ラブラシス魔界編

6話・古都への前途

 鎧戸を叩く音がした。
 その音で目を覚ましたルスランは窓を引き開け、鎧戸を押し開ける。そこにはいつもの見慣れた顔があった。
「おはよー。今日からまた留守にするんだよね?」
 ジョアンヌだ。その足元にはフェルがおとなしく座っている。ちょっと前まで、フェルはよくジョアンヌを引っ張って先に行こうとしていた。話している間中、必死の綱引きが続いていたものだ。しかし、ジョアンヌの引っ張り返す力に負けるようになり、いつしか引っ張るのをやめた。大人の男ですら引っ張って行きそうな大型犬なのだが。
 食堂でのハードワークぶりから考えても、腕力も足腰もだいぶ鍛えられていそうだ。思えば、食堂に勤め始めてからのジョアンヌは、あまり肌の見えるような服を着なくなった。周りに見せられないほどに筋骨隆々となってしまったか。
 訓練で鍛えているルスランが見劣りするようなことになっていては困りものだが、いかにせん、どうなっているか見たことがない。いくら気の置けない仲とは言え、年頃の少女に脱いで体を見せろとは言いにくいものがある。たとえそれが腕や足だけであっても。
 だから、せめてジョアンヌには負けないようにとりあえず訓練を熱心にこなしているのだが、最近は使い走りが多く、体が鈍りがちだ。
 そしてジョアンヌの言葉にもある通り、今日からまた使い走りである。その間もジョアンヌの仕事は変わらずにある。しかも、山道修復の為に招集を掛けられたオークもジョアンヌの働く店に来るらしく、さらに繁盛し、さらに忙しくなっていると言う。体も更に鍛えられているだろう。いよいよもって心配だ。
「またすぐに帰って来るんでしょ?」
「ああ、多分ね。ジョアンヌが忙しくなってる分のオークのお陰で、山道も復旧して馬が使えるし。行き先も近いしね。まあ、何があるか判らないけどさ」
「最近忙しそうだよね」
「うん。あまり言えないけど、何か面倒なことになりそうなんだ。もしかしたらこの先もっと忙しくなるかも」
 兵士であるルスランが忙しくなるということが何を示しているのか、ジョアンヌも解っている。少し不安そうな顔をした。
「あたしも自分の身くらいは守れるようにしといた方がいいのかなぁ。そのうち武器の使い方とか教えてよ」
「俺は構わないよ。暇な時にね」
 言いながらルスランはふと思う。そんなまとまって暇な時間が取れるなら、そもそも身を守る手段など考えなくてもいい。
 ジョアンヌはフェルとともに駆け出した。ルスランものんびりとはしていられない。出発の前にこれからできなくなる分の訓練をこなしておきたい。
 鍋に残った最後のスープでパンを流し込み、鍋と皿を片付けて城に向かった。

 訓練が始まりしばらく経った。そろそろルスランの元にマイデル老師から呼び出しがかかる頃合いだと思うのだが、なかなかルスランに呼び出しがかからなかった。
 出発が遅いと帰りも遅くなる。ちょっと不安になり出したところでようやく呼び出しがあった。
 マイデル老師のところに赴くルスラン。相変わらずマイデル老師の執務室の近くは静かだ。
 扉を叩くと応答があった。恐る恐る扉を開け、中に入る。
 マイデル老師はいつもの席にいた。その傍らにはエイダの姿もある。ルスランはエイダを見かけるのもアルトールから連れてきた時以来だ。それどころか、あの後エイダがどうなったのかさえ全く聞かされていなかった。とは言え、特に関心がある訳でもない。部屋にいたエイダを見ても、特に感想はない。まだ城にいたんだ、と思った程度だ。これから何を押し付けられるのかなど、知る由もないのだ。
「実は昨夜、ちょっとした騒ぎがあってな」
 開口一番にマイデル老師は言う。ルスランは心の中でうへぇと呟いた。もはや他に言うべき言葉すらない。また面倒が起こったようだ。
「詳しい事情を話すのも面倒だ。詳しい事情は同行者に聴け」
「同行者?」
