マジカル冒険譚・マジカルアイル

21.国境突破

 出発の時間が近付くと、頃合いを見計らったようにクレイとエリアを取材していた記者も質問がなくなった。その時、グレックが姿を現した。記者は急いでグレックを取材をしようとするが。
「悪いが遠慮させてもらおう。代わりに彼らから話を聞くといい」
 そうは言うが、グレックの近くにその“彼ら”の姿はない。……いや。グレックの陰から二羽の小鳥が姿を現した。
「お。もしかしてこいつらが例のちびっ子ですかい」
 そういってテラーファングはにやっと笑って牙を見せた。小鳥たちは再びグレックの陰に隠れてしまった。
「取って喰いやしないよ。ほーら出ておいで、ちちちちち」
 テラーファングが呼んでも出てはこない。
「おいで」
 エリアが呼ぶと素直に出てきた。テラーファングは肩を聳やかした。
「ええと。その……お二人が。その……大臣に連れてこられたっていう」
 記者はなんと呼んでいいか必死に言葉を選ぶ。何せ、故人のうえ子供だ。いきなり余計なことを思い出させてもいけない。全く今日は気を使う相手ばかりだ。
「ぼく、ダグ」
「フェリニーです」
「えーとね。今日は何を話してくれるのかな?」
「おじさんにね。ぼくらが死んだときのことを話してやってくれって頼まれたんだ」
 あっさり本題を話してくれることに記者は些か拍子抜けした。
 二羽の小鳥たちは語る。
「私たち、ずっとルーフェンのレドニックス様のお屋敷でお世話になってました。ある日、レドニックス様の屋敷に大臣がいらっしゃいまして、お帰りになった後、ご主人様の口から私たちを大臣様が引き取ってくださると聞かされました」
「ぼくはご主人様とお客様が話してるのを聞いたよ!お金の話をしてました!それに、引き取った後は好きにしていいともおっしゃってました!」
「なるほど、金に目が眩んで売り飛ばした……と。さぞや悲しい思いをしたでしょうな」
「そんなことはありません。短い間でしたが、大臣様にはとても良くしていただきました。これから命を奪うことになるという負い目もあったのでしょう。素敵な服をいただいて、いろいろなところに連れて行っていただきました。とても楽しいひとときでした」
「悪党なら、希望を与えたところで絶望のどん底につき落としてその落差を楽しむってのもありそうだな」
「いくら大臣でもそこまで腐りきってはいるまい……」
 外野のテラーファングの余計な茶々にサマカルドが口出しした。
「いろんなところに連れて行かれて、また新しいところについて。そこで……お前たちには魔法使いとして死んでもらうって言われたんです!」
 怖いことを元気いっぱいに言うダグ。
 ダグとフェリニーはよくわからないまま縛り付けられ、火炙りにされたという。その時のことは多くの人々が目撃している。
「ぼくはひどい目に遭わされるのには慣れてたけど、フェリニーは本当に辛そうで……」
「ちょっとちょっと。ひどい目に遭わされてたって……レドニックスさんに?」
 一番辛いだろう記憶を話してくれた後だけに、記者は遠慮なく質問した。その様子を客観的に見てきただろうフェリニーがその時のことを語る。
「はい。煮えたぎったお湯を掛けられたり、棒で叩かれたり……。いつもダグの体は痣と火傷だらけでした。私は、大きくなったら娼館に売り飛ばすからと顔と体に傷が付かないように、私の代わりにダグがお仕置きを」
「虐待があった、と……。……あれ。お嬢さん、お歳は」
 処刑された子供は幼い子供だった記憶がある。気になった記者は尋ねた。
「10歳です」
 10歳の子供相手に娼館に売り飛ばすなどと話していたとは、何とも酷い話だ。
 二人は、大臣に魔法使いとして死んでくれと言われたとき、何を言っているのか解らなかった。突然のことで混乱したとかそういうことではなく、そもそも屋敷から出ず外のことなどろくに教えられず育った二人は魔法使いというものが何なのか知らなかった。
「大臣も、死んだ方が幸せかもしれないような子供を捜してきたってことかね。捜して見つかるような状況をどうにかするのが国の役目だと思うけどさ」
