ラブラシス魔界編

28.灼熱のムンシャ・アフマル

 いくらお洒落にデコレーションされていても蛇は蛇である。うねる体にしがみつかねばならなず乗り心地も良いとは言えない、そもそも何で最初にこんなものに乗ろうと思ったのかと言いたくなるサンドサーペントのタクシーが普通に利用されているのかというと、それは純粋に速いからであった。滑るように砂上を移動するサンドサーペントはラクダよりも圧倒的に速い。砂上の移動手段としては上々なのである。もちろん、速度だけの話だ。乗り心地は罰ゲームであるのは言うまでもない。
 元々は軍用として使用が始まった騎乗用サンドサーペントだが、平常時に荷運びや旅客用に開放されると、乗れる人は限られるとは言え──もちろん度胸でである──その速さやパワー、そして遭遇した野獣が逃げていくという安全性からも緩やかに利用者が広まっていった。特に、町から町への移動に大きな力を発揮する。物好きな観光客の度胸試しとしてもそこそこの人気だ。近年では魔導機械の乗り物がその立場を脅かしつつあるものの、マナが希薄なこの地ではまだサンドサーペントの方が調達しやすい。根強く利用されている。
 乗りたい人は乗ればいい。だが、乗りたくないのに選択肢がこれしかないという事態は嫌すぎる。かと言って、駆逐してしまっては蛇遣い達の雇用問題になるし、要らなくなった蛇が野放しになる恐れがある。魔導機械の乗り物の普及推進とそれに必要なマナ供給手段の確立。蛇遣いとの共存を図るためのバランシング。課題はこんな所だ。……などと言うことを、今蛇にしがみついているという現実から目を反らすために真剣に考えているうちに、目的地が見えてきた。今なお盛大に炎と共に煙を巻き上げる町並みは巨大な狼煙のような物である。遠くからであろうがいやが上にも目立つ。
 ある程度近付くと、この恐ろしい蛇すら炎を怖がって近付かなくなってしまった。しかし、ここまで来れば充分である。移動も、蛇に跨がるのも。よく頑張ったと言ってやりたい。ここまで来てくれた大蛇にも、ここまで我慢した自分にも。エイダにしてみれば蛇よりは炎のほうが怖くない。
 それにしても。この町で何が起こっているのだろうか。
 ムンシャ・アフマル。交易の拠点の一つでもあるこの町は小さいながらも賑やかな町であったという。そしてサンドサーペントの養成基地でもある。因って、辺りには炎で焼け出され逃げてきたサンドサーペントがうじゃうじゃいた。炎に包まれた町以上に地獄絵図である。関わらないようにして町まで急ぐ。所々に逃げ延びた人々が呆然と立ち尽くしている。更に近付くと、熱風が吹きつけてきた。
 砂漠の只中とは言え人が住める町だ。水は豊富に確保されている。そして、この様子だともうこの町は再建するまでは住めまい。生活用水だろうが何だろうが、残りも気にせずに使うことが出来る。エイダとマリーナは魔法で辺りに水を撒き散らした。水をかけた所は火勢が落ち着いていく。それはつまり魔法の炎ではない、ただの炎だという事。これは普通の大火のようだ。それでもここで炎の魔力が荒れ狂っているのは間違いない。恐らく、その魔力によって起こった炎が広がったのだろう。魔力は町の、そして炎の中心から感じられる。この魔力の正体を掴むには、この炎の中をどうにか進まねばならない。
 マイデルの魔法でブリザードが吹き荒れ炎を吹き消し、熱気も薄らいだ。更にマリーナによってウンディーネが呼び出された。ウンディーネくらいになると、エイダ達が撒いて炎の熱で蒸散した水をかき集めて再び水を生み出すことが出来る。
「むう。ここまで派手に燃えているなると、建物は押し流して取っ払い道を作った方が早いかも知れん」
 人の家を流してしまえと提案するマイデル。だが、確かにもう住めるわけで無し。それが手っ取り早いかも知れない。ならば、全力で行こう。
 ……と、その時。
「おおお!姐さん、おいでくださいましたか!」
