ラブラシス魔界編

9話・消えたプリンセス

 時は少し遡り、昼。
 昨夜はラルカウィの断崖麓にあるゴブリン商店の簡易寝台に一泊したグライムスとアミアの親子は、朝の訪れとともに洞窟を通りリム・ファルデを目指していた。
 ドワーフたちの町を通り、ルスランの話通りにドワーフが恐れる悪魔の口展望台で休憩を取る。さらに進むと工事が途中で投げ出された階段に行き着いた。
 見取り図を頼りに坑道を進み、リム・ファルデの空が見えたときには日は既に高く昇っていた。
 坑道を出ると、坑道の中に住んでいるはずの、坑道の中では遭遇しなかったオークたちに取り囲まれた。仕事道具の鶴嘴やスコップを手に、襲いかからんばかりの勢いだ。しかし。
「人間だ」
「何だ人間か」
「驚かすな」
 そう言いながらオークたちは臨戦態勢を解いていく。武器を構えていたアミアも引き下がった。なんだとは何よ、説明しなさいよ、何様のつもり?と食ってかかりたいところだが、オークとそういう揉め事を起こさないようにおとなしくしているようにと昨日グライムスに釘を刺された時、大丈夫、いつまでも子供扱いしないでと見栄を張ったばかりだ。丸一日も経ってないのにその見栄に反するようなことはできない。
 ドワーフのことがオークたちの耳にでも届いたのだろうか。いや、相手がドワーフにしてはオークたちの様子がおかしい。それならのその鶴嘴やスコップを手にドワーフの町に攻め込んでそうなものだ。アミアやグライムスを見、人間だと分かってほっとしたような感じだった。
 案の定、オークたちはこんなことを言ってきた。
「人間。穴の中でオーガに遭わなかったか」
「オーガだと?遭っていないが」
「ここのとても奥に、オーガが住んでいたそうだ。恐ろしい」
 オーガは食人鬼とも言われるように、人間を食らう怪物。正確には人間に限らず肉であれば何でも食べる肉食の民族だ。人間より大きな体を持つオークよりもさらに一回り以上大きな肉体を持ち、時に徒党を組んで町や村を襲うことがある。
 そんなオーガが好んで食べるのがオークなのだ。オークは体が大きい上、筋肉も脂肪も多めだ。より食欲を満たせる。それに体毛も少ないためそのまま齧り付いても舌触りが悪くない。おまけにオークは動作が緩慢で捕まえやすいということもある。人間から見れば大きな体を持ち力強く恐ろしいオークも、さらに大きなオーガから見ればやんちゃなちびっ子が暴れている程度のものだ。なお、体が小さく骨張っており、全身毛だらけのドワーフはよほど腹を減らしたオーガでなければあまり手を出さない。これもオークがドワーフを嫌う理由の一つになっている。あいつらばかりオーガに狙われずに卑怯だ、と。
 とにかく、オーガなどに遭遇していたら無事では済まない。それにそんなものが出没するなら、いくら食われにくいドワーフでも平然としてはいないだろう。だが、ドワーフたちはそんなことは一言も言っていない。
 ドワーフたちは洞窟に長く住んでいる。そちらから入ったのならドワーフが気付くはずだ。かといってこちらから洞窟に入り込めるとも思えない。リム・ファルデの真ん中を通らないとここには来ることができないためだ。
 これは何かある。グライムスは詳しく話を聞いてみることにした。
「オーガの話は誰から聞いた?」
「最近この辺をうろちょろしているちっこい奴だ。えーと、……ごむりん?」
 ゴブリンか。案の定だ。
 大方、ドワーフとオークが同じ穴に住んでいるという危険な状態をどうにかすべく、適当な作り話でオークがこの奥に入りたがらないように仕向けるつもりだったのだろう。ドワーフたちを軽く脅したときのように。
 だが、オークにとってオーガの脅威はゴブリンが想像していたレベルの物ではなかった。オークたちは洞窟から飛び出し、こんなところにバラックを建てて避難生活を始めた。本当はこの場所さえも離れたいのだ。
 ここに住むオークはラルカウィの山道修復工事に駆り出されている者たちも含まれる。だが、こんな騒ぎになってしまい、工事も捗っていないそうだ。
 深く考えずに思いついたことをとりあえずやってみるという、ゴブリンが悪戯者と言われる所以となった性分が遺憾なく発揮された形だ。なんと迷惑な話だろうか。いずれにせよ、グライムスたちには関わりのない話ではある。