「それは国防大臣にはお門違いだな」
 またしても外野から余計な茶々が入った。
「しかし、国を守ると言いながら、国民の……こんな小さな子供に犠牲を強いるというのはいかがなもんでしょうね」
 サマカルドに向けて、独特の嫌らしい口調で質問する記者。
「彼らにとっての国は守っているな。国の体面、民からの納得……。国と国民とは似て非なる物なのだろう。軍も国と民を守るために戦っているつもりだが、大臣直属の部隊は国を守るために民と戦っていたしな」
 国に関して軍人から想像以上に辛辣な言葉が返ってきたので記者は面食らった。
「それで……お二人はその、……お亡くなりに。そしてこうして生まれ変わったと」
「うん。生き返ったら今度こそ自由だって言われたし。今はね、世界中を見て回ってるところなんだ」
 言われたとおり、何者にも邪魔されずに思うままに過ごしているようだ。
「無防備に飛んでいると大きな鳥に襲われますし、遠くまで飛ぶと疲れちゃうから……荷馬車に隠れて町から町へ渡ってたんですけどね」
 それほど自由気ままな旅でもなかった。記者は二人にどこを見てきたのかも尋ねてみたが、小さな頃から屋敷に閉じこめられて過ごしてきた二人に、外のことなど分かるはずもなかった。フェリニーとダグの話を聞いているうちに、エリアはいつしか二人と自分たちの姿を重ね始めていた。
 もちろん、エリアたちが育ってきた島と生前の彼らの暮らしは比べるべくもない。しかし、島を出た後の人目を避けながらのエリアたちの旅、フェリニーたちが生まれ変わってからの野鳥に怯えながらの旅。二人きり無縁孤立の状況は通じる物がある。
「何はともあれ、魔法使いのおかげで自由を手にすることができたわけですな」
 今の新聞の論調にはぴったりの結論だ。彼らにもいいネタができたと言ったところか。つい数日前までは魔法使いは悪でそれに立ち向かう政府や軍こそ絶対の正義だと称える記事ばかり書いていた連中とは思えない。彼らも彼らで、今まで政府の望むとおりの記事を書かされ、苦労した取材をなかったことにしなければならないことが多々あった。鬱憤も溜まっていたということだ。穴が開いて沈みかけた船から逃げるついでに一暴れしているようなものだった。何ともたちの悪い連中だ。だからこそ、国も今まで鎖をつけて手懐けてきたのだが。
 新聞社にしても、国を敵に回してしまった以上はもっと世論を煽って味方に付けるしかない。このまま反乱が起きるところまで突っ走るつもりだろう。
 庶民の怒りを炊きつけるのに子供ほどいい燃料はない。現にこの二人の処刑が王国への信頼を揺るがす先駆けとなっている。この記事も物議を醸すことだろう。
 取材は今度こそ終わり、出発の時間が来た。明日には国境に辿り着く。

 夜が訪れた。見晴らしのいい平野の真ん中にキャンプを張る。体の弱い者や女子供は近くの町の宿屋に身を寄せているが、女子供でも元気で逞しい部類のクレイとエリアはキャンプに寝泊まりだ。今まで野宿が中心だった二人にとって、テントがあるだけでも段違いの寝心地だった。
 今日から一行に新しい仲間が加わった。フェリニーとダグだ。気ままに旅を続けていた二人だが、少し大きな鳥にでも怯えなければならない小さな体で右も左も分からず旅をするのは危険だ。一行に混ざってならば楽で安全に色々なところにいける。
 それに、クレイとエリアにとっていい話し相手になりそうだ。
 翌日。新聞には子供たち、クレイとエリア、そしてダグとフェリニーの談話が掲載された。読者の感情を煽れそうな部分を選り抜いたような偏った内容だったが、嘘は書かれていない。新聞社にしてみればいつもの手だ。
 この記事がどんな反響を呼ぶのかはまだ分からないし、それを見届けることも出来そうにない。何かが起こる頃にはもう隣の国だろう。
