道標に従い、アルトールに向けてラルカウィの崖に沿って伸びる道を辿る。
視界を塞ぐように点在する岩のためまだその町の姿は見えない。だが、その場所は視界の利かないこの場所からでも伺い知れた。その上空をガーゴイルらしい怪物が飛び回っているのだ。蝙蝠のような翼を持つ細身の人型の怪物。それは、あの夜リム・ファルデの上空を飛び回っていた怪物と同じだった。
リム・ファルデの王城に現れたものと同じ怪物がいる。と言うことは、あの怪物と共に現れた魔術師かその一派がこの一件に絡んでいるのかもしれない。ルスランは慎重に町に近づいた。
町が見えた。上空にはかなりの数のガーゴイルが飛び回っている。これ以上近寄ると見つかってしまう。だが、行かない訳にも行かないだろう。
サーベルは洞窟で落としてしまい、武器はない。先程ゴブリンから買った爆弾にかけることにした。箱から爆弾を出して一つを手に持ち、残りを取り出しやすい場所に入れて物陰から飛び出す。
飛び回っていたガーゴイルが、ルスランの姿に気が付き騒ぎだした。何匹かが近寄ってくる。今だ。ルスランはゴブリンに言われた通り、爆弾の突起を押し込みガーゴイル目がけて投げ付けた。
爆弾はガーゴイルたちの間を擦り抜けて飛び、その一瞬のち閃光を放った。
閃光は瞬きほどの時間で収まり、爆弾は何もなかったように放物線を描いて地面に落ちた。不発か!ルスランは慌てて逃げ出した。
だが、その追いかけて来るガーゴイルの様子がおかしい。振り返って見てみると、ガーゴイルたち数匹が地面に落ちて悶えている。そして、悲痛な叫び声を上げながら徐々に石になっていった。何がどうなったのかは分かりかねるが、とにかく効果はあったようだ。
怯み混乱したガーゴイルたちを背に、ルスランは町に駆け込んだ。
こんな状況だけに、当然ながら家も店も扉を閉め切っている。どこか逃げ込めるような場所はないだろうか。出来ればアドウェンと言う賢者、もしくは抵抗している人達を見つけたい。
ガーゴイルはこの街の上空に散らばっているが、一箇所ガーゴイルが特に多く蚊柱のように集まる場所があった。あそこには近づかない方が得策か、と思っていたが、その下の方で時折閃光が迸ったり轟音が上がっている。何者かが抵抗しているのだ。気は進まないが、行くべき所はあそこしか無さそうだった。
ルスランは両手に一つずつ爆弾を持ち突っ込んだ。気付いたガーゴイル数体がルスランに向かって来る。ルスランは右手に持った爆弾を投げ付けた。爆弾はガーゴイルの額に辺り跳ね返ってきた。ルスランの近くに落ちる。焦るルスランの足元で爆弾は炸裂し、閃光を放った。
ルスランの周りに、力を失って石になりかけたガーゴイルがボトボトと落ちてきた。ルスランは何ともない。効きはいいが、何が起っているのかさっぱり分からない爆弾だ。
ガーゴイルの群れの中心にあったのは、何の変哲もない小さな店のある家だった。その家の前で三人の人間がガーゴイルに対し抵抗を行っていた。大柄な重装の戦士、射手。そしてもう一人は女魔術師。いずれも四十を回っていそうな顔立ちだ。
その家は淡い半球状の光に包まれている。魔術師が強固な結界を張り、その中から射手がガーゴイルを撃ち落としては戦士が止めを刺しているのだ。
結界の外で足を止めるルスランだが、戦士の手招きに結界の中に足を踏み入れる。光に触れても特になにも感じなかった。人間には害を及ぼさないが、ガーゴイルに害を与える類いの結界のようだ。
「若いの!すまんが家の中に入って矢の入った木箱を持って来てくれないか!」
残り少なくなった矢を手に取り射掛けながら射手が言う。
言われるままに家に入り見渡すと、すぐにそれらしい木箱を見つけた。蓋を開けて中を見ると、確かに矢が入っていた。しかし鏃がついていない。近くに鏃の入った麻の小袋があった。それと箱を持ち外に出る。