 グライムスは城を目指す。この町で頼れそうな知人は揃いも揃って城にいるのだ。
 思いつく中で一番話やすそうな相手はライアスだ。若いころは共に前線で戦った戦友である。
 しかし、ライアスもいつの間にか王国親衛隊の副隊長というご大層な身分になっている。そのためなかなか会えはしないだろうと思っていたが、兵士の一人にいつ会えるか確認を頼んむと、ライアス本人を連れてきた。
「忙しいだろうに。急ぎではないのだが、そう伝わらなかったのかな」
 グライムスの言葉にライアスは肩を聳やかす。
「その忙しさの要因の一つが、あんたも巻き込まれたアルトールでの一件だ。何分、例の件については情報が少なくてね。その話も聞けるだろうと飛んで来たさ」
「なるほど、そういうことか。もちろんその話もさせて貰おう。……しかし、エイダをマイデル殿が預かられていると聞いたが、エイダから話は聞けなかったか?それに、アルトールに来た若者。国軍の兵だったはずだが」
「ルスランか。もちろん二人からも話は聞いたよ。だが、それでも情報が足りなくてね。あんたの話はマイデル老師も聞きたいはずだ。執務室に案内しよう」
 案内しようとするライアス。アミアが歩き始めようとしたグライムスの腕を引きながら言う。
「ねえ。あたし、ついてっちゃっていいのかな」
「構わんよ。こんなところに年頃の娘を一人で待たせる訳にもいかんからな」
「気遣いは要らんぞ。一緒に訓練でもさせた方がいいくらいだ」
 ライアスの言葉にグライムスは横槍をいれた。
「そうもいかん。兵士が戸惑う」
「それもそうか」
 そのやりとりにアミアは頬を膨らませた。
 ライアスは二人を連れてマイデル老師の執務室を目指す。下級文官が慌ただしく駆け回る一帯を抜け、高級文官が静かに執務を行う空間に差しかかる。その奥にマイデル老師の執務室がある。
 ライアスは扉を叩く。が、応えはない。
「留守だろうか……」
 ライアスが呟いたとき、文官が顔を出す。
「マイデル殿なら先刻どこかに出掛けましたぞ」
「やはりそうですか。いつ戻られますかな?」
「さあ。しかし、外出する様子ではありませんでしたな。トイレにしては長いようですし、また誰かに用でもつけに行かれたのでは。そのうち戻られるでしょう」
 そう言っている間にも廊下にマイデル老師が姿を現した。
「どうした、ライアス。……そなたは誰だったかの。知らぬ顔ではないが……」
 マイデル老師はグライムスの顔を見て懸命に思い出そうとしている。
「グライムス・ホームドです。お久しぶりです」
 名乗った後もしばらく固まっていたが、ようやく思い出したらしくマイデル老師は大きく頷く。
「ラブラシスで会って以来だの。かれこれ10年にはなるか。エミーナは元気にしておるか」
「いえ。その、7年前に他界しました」
「なんと」
 エミーナはグライムスの妻だ。7年前に何者かに襲われ、当時13歳だった長男と共に無残に殺されたのだ。
 マイデル老師の中では彼らのことは最後に会った10年前から止まったままになっている。ライアスはグライムスたちの最近の様子をマイデルに話して聞かせた。
「グライムスは4年ほど前からアルトールに移り住んでいたのです」
「この娘のためです。魔法の道を進ませるためにアドウェン殿に教えを仰いでいたのです」
 アミアの肩を叩きながらグライムスは言った。マイデル老師は目を丸くする。どう見ても、魔術を学ぶ者というよりは武術を学んでいる身なりだ。とは言え、魔導師が鎧をつけてはいけないという決まりはない。マイデル自身も20年前の戦場では、魔導師でありながら鎧をまとい、剣を手に戦場を駆けたものだ。破天荒な変わり者呼ばわりされたが、今となってはよい思い出だった。
 アミアもマイデルのその一瞬の驚きを感じ取り、口を開いた。
「魔法で足りない分は体力で補うというのが流儀なのですよ」
 喋ろうとしたところをグライムスに割り込まれたアミアは、グライムスの足を思いっきり踏ん付ける。いつものようにあっさりと躱されたが。
「文武両道を目指しているんです」
 意味するところは似たようなものだが、聞こえのいい言葉で言うアミア。そこにグライムスがまた口を挟む。
「どっちも中途半端だがな」
 アミアはグライムスの足を思いっきり踏ん付けた。また躱されたが。
