ラブラシス魔界編

14話・正体


「どういう事だよこれは!お前、休んでたんじゃないのか!?俺たちの目を盗んで何かやったのか!?」
 ルスランに対して出された突然の昇進辞令に、自分が昇進できると期待していたネルサイアは頭を抱えた。それほど出世欲があるようには思えなかったが、さすがに年下にあっさり抜かれると話は別なのだろう。
「何を騒いでいる、ネルサイア」
 丁度よくと言うべきか運悪くと言うべきか、通りかかったライアスにネルサイアはこの辞令について問い詰めた。張り紙には辞令のみが書かれ、どのような経緯があっての昇進だったのかについては記述がない。ルスランとしてもかなり突然の辞令で、事情については心当たりが無く説明待ちだ。何か分かるのであれば聞いておきたい。
「ネルサイアの今回の功績についてはちゃんと評価されているから安心しろ。今回ルスランにだけ辞令が下りたのはもちろん特別な事情がある。平たく言ってしまえば、姫が気に入ったので役付きに格上げにしたと言うことだ」
 何と言うことだろうか。ルスランは説明されてもまったく事情に心当たりがなかった。特に、なぜ姫に気に入られたのかがさっぱりだ。
「先日姫が城に帰られてな。その後すぐにこの話が出た。姫もこれからいろいろルスランに用を付けることになるだろうが、一般兵だと格好が付かないからな」
 相変わらずルスランには身に覚えがないが、マイデル老師にこき使われたように今度は姫にこき使われるということは間違いない。
 ひとまず、なぜ姫に気に入られたのかを知っておかないと気持ち悪い。
「おや。まだ聞いてなかったのか。……先日ラブラシスへの出張の際、馬車に乗り合わせた女性がいただろう」
 その時乗り合わせていたのはエイダと、ぎりぎりで飛び乗ってきたアン。
「っていうことは……。あの過激な修道女って姫だったんですか!?」
 姫の名前がアナスターシャだと言うことはルスランも知っている。その上でその姫がアンに化けていたということも理解するが、だとすると偽る気すらないような捻りのない名前を名乗ったものだ。
 ルスランは姫の名前は知っているものの、顔は知らない。普段は兵士の前になど出てはこないし、一般人でも姫の姿を目にすることができる祭典や式典の時には、ルスランは姫から遠い客席の警備ばかりだ。姫の顔を見る機会など皆無だった。
「修道女に化けてたのか。私も詳しい話は聞かされていないが、城を抜け出してラブラシスにお忍びで出かけたそうだな。何しに行ったのか聞いてるか?」
 ライアスはルスラン質問に答え、質問を返してきた。
「公邸に用があるとしか……。婚約者と逢い引きですかね」
「姫がその婚約者を気に入ってなくて困ってるんだ。喧嘩を売りに行ったわけではないことを祈ろう」
 半端に事情を知っているライアスの方が、何も知らないルスランより事実から遠ざかっていた。
 ライアスは言う。
「とにかく、今回の一件は国家に反逆する一派が企てた拉致事件として処理されるらしい」
「ええっ。普通こういう時って些事に置き換えません?より大事になってるんですけど。国家反逆ってやった人死刑じゃないですか」
 ルスランは慌てた。
「ああ。近日中に執行されるそうだ」
「それじゃ今回の昇進って特進ってことですか」
 ルスランは知らなかったとはいえ自分が姫を連れ回したことが拉致事件扱いになっていると勘違いしたのだが。
「待て。誰もおまえが処刑されるとは言ってないだろ。落ち着け。ルスランはあくまでも姫を救出した側だ」
 救出と言えば、ルスランは確かに拉致された姫を救出していた。詳しく話を聞いてみれば案の定、あの山賊に全ての罪を擦り付けるつもりのようだ。山賊ごときがわざわざ城の地下に収監されていたのはそのせいだった。
 酷い話のような気はするが、山賊と反逆者では首を縛られるか切り落とされるかの違いしかない。そもそも奴らが姫を攫ったのは紛れもない事実だ。