 二つの国を分かつ山地はまだ彼方の地平線で霞んでいる。だがそれでも日が昇りきる前には到着するだろう。人間業では到底成し得ない速さのように思えるが、さらに上が居たようだ。昨日、国境最寄りの小さな港町に特殊部隊を乗せた高速艇が到着し、特殊部隊は既に国境ゲートに向けて騎馬を走らせ始めているということも報じられていた。ゲートを通ろうとすればはち合わせることになる。
「ゲートを避けてほかの場所から国境を越えればよいのでは?」
 サマカルドはグレックに提言するが。
「この子らが国外に逃れようとしていると知ったときから、国境では国内に閉じこめるための罠を張っていてな。その罠がある以上、ゲートを通らねば国境を越えるのは難しいだろう。それに、むしろ堂々とゲートに現れるとは思っていない」
「罠……とは?」
「魔法使いの力を封じる魔法陣だ。あの二人が捕らえられ船で護送されてきた時、逃げたり暴れたりできないように船全体に魔封じの法が施されていた。さらに処刑場や城など、国の重要な施設には大概魔封じが施してある。魔法を使えぬ者にはなんの影響もないからそれと気付く者はいないがね。国境に施された魔法封じの結界はかなり簡単な仕組みの物だ。だからこそ、国境全体に満遍なく仕掛けることができる」
 サマカルドには思い当たることがある。
「そう言えば、魔法除けの文様ならば何度か見かけたことがあります。……あれ自体が魔法のように思えるのですが」
 城にも、床に幾何学紋様に見せかけた魔法除けの文様が施されている所が所々にある。
「……いい所に気がつくな。そう、あれは我々が使う魔法とまったく同じ物だ。だからこそ、私も施術されているのを見ればすぐにそれと判る」
 サマカルドは少し驚いた。しかし、もう既に散々驚かされた後だ。それほどの驚きはない。
「アテルシアにも、魔法使いがいると言うことですか」
「いや、そうではない。結界を施しているのは聖教会の司教達だ」
「つまり……“奇跡”と言うことですか」
 聖教会。この国の信仰の中心であり、西の大陸で広く信仰されるアウズ聖教の大教会より派遣された司教達がいる所。魔法使いの排斥は神の意志であるとされている。そして、司祭達が見せる神の力、それが奇跡だ。
「と言うことは、奇跡も魔法も同じ物……と言うことですか」
「そうだ。連中は、自分たちと同じ力を使う魔法使いが目障りなのだ。アテルシアは我々の島に最も近い所にある国だからな。島から出てきた魔法使いを、即座に捕らえるために最も重要な拠点と言うことだよ」
 同じ力を持つ他の勢力は邪魔だ。だから排斥する。分かりやすい話だった。自分たちはそのためにこき使われてきたと言うことだ。
「しかし……。司教が起こす“奇跡”は高が知れてます。あの子供達のように、軽々と空を飛ぶような司教も見たことがない」
「それは司教達の力も高が知れていると言うことだよ。ただ、連中は数が多いからな。それに資金に物を言わせ、多くの人を動員することも大掛かりな準備をすることもできる。それこそ、国境に結界を張り巡らせるような途方もない大仕掛けもな」
 そこに、いつからそこにいたのかテラーファングが口を挿んできた。
「逆に言えば、大掛かりな準備をしなけりゃ大したことは出来ねぇってことさ。奴らの罠に飛び込んで行かなきゃ、チョロいもんだぜ」
「……しかし、今回はその罠に飛び込んでいこうと言うことだな」
「まあな。でもよ、こっちにはチビどももいるからな。あいつら、なかなか戦力になりそうだし、何とかなるだろうぜ」
「……相手にしなければならないのは司教の罠だけじゃない。国軍もだぞ」
「国軍と言ってもちんけな高速艇で駆けつけたばかりの僅かな精鋭と友好国との平和な国境で腑抜けた警備兵だ。蹴散らしてやろうぜ」
「気安く言うな」
 溜息をつくサマカルド。だが、蹴散らすしか道はない。

 一行の行く手に地平線の上に横たわる、国境の累壁が見えてきた。転移ポータルを通り抜けるたびにその姿がはっきりとしてくる。
 アテルシア王国と隣国・ワムンセルフォム共和国とは良好な関係を築いている。本来ならここまで堅牢な国境は必要ではないのだが、アテルシアには魔法使いを国内で捕らえるという大義名分の元、国境警備・防衛に力を入れている。この累壁もかなりの財と労力を割いて築いたものだ。
