ルスランが残すは決勝のグライムス戦だが……結論から言えばさすがに勝てるわけがなかった。
奇手はここまでに出し尽くしているし、奇手が通じるような相手ではない。アミアが授けてくれた魔法はこれまでブラッドラスト一本でひとまとめにしてきた各種強化魔法だ。すでに教えられていた『活力の火』『迅雷』に加え、地属性の頑強性強化『 巌の守り』、水属性の感覚強化『明鏡止水』、風属性の行動速度強化『疾風』。迅雷と疾風は一見似通って見えるが、迅雷が行動全般を補助するのに比べ疾風は移動能力に特化している。さらには冷属性の知力・魔力増強『冷徹』、静止属性の防御強化『堅忍』。これも巌の守りに似ているが、巌の守りが物理に強いのに対して堅忍は魔法に強い性質を持つ。そして乾燥属性の戦意発揚『闘争の飢渇』。
これらはブラッドラストも込みで重ねがけが可能だ。効果が被るものは効果が大きいもので上書きになる。たとえばブラッドラストの上から筋力増強系の魔法をかけると筋力の上昇度はより効果の高い魔法のものになるが、ブラッドラストの他の効果は残る。言い換えれば、掛かっている魔法の中でもっとも大きく上昇しているものが選ばれるという事だ。
さらに、魔力上昇の裏技。魔力上昇の魔法も上昇量は魔力依存だ。つまり、魔力を魔法で増強した上でさらに魔力増強の魔法をかければより強力な魔力増強を受けられるのだ。繰り返せば繰り返すほど無限に魔力が増えていく計算になる。夢のような話であるが、現実は甘くはない。
繰り返せば繰り返すほど魔力は増えていくのだが、増加幅はさほど大きくない。そしてもちろん繰り返し魔法を使うにはその回数分の精神力と時間が必要だ。さらには強化された魔法を全力で使うにもその分多大な精神力を消耗する。強化されてもそれで燃え尽きては何の意味もない。そもそも強化だけして攻撃もしないなら燃え尽きる前にやられるに決まってた。
強化魔法を使うとすれば戦闘開始と同時の念魔法、その直後に余裕があればもう一つと言った所か。魔力強化で効果を底上げしてのブラッドラストが最適解なのは間違いない。だがしかし、ブラッドラストを唱える余裕は果たしてあるのだろうか。その余裕がなければ大した魔法も使えないのに魔力だけ強化した状態でグライムスと戦う羽目になる。
少し悩んだが、魔力強化からのブラッドラストに決めた。グライムスが相手ではただのブラッドラストなど気休めにもならないだろう。魔力強化からのブラッドラストに賭けたのだ。
不安は的中し、試合開始と同時にグライムスはいきなり突っ込んできた。
ルスランの得物はこれまでと違い槍――と言うか刃のついた穂先はないのでただの長い棒――である。これまでは動きやすさを重視して剣を選んできたが、今回は本気だ。それならば豪輝が相手の時は本気じゃなかったのかと言う話になるがあれは特別の例外である。あの肉食動物をも襲えるような速い動きでは、槍のアドバンテージであるリーチを活かすどころか動き難さを突かれ瞬時に間合いの内側に入られて為す術を失う。槍より剣の方がいくらかマシだと思えたからこその選択だ。グライムスは豪輝ほど速度に特化していないので近付かれる前に迎え撃てる可能性が僅かにあるし、牽制も有効だろう。なので普通に最も得意な武器を選んだのだ。
しかし牽制する余裕など与えてくれなかった。まあ、そりゃそうだろう。何とか猛攻を凌ぎながらブラッドラストを発動させるしかない。詠唱を強行する。しかしさすがに苦しい。スピードは豪輝ほどではないので動きを目では追えているとは言え、体の方はぎりぎりついて行ける程度だ。そしてパワーは比べるのも烏滸がましい。ばてる前に魔法で強化しないとお話にならないが、余裕など微塵もない。
