こえてきた目覚まし時計のベルの音を不審に思った住人が窓を開けて外を覗こうとしたところ、目の前に逆さづりになった被害者の顔があったという。
真夜中に目の前に眉間から血を流した逆さ吊りの男など見せられて気が動転しないはずがない。通報もパニック状態で落ち着かせるのにだいぶ手間取ったという。
問題の目覚まし時計はロープで死体の首にぶら下げられていた。おそらくは被害者の部屋にあったものだろう。犯人が死体をすぐに見つけさせるためにぶら下げたに違いなかった。そして、その目覚まし時計と一緒に、例のカードが添えられていたのだ。
現場に飛鳥刑事、佐々木刑事、そして森中警視の3人が駆けつけた。
すでに死体は片づけられている。現場にはすでに長原刑事が来ていた。あらましを聞き、すでに片づけられている死体の写真を見せてもらう。
「こいつは……ハングドマンだな」
森中警視はその死体の写真を見てそう呟いた。
「ハングドマン?」
「ああ。タロットカードにこう言うのがあるんだ。足を縛って逆さ吊りでな」
森中警視は飛鳥刑事に写真を見せながら説明した。
「見立て、って事もあり得ますかね」
飛鳥刑事の言葉に森中警視は首を横に振った。
「今から見立てるというのはおかしい。それならば第1、第2の事件もそうでなければならないだろう。それに見立てるならもっと分かり易くやるだろう。これはたまたまだろうな」
アパートの階段を登り、被害者の部屋に入る。
タンスなどを荒らし物色したあとがある。そして、畳には所々血の跡が残っている。
「ずいぶん動かしてますね」
飛鳥刑事は血の跡を見ながら思ったままを言った。血の跡は布団の大きな血溜まりを起点にして、部屋の中を引きずり回されたことを示している。
「犯人はまたしてもミスを犯したな」
「えっ」
森中警視の言葉に飛鳥刑事と佐々木刑事は目を向けた。
「この血溜まりから……向かった先を見たまえ」
布団から引きずられた血の跡は、一度アパートの部屋の真ん中、和室とリビングを隔てる襖のあたりで止まっている。その鴨居には真新しい傷があった。
「こりゃ、犯人は一度ここに吊そうとしたみたいっすね」
佐々木刑事は鴨居を見上げながら言う。
「そう。だが、結局はそれを諦めベランダの手すりに縛り付け窓の外に吊した。何故だと思うかね?」
「やはり、死体の発見を早めるためでは……」
森中警視は小さく頷くが。
「しかし、それにしてもこんな工作をするのに窓の外に吊すのはあまりに目立ちすぎる。一度は鴨居に引っかけようとしたのは、恐らく最初は鴨居に引っかけてドアを開け放ち、目覚まし時計を鳴らして発見させるつもりだったのだろう。しかし、それはできなかった」
「できなかった?」
「飛鳥君。君は佐々木君を鴨居に吊し上げることはできるかね?」
「うーん。できる……かなぁ……」
「俺が飛鳥を吊せってのならそれほど難しくはないっすけどね」
佐々木刑事が口を挟んできたのが、飛鳥刑事に答えを導き出させた。
「……!持ち上がらなかった?」
「うむ。写真を見ただけでもこの男性は筋肉質で体重も重いだろう。そんな重い人間を吊し上げるにはかなりの力がいる。恐らく、なにか方法は用意していたんだろうが、それでも犯人は被害者を鴨居につり下げることができなかった。そこで、やむなくベランダに吊すことにしたんだろう」
「……なんでわざわざ吊すんすかねぇ。吊さなくてもそこら辺に転がしておけばいいじゃないですか。目覚ましなっててドアが開いてりゃ覗き込むでしょ」
佐々木刑事は納得いかないような言いっぷりである。
「そう、発見させるためだけならこんなことをする必要はない。だが、犯人はどうしても吊したかった」
森中警視はそこで一度言葉を切った。
「何故吊さねばならなかったのか。そう考えると答えは浮かびにくい。だが、吊す時、どうなるのか、と考えれば答えは出る……」
「吊す時……引っ張り上げる?」
「滑車を使っておもりをぶら下げて少しずつあげてくって言うことも考えられますけど……」
「自分でぶら下がりゃいいじゃねぇか」
「犯人が女性なら自分の重さだけじゃ……あ」
二人とも気付いた。
「なるほど、女にゃできない芸当をやらかして犯人を男だと思わせたかったわけか!」
「ただ、被害者が想像以上に重くて手を尽くしても持ち上がらなかった、だから……」
森中警視は頷き、飛鳥刑事の言葉を引き継ぐ。
「仕方なく窓際まで引きずり、ここから下に投げ下ろした。これならそれほど力はいらない。なまじ力業を使い力のある犯人像を作り上げようとして、それがあだとなって、非力な犯人像を浮かび上がらせてしまった……」
佐々木刑事は難しい顔になった。
「女、か……。今までに捜査線上に上がっている女性は5人……。西洋商事の受付嬢、OL。そしてあとはサニースカイ。インテリアの女子社員……」
「じゃ、この5人の中に犯人が!?」
「待ちたまえ。もっと絞ることができる」
飛鳥刑事と佐々木刑事は森中警視の言葉を待つ。
「今まで緻密な計画を実行してきた犯人が、今回はこんな失敗をやらかしている。これは、犯人が焦りを憶えているからではないかね?」
「確かに……。前の二つは場当たり的に見えながら準備周到で、計算され尽くした感じを受けましたが、今回は……」
「被害者の体重もろくに知らずに計画立てて、その場しのぎで乗り切った感じっすね」
二人の言葉に満足げな表情を浮かべ森中警視は頷く。
「何故、これほど焦って犯行に及ぶ必要がある?……おそらくは、何らかの理由で犯人は自分が疑われいると感じたに違いない。どんな理由でそう思ったにせよ、犯人をそう思わせた原因は……今日の事情聴取、それ以外にあり得ない。もっと早くからそう感じていたならばもっと計画を練り込めたはずだからな」
「それじゃ犯人は西洋商事の女子社員の二人のどちらか……!」
「一応、女性とは限らん。非力な人間だ。それにこれもミスリードと言うこともあり得る。ただ、間違いなく大きな糸口になることは間違いないな」
被害者の人間関係などはすぐに浮かび上がってきた。
そして、西洋商事の社員たちの中に、たった一人だけ彼と過去に関係があった人物がいた。
西山村商工高校の同窓生であり、青春時代を共に過ごした人物。
警察の行動は実に素早かった。
その関係が浮かび上がると同時に動き出し、すぐに身柄を拘束した。
室谷と高校時代を共に野球部で過ごした梅川了一を。
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