ラブラシス魔界編

プロローグ

 あの忌まわしい戦争から20年の時が経つ。
 戦火に焼かれ焦土となった土地も、程なく新たな草が萌え出でて何事もなかったかのように元の姿に戻った。
 町に残された戦の傷跡も多くが消えている。
 戦のあとにもたらされた疫病も終息し、世界は元に戻った。いや、あの恐るべきメラドカイン帝国に怯えることがなくなり、戦の前よりも世界は平和で穏やかになった。メラドカイン帝国との戦争に、連合軍は勝利したのだ。
 だが、その勝利と引き替えに失った物もまた多かった。
 戦場に散った無数の命。帝国が召喚した悪魔、ベルゼブルによってまき散らされた疫病。
 死者は弔われ、疫病は去った。だが、これで全てが終わったのだろうか。
 誰もが全て終わったと思っていたわけではない。未だに帝国時代を引きずる者たち。それを見張る者たち。火種は未だ耐えていなかった。
 そして、その火種はこの時に、遂に燃え上がるのだ。


1話・王国軍都市警備隊


 フォーデラスト王国首都、リム・ファルデに朝が訪れた。
 この国では首都であるリム・ファルデが一番最初に日が当たる。国土の東端にあることはもちろんだが、国土全体が緩やかに傾斜し、この東端の崖に沿って広がる首都が最も高い場所になっている。この町には、斜め下の地平線から顔を出した太陽が一足先に当たる。そして、太陽がこの崖の高さを越えてから、国土に少しずつ日が当たり出すのだ。
 リム・ファルデの町の住人達は、朝の訪れと共に目映い朝日の中にそびえ立つ王城の偉容を目にする。そして、夕暮れには夕日を受けて輝く王城の美しい姿と共に夜を迎えるのだ。
 その朝日を待っていたかのように、小さな家の扉が開いた。
 みっしりと立ち並ぶ家々に遮られ、そこには日の光は差し込んでこない。代わりに、頭のほんの少し上の朝靄は屋根の上を横様に通り抜ける朝日を受けて、朝日の微かに赤みを帯びた淡い彩りと共に輝いている。
 開かれた扉から飛び出してきたのは10代半ばを少し過ぎたくらいの少女。夜の寒さの残るこの時間にはいくらか寒すぎる軽装。肩に届くくらいの邪魔にならなそうな赤い髪は、それでもなお頭の後ろで束ねられている。いかにも身軽な格好だ。
 その後ろから元気よく飛び出してきたのは大きな犬だ。犬が家から出てきたのを見届けると、少女は扉を閉めた。吹き抜ける冷え切った風に、肩を抱き身を震わせた。待ち切れぬ様子で歩き回る犬をしっかりと引き留めながら、戸締まりをする。そして、歩き出すと隣の家の窓の前で立ち止まった。
 少女はその隣の家の鎧戸をトントンと叩く。応答がないと、少し力強く再度叩いた。
 中で物音がし、鎧戸が開けられた。中から顔を出したのは同じくらいの歳の少年だ。寝ぼけた顔だが、体は鍛えられ、引き締まっている。
「眠そうね、ルスラン」
「う」
 ルスランと呼ばれた少年は頭を掻きむしりながら、返事と言っていいのか、少女の呼びかけに短く答えた。
「二度寝しちゃダメよ」
「大丈夫だって」
 今度はちゃんと言葉を発したが、やや舌がもつれている。
 犬に引っ張られながらも不安げに振り返る少女を見送り、ルスランは大きく伸びをした。