射手は箱を開け、鏃の無い矢に額を押さえた。
「しまった、準備が出来てないか」
そういう射手に、ルスランは手早く鏃を取り付けた矢を手渡す。
「助かるよ」
射手はそう言いながら矢を受け取った。
ルスランは日頃の訓練でさまざまな武器の取り扱いについて身につけている。巧いというほどではないが、白兵戦で用いられる主要な武器は一通り使うことが出来る。
弓矢ももちろんその中に入っている。もっとも、腕前は動かない的にならどうにか当たるくらいのものだが。
それに比べるとこの射手の技量は遥かに上だった。比べるのさえ失礼なほどだ。素早く動き回るガーゴイル、しかも上空を飛び回っている相手という狙いにくい的に、次々と矢を当てている。それも、みな一様に翼の付け根あたりに突き刺さっている。翼を痛めて落ちてきたところを戦士が手に持つ戦斧で止めを刺すのだ。
ルスランはあるだけの鏃を矢に取り付け終わった。その間に3体のガーゴイルが撃墜されている。だいぶ減って来たとは言え、まだ10体を上回る数のガーゴイルが頭上を飛び回っている。
残った矢ではその半分も落とせそうにない。
「メイソン!もう持ちそうにないわ!」
結界を張っていた女魔法使いが苦しそうな声で射手に向かって言う。
「この爆弾を使う!なるべく多く巻き込みたい。引き付けるから手伝ってくれないか」
ルスランは戦士に向かって言った。
「どうする気だ?」
「結界の外に出て奴らが寄って来たら、引き返して爆弾を爆発させる。取り囲まれないように退路を確保してほしい」
「いいだろう。任せろ」
戦士の返事を聞き、ルスランは爆弾を手に結界の外に飛び出した。
ガーゴイルのうち何体かがルスランに目を付け、向きを変えた。ルスランはそれを引き付けながら結界の周囲をぐるっと回る。反対側からもガーゴイルが近づいて来た。そろそろ頃合いか。ルスランは爆弾の突起を押し込む。ギリギリまで引き付けたところで爆弾を投げ上げて結界の中に逃げ込んだ。ガーゴイルはルスランを追うばかりで、先回りして取り囲もうともしなかったため、戦士の手を借りる事なく済んだ。ガーゴイルのうち何体かが勢いあまり結界内に飛び込んでくる。そのガーゴイルの体から光の粒子が飛び出し女魔術師に吸い込まれて行く。この結界は力を奪い取るフィールドなのだ。
爆弾からわずかな光が漏れる。至近距離にいたガーゴイルたちがもがき苦しみ出した。
それと同時に、辺りを覆っていた結界も消失する。
「む、いかんな」
戦士が身構えた。結界が消失したのを見たガーゴイルが一気にルスランたち目がけて飛びかかって来た。メイソンと呼ばれていた射手と、女魔術師は家の中に逃げ込む。
「ここは俺がくい止める。あんたも隠れてろ」
戦士に言われるままルスランも家の中に避難した。
家の中では逃げ込んだ射手が窓から外のガーゴイルを狙っている。
別な窓からルスランが外を窺った。外に残った戦士は6体のガーゴイルに取り囲まれながらも奮戦している。だが、さすがに数が多い。思うように攻撃も出来ない様子だ
戦士は背中に大振りの剣を背負っていた。動きにくかったのか、戦士は戦斧を投げ捨て長剣に持ち替えた。片手で扱うにはいささか大きな品に見えるそれを悠々と片手で振り回している。斧よりは高く振り上げられるようだが、さほど状況が好転したようには見えない。
そのとき、窓からメイソンの矢が放たれた。メイソンに射られたガーゴイルは、反転して窓の方に飛んで来る。窓は鎧戸が閉められガーゴイルの侵入など許さない。鎧戸の隙間から覗き込んだガーゴイルの眉間に至近距離から放たれた矢が深々と突き刺さった。
その間にも外の戦士は取り囲まれ、身動きを封じられていた。一匹は倒したようだが、戦士の消耗は激しい。
