Hot-blooded inspector Asuka

Episode 7-『Return back』

第12話 痴話喧嘩の街角

 ローズマリーが潜伏しているマンションに、ストーンのエージェントがやってきた。今日は何かを頼むためではなく、いつも通りローズマリーの仕事の清算だ。
 扉をノックし、返答を待つ。
「開いてるよ」
 エージェントは扉を開けて室内に入った。
「で、今日の獲物は何だい。宝石か?それとも、美術品か?」
「時代の最先端を行く超技術による新時代のお宝さ。ほぉら、ごらんなさいな」
 ローズマリーは懐から獲物を取りだす。エージェントは差し出されたものを見て目を見張った。美しい七色の光を放つ円盤。
「……これが、お宝?……何が入ってるんだ」
 重要な機密データでも入っているのか。……だが、そうは見えない。そして、ローズマリーは言う。
「えっ。……これ、何か入ってるようなものなのかい」
 音楽CDに偽装された機密情報入りCD-ROMかというエージェント最後の期待も薄らいだ。ほぼ間違いなく、ただのCDを掴まされただけだろう。
「……あんた、CDも知らないのかい。レコード屋にはいかないのか」
「行かないよ。レコードなんか買ったって、引っ越しの時の荷物が増えるだけじゃないか。近頃はジュークボックスを置いている喫茶店も減ってきちまったし、音楽が聞きたかったらラジオだね」
 確かに。さすらいの怪盗であるローズマリーの部屋には、テレビすら無い。
「それじゃあ、知らなくても仕方ないな。こいつはな、まあ……いうなれば最先端のレコードみたいなものだ。こん中には音楽が入ってるんだ」
 さすがのローズマリーも、自分が何を掴まされたか把握し、手を戦慄かせ始めた。
「そ……それが何でそんなに美しく光り輝いてるんだい」
「こいつは針じゃなくて光……レーザーを当てて読み取るそうでな。そのレーザーを跳ね返す凸凹が細かくなっているから七色に光るんだ。ほれ、じょうろで細かい水をまくと虹ができるのと同じようなものだ」
「で、でも。最先端の技術ですごく高いって……」
「ああ、ちょっと前まではプレイヤーも高くて買えたもんじゃなかったが、最近は随分と安くなってきたな。まあ、聞いた話じゃあプレイヤーを一台売るたびにその売値と同じくらいの赤字が出るらしいがね」
「……その円盤のほうは……高くないのかい」
「まあ、安くはないなぁ。機械で儲けが出ない代わりにこっちで儲けようって事だな。買うと4000円くらいか。中古屋にもっていけば500円くらいで売れるんじゃないか。……いや待て。扱いが雑だったせいか傷だらけだな。そもそもケースもないし。……100円……つくかなぁ」
「置いて来た枕のほうが高いじゃないか!これだからハイテクは嫌いだよ!あたしはね。時代遅れといわれようがアナログな人間でい続けるよ!」
 変な決心をするローズマリー。
「で、これはどうする。なんなら、俺が200円くらいで買い取ってやるよ。見た感じジャズのCDだ。気まぐれでなら聞くかもしれないしな」
「好きにしな!ああもう朝からとんだケチがついたよ!もう今日は一日部屋に引きこもって過ごそうかね」
 いじけるローズマリー。
「いいんじゃないのか。今のところ、組織のほうもあんたに頼みたいこともないみたいだし。……そういえば、部屋の前にゴミが置いてあったが。引きこもるなら代わりに捨てておいてやろうか?」
「ゴミ?なんだいそれ」
「なにもそれも。ゴミはゴミだよ。袋に入ったゴミが部屋の前にポンと置いてあるじゃないか」
「知らないよ」
 ローズマリーは玄関の扉を少し開けて外を覗く。確かに、部屋の前の廊下にゴミ袋が転がっている。
「誰だいこんなところに。……隣の住人かしらね。ああもう腹の立つ……。そうだね、捨てといてくれると助かるよ」
「ああ。じゃあ、そうするわ。じゃあな」
 ローズマリーに手を振りながらそう言い、エージェントはゴミ袋を拾い上げようとした。しかし、その手は空振る。
「ん?」
 エージェントがもう一度拾い上げようとすると、ゴミ袋は逃げた。少し彼から距離をとると、ゴミ袋はすくっと立ち上がり、裏返って正体を現した。スーツ姿の男。
「おお、もうこんな時間か。仕事に行かねば!」
 わざとらしいセリフを残し、何事もなかったように歩き出すゴミ袋だった人物。
 ぽかんとした顔でそれを見送るエージェント。そして、怯え切った顔でそれを見送るローズマリー。
「……なんだ、今の」
 相変わらずぽかんとしてエージェントが言うと、ローズマリーが悲鳴を上げた。
「ぎぇやあああああああああああああ!た、た、た、探偵が!探偵が私の部屋の前に!」
「ええっ。今のゴミ人間が例の探偵だって」
「こ、こ、ここはもうダメだ。に、に、に、逃げるよ!」
「逃げるってどこに」
「どこか遠い所にだよ!今すぐ空港まで乗せてっておくれ」
「高飛びする気かよ、そんな大袈裟な」
「地上を逃げてる限りつけ回してくるような気がしてならないんだ。あいつらは貧乏人だから飛行機には乗れないだろう?」
 この様子だと、多少なだめたくらいでは気は変わりそうにない。ほとぼりが冷めるまで、好きなようにさせた方が得策だ。エージェントは帽子をかぶり直した。
「まあ、さっき言った通り当分用は無さそうだからな。バカンスを楽しんでくるこった」
「こんな気分で楽しめる訳ないだろ。それにこの町じゃまだあんまり稼いでないんだ。あの探偵のせいでね!ああもう忌々しい。もう二度とこんな町に来るもんかい」
「まあそういうなよ。それまでに探偵を何とかしてやるからさ」
 そうこう言っている間にもローズマリーは手荷物をまとめ終わったようだ。日頃あちこちを渡り歩いているので荷物は多くない。しかも、大荷物はストーンがいくらでも預かってくれる。それは今回も例外ではない。
「ここの荷物はうちらが預かっててやる。帰ってきたら顔を出しな」
「頼むよ」
 ローズマリーはまるで近所のスーパーにでも買い物に行くような出で立ちでアパートを飛び出した。そして、空港でもどこでもいいから一番近い時間で海外行の便の空席を、と言う露骨に不審過ぎる買い方で受付嬢に変な目で見られながらチケットを買い、リゾートとして知る者ぞ知るプロマゴワ共和国のチョインパットに向けて旅立って行ったのだった。