 今の少女は昔からの幼馴染みのジョアンヌ。ルスランと同じように、今は両親を亡くし一人で暮らしている。ジョアンヌの母親も、ルスランの母親も、20年前の戦争終結から蔓延り始めた女性だけを死に追いやる奇怪な疫病に命を奪われた。今は治療法が見つかり根絶された病気だが、その頃はまだ冒されれば確実に死に追いやられる恐ろしい病だったのだ。元々体が丈夫ではなかったジョアンヌの父親も、母親が死ぬと塞ぎ込むようになり、気力と共に体も衰え、若くしてこの世を去ってしまった。だが、残されたジョアンヌはそんな父親には似ずに男勝りの活発で逞しい少女に育っている。若くして肝っ玉母ちゃんと呼ばれた母親譲りだろう。顔は少し父親似の所があると、彼女の父を知るものは言う。
 ルスラン……ルスラン・マイナソアの父親は王国軍の都市警備隊首都部隊長を務めていた。だが、数年前に襲撃してきた盗賊との戦いで命を落とした。誰もがそのことに驚きを隠せなかった。ルスランの父親ルークは20年前の戦争ではいくつもの殊勲を挙げた英雄である。ルスランもそのことを誇りにしていたが、その名だたる英雄が盗賊如きに敗れ、命を落とすというのは俄には信じがたい話でもあった。その盗賊がただの盗賊ではないと考える人も少なくはない。
 そして、今のルスランはその父の跡を継ぐように、王国軍の都市警備隊首都部隊に所属している。
 親の七光りというのもなくはないが、幼少の頃より勇ましい父の姿に誇りと憧れを持っていたルスランは、自らもその父を目標に特訓を積んできた。その成果もあり入隊試験も楽々上位で通過したのだ。今では有望な人物として期待も大きい。

 ルスランはテーブルの上の干からびたパンを、鍋の中の冷め切ったスープで流し込み、簡素な朝食を終えた。
 寝間着よりはいくらかましな服に着替えた。いい服を買うほど裕福ではない。それに、どうせまたすぐに着替えることになるのだ。外に出ると青空が広がっている。今日も清々しい一日になりそうだ。
 路地から通りへ。通りから大通りへ。ルスランの家はダウンタウンの住宅地の、軍人街とも呼ばれる一角にある。城への道程は決して短くはない。朝のトレーニングがてら、この道を小走りで駆け抜けていくのが日課だ。
 緩やかな登り傾斜の道を軽快に駆け抜けていく。城は町の中でも最も高い位置にある。
 まっすぐな坂道を登り切る。振り返ればダウンタウンの屋根屋根を見下ろし、その向こうには広大な草原が広がっている。そのまま大地は遥か彼方の霞の向こうまで続き、その先にも更に果てしない世界が広がっている。
 この見晴らしのよさもこの城の難攻不落ぶりに一役買っている。この城に攻め寄せようとする敵の兵団は、その姿を延々とこの城の兵に晒し続ける。背後には見下ろせば目も眩む急峻なラルカウィの断崖。この王国が他国に侵略されずに歴史を重ねているのはこの堅城もあってのことだ。
 王城の正門を横に見、直接兵舎に続く道を行く。騎馬が動きやすいなだらかな坂道を登り、城壁にあるいくつかのゲートのうち一つを通る。ゲートを見張る兵士はもちろん見知った仲だ。会釈一つで通れる。
 王城の敷地の中でも端に位置する兵舎。敷地外にある訓練場への行き来のしやすさはもちろん、王城の中でももっとも無骨で騒がしくなる建物を、なるべく遠くの目立たない場所に配置している。
 ゆとりある時間に出てきて、それなりには早めに着いているだけに、兵舎に人はまだ疎らだ。気の置けない仲間達と、時間まで暫し談笑する。その仲間も一人、また一人と増えてくる。兵士達は時を告げる鐘の音と共に重い鎧に着替えだし、次の鐘が鳴るまでには兵舎の外の広場に集まる。
 広場に整列して待つと、兵隊長のライアスが姿を現した。彼はルスランの父ルークと共に帝国との戦争を戦った戦士だ。当時は一中隊の隊長だったが、その時の戦功を始めする殊勲でロイヤルガードにまで登り詰めた。ルークの死後、一度は現役を引退することを考えていたライアスがルークの代わりにこの仕事を務めている。
 点呼が終わり、各種報告が行われる。いつも通りだ。
「本日はマイデル老師の命により、メラドカインへ伝令を送ることになった。二等兵は集合!それ以外は各自持ち場へ!」
 ライアスの号令で一等兵以上は自分の当番の見張り場所、あるいは訓練場へと各自散っていく。ルスランは二等兵なので集合だ。
 何をするのかというと、くじ引きである。当たりを引いてしまった者がこの伝令に遣わされることになる。メラドカインの首都は遷都によりだいぶ近くなったとは言え、馬でも往復に半月はかかる。
 前回、前々回の伝令を引き当てたポーリンとアイドガーはくじ引き免除となり、持ち場へ向かう。当たらないことを祈りながら5番目にくじを引いたルスランは、見事に当たりを引き当ててしまった。
「当たりを引いたルスランに伝令を命じる。まずはマイデル老師の元へ向かい詳細を聞くように。あとの者は持ち場へ。解散!」
 こう言う時は無情な気の置けない仲間達はそそくさと散っていった。