やけくそで詠唱は続けながら念魔法で閃光の魔法を使ってみた。ちゃんと発動したのにはルスラン自身もびっくりだ。そして実は一番びっくりしていたのは観戦していたアミアだった。アミアは詠唱と念魔法の並行発動という技術を知ってはいた。だが、実用的ではない。口で詠唱しながら頭で別な呪文を念じるのは難しく成功させるのは難しいのだ。目の前の相手とおしゃべりしながら近くでされている噂話に耳を傾けるような芸当をやってのける女性ですらである。
アミアだって練習くらいはしているが、実戦で使える成功率ではない。それなのにルスランは成功させた。ただの念魔法さえもアミアが教えてその手法を知ったくらいだ、並行発動できることも知らなかったはず。
「何でこれでへっぽこ魔力なの、もったいない!」
思わずアミアも叫んでしまったくらいだ。魔力さえまともならすごい魔導師になったかも知れないのだ。もっとも、まぐれでたまたま成功しただけかも知れないので成功したこと自体はさほどすごくない。本当にとんでもないのはできるということを知らない並行発動を、グライムス相手のぎりぎりといえる状況でこれまでの乏しい経験から思いつき、僅かな可能性に賭けて試してみる胆力なのだ。逆に言えばそれだけ追い込まれていたということでもある。
へっぽこ魔力の念魔法でも強化されていただけあって結構な光が放たれた。だが、グライムスには全く通用していない。詠唱すらしていないというのに光が放たれるのを見抜いたらしく発動の刹那に目を閉じていたのだ。魔力の流れ、あるいはいっそ心でも読むことでもできるのだろうか。だとしたら、どうしろというのか。せめてもと目を閉じたところを狙って攻撃を繰り出してみたが、所詮目を閉じたのを認識してからの行動、あっさりと防がれた。こんなのは心を読むまでもない。音だけで察せられる。
しかし、それらも無駄ではない。ブラッドラストを発動させるまでの時間稼ぎにはなった。ルスランとしてはようやくスタートラインに立った感じだ。魔力増強からのブラッドラスト。今までになく強化されたのを実感できる。アミアにこの魔法を掛けてもらったときに迫る感じだ。魔法で強化されてもアミアの魔力に届いていないということでもあるが、相手は一応魔術師を名乗っているしまあそんなものだろう。
折角である。ここから更に次なる強化魔法も狙ってみよう。何を強化するのも悩み所だ。魔力は強化済みだし更に強化しても活かせる気がしないので外しても選択肢は筋力、頑強、敏捷、感覚。命を懸けた戦いならともかく有効打を一撃浴びたら終わりの試合では頑強もさほど役に立たないか。筋力強化でガードを力ずくで突き破るというのもありだが、相手が悪い。巨躯なる筋肉達磨のグライムスに押し勝てる筋力など伝説級の大魔導師にでも掛けてもらわないと得られないだろう。
敏捷か、感覚か。二択まではすぐに絞れたがここからが悩ましい。これらの魔法を授けられたのはいっそ、パパを応援するアミアがルスランを悩ませるべく仕掛けた罠じゃないかとすら思えるほどだ。
このくらいの相手だと感覚というのもかなり重要になるだろう。攻撃の予測が立てられて際どい攻撃も回避できたり、わずかな隙をつくことができたり。だが、何分どんな効果があるのかがぼんやりしすぎていてこの場面で運命を託す気が起こらなかった。あとで、実戦で効果を確認してみるか。そういうことにしてこの場ではわかりやすい敏捷強化を選択した。
問題はその呪文を唱える余裕を捻り出せるかだ。考えを巡らせている間にもグライムスの猛攻をどうにか凌いでいる。使い慣れたブラッドラストならギリギリいけたが、覚えたての呪文を思い出しながらだと少しキツいのではないか。
キツいのなら、このまま状況を打開せずにいれば追い込まれる一方だろう。何せ攻撃する余裕もないのだから。キツくてもやるしかない。これでもブラッドラストのおかげで攻撃には対処できるようになっているのだ。
