ラブラシス魔界編

2話・リム・ファルデの地下迷宮

 薄暮の夕焼けは宵闇へとすり替わる。だが、リム・ファルデは夕焼けのような赤い光に包まれたままだ。
 見るからに、ただごとではないのは明らかだ。ルスランはさらに馬を急がせた。
 なだらかな登りの傾斜となり、馬の足も遅くなる。ルスランは焦れるが、焦ってどうなる訳でもない。
 近づくにつれ、赤い光がどこを中心にしているのかははっきりしてくる。城下町ではなく、城だ。だが、城が炎に包まれている様子はない。ただ、赤い光を放っている。
 城下町に到着すると、町は騒然としていた。この異変だ。無理もない。ただ、騒然となっているだけで被害が出ている様子はない。
 ルスランは通りに出て赤い光に包まれる城を見ていた市民に声をかけ、何があったのかを尋ねてみたが、分からないとだけ返された。
 ルスランは城に急いだ。通りはこんな時間だというのに人が右往左往している。だが駆け抜ける馬の行く手を阻もうとする者はなく、皆慌てて道を開ける。
 近づいてみると、城の様子がよく分かるようになってきた。
 城は筒状の赤い光に包まれている。見るからに炎ではない。そして、その上空を、周囲を、無数の翼の生えたものが飛び回っている。蝙蝠のようであるが、それにしては莫迦に大きい。その姿は悪魔としか思えなかった。
 城門前まで駆けつけると、そこには兵士達が集まっていた。
 ルスランはライアスの姿を見つけ、馬を下りた。
「ルスラン・マイナソア、ただいま任務より帰還しました!……何があったんですか!?」
「それがな、さっぱりなのだよ」
 ライアスは苦々しげに吐き捨てる。
「得体の知れぬ光に城が包まれ、近づくことが出来ん。中ではあの化け物が飛び回っている。城内には陛下を含め、多くの者が取り残されているはずだが、逃げ出しても来ない。何か、我々に出来ることがあるのか……」
 ルスランは目の前に立ちはだかる赤い光の壁に手を伸ばしてみた。光に指先が触れた途端、炎のような熱さを感じて手を引っ込める。
 明らかに、大がかりな魔法によるもの。だが、誰が、何のために?
「マイデル老師は?」
「マイデル老師も中に居られるはずだ。老師ならば何か分かるかも知れないが……」
 皆、途方に暮れるしかないのだ。
 その時だった。
「ああ、ライアス様!」
 女性の声がした。振り返ると、城内の修道院の修道女だ。
「聖女様をお助け下さい!聖女様の行方が分からないのです!」
 狼狽えきった修道女。だが、なによりも気にすべき点がある。
「城内から?どうやってここに?」
 ライアスは修道女に尋ねた。
 修道女によると、城内はあの翼を持つ怪物のために混乱しており、皆城内に立て籠もっているという。だが、そんな中、修道院長の聖女マリーナの姿が見当たらないことに気がついた。恐らくは修道院の中で孤立しているのではないかとのことだった。
 そして、気になる彼女がどこから出てきたのかと言うことだが。
「私、聖女様を捜しに化け物の目を盗んで修道院に行こうと思ったのですが、化け物に見つかってしまって、慌てて近くの穴に飛び込んだんです。上はあの化け物が飛び回っているし、出るに出られなくて……でも、奥に進むうちに人の気配がし始めたので、助けを求めようと探し回っているうちに城壁の外に出られたんです」
「おかしいな。そんな抜け道があるなんて話、聞いたことがない」
 ライアスは不思議がる。しかし、とにかくその抜け道を見てみないことには始まらない。
 修道女に案内してもらい、その抜け道を見に行くことにした。

「ここは……、オーク穴じゃないか」
 修道女の案内で辿り着いたのは、ライアスの言う通りオーク穴と呼ばれている穴であった。名前の通りオークがこの穴に住み着いている。