 とりあえず、事情は理解した。するとそこに。
「ここにいたか、ルスラン。訓練場に女の子のお客さんだぞ」
 兵士の一人が声をかけてきた。
「早速来なすったようだな、ルスラン。まあなんだ、姫にお近付きになれるのは光栄なことだと思って諦めろ」
 そう言い、ライアスはルスランの肩を叩いた。諦めろと言われてしまうあたり、やはりこれからは苦難の道が待っているということか。
 ルスランはライアスの言葉に従い、諦めて訓練場に行くことにした。

 行ってみると、待っていたのはアナスターシャ姫ではなくエイダだった。
 ちょっとほっとしつつも、姫にこき使われるかマイデル老師にこき使われるかの違いでしかないことや、老師の用を受けている間に姫に用事ができたら揉めたりしないのか、などと言うことが頭の中を巡る。
 エイダはルスランの顔を見ると、挨拶をした後用件を告げた。
「アンが頼みたいことがあるって修道院で待ってます。それじゃ私、老師のところに行きますんで」
 老師からも姫からもこき使われているのはエイダも同じようだ。エイダはアンの正体について知らされていないらしい。
 言われるままに修道院に行くと、修道女姿のアナスターシャ姫が待っていた。ルスランはその前で最敬礼をする。するとアナスターシャ姫は少し悲しそうな顔をした。
「知ってしまいましたのね……、わたくしのこと。今ならもう少し、遊べると思いましたのに……気の利かないことですわ」
 姫を悲しませるくらいならば知らないふりをした方がよかったのかもしれないが、姫だと知ってなれなれしい態度をとるのも難しい。それに、これ以上遊ばれてたまるかとも思う。
「エイダにはもうちょっと黙っててくださいな。城内に友達としてつき合える同年代の子がいるなんて滅多にない機会ですので」
 さっき顔を合わせたとき、エイダが用だけ済ませてさっさと立ち去ったおかげもあり、口を滑らさずに済んだのは幸いだ。これ以上姫を悲しませずに済んだ。エイダにとっても城内で話せる年の近い友人は貴重だろうし、エイダが事実を知ったときの驚きもより大きくなるだろう。できればその様も見たい。ただで起きてなるものか。……そんなことに彼女を巻き込むのは少し心は痛まないでもないのだが。
「それで、ご用なのですけど。この城の地下に、先日の不届き者が捕らえられていることはご存知ですわよね」
「はい」
「わたくしを彼奴らの面前に案内してほしいのです。わたくし、彼奴らにありがたい神の話を聞かせる心優しき修道女という役回りになっておりますの。王女という立場では牢獄などには踏み込めませんからね」
「了解いたしました。……しかし、いいんですかそんなことをして」
「今生の別れですもの。悔いは残したくありませんわ」
 目的も何もかもよく分からないが、従うしかないだろう。
 牢獄の番兵に正体を悟られぬよう、アナスターシャは目深にフードをかぶり地下牢の入り口をくぐった。階段を下り、目的の囚人の牢にたどり着く。アナスターシャはそこでルスランを呼びつけ、付き添ってきた番兵を追い返すように小声で言ってきた。ルスランはそれに従い、ここは自分に任せて持ち場に戻っていいですよ、と伝えた。番兵は相手が兵士と修道女という身分であることから、あっさりと信じてその場を去った。
 番兵が確かに帰ったことを確認するとアナスターシャは牢獄の前に立った。山賊は言う。
「神の教えかなんだか知らねえが、神なんざいねえよ。いたところで俺たちゃ神に見捨てられてんだ。今更信じるもんかい」
 笑う山賊たち。アナスターシャは言う。
「そうですわね。神に見捨てられいるからこそ、こんなところにいるのです」
「ああん?」
 睨みつける山賊。アナスターシャはフードをとった。
「ああっ、てめぇはあん時の……」