グライムスの容赦ない一撃をどうにかガードしたが、その衝撃で空中に跳ね上げられた。自由を奪っての追撃狙い。避ければよかったという話だが、それは無茶だ。実際避けようともしたがまるで間に合わなかったのだから。
少し逃げ腰だったおかげでグライムスの想定より大きく吹っ飛ばされたのは幸いであった。極々僅かにではあったが余裕が生まれた。これを無駄にするようでは勝負になど勝てようものか。ただし、このコロシアムでの平常のレベルなら何ら問題ない。今日が異常だ。
一瞬の隙を活かしてルスランは呪文を唱える。「冷徹」が間に合うほどの余裕ではないが、こんな時に便利そうな魔法を先ほどプロケール戦で見かけていた。便利そうだったのでしっかりチェック済みだ。
発動したのは『疾風回避』。突風で自分自身を吹っ飛ばし緊急高速移動する魔法だ。前方に飛ばされるので多少体を捻ってもグライムスに接近することになるが、問題ない。
急に進行方向を反転させたルスランの動きにもグライムスはしっかり反応した。突進攻撃だと判断しはじき返す。確かになにもしなければルスランの木剣はグライムスを捉えていただろう。しかしこれを返される所まで織り込み済みなのだ。
弾き飛ばされたルスランは空中で大きく体勢を崩した。このままでは決定的な隙となる。しかしルスランは瞬時に体勢を立て直し、しかも不可思議な軌道を描いてグライムスの背後に着地した。
ブラストブリンクの効果は大きく分けて二つ。対象を背後からの突風で吹き飛ばす。そして吹っ飛ばされてからの軌道や体勢の制御。ただ吹き飛ばすだけでは地面に顔面からつっこんだり危険な場所に向かっていったりしてしまう。安全に着地できるように空中での制御まで術式に組み込まれているのだ。
その制御は術式のための魔力を使い切るまで有効であり、その間なら途中に魔法以外の要因で軌道や体勢が変わってもそこから立て直せる。空中で剣をぶつけ合って、吹っ飛ばされてもだ。ルスランは最初からグライムスとぶつかり合って弾かれてから体勢を立て直すつもりでブラストブリンクを発動させたのだ。
突然の反転からの突進、そこからあり得ない軌道での着地。それでもグライムスはその動きについてきた。やはり奇手はそうそう通じないようだ。すでにグライムスはルスランに向き直っている。それどころかルスランがとっさの反応をした直後で現況を確認し次の行動を決める隙が大きくなる段階であるうちに動き始めていた。
ここから冷徹を唱える余裕はやはりない。いや、唱えるだけなら間に合う。しかしその直後に正面から力でぶつかり合うことになる。その後に及んで冷徹が何の役に立つのか。それよりはつっこんでくるグライムスを何とかすべきだ。
ルスランがブラストブリンクを覚えてきたのはもちろんアミアの入れ知恵による。マニアックな魔法だが、それ故にアミア好みでバッチリ際物魔法コレクションに入っていたのだ。あの時プロケールが使ったもう一つの魔法も然り。この土壇場でルスランが使ったのはその『無慈悲なる風』であった。木剣が打ち合う音と同時に突風が吹き抜け、その先で激しく渦巻いた。……グライムスの背後で。ルスランのへっぽこ魔力では恐ろしいまでの膂力をもって突き進むグライムスを押し返すほどの威力は出せなかったのだった。先に冷徹が間に合えば、ルスランの膂力と合わせて押し止めるくらいはできたのだろうが……。
押し切られたルスランはそのまま場外まで押し出された。振り返ってみても作戦的な瑕疵は思い当たらない。これ以上の手は打てなかっただろう。単純に力が及んでいなかったのだ。奇跡が起きれば勝てたかもしれないが妥当な結果。痛い目には遭わずに済んだだけマシだと思おう。
一番手痛い目に遭っているのはちょっと見せただけの奥の手をあっさりと真似られて頭を抱えているプロケールなのだが、そんなのは誰も気にしていないのだった。
優勝したグライムスにはもう一勝負待っている。ロエル将軍とのエキシビションマッチだ。