 この穴は城下町の、しかも王城からそう遠くない場所に存在している。なぜこのような町のただ中にオークが住み着いているのか。その説明をする前にオークから説明しなければならないだろう。
 かつて、オークと人間は忌み嫌いあっていた。いや、今も昔ほどではないが友好的とまでは言いがたい。
 オークもこの世界に多種生息する亜人種の一種で、大きく屈強な体を持っている。ほんの数十年前までは人間と完全に敵対していた。セントールのように人間を襲っては略奪する。そのような暮らしをしていた。だが、メラドカイン帝国軍はそのオークを屈服させ、奴隷として扱い出す。
 帝国は程なく滅亡し、オーク達は解放された。だが、奴隷としての暮らしは彼らの生活に略奪による生き方以外の道、労働という新しい風を吹き込んだのだ。
 元々体力は桁外れのオーク達にとって、多少の肉体労働は朝飯前だ。そして彼らは給料が安くても、賄いの料理の量さえ多ければ文句は言わない。知性の低さのせいか食欲以外の欲望はほとんど持たない種族なのだ。
 奴隷は解放されたが、帝国時代から鉱山にはオーク労働者が必ずいた。鉱山はオークの労働者無しでは立ちゆかないほど、オークの労働力に依存するようになってしまっていた。そこで連邦政府はオークを労働者として認めるようになった。やがて、世界各国で鉱山や建築現場にオークの労働者が使われるようになってくる。この国も例外ではない。
 そして、このオーク穴である。
 この近くには坑道入り口がある。そのため労働者であるオークもその近くであるここに住んでいる。オークは元々洞窟や壕などの穴に住み着いていた。この街のオークはここを住処に選んだわけだ。
 この穴はかつては王城からの抜け道だったと言うことは聞いたことがある。だが、崩落によりうち捨てられ、王城側には頑丈な鉄の蓋が取り付けられていた。町側も塞がれていたが、オークのために解放されたのだ。
 そのような経緯があるので、この穴が王城に繋がっていても不思議ではない。だが、崩落により塞がれ、しかも王城側の入り口は蓋がされていたはず。それが通り抜けられるようになっていたというのだろうか。それは、確かめてみるしかない。
 ライアス率いる兵士達はぞろぞろと穴の中に入っていった。

「なんだお前らは。今日は騒がしいが、何かあったのか」
 穴に入るなり、闇の中で巨大な影が揺らめき、ひどい訛りの上に発音も悪い喋り方で、何者かが声をかけてきた。もちろん、オーク以外にあり得ない。
 ランプで照らすと闇の中に巨大な影が浮かび上がる。毛深く浅黒い肌、見上げるほどの身長、がっしりとした肉体。それ以上に目立つのはその顔だ。大きな口からは上向きに二本の牙が目の下あたりまで伸びている。潰れて上向きの大きな鼻、ぎょろりとした目。ぼさぼさの髪。
 見てくれの悪いことで知られるオークだが、闇の中でランプの明かりに浮かび上がるその姿は、恐怖を感じさせるのに十分である。だが、誇り高き王国軍の兵だ。怯む訳にはいかない。
「非常事態でな。この穴の奥が王城に繋がっていると聞いたのでそれを確かめたい」
 ライアスは毅然とした態度で目的を伝える。
「奥ぅ?行き止まりだろ?」
 オークは考え込む素振りを見せた。
「すまんが、その行き止まりの一番奥に案内してはくれないだろうか」
「ああ、いいぜ」
 オークはライアスの言葉に頷き、歩き始める。ライアス達はこのオークを信じ追従するしかない。安心してこのオークを信じられる理由は、なんと言ってもそのオークの単純さだ。嘘をついて人を騙すような知性はない。
 地下通路の中はなかなかに入り組んでいるようだ。オークはそれでも迷う様子もなく歩を進めていく。住み着いているのだから中の構造も知り尽くしているのだろう。
 この奥が行き止まりだという。だが、行き止まりではなく外に通じている。
