ラブラシス魔界編

10話・夜の密談

 衛兵はリヒアルト公子の許嫁であり、フォーデラスト王国の姫アナスターシャを名乗る女性に問う。
「そ、その。なぜ邸内に入られることを拒むのか。まずそれにお答えください」
「公邸内は多くの人がおられます。その中にはわたくしの顔を存じている方も多いでしょう。そのような中に入れば、たちまちわたくしがここを訪ねたことが知れてしまいます」
「では、なぜ来訪が知られることを拒むのか。お答えください」
「わたくし、ここへは誰にも告げずお忍びで参りました。その時、修復中の山道を通る使者の馬車に正体を隠して乗り込みました。その使者たちにもまだ、わたくしの正体は知られていません。明日、その使者たちはこの屋敷を訪ねます。マイデル老師からの使命を受けた、ルスランならびにエイダと言う者たちです。その際、わたくしがここに来たことを伝え聞けば、その者たちにわたくしの正体が知れます。わたくしはすでにここに来るという目的は果たしましたが、あの者たちにはまた別な使命があります。あの者たちに余計な心配をかけたくはないのです。手紙に書いた通り、明日の午後、その使者たちが帰る頃合いを見計らってここを訪ねるつもりでおりました」
 リヒアルトは手紙を見た。実は、見覚えのある筆跡とアナスターシャの署名をみたリヒアルトは、いてもたってもいられずに、ろくに中も読まずに駆けつけていたのだ。
 手紙の中には、その使者が帰ったあとにアナスターシャの来訪を皆に知らせ、迎える準備を整えるように書かれていた。アナスターシャは、明日ここを訪れるだろうルスランにリヒアルトへの手紙を託し、その中にさもこれから訪ねるかのような文面をしたためるつもりでいたのだ。
「すまない。中も読まずに駆けつけてしまった」
「そうだと思いましたわ」
 笑いながらアナスターシャは言う。
「驚きましたが、今宵こうして会えて嬉しいですわ。……今夜はその連れと共に、近くの宿に泊まっております。心配なさることはございません」
「近くの宿……というと、ラブラシス・プリンスホテルだろうか」
 リヒアルトの問いにアナスターシャは頷く。
「ええ。宿帳にはアンという名前で署名しました。エイダの名もあります。確認なさっても構いませんわ」
 ここまで自信たっぷりに言うところをみると、確認の必要もないだろう。ラブラシスでもきっての高級ホテル。何かを企む偽者であれば、そのような高い宿に泊まる必要もない。
「宿に行けばわたくしが王家の者であることを示す品もいくつか持参してきております」
 ここまで自信たっぷりに言うのは、間違いなく本物であるか、よほど周到な偽者であるか。
「では、最後にフォーデラストの今の様子をお教え願えますか」
「いいでしょう。明日、つまびらかにお伝えしますので、今は簡単に申し上げます」
 そう言うと、アナスターシャは険しい顔つきになる。
「山道が塞がれるのと同時に、重大な事件が発生いたしました。巫女であられるマリーナ様が襲撃され、宝珠が奪われ封印が解かれました。幸いマリーナ様に大事はありませんが、宝珠の封印を解こうとする者が現れたことは懸念すべき事です。さらに、同じ一派と思われる者たちがアルトールに住まわれていたアドウェン殿を襲撃し、アドウェン殿は落命されました」
「アドウェン殿が!?それに、巫女のマリーナ殿が狙われるのなら、君にだって危険が及ぶかも知れないではないか!」
「わたくしは大丈夫ですわ。彼らの目的は宝珠だけのようです。アドウェン殿が殺されたことは、宝珠が奪われたこととは違う、別な流れなのではないかと見られています。わたくしが訪ねたのも、ここにある宝珠を彼らが狙うことを懸念してのことです。この話は、明日の使いがより詳しく伝えることでしょう」