 ルスランには二度目になる科白を吐く。
「あなた方の最大の不幸はこのわたくしに手を出したことですわね。そうでなければ首を切られずに済みましたのに。寿命が縮まりましたわね」
 ルスランは口を挟む。
「姫……いやその、アン様」
 一応この山賊にも目の前の修道女が姫であることは隠しておくことにした。
「お言葉ですが、こ奴らは山賊ですので、いずれにせよ縛り首です。大差ないかと」
「あら、そうですの?それならば少しでも憐れんだわたくしが馬鹿みたいではありませんか。死してなおこのわたくしに屈辱を与えるとは……。許せませんわ」
 まだ死んでないが、言わない方がいいのだろう。
「あなた方の苦しみは、処刑の時の一瞬ですの。それに比べてこの哀れなわたくしは、命ある限りあなた方から受けた恐怖と絶望を思い出し、悪夢に飛び起きては枕を濡らすのですわ。……あなた方の刑は近日中に執行されます。あなた方がとっとと地獄に堕ちてしまうことが残念でなりませんわ。ああ、叶うことならばあなた方を助命し、永劫この牢に飼い殺して毎晩のように鞭打ちたい気持ちで一杯だと言いますのに」
 天に祈り涙ぐみながら恐ろしいことを言うアナスターシャ。山賊はルスランに言う。
「こいつ、本当に修道女か?危ないだろ」
 本当に修道女かどうかならば答えは知っている。危ないかどうかはとりあえず不問に伏したいところだが……危ないかもしれない。だからこそ、ますます余計なことは口にできたものではない。
「そうそう、今日わたくしは説法に参りましたの。あなた方のような心臓に毛の生えた悪漢に通じるものかは分かりませんけれど、あなた方の惨めな末路について教えますわ。それを聞いて、自らの犯した罪の深さを知るのです」
 そういうとアナスターシャは断首刑の生々しい話を山賊たちに聞かせた。アナスターシャの立場ならば目にすることはないはずだが、見てきたように語る。実際に目にした者から話を聞いたのか。いや、もしかしたら密かに処刑場を覗いたのかもしれない。
「首を斬られた瞬間にその命が尽きるわけではないのです。少しずつ意識が遠のいていく……もしかしたらその時、血飛沫を吹き上げる自分の胴体を眺めることができるかもしれませんわ。そうなったら素晴らしいと思いませんこと?」
 嬉々とした顔で処刑を眺める彼女が思い浮かぶような、うっとりとした顔で陰惨な処刑の様を語るアナスターシャ。聞かされる山賊たちはげっそりし始めている。
 さらにいくつかの聞きたくもないような話をし、気の滅入る長話は終わったようだ。
「ふう。これで思い残すことはありませんわ。心置きなく、あなた方とお別れできますの」
 まるでこの世を去るかのような言いぶりだが、この世を去るのは言われている方だ。
「それでは行きましょうか、ルスランさん。ここは気が滅入りますわ」
 ルスランも気が滅入ってきたが、その理由のほとんどはアナスターシャだった。改めて、死とは恐ろしいものだと思う。そんな恐ろしい死が間もなく訪れる山賊たちに同情を禁じ得ない。
 すっかり黙り込んだ山賊たちを背に、階段を上り牢獄を後にする。先ほどの番兵が牢の入り口に立っていた。
「失礼いたします。……彼らがこれで自分の犯した罪の深さを分かってくださればよいのですけど」
 祈りながらそう口にするアナスターシャ。その様はどう見ても心優しい修道女だった。この芝居の巧さには舌を巻く。そもそも、ルスランもこれにまんまと騙されたのだから。
 明るいところに出ると、アナスターシャは足を止め、手近な段差に腰掛けようとする。ルスランは慌てて手持ちのハンカチを敷いた。地面とハンカチ、どちらがきれいだろう。
「お心遣いありがとうございます」
 そう言いながらハンカチの上に座るアナスターシャ。気分が悪そうだ。
「お体がよろしくないのですか?」