 近付くにつれ、累壁の高さが窺えてきた。元々あった丘を切り崩しあるいはその土を盛った土塁で、低い所でも3階建ての建物の屋根ほどの高さがある。さすがに易々とは登れそうにない。
 海から続く累壁の行く手には峻険な山脈が伸び、累壁よりも堅牢に往く者を阻む。そちらは衛兵もいないが、生きて越える方が難しい。そもそも、見た目以上に遠くに存在している。空を飛べるのであれば山越えも視野に入れられるが、民を連れての移動は不可能だ。 
 累壁の手前は川になっている。元々、国境は川に沿って定められた。その川が、まるで堀のようになり行く手を阻んでいる。こうしてみれば、この国境がアテルシア王国への侵入を防ぐ目的ではなく、脱出や逃亡を防ぐ目的で作られたと言うことがよく分かる。
 長い橋の先に、国境の門がある。門は固く閉ざされ、砦には兵士の姿が見える。橋には一見ただの模様のように、ごく自然な感じで魔法封じの魔法陣が描かれている。
 魔法封じにもいくつかやり方がある。その中でも最もシンプルな方法と言えるものがここで使われている。そこに描かれた魔法陣は、本来魔法封じという目的のためのものではない。光を生み出す魔法だ。しかし、たとえ辺りが夜になったとしても、月明かりがあればこの魔法陣が光を生み出していることに気付く者はいないだろう。この魔法陣は絶え間なく光を生み出し、辺りに満ちた魔力を消費し続けている。既にこの周囲の魔力は枯れ果て、余所から流れ込んでくる僅かな魔力もすぐに魔法陣に吸い寄せられて光に変わる。こうやって周囲の魔力を枯らすのがこの魔法陣の目的だった。魔力が希薄で、魔力が尽き果てても困る人がいない外の世界ならではのやり方だ。
 魔法陣は破壊すればその効力を失う。橋の魔法陣はタイルで描かれている。剥がしてやれば破壊することはできるだろう。
「どのくらい壊せばいいんですか」
 大工道具を手にした若者に尋ねられた。彼らもただ守られているだけでは気が済まない、やれることはやろうと立ち上がったのだ。めいめいの手に、農具や工具が握られている。
「無論全てを壊す必要はないが……。そうだな、内側の細かい紋様部分を集中的に壊せば、さほど壊さなくても魔法陣の効力は失われるだろう」
「よっしゃ、任せてください!」
 これまでの腹いせも兼ねて、彼らも大暴れしてくれそうだ。

 サマカルド率いる兵士達が、盾を構え横一列になって橋を渡り始めた。すると、砦から無数の矢が降り注いできた。砦の高い位置に陣取った兵士達から容易に察することができる対応だ。
 サマカルド達の隊は一度退く。砦からの射撃が止んだ。橋の中程よりやや手前の辺りだ。その後ろにまで民が駆けつけ、農具や工具を橋に叩きつけ始めた。瞬く間にタイルは剥がれ、魔法陣は無惨に壊れた。さほど壊さなくても良いと言ったばかりだが、ものの見事に跡形もなく壊されている。
 グレックは破壊された魔法陣の上にまで歩を進めた。そして、サマカルド達が再び前進を始める。流れ矢がサマカルド達の頭上を飛び越え、グレックや民にまで迫る。その時、強い追い風が吹き抜けた。矢は力尽きてグレック達のだいぶ先に落ちた。無論、風はグレックが魔法で起こしたものだ。
 追い風に守られている間に再び民が前進し、その先にあった魔法陣を破壊し始めた。
「怯むな!砦に近付けばあの手は通じぬ!矢を射掛けよ!」
 砦に上官の号令が響いた。激しく矢が射掛けられるが、やはり届かない。
「ふん、こんな手で砦まで攻め込めるなどと思っているはずがないだろうが。私を甘く見ているな。いいだろう、少し遊んでやるとするか」
 グレックは魔力を溜め始めた。そこから流れ出た魔力が魔法陣に流れ込み、目に見えて光を放ち始める。
 川の中から何かが飛び出した。両手で抱える程度の大きさの水の玉だった。それは弧を描いて砦の方に飛んでいく。兵士達は迎え撃とうと矢を撃ち込むが、水に矢を打ち込んだ所でどうにもならない。水の塊に飲み込まれ、あるいは水飛沫だけあげて素通りする。門の上で水の塊は弾けた。兵士達に水が降り注ぐ。バケツで水を浴びせた程度だが、虚仮威しにはなったようだ。