「こちらは何事もなく、平穏だ。よもや、そちらでそのようなことが起こっていようとは。君は、ここに来れば宝珠を狙う何者かの襲撃に晒されるかも知れないことを承知で伝えに?」
 アナスターシャはかぶりを振る。
「そのことは、使者が伝えますわ。わたくしはただ、あなたのことを案じておりました。連絡が途絶え、そちらの様子が窺い知れぬ日々。あなたの無事を願わない日はありませんでした」
「私も、君のことを案じていた。だが、案じるばかりで何も知ることが出来ない。よもや君の身にそんな危険が及んでいようとは」
「わたくしには何の危険も及んでいませんわ。今した話も、全て伝え聞いたものばかりです。わたくしこそ、騒ぎの話を遠くに聞きながら安穏と暮らしているのが心苦しいくらいです。半年前にお会いした時から婚礼の日が待ち遠しく思っておりました。しかし、今はその半年さえ待ち切れぬ思いですわ」
 アナスターシャは目を潤ませながら、衛兵の目も気にせずにリヒアルトの胸に飛び込んだ。

「なんと。いつの間に」
 さすがのマイデル老師も、マリーナの話には驚くしかなかった。
「半年前の訪問のときだそうです。そのとき、リヒアルト様にばったりとお会いして、心を変えられたとか」
 アナスターシャ姫は8年前に婚約が決まったときに対面したリヒアルトがあまりにも大人しく言葉少なで、ひょろっちいその外見と相まって漂うその頼りなさに呆れ果て、それ以来婚約への不満を言い続けて来た。
 だが、そのラブラシス訪問のときに転機は訪れた。アナスターシャ姫が気晴らしにふらりと公邸の裏庭に出たとき、もしやアナスターシャ姫では、と名前を呼ばれ振り向くと、そこには一人の若者が立っていた。言うまでもなく、リヒアルトだった。
 だが、アナスターシゃは彼がリヒアルトであることに本人が名乗るまで気付けず、名乗ってからも自分の記憶の中のリヒアルトとの変わりように驚きを隠せなかった。
 実際には言うほどリヒアルトが変わったということもないのだが、初見の印象で頼りないイメージを持ってしまい、嫌だ嫌だと言いながらろくに会いもせずにその軟弱で陰気と言うイメージを膨らませ続けていたのだ。
 そんな負の面ばかりが肥大化したイメージと比べたせいもあるのかもしれないが、実際のリヒアルトは軟弱でも陰気でもなかった。
「お噂はかねがね伺っています、姫君。私との婚約を大層嫌がっておられるとか。まずは8年前の申し開きをさせて戴きたい」
 そう言い、リヒアルトは8年前は緊張ゆえにろくに喋れもしなかった非礼を詫びた。アナスターシャはまさにそのたった一度会ったときに全てを決めつけていたことを見透かされ、戸惑った。しかし、考えればそのたった一度しか顔を合わせることもなく、その時以来顔を合わせることを拒み続けているのだ。ほかの原因こそ考えようがない。
 アナスターシャはこの機会に互いのことをもっと知らなければと思い、互いのことを語り合った。話しているうちにアナスターシャが勝手に抱いていたリヒアルトへの根も葉も無いイメージが全く見当違いであることを悟り、大いに恥じた。
 リヒアルトは彼の父や祖父がそうであるように整った顔をしていた。そのせいもあり、今まであんなに大嫌いだったリヒアルトにあっさりと熱を上げるようになってしまったのだ。
「そうならそうともう少し早くおっしゃってくだされば良いものを」
 事情を知り、マイデル老師も合点がいったようだ。
「姫も、8年も嫌っていたリヒアルト様をたった一度会っただけで好きになったなんて、とても言えなかったのです。その気持ち、私にだけは話してくださいました」
「プライドの高い姫君らしい話よ。それにしても、また会いもしないまま半年間恋心を膨らませて来たとなると、婚礼の後のことが心配だの。共に暮らし始めてから理想とのギャップに気付いて険悪になるのは良くある話よ」
「まあ。奥様の悪口ですか?」