「志は高い方が良い。その方がより努力する気が起こるものよ。わしも若い頃は……」
「老師。こうしてグライムスを連れて来たのは、例のアルトールの一件について話して貰うためです。あの場に居合わせた当事者ですから」
 ライアスがマイデル老師の話に割り込んだ。その後グライムスに小さく耳打ちする。
「長く生きておられるから昔話を始めると日が暮れても終わらんよ」
「聞こえておるぞ」
 聞こえるように言ったのだからそれはそうだろう。ライアスは惚けた。
 グライムスはあの日起こったことをつぶさに話した。概ね、ルスランやエイダに聞いた話と大差ない。ルスランが駆けつけるまでの話が新たに聞けただけだ。
 突然町の上にガーゴイルの群れが現れ、町は騒ぎになった。そこに例のムスタハと言う男が現れ、アドウェンの居場所を住民に尋ねたそうだ。住人は怯えながら白状した。しかし、その時アドウェンは自宅ではなく講義のために学校にいたのだが、住民は自宅の場所を教えたのだ。その直後グライムスの元にも、何者かがアドウェンを狙っているようだとの話が伝わり、グライムスはすぐにアドウェンの自宅を目指した。
 自宅は娘婿メイソンの営む花屋。メイソンは上空に集まって来たガーゴイルに妻ジェシカと共に応戦を始め、そこにグライムスも駆けつける。ルスランがやって来たのはその直後だった。
 ここからの話は既に聞いている通りだった。むしろ、その後についての話に興味深い事象が含まれていた。
「人が消えた、だと?」
 ライアスの言葉にグライムスは頷く。
「うむ。住民総出で近隣一帯を捜し回ったのだが、死体さえも出てはこなかった。人数が人数だ。奴らに殺されたというのなら、どこかに死体か殺されたときの流血の跡くらいはありそうなものだ。だが、何一つ残されていない。連れ去られる姿を目撃した者もいない。消えたとしか言いようがないのだ」
 あの後、アルトールの住人が数十名、行方を暗ましていることが分かったのだ。
 住民は家単位で行方不明になっており、彼らが連れ去られたり運び出されたりするところを目撃した者は誰一人としていない。
「アドウェンを襲った者共の中に、魔族と思しき魔術師がいたそうだな」
 マイデル老師の言葉にグライムスは頷く。
「エルフや魔族の魔術師であれば、人間を転送する魔法くらい使いこなせる。住人が消え失せた方法は考えるまでもない。問題となるのは、その理由よ。一体何を企んでおる?……我々には情報が不足している。このままでは奴らの後手に回るよりない」
 マイデル老師はそう言い、ひとつ溜息をついた。
「この様子では、当面隠居もできん。とっとと田舎に隠居し、全てをエイダに委ねてこの世を去ったアドウェンが羨ましいくらいよ」
 マイデル老師にすっきり気持ち良く、とっとと引退、隠居して貰うためにも面倒事は片付けねば。ライアスは密かに決意する。
「ときに。人が消えると言うと、あの件にも関わりがあるのでしょうか」
 ライアスの言葉に、マイデル老師はかぶりを振った。
「いや。その話なら儂の頭の中では結論が出た。……そうそう、グライムスよ。アルトールにエイダが立ち寄ったと言うておったが、その時の様子も教えてくれんか」
「ええ。馬車がアドウェン殿の屋敷に向かったと聞いたので、客人があったのかと様子を見に行ったのです。事情を知らぬ者が尋ねて来ているかも知れませんし、ましてリム・ファルデへの道はまだ通れないと聞いていたので、よもやエイダが戻って来るとは思ってもいませんでしたから。馬車に乗っていたのも見覚えのない尼僧でしたし」
「その馬車にエイダが乗っていたのだな」
 マイデル老師は身を乗り出した。
「ええ。それと、ガーゴイルと戦ったときの若い兵士が」
「やはりそうか」
 マイデル老師は頷き、口元に笑みを浮かべた。それに気付いたライアスはマイデル老師に問いかける。
「老師、もしやその尼僧が……」
「間違いあるまい。マリーナからその可能性を匂わせる話を聞いたところよ。尼僧に化けてエイダの乗る馬車に乗り込み、逃亡を図ったのだ」

「姫が消えた、だと」
 マイデル老師の執務室から兵舎に戻る道すがら、ライアスはグライムスに、今起こっていることを話して聞かせた。
