ラブラシス魔界編

27.恐怖の幕開け

 ルスラン達がラブラシスに到着し、コロシアムに初出場したその日。 エイダはルスランの自宅がある区画を訪れていた。
 目的地はルスランの留守宅では無くその隣。アミアを案内してルスランの家に連れてきた時にかつて面識があった事を知って以来、ジョアンヌとはこうして出向いてまでよく話すようになっていた。話し相手ならば修道女達でもいいのだが、堅苦しい相手でなかなか軽い世間話は出来ない。相手がアンならもう少し砕けた話も出来そうだが、数いる修道女の中でもなぜかアンだけはなかなか会えないので、貴重なガールズトークの相手なのである。
「いらっしゃい、エイダ。……ねえ、護衛はもうちょっと選んだ方がいいんじゃないの?」
 ジョアンヌはエイダに挨拶をした後、後ろに居る人物を一瞥し、侮蔑的な笑みを浮かべながら言った。
「朝っぱらからご挨拶だねえ。俺だって、こんな朝っぱらから同僚の知人に狼藉働いたりしないぜ?まして後ろ盾がマイデル老師だ、命は惜しいさ」
 エイダを朝っぱらからここまで送ってくれたのは、親切ながらも下心がありそうなネルサイアである。顔を合わせるなりこんな感じのこの二人、それでも仲が悪いわけではない。むしろ気心が知れてきたからこその軽口の応酬である。
 ネルサイアはオークの生首祭りでお手伝いして以来、ちょこちょこジョアンヌの勤める『ディアナの台所』でディナーを取るようになったのである。もちろん、地獄絵図となるオークの飯時に訪れるような野暮はしない。そんな時間に訪れては雑にぶった切った肉や野菜の塊を大鍋で適当に煮込んだオーク向けの料理を食わされてしまう。多少時間をずらすだけで出てくる料理は随分まともになるし、店員のジョアンヌもおしゃべりくらい出来る余裕が生まれるのである。
 件の祭りなどほんの数日前の事だが、ジョアンヌとネルサイアには共通の話題がある。ルスランの事である。ルスランの日頃の仕事ぶりと先に昇進した事に対する愚痴をネルサイアが語れば、ジョアンヌはルスランのプライベートや幼少期のこと、そしてジョアンヌが仄かにルスランに恋心を寄せているのにまったく脈がない愚痴を語った。ジョアンヌを口説く気も少しだけあったネルサイアとしては渡りに船とばかりに口説きにかかり、今はこの通り軽口を言い合うくらいに親しい感じにまでなったのである。
 ジョアンヌとしても、ネルサイアが美人に対して八方美人である事はルスランから聞き及んでいる。その一方で、悪い人ではないとも聞いているので割と安心して話しているのだ。
 そして、もう一人ルスランを介して顔見知りになったエイダもそこに口を挟む。
「それに、私の事子供扱いしてますもんね」
 初めて顔を合わせたときのことを多少根に持っているのであった。
「エイダは華奢だし大人しそうな顔だから少し幼く見えるのよねー。体の方は結構なオトナなんだけど」
「ちょっとやだぁ、何言ってんの」
 それもいかにもスケベそうな殿方の前で、である。
「だよなぁ。じっくり見るとなかなかだもんなぁ」
 そしてそのスケベそうな男は、乙女本人の前でその体をじっくり見た事を言ってのけてしまう。と言うか、今もじっくりと見ている。ジョアンヌの発言がその免罪符に使われている一面も無きにしも非ずだ。ジョアンヌはそんなネルサイアを追い払いにかかった。
「ほらほら、仕事のある男はとっととお帰り」
「そんな。ちょっと待てよ。今日はこれっきりかよ」
「どうせ夜も迎えに来るんでしょ。その時会えるじゃない」
 今日、エイダがジョアンヌの家を訪れたのは、店が定休日でジョアンヌが一日空いているからである。
「エイダも犬飼えば?こんなの危険なのに送り迎えさせなくても、大きな犬に引っぱってもらえばその分楽よ」
 散歩の時は大きな犬を引っぱって走り回っているジョアンヌが何か言っている。確かに引っぱってもらえばその分は楽になるのかも知れないが、自分の足で走らないといけない事に変わりはない。そもそも犬と自分の進行方向が一致しなければ進路を変えるために引っぱって却って疲れるのは目に見えている。馬車の方が圧倒的に楽だ。それに。