 もちろん、こんな下らないことのために魔力を溜めていたわけではない。さらに大きな水の塊が、それも複数砦に向かって次々と襲いかかった。それらは砦の上で一つになり、巨大な水球となる。これが降り注げばどうなるか。恐怖に駆られた兵士達は逃げ出すか、混乱して矢を放つ。
 水の塊が弾けた。滝のように水が降り注ぎ、砦の兵士達が水に流された。砦にいた人間の半分ほどが砦の外に転げ落ち、さらにその半分が川に飲み込まれる。流れが穏やかな川だ。どうにか岸に泳ぎ着いた者、流れ着く者も多かったが、何人かはさらに下流に流されたようだ。
 砦に残った者も、殆どが戦意を喪失し攻撃は停まっている。サマカルド達が門に近付くが、門の扉は固く閉ざされ開かない。
 我に返った兵士が上から矢を射掛けてきた。サマカルド達は盾を構え、ゆっくりと後退しながら撤退していく。
「やはり、この門を通り抜けるのは無理ですね」
「ふむ」
 そうだろうな、と言わんばかりに頷くグレック。
「では、予定通り風船爆弾作戦を行おう。皆さん、準備を頼みますぞ」
 グレックの号令で男達が準備を始めた。運ばれてきたのは多数の膨らんだまま糊で固められた布袋と、人の頭ほどの壷がいくつかだ。男達は壷に紐で布の風船を縛り付ける。準備はこれだけだ。
 グレックの魔法により、川から水柱が上がった。真っ直ぐに天高く伸び上がった水柱は、ゆっくりと傾きはじめ、僅かにうねりながら砦の真上にまで伸びた。男達はその水柱の中に壷をくくりつけた風船を放り込む。
 水柱の中に飲み込まれた風船は、水面を目指して上へ上へと上がっていく。水柱の最も高い場所、砦の真上に次々と溜まっていった。
 なんの前置きもなく魔法が解かれ、水柱は風船に括り付けられた壷ごと崩れ、砦に降り注いだ。混乱に包まれた砦に、壷の割れる音が響く。
 この作戦は、この壷を砦の中に送り込むことが目的だった。直接壷を飛ばした方が早そうに思えるが、実はこちらの方がずっと楽なのだ。
 割れた壷からは噎せ返る悪臭が広がった。悪臭は床を這いながら下へ下へと流れ込み、砦の建物内に満ちていく。砦の中にいた兵士達は息苦しさに堪らず屋上へ飛び出した。
 広がっていたのは悪臭だけではなかった。男達の手によって砦に松明が投げ込まれると、砦を炎が駆けめぐった。悪臭を放っていたのは可燃性のガスで、投げ込まれた松明の火が引火してガス爆発を起こしたのだ。炎はすぐに収まり髪の先が焦げた者がいるくらいだったが、混乱を呼ぶには十分だった。
 混乱に乗じて砦に一気に近付き、梯子を掛ける。サマカルド達が梯子を登り砦に乗り込むと、テラーファングがそれに続いた。テラーファングは狼の姿になり、吼えた。その声と姿に兵士達はさらに混乱する。市民達もそれに続いて梯子を駆け上がり、瞬く間に砦を制圧した。
「間に合ったな」
 サマカルドが言った。
 門扉を調べるが、アテルシア側、ワムンセルフォム側共に厳重に施錠され、鍵は見あたらない。どうやら、制圧されても開けられないように鍵を外に持ち出してあるらしい。鋼鉄の扉には橋の上と同じ魔法封じの魔法陣が描かれていた。さすがに厳重だ。
 土塁に梯子を掛ければ降りることができる。いや、男達にとっては梯子さえ要らないだろう。しかし、老人など体の弱いものには些か酷だ。しかし、これも想定通りだ。
 突然、辺りが騒がしくなった。見回すと、森の中に潜んでいた軍隊が橋の一端に陣取る所だった。
「掛かったな、愚かな魔術師め!魔封じの罠が仕掛けられたその門が貴様の墓標となるのだ!」
 隊長の安っぽい台詞と共に兵士達が突撃を開始した。砦に梯子が立てかけられ、一斉に登ってくる。その後ろからは矢が射掛けられ、身を守るものがない市民達は砦の中に引っ込むしかない。
「愚かなのはどちらか教えてやろうか?」
 グレックがそう言うと、川の水が盛り上がり、橋の上の兵士達に襲いかかった。多くの兵士が川に飲み込まれ、流されていく。