 マイデル老師は城内の執務室にいる。魔術などに精通し、国政に於いても重要な地位にあり、発言力も大きい。下っ端のルスランにとっては部屋に近寄ることさえためらうような畏れ多い人物だ。そこに来て偏屈である。なるべくなら関わりたくはない。だが、運命にも主命にも逆らうことは出来ない。
 宰相を拝命したのちも魔道士団の団長を務め、他にもいくつかの肩書きを持っていた。団長と呼んでも宰相と呼んでもその人物の一面しか表せず、いつしかマイデル師、近頃は老師と呼ばれるようになった。
 マイデル老師の執務室は兵舎のある反対側の入り口から城内に入った奥にある。
 入ってすぐの所は兵士達が使う一画同様、城内でも王侯クラスの人は滅多に訪れない場所で、木っ端役人達が慌ただしく駆け回っている。奥に向かうと、騒がしさは消え、静寂に包まれる。偉い人の場所という感じになってきた。ルスランは緊張を新たにする。
 マイデル老師の執務室の扉をノックすると、中から短く入りなさいとだけ声がした。失礼がないように気をつけながら扉を開け、部屋に入る。
「伝令の命を受けたルスラン・マイナソアであります!」
 敬礼をしつつ用件を述べるが。
「この狭い部屋でそんなに大きな声を出さんでよい。うるさくてかなわん。儂がそれほど耳が遠いと思うか」
 内心あちゃーと思う。興味なさそうに書類に目を通していたマイデル老師は、一呼吸ほど置いてふと何かに思い当たったかのように顔を上げる。
「マイナソア?ルスラン・マイナソアか。フェリシアの子じゃな」
「はっ」
 声量に注意しながら返事をするが、母の名前を知っていることに返事をしてから驚いた。
「乳飲み子だったお主を、フェリシアはよく連れてきておった。憶えておるか」
 マイデル老師は懐かしそうな顔をして……いるのかどうかはよく分からない。ようやくこちらを向いた目は、射竦めるような眼光だ。この目だけで敵を呪い殺せそうである。
「いいえ、申し訳ありません」
 母が王城に出入りしていたことさえ知らなかったのだから当然だ。しかしそんな当然のことで死をも覚悟させる何かがマイデル老師にはあった。
「謝るようなことではないだろう。フェリシアが死んだのはお前さんがまだ物心着く前だしな。無理からぬ事よ。フェリシアと修道院長のマリーナは仲が良く、時々遊びに来ては惚気話をして困らせていたようじゃ」
 マイデルはそう言い笑うが、ふと表情を引き締めた。とりあえず、今までの何事にもさほど怒っているわけではないようだ。元々、顔が怖いだけである。
「伝令の話だったな。メラドカインの政府魔道局のジャラール宛てに、この荷物と手紙を届けて欲しい。魔道局の窓口に持っていって手渡せばいい。帰りしなに何か頼まれるかも知れん。その時はそれも頼む」
 そう言いながら立ち上がり、部屋の隅に置いてあった包みをルスランに手渡した。矍鑠たるなどという言葉も当てはまらぬような、実に若々しい動きだ。
 そして、もう少し待つようにルスランに言うと、書棚から一冊の本を引っ張り出してきた。
「駄賃がわりにこれをやろう。おお、もちろんこれだけが駄賃ではないぞ、帰ってくれば給料に報酬が乗る」
 手渡された本を見ると、魔道入門書と書かれている。数人による共著だが、その中にマイデル老師の名も連名されてた。
「フェリシアの血を引いているなら、お主も少しくらいは魔法が使えるはずだ。あの娘は優秀とまでは言えんが、まあまあの使い手だった。見たところ、魔法に関する訓練などは受けていないようだが、魔法は武術などと違い老いても衰えぬ。今からでも手習いを始めればそれなりにはものになるじゃろう」
 ルスランは本をもらった礼と任務に対する形式的な挨拶を残し、マイデル老師の部屋をあとにした。
 親がマイデル老師とそれなりに親しかったようだ。思えば父も立場的にマイデル老師と仕事の上で話をする機会も相当あったはずだ。となると、これからも会う機会が出来るかも知れない。
 隊長クラスも恐れるマイデル老師の数々の噂を耳にしていたルスランは、いつまで自分が無事でいられるか不安に駆られた。