「ありゃ。なんだこれは。行き止まりが行き止まりじゃないじゃないか」
 住人であるオークさえもびっくりしている。ごく最近まで確かに行き止まりだったのだろう。
 この先は案内役のオークさえ知らない場所になる。開けた場所に出た。いくつもの道が出ている。オークはこれ以上先に進むことを拒否した。知らないところに踏み込みたくないのだ。知らないのであれば、案内してもらいようもない。用もないのでオークとは別れた。
 周りに出ているいくつかの道のうち、一つは緩やかに上に向かっている。王城は高いところにある。単純に考えればこの道だろう。その道を登り始めた。やがて、不気味な赤い光、外からの光が見えてきた。出口らしい。
 確かに鉄の蓋がそこにあった。だが、その鉄の蓋には大きな穴が開けられていた。高温で融かされたようだ。足元には融かされた鉄が流れ、既に冷え切り固まっている。
「何があったんだ……」
 訝りながらも王城の敷地に踏み込む。頭上を飛んでいた怪物が兵士達に気付き、一斉に襲いかかってきた。
 ライアスの号令を待つまでもなく戦闘態勢に入る。ルスランにとって初めての実戦となる。しかも、相手がこのような得体の知れない怪物とは。
 目の前に舞い降りてきた怪物。その姿はまさに悪魔と言った容姿である。細身で手足の長い体、蝙蝠を思わせる翼。爛々と赤い光を放つ目。長く尖った鼻と耳。そして、振り下ろされる鋭い爪。
 ルスランが剣で攻撃を受け止めた。爪を振り下ろしているのだから、当然手を振り下ろしている。それを剣で受け止めたのだから、剣に向かって手を振り下ろしたのと同じである。ルスランの顔に、切断された指が血しぶきと共に降りかかる。指を失った怪物は叫び声を上げ、逃げようとする。ルスランはそれを許さない。怪物の肩に剣が食い込む。肉を切った手応えではない。何という硬さだ。さらにもう一撃浴びせる。今度はその翼を裂いた。翼は切れるでも引き裂かれるでもなく、薄氷のように砕けた。
 止めだ。ルスランは渾身の力で怪物に剣を突き刺した。やはり、堅い手応え。だが、効き目はあったらしい。断末魔の悲鳴を上げて、怪物は剣を突き立てられた所から二つに割れた。
 倒した怪物の骸は石であった。石と化したのではない。魔物の姿をした石が生きていたのである。顔に飛んだ返り血を拭うと、それは砂であり、パラパラと舞い落ちた。
 空からはまだなお、無数の怪物がルスラン達を狙って舞い降りてくる。
「きりがない、駆け抜けるぞ!」
 ライアスの号令が飛び、ルスラン達は一斉に走り始めた。
「我々は王の塔へ向かう!お前達は修道院に行きマリーナ殿の捜索を頼む!」
 我々とかお前達と言われても、ここにいる兵士のどこまでが我々でお前達かがはっきりしない。とりあえず、そう言った時のライアスの顔はルスランの方も向いていたのでルスランは修道院に向かって走り出す。
 ルスランの近くを走っていた三人も修道院方向に向かっている。
 怪物達の追撃を逃れ、ルスラン達は修道院に駆け込んだ。

 この国が崇拝しているのは精霊母神マリアであり、その子供達とされる精霊達だ。
 世界は風、水、地、火をそれぞれ司る4人の精霊達の恵みを受けている。大平原が広がるフォーデラスト周辺一帯は、風の精霊シルフにより守られ、吹き渡る風の恵みを受けている。
 そのはずなのだが、なぜかこの修道院ではかつて水の巫女だったマリーナがまとめている。
 風は世界のどこでも吹いているし、水も世界のどこでも降り注ぎ、流れゆき、たまっていく。火も世界の至る所にあるし、世界は海以外は全て大地だ。だから別にどこでどの精霊を崇めてもいいのだ、と言う口実でここにいるらしい。さらに言えば、マリーナがわざわざラブラシス公国からこのフォーデラスト王国に移ってきた理由も、個人的な好みだと聞いたことがある。いい加減なものだ。