「おまえ、魔法なんか使えたんだな」
ウォーミングアップ中のロエルがグライムスに声をかけた。
「一応公国人ですのでね。軍団の中では使うだけ無駄って程度ですが、協調性のない傭兵集団の中では個人の力が全てです。使えるものは何でも使わないと。まあ、女房の影響もありますがね」
「わははは!俺は魔法なぞ使わぬが、気にせず全力で来い。久々に骨のある奴とやり合えそうだからな!」
「ラウラあたりならそこそこやり合えそうなものですがね」
「俺は女相手に本気はだせんよ。と言うか、昔のイメージが悪すぎて未だに避けられてるんだわ」
ラウラは生まれが高貴なだけに見た目によらずなかなかに高潔かつ潔癖で、女癖の悪いロエルがあまり好きではないのである。
「聞こえてるんだよエロロエル!昔のイメージどころか今だって性根は変わってないだろ!」
高貴なるラウラの怒声でロエルのゴーレムは肩をすくめた。冒険者となって久しいラウラは心持ちは高貴なままでも態度はすっかり粗野と言って差し支えない地を剥き出しである。
そんな一幕もありつつ、程なくエキシビションマッチが始まった。
開幕早々激しい打ち合い。
「さすが将軍、お強いですなあ!まさかこれほど動けるとは思いませんでしたぞ」
「若い頃を上回る身体能力を出せるからな!おまえは俺が前線で戦っていた頃も知らぬだろうよ……って話を振っといて聞かないとかあり得ぬわ、俺をナメとるのか」
グライムスは会話の隙に呪文の詠唱を始めていた。
「これは失礼、話を振ったわけではなく世辞を述べただけのつもりでしたので」
ツッコミのように繰り出されたロエルの一撃から応酬が再開される。グライムスには敏捷性強化の魔法が発動しており、動きが鋭くなっている。
「それにしても若返れるというのはいい話ですな」
「ふん。戦うことしかできぬ人形であまり楽しみもないがな」
「女遊びができないのが不満ですか」
「その通りだがわざわざ言うことか?おまえ歳をとってふてぶてしくなったな!」
「もう精神的には同い年くらいでしょう」
「魂だけになって成長が止まるとでも?こうなってもあらたな知識や経験経験は蓄積していくのだ。脳味噌もなくなっててどこに入っていくのかはさっぱり分からぬがな」
「そりゃもちろん魂でしょうに。しかし、生きている間はゴーレムには入れないのでしょう?生きてる方が不利っていうのは納得いきませんなあ」
「生きている間は肉体を鍛えればよかろう」
「もう衰えていくばかりですがね」
軽口を叩き合いながら壮絶な死闘が繰り広げられている。会話を聞いていられるのは、ルスランのようなこの動きについていける者か、動きを見るのを諦めて音だけ拾っている者くらいだ。
そのルスランもグライムスの戦いぶりにこれは人間じゃないななどと思っているのだが、他の人から見ればそのグライムスとそこそこいい勝負をしていたルスランも同類である。
「そして、この体は疲れ知らずだ。戦いが長引けば長引くほど有利なのだ!」
勝ち誇るロエルだが、実は想定外のことが起こっていたのである。激しい攻撃の応酬、その衝撃により微かに生じる関節部などの緩みが徐々に蓄積し始めていた。疲労により鈍くなる生身のグライムス同様、ロエルの動きも鈍っていた。
グライムスは自分の疲労に気付ける。むしろ疲労に耐えながら戦っていた。一方ロエルはゴーレムの変調に気付けなかった。人間の能力を超越したゴーレムは人間相手にこれほど激しい戦いを、これほど長く続けたことなどない。このようなことが起こるという経験がなかったのだ。
ロエルとて、自分の動きがおかしくなってくればさすがに気付く。だが、グライムスだって気付くのだ。悲鳴を上げる肉体に鞭打ち一気呵成に猛攻を叩き込むグライムス。それによりロエルのゴーレムはいよいよもって調子を崩した。防御さえおぼつかなくなり――。