 軍服を脱ぎ、訓練場の横の厩舎で馬を一頭出す。これから長旅になるので慎重に使う馬を選ぶ。ルスラン達が使える馬は言ってしまえば駄馬ばかりだ。その中でも、体力的にマシなものを借りる。
 まず向かったのは自宅だ。長旅なのでこのまま出かけては、帰ってくる頃にとんでもないことになるのは目に見えている。
 隣のジョアンヌの家の戸を叩く。返事がし、ジョアンヌが戸を開けて顔を出した。
「何?どうしたの?」
 ジョアンヌは勤めに出たはずのルスランがいきなり尋ねてきたので驚いている。
「俺、しばらく家空けることになったわ」
「えっ?何?どういう事?」
 ますます驚くジョアンヌに、事情を説明する。
「なあんだ。半年も出征するのかと思ってびっくりしたじゃない。で?帰ってくるまで朝起こさなくてもいいってわけね」
「それもあるけどさ、かまどにスープが作ってあるんだよ。置いてったら腐るから持ってって食べてくれ。味の文句は言うなよ」
「あそ」
 ジョアンヌは近所の食堂で働いている。味にこだわらないが量にはこだわる坑夫達が集まる店で、気性の荒い男たちに囲まれていると聞いている。男勝りになっていくジョアンヌが気がかりにならないでもない。
 ルスランが自宅にはいると、ジョアンヌもついてきた。ジョアンヌの家の軒先では愛犬のフェルがルスランの家の近くに繋がれた馬に向かってしきりに吠えている。馬はうるさそうだ。ジョアンヌが黙りなさいと言うと黙ったが、ジョアンヌの姿が見えなくなるとまた吠え始めた。
 ルスランはスープの入った鍋を持ち、ジョアンヌの家に戻る。
「洗濯物もたまってるわね、洗濯しといてあげるわ」
「いや、それはいいよ」
 男勝りのジョアンヌも、胸が目に見えて膨らみだしてきたここ数年は、そんな見た目に合わせるように案外乙女らしくなってきている。ルスラン相手に色々と恥じらったり見せたりして面食らうのだ。そんなジョアンヌに下着を洗わせるようなことのないように気遣ったつもりだが。
「ダメ、かびるわよ」
 そう言い、ジョアンヌは洗濯籠を持ち出した。任務から戻ればボーナスも出ることだし、正直そろそろ捨てて買い換えてもいいような服だ。気を遣わせるのは悪い気がしたが、ここはジョアンヌの好意に甘えることにした。とりあえず、下着だけは今からルスランが洗っておくことにする。ただ、干した物を込むことはもう出来ない。
「軒先に男物なんか干して大丈夫なのか?」
「変な心配しないで。干すのはちゃんとルスランの家に軒先に干すわよ」
 そう言うジョアンヌに自宅の鍵を預け、洗った洗濯物を軒先に吊してとりあえず不安はなくなったルスランは、心置きなく伝令の使いに旅立った。