ルスランは意を決し窓を開けて飛び出した。戦士が先程投げ捨てた斧を手に取り、その動きに気付いて向かって来たガーゴイルの脳天目がけて振り下ろした。ガーゴイルも躱す動きを見せ、脳天直撃こそ免れたが躱し切れず、斧の刃はガーゴイルの肩に食い込んだ。通常使われる戦斧より一回りほど大きめで、重さもある。扱いにくい。
さらにもう一匹のガーゴイルがルスランに向かってくる。重い斧を構え直す時間は無かった。
ガーゴイルは腕を振り上げ、その鋭い爪でルスランを狙う。ルスランは斧を捨ててその爪を躱した。ガーゴイルは向きを変え、なおもルスランを狙う。このまま身を守るものも無く攻撃に晒されていては追い詰められる一方だ。
目の前のガーゴイルの脇腹に矢が突き立った。メイソンの援護射撃だ。ガーゴイルの堅い肉体にはさほど大きなダメージを与えられはしない。それでも怯ませるには十分だ。
ガーゴイルが怯んだ隙にルスランは呪文を唱え出した。そして更なる攻撃を繰り出したガーゴイルに掌を向ける。その掌から目映い光が溢れる。ただ光が出るだけの魔法ではあるが、こうして光を強くすれば目眩ましには十分使える。
目の眩んだガーゴイルは動きを止めてルスランの姿を探した。そのガーゴイルの体がびくんと痙攣する。その胸から剣の先端が飛び出していた。それが再びガーゴイルの胸の中に戻って行く。戦士の剣が後ろからガーゴイルを貫いていた。
ルスランは再び斧を手に取った。残るガーゴイルは三体になっていた。そのうち一体の動きがおかしい。何やら白い霧のようなものが取り巻いている。ガーゴイルの体に結晶のようなものが輝き出す。氷だ。ガーゴイルがみるみる氷に包まれていく。窓から顔を覗かせている女魔術師の仕業だ。ルスランは自由の利かなくなったガーゴイルに斧を振り下ろした。これで残りは二体。
残りのガーゴイルが戦士に向かって突進した。その横からルスランが斧で斬りかかる。背中に斧がめり込み、そのまま地面に叩きつけられた。
もう一体は戦士に突っ込み、待ち受けていた戦士に腹を突き刺されていた。
「気を抜くな、止めを刺せ!」
戦士はそう言いながら剣を引き抜き、ガーゴイルの首を刎ねていた。
一方、ルスランが叩き落としたガーゴイルは、ルスランの足元で奇妙な光を放っていた。目、口、耳。そして傷口。体のあらゆる穴から光が漏れている。
なにか、ただならぬことが起こりそうだと察したルスランは、その脳天に斧を振り下ろした。血が噴き出すように光が吹き出し、斧が押し戻された。その直後、ガーゴイルの頭部が弾けた。
何が起ったのか把握仕切れず戸惑っていると、ルスランの横から強い閃光が巻き起こる。
見ると、目の眩みそうな閃光の中央にガーゴイルがうずくまっていた。先程ルスランが最初に斧で切りつけたガーゴイルだった。
「逃げろ!」
戦士はそう言いながらガーゴイルから離れ始めている。ルスランも斧を捨てて走り始めた。
閃光が激しくなり、轟音が響いた。ルスランは地に伏せて頭をかばう。その周りで何かが降り注ぐ音がした。
音が収まり、ルスランは顔を上げた。辺りには拳大の石がいくつか転がっている。立ち上がり、ガーゴイルのいた辺りを見てみると、地面が僅かに抉れていた。
「今のは?」
「ガーゴイルは追い込まれると自爆攻撃を仕掛けてくるんだ。至近距離で食らっていたら致命傷を食らいかねん」
爆発し、石でできた肉体の破片が近くにいる敵を襲うのだ。最後の力を振り絞っての捨て身の攻撃だけに、その威力は馬鹿にできない。
ガーゴイルが全滅し、家の中に逃げ込んでいた二人も出て来た。
メイソンは石になったガーゴイルに突き刺さったままの矢を引き抜こうとしているが、矢が食い込んでから石化したためにがっちりと固められ、一筋縄では取れそうにない。
「後で回収するか……。しかし、家の前が砕石場みたいになっちまった。片付けるのが大変だ」
メイソンはそう言い、ため息をついた。