 かつてのメラドカイン帝国との戦いのときに、精霊達の力を借りなければならない局面があった。その時、それぞれの精霊達が自分達に最も力を発揮できる女達の肉体を借りて宿ったという。後に聖女もと呼ばれるようになる巫女、マリーナはその中の一人だった。
 修道院達に踏み込んだルスラン達は、ただならぬ気配に足を止める。それと同時に、微かに身を震わせた。
 修道院の中の空気は冷涼としていた。そして、奥の方から背筋も凍るような禍々しいオーラが漂ってくるのを感じた。
 恐る恐る奥に向かって進む。年老いた男の詠唱の声が聞こえた。ルスラン達は息を殺しながらさらに進む。
 礼拝堂にたどり着いた。そこの空気はより一層冷え切っていた。まるで真冬の風に晒されているかのような寒さだ。
 見慣れぬ人影らしきものが二つ見えた。
 一つは長衣を纏った異国の呪術師風の男。もう一人は女のようであったが、その姿ははっきりとはしない。生身の人でないのは明らかであった。マリーナとは似ても似つかない。より儚げで、若く美しい。
 朧気な女性の姿の人影の足元に、マリーナらしい女性が倒れているのが見えた。そして、対峙する男の足元はきらめく結晶に覆われている。
 礼拝堂に入ってきたルスラン達に男が気付いた。異国の言葉で何かを呟き、呪文の詠唱を始める。身構えたルスラン達の目の前から、男の姿は消え去った。逃げたようだ。
 とりあえず、ここで続いていた緊張状態は解かれたことを感じた。だが、目の前にいる『もの』も近づきがたいものがある。
 女性の姿とは言え、完全に向こう側が透け、うっすらと光っている。誰がどう見てもただの人間であろうはずがない。それでも彼女が、マリーナにも自分達にも危害を与えることはないだろうと言うことは感じた。穏やかで、心の静まるような雰囲気があたりを包み始めていた。
 恐る恐るルスランは、マリーナと彼女に向かい歩み始める。彼女は足元に倒れるマリーナに手をかざす。手から一滴の輝く雫がマリーナの頬に落ちた。そして、マリーナは短い声を漏らし、目を覚ました。
 自分を覗き込む透き通った女性を前に、マリーナは驚いたようである。だが、ルスラン達とは驚き方が違っていた。それは、懐かしい旧友に突然再会した時のそれだったのである。
 そして、マリーナは彼女の名を呼んだ。
「ウンディーネ!」
 その名は、誰もが知っている。彼らが崇拝する精霊の一人の名なのだから。

 帝国と連合軍の最後の戦い。その戦いは、彼ら精霊達の戦いでもあった。
 それは、神話の時代より続く戦い。人間を滅ぼそうとする『悪魔』との戦い。
 長い時の間に精霊達は肉体を失い、悪魔は肉体を残し心を失ったが、かつては血族同士であった。
 その悪魔は帝国に与し、精霊達は連合軍を助けた。
 精霊達は悪魔を封じ、帝国は連合軍の手により打ち倒された。
「なぜあなたがここにいるの?」
 マリーナはウンディーネに問う。ウンディーネは何も言わず、床の一点を指さした。
 そこには何かが砕けた欠片が散らばっていた。マリーナは息を飲む。
「宝珠が……!封印が解かれたの?」
 ウンディーネは頷いた。
 先の戦争で、精霊達は悪魔を四つの断片に分け、それぞれの断片を宝珠の中に封印し、その封印を更に強固なものにするために自分達の身も宝珠の中に封じたのだ。
 宝珠が砕け、ウンディーネがここに姿を現しているということは、その封印も解かれていることを示している。
 もちろん、封印をひとつ解き放ち断片をひとつ手にしただけでは何も起こりはしない。だが、すべての封印を解こうとしているのだとすれば。
『まだ、他の封印は破られていないようです。他の精霊たちの力を感じませんから。他の宝珠を守っている巫女たちにもこのことを伝えなければなりません。しかし、それだけでは……。巫女たちも自分の力だけでは自分の身と宝珠を守ることはできないでしょう』