「左様。事情により、お主の使いにこのエイダを同行させる。お主も知っての通りエイダの中にはラブラシスでも指折りの賢者であるアドウェンの知識と精神が息づいておる。道中何かあった時はエイダの命令に従うように」
 まさか、自分よりも年下にしか見えない少女に命令を下されることになるとは。いや、まだ下されてはいないが。
「それと、ラブラシスへの使いだが、エイダが馬に乗れぬということなので馬車を用意した。御者を務めよ。戦馬車と違い繊細な造りになっておる。壊さぬようにな。馬車は厩舎そばに用意させた。では行って来るがいい」

 マイデル老師の言うとおり、厩舎のそばに馬車が用意されていた。
 馬車で往復となると思っていたよりも時間が掛かるだろう。まして、繊細な造りなので飛ばすなとまで言われている。
 言われなくても、森の多いラブラシスへの道程は小回りの利かない馬車では走りにくい。思わぬ長旅になってしまいそうだ。諦めるしかないだろう。マイデル老師にしても一刻も早く知らせをラブラシスに伝えたかったはずだ。マイデル老師にとっても断腸の思いでの決断だったのだ。
 とにかく、ただでさえ時間がかかるのだ。もたついて更に帰りを遅らせても仕方がない。とっとと出発しよう。
 そう思い、馬車に乗り込んだ時だった。
「お待ちください!」
 白いローブを纏い、フードを目深に被った修道女が息を切らせながら馬車に掛けよってきた。
「エイダさんですわね?」
「え、ええ。そうですが」
 声をかけられたエイダは、少し戸惑いながら答えた。
「ラブラシスに行かれるらしいですわね。ご一緒させていただきたいのです」
「なぜこの馬車のことを?」
 ルスランが口を挟む。マイデル老師の話からして、この馬車の事は昨夜から今朝にかけて決まったはず。そんな急な話を知っていることに疑念を抱いたのだ。
「マリーナ様に聞きましたの。エイダさんという女の子がお乗りになる馬車が、ラブラシスに向けって出発するので便乗してはどうかと」
「ああ、マリーナ様のお使いですか」
「ええ、そうですの」
 よく解らないがエイダはこれでとてもよく納得できたようだ。ルスランよりも事情をよく解っているエイダが納得しているのだから問題ないような気がした。そもそもここは城の敷地内、怪しい人物はそもそも出入りも出来ない。
 時間がもったいない。問題ないのなら乗せてしまってもいいだろう。ルスランはエイダと修道女を馬車に乗せて出発した。
「わたくし、アンと申します。道中、よろしくお願い致しますわね」
 アンはエイダとすぐに打ち解け、ルスランの事など忘れたように姦しくお喋りを始めた。
「この馬車があって助かりましたわ」
「私もルスランさんと二人きりだと思うと緊張してたんですけど、気が楽になりました」
「マイデル様もお気が利きませんことね。年頃の女の子を殿方と二人きりなんて」
 そこで言葉を切り、はっとしたようにアンは言う。
「もしかして、わたくし……お邪魔でした?」
「?……!いえいえいえいえそんなことないです!」
 妙な勘違いをされて慌てるエイダ。口出しして誤解を深めても仕方がないのでルスランは他人事のように無視を決め込むことにした。
 馬車は城下町を出て、ラルカウィ山道に差しかかる。復旧作業はまだ続いている。一般人の通行は許可されていない。その代わり復旧作業の労働者が右往左往している。
 右往左往しているのは荷運びのオークが多い。恐ろしげな顔した図体の大きな労働者に、アンは少し恐怖を覚えるのか、急に口数を減らした。静かでよい。
 やがて、崩落した箇所に差しかかった。
 山道の崩れた箇所に木で足場が組まれている。通れるようになったというのはこの足場ができたということらしい。馬車で通るには些か心許ない気がするが、土砂を山ほど入れた畚を担ぐオーク労働者が、平然と大股で上を渡っている。頑丈にはできているようだ。