「ところで、あんたは何者だ?ただの旅人にしてはいやに戦いに慣れているようだが」
そう問われ、ルスランは自分が王国の兵士であること、マイデルの命令でアドウェンに伝えることがあると言うことを伝えた。
「なるほど、兵士なら武器の扱いに慣れているのも納得だな。アドウェンなら、ここに住んでいる」
メイソンは家を指さす。
「だが今日は出掛けてるんだ。学校で授業をしている」
「学校?」
「ああ。この様子だと狙いは親父さんだ。親父さんの居所が敵に知られれば学校の方にも手が及ぶだろう。そうなると子供たちも心配だし、俺たちは学校の様子を見に行く。ついてくるか?」
「ええ、ぜひ」
ルスランはメイソンたちについて行くことにした。
女魔法使いはジェシカと言い、メイソンの妻でありアドウェンの娘だと言う。戦士はグライムスと言い、二人の旧友だそうだ。
「しかし、ジェシカの魔法があんなに急に終わるとはな」
メイソンが言うとジェシカはすぐに言い返した。
「あれについては気になることがあるのよ。ねえ、ちょっとあんた。さっきの爆弾まだある?」
「ありますが」
「ちょっと見せて」
ルスランが最後の一つの爆弾を取り出すと、ジェシカはそれをもぎ取るように奪い去った。そして爆弾を分解し始める。
爆弾を開くと、中には水晶玉と2枚の小さな金属円盤を組み合わせたものが入っていた。円盤には魔法陣と呪文が彫られている。
ジェシカはその金属板に書かれた魔法陣を見て言う。
「なーるほどねぇ。これはガーゴイルが石になる訳だわ。でも、明らかに失敗作よね、これ」
「ええっ、そうなんですか」
失敗作を掴まされたと知り、ルスランは驚く。
「分かるのか、ジェシカ。そう言うのは専門外だろ」
「確かにね。魔導機器工学は興味も無いし、基礎をかじるだけかじったけどうろ覚え。でも、こんな子供の工作レベルなら何とか分かるわ。これはきっと近くから魔力を調達した後、炎の魔法を発動させるつもりだったんでしょ。でも繋ぎ方がおかしいわ。これじゃ先に空っぽの状態で炎の魔法が発動して、それから魔法吸収が発動するの。だからあのガーゴイルは魔力を奪われて石になったし、あたしの魔力も吸い取られて結界が維持できなくなったの」
「ありゃ。そんなものだとは露ほども……申し訳ない」
「別にいいわ。どっちみちあの調子じゃ結界が切れる前に殲滅なんて出来なかったもの」
「俺は散々な目に遭ったがな」
グライムスがぼやく。
「しかし、あのくらいの敵にあれほどてこずるとはな。昔なら余裕で倒していたんだろうが、衰えたもんだ。剣に持ち替えてもばてちまった」
「実戦は何年ぶりだ?」
「5年前に傭兵を引退して以来だ」
「俺は戦争以来だぜ」
そんなことを言いながら歩いているとジェシカが足を止めた。
「いいこと思いついた。後から行くから先に行ってて」
そういうと今来た道を駆け戻って行く。
「何をする気だ?」
「さあな。あいつの考えることは未だにわからんよ。俺には魔法の知識もないしな」
「まったく、アドウェン殿の娘婿とは思えんな……」
「一々気にしてたらあの家には住めないさ。魔法に関する事は俺抜きで勝手にやってくれるし。店さえ真面目にやっときゃ文句も言わん。あれはあれでいい女房だと思うぜ?」
与太話をしていると、行く手に煙が立ちのぼって来た。
「学校にも手が回ったようだ、ぐずぐずしていられんぞ」
一行は走りだした。
学校が見えて来た。小さな町の小さな学校だ。傍目には大きな民家と大差がない。公会堂として使われることもある建物で、町の小さな広場が校庭代わりだ。
その校庭を兼ねた広場で戦いが繰り広げられていた。年老いた魔導師同士の戦い。片方が仕掛ける猛攻にもう一方が明らかに押されている。押されている方は異国風のいでたち。リム・ファルデでマリーナを襲った者と、顔は違うが同じ一派のようだ。
