ラブラシス魔界編

5話・魂の扉

 ルスランの横で低い呪文の詠唱の声が上がった。グライムスだ。
 体力を削って使う魔法のため、グライムスの体の自由は失われていたが、死んだ訳でも意識を失った訳でもない。
 体が動かせる訳でもないのに下手に声を出して生存を知らせる必要もない。だから地に伏せたまま気配を消していたのだ。いわゆる死んだふりだ。
 唱えた呪文は癒しの呪文だった。魔法の力で、本調子ではないものの体は動くようになった。グライムスは体を起こす。
「大丈夫か!?」
 戦車から飛び降りたドワーフが声をかけて来た。
「俺はな……。俺以外は全滅か」
「いや、こっちはまだ息があるぞ」
 ルスランの近くにいたドワーフが声を上げた。
 グライムスが癒しの魔法をルスランにかけた。ルスランの体も痙攣や痺れが停まり自由に動かせるようになった。
「すまない」
 ルスランは立ち上がり、ひとつ深呼吸をする。
「あれだけ強烈な魔法をまともに受けて即死しないとは」
「それは、あんたに借りた斧のお陰だろう。この斧を引きずって歩いていたからな」
 ルスランの体に突き立った電光の矢は、ルスランの腕から斧を通り地面に抜けた。それを示すようにルスランの体で痙攣が最も酷かったのは腕だった。
「こっちも息があるぞ!」
 そう声を上げたのはアドウェンの側にいたドワーフだった。
「老師、ご無事ですか?」
 グライムスが駆け寄る。傷は深く、まだ絶え間無く血が流れ出してはいるが、急所は外れていたので即死は免れたようだ。
 少女もそれに気づき、駆け寄って来た。夥しい量の血を目にし、すぐに目を背けた。
 傷ついたアドウェンに、グライムスは三たび癒しの呪文を唱え始めた。だが、アドウェンがその詠唱を遮った。
「無駄だ。この傷は呪いの刃の傷。呪いを解かねば傷は何をしても癒えぬ」
「むぅ」
「おじいちゃん、あたしにその呪いの解き方、教えて」
 駆け寄ってきた少女が言う。
「エイダ。残念ながらまだお前には無理だ。ジェシカでもできるかどうか。それほど、この呪いは強い呪いだ」
「そんな……」
 祖父の手を握りながら、エイダと呼ばれた娘は涙を零した。
「いいか、エイダ。今我々にできる事は多くない。ジェシカも倒れた。まだ何も教えてやれていないお前が、全てを受け継がねばならん。儂が息絶えるまでに、儂の全てをお前に与える方法はただ一つだ。それにはお前の力も借りねばならん。やってくれるな」
 エイダは頷く。
 アドウェンはエイダに高度な呪文を教えた。一度聞いて覚えきれるようなものではない。しかし、一度唱えればよい。エイダはアドウェンに続いて呪文を唱えていく。
 見た目にはなんの変化もないように見えるが、何かは起こっているらしい。
「よいか。次の呪文を唱え終えた時、儂の命は消えるだろう。だが、儂はお前の中で生きる事ができる。分からない事があれば、いつでもお前の心の中にいる儂に問いかけるがいい」
 そう言い残すと、最後の呪文をエイダに教えた。それに続いて詠唱を始めたエイダの声は震えている。だが、アドウェンは迷いなく、最後まで呪文を教え、エイダもそれに続いた。
 最後の一句を唱え終わると、二人の体を微かな光が包み込んだ。アドウェンを包んでいた光がエイダに流れ込んでいくように見えた。
 光が収まると、アドウェンはすでに事切れていた。エイダが握っていた手からも、力が失われていく。
 エイダはしばらく呆然としていたが、顔を上げ、立ち上がる。
「グライムスさん。私をフォーデラストに連れて行ってください。そしてマイデル様にこのことを伝えなければなりません」
「あ、ああ。構わんが……。確か、途中の道が崩落したとゴブリンの行商人が言っていたぞ。ラルカウィを回り込まなければならない。馬車でも何日かかるか……」
 ルスランが話に割り込む。
「それなら、古い地下通路を今ドワーフに修復してもらっているところだ。こっちなら、もう少し待てば通れるようになるはずだ」
「そう言えば、あんたはリム・ファルデから来たんだったな。ちょうどいい、連れて行ってやってくれないか。俺は……賢者殿達を葬ってから駆けつける」
 エイダは少し寂しそうな目をした。
 ルスランは工事の進行具合をドワーフに尋ねた。