「一般論よ。まあ、この機会にもっと互いのことを知り、今後すんなり行くことを願おう。……それと。もう姫の居所も分かったことだし一安心と言いたいところだが、姫がマリーナの口車と儂の出させた馬車に乗ったとなると面倒なことになる」
「まあ。口車だなんてあんまりですわね」
 マリーナを無視してマイデルは独りごちる。
「どう言い訳したものか。全く、困った姫君よ。我々としても、婚礼の日が待ちどおしくてかなわん」
「いろんな意味で、そうですね」
 二人は揃って苦笑いを浮かべた

 その頃、通りの酒場では二人の男がグラスを手に語り合っていた。ライアスとグライムスだ。
「酔っ払う前に、まずわざわざこんなところに誘い出してまでしなければならない話を済ませて置こう。何分、娘には聞かせにくい話でな」
 グライムスはそう切り出した。
「何だ?女絡みか?」
 ライアスが茶化す。年を重ね地位は高くなってもこの口振りは変わっていない。
「はっはっは。まあ、強ち違うとも言い切れないがな。……アドウェン殿を襲った者についてだ」
 豪快に笑ったあと、声をひそめてグライムスが言った。
「全然違うじゃないか」
「強ちといったはずだが」
「……奴ら、女だったのか?」
「ドワーフみたいなのもいるから断言はできんが、声を聞いた感じ男のようだった。……奴らの容姿について聞いていないか?」
 ライアスの元にももちろん話は届いている。
「何から何まで黒かったと聞いている。ただ一つ、魔導師の身につけていた髑髏の仮面を除いては」
「そう。奴らの肌は雨の夜の空みたいな色をしてやがった。俺は昔、あれと同じ色の肌を見ている」
 その言葉にライアスはグライムスに向き直った。
「犯人に心当たりがあるのか」
「あると言えばある、ないと言えばない。俺の知っているそいつは間違いなく死んだはずなんだ」
「話が見えん。もったいぶらずに話してくれ」
 急かすライアスに、グライムスはグラスの中の酒を見つめたまま言う。
「焦らす気などないがな。いいだろう、結論から言おう。……奴らはエミーナを殺した奴とよく似ている。その黒い肌、それに、奴らが口にしていた『英雄狩り』という言葉。それも奴がよく口にしていたものだ」
 強ち女絡みでないこともないとはこういう事か。ライアスは暫し無言でグラスを見つめた後、低い声で言う。
「確かに、死んだはずだな。その目で奴の死を見た人間が言うんだ、間違いない。……実は止めを刺せていなかったということは?」
「魔族のことだから言い切ることはできんが、頭を真っ二つにされ、骸を焼かれまだ生きているとは考えにくい」
「……確かに」
 ライアスはその最後を見たわけではないのでグライムスの話から想像するしかないが、そこまでされて生き延びるのはよほどの化け物だ。
「奴ではない。だが、奴の同族だろう。恐らくこれは復讐だ」
「あんたを狙っているのか?」
「恐らくは。だが、俺に向けて特別深い憎悪を持っている訳でもなさそうだった。全て俺の思い過ごしなのか、遺志を継いだだけなのか、奴らも誰が奴を殺したのかまでは知らず漠然と英雄を殺しているのか。……今はまだ、可能性はあると言う程度の話だ」
「確かに、可能性はある。で、それをわざわざここで話した訳は?」
「アミアだって母親の死について知らぬ訳ではない。奴を追うための旅にまで連れ回したんだからな。奴を俺がこの手で葬ったと聞いたときは、あいつも泣いて喜んでいた。そんなあいつの前でこんな話をしてみろ。誰の制止も聞かず、奴を討ちに飛び出すだろう。……昔の俺と同じように、な。……俺は奴を倒した。だが、あいつは戦士としても魔法使いとしてもまだ未熟だ。返り討ちに遭いに行くようなものさ」
 暫し、沈黙が続く。先に口を開いたのはライアスだった。
「グライムス。アルトールに使いに行った兵士と共に戦ったんだろう?」