 その足場を見てアンもエイダも顔を強ばらせた。崩れたら、横に見えるとんでもない高さの崖から真っ逆さまだ。見えもしないそんな後ろの状況など全く意に介さず、訓練のお陰もあって度胸は座っているルスランは、速度を緩めるでもなく足場の上に馬車を乗り入れた。
 何事もなく通り過ぎほっとするのもつかの間。山道は折り返し、崩落地点の真下に差しかかる。崩れてきた岩石のために下の通路も崩れていた。規模こそ小さいものの、やはり足場が組まれて補修してある。
 足場そのものもなんとなく怖いのだが、先程駆け抜けてきた足場が下から見ると案外ちゃちであることが判り、次の足場を渡るときの恐怖心をかき立てるのだ。それは少ない支柱で十分な強度を出せる設計の妙と、それを形にする匠の技の成せる業ではあるのだが、素人目にはただのちゃちな造りにしか見えない。
 アンがようやく元気を取り戻したのはラルカウィの山道が終わり、断崖の麓に到着したときだった。一方、エイダは表情を曇らせた。この先の別れ道は、アルトールとラブラシスの分岐点だ。
「どうする?寄って行こうか?」
 ルスランはエイダに問いかけた。しばらく考えた後、エイダははい、お願いします、と答えた。
「アルトール?」
 アンの言葉にエイダは小さく頷いた。
「故郷……なんです。つい数日前まで住んでいました。でも、家族で生き残ったのは私だけで……」
 エイダは俯いて涙を拭う。アンは気まずそうに目を逸らした。

 言葉もないままアルトールに到着した。
 滝の音が辺りを包んでいる。それ以外は静かだった。
 第一の激闘の舞台となったエイダの生家、高台の花屋の前に馬車を停めた。
 ここに散らばっていたガーゴイルの砕けた石の山は片付けられていた。一目でどこに片付けたのか判る石の山がある。
 エイダは馬車を降り、玄関の扉に手をかけた。鍵がかけられているらしく、開かない。
 エイダは裏手に回る。ルスランも馬車にアンを残し、その後を追った。特に問題はないのだろうが、心配になったのだ。
  そこには把手も鍵穴もない扉があった。エイダは扉に手を置き、呪文を唱えた。音もなく扉が開く。家族だけが開くことのできる、魔法の錠が掛かった裏口の扉だ。もっとも、魔法の使えない父のメイソンだけは開くことはできなかったが。
 ルスランはエイダの用が済むまで、裏口で待つことにした。
 エイダが家の中に入ると、メイソンの使っていた弓矢がテーブルの上に置かれていた。エイダは弓を手に取る。
 メイソンは今でこそうだつが上がらない花屋の店主だが、二十年前の戦争ではラブラシス軍の射手隊副隊長として数多の活躍をした人物だ。
 戦が終わり弓を置いてからも、弓の訓練だけは怠らなかった。自分にとって数少ない取り柄だからと言って苦笑いを浮かべながら。
 エイダも幼少のころから父の手ほどきで弓矢の扱いを練習してきた。知力に富む妻と更にその上を行く義父を前に、メイソンが娘に教えられるものなどそのくらいだったのだ。もっとも、その父の最後に際して憎き仇に矢を向けるまで、その腕前が役に立った事など、たまに町に行ったときに遊んだ射的のときくらいだったが。
 ラブラシスでは何が起こるか分からない。エイダはこの弓を持って行くことにした。もっとも、あの戦いで撃ち尽くし、矢は多く残されていないが……。なにはともあれ、使わずに済むならそれに越したことはない。
 その時、外で話し声がした。アンと誰かが話しているようだ。相手は男の人だ。
 玄関を開けると、そこにいたのはよく見知った人物だった。
「あ、グライムスさん」
 エイダの声にグライムスは振り向いた。
「なるほど、確かに。戻ってきたのか、エイダ」
 家の前に見慣れない馬車があったので、何の用なのかアンに尋ねていたそうだ。
 馬車に一人残されたところに、いきなり髭面で筋骨隆々とした大男に話しかけられ、アンはすっかり縮こまっていた。エイダの知り合いだと分かってほっとする。話し声を聞き付けてルスランも玄関側に回ってきた。アンはさらにほっとする。
 エイダは自分が所用でラブラシスに向かっていることと、その道すがら立ち寄ったことを告げた。