「馬鹿な!なぜそこで魔法が使える!?魔封じが効かないのか!?」
「無知とは恐ろしいものだな。あの魔封じの魔法陣はちゃんと効いているさ、今でもな。だが、その仕組みを知っていれば過信できる代物でないことはすぐに判るはずだ。いいか、あの魔法陣は周囲の魔力をかき集め、燃やし尽くすためのものだ。かき集められている最中の、流れゆく魔力を掠め取って使うことは容易い」
 テラーファングが口を挿む。
「魔法で辛うじて生き返っている俺は辺りの魔力の濃さってのに敏感でねぇ。この辺一帯がやけに魔力が薄いことには早々に気付いてたぜ。つまりは、罠の存在にもな。その上で、何の問題もねぇと踏んでここまでノコノコやってきてやったのよ」
「ここが川であることも災いしたな。魔力は辺りに漂っているばかりでなく、水にも運ばれてくるのだ。周囲を流れる僅かな魔力で川の水から魔力を吸い取り、その魔力でさらに魔力をかき集めてやれば大掛かりな魔法もお手の物だ。……もし、お前が生きて帰ることができたなら、無知な上官共に教えてやることだな」
 再び川の水が兵士達を襲う。何人かは橋にしがみついて難を逃れたが、またかなりの数が流された。
 兵士達が使っていた弓を奪った男達が見よう見まねで矢を射始めた。飛距離も伸びず狙いも定まらないが、虚仮威しくらいにはなる。兵士達は一旦撤退した。
 近隣から軍人が続々と呼び集められているらしく、人馬の群れが彼方から近付いてくるのが見えた。川に流された兵士達も、所詮は浅い川なのですぐに岸にたどり着き、再び戻ってくる。敵の数は増えていくばかりだ。

 その頃。クレイとエリアは砦より少し離れた川辺の森に潜んでいた。市民のうち、女子供や老人など体の弱い者も一緒だ。
 目論見通り、兵士達はグレック達に引き寄せられて砦に集中している。動くなら今のうちだ。
 グレックとサマカルドは、門を突破するのは不可能だと踏んでいた。魔封じの罠に、完全封鎖されているだろう門扉。それを開けて民を招き入れるのは至難だ。それを待たせている間に、兵士達に取り囲まれてしまう。
 砦に乗り込むのは体力のある者だけにして、他は気付かれないように土塁を通り抜けることにしたのだ。
 土塁を通り抜けるには、転移ポータルを使うのが一番だ。だが、魔封じのせいでその魔法を使うには魔力が心許ない。まずは、魔封じを解く。
 魔封じの魔法陣は土塁の上にある。ダグが土塁の上にある魔法陣を空の上から見つけてくれた。テラーファング同様魔力で辛うじて生きている彼は魔封じの魔法陣にあまり近付けない。魔力がなくなっても死んでしまうわけではない。この体の本来の持ち主である小鳥に一時的に意識を奪われるだけだ。しかし、意識が遠のいていく感覚はあまり気分のいいものではない。危険を感じ、距離を置いた。
 魔法陣の大体の位置さえ分かればいいのだ。ダグはクレイとエリアに魔法陣の位置を知らせた。魔法陣は木の板らしき物に描かれ、一定の間隔で置かれているらしい。
 魔法陣の位置を知った二人は、二つの魔法陣の中間に陣取った。この場所なら魔法陣の効力が一番弱くなる。どれほどの違いがあるのかは分からないが、気休めになるだけでもいい。
 二人は空を飛んで川を越える。土塁に近付くにつれ、魔封じの影響か体が重くなってきた。力尽きたエリアは足が何度も水につき、終いに川に落ちた。
 溺れる。エリアはもがいた。手に痛みが走る。石に叩きつけられたようだ。手を伸ばしてみる。石だらけの川底に触れた。濁っているので底が見えないが、かなり浅い。
 立ってみるとその深さは腰ほどもない。これなら歩いて岸まで行けそうだ。こんなところで溺れそうになったことに腹が立った。
 クレイの姿を探すと、土塁に突っ込んで腹這いに貼り付いている。エリア同様川に落ちそうになり、火事場の糞力で浮かび上がろうとして浮かびすぎて制御を失ったらしい。相変わらずだ。
「クレイ、大丈夫?」
「うん、大丈夫……」
 そう言いながらクレイは顔を上げ、エリアの方を振り返った。
「うわあああああ、やっぱダメだああああ……」