「気遣いは無用です。自分でした話に胸が悪くなっただけですから。……やはり、人が殺められる様など考えたくもない話ですわね。それに、あの顔を見ただけで背筋が凍る思いですわ」
「ならばなぜ、わざわざ出向いてまであんな話を……」
「だって。わたくし、あの時は本当に恐ろしかったのですもの。攫われたまま助けの来ない夢を見たのも一度や二度ではありませんの。そして、このわたくしとあろう者があんな賊ごときに怯えているのも情けなくて……。これからもどれほど悪夢にうなされ、屈辱を感じるのか……。それに比べて、彼奴らの処刑は程なく行われ、一瞬で終わりますの。不公平だと思いませんこと!?」
 先程、山賊たちの前でも似たようなことを言っていたが、あれは本心だったのか。つまりは、そんな近いうちに一瞬でその生涯を含めて全てが終わりある意味解放される彼らに、せめて処刑までの短い間だけでも恐怖と絶望を味わわせようと言う魂胆だったようだ。なんとも悪趣味だ。余程腹に据えかねているのだろう。
「易々と死なれてなるものですか」
 最後に吐き捨てるように言うアナスターシャ。
「そのためとは言え、わたくしもまた嫌なことを知る羽目になりましたわ。ああもう、話したことできれいさっぱり忘れてしまえればいいのに」
 先程山賊たちに聞かせた処刑の体験談めいた話か。自分のことではないとは言え、ルスランにとっても聞きたくもないような怖い話だった。自分で話して聞かせていたアナスターシャも相当参った様子だ。話していたときはさも嬉しそうに話していたが、気丈に芝居をしていたということか。
 今こうして本当は身をすり減らしながら話していたという態度こそがルスランに対する芝居なのかもしれないが……今後もつきあいがあることが考えられる相手だ。そんな相手としてどちらがマシかで考え、気丈に芝居をしたということにしておくことにした。
「ふう。こうして休んだことで気分もだいぶ良くなりました。もう大丈夫ですわ。早く帰りましょう。……命の恩人だというのに今日はこんなことにつき合わせてごめんなさいね」
「いえ、光栄であります」
 お姫様とお近付きになれるだけでもかなりの役得といえる。アナスターシャは別れの挨拶と「またいずれ」という再会を匂わせる嬉しいのか怖いのか分からない一言を残して去っていった。
 ルスランは敷いて置いたハンカチを拾い上げる。もう一生洗いたくない気分だが、改めて見てみるとそうもできないほど薄汚れていた。落ち葉でも拾って敷いた方がマシだったのではないだろうか。
 ちょっと臭いを嗅いでみたが、お姫様の上品な香水の香りをかき消すように汗くさい臭いが鼻をついた。
 これからはもう少しきれいなハンカチを持ち歩く決意をした。

 重大な政治犯が処刑されるというニュースが町をかけ巡った。姫をさらった不届き者だ。公開処刑を見に来る者も少なくなかった。
 ルスランは会場の整理係の任務が与えられた。整理係の仕事は会場が一杯になれば終わり、処刑が始まる頃には暇になる。ルスランが処刑をゆっくる見られるようにとの気配りのようだが、ただでさえそれほど見たいようなものではないし、先日のアナスターシャの話を聞いたあとではさらに気が進まない。
 一応、エイダにも処刑の話をしてはあるが、見に来るかと尋ねられたエイダはこう言った。
「私、顔も見たくないです!」
 顔も見たくないが、顔が無くなった骸もまた見たいと思わない。何一つとして見たいものなど無かった。当然、ここには現れていない。それが普通の反応と言える。血飛沫が上がるのを楽しみに処刑を見に来るような気性の荒い騎馬民族とは一線を画している。女の子らしい反応だった。
 女の子らしからぬ反応をしたのはアミアだ。処刑を見るために、一般人に混じって入場券を購入していた。
「エイダに怖い思いをさせたろくでなしの顔を見に来たの。ま、さすがに首を切られるところは怖いから、それまでには切り上げて帰る気だけどぉ」