「グライムスさんも、もうリム・ファルデにいるのかと思ってました。まだここにいたんですね」
 エイダの言葉にグライムスは頷いた。
「うむ。なにぶん、道が通れんのでな。ドワーフたちが直したという洞窟の道を通って行ってみようとしたんだが、ドワーフたちの話を聞いていると何というか通る気がなくなっていくんだ」
 ドワーフたちによると、洞窟の上には恐ろしいものが待っているらしい。
 ルスランやエイダは悪魔の口のことかと思ったが、どうやらそうでは無さそうだ。何かは分からないのだが、とにかく恐ろしいらしい。悪魔の口のような恐ろしさだが、悪魔の口より遙かに恐ろしいとか。
 もしかすると、フォーデラストから見下ろす崖下の景色のことではないだろうか。悪魔の口の恐ろしさはその高さと、崖の切り立ち具合だ。上のリム・ファルデからはその倍の高さの崖から下を見下ろせる。そのことをうまく利用し、オークとドワーフが顔を合わせて揉めないように、ゴブリンがわざわざドワーフたちには身の竦むような話を聞かせたのだろう。
 グライムスはドワーフではないのだから関係ない話なのだが、ドワーフにはとってはとても親近感が持てる面構えのグライムスに、ドワーフも必要以上に親身になったのではないだろうか。それでそんな話を聞かせてみたのか。
 ドワーフに脅かされたグライムスは、自分一人ならともかく、娘を連れてそんなドワーフたちが口々に危険を訴えるような場所を通ることもないと、ここに留まっていたそうだ。
 ルスランはグライムスに、途中通りがかったときに見た感じ工事はそうすぐに終わりそうにないこと、そしてドワーフたちが脅える恐怖の正体を教えてやった。
「なんだ、そんなものを怖がっていたのか、あのドワーフは」
 脱力するグライムス。
 そうと分かれば留まっていることもない。グライムスは出発の準備をすることに決めたようだ。
「いくつかマイデル老師にお伝えせねばならないこともあるし、それに娘の新しい先生を見つけないといかん」
 グライムスがこの町にいたのは、娘をアドウェンに師事させるためだ。
 田舎町の学校ながら、アドウェンは生徒達に自分の教えられる全てを教えようとしていた。実質、かわいい孫娘のための英才教育を、他の生徒達にも解放したようなものだ。
 高名な賢者の指導をが受けられると聞いて、学ぶために遠方からやってくるものも少なくはない。幸い、滞在するための施設は観光地という事もあって充実しており、その静かな環境も学びに向いていると好評だった。メイソンの花屋の何倍も稼ぎ、更に町おこしにまでなっていたほどだ。
 そういう意味でもアドウェンを失ったことはアルトールにとって大きな痛手だ。そして、グライムスの娘も師を失ってしまったわけだ。
「私でよければ教えてあげてもいいですよ」
 エイダが提案する。アドウェンの知識はあらかた引き継いでいる。教えるだけなら何ら問題はないだろう。
「しかし、エイダに教わるということになればプライドが傷つくだろうなぁ。アドウェン殿の孫娘とはいえ、年下の子だし……」
 グライムスの言葉にエイダも苦笑いした。アドウェンの遺志と知識を引き継いでいると言い添えたところで、年下のエイダに教わるという点は何ら変わりはない。
 考えておこう、とこの話に区切りをつけたところで、グライムスはふと真顔になる。
「エイダ。アドウェン殿とメイソン、ジェシカの埋葬は済んでいる。町外れの共同墓地だ」
 エイダも真顔になり、小さく頷いた。

 自宅から必要そうな小物をいくつか持ち出した後、エイダを乗せた馬車は町外れの墓地を目指した。
 その途上、エイダとアンの世間話からグライムスの娘はアミアといい、エイダのひとつ年上で、アドウェンに師事しているだけあって魔術師を目指しているということを知った。エイダの中にいるアドウェンの記憶では、可もなく不可もない成績で、魔術師を名乗るのに特に問題はないだろうという。なんとなく、成績ギリギリという感じのニュアンスが込められているのを感じないでもない。