 空気を震わせ伝わる音ではなく、直接頭に響くような声でウンディーネが言う。
「分かったわ、ウンディーネ。マイデル様にお伝えして協力を頼んでみます」
『私は封印のために力のほとんどを失いました。力を取り戻したら、封印を解いた者が何者なのか、何を目論んでいるの探ります。では、皆さんもどうかお気をつけて』
 そう言い残し、ウンディーネは霧になり、その姿を消した。
 ほかの修道女たちは上階の自分たちの部屋に籠もっていた。あの魔導師は彼女たちには用はなく、マリーナを残して他は早々に追い払っていたのだ。
 修道院を出ると、王城を包んでいた赤い光は消え失せており、飛び回っていた怪物もいなくなっていた。
 もう心配は要らないかもしれないが、念のために修道女たちを連れて城に避難する。ただ、城の中に賊が攻め入っていることも有り得る。慎重に動かなければならない。
 城のエントランス付近にライアスに同行していた兵士たち数人が待機していた。
「隊長は?」
 修道院への別動隊で最も年長だったネルサイアが待機していた兵に問いかける。
「陛下の安全を確認に行かれた。修道院は大事無いか」
「ああ。マリーナ殿が襲われたが大きな怪我はなくご無事だ」
 そのマリーナが進み出た。
「マイデル様の居所は分かりますか?」
 ネルサイアはかぶりを振る。
「生憎私は存じませぬ」
 その時だった。
「儂はここだ」
 マイデル老師の声が城の奥、闇の中から聞こえて来た。
 やがて、マイデル老師とライアスらがその闇の中から、城門前の魔火灯の明かりの中へ踏み込んで来た。
「侵入者は消えた。この城を覆っていた悪しき魔法の力ももう感じることはできぬ。危機は去ったようだ。儂は陛下をお護りしていたが、賊の狙いは陛下ではなかったようだな。して、儂に何か話があるか、マリーナ」
 マリーナは修道院で起こったことをマイデルに話した。
「厄介なことになったな。そのようなことがいつ起こってもおかしくはないと思っていたが、まさか儂の目の黒いうちに起こるとは。早めに手を打たねばなるまい。宝珠を失った以上、もう今後あやつらがお主を狙うこともあるまいが、用心されて帰られよ。……む?」
 そう言って一同を見回したマイデル老師とルスランの目が合う。
「マリーナ、待たれい。ほれ、これが先日話した……誰じゃったかの」
 ルスランの肩に手を置きながらマリーナを呼び止めた。
「あの。ルスランです」
「ああ、フェリシアの息子さん?まあ、随分と大きくなって。お父様そっくりだわ。よかったわね、フェリシアに似なくて」
「は、はあ」
「ライアスも人が悪いわ。ルスランちゃんが軍に入っていたならおっしゃってくださればいいのに」
「いやいや、そうは言うが。こいつが入って来てからあんたと顔を合わせる機会なんて一度もなかったじゃないか」
「あら、そうでした?」
 ルスランを囲んで雑談に入る三人。暫し話し込んだ後、マイデル老師が話の輪から外れたことでお開きになった。それまでの間、ルスランは一言も言葉を発さず、ひたすら立ち尽くしていた。
 マイデル老師が立ち去る間際、ルスランはアロフェト自治国の魔道院で渡された書簡のことを思い出した。
「老師、魔導院から書状を預かっています」
 封書をマイデル老師に手渡す。
「うむ、ご苦労」
 マイデル老師は封書を受け取ると懐に収めた。

 夜が明け始めた。
 ルスランは自宅に帰るが、鍵は出掛けに隣人のジョアンヌに預けている。幸い、この時間ならまだ仕事には出かけていない。
 仕事には出かけていないのだが、ジョアンヌはいなかった。飼い犬もいない。朝の散歩中らしい。返ってくるまでは外で待つしかなさそうだ。