 野太い男の声がした。マリーナの知り合いか……いや。声の主は、人ではなかった。筋骨隆々たる男の姿をしているがその足下は煙となって白く霞み、全身が赤く光りながら朧に透けている。炎が人の形を取っているかのようなその姿。
 それはたちまち炎と化し、風のように駆け抜けながらウンディーネに迫ると再び姿を現し、ウンディーネの手をぎゅっと握った。いや、ぎゅっとではない。じゅっとだ。辺りに蒸気が立ちこめる。
「きゃあ、熱いっ。暑苦しいっ」
「おっと、これは失礼」
 炎の人は手を引っ込めた。
 炎のジンの百人隊長、イーフリート。他の面々は顔なじみだが、エイダはもちろん初めてお目にかかる。
「いい所に来てくれたわ。これ、どういうことなのか説明して頂戴」
 一旦安全で涼しい場所に移動したところで、まだ湯気を上げている手に息を吹きかけながらウンディーネが言う。
「御意ッ!」
 何の意味があるのか、筋肉を見せつけるようなポーズを取りながらイーフリートが話を始めた。本当に暑苦しい。
 やはり、この事件も首謀者はムハイミン・アルマリカであった。そもそもの話の始まりは大分前に遡る。
 イーフリートを中心とした炎のジン百人隊は、その名の通りきっかり百人のメンバーで構成されている。だが、実際に現在活動しているのはその半数程度でしかない。ジンは元々自由な存在であり、イーフリートが百人隊を結成しようと決意した折、その中から炎の属性を持つものを頑張って100集めた。しかし、中には不良まがいの連中も混ざっており、そのような輩は何かやらかしてはお仕置きとしてツボに閉じ込められることも度々だ。
 そして、ムハイミン・アルマリカはそれに目を付けた。お仕置き中のジンが封じられたツボを盗み出し、人質とした。ただの人質ではなく、実験材料でもある。そんな実験の一つ、その結果がこの有様と言うことである。
「ほら、姐さんと一緒に寝てたサタン……」
「その言い方やめて。私がおじさまといけないことをしてたような感じになるじゃないの」
 ウンディーネはサタンの断片を自分の身をもって封印していたのである。まあ、その間は寝ているような状態ではある。
「すんません。まあ、とにかくそのサタンの一部分ですな。それを、あろう事かジン共に移植して精神汚染させようと企んだのですよ、奴らは」
 イーフリートは元々燃えてはいるが、思い出したことで怒りの炎がふつふつと沸き起こってきたようである。
「壷入り組はまあ、出来の悪い連中ではありますがね。だからこそ可愛いって言うのも……」
「ええと。その辺りはあとでゆっくり聞くから」
「へい」
 さすがはウンディーネである。差すべき所にしっかりと水を差す。と言うか、イーフリートは喋りながらこまめにポーズを変えるのが見ていて暑苦しい。
「サタンの断片を植え付けたと言っても、さすがにその全てを丸ごとってことはないでしょう?こうして感じられる魔力……。ジン百人隊と、サタンの断片。その二つをあわせたものよりも随分と大きな魔力に感じるわ」
「ええ、その通りで。実験自体は、割としょぼい結果に終わったんですよ。元々素行の悪いジン共が、もっとタチの悪い性格になった……そのくらいで、力自体は増えた訳じゃあありません。ただ、そいつらが暴れ始まったら、それに引きつけられたのかとんでもないものが呼び出されちまいまして」
「とんでもないもの……?一体それは?」
「それが、さっぱり。我々も知らなければ、ムハイミン・アルマリカの連中さえも何にも知らないって言う。ああ、連中はあっちの方にふん縛ってあるんですがね」
 ムハイミン・アルマリカの連中は、最初こそシャイターンと呼ばれる暴れ回る汚染ジン達を上機嫌でけしかけていたのだが、様子がおかしくなるや真っ先に逃げ惑った。異変のど真ん中にいたのだから無理もない。そうして逃げ惑っている所を捕らえられたり、逃げ果せて呆気にとられている所を取り押さえられたりし、今は一箇所にまとめてふん縛られている。