もう一方がアドウェンだった。戦況はアドウェンが押していたが、散らばっていたガーゴイルが集まりだし、形勢が逆転しかけたところだった。
メイソンは弓矢を構え、魔導師を狙った。それに気付いた魔導師もその矢から身を守らなければならなくなった。
その隙にアドウェンは集まり出したガーゴイルを始末し始める。アドウェンに狙われたガーゴイルが一体、また一体と墜落し、石になっていく。ルスランが使ったゴブリンの爆弾を喰らった時のようだ。マナを奪い去る魔法だ。
ガーゴイルが一斉にアドウェンに飛びかかって来た。アドウェンはジェシカが使っていたものと同じ結界フィールドを呼び出した。
結界に触れたガーゴイルは慌てて逃げて行く。十分距離を取ったところでアドウェンは結界を解き、再びガーゴイルに攻撃を仕掛ける。結界で押し返し、距離を取ったところで攻撃を仕掛けるのだ。さすがに賢者と呼ばれるほどの人物になると同じ魔法でも使い方に冴えがある。
一方異国風の魔導師は、メイソンに加えグライムス、そしてルスランにも狙われ、ガーゴイルの手を借りて空に逃げたところだった。こうなるとルスランとグライムスには手出しができない。さらに、その周りをがガーゴイルが飛び回り、メイソンの矢から守っている。
一見かなり有効な手である。だがアドウェンが魔導師を掴んでいるガーゴイルを落とせば一巻の終わりとなるだろう。その辺も分かっている魔導師は一気に蹴りをつけるべく動き出した。
ガーゴイルたちがアドウェンの真上に集まり出す。真上にいるガーゴイルを攻撃すると、石化しながら落ちてくるだろう。やっかいだ。下手に倒せない。
さらにガーゴイル達はアドウェンの真上から結界内に突進してきた。結界は魔力を吸い取るフィールド。魔法生物のガーゴイルにとってそれは命を吸われているに等しい。魔力を失えば石になってしまう。だが石となってもアドウェンの上に落ちれば命を奪うことができる。まさに捨て身の攻撃である。
アドウェンは結界を解き粉砕の魔法をかけた。石化したガーゴイルは砕けて砂礫となるが、粉砕するよりもガーゴイルが迫る方が早い。それに、粉砕しても中には大きな破片がどうしても混ざる。この咄嗟の魔法では尚のことだ。さらに、石化したガーゴイルに粉砕は効果覿面の魔法だが、生身の相手ではここまで粉々にはならない。ずたずたの肉塊として降り注いでくる。結界を解いた後に飛び込んできたガーゴイルは生身だ。
ルスランは走り始めていた。態勢を低くしてアドウェンに駆け寄り、アドウェンの年老いて華奢な軽い体をすくい上げる。そうしてアドウェンを担いだまま、一気に駆け抜けた。後ろでは石化したガーゴイルが地面に激突する音や、生身のまま舞い立つ砂煙の中に突進して折り重なるガーゴイルの喚き声がする。
勢い余ったルスラン諸共地面に倒れ込んだアドウェンは、急ぎ結界を張り広げた。結界の中に巻き込まれ、逃げ遅れた数体のガーゴイルが石になった。
空に逃げた魔導師は、メイソンやグライムスを狙っていた。炎の塊が降り注ぎ、地面に落ちた炎は瞬く間に辺りに広がる。
二人は逃げ出すが、その行く手を先回りするように炎は伸びて行く。焼け死ぬまで逃がす気は無いようだった。
それでもあきらめずに逃げ続ける二人の足元から水が湧き上った。二人は足を止めた。
「いいタイミングでしょ?」
息を切らしながら駆けつけたジェシカの仕業のようだ。
「もうちょっと早く来てくれれば靴を新調しなくて済んだぜ?」
「そんなボロ靴、新調した方がましよ。みっともないったらありゃしないわ」
軽口を言い合う夫妻。
その時、上空でも異変が起きていた。
魔導師を掴んでいたガーゴイルが二匹のガーゴイルに襲われている。他のガーゴイルが救援し応戦に回るが、何せ容姿は同じガーゴイルだ。入り混じり、揉み合ううちに見分けも何もつかなくなり、大混乱になった。