「お城に仮住まいしているうちは無理ですって」
「そっかー、そうよねー。あー、どうせしばらく留守にしてるんだしさ、ルスランの家借りちゃえば?鍵はあたしが持ってるんだし」
「うえっ」
 とんでもない事を言い出すジョアンヌ。
「そんなっ、男の人の家に泊るだなんてっ」
「あそっかー、抵抗あるかぁ。じゃあ、エイダがあたしの家に泊って、あたしがルスランの家に泊れば解決ね!」
 それなら確かに無理ではない。
「ジョアンヌよぅ。ルスランが女として見てくれてないのを悩む前に、お前さんがルスランの事男として見てないんじゃねえか……?」
「男として見てない相手が女として見てくれなくても悩まないでしょ……。くだらない事言ってないで帰った帰った」
「はいはい」
 ネルサイアを追い払い、エイダはジョアンヌの家に招き入れられた。

 ジョアンヌの家は隣のルスランの家とほぼ同じ造りの小さく質素な家である。この辺りは20年前の戦争が始まる少し前に志願兵達を住まわせるために区画整理して造られた住宅地であり、その後出世したり家族が増えたりして増改築をした家もあるが、そう言った例外を除けば同時期の家はほぼ同じ形をしている。隣り合うルスランとジョアンのそれぞれの家も双子のように同じ形だ。
 ただ、外から見ると極めて質素なルスランの家と比べ、窓辺に花が飾られていたりカーテンなども華やかで、扉にも可愛らしい飾りがついていたりして女の子らしさが出ている。花と言えば花壇だが、それはルスランの家の方にもあるし花もちゃんと植えられ咲いている。この花壇はルスランの家のものをジョアンヌが管理してあげている、もしくはジョアンヌが好き勝手に使わせてもらっているのだ。
「じゃあ、朝ご飯にしようか。もちろん、食べてきてないでしょ」
「はい」
 その言葉を受けて、朝食が用意された。サラダ、スープ、パン。それに、ちょっとしたデザート。……になる予定の、材料達である。
 エイダの今日の目的、そしてここ最近特にジョアンヌの家に足繁く通っている理由。それはお料理の習得なのである。
 エイダは両親を失い、町を飛び出すようにここにやってきた。そんな彼女が一人で食べていく。その点、実は割と問題なかった。エイダは元々裕福な家の生まれで死んだ家族の遺産も込みでお金は持っていたし、マイデル老師の元で働いていればささやかながらそれでもルスランよりは多めの給料も出る。それに、修道院に仮住まいしていれば食事は出るのだ。何一つ困る所はない。
 しかし、いつまでも修道院の厄介になるわけにもいかないし、それがフォーデラストになるのかラブラシスになるのかは分からないがいつかは自立して一人暮らしを始めねばならない。しかし、エイダはまだ料理は習い始めてさほど経っておらず、とても料理が出来るなどと言える腕前ではないのである。しかし、もう教えてくれる人はいない。
 だがジョアンヌは長らく一人暮らしをしていて自分で料理を含む家事全般をこなし、しかも食堂で働いていて料理が仕事なのである。ふとした雑談の中でエイダが料理で悩んでいる事を知り、それじゃ教えてあげようか、との言葉にエイダも甘えたのだ。
「でもさー。当然だけど、あたしも最初から料理が出来たわけじゃないのよ。本腰入れ始めたのは本当に最近でさ、仕事をあれにしたのもその影響かな。きっかけはルスランが軍に入った事。あいつさ、訓練の一環として野戦料理の作り方教え込まれててね。野戦料理とは言っても料理は料理。いつの間にかあたしより料理うまくなってたの見て、女の子としてのピンチを感じた訳よ」
 などと言いながら、テキパキと朝食の準備をするジョアンヌ。その手際を憶えようと必死のエイダは話に相槌を打つのが精一杯だ。
 オーブンからパンが出てきた。トーストではない。生地から焼いたパンである。自宅でパンを焼く事自体、日頃店でパンを買ってきていたエイダから見れば凄い事である。生地の仕込みはジョアンヌが夜のうちにやってあるので、今回は段階を飛ばした形になる。エイダにしてみれば生地作りにも興味はあるがまたの機会と言うことになるだろう。