「ああ。ルスランと言う青年だな。一度ならず二度も会ったんだ。よく覚えている」
「あいつはルークの息子さ。聞いてたか?」
 そう言い、ライアスはグラスの酒に口を付けた。今まで、二人とももグラスを持ったまま一口も飲んでいなかったが、それを皮切りに二人はグラスを傾け始めた。
「いや、初めて聞いた」
「ルークが死んだのは聞いているな?」
「ああ。盗賊討伐の際に命を落としたとか」
 グライムスは、その旧友の死については話に聞いたくらいで詳しくは知らない。確か、エミーナが殺されてすぐの頃だったはずだ。その頃のグライムスに、旧友とは言え疎遠になった者にまで気を回す余裕はなかった。
「そう。盗賊に殺されてな。盗賊を討伐に行ったんだから、盗賊にやられた。至極当然の考えだ。だが、俺はそうは思っていない。……おそらく奴の英雄狩りとやらだろう」
 グライムスもその話に身を乗り出した。
「間違いないのか?」
 ライアスはかぶりを振る。
「むしろ、確証こそ何一つない。奴の姿を見た者もいない。それどころか、ルークを襲った奴の姿さえ、誰にも目撃されていない。しかし、だからこそ俺は奴だと思う。奴ならそんな芸当だってお手の物だったろう。むしろ、訓練された兵士の集団の中での暗殺なんて芸当が奴以外に出来る奴がそういるとは思えない。……討伐は深夜に行われた。ルークは盗賊の隠れ家への突撃の指示を最後尾から飛ばしていた。その討伐での死人は最後尾のルークただ一人。軍は物量も単独での能力も圧倒的だった。盗賊はあっさりと討伐できたよ。ルークは隠れ家の外に身を潜めていた盗賊にやられたことになっている。だが、そんなはずはない。その状況で隠れ家の外にいた盗賊が兵隊に立ち向かう訳がないだろ?仲間を見捨てて真っ先に逃げるはずさ。訓練を受けた軍人だって、その状況で決死の攻撃に出られる奴なんて稀だろう。死よりも生きて明日の戦力を残すことこそ美徳とする我が軍の兵ならなおさらだ」
「……奴と盗賊が手を組んでいた、と」
「いいや、そうじゃない。ルークたちの部隊が盗賊討伐に出るのを知ったうえで、その背後を狙うべく潜んでいたと考えている。……ま、真相を知る者はもはや誰一人いないだろうがな」
 グライムスは空になったグラスに酒を注ぎながら尋ねる。
「ルークの息子はそのことを?」
「いや。あいつはその時まだ子供だったからな。それに、奴の仕業だと思っているのは俺を含めて詳しい状況を知っている一部の人間だけだ。確証もない話をしても仕方がない」
「そうだな。ひとまず、奴らについて探っておいた方がいいだろうな」
「もちろん。手を組んでるだろう旧帝国軍の残党の件と共に、マイデル老師と文官たちが懸命に情報を集めている。そう長いことはかかるまい」
 グライムスは辺りを窺いながら言う。
「しかし、このような話を市井の耳に触れる場所でしてもいいのか?噂になり国民が不安がるのでは?」
「まだこの国の連中のことを分かってないな、グライムス。きな臭い噂を聞くと、女子供までが目を輝かせながら武器の手入れを始めるような連中さ。むしろ、話が広まった後に大したたこともないまま片付いてがっかりされる方が不安さ」
 グライムスは肩を聳やかしながら呟く。
「全員が俺の娘みたいな国か」
 ライアスは笑った。
 重要な話は済んだ。後は戦友同士の思い出話になり、夜は更けて行った。

 アンが戻って来たのは夜が更けて来た頃だった。その遅い帰りを心配していたエイダも、何事もなく帰ってきたアンの姿を見てほっとする。
「ごめんなさい。もっと早く帰って来るつもりでいたのですけど」
「ううん、いいよ。それより何かあったの?なんか嬉しそう」
 アンは心なしかと言った程度ではなく、明らかに頬が緩んでいる。
「えっ!あら、そうですか?……その、ちょっと収穫がありましたの」