 フォーデラストの首都リム・ファルデを出るとそこから果てしない緑の大地が続く。
 この国は元々遊牧民の地であった。王国となり、都が出来ても郊外での生活は古来のまま変わらない。この草原が世界でも屈指の騎兵隊を持つ強国を作り上げた。戦乱があれば遊牧民達は槍を取り、騎兵となって敵と戦うのだ。
 国境付近までこの果てしない緑の草原は続いている。街道沿いには立ち寄る店もないような集落が点々と存在するばかり。
 なんと、退屈な道程だろう。
 フォーデラストからの旅人は今でもほとんどメラドカインへ行こうとはしない。それは、戦によるわだかまりだけではなく、この道程の単調さも手伝っている。メラドカインに行くならば、遠回りしてフォーデラスト、メラドカイン共に国境を接する風光明媚なラブラシスに立ち寄っていくのだ。
 しかし、この旅は観光ではない。急ぎではないと言われたが、とっとと済ませたい用事での旅だ。最短距離を駆け抜けるのは当然だろう。
 今日目指すのは最初の宿場町、サウルだ。宿場町と言っても、先ほど述べた通り旅人などほとんどいない。この宿場の主な客は観光など楽しむ気のさらさら無い商人や、ルスランのような使いの者ばかりだ。よって、宿も飾り気も何もない質素極まりないものである。
 思えば、フォーデラストの町を出るのはこれが初めてである。だが、まったく心躍るものではない。この気分に加えてこの宿だ。町も、町と言っていいのか悩むような、宿と最小限の店しかないような町だ。何もすることがないのである。
 飲み友達もいない酒場に行く気も起こらず、ベッドに仰向けになりながら、ランプの明かりでマイデル老師にもらった本を紐解くしかすることがない。
 退屈しのぎにページをめくり始めたその本だったが、その内容の退屈さには閉口せざるをえない。なにぶん入門書だ。楽しませようと書かれた本ではない。
 ルスランは魔法を使うことは出来ない。だが、それは知識を持たず訓練を行っていないからに他ならない。この世界の『人間』の過半数は既に、本来魔法を使うことの出来ない、種族として純粋な『人間』ではない。
 魔法は元々、世界の中心にある『マナの湖』から流れ出た水で育ち、そのマナの力で人から分化した種族エルフが先天的に持ち合わせた能力である。世界に満ちあふれる力『マナ』をエネルギーにして、様々な現象を引き起こす。それが魔法だ。
 人は元々魔法を持たなかった。だが、マナの濃い環境の中で生活を始めた人々が、やがてそのマナの力を操れるようになった。その頃には既に人間とは幾分違う身体的特徴を持つエルフに変化していた。
 神話の時代、反目していた人とエルフはわだかまりを解き、交友を持ち、混血していった。その後、エルフとの交友は細々としたものになっていき、それまでに混血したエルフは決して多数ではなかったため、彼らの身体的特徴は数世代ほどで消え去ったが、その魔法の力は人間達に受け継がれていった。
 薄まりながらも広がっていったエルフの血は、今は人の半数ほどに広がっており、彼らは個人差こそあれ、少なからず魔法を操ることが出来る。
 マイデル老師はルスランの母は魔法が使えたと言っていた。それならば、ルスランもそこそこには魔法が使えるはずだ。ルスランの父は魔法に興味がなかったせいか、そのようなことは一言も言わなかったが。
 本の冒頭に、魔法が使えるかどうかを試す方法が記されていた。それに従い、灯りを消して闇の中で手をかざし、精神集中して呪文を詠唱する。能力があれば、光が現れるらしい。
 詠唱を終えると、闇の中に見えるか見えないかと言った微かな光が浮かび上がった。どれくらい力があればどれくらいの光が出るのか知らないので、その程度は知りようもないが、いくらかは確かに力を持っていることは分かった。
 本をさらに読み進め、訓練法について学ぶ。そこには遠回しな表現で、習うより慣れろと言うことがつらつらと書かれていた。ずっと読み進めて結論がそれだけだと言うことに気付き、ルスランは力が抜けて本を閉じた。
 ほどよく眠くなったので灯りを消して眠りにつくことにした。
 最後に何回か、先ほどの呪文を詠唱してみた。見えるか見えないかといったレベルであることに変わりはないが、最初に見た光よりも幾分強い光になったような気がする。繰り返していけばもっと強い光を呼び出せるのかも知れない。