 墓地に到着した。町外れの静かな場所だ。
 アドウェンの墓標はすぐに分かった。墓地でも一番目立つ場所に、真新しく一際立派な墓標が建てられている。
 町に大きく貢献した名士に最大の敬意を表し、町が立派な墓標を寄贈したようだ。町での慕われ方を示すようにたくさんの花も手向けられていた。
 墓標にはジェシカとメイソンの名も刻まれていた。エイダは静かに祈りを捧げた。一度ながら共に戦い、最後の一時に居合わせたルスランも祈りを捧げ、アンもそれに倣う。
 その時、エイダの名を呼ぶ声がした。振り返ると、そこにグライムスの大きな姿と、小さな人影があった。
「あ。アミア」
 エイダはそう言い手を振る。話にあった魔術師を目指しているというグライムスの娘のようだが、言われないとそうは思えない。顔立ちなどは置いておいて、何より話が違うのはその身なりだ。魔術師というイメージに逆らうようなブレストメイルに腰に帯びた長剣。どう見ても女戦士と言った容姿だ。知性より猛々しさが全面に出た凛々しい顔立ち。グライムスの娘と言うことにはあっさりと納得できるが、魔術師と言われると、ご冗談をと返したくなる。
 グライムスとアミアがこちらに来た。こうして見ると、アミアは結構背が高い。ルスランより少しだけ低いくらいだ。エイダと向かい合って立つと、とても歳が離れているように見えるほどだ。
「大変だったわね、エイダ。心配してたけど、元気そうでよかった」
「うん、なんとか。まだ実感沸いてないってのが本当のところかもしれないけど、何とかやれそう。心配しないで」
 そう言いながら、エイダもその出で立ちは気になった。アミアに問いかける。
「ねえ。なあに、その格好」
「なにって、これ?まあ、旅支度よね。別に危なくはないって言うけど、だからってこんなの抱えて歩けないでしょ。着た方がマシだし」
 エイダはそもそもなぜそんな鎧を持っているのかを聞きたかったのだが、彼女の中では鎧を所持しているくらいは当然で、疑問の余地もないようなことのようだ。
「久々に着けたんだけどさ、何かこの辺りが育ってるみたいできついのよねぇ。もう買い替えなきゃ」
 すぐ近くにいるルスランの事などお構いなしで、胸の辺りを指差しながらそんなことを言うアミア。
「ねえ、エイダはこれから結構危ないところに行くって聞いたけど、平気?これあげようか?」
「いいよ、重そうだし」
「まあ、重いけどさ。馬車なら座ってればいいんでしょ」
「座ってても疲れちゃうよ。それに、アミアのサイズじゃきっと大きすぎて合わないよ」
「んー。ま、そうね」
 話は付いたようだ。重いうえに胸元がきつい鎧をエイダに押し付けたかったようだが、相手が悪かった。アミアはまだエイダがアミアに教えようという話を聞いていないようだ。聞いていればそのことで少しはごねるはずだ。
 それにしても、アミアは顔立ちからもいかにも勝ち気な性格だろうと言う事が窺える。少し心配になったルスランは釘を刺しておくことにした。
「これから洞窟を抜けて行くと思うんだが、上の方にはオークが住み着いている」
「それは初耳だな」
 ドワーフたちから話を聞いたなら、オークの話は出なかっただろう。ドワーフたちがオークのことを知ったなら、ドワーフたちは黙ってはいないだろう。すぐさま戦いの準備を始めるはずだ。もっとも、足の竦むような途中の道程を乗り越える前に、戦わずして潰走だろうが。
「そのオークたちはガラは悪いかもしれないが、ただの労働者で悪い連中じゃない。勘違いして襲わないでくれ」
「ははははは。大丈夫だ。オークが労働者としてリム・ファルデに住み着いていることくらいは聞き及んでいる」
「それならいいけど。妙に気合が入ってそうな娘さんにもよく言っておいてほしい。それに、あんたはなんとなくオークの感情を逆なでしそうな顔付きだから……ちょっと気を付けてくれ」