 程なく、ジョアンヌはフェルを引きずるように走ってきた。ルスランに気付いて手を振ると、そのままこちらに向かってくる。
「ルスラン、帰って来てたんだ。いつ戻ってきたの?」
 ジョアンヌが足を止めると、フェルはその場に寝そべった。息は荒い。見ていて心配になるくらいだ。そろそろ年だろうし、あまり無理をさせない方がいいのではないだろうか。
「ついさっき……でもないか。真夜中だよ」
「そ。ねえ、昨日のこと知ってる?お城で何かあったみたいだけど」
「ああ、それがあったからサウルから急いで帰って来たんだよ。まだよく分からないんだけど、これからややこしくなるかもしれない」
「そうなの?」
「まだよく分からないけどな」
「ふーん。……今度旅の話聞かせてね」
「観光旅行じゃないんだ、話すほど面白いことなかったぞ……」
 思い起こしても、本当につまらぬ旅路だった。
「そっか。……こっちはこっちでさ、面白い物は無かったな」
「何がだ」
「折角鍵まで手に入れたんだもん。遠慮無く、ルスランの家の中を見させてもらったわ。……いや。おうちの中をね。片付けてあげようと思ったのよ」
「言い切ってから言い換えても遅いぞ。何をしてるんだ」
「びっくりしちゃった。片付いてるなんてものじゃないわね。無駄な物が何一つ無いんだもの」
「無駄な物を買うほどの金も時間も無いんだよ」
「何か見つけたら、私の思い出にしておこうと思ったけど。あそこまで肩すかしだと正直に話して反応を見る位しか楽しみがないわ。……反応するほど疚しいところもないみたいだし。やれやれね」
「やれやれはこっちの科白だ。とっとと鍵を返せ」
「はいはい。……あれだけ盗む物が無いんじゃ、鍵なんか掛けなくていいんじゃないの」
「食い物を盗まれたらどうするんだ」
「ああ、それがあったか……」
 ジョアンヌはようやく鍵を返してくれた。家の中に入ると、掃除くらいはしてくれたらしく確かにいつもより片付いている。今し方食い物の話押したことで、若干残っていた野菜などのことを思い出したが、それはジョアンヌが持っていったようだ。腐る前に食べてくれたのか、腐っていたので捨てたのかは分からない。
 休暇をもらっていたルスランは長旅の疲れもあり、すぐさまベッドに潜り込んだ。シーツが交換され、ベッドがぴしっとしている。まるで宿屋のようだ。この内装では相当な安宿だが。これまでの日々、ルスランが毎日泊ってきたような。
 安宿が肌に合うのは、自分の部屋に似ているからだろう。それでも似た部屋よりはやはり自室の方が寝心地が良い。ルスランは眠りに落ちていく。

 何者かの気配に気付き、ルスランは目を覚ました。
「あ、起きた」
 ジョアンヌだった。仕事が終わって帰ってきたようだ。そして家の中にジョアンヌが入ってきていると言うことは、鍵も掛けずに寝ていたようだ。
「鍵を掛けないとお前が入ってくることが分かった。鍵はしっかり掛けることにするよ」
「ちぇ。残念。……お店から、余りをもらってきたよ。どうせ何も食べてないんでしょ」
「おお、ありがたい……って、これは」
「羊の煮込みよ」
 その肉が羊の肉であることが判った。それはいい。気になって仕方ないのは、その肉の塊の大きさだ。そもそも、それを入れて持ってきた鍋からしてでかい。
「大丈夫、やっすい肉だから。もらったのはいいけどさ、一人じゃ食べきれないの、見れば分かるでしょ。一緒に食べてくれると、あたしも助かるんだぁ」
 言いたいのはそこではないのだが、その言葉を遮ってまで言いたいことでもないので胸にしまっておく。質より量。そう言う店だと聞いてはいたが、調理法も随分と豪快だ。……この店の手伝いで、果たして料理が巧くなるのかはなはだ疑問である。しかし、端を切って食ってみると味もなかなかだ。
「……野菜も欲しくなるなぁ。……ついでに酒も。今からちょっと、ひとっ走り買いに行ってくるわ」