 翌日。ジョアンヌは起こしに来るはずもないが、いつもと大差ない時間に目が覚めた。
 この何もない宿場を早々に旅立ち、もっと何もない旅路につく。リム・ファルデを頂点とする緩やかな傾斜もこのあたりまで来ると終わり、平地になる。それに従い、景色が少しずつ変わっていく。疎らだった木立が増え始め、所々林を形作っている。
 この木陰には半人半馬のセントールの盗賊が潜み、キャラバンや旅人を襲うことがある。広い平原は彼らの脚力を生かして暮らすには最良の土地なのだ。だが今回はその姿が見えない。
 セントールにとって最大の敵は人間ではなくセントールそのものだ。セントールには人がそうであるように文明的な民族と原始的な民族が存在し、互いにいがみ合っている。粗野な原始的民族を、文明的民族はセントール種の面汚しとして極端に嫌悪し、追い回しては攻撃しているのだ。
 そんな文明的なセントールも、人間から見れば違いはあまり分からない。彼らは鉄の武器を作り出すが、原始的セントールはそれを奪い、身につける。結局はどちらも鉄の装備を身につけた半人半馬の姿をしているのだ。
 とりあえず、セントールを見かけたら逃げておけば間違いはない。

 ルスランの旅も国境付近にまで達した。退屈な大草原の景色は終焉を迎え、退屈な砂漠の風景となる。
 それでも、ルスランが向かっているアロフェト自治国辺りは冷涼な気候で乾燥も苛烈ではなく、疎らに生えた草を求めて多数の野生動物が駆け回っている。
 この辺りではその野生動物が最大の脅威だ。人の多い所にはあまり出没しないが、危険な肉食動物も多い。
 地平線の上に国境のバリケードが見えてきた。ゲートで出国書類を見せて国境を越える。
 連邦に入り、退屈な旅も折り返し地点は間近だ。やはり退屈だろう帰り道のことを考えるとうんざりする。
 メラドカイン連邦。かつてはメラドカイン帝国と呼ばれていた。
 元は一つの小国と無数のやはり小国であったが、戦乱が起こり、一つの国が周りの国を飲み込み巨大な帝国へと変わっていった。
 帝国はおよそ80年ほど栄え、周りの国々を全て併呑。フォーデラスト王国目前にまで迫り、20年前の大戦争へともつれ込む。だが、フォーデラスト王国とラブラシス公国の連合軍を打ち負かすことは出来ず、度重なる戦闘で国力は疲弊。やがて国内からもクーデターが勃発し、帝国は滅びた。
 現在は併呑された各国家が各個、連邦の中で独立に向けて自治体制を整えている。
 メラドカイン帝国がこれほどの大きな力を誇れた裏には、隣接する魔境国家ゴストーブとの同盟により、魔族の力を借りることが出来たことが大きい。そして、帝国衰退の陰にはゴストーブと、同じ魔族の国家ベルナスの間に勃発した戦争があった。ゴストーブが自国の防衛のために戦力を裂かざるを得ない状況となったのだ。
 クーデターはこの機を狙い起こされた。前方を連合軍、後方を味方だったはずのレジスタンス軍に挟まれ、孤立したメラドカイン軍主力部隊は撤退することすらできずに壊滅。そのまま連合軍は蜂起した占領国の造反者を取り込みながら帝都にまで流れ込み、遂に皇帝に迫ったのだ。
 帝国の滅亡と同時にメラドカインとゴストーブとの同盟は破棄された。だが、連邦となった今でも交流は細々と続いてはいるらしい。
 ここアロフェト自治国は激戦を極めた連合軍との前線であったため、多くの住人が帝国によって徴兵され、残された女性達も帝国軍の兵に慰み者にされた。連合軍の兵により多くの命が奪われたが、その怒りの矛先は帝国へと向いた。レジスタンスの最大勢力はここアロフェトに結集していた。アロフェトのレジスタンスは密かに連合軍と結託し、帝国軍の本隊を打ち倒した。その一件以来、フォーデラスト王国とアロフェト自治国は友好的な国交を続けている。