「えーっ。なに?」
「内緒ですわ」
「けちー」
 明後日の方を向いて言うアンにエイダは口を尖らせた。話をそらすようにアンは言う。
「それより、一人で退屈しませんでしたか?」
「ちょっとね」
「それより明日の件ですけど。わたくし、やっぱり皆さんとご一緒させて戴くことにしましたわ」
 アンは明日の手筈についてリヒアルトや衛兵たちと話し合った。庶民の姿のままで公邸を訪れ、あまり人に逢わず済む場所を通って公邸内の一室に向かい、そこでリヒアルトと会うことになったのだ。何のことはない、待ち切れない二人が逢い引きの時間を早めるために策を巡らせた訳だ。
 そうと決まれば、アンも朝一で宿を出られるように荷物を纏めておかねば。と言っても、ここについてから引っ張り出した荷物は便箋くらいだ。
「あら。なにかしら、これは」
 急いで飛び出したので机のままに置いたままになっていた、その便箋をしまおうとしたアンは、便箋の上に書かれた文字に気付く。エイダも覗き込んだ。
“女神の待つラブラシスはここではない。他のラブラシスを探せ”
 エイダはその文面にドキリとした。さらに。
「これ……あたしの字だ……」
「えっ」
 それと同時に、エイダの脳裏にある光景が浮かぶ。エイダはそれを見ていたような気がする。机の傍らにたち、便箋に筆を走らせる、自分の後ろ姿を。
「あいつだ……。またあいつがあたしの体を操ったんだ……」
 リム・ファルデの修道院で、エイダを操り言葉を伝えた得体の知れない存在。それが再び何かを伝えようとしたのだ。
 気味が悪いし、それより残された言葉もどういう意味なのか。
 以前のメッセージでは明確に名前を告げはしなかったが、あの言葉はまさにラブラシスに当てはまっている。だからこそここに来たのだ。そして、今回のメッセージは目的地がやはりラブラシスであることを告げていた。だが、ここではないと言っている。
 ラブラシスが他に存在するのだろうか。エイダは自分の中のアドウェンに問いかけてみるが、分からないという答えだった。アドウェンが分からないのでは、エイダやアンに答えが出せるはずもない。
 不安ではあるが、今日のところは深く考えないことにした。明日、詳しそうな人にあたってみるのが一番だろう。この町にはそう言うことに詳しい人が多数いるはずだ。なにせ、人間世界でもっとも魔法文明の進んだ国なのだから。

 夜が明けた。ルスランは食事を済ませ、エイダを迎えに行くことにした。
 ラブラシス・プリンスホテルの前には、昨日アンにおごってもらった服を身に纏ったエイダと、その時に買った服を着たアンが並んで待っていた。ロイヤルなホテルの前に立つには似合いの、ロイヤルな佇まいだ。馬車も祖こそ軒は小綺麗であるだけに似合う。不似合いなのは御者だけだ。
「早いね。待たせちゃったかな」
「待ちました!」
 エイダの反応から、相当待たせてしまったのだと感じるルスラン。だが、実際待っていた時間はそれほど長くはなかった。ただ、早く来ないかと強く思っていたせいもあって、時間がとても長く感じられたのだ。
 早く来ないかと思ったのは、もちろん昨日の便箋の一件があったからに他ならない。エイダは早速昨日のことをルスランに打ち明けた。しかし、アドウェンにさえ分からないような事だ。ルスランもこう答えるしかない。
「うーん。さっぱりだなぁ」
 エイダが書いたという便箋の文字を眺めても、何のことなのかも分からない。
「ま、そうでしょうね……」
 全く期待はしてはいなかったが、その予想を裏切ってくれることには心のどこかで大いに期待していたエイダが、露骨にがっかりした。
 だが、ルスランにも一つだけ分かったことがある。いろいろありつつようやくラブラシスに到着したものの、この期に及んで事態が面倒な方に動いたということだ。