「通れるようにするだけなら、今日中には終わるんじゃねぇか?行くならこいつで送っていってやるぜ?」
 ドワーフは戦車の車体をとんと叩く。
 ルスランとエイダはグライムスを後に残し、ドワーフの戦車に乗って洞窟へと向かった。

 もう少し待てば工事は一段落するという。
 現場には、大仰な覆いがついている。作業を見せないためではない。ドワーフは高所恐怖症だ。階段の増設の作業など、下が見えたら足が竦んで出来はしない。自分たちのための目隠しなのだ。
 作業が終わるまで、少し待つ事になった。
 今まで二人は黙り込んでいた。目の前で両親と祖父、家族の全てを失った少女を前に、ルスランは声をかけにくかった。
 沈黙を破ったのはエイダだった。
「あの。こんなことを聞くのもなんですけど……あなたは一体?」
 そう言えば、自己紹介も何もまだしていない。
「俺はフォーデラストの兵卒だ。マイデル老師にアドウェン殿を呼ぶようにとの命令を受けていたんだ。まさか、こんなことになるとは……」
「そうなんですか……。それなら、大丈夫です。私がマイデル老師に会えばいいんです。……さっき、おじいちゃんは、私に“自分は私の中で生き続ける”そう言いました。その意味が今なら分かります。あの時……最後の呪文を唱え終わったあと、私の中におじいちゃんの意識が流れ込んでくるのを感じました。あの呪文は、自分の魂を私の中に移す魔法だったんです。だから、私ならおじいちゃんの……アドウェンの代わりが務まります」
「そ、そうなのか……」
 魔法ってそんな事も出来るのか。ルスランはただただ感心するしかない。
 そのしばらくあと、工事が一段落したと連絡が来た。
 ルスランはエイダを連れて先に進む事にした。その時。
「あんさんら、ちょっとよろしおますか」
 足元からの耳障りな声、独特の言葉遣い。見下ろしてみると、そこにはゴブリンが立っていた。
「上、行きなはるんでっしゃろ。あたしも一緒に行かせて貰いまっせ。上の仲間にもここが通れるようになった事、知らせななりまへんからな」
 それは一向に構わない。そもそも断っても付いてきそうだ。
 ぺらぺらとたわいもないことに饒舌なゴブリン以外は言葉もなく歩き続け、地底湖の辺りに出た。
「ここは、昔使われてた通路ですね」
 エイダが呟く。
「よく知ってるね」
「おじいちゃんが知ってたんです。私は知りませんでした」
 心の中のアドウェンが入れ知恵したようだ。
「下から見ると、展望台が見えました。この辺りにあると思いますけど」
「ああ、『悪魔の口』か……」
 その展望台を、ドワーフが異常なまでに恐れ、忌み嫌っていた事までは知らないようだ。
 ドワーフが急遽拵えたらしい、下手くそな字で書かれた『この先悪魔の口(展望台)。ドワーフは立ち入り禁止、後悔するぞ』の看板がつけられた、人間から見れば膝の高さの柵を踏み越えた。『悪魔の口』展望台に立ち寄り、眼下を見下ろす。エイダは夕日に染まった森の向こう、ここからは岩陰になるアルトールの方を見据え、悲しそうな表情を浮かべていた。
「もう夜になる、急ごう」
 名残惜しそうなエイダを連れ、先を急いだ。
「今の場所、遊ばせておくのは惜しいでんな。是非とも出店を構えて観光地に……」
 などとぼそぼそ呟くゴブリンも引き連れ、ルスランが踏み壊した階段の辺りに出た。
 ドワーフたちが群がり、修復作業が今も続いている。上の方はまだ手つかずらしい。しかし、ここを越えれば修復の要らない道だ。
「おう、来たか。あんたが壊したって言う階段は通れるようにしたぜ。しかし、ここは恐ろしいところだな。人間ってのはいい加減で困る。こんな下が丸見えの通路、俺たちは通れないぞ」
 そんなことを言われても、ドワーフのために作ったわけではないのだから仕方ない。
「上の方も随分と古びているから直したいところだが、恐ろしくて手が出せねぇ。まあ、あんたやゴブリンが通るには問題ないと思うぜ」
「ありがとう、助かるよ」
「なあに。ゴブリンどもが通れりゃ俺たちだって助かるんだ。お互い様ってモンよ」
 ルスラン達はドワーフたちに別れを告げ、先を急いだ。
 鍾乳洞を抜け、坑道に差し掛かる。もうアルトールは目の前だ。
 すると、目の前に巨大な影が現れた。エイダは怯えてルスランの背中に隠れた。