 そんな彼らに話を聞いてみても、これはまったく想定外の事態のようである。
「この炎の魔力……サタンとは無関係ですね。サタンの気配を感じません。むしろ、もっと悪質な感じがします」
 サタンより悪質というのがそもそも想像できないが、とにかくとんでもないことに首を突っ込もうとしていることだけは分かった。
「それで……あの炎の向こうがどうなっているか、あなたたちは見たのかしら?」
 炎のジン達にはもちろん炎は殆ど通用しない。あの業火の中を素通りできる。それどころかおなかがすいてたら食べて補給すらできるのだ
「ええ。得体の知れない炎の塊がじっと浮かんでるだけで。吸い込まれそうになったので慌てて逃げてきたんでそれ以上のことは……。なんだか見た目はメタトロン様に似てはいるんですが……別もんですな」
 メタトロンは炎の天使であり、普段は優しいが怒らせると怖いのでジンたちは逆らえないのである。そのメタトロンが居てくれればこんな騒動はあっという間に片付きそうではあるが、もちろん暇ではない。今回はこちらで対処する必要がありそうだ。
 マリーナとマイデルはイーフリートの話をもとに、すべきことをまとめ始める。
「謎の炎って、炎を吸い込むの?つまりその得体の知れない存在は、この火災の炎を吸い込んで更に巨大化するかも知れないって事よね……」
「それは明らかに厄介だな。だが丁度いい、その得体の知れぬ存在とやらの力の源にならぬようそこいらで燃えさかる鬱陶しい火を手段を選ばず消す口実が出来たというものよ。綺麗さっぱり、消し去ってやろうではないか!」
 この言い方からするに、消すのは炎のみならず。町そのものを消し去る気満々であろう。いや、最早ここに町はあるまい。炎がこのまま収まったとして、残るのは焼け跡、もしくは焼け野原だ。
 ならば、思う存分やってやろうではないか。

 冷気魔法の使い手でありながら炎のように血気盛んなマイデル老師は今すぐにでも突っ込みたそうだが、まずは状況を把握することから始める。
「行け、ミカール!」
「任せな!」
 イーフリートに命じられてミカールという女性のジンが美しい炎の翼を広げた。紅蓮の炎の髪が揺れ、豊かな乳もまた揺れる。乙女のエイダとしては、胸は隠さないのかな、恥ずかしくないのかななどと考えたりもするのだが、服を着ても燃えるだけなので諦めているのである。
 ミカールが空に舞い上がると、程なく目の前の地面に炎の円が現れた。これは何、と思うエイダだが、すぐに意味を理解する。これは、ミカールが俯瞰したこの町の様子なのだ。ほぼ円形に広がる町は、余すところなく炎に包まれている。そんな町の中心に不思議な場所があった。ぽっかりと黒い穴のように炎のない場所があり、その縁の部分では際だって明るい炎が燃えている。まるで、皆既日食の終わりに見られる太陽の光のようだ。
「この光が話にあった炎ね。で、暗い所は……恐らく、燃え尽きたか炎を吸われて消えた跡」
 マリーナの言葉にマイデルが頷く。
「つまり、町の中央を目指して進めば良いわけだな。では、始めるぞ!」
 真っ先に飛び込んでいったのは炎のジン達だ。さすが炎の精霊、炎に突っ込んで行ってもなんともない。そして、ジン達は炎を吸い込み始めた。その辺りでは火勢が弱まる。
「うえっぷ。もう食えねえ……。吐いていいっすか」
 炎なのに、腹に溜まるようである。
「バッキャロウ。気合いが足りねえ!……いや、しかし思った以上に中身の濃い炎ではあるか……。よし、折角だし炎の結晶を造るぞ」
 その号令を受け、ジン達は炎ではなく辺りの砂を吸い込み始めた。
「何をしているんですか?」
 エイダはマイデルとマリーナに問いかける。
「砂漠の砂に含まれる水晶の成分に、吸い込んだ炎の魔力を閉じ込めて結晶を造るのよ。……それにしても、荒っぽい方法ねぇ」
 どうやら、腹の中の炎で砂に含まれる水晶の元を融かして精製する所から行えるようである。炎だからこそ出来る方法であり、確かに荒っぽい。しかし、砂は別腹らしく先程満腹を訴えていたジンもすごい勢いで砂を吸い込み、そして腹の中の炎が結晶化して嵩が減ったらしくまた炎を吸い込み始めた。