 ついこの間、オーガの首を切り取って持ち帰った一団のメンバーとは思えない発言だった。
 処刑は恙なく行われた。処刑場に引っ張り出され、罪状を読み上げられる山賊たち。身に覚えのない姫君誘拐の咎を告げられたときには山賊たちも戸惑ったが、自らが攫われたと言うことを証言するために現れたアナスターシャの顔を見て、全てを悟ったようだ。
「この者たちは此度姫君を拐かした大罪人として刑に処すものである。普段より山賊として盗み、追い剥ぎ、拐かしを生業とし、姫君の他にも攫われたものも少なからず。余罪はあまたあると思われる」
 一応、この場にエイダが来ていたとしても、自分たちの他に姫まで攫っていたように思わせるような罪状の告げられ方だった。配慮したのかも知れないが、エイダは見に来ていない。杞憂だ。
 処刑の時が訪れた。下っ端の山賊が処刑台に連れて行かれる。処刑台はバネ仕掛けの大がかりな機械で、一瞬で確実に首を刈り取る。失敗やそれによる苦痛を減らす為と言うよりは、より血飛沫をきれいに噴き上げさせるために改良されているのだからろくなものではない。そして、高々と吹きあがる血に歓声を上げる観衆も大概だ。
 一人、また一人と処刑台に送られていく。先に仲間の無惨な最後を見せつけられた山賊の中には恐怖で錯乱してしまう者もいる。あの日のアナスターシャの言葉という毒が効き目を現しているようだ。
 一味の中でも見張り役など誘拐に深く関わっていない者は温情で早々と執行されるが、アナスターシャに怖い思いをさせた張本人たちは仲間の処刑執行を見せつけられ、処刑そのものもより陰湿になる。断首の刃が見えぬよう後ろ向きの拘束から刃が見えるように拘束されるようになり、じらすように拘束から断首までの時間も延びる。首領に至っては刃を引くばねを伸ばす前に断首台に首を通させられた。
 公開処刑は滞りなく終わった。これだけの人数が一度に断首刑に処された例は近年にはない。処刑場にはありふれた石ころのように生首が転がり、処刑場は目に痛いほどの赤に染まっている。見事な地獄絵図だ。それにしてもここ最近は生首ばかり見ている気がする。あの時見たオークの呪いじゃないかと思うほどだ。呪いならとっとと解けてほしい。もう生首はたくさんだ。
 ルスランには会場整理係として、帰る観衆の整理という最後の一仕事が待っていた。観衆は来る時よりも気分が高揚しているが、大きな混乱も起こらない。人が目の前で次々と死んでいく様を見て喜べるというのは、流石長年狩猟と戦争を生業にしていた民だ。
 ルスランにもその血が流れているだけに、直前にアナスターシャ姫のあんな話を聞かされてなかったら一緒に盛り上がっていたかもしれない。自分が処刑されるというのに、そんな話を聞かされた山賊たちの恐怖と絶望はいかほどか。つくづく、恐ろしい姫君だ。怒らせる気などないが、絶対に怒らせるまいと心に誓う。
 兵士仲間も盛り上がっていた。処刑の様を見たことにではなく、証言する姫の姿を目にしたことで盛り上がっているようだ。成り行きながら姫に個人的な用を頼まれるほどになったルスランとしては優越感を禁じ得ないところだ。
 だが、場所が場所とは言え、大衆の前に出ると言うこともあって姫は着飾っていた。今まで修道女に扮した姿か、せいぜい町娘の服装しか見ていない。姫の姫らしい姿を見るのは初めてだった。もう少しよく見ておけばよかったか。
 同僚兵士たちの姫への賛辞は容姿のみに留まらない。
「姫は美しい声だ」
「あの声で語りかけられたらそれだけで夢心地になれそうだ」
 果たしてそうだろうか。姫の声だと思って聞くからそう思うのであって、修道女の声としてそれを聞いてきたルスランにとっては普通の女性の声と変わりない。むしろ今は、その声で語られた地下牢での話を思い出して夢見が悪くなりそうだ。