「う?お前どこかで見たな。この間ここを通ってった人間か?」
 闇の中でその姿までは窺うことが出来ない巨大な影は、野太く舌足らずな声でそう言った。明らかにオークだ。オークは細かい事は気にせずに通り過ぎていく。
「あんさん、ここはオークが住んでまんのか」
 ゴブリンが驚いてルスランに聞いてきた。
「ああ」
「あきまへんな。ドワーフとオークが顔を合わせたら大喧嘩始めまっせ。こりゃ、途中に間仕切り作っておかんと……」
「でも、ドワーフは登って来そうにないぞ。工事をあそこで止めさせたらどうだ」
「そうでんな。あとは、オークにこの奥にはお化けが出るとでも噂を流しておけば……」
 さすがゴブリン、小賢しい知恵は働くようだ。
 坑道に出ればリム・ファルデは目前だ。辺りはすっかり夜になっており、外からの光はない。まるでまだ坑道が続いているかのような錯覚に陥る。
 出発したのは昨日だというのに、だいぶ久々に町に戻ったような気がする。それだけいろいろあったということだ。
 出口に着くと、ゴブリンは案内に対する礼と、これから仲間に会って話をして来ると言う旨、そして極めてどうでもいい世間話などを一気にまくし立てて去って行った。
 ゴブリンのだめ押しの長話から解放されたルスランも、同じく長話から解放されたエイダをを連れて城へと向かった。

 マイデル老師は執務室にいた。ルスランとともに入って来た少女のことを訝る。ルスランはアルトールで起きた出来事をマイデル老師に伝えた。アドウェンの死はマイデルにとっても衝撃だった。マイデルにとってアドウェンは連合軍魔道師団として共に帝国軍と戦った戦友であり、その後も魔道研究の最先端で時には競い合い、時には協力しながら、フォーデラストとラブラシスの二国間の技術力を高め合った。その後アドウェンは一線を退き後継者の育成に尽力。マイデルは国政の場へとその道は分かれたが、古い友として交流は続いていたのだ。
 それに、その命を奪った集団。その中の魔術師らしい男は、その風貌や名前からメラドカインかその周辺の人物と思われる。マリーナを襲い、ウンディーネの封印を解いた者もそうだった。何か関わりがあるのかもしれない。
 エイダが進み出た。
「あの……そのムスタハと言う人物についてですが……」
 エイダの中にはアドウェンの意識が、そして記憶が流れ込んでいる。その記憶の中に、もしやと思われる人物が存在した。
「20年前、帝国軍の司祭団の中にもムスタハ師という人物がいました。帝国司祭団は帝国の滅亡と共に行方をくらましています。20年前とは少し顔付きは変わっていますが、恐らく彼でしょう」
 どう見ても二十歳を越しているようには見えないエイダの言葉にマイデルは首を捻る。エイダはアドウェンの記憶を引き継いだことを話した。
「そういうことか。さすがはアドウェン、易々とはくたばらんな。儂も斯くありたいものよ」
 あまり粘られるのも困るな、と密かに心の中で呟くルスラン。
 マイデルはエイダにこの城で起こった出来事を話した。
「彼らの目当ては精霊たちが自らと共に封印したサタンの断片でしょう。彼らの目的はサタンの復活だろうと思います」
「うむ。そうなると面倒なことになる。他の宝珠の守り手たちも心配だ。……ラブラシスの様子はわからんか」
「ええ。アルトールに隠居してからはあちらの様子はあまり詳しくは……。むしろ政治に関わっているマイデルさんの方が詳しいのでは?」
「そうかも知れぬ。が、ここしばらくはラルカウィの山道が塞がっていたせいで連絡もとれんが……待てよ。あの崩落には人為的な跡があったが、それもそやつらの仕業か?」
「その可能性もありますね」
 だんだん込み入った話になって来た。果たして自分がここにいる意味はあるのだろうか。ルスランは帰るに帰れずただ立ち尽くしている。
 マイデルはエイダと今後について話し合った。今起こっていることはもとより、身寄りを失ったエイダをどうするかも話し合う。しばらくは修道院で世話になってはどうかということで話がついた。その頃には、本格的にルスランはここにいる意味などなく、忘れ去られていることを確信していた。
 マイデルがエイダに修道院の場所を教えた所でルスランに気付いた。
「話は聞いたな」
 嫌な予感がするルスラン。