 オークはドワーフとは犬猿の仲である。そして、そんなドワーフは男女ともに見事な髭面である。そのせいもあってか、オークは髭が嫌いだ。
 オークはもともと体毛が薄く、頭部から背中にかけて、たてがみのような髪が生えているくらいだ。それも大部分は長くならず短い。他は髭はおろか眉さえ生えない。自分には生えない髭は分かり易い嫌悪の対象となっている。とは言え、ドワーフが嫌いだから髭が嫌いなのか、髭が嫌いだからドワーフが嫌いになったのかは今となっては誰も分からない。とにかく、連中はドワーフも嫌いなら髭も嫌いなのだ。
 だから、髭面のグライムスが揉め事を起こさずオークの住処を抜けられるのかは、些か心配だ。そして揉め事になるとこの娘が飛び込んでややこしくなるのではないか。それもまた心配だった。
 グライムスには問題ないし、娘もグライムスがどうにかしてくれると信じよう。後はオークの方が堪えてくれるか、鉢合わせせずに済むことを祈るしかない。
 グライムスは出発前に墓参りに来たそうだ。それを済ませ、グライムスとアミアは町を発った。ルスランたちの馬車も、その逆方向に出発した。
「あの、帰りにまた寄ってもらえますか?持って行きたい荷物がまだ、たくさんありますから」
「ああ、いいよ」
 エイダの言葉に頷くルスラン。エイダは遠ざかりゆく町を名残惜しげに振り返った。

 アルトールの滝が注ぐ湖を回り、湖畔の町ナルセー・ハルンセリに到着した。
 ここも景勝地として名高く、別荘地や手軽な旅行先としてリム・ファルデからも多くの人が訪れる。だが、リム・ファルデへの道が閉ざされ、旅行者も急激に減ってしまった。
 このままでは宿を開けていても赤字になるばかりだ。山道の復旧もまだ先になる。
 そこで、この町の人達がとった行動。それは、この隙に宿を閉めて自分たちが滅多に行けない長期の旅行に出ることだった。
 この町でももっとも大きなホテルが社員旅行を決行したのを皮切りに、それに倣いいくつもの宿が社員旅行中の札をかけて宿を閉めてしまったのだ。
 しかし、そんな最中とは言え、客が激減している状態。宿が開いてさえいれば、ほとんど貸し切りで泊まれる。その開いている宿探しに若干手間取ったが、ご愛嬌だ。
 しかし、せっかく見つけた開いている宿に、アンが満足しなかった。
「もう少しいいお宿に泊まりましょうよ。さっきのところも開いているようでしたもの」
 さっきの所とは、恐らくあの立派なホテルだ。絶対宿代が高いと踏んで鼻にもかけずに素通りした。
「しかし、宿代が。マイデル老師から渡された路銀じゃ、ここに一泊したら明日から野宿だし」
「宿代くらい私が持ちますわ。こんなこともあろうかと少しくらいならお金も持って来てますの」
 そう言いながら荷物から小さな革袋を取り出し、開いて見せるアン。中には金貨銀貨が詰まっていた。
 思わずそれが少しかと叫びたくなるのをぐっと堪えるルスラン。ルスランの月給が大体金貨十枚。革袋にはその倍か三倍は入っている。これだけあればラブラシスへの往復中、毎日高い宿に泊まっても半分も減らないだろう。
「このお金は……マリーナ殿から……?」
「え?ええ、そうですわね」
 何という待遇の違い。今度から用はマリーナに頼まれればいいのにと密かに願うルスラン。
 無理を言ってついて来たようなものなのだから、宿代くらいは払わせてほしいというアンの提案を、あれだけ金を持っている相手に遠慮するのも馬鹿らしいという思いから承諾した。
 女性二人は相部屋でルスランは別に個室に、ということで話が纏まったのだが、フロントでアンはスイートを二部屋とろうとした。慌ててルスランは引き留め、自分は普通の部屋でいいと言った。
「遠慮なさらなくてもいいのに」
 別に遠慮する気はない。自分が警護するような貴族や資産家が使う部屋だ。一人でいるなんて真っ平ごめんだった。要人警護を言い付けられたときの神経の擦り減り様は、やったことのある人にしか解るまい。そんな部屋にいたら、居もしない要人の影に脅えるひとときとなろう。