 エイダが慣れない手つきでサラダを作っている間に、簡素な割にいい味の出ているスープと自宅で作るものとは思えないデザートが出来上がった。その仕上げはエイダが魔法で冷やす。サラダの出来がギリギリ及第点くらいなので、せめてこのくらいは貢献せねば。
「うわぁー、朝から豪勢……」
 並んだ料理を見て、ジョアンヌがうっとりとしている。教えて貰うと言う事もあり、材料費はエイダが持った。よって、量・材料の質ともにジョアンヌの日頃の朝食から見て段違いである。
 朝っぱらでお腹が空いてた事もあり、さほど教える感じでもなくさっさと調理してしまったが、材料や作り方、味付けのコツなどは食べながらレクチャーした。
「料理は愛情なんて寝言言ってる馬鹿女もいるけど、料理と戦いは似てるのよ。どっちも刃物使うしさ。結局料理に必要なのは実戦経験。実践あるのみよ」
 戦闘民族フォーデラスト人らしい結論である。しかし、確かに愛情で何とかなるなら苦労はないのである。それに、愛情を注ぐ相手がいない場合どうしろというのか。孤独でも、喰っていかねばならないのだ。料理に自己愛でも込めろと?
「はあ……。私も修道女の皆さんと一緒に料理した方がいいのかなぁ」
「その仮住まい、長居する気無いんでしょ……。って言うかさ、出て行くとしてどこに住むの?行くあてとか、あるの?」
「それも問題ですよねー。今の仕事も面白いし続けてもいいんだけど……、お城の人たちってやっぱり生粋の王国人って感じで血の気が多くてちょっと怖くて。それに、ラブラシスにゆかりがある私があんまり王国の政治に関わりすぎるのもよくない気がするんですよね」
「えっ。政治に関わる仕事してるの……?」
 マイデル老師は、日頃やってる事を見ているとそうは思えないが国政では重要なポジションにいて、その手伝いをしていれば自ずと国を動かす手伝いをすることになるのだ。既に、いかにも大きなものが動きそうな事柄についてさりげなく世間話のような軽い口ぶりで意見を求められたことが何度かある。
 それに、エイダがここ数日待機して時を待っているマズルキ行きは、半分マイデル老師の趣味だが明らかに国際情勢に関わるだろう。
「何かとんでもないことになった時、私は責任取りたくないなぁ……」
 ものすごく本音であった。
「……何か、あたしより苦労してそうね……。頑張って」
「あはは、頑張りまーす」
 朝食が終わったら、昼の仕込みを兼ねて様々な実践練習。……なのだが。
「あの……これは?」
「それはイモ剥き器」
「じゃあ、これは?」
「えーっと……フリーサイズ魚三枚おろし器……だって」
 エイダは裕福だ。料理の道具にだってお金を掛けられる。そこで、刃物に慣れないと危険で失敗もしやすい様々な作業を簡単にこなせる便利グッズを導入することにしたのである。近頃はすっかり行商ゴブリンのカモ……いやお得意様となりつつあるジョアンヌが、ゴブリンに頼んで用意してもらったのだ。そして、お金はエイダに用意してもらった。
 ゴブリンの売り物はたまに高いものもあるが基本的に安い。そして、今回揃えられた道具は用途が狭いだけに金をかけずに作られた安物である。しかし、値段の割に良く出来た代物が多い。なにせドワーフ職人の内職で作られているのだから、安くてもクオリティは高いのである。
「いいですね、これ。安いのに便利で」
「よく考えるわねぇ。こんなの」
 ゴブリンは思いついたらやってみるという精神で、昔から悪戯者として知られていた。種族の主な生き方が商人となった今、商品開発にその精神が活かされているのである。彼らによって日々使い方によっては役立つガラクタが生み出されていくのだ。大部分の人の役に立たなくても、ごく一部にでも刺さればいいのである。そのごく一部を一人でも多く見つけるための販路拡大なのだ。そして、またカモが生まれていく。