「今、ラルカウィの山道を修繕しているところだ。数日ほどで通れるようになる。その時ラブラシスへの伝令を頼みたい。……他の兵に頼んでもよいのだがな。やはり他の兵よりも、現場に居合わせた分話が分かっておろう。……もちろん報酬は出る。喜んで引き受けるがいい」
 予感は当たった。ただ、報酬のことを考えるとまんざら悪い話でも無いのは確かだ。ますますマイデル老師に覚えられ、使い走りが多くなることも確かだろうが。
 いずれにせよ、断れる立場でも無い。引き受けるしか無かった。

 アロフェトへの使いの間はそれなりのトレーニングはしていたし、アルトールでは怪物相手に実戦まで行ったのだから十分と言えなくは無いのだが、訓練を長らくしていない。兵士仲間に顔を忘れられても困る。夜勤の連中の顔だけでも見ていく事にした。
 得体の知れぬ魔導師がリム・ファルデ城を襲撃した夜以来、こちらでは特に大きな出来事は無いそうだ。ウンディーネの宝珠の封印を解いたことで、他に用がなくなったということもあるのだろう。何にせよ、それが何よりだ。
 しかし、全ての宝珠の封印が解かれ、サタンが復活する事があればそんなことは言っていられなくなる。20年前の戦争が再現されることになるかもしれないのだ。
 ルスランの両親も戦ったという20年前の戦争。ルスランが大きくなる前に二人とも死んでしまったので、ルスランが知っていることと言えば世間的にも広く知られたようなことだけだが、帝国軍と連合軍の戦いというだけではなく、世界の存亡をもかけるほどの戦いだったという。
 帝国軍はフォーデラスト王国、そしてラブラシス公国の連合軍に苦戦を強いられていた。
 フォーデラストは難攻不落の城と大規模な騎兵軍団をもつ強国。ラブラシスは軍の規模こそ小さいものの、エルフやその血を受け継ぐ者たちによる魔道師団を持ち、さらに宗主国であるメリカリアやその同盟国であるブリュストランドからの支援も受けられる。
 現にフォーデラスト軍の膨大な兵力に対して、十分な武装を与えたのはその二国だ。その二国は全く兵は動かさなかったとは言え、膨大な軍事費を出資している。メラドカイン帝国は実質四カ国の連合軍を相手に戦っていたのだ。
 当然のようにメラドカイン帝国は劣勢となった。そこで、メラドカイン帝国は大陸南部に住まう魔族と連合態勢を築こうとする。
 マナの魔力にあふれた魔境で生まれ育つ魔族にとって、人間の住まう土地は枯れ果てた荒れ地に等しい。彼らにとってメラドカインの侵略への協力に大きなメリットなど無いはずだった。
 だが、それでも魔族がメラドカイン帝国に力を貸した理由、それは宗教だった。
 人間の間に広く崇拝されているのは精霊母神マリアを頂点とし、精霊たちを崇拝するものだ。そして魔族が崇拝しているのは、精霊母神教でその名を語ることさえ禁忌とされ、今ではその名を知るものとていない古代の邪神。
 魔族の要求は、国民の改宗だった。彼らにとって必要だったもの、それは邪神の教徒だったのだ。
 魔族との同盟は成立した。だが、民に根強く信仰されていた精霊母神から、その対極にいる邪神への改宗に従わぬ者も多かった。彼らはレジスタンスとして帝国軍の新たな敵となった。
 さらに、改宗が精霊たちの怒りを買ってしまった。精霊は人間たちの戦いに関与するつもりは無かったのだが、こうなれば話は別だ。戦いは人間のみながず、魔族や精霊を巻き込んでの戦いとなった。
 なおも劣勢の帝国軍は、精霊たちにとって最大の敵である存在を復活させることにした。それこそ精霊たちの手により封印された魔族の王、サタンである。
 伝承によれば、サタンは精霊母神マリアにとって兄であり、マリアの子供たちである精霊たちにとっては伯父ということになる。尤も、サタンには既にそのような意志は残っておらず、ただ人間やエルフたちへの憎悪のみが凝り固まった怪物でしか無かった。
 帝国も、自分たちが復活させた者が人間である自分たちに有益であるはずが無いと気付いた。しかし、サタンの力は強大であった。連合軍は壊滅的な被害を受ける。帝国軍はいつその力で自分たちが滅ぼされるかと言う不安を抱えながらも、一時の勝利に酔った。