 ジン達が食い散らかして火勢は大分衰えた。今度はエイダ達の出番である。
 エイダの魔法により、辺りに雨が降り注ぐ。その水量に驚いたのは、マイデルやマリーナだけではない。エイダ自身も自分の目を疑った。
 エイダはこれまで魔法に関して英才教育を受け、マナの水まで飲んで育ってきた。そうして魔力を高めていたがただでさえ全力の魔法など使うことはない。そこに来て、魂の内に祖父である大賢者アドウェンを取り込み、ウンディーネの加護で水の魔力が高まっているのだ。それで全力の水の魔法を使えば、とんでもないことになる。砂漠の町に降り注いだのは、スコールさえ生ぬるく感じるような言うなれば滝であった。「多少の雨なら気にしないので我々のことは気にせずやっちまってください」と豪語していたジン達も、さすがに避難を始めた。尻に火のついたような全力でである。
「折角ですんで、今のうちに腹の中の結晶を出してきちまいます」
「あ。俺も俺も」
 ジン達はそのまま物陰に引っ込んでいった。腹の中で精製された炎の結晶を、外に出すのだ。吐き出すのか、ひり出すのか。どちらにしてもあまり想像したくない。
 魔法で使われる水は、もちろん無から生み出されるわけでは無い。魔法と言えどその結果もある程度は自然界の法則に基づいている。水を操る精霊達が術者の呼びかけに応えて周りにある水をかき集めて運んでくるのだ。町故に生活のために必要な水が豊かに存在してはいたが、それでもやはり砂漠の町。その量はさほどでもなかったおかげで、バケツをひっくり返したような雨はバケツが空になるくらいの時間で途切れた。
 炎は消え去り、すっかり冷えた地面を踏み先に進む。再び炎が近付いた所で、ミカールが再び状況を調べに行った。しかし、少し舞い上がった所ですぐに引き返してくる。
「大変だ、親玉がこっちに来るよッ!」
「おおう。考えてみりゃあ、あれに親玉って言う呼び方はぴったりすぎて笑えてくるなぁ。……しかしどうやら、こちらから出向く手間が省けたようだぜ。……ってな訳で。俺たちは吸われたらかなわんので、後は姐さん方にお任せしますぜ!」
「ええー……」
 泣きそうになるウンディーネを残し、ジン達は……逃げた、と言うべきだろう。
「あっしら、その辺で火消しを続けてますんで!」
 親玉とやらの場所に行くための火消しであり、それをこの状況で継続する意味はないと思うのだが。そんなことを考えていると、突如状況が変化した。親玉とやらの、ご登場である。

 辺りを取り囲んでいた炎の壁の一部が突如削り取られるように消失した。まさに削り取り、そして吸い込んでいるのだ。吸い込んでいるのは言うまでもなく、親玉と呼ばれた謎の存在。確かに親玉というに相応しい、見事な玉っぷりであった。そこに浮かんでいたのは、完全なる球体をした炎の塊。
「ふむう。確かに得体の知れん存在だのう」
 謎の存在の動きが止まった。そして、その炎の球体に一筋の線が入る。
 何か来る。エイダは水の防壁を張る準備をした。が、その詠唱を完遂することなく中断させられた。炎の球体に生じた一筋の線はやおらグワリと広がり、その筋が一体何なのかをエイダ達に理解させた。
 現れたのは巨大な目。その球体は眼球であり、炎は瞼。
 突然現れた目に、エイダは怯んで詠唱を続けることが出来なかった。悲鳴まで上げ、一番近くにいた誰かに縋り付こうとする。その一番近くにいた誰かもまた悲鳴を上げながら同じ事をしようとした。だが、それはウンディーネであった。実体を持たないものに縋り付こうとしても空しく素通りするだけ。だがそれでもウンディーネと触れ合えぬ身を寄せ合いながら、炎の目から目を逸らすことが出来ずに硬直し続ける。