 高さが駄目だったようだ。飛んでいる時ならこの3倍の高さでもへっちゃらだが、自分の意志と関係なくこの高さに不安定な状況で放り出されれば話は別だった。
 魔法の力を借りながら土塁をよじ登っていく。飛ぶのは無理だが、体が軽くはなる。取っかかりの少ない土塁でも楽々登れる。もうすぐ天辺だ。……まだ、下は見ない方がいいだろう。
 クレイが一足先に天辺に着いた。恰好をつけてエリアに手を差し伸べようとするが。
「うわあ、やっぱダメだぁ」
 下を覗き込むなり引っ込む。結局、カッコ悪かった。とりあえず、エリアは登りきっても下はなるべく見ないようにすることにした。
 土塁の上の魔法陣はダグの言った通り、木の板に描かれており一定の間隔で置かれていた。ただ置かれているだけなので拾うのも簡単だ。クレイとエリアは右と左に分かれて板を拾い集めることにした。遠くに置いておけば魔法陣の効果も届かなくなるだろう。
 いよいよ転移ポータルを出現させることにした。まずは魔力を溜めてみる。魔法陣を遠ざけたおかげで順調に魔力が集まる。川の水から魔力を抽出するやり方もグレックに教わった。驚くほどあっさりと魔力が高まっていく。この調子ならば大丈夫だ。
 クレイはこの場所で、エリアは川の向こう側に戻って転移ポータルを作り出す。エリアは戻るべき場所を見るつもりで、うっかり思いっきり下を覗いてしまった。確かに、怖かった。これからこれを降りなければならないのか。
 よく考えれば、飛べばいいのだ。もう魔力は普通に集められる。空に飛び上がると、不思議なことに下を見ても全然怖くない。
 対岸に戻り、魔力を溜め、転移ポータルを開いた。距離はほんの百歩分ほど、実に簡単だ。出現したポータルも大きい。見守る人々の目に、ポータル越しに川の向こうの平原が見えた。人々はポータルに向かって歩き出す。
 クレイの下の方からポータルを抜けてきた人々の声がした。その声に下を覗き込んだクレイは、また足が竦んで慌てて目を逸らした。
 無事全員が国境を越え、最後にポータルを通過したエリアがクレイに声を掛けた。あとは、無事に国境を越えられたことをグレックに知らせるだけだ。
 知らせるには確か……川の水を凍らせてダムを造り、水が溜まった所で一気に流すという合図だ。随分とまだるっこしく過激な合図だが、下流に知らせるには確かに手っ取り早い気がする。凍らせるのも、水の魔力を使えば簡単だ。早速取りかかることにした。

 グレックの眼下には、数百という兵士が集まってきていた。
 浅い川とはいえ深い所は深いようで、皆橋の上を通って順繰りに押し寄せてくる。水柱を浴びせるも、兵士達は態勢を低くして身を寄せ合い、堪え忍ぶことを覚えた。しかし、それで優位に立ったわけではない。何度も水を浴びせられ川に落ち、ずぶ濡れになった兵士達の体は冷え切り、梯子を登るのも思うようにならない有様だ。見事な膠着状態と言えた。
 その時、どこからともなく地鳴りのような音が聞こえてきた。
 橋の上の兵士達は戦慄した。上流から、怒濤が押し寄せてくる。兵士達は我先に逃げようとするが、すし詰めの橋の上では身動きさえままならない。そして、体も思うようには動かなかった。
 あれよあれよという間に怒濤に飲み込まれる兵士達。身を寄せ合い、どうにか無事激流を耐えきった……と思うのも束の間。音を立てて橋が崩れた。よりにもよって一番深い所に掛かっていた部分が崩れ落ちてしまった。なぜか、大きな氷の塊が橋に引っかかっている。橋を壊したのもこのような氷の塊だった。門側に取り残された兵士は行くも戻るもできず、途方に暮れている。流された兵士達も殆どが浅瀬に辿り着けたが、見あたらない者もいた。
 完全に戦意を喪失した兵士達を見下ろしながらグレックが言う。
「時間稼ぎは終わりだ。さあ、家族達と共に新天地に行こう」
 門の扉を破るのは大変だろうが、外にいるクレイとエリアの力を借りればどうにかなるだろう。

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