 だが、連合軍逆転の機会は以外と早く巡ってきた。魔族とて、一枚岩ではない。帝国と同盟を結んだゴストーブは、その敵国である間族の国ベルナスの攻撃を受けた。ゴストーブの隙を突いた進撃だった。実はこうなることを期待しての連合軍の間諜作戦だった。秘密裏に密使をベルナスに送り、ベルナスを動かしたのだ。
 こうなるとゴストーブも自国を防衛するのに手一杯となる。この機を逃す手はなかった。
 連合軍の反撃はすぐに始まった。後ろ盾を失った帝国軍は瞬く間に壊滅した。
 残された問題はサタンの存在である。連合軍は精霊たちと力を合わせサタンを追い詰めて行く。
 サタンは半神とも言えるだけの力を持ち、不死の存在だった。連合軍に出来ることは精霊たちによるサタン封印を助けることのみ。
 だが、サタンの封印はこれまでにも幾度も破られてきた。そこで精霊たちはサタンにこれまでよりも強力な封印を施すことにした。サタンを四つの断片に分割し、それぞれを四人の精霊が封印する。そして、サタンの断片を封印した宝珠にそれぞれ精霊たちが宿ることにより、より封印を堅固にする。
 世界から精霊の加護は失われるが、サタンさえいなければ加護も要らない。斯くて、サタンは封印され、宝珠は封印の術を助けた四人の巫女に託された。
 とは言え、その今までにないほどの強力な封印は、たったの二十年で破られようとしているのだが……。
 いずれにせよ、全ての封印を解かねばサタンは完全には復活しない。宝珠を守り、サタンの復活を阻止すること。それが当面の目標となるだろう。

 それから数日が経った。圧倒的な体力を持つオーク労働者が多く駆り出されたおかげもあって、山道の復旧は順調に進み、まだ一般には開放こそされないものの、明日にも通行が出来るようになるという。
 宣告通り、ルスランは使いに出されることになった。山道復旧の知らせが入ったらラブラシス公国に向けて出発だ。基本的にはマイデル老師のしたためた書状を届ければよい。公国側から返書を頼まれたりしたときはそれに従う。
 ラブラシス公国はアロフェトに比べれば圧倒的に近い。アルトールの先にある森林地帯に入ればそこはもうラブラシス公国領。公国は領土も小さい。早馬なら一日で辿り着くだろう。
 何事もなければすぐに帰って来ることの出来る使いだ。
 だが、その何事かは、出発を待たずに起こってしまった。

 夜も更けたころだった。
 王城敷地内の修道院、礼拝堂。その日も何事もなく過ぎ去り、マリーナがその日の最後の礼拝をしていたその時だった。
 得体の知れぬ気配を感じ取り、マリーナは祈りを中断して顔を上げた。
 それが邪悪なものなのか、神聖なものなのかも分からない、ただ、尋常ではないオーラ。
 ゆっくりと礼拝堂に近づいて来る。廊下の明かりに、何者かの影が揺らめいた。
 それは姿を現した。が、そこに現れたのは先刻挨拶をして就寝したはずのエイダだった。
 エイダは落ち着くまで修道院が預かることになっている。その間、マイデルにいろいろと用を与えられ、忙しくしていた。これも、両親そして祖父の死に悲しみ、心が落ちて行かぬようにとのマイデルの計らいであった。
 そんなエイダだが、露骨に様子がおかしかった。
 得体の知れぬ気配はエイダの体から発せられていた。エイダは表情もなく、目も虚ろにゆっくりと歩いて来る。
 部屋の外からもう一つ足音が近づいてきた。身軽に駆け寄る足音。ほどなくその足音の主も姿を現した。マイデル老師だった。齢を感じさせぬ敏捷な動きで部屋に駆け込み、携えたレイピアを抜き去る。やはり得体の知れぬ気配を感じ、駆けつけてきたようだ。
 だが、その得体の知れぬ気配の主を見て、マイデルも動きを止めた。
 そんな周りの様子に動じる事なく、エイダはマリーナに歩み寄り、口を開いた。
「お前達の女神がこの娘の肉体を必要としている。この娘を古の都に導け」
 それはエイダの声であり、エイダの声ではなかった。それだけ言うとエイダは糸の切れた傀儡のように床にへたり込んだ。
「今のは一体……!?」
 マリーナはマイデルに駆け寄った。
「解らぬ。だが、もう終わったようだ」
 辺りからはあの得体の知れぬ気配は消え去っていた。
 エイダも我に返ったようだ。へたり込んだまま、顔を上げて辺りを見る。
「大丈夫?」
 マリーナはエイダに手を差し伸べた。その手を借りてエイダは立ち上がる。