 虚空を睨んでいた目が、ゆっくりとエイダ達に向いた瞬間。臨界が訪れた。エイダの恐怖の臨界である。エイダの中の何かが弾け飛び、同時に詠唱を開始していた。水魔法の基本であり準備段階とも言える、周囲より水をかき集める呪文。目標地点は眼前で燃えさかる謎の存在。その効果範囲はムンシャ・アフマル全体、果てはその町外れにまで及び、町の周囲に逃げ延びた人々の体からさえも水を奪い急激な喉の渇きに襲われることとなる。
 かき集められた水の量はそのまま放出すればムンシャ・アフマルの町を押し流し更地にするのに充分な量だった。だが、水はあくまでも対象地点に留まろうとする。きょろきょろと目を動かす炎の塊を、すっぽりとそして分厚く取り囲んだ。忙しなく動き回る目も見て取れなくなり、燃えさかっていた炎も水の中で揺らぐ朧な光となった。
 しかし光は、炎は消えることはなかった。かき集められた水の塊が、俄に膨れあがった。沸騰が始まったのである。範囲が収縮したことでかき集める力が強くなった魔力により押さえつけられ、吹き上がった水蒸気も再び水として塊の中に戻される。それでも、炎は燃え続けている。小さな火の玉がいくつか水塊を突き抜けて飛び出してきたくらいで、泡立つ水塊と辺りに漂う熱霧で謎の炎がどうなったのかはまったく見えなくなっている。
「よおし、そのまま……そのままだっ!」
 マイデルは吼えると素早く詠唱を開始した。冷気魔法の頂点、絶対凍結。マイデルの意図を理解したマリーナとウンディーネも魔力の補助や向上などの援助を施した。
 沸き立っていた水が急激に静まり、やがて凍り始めた。空に向けて立ち上っていた湯気が大地に向かって流れ出し、地面を這う。
「やったのかしら?」
 マリーナの問いかけにマイデルはかぶりを振った。
「キャンドルの入った氷のオブジェみたいなものだ。気休めでしかなかろうな」
 その言葉の通り、あっという間に氷塊のてっぺんから湯気が吹き上がり始めた。
「大変っ……あれを!」
 ウンディーネが何かに気付き、指を向けた。その示す先には拳大の火の玉が浮かび、未だ至る所で燃えさかる炎を吸い込んでいる。周囲の炎を吸い尽くすと目を開き、炎を見つけてはそちらに移動しまた炎を吸う。先程水を突き破ってこぼれ落ちた小さな火の玉が成長した物であるようだ。
 マイデルの絶対凍結の冷気で少し冷静になりかかっていたエイダだが、それを通り越してひやりとする。このままでは、この小さな火の玉が得体の知れぬあれと同じものになってしまうのではないか。しかし、だからといって小さいのを攻撃するための水を確保するには、まさに親玉となった存在を閉じ込めている水塊を崩さねばならない。
 いや。むしろ攻撃すべきなのはこの小さい方なのではないか。あの巨大な目玉は多少のことでは小揺るぎもしない。だが、この小さな目玉なら。そして、小さな目玉を潰し続けていればそれを生み出す親玉の方も……。
 エイダは攻撃対象を小さい目玉に切り替えた。そして皆に呼びかける。
「この小さな目玉を潰しましょう!こっちなら……」
 言い切る前に意図を察した三人は行動を開始した。ウンディーネが辺りに満ちあふれる水蒸気をかき集めて水塊を生み出すと、マイデルがそれをたちまちのうちに凍らせる。凍りゆく水の形をマリーナが変形させて氷の槍を作り出すと、それが小さな目玉目掛けて撃ち出された。目玉は突き刺さる寸前に氷の槍を睨み付け、結果として瞳の中心を槍が射貫く形となった。炎の目玉は四散した。
「やったか!」
「たった一つで喜んでる暇はないわよ!」
 マイデルが快哉を挙げ、マリーナが窘める。
「ああっ、そんな……!」
 ウンディーネは再び怯えた声を上げた。四散した、ロウソクほどの火がそれぞれ意思を持っているかのように──いや、意思を持っているのだ──動き出し、周囲の炎に逃げ込んだ。早く探し出さねば、あの一つ一つが今潰したと思っていた目玉と同じものになってしまう。
 そうしている間にも、先に逃げ出した炎の目玉は成長を続け、人の頭ほどになっている……。

 どうすればいいの……?