 それにしても、さらっとスイートルームをとる感覚はなんなのか。いいところのお嬢様であるうえに世間も解ってないと言ったところだろうが、正直付き合いきれない。
 そうしてルスランが通された普通の部屋だが、これで普通かと言いたくなるような部屋だった。それもそのはずで、グレードをスイートから一つ落としただけの部屋だったのだ。
 おそらくはスイートが普通の部屋の暮らしをして来たと思われるアンに、普通でいいと言ったルスランが悪い。きっぱりと一番安い部屋にしてくれと言うべきだった。
 今にも扉を開けてどこかの市長くらいの中途半端な要人が出て来そうな部屋で、不気味なほどの柔らかさのベッドと枕に埋もれながらその夜を過ごす羽目になった。

 夜が明けた。
 アンもエイダも旅の疲れもあり、ゆっくりと起床した。そして、ジョアンヌに起こされなくても朝早く目覚めるルスランもまた、柔らかすぎ肌触りもよすぎるベッドのせいで却ってなかなか眠れなかったこともあり、ゆっくりとした起床となった。
 ルスランにとっては豪華なディナーのような軽い朝食をビュッフェでとったあと、馬車は再びラブラシスに向けての旅路についた。
 間もなくラブラシスとの国境。美しく神秘に満ちた森の大地。

「昨日はよく眠れた?」
 馬車を走らせ始めたルスランは、朝っぱらから元気にお喋りを続ける二人に聞いてみた。この調子だと、一晩中喋っていたのではないだろうか。
「旅の疲れもあってか、よく眠れましたわ」
「寝心地のいいベッドでしたよ」
 二人ともよく眠れたようだ。しかし、エイダがルスランの部屋よりも柔らかいだろうスイートのベッドと落ち着かない装飾の部屋で問題なく眠れたというのは驚きだ。
 しかし、考えてみればエイダも高名な賢者の孫娘、暮らしは悪くなかっただろう。実家もなかなかに小綺麗で立派な家だった。彼女にとってスイートは“豪華で寝心地のいい部屋”だったようだ。この中に小市民はルスラン一人だけらしい。
 馬車は湖を離れ、平原を走っている。
 この辺りは水の豊かな土地だ。世界の中央を取り囲む山地などからの水が、いくつもの流れや湖沼となっている。この水はラブラシスの深い森を潤し、育んでいる。さらに、この平野は水を活かした水稲栽培が盛んに営まれる穀倉地帯でもある。
 人にも自然にも重要な水だが、良いことばかりではない。治水の難しさなどの問題点もある。
 そして、今のルスランたちが直面するこの土地の問題点。それは道の悪さだ。ただの馬であれば小川などものともせずに真っすぐ乗り越えて行けるのだが、馬車ではそうもいかない。畦道に掛かる丸木橋も渡れない。しっかりとした石橋の架かった道を選ぶと、かなり曲がりくねっている。
 広大な田園地帯を蛇行しながら進む。前方にはだいぶ前から森が見えているのだが、なかなか近づけない。
 その時、森からセントールの集団が現れ、駿馬の足で瞬く間に駆け寄り馬車を取り囲んだ。敵であればかなり面倒な状況と言える。エイダとアンは身を寄せ合い、不安そうに外を窺う。
「む?王国の兵か。この先の森には盗賊が出るようだ。気をつけられよ。それと、ここにくる途中に怪しいセントールは見なかったか」
 目の前にいるよ、と言ってやりたい衝動に駆られるルスラン。とりあえず、悪いセントールではないようだ。ルスランは特に見なかったと伝える。
 その時。
「隊長!奴らが!」
 セントールの一人が叫び、ルスランたちの背後を指さす。その方向には疾駆する数人のセントールの姿があった。ルスランたちの周りにいたセントールたちはすぐさまそちらに向けて突進して行く。だが、一歩及ばず湿原を突っ切られ、森に逃げ込まれた。
 追いかけていたセントールの一人がこちらにやってくる。
「見ての通りだ。奴らが森に逃げ込んだ。君達を襲うかもしれない。護衛しよう」
 どうやら、とんでもない面倒事に巻き込まれてしまったようだ。