 料理教室の最初の時間は講師のジョアンヌ先生が道具の使い方を覚えることに費やされた。これらの道具はエイダの奢りだがジョアンヌのものとなる。エイダが料理を教わりたいと言ってきたのをいいことに、前々からちょっとだけ欲しかったが買えなかった、いや買えないほど高くはないが用途の狭さ故に買う勇気が出なかった道具を授業料代わりに買ってもらったような物である。エイダが自力で料理が出来るくらいに上達すれば、自分でこれらの道具を買うこともあるだろう。
「お店の方でも使えそうですか?」
「うーん、どうだろ。オーク向けの山盛り料理だと、最初からぶった切るだけでいい材料を選んでるし……。ああ、でもこういう道具で楽が出来るようになると、使える材料の幅が広がってメニューも増えるのかな」
 それに、最近はこれまでオークのお客さんを気にしてあまり増えなかった純人(普通の人間)のお客も増えているのだ。増えていると言っても主にネルサイアら王国兵の集団だが、兵舎の食堂より味が落ちても量を食べたい時、あるいは飯よりも酒という気分の時に『ディアナのキッチン』にやってくる。そして、折角来てくれるのならいい物を食べさせて、量は多いが味が落ちるなどと言わなくしてやりたい。そんな思いだってもちろんある。
 別段高い道具ではないのだから、ディアナさんが気に入ったらまたゴブリンから買えばいい。まさにカモの発想だが、前向きに検討する意思が固まった所で今日はお開きとなった。
「ねえ、折角だから泊っていかない?」
「えっ。でも、ベッド一つしかありませんよね」
「んーふふふふ。一つ空いてるベッドがあんのよ。……隣に」
「ええっ。いやでもそれ、ルスランさんのベッドですよね!?」
「ん?何か問題ある?」
「ありすぎですっ!」
「んー、あっそうか、普通に乙女だもんね。男の寝床に寝るのは抵抗あるか……。じゃあ、あたしがそっちに寝れば問題ないわ」
 朝方、同じような会話があったが流石にもう忘れていた。しかし、辿り着いた結論はうっすらと憶えていたのか、同じような結論にすんなりと辿り着く。
「も、問題ないのかなぁ……。留守にしてるからって、勝手にそんなことして……」
「あたし、鍵を預けられるくらいには信用されてんのよ。ほら、見上げてみればルスランのパンツだって干してあるでしょ」
「ええっ」
 確かに窓の外に干してある洗濯物の中に、男物の服が混じっている。
「な、何でこんなことに……。って言うか、ルスランさんが出かけて何日か経ってますよね?」
 もういい加減、ルスランの洗濯物など出なくなっているはずである。
「隣にルスランがいないと、やっぱり女一人の夜はちょっと不安だからね。魔除けというか、変な奴をあのパンツで牽制するの」
 何のことはない、女性が防犯のために男物を外に干しているだけであった。ジョアンヌは先程からパンツパンツと言っているが、パンツは1枚だけで後は普通に兵士の制服やシャツなどだ。言うほどパンツではない。牽制というなら、パンツよりも制服の方が効いていそうである。
 何にせよ、うっかりジョアンヌの部屋ならいいやと言って気軽に泊ったら、ルスランの服と夜を過ごす所であった。エイダくらい男に耐性のない女子にはなかなかのハードルである。結局は折角なのでお言葉に甘え、それでもルスランの服はジョアンヌと一緒に本来あるべきルスランの自宅に引き取ってもらうことにした。

 慣れぬベッドで眠る夜が訪れようとしていた。
 と。少し荒っぽくドアがノックされる。ジョアンヌかな、と気軽に扉を開けたエイダは目の前に見慣れぬ男が立っていたので息を呑んだ。
「……君がエイダちゃんかい」
 顔も知らぬ男に、こんなシチュエーションで名前を呼ばれたことで緊張が恐怖と混乱に発展した。その中でエイダは先程の一幕を思い出す。ジョアンヌに、引き取ってもらったルスランの服。それらがなくなりただの女性一人暮らしの家になると、こうもあっさりと下心に満ちた男が這い寄ってくるのか。ここはなんていう無法地帯なのだろうか。
「だだだ誰ですかっ!人を呼びますよ!」
 そうエイダが言うと、呼ぶまでも無く隣の家のドアが開いた。しかし、もちろん出てくるのはこちらもうら若き乙女。ダメ、逃げて!