「ああ。どうもここ数日様子はおかしかったのだが、言われればルスランが任務に出た朝から、その姿が見えなかった。城内はは大騒ぎになったよ。ちょうど婚礼を半年後に控えた時期だ。ずっと結婚を嫌がっておられたからな。ここ半年ほどはあまりゴチャゴチャおっしゃることがなくなったので覚悟を決められたかと思い安心してたのだが、別な意味で覚悟をお決めになっておられたようだ」
「そういえばあの尼僧、ただの尼僧にしては気品と高貴さがあったかもしれない……」
「何だって。それではこれも思い違いでは……いや。猫をかぶるのは得意だ。まだわからん」
 何かボソボソと言うライアス。
「しかし、そうすると腑に落ちないことがある。ルスランたちの馬車はラブラシスを目指している。その馬車に乗れば婚約者であるリヒアルト殿下のいるところに向かうことになり、逃げるというなら話が合わん。まさか一暴れする気なのでは……」
「一暴れ?姫君がか?」
「ああ。お前は知らないようだな。アナスターシャ姫は我が国の王族の例に漏れず、大変覇気に溢れる血の気の多い姫君だ。気品と高貴さを感じたというお前の話が確かならば、人違いであるかも知れん」
「アミアと気の合いそうな姫君だ」
 聞いていたアミアがグライムスの尻を蹴った。さすがにこれは避けられない。
「確かに」
 さすがに他人のライアスを蹴ることはなかった。アミアは頬を膨らませる。
「で。あんたらはこれからどうするんだ?まさかこの話をするためだけに娘を連れて、大荷物を担いでやって来た訳ではないだろう?」
「ああ。こんなことになってしまったし、アミアに魔道の指導をしてくれる人物を捜さないと。ラブラシスに行った方がそういうことには向くんだろうが、道が塞がったせいもあって馬車もこないし、どうしたものだか」
「山道は復旧の目処がたたないぞ。この期に及んで工事に当たっていたオークがストライキを起こしているらしい。何でも住むところに不満があるらしいな」
 ああ、あの話か。グライムスは先程のオークたちとの一幕について話した。
「オーガだと。そりゃ大事じゃないか」
「この話が本当ならな。俺はゴブリンがオークを奥に行かせないための出任せを教えたんだと思う」
 洞窟のあちら側に住むドワーフの事も話した。その話を聞き、ライアスも納得する。
「そういうことか。何ともしょうもない話だな。分かった、この話もマイデル老師に伝えておこう。その時、老師にいい魔法の先生がいないか聞いてやるよ」
「そうか、助かるよ」
「で、今日泊まる場所はあるのか?」
「いや。そこらの宿で泊まろうと思っているが」
「宿代も馬鹿にならないだろう?兵舎の部屋が余っているし、しばらく貸してやろうか」
「いいのか?」
「余らせておくよりはな。殺風景で寝床も固いが、娘さんが嫌じゃなければ」
「屋根があるなら文句は言わないわ」
 アミアに異存はないようだ。
「そうか。……どんな暮らしをさせてたんだ?」
 ライアスはアミアの言いぶりに疑念を抱いたようだ。
「エミーナが死んでからは俺と一緒に根無し草さ。俺は戦うことしか能がない。小さいアミアを一人残しても行けない。しばらくは傭兵として俺を雇ってくれていたところが置いてくれたが、そこを去ってからはアミアを野営地にまで連れていかなきゃならなかった」
「苦労したんだな」
「英雄なんて呼ばれている人間の中じゃ、一二を争うほどだと自負してるよ」
 グライムスは自嘲する。
「ありがたく、部屋を貸して貰うことにするよ。それと、後で時間をとれないか?話したいことがある」
「今では駄目なのか?」
「ああ。込み入った話になる。酒でも飲みながら、どうだ?」
「いいだろう。仕事が終わったら呼びに来る」
 兵舎にグライムスたちのための部屋が用意された。戦争が終わり、軍が縮小されてから兵舎も半分ほどしか使われなくなってしまっていた。グライムスたちが泊まるための部屋などいくらでもある。
 シーツも真新しいものがかけられ、ゴブリン商店の簡易寝台よりは寝心地は良さそうだ。6人が暮らせる部屋なので広さも十分だ。
 グライムスは荷物を置くと、町を見て来ると行って兵舎を出た。
 アミアは、窓の外に広がる訓練場の兵士たちでも眺めて時間を過ごすことにした。