魔力を失い石になったガーゴイルは、魔力を与えられれば復活する。その時、魔力を与えた者に服従する本能がある。再び魔力を与えてもらえるように媚びる訳だ。
だが、ガーゴイルを蘇生するには相当量の魔力が必要だ。ジェシカの力では短時間それだけの魔力を集めるのは無理だ。ジェシカはルスランの爆弾に目をつけた。ガーゴイル数体分の魔力を吸い取り、中の水晶玉に蓄えている。この魔力を利用したのだ。
もともと消耗していたガーゴイルから吸い取った魔力であることに加えてロスも多く、爆弾一つにつき1体のガーゴイルを復活させることが限度だった。それでもルスランが家の側で使った2個の爆弾で2体のガーゴイルを復活させ、支配下においた。魔導師を襲ったガーゴイルたちだ。
その2体を含めたガーゴイルたちは、同士討ちも含めて数体が傷つき墜ちたものの、落ち着きを取り戻していた。
だが、魔導師も手傷を負っており、さらに護衛が減ったことで守りも甘くなっていた。
メイソンの矢が魔導師をつかむガーゴイルの体に突き刺さる。魔導師は詠唱を始めた。ジェシカは先程ルスランから借りた爆弾を起動し、投げ付けた。狙いはあまり正確では無かったが、爆発によりガーゴイルが墜ち始めた。魔導師も魔力を奪われ、魔法こそ発動してメイソンたちを炎が襲ったものの、すぐにかき消えた。
魔導師はガーゴイル諸共地面に墜ち、叩きつけられた。
すぐに魔術師は取り囲まれる。ルスランはグライムスとともに魔術師を取り囲み、アドウェン、メイソン、そしてジェシカが遠くから狙いをつけている。
アドウェンが歩み寄り、魔力を奪う結界を巡らせた。魔術師も結界の中に包み込まれた。これで魔術師は魔力を奪われ魔法を使うことができないし、ガーゴイルも魔術師を助けるために近付くことが出来なくなった。
「手詰まりじゃな。お主が何者なのか教えてもらおうか。なぜこんな田舎に引っ込んで久しい老いぼれを狙った?」
魔術師は無言でアドウェンを睨みつけていたが、何かに気づき口元に笑みを浮かべた。アドウェンもその様子に気付いて訝る。
背後から短い呻き声が聞こえたのはその直後だった。
魔術師とアドウェンの動向に注視していたジェシカの目は捉えていた。その視界の隅で動く怪しい影を。
そちらに目を向けると、メイソンが弓を構えていた。メイソンが立ち位置でも変えたのか、そう思った直後、その背後の影に気付く。
それは影にしか見えなかった。影以外に見えるとすれば、闇だろうか。黒以外の色を持たぬ影。
気配に気づいたメイソンが振り返るのと、その影が動くのは同時だった。その一瞬後、鮮血を噴き上げながらメイソンは倒れ込んだ。
「メイソン!」
愛する夫が倒れ、絶命して行くのを目にしながら、ジェシカは何もできなかった。
夫の命を奪った悍ましい漆黒の影が、疾風のごとき速さでジェシカに迫り、夫の血で濡れた刃がその胸に突き立てられることにも、抗うことができなかった。
黒い影は更にアドウェンに狙いをつけた。
アドウェンはすぐさま防御の結界を張った。光の盾がアドウェンと影の間に現れ、繰り出された攻撃を直前で受け止め、弾き返した。
ルスランの足元から呪文の詠唱が起こる。アドウェンの気が逸れ、魔法封じの結界が消え失せた僅かな隙に、魔術師が魔法を使おうとしていた。
ルスランは足元の砂を蹴り、魔術師の顔に浴びせた。それに怯んで詠唱が停まる。ルスランは更に足元の砂を掴んで魔術師の口に押し込んだ。これでしばらく詠唱はできない。念じるだけで魔法は使えるが、威力が大きく落ちるうえに詠唱以上の集中が必要だ。口が砂だらけの状況では集中もしにくい。
グライムスが影に向かって突進する。剣を振りかぶり、振り下ろす。それを黒い影は難無く躱した。グライムスは間断なく攻撃を繰り出す。影の敏捷さは危なげなくその攻撃を躱していくが、アドウェンを狙う暇は無い。