「ん?えーっとたしか、ルフィーンだったっけ?なぁに、夜這いでもかけに来た?」
 気軽に声をかけるジョアンヌ。何だ知り合いかとちょっとほっとするが、それでもエイダのことを知っているのはちょっと気味が悪い。ルフィーンと呼ばれた男は事情を説明する。
 エイダは先程夕刻で迎えに来たネルサイアに、今夜はこちらに泊る旨を伝えた。そこからマリーナにもその事は伝わっている。そして、そのマリーナから急な呼び出しがあったというわけである。ネルサイアはその呼び出しの係を同じく宿舎住まいの後輩に押しつけて使い走りに出したのだ。
 ルフィーンは同僚であるルスランの家の場所は大体知っていたし、ジョアンヌの家がその隣だとも聞いていた。あとは二つの家の特徴を知っていればこの家に辿り着くことは可能である。そして、ジョアンヌとはディアナの店で顔見知りなので、見覚えのない少女が出てくればエイダだと言うことが推測できるのだ。
「ってな訳で、夜這いじゃないっすよ。ネラさんじゃあるまいし、そんな事しませんって」
「で、何で折角夜に会えるチャンスだってのにあいつは来ないの?誰かと夜の逢瀬?」
「夜に逢えるような相手がいるなら行く先々でナンパなんかしませんや。って言うか、あの人がこの時間に女性の家を訪ねたらそれこそ夜這いだと思われるでしょ」
 エイダはともかく、中途半端にネルサイアのことを知っているジョアンヌなら、確かにそう思う。ネルサイアやりの気配り、あるいは自分の体裁のための判断だったようである。
「緊急呼び出しって……何があったんですか?」
「うーん、俺にはそこまで話が伝わってないんだけど……。とにかく、もしかしたら大至急でどこかに行くこともあるかも知れないから、旅立ちの支度をしてくるようにとのことだ」
「……分かりました」
 エイダはちらりと、今夜のお泊まりはダメになっちゃいそうという思いでジョアンヌに目を向けた。ジョアンにも目線でしょうがないよと返したような気がする。
「馬はそいつを使っていいぜ。俺は歩いて帰るし」
「いえ、あの、その。私、馬乗れないんです」
「何だ、そうか……しかし、荷物を担いで城まで歩くのも大変だろうに。……ああ、そうだ。荷物は持って行ってやるよ」
「何言ってんの。こんな時こそ“俺の後ろに乗れ”でしょ。そのくらい言えないから彼女も出来ないのよ」
 ジョアンヌの発言はエイダにとって何言ってんのであった。そして。
「いや俺、彼女いるんだけど」
「あら」
 こちらにとっても何言ってんのであった。彼女持ちだからこそ変な気は起こすまいと選ばれた一面もあるのである。
 斯くてエイダはよく分からないうちによく知らない男の背中に体を預けて夜の町を駆けることになった。最初のうちこそ緊張したが、馬が走り出せばすぐにそれどころではなくなった。城に着く頃にはまるで城まで自分の足で全力疾走してきたかのようなぐったり具合であった。エイダは少しだけ、馬に自力で乗れるようになりたいと思う。その一方で、こんな怖いものよりもっと気楽に乗れる物は無いのかとも思うのだった。
 思えばこの時味わったちょっとした恐怖が、これから始まる恐怖の連続の序章だったのだろう。

 城の聖堂ではマリーナとマイデル、そしてウンディーネが顔をつき合わせていた。かなり豪華なメンバーである。
「あの、何があったんでしょうか」
 駆けつけるやエイダは切り出した。
「何があったのかは分からぬが、どうやら何かがあったようだ。決して良いことではあるまい」
 知らないのにマイデルが答えた。まあ、このメンバーの中では責任者格なのでその役目を果たしたと言った所だろう。
 何かが起こったことを察したのは、ある種ゲストのウンディーネであった。