「勝負ありぃ!勝者、挑戦者グライムスゥ・ホオォォムドオオォォ!」
「おー。すげー」
「パパつよーい」
エキシビションマッチで挑戦者が勝つことなど、ゴーレムの性能が上がった近年にはとんとなかったという事情を知らぬルスランとアミアがお気楽な感想を述べる以外、誰も声を発しない。怒濤のような歓声が沸き起こるまで数呼吸ほど要したのだった。
ラウラが用が済んだらうちのチームに入れというグライムスへの勧誘に本腰を入れる中、港に魔竜船の到着が迫る。
グライムスやルスランの熱心なファンが港にまでついてきており、夕闇に包まれた港は人でごった返している。もちろん見るからに厳つい連中ばかりである。見目麗しき人もいるものの装備は物々しい。例えばカンナなどもその一例である。
実はカンナはルスランたちに同行しようとしていたのだ。その理由はもちろん無月闇霧のことである。
「闇無がグライムス殿を狙っているのであれば、グライムス殿に同行すればきっとまた彼奴とまみえる時が来ましょう」
グライムスが迷惑でなければとのことだったが、それは大丈夫そうだった。
「俺は別に構わん」
しかし、何となくだが主に面倒を見るのはルスランのような気がしてならなかった。なのでルスランとしては自分の意思も確認して欲しかったのだが無情である。そしてその無情にルスランもまた無情で返した。
「もちろん船賃は自腹だよな」
「はわっ!?」
慌てて財布の中を確認するカンナ。アミアが横からフォローする。
「奢ってあげればいいじゃない」
「食事一回とは値段が段違いなんだぞ!?」
「いいじゃないの、コロシアムでたっぷり稼いだんでしょ?」
「それはそうだが……しかしそれとこれは」
そこにすっと手を差し出すカンナ。
「それほどまでの貸しを作るのは私としても望むところではない。ともすれば純潔を捧げる覚悟が要るではないか」
この発言にリアクションする覚悟のないルスランの代わりに、アミアがガールズトークとして引き継いだ。
「それは流石に純潔安すぎない?」
その点は相手にもよるのだ。ルスランなら安売りしちゃってもいいかなと思えないこともないわけだが、もちろんそんなこと恥ずかしくて言えたものではない。
「ま、まあ。他に返せそうな当てもないのだし」
「普通に何かあった時に手を貸してくれてもいいんだぞ。まあ無難なのは奢りじゃなくて借金ってことにしておくことだろうな」
ルスランの言葉に尻込みするカンナ。
「ううう。うちの道場が借金で苦しんでいるのを見ているのだぞ。あれを見ると借金などする気が起こらぬ」
「いいことじゃないの」
「身売りにせよ借金にせよ、復讐のためとはいえあんな奴のためにそこまでしたいとは思わぬ。奴がグライムス殿の所に確実に現れるかは分からぬし」
むしろ、連中だって魔竜船に乗ってまでグライムスを追おうとは思わないのではないか。ならば、ここに残った方が出会う確率も普通に高いだろう。
「と言うか、俺がそんな悪党みたいな金利を取ると思ってんのかよ。酷い話だ」
「それもそうか。とは言ってもなぁ。私は死も恐れぬ覚悟は出来ている。だが、お化けと借金は怖い」
真顔で言い放つカンナ。復讐への熱意も借金の前では揺らぐようであった。
「いよう、賑やかだね」
そこににこやかに声を掛けてきたのはすっかり見慣れたゴードンであった。
「なあに、見送り?」
アミアもにこやかに答える。ルスランはこいつがこっちに声を掛けてきたのはグライムスが既に塞がっているからか、それを口実に若い娘に声を掛けたかったのだろうと邪推する。ネルサイアと同列に見すぎである。まあ、間違っていないのだが。
「そう思うだろ?違うんだよなあ。同行取材さ、旦那が動いたんなら何も起こらねえってこたぁねえだろ?」
「そりゃあね?何かあるから動くんだし、何かしに行くわけだしね」