「何者かがわたしの体に入り込んで操っていたようです。……おじいちゃんの魂をこの体に取り込むときに魂に対して肉体を開きました。その隙間から何者かが入り込み、私を操ったみたいです」
 エイダと共にいるアドウェンの分析のようだ。
「何者か、か。判らぬか?」
 マイデルの言葉にエイダはかぶりを振った。
「強大な力を持った得体の知れぬ精神体、としか。……悪霊程度の物であればおじいちゃんの魂が簡単に追い払えるんですが、手の出しようもないほどの力を持っていたみたいです。ただ、それほど邪悪な感じではありませんし、この肉体に危害を与える様子もありませんでした。恐らく、メッセージを伝えるためだけにこの体を支配したのだと思います」
 これ以上聞くべきことのない、模範的な答えだったが、結局はほとんどが謎のままということだ。
 とにかく、重要なのはそのメッセージだろう。
 女神がこの娘の肉体を必要としている。古の都に導け。
 女神と言えば精霊母神マリアに他ならないだろう。そしてここには娘と呼べるような人物はエイダしかいない。マリーナを娘と呼ぶなら後十数年は遡らねばなるまい。
 そして、古の都。その名に相応しい都は、やはり数千年もの歴史を持つ古都ラブラシスであろう。精霊母神マリアとも関わりの深い土地だ。
 エイダをラブラシスに連れて行く。
 しかし、このメッセージを発信した相手の正体が掴めないのが不気味だ。
 メッセージに従うべきか否か。決めあぐねている所にウンディーネが現れた。礼拝堂にやにわに水煙が立ち込めたかと思うと、空中に凝り集まり人型をとる。
「今のは一体……?」
 ウンディーネは恐ろしく強い力が動いたのを感じ、急ぎここに現れたという。
 マリーナは今ここであったことをウンディーネに伝えた。そして、メッセージに従いラブラシスに行くべきかどうかの判断を仰いだ。
「私にも決めかねます。相手の正体が掴めませんし。ただ、サタンに与するものによる罠とも思えません」
 結局、誰も決断を下す事が出来ない。その時、エイダは言った。
「私、行ってみます。確かに正体も判らない相手からの指示ですし、何が待っているかは判りません。でも、だからこそ、何が起ころうとしているのか、見届けないといけないと思うんです。それに、きっと心配しているようなことは起こらないと思います。罠にしてはあまりにも行こうと言う気を起こさせない誘いですから」
 その言葉を聞き、マイデル老師も頷いた。マリーナはただ心配そうな顔でエイダを見つめている。
「……お主がそう思うなら行くがいい。丁度よく、儂もラブラシスに使いを出すところだ。便乗して行くといいだろう。手配しておこう」
「ありがとうございます」
「それならば今日はよく眠っておくことだ。長い旅路ではないが、英気を養わねばな」
 マイデルの言葉に頷き、礼拝堂を去ろうとしていたエイダをウンディーネが呼び止めた。
 ウンディーネはエイダの額に指で触れる。額を霧吹きで吹かれたような冷たく朧な感触。その感触が額から全身に広がり、急激に収まった。
「気休めくらいにしかなりませんが、あなたに守護の力を授けました。あなたに危機が迫ったときも感知出来ます。まだ力の戻り切らないわたくしに出来ることと言えばこのくらいです。道中気を付けて」
 そう言うとウンディーネは消え去った。人型を取っていた霧が形を失い、薄らいでいく。まさに雲散霧消だ。
「よかったわねぇ。私もウンディーネの守護を受けているのよ。いろいろと御利益があるの。その中でも一番嬉しいのは何と言っても、いつもお肌がしっとりするの」
「お、おはだ?」
「火傷もしにくくなるし、日焼けもあまりしなくなるの。泳ぎもうまくなるし、海水浴が好きなだけ出来るわよ」
「この国に海なんぞ有りはせんがな。それに、雨女になるぞ」
 マイデル老師が口を挟む。マリーナはそれに対し、まあ、いやだわ、などと膨れっ面になった。話を聞いた感じ、ここ一番で力を発揮してくれる守護では無さそうだ。しかし、エイダも年頃の女の子。お肌がしっとりと聞いて悪い気はしない。
 守護はともかく、明日には何が待っているのか判らないラブラシスへの旅路につくことになる。
 ラブラシスで、一体何が待っているのだろうか。