『恐らくはマズルキと思われる方角から、途轍もない魔力を感じます。それも、炎を帯びた魔力……。サラマンドラの封印が解かれたのかとも思いましたが、サラマンドラにしては魔力が異質です。……ここで感じることが出来るのはここまで、あとは現地に行ってみないことにはなんとも……』
「ウンディーネ。あなたならマズルキまで一瞬で移動できるじゃないですか」
 マリーナは平たく言えば、お前が見てこいと言っているのである。
『だって。こんなの、一人で見に行くなんて怖い……』
 ウンディーネは半泣きである。日頃から湿っぽいと言われるが、今日もいつも通りめそめそしていた。
「まあ、そんなわけでだ。どうせならみんなで見に行こうではないかと言うことになった。どうせマズルキにはあと数日で行くつもりだったのだ。その予定が早まっただけの事よ」
「早まっただけの事って……。ウンディーネさえも恐れるような事態が起きているのに、行っても大丈夫なんでしょうか……」
 エイダの不安はもっともだったが。
「ウンディーネが怖がってるのなんて、いつもの事よ。大丈夫大丈夫、気にしちゃダメ」
『あーんもう、マリーナったらいつの間にそんなフォーデラストの突撃気質に……』
 こんな時までマリーナとウンディーネのやりとりは微笑ましかった。ウンディーネは実態のない精霊ゆえ何かが危害を加えようと思ってみたところで手出しをするのは容易でないし、精霊としての存在に働きかけるような攻撃を受けようとも持ち合わせの魔力の強大さゆえ、多少のことがあってもなんともない。しかし、メンタルはとても弱いのである。あくまでも、か弱い女性なのだ。マリーナのように、歳と共に図太く成長もしないのである。むしろ色々経験することで慎重に、言うなればビビりになってきている。
「ろくでもない事というのは面白いことと言うことだ。久々にスカッと一暴れできそうだわい」
 口の端を釣り上げ、クフフフフと笑うマイデル。こういうのがフォーデラストの突撃気質である。
「うーん……じゃあ、行きましょうか。気は乗りませんけど」
 せめてこれはと素直な気持ちを口にしつつエイダが一度は置いた荷物を持ち直したが。
「確かに事態は緊急事態だろう。だが、何が起こっているのかは正確に掴めてはおらん。そんな中にむやみに飛び込むのは得策ではあるまい。それに、今は夜じゃ。既にこの爺には辛い時間となっておる」
 マイデル老師の表情がいつになく険しく見えたのは、眠気のせいもあったようである。
「私も歳のせいじゃなくて、規則正しい生活を送ってますから」
 マリーナはあくまでも日頃の生活のせいだとしつつも眠いことをそれとなく表明した。
 とにかく、この二人にはこれから何かをする体力はないのである。一晩、ぐっすりと寝なければ全力は出せない。一応当初はこのまま行くつもり満々だったが、エイダを待っているうちに眠気の方が勝ってしまった。
「折角のお泊まり会、邪魔して悪かったわね。せめて朝までは楽しむといいわ。ああでも、夜更かしはダメよ」
 との言葉で、エイダはジョアンヌの家に戻れることになった。
「エイダよ、うら若き娘子よ。……爺の朝は早いぞ。それを肝に銘じよ」
 マイデルにはそう釘を刺されたのだが。
 なお、その帰りは馬車を出して貰えたし翌朝も馬車が迎えに来るという。ものすごく胸をなで下ろすエイダであった。

 爺の朝は早いらしいが、ジョアンヌの朝も大概早いのだった。ジョアンヌに起こしてもらい、フェルの散歩ついでに一緒に城までジョギング。途中、大通りで迎えの馬車を見つけて呼び止め、乗り込んだ。
 朝の早い爺は確かに準備万端でエイダを待ち構えていた。しかし、マリーナがせめて朝の礼拝だけはしておきたいとのことで出発まではまだ時間があるらしい。エイダが待たせた形にならなかったのは一安心だ。