 兵舎の使われていないはずの部屋からじっと見つめる女性の姿に気付いた兵士たちは、事情を飲み込めずに戸惑う。兵舎にまつわる怪談を思い出すものまで現れる始末だった。
「いや、何でも客人らしいぞ」
 事情を知るものが口を挟む。
「客人?」
「期間は分からないが、しばらく兵舎の空いた部屋に逗留するそうだ」
 幽霊などではなく生身の人間と知り、兵舎を使う兵士たちはほっとする。そして、その次には降って湧いた出会いと都合のいいロマンスを思い浮かべる。が。
「ライアス副隊長やマイデル老師の客人だそうだ」
 その二人の名が出たとたん、兵士たちの興味は一気に失せた。手出しなどできたものではなかった。

 夜。宿で人心地ついたアンは荷物を置くなり部屋の机で便箋にペンを走らせ始めた。そして、夕食を済ませると、エイダに言う。
「わたくし、ちょっとご用がありますの。帰りが遅くなるかも知れませんが、心配はなさらないでくださいね」
 そう言うと、アンは今したためた手紙を手に、いそいそと宿を出て行った。
 エイダは窓越しに、宿から出て通りを歩くアンの姿を目で追う。返り血で汚れた純白の修道女の服から、シックな色調の服に着替えていたアンは、すぐに闇に融けて見えなくなる。しかし、その足取りはどうやら公邸の方に向いているようだった。
 公邸前の広場は静まっていた。昼間は多くの人が行き交う場所だが、この時間には訪う者もいない。
 門前に立っていた衛兵は、通りから広場にやって来た一つの人影を目で追う。やはり、真っ直ぐこちらへ向かって来るようだ。日も差さぬのにつばの大きな帽子を目深に被っているが、見たところうら若い娘のようだ。
「あの。夜分申し訳ありません。この手紙をリヒアルト様に渡していただきたいのです」
「殿下に?」
 公邸を訪ねた娘、アンはそう言いながら手紙を差し出す。封筒にはフォーデラストの紋章が入っている。
 王国からの親書か。このような時間に届けられるということはよほど急ぎの用なのだろうか。しかし、相手が公爵ではなくその子息であるリヒアルトであることが気になりはする。
 衛兵は手紙がただの手紙で危険がないことを確認すると、手紙を届けるべく歩きだす。
「あの。その手紙をリヒアルト様がお読みになったら、どのようなお返事でもわたくしに伝えて戴きたく存じます。それまでここでお待ちしております」
「このような場所ではなんです。中にお入りになってはいかがですか?」
 衛兵の言葉にアンは少し考えてから言う。
「いえ。ここで構いません」
「では、暫しお待ちください」
 衛兵は手紙を手に公邸に入って行った。すぐに代わりの衛兵が公邸から出て来て門前に立った。
 手紙はリヒアルト公子の元に届けられた。手紙の封を切り、中身を取り出し目を通すと、リヒアルトは顔色を変えた。
「この手紙を持ってきた者は外で待っていると言ったな」
「はっ」
 衛兵の返事を聞くと、リヒアルトは慌てて部屋を飛び出していく。衛兵もその後を追った。
 アンは門の見える広場のベンチに腰掛けて返事を待っていた。夜の風は冷たく、じっとしているとすぐに体が冷えた。
 だが、その体が冷えきるほどは掛からず、公邸の門から人影が出て来た。屈強な衛兵とは一目で見分けがつく華奢な人影、そして、見覚えのある顔。リヒアルトだ。その姿を認め、アンは駆け出していた。
「リヒアルト様!」
「君は……本当に君なのか、アナスターシャ」
 アンは顔を上げる。彼女が着そうにない服を着た、現れるとは思えない時にやって来た訪問者の顔は、まさに来るはずのない彼女、フォーデラストの王女アナスターシャの顔だった。

「やはり、そうでしたか……」
 そう言いながら、マリーナは俯く。
「私のせいですわね。私が姫にあのようなことを漏らさなければ……」
「過ぎたことを悔やんでも仕方あるまい。誰もあのような行動に出るとは思ってはおらなんだ。むしろ、行き先が分かった。それだけでも収穫よ」
 マイデルは落ち着いた様子でそう言った。
 昼間聞いた話では、アナスターシャ姫にラブラシス行きの馬車のことを話したのはマリーナだと言う。エイダを預かっていたため、その話は当然のようにマリーナも知っていた。