 周りは赤々と炎が踊っているというのに、エイダの心は凍り付きそうになり、体も震えている。
“どうにかなるものではない。関わらぬ事だ”
 心の中の呟きに答える声があった。しかし、いつもの優しいアドウェンの声ではない。聞き覚えすらない、高圧的な声。
 でも、このままじゃ。
“最早これ以上悪くなることなどあろうか?汝自身も思うていたではないか。こうなれば何をしようが何も変わらぬと”
 やりとりをしたいわけではないが、再びエイダの心の声に答える。エイダはうっすらとその正体に気付いた。時折自分の肉体を乗っ取り、操る謎の存在。それが、今日はエイダに語りかけているのだ。
「う……何……?」
 ウンディーネは何かを感じているようだが、目の前の悍ましい存在の膨大な力に隠されてしまいその何かの正体を感知できずにいる。
 確かに、この町はもう……。でも、放って置いたら他の町もこんなことに……。
“あれは水から火種を蒔き燃えさかった炎を食らい、腹が満たされれば去り暫くは現れぬ。農夫から見た猪のような存在だと思えば分かりやすかろう。もっとも、やっていることは奴こそ農夫のようなものだがな。……どれほど食らえば満たされるのか、そしてその暫くがどれほどかは我に知ることではないがな”
 それじゃやっぱり放置なんて出来ない。世界が滅びるまで満たされないかもかも知れないし、満たされてもすぐに現れるのが繰り返されれば同じ事……。
“やれやれ。まあ、どうしてもと言うなら気の進まぬ方法だが手がないわけではない。あの邪神も面倒な存在ゆえ、ここで黙らせておくのも悪くはない。……では、一度何時の肉体を借りるぞ”
 エイダの意識がふっと遠のき、自分の背後から俯瞰し始める。ウンディーネが身を竦め、エイダの……肉体の方を見た。
「あ、あなたは」
「分かるか、話が早くて助かるというもの。この娘の応(いら)えに従い、彼の邪神に対抗する手段を与えよう」
「邪神?……よく分からないけど、何とか出来るの?」
「……あ、あんまり信用しない方が」
 話に食いつくマリーナにウンディーネはおずおずという。
「信用しようがしまいが、我は既にこの肉体を借りている。為すべき事を為し、伝えるべき事を伝えるのみ。まずはここを離れる。話はその後だ」
 詠唱も何も無しにエイダの肉体がふわりと舞い上がり、そのまま町外れの方に飛んでいった。慌ててめいめいの方法でその後を追うマイデルら。町外れに着くと、エイダの肉体は詠唱を始める。聞いたこともない言語、どころか人の声とも思えぬ音さえ混じっている。同じ呪文を唱えることは出来そうにない。
 光とも闇ともつかない輝きと共に、エイダの手の中に得体の知れぬ生物らしきものを象った奇妙な小箱が現れた。小箱の中にはきらきらと輝く複雑な形の結晶がある。不吉な輝きであった。まるで周囲の光が喰らわれ、その光の断末魔のような絶望の輝き。蓋の開いた小箱は消えることのない淡い光に包まれているが、燐光は箱の外側だけ。蓋を閉じれば箱の中は闇に閉ざされるだろう。
「生け贄を一人選べ。そして、その者の目の前でこの箱を閉じよ。後はなるようにしかならぬ。結末を見ようとするな、立ち去れ」
 そう言うと。
「いやああ、何この箱。持ってるだけで嫌な感じがするうううぅ!」
 エイダに戻った。とりあえず、見た目がとても気味悪い。感じられる魔力らしき形容しがたい力も、触手のように絡みつこうとしてくるかのようだ。全力で振り払いたいが、手を離すとさらに悪いことが起こる気しかしないので動くことができない。
「ううーん。もう、何から何まで意味不明ね……。まあいいわ、私たちに出来ることはこれだけなんだし、結果なんて気にせずやるだけやりましょう」
 マリーナは決意を述べた。が、何かをしようとはしない。
「ふむ。生け贄を一人選べと言っていたな。丁度いいのがそこら辺に転がっていたはずだが」
 そう言いながらマイデル老師が箱を受け取ると、エイダとついでにマリーナもほっとした顔をした。
 マイデル老師はそのまま、ジン達が取り押さえて捕縛し転がして置いたムハイミン・アルマリカのメンバーの前に立った。
「み、水。水を……」