「あっちでもちょうど何かとんでもない出来事が起こってるみたいでね。混乱が酷すぎて情報が入ってこないからそれも調べたいし、どうせ関連があるだろうから一緒にな」
「ちょっと待て。とんでもないことって、何が起こってるんだ」
これから行くところでとんでもないことが起こっているなら、当然それを聞いておきたいルスラン。
「天変地異とか新たなる神話とか言われてるみたいだが、具体的にはさっぱりだ。今現地の方では近付ける状況かどうかを調査中らしい」
「うわあ、行きたくねえ……。って言うかそれを知っててよく行く気になるなあんた」
「そういう仕事だからな」
まあ、ルスランだって余所だから行きたくないだけであって、自国でそんなことになったら仕事だし詳細も聞かずに飛び出すだろう。そして、横で黙って聞いていたカンナも同行を断念してよかったと思えたのだった。
そんな話をしている間に魔竜船が港にやってきた。港といっても海ではなく、下流では大河に注ぐがこの辺りでは曲がりくねる狭い川であるバルドラグ川をせき止めて作られた人工湖にある。魔峰ヴィストから流れてくるマナの豊富な水が湛えられていて、湖全体がぼんやりと燐光を放っている。幽霊の肉片のようなものだというマナがこれだけあるとなるとうっかり落ちたら呪われそうだ。それに飲んだら体に悪そうである。だがしかし、もう少し上流で採取された澄んだ水であれば魔力回復の薬として結構多くの人に飲まれている川だったりする。
海のないフォーデラスト――ラブラシスもだが――では見られない大きな船がこちらに向かってくる。それだけでも度肝を抜かれるが、驚くべきはこの巨大な船が宙に浮いていることだ。海も大河もないラブラシスから大量の旅客や荷物を運ぶために開発された魔竜船は天翔る船なのである。――というのはちょっと大げさだ。実際は地面のちょっと上に浮かんでる程度。本気を出せば飛べるが、運用コスト的に飛空船ではなく浮遊船として運用されている。
低空飛行なら直接水面からマナを供給できる、マナの豊富な川の上を行くからこその合理的な使い方だ。通るのは川の上ばかりではないが、その時に使うマナも川から吸い上げて溜めてある。運用コストはほとんど掛かっていないのだ。だからこそ、開発費や船の建造費が償却できたら船賃は大幅に下がり、改良も進んだ。それにより利用者も増え今や儲かってしょうがないのである。
非常に残念なのはフォーデラスト方面の航路が開かれる目処が立たないことだ。フォーデラスト方面は地形が険しく、魔竜船の飛行能力では厳しい場所が何カ所かある。迂回すれば何とかなるがそれでは速さという魔竜船の強みが活きない。馬で最短距離を行く方が早いのだ。かつて王国が侵略国だった時代、ラブラシスが王国相手に粘れた強みが今は足を引っ張っているのである。
船は港についた。ダム湖にゆっくりと着水し、桟橋に停泊する。間近でみると思った以上にとんでもない。公国すげえな、度肝を抜かれるルスランだった。
長い道のりだった。
このほんの数日の船旅ではない。ここに至るまでの苦節の年月である。
ムハイミン・アルマリカ。メラドカイン帝国が打ち倒されたときに残った帝国軍重鎮、特に帝国魔術師団の六司祭を中心に結成された帝国再興を目指す組織。
旧帝国領や王国・公国内で破壊活動や略奪を行うテロ組織だと思われているが、その目的については知られていない。最終目標は帝国の再興だが、そのためには旗印となる指導者・皇帝が必要である。
皇帝は討ち果たされた。共闘していた魔王ベルゼブルと融合までしてなお勇者と精霊の巫女そして勇猛なる王国軍と叡智ある公国軍に勝てなかったのである。しかし、命運は尽きてなかった。魔王と融合したのは無駄ではなかったのである。