 アナスターシャ姫は、山道が崩落しラブラシスとの音信が途絶えてから、常々その不安を癒すために修道院の礼拝堂に祈りに来ていたという。マリーナはそんなアナスターシャ姫に、明日ラブラシスに使いが出るので、帰ってくればラブラシスの様子も聞けるのではないかという話をしたのだ。その話を聞いたアナスターシャ姫は安心したような、喜んでいるような、そんな顔をして見せた。
 まさか、その笑顔の裏でその馬車に便乗してラブラシスに行こうなどと考えているとは。
 だが、マリーナが心苦しいのは、単に自分の発言のせいで姫がそのような行動に出てしまったと言うだけではない。誰も予想していなかったこの出来事。ただ一人、原因を作ったマリーナだけは予期し得たのだ。
「しかし、一体なぜラブラシスに行かれようなどと思われたのやら。あれほど婚礼を嫌がっていたというのに……」
 マイデルの呟きに、マリーナはその話をする決心をした。

 目の前の、夜中の訪問者がフォーデラスト王国の王女であるアナスターシャだと知り、衛兵たちは慌てて姿勢を正した。
 身分の問題だけではない。アナスターシャの気性の激しさは、いずれ嫁がれる側として、衛兵たちも十分に聞き及んでいた。騎馬民族の末裔として、悪く言えば野蛮、よく言えば勇猛なフォーデラストの人々の中でも、王家の一族は特に勇猛である。アナスターシャ姫とて例外ではない。無礼を働けばどんな目に遭わされるやらと戦々恐々だ。しかし、目の前にいるアナスターシャ姫はそんなことを微塵も感じさせないような、穏やかで落ち着いた物腰。衛兵たちはみな疑問に思う。今、フォーデラストとは連絡が付かない状態が続いている。それなのに、なぜ王女がここに来ることが出来るのか。だが、婚約者であるリヒアルトの目を欺けるはずはない。よほど強い魔法で、姿を変えて成り済ましでもしない限りは。
「なぜこのような時間に?その服装は一体?」
 リヒアルトの問いにアナスターシャは答える。
「つい先程、ここに着きましたの。町についてすぐにここを訪ねたのです。服は旅の道すがら汚れてしまって。それにわたくし、お忍びですの。それにふさわしい、庶民のような服を選びましたの。お忍びですからここに来たことは誰も知りませんわ」
「フォーデラストへの道が通れなくなったと聞いているが、どうやってここまで?」
「まだ工事中なので通行を制限しているだけ、通る気になれば通れますの。でも、ちょっとだけ怖い思いをしましたわ。あの道はもうしばらく通りたくありません」
 そう言いながらアンはかぶりを振り苦笑を浮かべた。
「そうなのか。……このような場所で話し込む訳にもいかない。中に入られよ」
「いえ、わたくし、申し上げた通り正体を隠して訪ねた身。まだ、わたくしが参ったことを皆に知られてはまずいのです」
 そう言いながら、衛兵たちをちらりと見るアナスターシャ。
「皆さんも、今宵わたくしが訪ねたことは内密にしていただけますか」
 衛兵たちは敬礼する。が、その心の中で疑念は膨らんでいた。なぜ、そこまで中に入ることを拒むのか。通れない山道も、本当に通れるようになっているのか。疑わしいことだらけだ。
 夜の広場は人通りは少ないとは言え、皆無ではない。衛兵たちもいる。正門前では人目がある。リヒアルトはそんなアナスターシャを連れ、せめて人目につかない場所へ行こうとした。だが、衛兵はそれを阻んだ。
「お言葉ですが。このような時間に出歩くのは、如何なる事情があれど望ましいことではございません。姫君。なぜ、そこまで来訪を知られることを恐れられるのですか?突然のこととは言え、参られたとなれば歓迎させていただきますが」
「それは……申したはずです。忍びの旅であると」
「事情を聞いているのです。申し訳ありませんが、納得のいく答えが出来ないのであれば、姫君とはいえどもお引き取り願うしかありません」
 その言葉に、アンは目を伏せる。
「……わたくしのことを疑っていらっしゃいますのね。確かに、通れないはずの山道を通り、このような服装で突然訪ねたのです。仕方のないことかも知れません。良いでしょう。リヒアルト様が駆けつけ、あなた方はわたくしの来訪を知ってしまった。あなた方には隠し立てする必要もないでしょう。疑問があるならお答えしますわ」
 今までの落ち着いた雰囲気から一転し、凛とした態度で言い放つアナスターシャ。それをみて、やっぱり本物なのではないかと今更ながら思う衛兵だが、今更後には引けなかった。