 その頃。まさに深森探偵から連絡を受けた飛鳥刑事と佐々木刑事がローズマリーのいたマンションに押しかけていた。
 マンションの管理人に警察手帳を見せながら、深森探偵から聞いた部屋について尋ねる。
「603号室の住人について確認したいんですがね」
「ああ、大津麻里さんですよね」
「オーズマリ……また隠す気のさらさらない偽名を使ったものだな」
 ローズマリーにとってはむしろ隠したいのは本名の方だろう。それに、あまりかけ離れた名前を使っているとエージェントなどとの会話を聞かれたときに違和感を持たれる。大津麻里をローズマリーと呼んでいても、そう聞こえただけとかニックネームだと思われるのがせいぜいだ。その点を考慮してのこの偽名だった。
「なんか、男の人と一緒にやってきて急に引っ越すとか言ってましたよ。ありゃあ間違いなく駆け落ちでしょうな」
 間違いなく違うと思うが、とにかくもう逃げた後らしい。
 一応部屋を見てみるが、もうすでにもぬけの殻。大きな家具以外は何も残っていない。いや、一つだけ妙なものがある。ジャズのCDだ。手に取ってみる飛鳥刑事。
「なんだこれは。……何かのメッセージか?」
「さあな。ま、鑑識にでも回しとこうぜ」
 深森探偵は昨晩、偶然街角でローズマリーを目撃し、尾行を開始した。その時ローズマリーは一仕事を終えてその美しく輝く円盤を懐に忍ばせながら意気揚々と歩いていた。
 そして、そのままマンションに帰宅。深森探偵はローズマリーがエレベーターを降りた階数は確認できたが、どの部屋に入ったのかまでは分からずにその階の通路でゴミ袋に化けたまま夜を過ごした。
 朝。マンションの住人が次々と出かけていく。無関係の住人の部屋が除外されていき、目当ての部屋が絞られた。その部屋の前で再びゴミ袋になって待ち構えていたのだ。そこに明らかに胡散臭い男が外からやってくるのを確認。そして、そのあとは知っての通りだ。
 部屋に残されていたCDはもちろん、昨日のローズマリーの獲物である。深森探偵がローズマリーに遭遇した近辺を捜査してそのCDの持ち主を探し出すことはできたが、なぜこんなものをわざわざ盗んだのか、そしてなぜマンションに残されていたのか。その謎は解けることはなかった。