戦争終結後、帝国に刃向かった敵には魔王の呪いが降りかかった。子を生そうとすれば生まれてくるのはベルゼブルの子である蛆であり、双子たる胎児と母親の腹の中を食い荒らし食い破る。それにより多くの英雄と呼ばれた女傑たちが死んだ。
呪いの発現にも不測の問題が起こった上、原因が究明され解呪の法が判明すれば解決したし、生まれた蛆など魔物としてもあまりにも弱くほとんどがその場で駆除された。
しかし、蛆を回収する方法はいくつかあった。例えば、ムハイミン・アルマリカの管理下で蛆を誕生させる。蛆がまだ母親にも気づかれず胎児を喰らっている間に母親の身柄を確保したり、女英雄を捕らえてはらませたり。男の英雄なら生け贄となる女性を言い寄らせてもよい。
そうやって集めた蛆を共食いさせて強大な個体を作り出した。その蛆を依り代としてベルゼブルは融合していた皇帝ともども受肉した。それはベルゼブルにとっていつもの復活法であった。
呪いの対策が思いの外早く見つけられ迅速に対処されたせいで復活も不完全だったが、復活さえすればいくらでも手段はある。ましてムハイミン・アルマリカという手先もいるのである。
しかし、苦難は多かった。特に、グライムス・ホームドという公国兵上がりの傭兵が厄介であった。連邦小国・ラマタングルスの地下組織と共謀して周辺諸国から蛆の苗床になる女を攫っていたのが発覚し、隣国ミルハブで進行していた地方都市の乗っ取りを阻止されたうえラマタングルスが攻め込まれた、後にミルハブ事変と呼ばれる出来事でマジディ大師が討たれた。この一件で呪いの秘密まで解き明かされ、ベルゼブルの完全復活をひとまず諦めることになったのだ。
ベルゼブルは自身の完全復活のためにサタンの復活を望んでおり、それに協力することになった。サタンの力も借りられるのであれば帝国は以前よりも強大になる。勇者の力の源にもなっていた精霊たちにも打ち勝てる。
サタンは封印の際に4つのセグメントに分割され、それでも荒れ狂う力を抑え込むべく精霊と共に宝珠に封じられた。宝珠の情報を集めるのは容易かったが、守りは堅い。宝珠のうち3つは敵国にあり、ただ一つメラドカイン連邦内にある宝珠もサラマンドラに従属する精霊たちが守護しているのだ。それに宝珠を奪えたとしても宝珠の封印を解かねばならない。
手始めに手を付けたのはバナザードでお仕置きの強制労働を食らっていたジンたちの奪取だ。下っ端で忠誠心も低い、調伏されたてのジンを狙ったのだ。監視役のイーフリートが目を離した隙をついて実行した不意を突いてジンたちを壷の中に封印し運び去る作戦は、完璧ではなくともうまく行った部類だろう。
封印した壷の運び出しのさなかにグライムスを含む討伐隊に襲われ半数ほどが奪還されたが、人的被害は小さかった。もっとも、この頃からグライムスに苦手意識が生まれ始めていたと思う。
封印された壷から出されたジンたちは、壷から出すとすっかりしおらしくなっており、封印したのが封印を解いた者の仲間であるマッチポンプだとも知らずに非常に協力的になってくれた。そして、各地で封印されている不良ジンの封印場所の情報を引き出し、封印された壷をかき集めた。すべてはシャイターン計画のためである。そのせいで完全にイーフリートたちに目をつけられ、しまいにはルグニッチにあった当時の本部も壊滅させられた。折角集めたジンの壷も半分ほどが奪い返されたり散逸した。
当初は調伏したジンの力を借りて火の宝珠の封印を真っ先に破るつもりであったが、連邦内ですらこのざまであり難航した。時間を掛け過ぎてイーフリートらの警戒も厳しくなり、さらに雌伏の時が延びに延びたのである。その間に六司祭の一人アザヒリまでもがグライムスによって討たれた。この頃にはグライムスはムハイミン・アルマリカにとって天敵であるという認識が内外で高まっていた。