「お父さん!お母さん!」
叫びながら、学校から一人の少女が飛び出して来た。メイソンとジェシカの子か。
「来るな!」
アドウェンの声に少女は動きを止めた。
その時、魔術師の詠唱を封じたにもかかわらず、どこからともなく詠唱が聞こえた。魔術師ではない。どこから聞こえてくる詠唱なのかも分からない。
けたたましい音がしてアドウェンの前の光の盾が砕け散った。
グライムスが気をとられた隙に、影がアドウェンに飛びかかった。アドウェンは素早く魔法の盾を呼び起こし、攻撃を押し戻したが、そのときには既に影の刃はアドウェンの胸を抉っていた。
グライムスが再び剣を振り下ろす。影は素早く飛び退き、グライムスの剣はまたしても空を切った。
影は向き直り、グライムスを狙う。鎧に身を包んだグライムスに、短刀のような小さな刃を武器に戦う影は攻めあぐねている。剥き出しの顔も巨体ゆえに位置が高く、それほど大きくない影では跳躍してやっと届くかと言ったところだ。跳躍しての攻撃は、動きを読みやすく、無防備だ。
しかし、グライムスとて優位とは言いがたい。大振りの剣による攻撃は当たりさえすれば大きな威力があるだろうが、影の俊敏な動きは攻撃をいとも容易く躱している。
共に互いを攻めあぐね、膠着状態になろうとしていた。
ルスランは加勢すべく戦斧を掲げた。しかし、重い戦斧ではグライムスの重剣よりも動きは鈍い。それにルスランが身に着けている防具は胸当て、首や腹を狙われれば防ぎようがない。
黒一色に見えた影だが、近づけば白い目が見えた。黒い衣をまとった人影。だが、その黒い衣の隙間から見える肌もまた黒かった。魔境とヴィストの狭間に住む、炎と魂の民と呼ばれる一族の深い褐色の肌よりも黒い、闇を切り取ったような黒。
そのわずかな白い目の中の赤い瞳がルスランを見た。禍々しく赤い瞳は魔族の証だ。
ルスランの接近に気づいた影は、一気にケリをつけるべく大きく跳躍した。グライムスの頭を狙ったのだ。
グライムスにしてみれば好機であった。跳躍していれば動きは読める。待ち受け、斬りつければかたがつく。
そのはずだった。
グライムスの剣は影の真っ芯を捕らえ、一刀両断にしていた。だが、その手には肉を斬る感触も、骨を砕く感触も伝わってこなかった。
ルスランの目は捉えていた。空に舞う影と、その影が地に落とす影。その地を這う影に紛れ、もう一つの影が動くのを。
グライムスが斬った影は、影が纏っていた衣が投げ上げられた物だった。それが地に落とす影に紛れて影の本体がグライムスに忍び寄っていた。一瞬の出来事にルスランは動くことなど出来なかった。
背後に回った影の放つ殺気に気付き、グライムスがー振り返る。影は背後から巨体のグライムスの首に飛び付きしがみついた。
刃を構え、突き立てようとする影の目に映るグライムスの表情が驚きの表情から変化する。恐怖の表情でも、諦めの表情でもない。口元を吊り上げ、不適な笑みを浮かべていた。
次の瞬間、辺りは閃光に包まれ、轟音が響き渡った。
ルスランは衝撃波に弾き飛ばされた。爆発。その中心は影とグライムスが相見えていた場所だった。
舞い上がっていた砂煙が収まると、影もグライムスも地に伏せていた。
グライムスの魔法だった。得意というほどではないが、魔法を使うことが出来るのだ。
反撃の為に魔法を使うにしても、そのままでは大した威力にはならない。そこで、鍛えられた強靭な巨体の持つ底知れぬ体力を活かす魔法を伝授されていた。
魔法により、その体力をエネルギーに変換し、そのエネルギーを爆発させる。
この魔法を使うと体力を大幅に消耗し、無理な運動をした後のように体が動かせなくなる。ここ一番でしか使えない魔法だ。だが、それだけに威力の方もかなりのものだった。