 エイダの魔法のせいで水分をごっそり奪われ苦しそうである。そう言えば、町外れに逃げた人々も同じように渇きに苦しんでいるはず。すぐに水を与えなければ。
「今、楽にしてやるからな。さあ、これを」
 そう言いマイデルは、言われた通りに男の前に箱を置いて蓋を閉めた。あの謎の存在の声は──声自体は自分の声だが──生け贄と言っていたのだから、確かに楽にはなるのだろう。だが、さすがにこれは酷いと思うエイダだった。とりあえず、色々と見ない方がいい場面であろう。目を慌てて逸らす。
「ん……これは?何と美し……うあ、あああ、ぐごぎゅらぶああああぉぉぉぉぉ……」
 蓋の閉じる音と共にもはや人の声とも思えない絶叫がほとばしり、恐らくその男は息絶えたようである。静かになった。そして、この上なく嫌な気配が辺りを満たした。大地がまるで命を――であれば確実に不浄なる命だ――得たように脈動を始める。
「ああ、あああああああああ!おああああああああああ!」
 一緒に縛られていた自由無きムハイミン・アルマリカの男達が激しく悲鳴を上げ。
「ぬほわあああああああ!」
 マイデルもまた、全力で離脱を始めていた。とりあえず、エイダも後ろも見ずに走り出す。背後から、恐ろしく不気味で圧倒的に邪悪で嘲笑的なな気配が迫ってくるのを感じた。
 見ちゃダメ。見ちゃ……でも。
 誘惑に駆られ、後ろを振り返る……事は出来なかった。その前に、首の動きが止まる。僅かに顔を横に向けた視界の端、ほぼ自分の真横に不気味な物が見えた。漆黒の人影。そして、エイダを見つめる三つの目。見なかったことにして正面を向き、全力疾走を続けた。粘液をかき回すような物音と巨大なムカデが走る音が合わさったような音がその背後をつけ回していたが、やがて諦めたように離れていく。少しほっとしたが足を緩める気は起こらなかった。
「ほう、そういう事か。私を利用しようというのか。不遜なことだ。だが、それも悪くない……ククク、ひゃははははははは!」
 耳元で囁くように聞こえた声が高らかな嘲笑に変わる。男とも女とも、老人とも子供とも、人とも獣とも言えぬ声。慌てて辺りを見回したが、近くに怪しい姿はない。先程の黒い影も消えたらしい。エイダはようやく足を止めた。もう一度冷静に辺りを見渡してみて、愕然とした。
 それほど遠くもない場所に、縄で縛られた何人かの男の姿があった。ムハイミン・アルマリカだ。殆どが錯乱し暴れ回っている。ただ一人だけ大人しい男、その理由は死んでいるからだ。傷は見受けられないが、その髪は真っ白になり顎は外れ、目を見開いたまま息絶えている。普段のエイダならばそれを見ただけで悲鳴を上げて卒倒してしまいそうだが、今日に限ってはとても些末なことにしか感じられなかった。
 彼らはまさに先程、マイデル老師が謎の小箱を目の前に置いた男達だった。つまり、心臓が破れそうなほど走ったというのにまるで移動していなかったのだ。その小箱もまた、絶命した男の前に置かれている。蓋は開いており中は空になっていた。
 だが、そんな物よりも目につく存在があった。少し離れた地面に黒い影が広がりそこから無数の人間、あるいは人間以外の得体の知れない物が生えていた。それらは絡み合い、溶け合い、また新たな姿を作り出す。未だ続く高らかな笑い声はそこから聞こえている。
 と。少し遠くに見えていた炎の目玉が目を大きく見開いた。これまで、あれほどの熱の中に於いてもその視線には冷ややかな無関心しか感じなかったというのに、今は燃え上がるような怒りと憎しみを感じる。その目が閉じられると、炎の球体は瞬く間にいくつもの小さな火球に分裂し、辺りに散っていった。逃げ去ったのかと思ったが、そんなことはなかった。小さな火球は辺りを飛び回り、燃えさかる炎を吸い込みかき集めているのだ。
 それと同時にエイダの足許に黒い影が広がり、そこから黒い人影がぬっと姿を現した。三つの目が開く。その目の一つが飛び出し、膨れあがると美しい女性の姿を取る。見下すような笑みを浮かべると、その女は男の声で言った。
「私を呼び出したのはお前か?」
 何と答えれば良いのか。そして、何を答えてもどうなることか。返答に窮していたエイダは気付く。女の目はエイダを見てはいない。そして、エイダの心の中に声が響いた。
“ふん、悟られたか。それで、どうする?”