 アロフェト自治国は首都アロフェトを中心とし、川沿いに都市や町が点在し、その周囲はほとんどが人の住まないサバンナだ。
 国境を越え、三日で首都アロフェトに到着した。ここに来ると、住んでいる人々の顔立ちも、衣服や建物も、見慣れない物になってくる。文化はともかく、人々の容姿に関しては元々フォーデラスト王国近隣と大きな差はなかったのだが、帝国の侵略による混血や、帝国滅亡後も連邦として人の行き来が続いているうちに混ざり合ってしまった。
 見慣れぬ様子の町を縫い、標識に従って魔道局を探す。中央会館にほど近い場所にある、歪みとねじれを基調とし原色に彩られたいかにも怪しげなデザインの不思議な建物だった。
 アロフェトは連邦内ではまだマナの湖に近い方ではある。だが、連邦そのものがマナの湖に遠く、魔法の力の及びにくい場所である。そのため、この周囲は魔法に関しては後進的だ。
 いや、後進的だったと言うべきだろう。帝国が興り他国への侵略を進めるに連れ、魔法の研究も盛んになっていった。この一帯の鉱山は魔法と相性のいい金属であるミスリルを産出する事がある。帝国時代は独占していたそのミスリルをより効率的に利用すべく、魔法の研究が進められたのは当然の流れだった。魔族との同盟時にはその邪悪な知識も流れ込んでいた。帝国の滅亡と共にその知識も忘れ去られたのでその内容は知る術もないが。
 魔道局では魔法技術の向上をめざし日夜研究に打ち込んでいる。とは言え、主に先進的な他国の知識と技術を取り込むことがその内容である。
 今回ルスランが運んでいる書類も、要は彼らのための魔法の教本のようなものと考えていいらしい。
 窓口に包みを差し出し、受け取りの署名をもらう。そのついでに、何やら封筒を渡された。一応機密文書らしい。
 せっかく遠くに来たのだから羽を伸ばしたい所だが、そうも行かない。時間がまだ早いので最も近い宿場には、日暮れには間に合わないとしてもそう遅くない時間には着けるだろう。ルスランは踵を返し、リム・ファルデへの帰路を急いだ。

 旅立ってからひと月が経とうとしていた。帰路ももう半ばを過ぎ、リム・ファルデへの道のりはそう長くはなくなった。
 旅は何事もなく……いや、一度だけセントールに追いかけられたが、それ以外は何事もなく順調だ。
 マイデル老師からもらった魔法の入門書も5回は読破した。もう簡単な呪文ならそらんじることが出来る。ただ、本に書いてあるほどのことが起こらないのは修行不足か。
 そうこうしているうちに、退屈な旅路もサウルにまで戻ってきた。
 今日はこの宿場はやけに静かだ。宿の酒場から笑い声がしない。そう言えば、先ほど馬を繋いだ厩にも他の馬がいなかった。
 だが、特に気に留めることもなくルスランは宿に入っていった。
「おや。今日はよく兵士さんの来る日だね」
 台帳を開きながら、宿の女将が漏らす。
「え?誰か来たの」
「ああ。酒場から男どもを連れて帰ってったよ。何かあったのかも知れないね」
 この事が気になったルスランは、酒場を訪れ、話を聞いてみることにした。
 酒場の扉を開けるとカウンターの向こうの老人がちらりとこちらを見た。
「宿の女将から、うちの兵が来たって聞いたんだが、何があったか聞いてないか?」
 ルスランの言葉に老人はつまらなそうに応える。
「ああ、よくは分からんが何かあったみたいだな。慌てた様子でたむろしていた警備兵を連れて行ったよ。こんな夜にセントールの夜襲がないことを祈るしかないね」
 よくは分からないが、やはり何かはあったようだ。そうとなればルスランものんびりとはしていられない。今からでも夜半過ぎにはリム・ファルデに着ける。入れられたばかりの厩から馬を出し、急がせた。