至近距離で魔法を食らった影は苦痛にのたうちまわっていた。影は体が軽かったため、爆発の勢いで弾き飛ばされた。その分、爆発で肉体が受けたダメージが相殺されていた。それでも、グライムスの首に巻き付けていた腕は全く動かなくなっているようだ。
ルスランは立ち上がり、落ちていた斧を手に取った。そして止めを刺すべく悶える影に斧を引きずりながら歩み寄る。
そのとき、またどこからともなく呪文の詠唱が聞こえて来た。次の瞬間、閃光と共にルスランの全身に激痛が走った。全ての筋肉が痙攣し、動くことも出来ない。心臓も不規則に脈打ち胸が痛み、苦しい。それでも遠のいてはいたが意識を失うことはなかった。
再び呪文の詠唱が聞こえる。今度ははっきり聞こえ、方向も分かる。ルスランはかすむ目を開き、その姿を探した。倒れている影のそばだ。そこにはやはり闇のような人影があった。漆黒のローブを纏っている。
詠唱が終わると、影が立ち上がった。癒しの魔法か。
「お前の英雄狩りは済んだか?帰るぞ。話を聞き付けたドワーフどもが援軍として駆けつけている。数は大したことはないが、魔導銃を持っている。あれは厄介だ」
新たに現れた影は、もう一方の影にそう語りかける。
「そうか。いいだろう。俺もこの町にいる英雄を4人とも狩ることが出来て満足だ」
「しかし、無様だなムスタハよ。アドウェンの居所を探るだけでどれだけのガーゴイルを無駄にした?」
新たに現れた影は、魔術師に向かって言う。ムスタハとはこの魔術師の名前のようだ。
「も、申し訳ありませぬ!」
「ガーゴイルに奴らを襲わせ、アドウェンめに助けを求めに行かせ、その場所を探るか、アドウェンめが出向いて来るのを期待しておりましたが、思いの外奴らが手ごわく……」
「言い訳など要らぬ。幸い、魔力を奪われただけのものもいるようだな。それだけは連れて帰らねば」
黒いローブの影は呪文を唱える。すると、大地から無数の光の粒が現れ、それが集まりいくつかの光の塊となって、石化したガーゴイルの体に吸い込まれて行く。
石になっていたガーゴイルは命の糧を得たことで動き出した。遠く、先程まで激戦の舞台になっていたアドウェンらの家の方からも数体のガーゴイルが飛び上がるのが見えた。
こちらに向かって来るそのガーゴイルの一団の最後尾の一体が突然暴れだし、そのまま地面に落ちた。
「魔導銃で撃たれたようだ。ドワーフどもめ、もう近くまで迫っているな」
難を逃れたガーゴイルが到着した。それを追うように騒々しいドワーフの小型戦車の走行音が近づいて来ていた。
黒い影は再び詠唱を始めた。
その時甲高い叫び声が上がった。それと同時に風切り音。メイソンらの命を奪った影の肩に矢が深々と突き刺さっていた。
「ぐおおお!?」
影はうめき声を上げ、声と矢の飛んで来た方を睨みつけた。そこには先程飛び出して来た少女がいた。憎悪の表情を浮かべ、影をきっと睨みつけ、弓を構えている。少女は弓に新たな矢を番えようとしていた。
「詠唱をや止めてくれ、あの小娘を殺らせろ!」
影は訴えるが、詠唱は停まらなかった。
一方、その言葉を聞いたルスランは立ち上がり、それを阻止しようとした。が、まだ体は思うように動かない。ルスランは呪文を詠唱し始めた。
それに反応し、ローブの影がこちらを向いた。黒一色の影の中に、白い顔があった。髑髏の面。その髑髏の眼窩の奥で赤い瞳の白目がちな目が光っている。
次の瞬間、低い破裂音のような音が轟き、ガーゴイルが悲鳴を上げる。ドワーフが駆けつけ、魔導銃を撃ったのだ。
少女も次の矢を番え、放った。
狙いは正確に影の眉間を捕らえていた。が、矢が到達する一瞬前に呪文が発動し、ガーゴイルも二つの影も、魔術師もかき消えた。矢は遮るものを失い、虚空へと飛んでいった。
少女は声を上げて泣きながらその場に崩れ落ちた。