 何にせよ、彼らも初めて姫を目にしたのが処刑の直前となると、当面は姫のことを思うと処刑のことも思い出されることになるのではないか。それよりはルスランの方がほかのことも思い出せるだけマシだった。

 それから数日後。修道院には修道女姿のアナスターシャ姫がいた。しかし、今日の彼女の待ち人はルスランではない。
 その待ち人が姿を現した。
「お待ちしてましたわ、エイダ」
「アン、お久しぶりー。ねえ、アンって修道院でも見かけないけど、いつもどこにいるの?」
 いきなり核心に迫る質問をするエイダ。気になっていたのだから仕方ない。
「うふふふ。わたくし、見聞を広めるという名目でたびたび使い走りの旅に出されていますのよ」
 アンは適当な嘘をついた。
「なるほど、そう言うことかぁ。じゃあ、もしかしてまたラブラシスに行ってたの?」
「ええ、そうですの」
 あっさり騙されるエイダ。そんなことよりもこうして呼び出したのは用があるからに他ならない。
「エイダさんが探している古のラブラシスについて、集められるだけの情報が集まったそうですわ」
 アナスターシャ姫直々のお願いということもあってラブラシスの識者たちも全力で調べた。考古学、民族学、地質学。あらゆる分野の知識が総動員された。それでもすでに伝承になり果てている事柄だけに、集まった情報は多くはない。
 今は迷いの森と呼ばれる森に飲み込まれたということは伝承にもなっているが、具体的な場所となると手がかりはほとんどない。その上、森は広大で深く、奥地にはダークエルフと呼ばれる民族が住み着いている。もっとも可能性が高い場所こそ、そのダークエルフたちの住処だ。
「森に立ち入るにはまずエルフたちの許しを得る必要があります。しかし、許しを得て森の奥に踏み込んだところで、その奥は魔境に等しい場所。そこを探し回るというのは、あまりにも無謀です。ですが、森の中で精霊たちが知らない場所となると、そこだけです」
 ラブラシスは精霊たちにとって故郷だ。森に飲まれていてもその痕跡はあるだろうと精霊たちがさんざんさがし回った。だが、それらしい痕跡はなく、残された場所はダークエルフの領域だけだった。
 ダークエルフは名前こそエルフだが、エルフを遙かに凌駕する魔力を持ち、その実は魔族と言っていい。精霊たちでさえ退けられているのだからその力は圧倒的だ。
 彼らが森の奥からでてくることはないが、彼らの領域を侵せば無事では済まない。結局、見つけられる見込みは無いという話だ。
「なんで、そんなところを探せなんて言われたんだろ。そもそも、何者なのかな」
 そう言い、エイダは溜息をついた。
 そのまま、黙り込み動きを止めるエイダ。アナスターシャは考え込んでいるのかと思い待つが、動きは別なところに現れた。虚空に霧が立ちこめ、見る間に濃くなり人型をとる。ウンディーネだ。ウンディーネは短く、そして鋭く言う。
『……来ます!気をつけて!』
 その緊張を帯びた声にアナスターシャはもとより、奥にいたマリーナも立ち上がった。
 それと同時にエイダの放っていた気配が一変する。二度もエイダに取り付きその体を操った存在が、三たびその体に降りたのだ。
『あなたは……何者ですか』
 問いかけるウンディーネ。ただの悪霊ではない、強大な力を感じる。だが、邪悪な感じはしない。ただひたすら、捉え所がない。
 得体の知れぬ存在はエイダの口を借りて言う。
「我は運命を操るもの、今この世界に起きている凶事の元凶なり」
 この世界に起きている凶事と言われても、誰も心当たりがなかった。ウンディーネは問いかける。
『……何が起きているというのですか』
「邪なる創世主の封印が解かれ、混沌が全てを支配するだろう。世界は滅亡と再生の時を迎える。運命に抗うを望むならば我の言葉に耳を傾けよ。古の都を目指し、そこに眠る真実を見届けよ。至る道はいずれ開かれる。この娘の体は滅びにあらがう剣を収める鞘となろう。……間もなく我の操る者共により“火”が目覚める。急げば彼の邪教徒の姿を捉えることも出来よう」