 その声は目の前の女にも届いているようだ。自分は無関係ですと言わんがばかりにエイダは空気になりきることにした。
「いいや、別にどうも。利用されたのは気に入らないが、私にとっても奴を探す手間が省けたし、お前に害意はなさそうだしな。……しかし……ふふ、そうだな。どうやらいずれ、また私の力を欲する時が来るようだ。その時のために、これを預けておこうかな」
 女は自分の首を引きちぎるとその頭部はドロドロと融けて黒い雫となって地面にしみ込み、中から現れた赤い宝石のような玉だけがその手に残された。なお、もがれた首からはすぐに新しい頭が生えてきた。なぜか後ろ向きの山羊の顔であった。
 女どころか人ですらなくなったそれは手に持つ宝石をエイダに向かって差し出してきた。まったくもって欲しくないが、受け取らないと何を起こされるか分からない。心を無にしてエイダも手を差し出すと、その掌の上に宝石をころんと転がした。転がった宝石の裏側、いやむしろ今まで見えていたのが裏だったのだろう。とにかく見えるようになった面には目があった。どう見てもこの姿はあの炎の目玉だが……全て石で出来ているのは間違いない。模型、あるいは石化させられた物なのだろうか。それを見て取り落とさずに済んだのは完全に体が硬直していたからであった。硬直していなければ、とっくに顔を背けていて手の上の宝石と目が合うこともなかっただろう。
「見ての通り、それはクトゥグアだ。捕らえたてほやほやの、な。どうせ今日も本体には逃げられるだろうが、こうやって拠り所を残しておけばまた誘き寄せることが出来るだろう。奴を狩らせるために呼び出すのであれば、私も人間如き小さな存在に構うことはないさ。そうでないのなら、命も魂も私の暇つぶしに差し出してもらうところだがね」
 見ての通りと言われても困る。しかし、どうやらこの炎の目玉はクトゥグアと言うらしい。
 女だった後ろ向き山羊は目の中に戻り、三ツ目の人は影の中に戻り、影は消えてただの地面に戻った。エイダの手の中で、今の出来事がただの悪夢で無かった証左のように赤い宝石がこちらを見つめている。ちょっと、指先で向きを変えて明後日の方に向けておいた。
 気付けば辺りの炎はすっかり消え失せていた。全て炎の目玉に吸い取られたようである。そして、ジン達も目玉に追い回され、追いつかれそうになるとそこから吸い込まれかける。町の外まで逃げると諦めて目玉は戻っていくようである。
 町外れを目指して逃げるジン達を追い回す目玉。それを見た町外れの生存者達も町からより離れようと逃げていく。
“ここから離れよ。ここのことはもう気にしても詮無いこと。なるようにしかならぬ”
 例の声が、冷徹に響いた。
「だ、誰かぁ。これ……これお願いしますぅ……」
 目玉石を持ったまま、身動きが取れなくなったエイダは助けを求めるように言った。と言うか、助けを求めている。
「ごめんなさい、肉体が無いとどうにも出来ないのです」
 肉体が無い存在で良かったぁ、と大書きされた安堵感に満ちた表情でウンディーネが言った。
「うう、私も無理……。精神的に無理」
 マリーナは正直である。だが、精神的に無理なのはエイダだって同じである。どうにかして欲しい。
「仕方ないのう」
 マイデルがこれほど神々しく見えたことは無い。何の気兼ねも無いようにひょいと宝石を手に取り、こねくり回した。
「ふむ……呪われた宝石と言った所かの。変なことをしなければ妙なことも起こらんと思うが……。部屋に飾るにはちょっと悪趣味すぎるかのう」
「何かあったらリム・ファルデが滅びますわね。どこかに封印しましょ。そうしましょ」
 あくまでも自分の近くに置きたくなさそうなマリーナ。そして、マリーナの近くと言うことはウンディーネの近くでもあるのでウンディーネも全力で同調する。
「ま、これの処置は後回しよ。どうやらあの怪物同士が一悶着あるようだからな。巻き込まれる前にずらかるとするか」
 それもまた、皆全力で同調するのであった。