 マリーナが祈りを捧げている相手のウンディーネは、マイデルの時間潰しにつき合わされていた。もう一度、マズルキの様子を探らせているという。ウンディーネは、一人じゃ怖いからと言う理由で直接マズルキの様子を見に行くことは出来ない。遠巻きに、力の動きだけを頼りに状況を見極める。
『やはりサラマンドラではありません。むしろ、サタンの魔力が関わっているようです。……場所はマズルキから少しずれていますね。中心街に飛んでも危険はないと思います』
「おお、そうか。ならば中心街まで行って様子を窺ってきてはくれんか」
『……おじさまのいぢわる……』
 さすがのマイデルもこの顔でそう言われては引っ込めざるを得なかった。
「お待たせ……ちょっと、うちのウンディーネちゃんいじめないでよ」
 マリーナもいいタイミングで助けに現れたようだ。かつて、勇者と共に戦った頃。マリーナから見たウンディーネは優しいお姉さんのようだったそうである。今ではマリーナがママのようである。
「では、行くとするかの」
 マイデル老師が立ち上がった。
 ここからマズルキまでは飛翔の魔法を使う。特殊な施設を使う魔法で、施設には術に必要な分の魔力と呪文や魔法陣などが彫り込まれている。しかし、施設のみでは発動のための魔力までは賄いきれず、魔法を細かく制御もし切れないので、移動中の微調整のために利用する人側にもある程度の魔力が要求される。そんじょそこらの魔法使いでは扱えないほどだ。例えばアミアなら使用を諦めねばならないだろう。一部の選ばれし者のみの特権である。
 エイダもこの魔法については噂に聞いていたが、大がかりな魔法なのでもちろん使うのは初めてだ。空を飛ぶ魔法だけに、結構な強い憧れも抱いていた。
 まずは、マイデルが行った。魔法陣の中心に立ったマイデルの体がふわりと浮き上がり、マズルキの方向に向けて飛び去っていった。
 うわあ、すごい!エイダは少し感動したが、そのすごいのあとに、一呼吸置いてもう一つ単語が追加された。うわあ、すごい!……速い。
 マリーナに後押しされ、二番手はエイダになった。魔力のカートリッジ交換が済んだ所で、教えられた通りの呪文を唱えて魔導装置を起動する。エイダの体が舞い上がり、マズルキに向けて飛び始めた。
 やっぱり速い!
 利用者が飛行中に行うことはいくつもある。まずは、この吹き付けてくる風である。風が吹いているというよりは止まっている空気に自分からぶつかって風として感じているのだが、とにかくそれを防ぐ魔法障壁を張らないといけない。最初に貸与された腕輪にはいくつかの水晶がはめ込まれている。一つの目の水晶には対風属性障壁魔法が組み込まれており、魔力を注ぎ込めば自動的に障壁が張られる。どのくらいの魔力を注ぎ込むかは本人の魔力と風の苦しさにどのくらい耐えられるかで調整する。この風が気持ちいいんだという人はノーガード、お肌が乾燥するのが嫌だというなら全力だ。
 二つ目の水晶に目的地であるマズルキと進行方向のずれ具合を示す二つの点が表示されている。この点が重なるように調整しながら飛ぶのだ。魔力を使ってもいいし、慣れれば体をうまく使って調整が出来るという。
 ここまでのことを、必死にどうにかこなして見せた。これは決して、楽ちんではない。そして、少しずつ要領が掴めて必死さが薄れてくると、自分の置かれている状況というものが嫌でも目に入ってくるのだ。
 とりあえず、前方の青い空に向かってひたすら飛ぶ空の旅は爽快である。下さえ、見なければ。
 当然だが、高い。安全な移動には障害物に当たらない高さが必要になる。リム・ファルデとマズルキの間は割と平坦な地形が多くてあまり高く飛ばなくてもいいコースだというが、それでも十分に高い。
 そして、それでもやっぱりそれほど高くない高度を飛んでいると、地面が流れるスピードが速く見えてしまうのである。実際、空を飛ぶ鳥がエイダの近くを矢のような速さで通り過ぎていく。この速さで飛んでいるのだと言うことを思い知らせるかのように。