「あ。じゃああたしもフェルの散歩終わらせちゃう。今夜は久々に一緒に飲もうよ。うちのお酒も持ってくるからさ」
「だな」
 二人は一旦別れ、それぞれの野暮用を済ますと再びルスランの家に集まった。
 買ってきた野菜でサラダを作る。二人で料理をするのは初めてだ。料理とは言え、切るだけのサラダだが。大ぶりのナイフで野菜を細かく切り分けていくルスランの横で、バニッカの葉を毟り取り、千切って豪快に盛り付けていくジョアンヌ。どちらが男かと思うような豪快さだ。さすがに手際は良い。
「そう言えばさ。お店ってどこにあるんだっけ」
「い、言わなかったっけ。一回言ったよね」
 何故か少し焦ったようなジョアンヌ。
「一回聞いた記憶はある。でもどこにあるかまでは記憶してなくてな」
「聞いてどうするの?通いたいなんて言わないよね」
「言わないけどさ、なんとなく」
「ランパース通りよ」
 なんとなく聞いたことのあるその通りの場所を思い出す。
「遠いな」
「遠いでしょ」
「よくあの肉の塊をそこから持ってきたな……」
 ジョアンヌの手が止まった。明らかに、ぎくっとしたようである。
「ん?もしかして、実はお店から持ってきたんじゃなくて近場で買った?」
「……そ、そうなの!あははははは、バレちゃった!」
 何だろうか。話を合わせてきた気配がものすごい。やはり、遠いその店からあの肉の塊を持ってきたのではないだろうか。
 サラダが出来上がり、肉の煮込みの鍋に並べられる。
「ルスランの帰還祝い、カンパーイ」
「カンパーイ」
「あ、結構いいお酒じゃない」
「折角だし、それはな。無くなったらいつも以上の安酒が待ってるぞ」
「あらあら。酔わせて何かする気なの?」
「お前を酔わせるとなると寝所が潰れる……」
 こうして二人で飲むのはジョアンヌの誕生日祝い以来だ。ルスランくらいしか彼女の誕生日を祝ってくれる人がいないのも些か不憫ではあるが、今日は関係ない。二人は飲み、食べ、そして喋った。約束通り、大して見るところもなかった旅の話をする。殺風景な旅だったが、さすがに文化がまるで違うアロフェトの地では色々と珍しい物を目にした。そんな話をし、とりとめの無い雑談をする。
「ディアナの厨房」
 ふと、ルスランが呟いた。驚いたように顔を上げるジョアンヌ。
「えっ。あたし、お店の名前ルスランに言ったっけ?」
「いや、ここに」
 ルスランが指さした鍋には、そのように文字が彫られていた。
「ジョアンヌの働いてるお店の名前?」
「………………うん」
 ものすごく長い間の後、ジョアンヌは頷いた。鍋はそこから持ってきたと考えて間違いない。ならば、やはりこの肉もそこから持ってきたと考えていいのではないか。
 この場合、鍋をだいぶ前に払い下げてもらい、それを使っているだけだと言い訳が出来たはずだ。だが、今のジョアンヌにはそこまで頭が回らなかった。
「大変だったろ、この鍋もって歩いてくるの」
「うん。……でも、慣れてるから」
「慣れてるんだ。……大変な仕事だな」
「……うん」
 ジョアンヌにどんな複雑な心境があったのかはこのときのルスランに知る由はない。とにかく空気が微妙になったので、この話は無かったことにした。

 休暇があっという間に明けていつも通りの朝が来た。いつも通りジョアンヌが窓を叩き、それでルスランは目を覚ます。
 昨日の肉の残りで作ったスープと昨日買って来たパンで腹を満たし、王城へ向かう。
 朝礼にライアスは姿を見せなかった。
 訓練が始まり少し経つとそのライアスが顔を見せた。ルスランを見つけ、呼び止める。
「ルスラン。帰って来たところで悪いが、またちょっと使いに出てくれんか。アルトールに行って賢者アドウェン殿を呼んで来て欲しいのだ。詳しい話はマイデル老師から聞いてくれ」