 やはり、こういうことは知識のある人に聞いてみた方がいい。用件を済ませたら学者にでも見解を伺ってみることにした。
 見送りかと思っていたアンだが、ルスランの知らないところで事情が変わっていたらしく、アンも一緒に公邸に行くそうだ。
 とは言え、公邸は目と鼻の先。歩いても行けるような距離だ。あっと言う間に到着する。
 馬車が到着し、アンとエイダが降りると慌ただしく衛兵たちが駆けよって来た。
「馬車を預けてくる。ちょっと待ってて」
 ルスランは二人に向けて言う。すると、衛兵が割り込んで来た。
「馬車は我々にお任せください」
「いえ、こちらでやりますのでお構いなく」
「いえいえ、そうも参りません。何卒お任せください」
 そこまで強く言われてはルスランも折れる。
 馬車を衛兵に預けて馬車を降りると、アンが声をかけて来た。
「ルスランさん、エイダさん。ここでお別れですわ。わたくし、リム・ファルデにはしばらくここに留まった後に帰ることになると思います。今までお世話になりました」
「いやいや。こっちも随分経費は浮いたし、いい宿にも泊まれたし。お互い様だよ」
 本当にいい思いをさせてもらったルスランは、心から言う。
「そんな。ルスランさんがいなかったらどうなっていたことやら。あなたは命の恩人です」
「それもお互い様だよ。君とエイダが盗賊から自力で逃げて来てくれなかったら、今頃は亡命先を考えてるところだった。君たちが馬に乗ってやって来たとき、目の前に白馬の王子が現れたお姫様の気分ってこんなかなと思ったよ」
 ルスランのたとえに少し動揺するアンだが、平静を取り繕う。
「なんにせよ、わたくし御恩は忘れませんわ。では、またどこかでお会いしましょう。ごきげんよう」
 アンはそう言って微笑んだ。
 衛兵は二人を案内し始めた。
 その背後に残されたアンにも衛兵が寄り添った。
「参りましょう。リヒアルト殿下がお待ちです」
 アン……アナスターシャ姫は庭園方面に案内されて行った。

 ルスランたちはいつ用件を伝えるべきなのか量りかねたまま、ラブラシス元首リルケ公爵の面前に案内された。
「本日はよくぞ参られた。我々もフォーデラスト王国からの知らせを心待ちにしていたところだ。大儀である」
 公爵は言う。
 まだ何も言ってないのによく分かるなぁ、と感心するルスラン。やはり魔法の力でルスランたちの到来を予見していたのだろうと勝手に納得する。言うまでもなく、リヒアルトがアナスターシャ姫から受けた知らせを伝え聞いていたのだ。
 エイダに至っては、心の準備もできないうちに公爵の前に引き出されて緊張で完全に硬直している。しかも、公爵は年は40そこそこと言ったところだが、そんなことを感じさせないほどの美丈夫。相対するエイダの緊張も一入だ。余計なことを考えている余裕などまるでなかった。
 ルスランは公爵にリム・ファルデで起きた事、そしてアルトールで起きたことを伝える。公爵はこの深刻で急な知らせにも至って落ち着いた様子で耳を傾けている。落ち着いていられるのは、概要は既に聞いていたからに他ならない。
「幸い、こちらにはまだ異変はない。宝珠を守る結界を強化し、より守りを強固にしよう。ラブラシスの誇る魔法技術の粋を集めた結界ゆえ、もう何人とて宝珠に近づくことはできぬはず。こちらの心配はないとマイデル殿に伝えられよ。それと……エイダ殿」
 ただでさえ緊張していたところに突然名前を呼ばれ、エイダは焦りながら上ずった声ではいと答えた。
「此度のアドウェン殿の事は誠に残念であり、遺憾である。当然存じておるだろうが、アドウェン殿は長年この国の魔法技術向上のために尽力され、本国に真に大きな貢献をされた。私とて頭の上がらぬ御仁であられた。深い哀悼の念を伝えるとともに、此度の一件については我が国としても全力で真相を追究することを約束しよう」