 だが、ここでパニックになると本当に命を落とす事故を起こしかねない。冷静でなければ。
「エイダちゃん、ヤッホー」
 ビクッとした。
 最後に飛び立った、魔法発動までの時間を考えると随分離れた所を飛んでいるはずのマリーナがものすごい勢いで追いついてきて声をかけたのだ。この強風の中である。聞こえるようにとそれなりに大きな声だ。
「無理についてこようとしちゃダメよ、危ないからね。エイダちゃんはエイダちゃんのペースでおいでなさいな」
 そう言い残すと、マリーナはギュンと加速して飛び去っていった。進行方向の微調整の他、速度の調整も魔力を使えば出来るのである。マリーナがこの様子なら、血の気の多いマイデルなどは全速力ですっ飛んで行っているのかも知れない。しかし、エイダはマリーナのお言葉に甘えさせてもらうことにした。それでも、減速まではしない。若さゆえの意地である。
 あまり見たくはないが、眼下の光景が草原から砂漠に移り変わってきた。メラドカイン連邦である。マズルキも近い。この辺りまで来ると距離の近さ故に目的地を示す光点がぶれやすくなってくる。慣れてきた所でハードモードに入るような物である。より慎重に方向調節を行う必要が出てくる。
 そんな折、視界の隅に凄まじい炎と煙が飛び込んできた。間違いなく、今回の目的はあれである。何かが起こっている場所が視認できたのは幸いだが、あの場所に行かなければならないと思うと極めて憂鬱である。そして、それがあっという間に横を通り過ぎて行き、いよいよマズルキに到着だ。
 出発時と同じような施設がマズルキにもあり、魔法はその施設同士の間のみ使える。ここに至るまでに行ってきた進行方向の微調整で敢えて目的地から離れた場所を目指すように操作すれば体はその場所に行くのだが、普通はそんなことはしない。何せ、着地するにも施設の魔力が必要になるからだ。微調整に失敗し施設から逸れすぎたり、そもそも施設以外の場所に向けて微調整した時などは、着地を受け止めるための魔法無しで、スピードや着地位置の調節と着地におけるショックの軽減、その他諸々をこなす必要がある。少しでもミスをすれば高速で地面に叩き付けられて挽肉である。その辺は出発時にしっかりと注意されるが、着地の魔法の圏内は割と広めに取られているので普通に微調整をしていれば心配無用。近年では数年に一度しか事故は起こらない。……これまでの教訓、多くの犠牲のたまものだ。
 終わってしまえばこんなものか、と言った所で……はないかも知れない。少なくとも、今はまだ帰りに同じ事をするとは考えたくない。
 施設から出ると、マリーナだけがそこに待っていた。
「あら、案外お早いお着きね。慣れてくると、もっと楽しめるようになるわよ」
 多分、エイダにはそんな日は来ないのではないだろうか。楽しめるようになるほど使い込みたいと思えないのだ。確かに、速いのは認める。しかし、ここまでして急ぐくらいなら、急がずに済むように早めに行動を始めるか、間に合わないと諦める道を選びたい。それはともかくとしてだ。
「マイデル老師はどちらへ?」
「今、乗り物を探しに行ってるわ。ラクダなんてのもあるけど……馬より乗るのが難しそうよね」
 単純に、馬に慣れているとラクダに慣れないというだけのことかも知れないが、どちらにせよエイダには難しいだろう。だから、もう少し楽な乗り物を探そうというのだ。しかし、砂漠に馬車はなかろう。
 と。
 前方より恐ろしく巨大な蛇がすごい勢いで迫ってきた。エイダは、そしてマリーナも悲鳴を上げて逃げた。
「おーい」
 蛇の方から、聞き慣れた声がする。蛇には御者らしき地元の男とマイデル老師がまたがっていた。
「タクシーを見つけたぞ。これなら三人と言わず四・五人は乗れるし砂の上も楽々だ、上々であろう」
 何が上々なのだろう。最悪であった。