 先日の使いっ走りと一昨日の一幕で顔と名前を覚えられてしまったのか、またマイデル老師の使いだ。しかもご指名ときた。
 アルトールはリム・ファルデの王城がそびえる高地のすぐ背後に切り立つ断崖、ラルカウィの下にある小さな町だ。ラルカウィを流れ落ちる荘厳な滝を間近に望める観光地として、そしてフォーデラスト・ラブラシス間の宿場としてそれなりに栄えている。
 アドウェンはかつて魔法大国ラブラシスきっての賢者として多くの功績を残し、20年前の戦争でも活躍を見せた人物だ。数年前に現役を引退し、娘夫婦のいるアルトールに隠居した。
「しかし、一つ困ったことがあってな」
 ルスランに、ライアスからも既に聞かされているアルトールに行って欲しいという頼みを告げた後、マイデルはそう切り出す。
「昨日、ラルカウィの山道が崩落のため通れなくなっているという報告があった。調査の結果、そうそう崩れるはずのない岩が、不自然な形で割れて崩落しているのが確認された。一昨日の件と関係があるのかもしれん。とにかく、そう言った事情なので、別の経路をたどらなければなるまい」
 山道はラルカウィの断崖を斜めに走る一本道だ。リム・ファルデとラブラシスを最短距離で結ぶ経路で、そこを通らないとなると、ラルカウィの断崖を迂回せなばならない。そうなると、馬を使ってもアルトールまで5日はかかる。だが。
「山道が作られる前に使われていた道がある。その道なら、山道と大差ない時間でアルトールに着くはずだ」
「山道が作られる前……って、何年前ですか」
「さあ。700年くらいかの」
「通れるんでしょうか、そこ」
「多分。駄目なら戻ってくればいい。それに使われなくなって久しいが、完全に封鎖されたのはそう昔のことではない。あまり心配はないかも知れない」
 きりっとした顔で、とてもほわんとしたことを言うマイデル老師。
「何やら不安な言い方ですが……」
 ほわんはすなわち不安に直結した。
「今は急ぐのでな。その道の場所だが、一昨日、お前たちが城に入るために通った地下道があるな。あの穴の更に奥に古い坑道跡を利用した地下通路が伸びておる。あそこは古来、緊急時の避難経路として使われていた。敵に囲まれたときにそこを利用して城外へ抜ける訳じゃ。一つはオーク穴、城下町に繋がっておる。そして同じように崖の下まで繋がる道もある訳だ。一応先の大戦の少し前、帝国の力が大きかったころに整備し直されておる。その後忘れられていたが、まあ大丈夫だろう」
 ということは、最後に整備されたのは二十数年前、もしくは三十年ほど前になるだろうか?それならばそれほど大きく変化してはいないだろう。
「そう言えば、一昨日お主が届けてくれた書簡に、此度の騒動を予見した内容が書かれておった。この手紙がもう少し早く届いておれば打つ手があったかもしれん」
「それは申し訳ありません」
「いや、届くのが遅かったと言っておるわけではない。お主はサウルから夜を徹して駆けつけたのだからな。向こうもアロフェトの魔道院があやつらの動きを察知し、こちらに伝えるのを察知して先手をとって動いたようだ。地下組織ゆえ詳しい事は分からぬが、『ムハイミン・アルマリク』という一派で、かつての帝国軍の残党だという話だ。宝珠を狙っているという事は、今目指しているのは悪魔サタンの復活じゃな」
 かつて、精霊達が戦った悪魔、それがサタンだ。強大な力を持ち、人間たちを憎み、滅ぼそうとしていた。
 神話では、精霊達の母である精霊母神マリアと兄妹であったとされる。マリアとその子である精霊達は人間たちを愛し、守ろうと神話の時代よりサタンに抗い続けている。
「サタンの復活の先にどんな目的があるのかは分からんが、なんとしても阻止せねばなるまい。そのためにもアドウェンの力が借りたいのだ。頼むぞ」