「はいっ。ありがとうございます」
 緊張の極みに達しているエイダはとにかく無難な返事をした。しかし、その公爵とて頭の上がらない存在であるアドウェンの意思は、そんなに緊張する相手ではないぞと心の中から呼びかけていた。何と呑気なことか。
「ときに。知っておるかも知れぬが、ここにある宝珠は、巫女であり勇者エイモスの細君でもあるイオタ殿からお預かりしている物だ。エイモス殿にもこのことを伝えなければならない。我々は使いを出すが、共にエイモス殿やイオタ殿にお会いして話を聞かれると良いだろう。そのように手配させてもらった」
 公爵に呼ばれ、衛兵が一人歩み出た。その衛兵は二人をルスランたちが乗って来た物は違う馬車に案内し、馬車はルスランたちを乗せて走り始めた。

 馬車の中で、エイダは露骨にほっとした。それはルスランとて同じではある。
「いやー。マイデル老師より偉い人の前に出たのは初めてだ。緊張したなぁ」
 そんな態度はおくびにも出さず、飄々とした様子だったルスランがそう言ったので、エイダは口を尖らせながら言う。
「そんなふうに見えませんでしたよ」
「まあ、俺は仕事柄、感情を押し殺してはったりをかませるように訓練も受けてるし。君も緊張してたよな。返事したとき声も裏返ってたし、呂律も回ってなかったし。さっきだって足が縺れて蹌踉けてたし」
 エイダは真っ赤になる。
「ちょ、なっ。もう、酷いなぁ。何で前を歩いてたのにそういうところだけ見てるんですか!」
「蹌踉けたこと?だって、俺の背中にぶつかって来たじゃないか」
「えっ。そ、そうでしたっけ」
「覚えてないの?」
 そう言われてみれば、そうだったかもしれない。そんなことも忘れてしまうほどエイダは浮足立っていたということだ。
「それにしても、まだ何も言ってないはずなのに公爵様は何でもお見通しですごいな。言う前から事情は分かっておられた様子だったし、一度も名乗っていないのに名前までお知りになっておられたし。魔法の力かな」
 ルスランの言葉に、魔法の専門家のエイダは考え込む。
「そんな魔法、あったかなぁ。あったとして、相手のプライバシーを侵害するような魔法、行使するかなぁ……」
 そんなやり取りを、公爵に命じられ御者を務める衛兵は冷や冷やしながら聞いていた。
 公爵が事情に詳しかったのは、言うまでもなく昨夜アナスターシャがかい摘まんで話した事柄が伝わっていたためだ。アナスターシャはさらに、今日訪ねて来る王国の使者ルスランやその同行者のエイダに自分の正体を知られたくないとも言っていた。リヒアルトはそのためにアナスターシャと共に一計を案じた。それは公爵の協力も必要だった。
 公爵家も娶る側とは言え、相手は由緒ある王家。まして、その姫が結婚をとても嫌がっていたのは長年の悩みの種だった。アナスターシャが心変わりを起こしたことはリヒアルトと二人だけの秘密。リヒアルトに近しい衛兵の一部は知っていたが、公爵に告げ口など出来ようものか。そんな話が微塵も届かない公爵の頭の中では、これはアナスターシャのご機嫌取りにはまたとない機会だと言うことになったのだ。だからこそ、二人の企みに全面協力することにした。
 公爵はその計画の事で頭が一杯になり、まだフォーデラストの事情を何も知らないことを装うのを忘れてしまっていた。しかし二人の使者は、突然公爵の面前に引き出された緊張もあいまってエイダはその不自然さに気付けず、呑気なルスランのみ薄々気付きこそしたものの、細かいことだと気にはしなかった。
 公爵の最初の役目は二人と面談し、勇者エイモスへの使者に同行するように仕向けること。公爵の半ば命令のような勧めをさすがに断ることはできない。思惑どおり、エイモスの館へ向かうこととなった。
 かくて、二人は何事もなく、思惑どおりに公邸から引き離されて行った。