やむなく計画を変更し、警戒されたら手が出せなくなるフォーデラスト王国にある宝珠から狙うことにするも、その準備も難航した。それでも着実に前に進めていたのは、いつの間にかグライムスが傭兵から足を洗ってどこかに隠遁していたおかげだろう。苦節20年、ようやく計画は動き出した。
そして、ついに最初の宝珠の封印が解かれた。宝珠のある城の地下でひそかに解呪の儀式を行い、封印が解けた混乱に乗じて奪い去る。これもうまく行った。しかし、その直後に問題が発生する。ラブラシス公国での作戦展開の準備のために立ち寄ったアルトールと言う田舎町で、怨敵のグライムスに遭遇したのである。
どうにかその場は切り抜けたものの、この大事な時にグライムスが動き出したという知らせが届く――。
準備不十分のまま連邦内での最後の計画を強行した。不測のトラブルに立て続けに見舞われ多くの犠牲を払いながらも目的は果たせた。這々の体で公国を目指す。
そしてズルキフリは絶望した。折り返し便に乗るという話は聞いていたので発着場にグライムスがいたのは想定内だ。ここを涼しい顔で通り抜ければ先に公国に潜伏している仲間たちと合流できる。しかし、そこには屈強な戦士たち、いかにもな魔術師たちが犇めいていたのだ。
子細は聞かされていないがこちらに潜伏していた仲間たちがグライムスを討ち取ろうと動き、しくじったと聞いている。被害は下っ端が切り崩されただけだとのことだが、その後どうなったかは連絡がない。
こちらで待っていたはずの仲間は全滅、そして後は我々を駆逐すれば連邦に置き去りにした下っ端だけ――そんな最悪のシナリオが脳裏をよぎった。
集まった戦士たちが単なるグライムスの見送りで、グライムスも戦士たちも彼らの正体に気付いていないと察したときには神は彼らを見放していないと祈りたい気分になったものである。
斯くて、無事にムハイミン・アルマリカの主要メンバーはラブラシスの地で集結した。後は最後まで計画を進めるのみ。しかしまだ今は魔力が集まっていない。それ以上に精神的に疲れ切っていて何かをする気が起こらないのであった。
魔龍船が着水し、桟橋に乗客が降りてきた。続いて船員たちが積み荷や交換されたシーツ、空箱空樽やゴミなどを運び出し、新たな積み荷を載せて簡単なメンテナンスを行う。その間に新たな客は搭乗手続きを行い、割り当てられた客室に案内される。
降りてきたいかにも連邦の民族衣装を着た商人風の一団は、港を埋め尽くす厳つい面々に気圧されたかとても居心地が悪そうにしている。申し訳ない気分になるルスラン。
「調子悪そうね、今の客。乗り心地は良くなったって言うけど、あくまでも昔と比べてなんでしょ?大丈夫かしら」
ああ、そういうこともあるのか。アミアの言葉を聞いてそう思うルスランだが、それはそれでこれからの船旅が思いやられる。乗り心地が悪いよりは勝手に付いてきた見送りが迷惑をかけただけの方がマシだろう。しかしアミアの言葉をゴードンは即座に否定した。
「いやいや、海の上の船より乗り心地は上のはずだぜ。マナ酔いじゃねーの?」
エルフの血が薄い人間は急にマナの濃い所に来ると気分が悪くなることがある。魔竜船にいたってはマナの濃い川を辿ってくるのだ。連邦からの乗客にはマナ酔いを起こす客もいるのだ。
正しいかどうかはともかく降りた乗客の様子がおかしかったことには説明がついた。そうこうしている間にもその客は港から姿を消しているし、もうこうなるとどうでも良かった。
こうして、ルスランたちはムハイミン・アルマリカの一派を見過ごした。これが後々大問題となる――ことはない。このズルキフリの一派がここで仕留められずに本隊と合流しようが、多少有能な人手が増えるだけ。炎の宝珠も万が一に備えて配送業者に預けてあり、魔導バイク便でズルキフリたちより早く本隊の元に届く。
ここでズルキフリを討ち取ることに意味はない。あとで一網打尽にした方が手間が少ないだろう。むしろ、宝珠の行方の方が重要なのである。