 一方的に話し終えると気配は瞬く間に消え失せ、エイダは糸が切られたように倒れ込んだ。
「いたぁい……」
 憑依の解けたエイダはすぐに意識を取り戻した。エイダとしては倒れて床にそこかしこを打ちつける前に体の制御も取り戻したかったところだった。
「大丈夫ですか、エイダさん。今、あなたの体を何者かが……」
 アナスターシャは駆け寄る。
「うん。そこから見てた」
 そう言いながらエイダは宙を指さす。体が得体の知れない存在に支配されているとき、エイダの意識は肉体から引き離され、空中を漂っていた。そして、一部始終を目撃していたのだ。
『それって……死んでるじゃないですか!生き返れて本当によかったですね』
 ウンディーネの言葉に、言われたエイダが一番驚いた。死んだと言われれば無理もなかった。
「あの……、ただ何かに取り付かれたって言うのとは何か違うんですか?」
『憑依は心の隙間に入り込んで意識を蝕むこと。肉体と魂を引き離すことはありません。肉体が生きている限り何人たりとも肉体と魂を切り離すことは出来ません』
 つまり、魂が肉体から離れて漂っていると言うことは死んだ状態に他ならないと言うことだ。
「えええっ。で、でも。幽体離脱ってあるじゃないですか。あれは……」
『あれは肉体に憑依している他の魂が肉体を離れて彷徨い、また肉体に戻った時に記憶を共有することで起こるんです。自分の魂はあくまでも肉体に縛り付けられたままなのです』
 そう言われてエイダには一つ思い当たることがあった。エイダの中には今、祖父アドウェンの魂がいる。アドウェンがエイダの中から追い出され、宙を漂っていたのだろう。そう考えることで納得し、エイダはほっとするが。
『それはない』
 エイダの心に、アドウェンがそう語りかけてきた。
『儂は、エイダの肉体に外側から憑依しておる訳ではない。お前の魂に取り込まれている。言うなればお前の心の中におるわけだな。そんな儂が体の外に出るには、エイダの魂ごと外に出なければならんわい。それに、エイダと同化するために今の儂は知識と思念以外は捨てておる。外に出たところで何も見えぬぞ』
 ということは、やはりエイダはしばらく死んでいたということになってしまうようだ。
 何が起こったのかは分からないが、相手の魂まで追い出して肉体を支配する方法も、肉体と切り離された魂を肉体に戻す方法も知られていない。精霊たちにすら出来ないようなことをやってのけるこの存在は、やはり相当な力を持っているようだ。
 そして、そんな存在が元凶となる凶事とは。
「火が目覚める……。そう、言っていましたね」
 ウンディーネは考える。自分自身が眠りを覚まされた水である彼女にとって、この言葉の意味を推察することはたやすかった。火、すなわちサラマンドラが目を覚ますのだ。
 だが、一つ腑に落ちないことがある。精霊たちの眠りを覚ますことにより、共に封印されているサタンも復活することになるだろう。だが、サタンは決して創世主などではない。
 蘇るのはサタンではないのか。そしてそもそも、創世主とは。
 ウンディーネは、創世主という存在を知っている気がした。しかし、思い出すことはできない。何かが心の中に引っかかっている。
 そもそも、自らを元凶というその存在の正体は未だに何一つ明らかになっていない。その言葉を聞く度に、謎ばかりが増えていく。
 とにかく、今すべきことは示されている。サラマンドラの封印が狙われている。そのことを急いで知らせなければならない。
 急げば間に合いそうな口振りだった。元凶を名乗る存在がわざわざ次の動きを知らせてくることには違和感を覚える。罠かもしれない。しかし、真実は見届けなくてはならいだろう。