 ローズマリーが聞いたことのない国に旅立つのを見送ったストーンのエージェントはそのままアジトに帰還した。
「あれっ。そう言えばあのCD、置いてきちまったな。金払わなかったからだ。金さえ出してりゃ絶対に忘れやしないのに」
 などと呟き歩いていくと、仲間に声をかけられる。
「おっ。ちょうどいいところに。あんたの客にまた頼みたいことが出来たぜ」
「ローズマリーの事か?だとしたら最悪のタイミングだな。ちょうど高跳びしたところだぜ」
「は?なんでだよ」
「会いたくねえ男に会っちまったみたいでな。しばらくこの国には居たくねえってよ」
「なんでえ。昔の男か」
「そういうんじゃねえが……まあそれでいいや」
 居ないところで不名誉な過去をでっち上げられるローズマリー。
「しかし困ったな。ローズマリーの催眠術に頼るのが一番楽ちんなんだが」
「何をするつもりだ」
 ストーンの次の作戦が伝えられる。
「随分とヤバい橋を渡ることになるな」
「それだけこの選挙に賭けててその上追いつめられてるってことさ。まあ、ローズマリーがいなくても俺たちだけでどうにかなる仕事だぜ」
「だな。ならば、とっとと準備に取りかかるか」
 エージェントたちはここで一旦別れてめいめい自分のすることを片付けることにした。
 軽く帽子を直して歩き出したエージェントはすぐに足を止めた。何かが視界の隅で動いたような気がしたのだ。
 気になる方に目を向けると、そこにあったのはゴミ袋だった。
 ……まさかな。
 そう思いながらエージェントはゴミ袋に歩み寄る。
 がさっ。
 目を見張るエージェント。確かに今、ゴミ袋が動いた。ここはストーンのアジトでも奥の方、まさかこんなところにあの探偵が忍び込んだというのか。
 さらに一歩踏み出すと、ゴミ袋の裏から何かが飛び出してきた。まるで黒いゴミ袋の一部がちぎれたような黒い影。それはこちらを振り返り警戒に満ちた目を向けた。
 なんでえ、猫かよ。
 エージェントが腕を振り上げると猫は逃げていった。
 猫を見送り、エージェントはまた帽子を直した。そのとき。
 ごそ。がさがさ。
 そういえば、まだこのゴミ袋を調べたわけではない。安心するには早すぎるのだ。
 エージェントはゴミ袋を引っ掴み、持ち上げてみた。さほど重くはない。少なくとも人一人入っている重さではない。入ってるとすればせいぜい体の一部。指の一本、あるいは耳の片方。切った爪、引っこ抜いた鼻毛……。そんなところだ。
 だが、物音は決して気のせいではなく、風のいたずらでもないことがはっきりした。
 がさがさがさがさ。ち。ちう。ちううううう、ちううううう!
 なんでえ、鼠かよ。
 ゴミ袋鳴動して猫と鼠一匹ずつ。妥当なところだった。むしろ多いくらいでもある。
 大仕事を前に幸先の悪いことだった。そして、縁起の悪い黒猫に大仕事を思いとどまっておくべきだったのだ。

 彼は今、信じていたものに裏切られる辛さ、そして裏切ったとはいえ親しき者に手を下さねばならない苦しみを知ろうとしている。
「うおおおお!なぜだ、なぜなんだああ!」
 葛藤を孕んだ慟哭。対峙する相手はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「おう。今日は聖良ちゃんが敵に回ってるのか」
 いつも通り二人を迎えに来た飛鳥刑事は、向き合う大貴と聖良の姿を目にした。
 週刊誌を片手にこれまでの一部始終を見届けた小百合が、こうなった経緯を話してくれた。
 佐々木刑事の宇宙難破海賊の誘惑を振り払ったセーラ姫だが、彼女の心には蟠りが生まれていた。行きずりのナンパ師とは言え彼の言葉には確かにセーラ姫への愛があり、彼女を受け入れる覚悟と気構えがあった。
 それに対して今目の前にいるこの男はどうか。愛という言葉を出せばのらりくらりと逃げ回るばかり。果たして彼は本当にセーラ姫への愛のために戦っているのか。
「最初から大貴は愛なんて一言も言ってないと思うがね。言い出しそうにないし」
「ま、それはね。でも、いつの間にか愛のために戦ってるってことになっちゃったから。既成事実って奴よ」
「女の怖いところだ」
 とにかく、大貴の意志に関わらず愛のための戦いになったというのに、当の大貴は愛に消極的。疑心暗鬼になったセーラ姫が暗黒面に支配されて今こうして大貴の前に立ち塞がっている。
「つまり。……最後の戦いは痴話喧嘩か」
「人生なんてそんなものよ。……っていうか。最後って何よ。投票日まではまだ日があるわよ」
「キャスト的な話さ。もうこの遊びにつきあってくれそうな人は粗方登場済みだ。残ってるところじゃ、昭良なんか愛のための戦いなら倒さないといけない敵になるだろうが、こんなところで遊んでる暇はないだろ」
「たしかにね。……じゃあさ。あなた復活したら」
「何でだよ。せっかく死んだのに」
「実はセーラ姫を狙ってたとか」
「ロリコンかよ。それに俺はこの話の設定でもお前の旦那だったよな。……不倫じゃないか」
「不倫のロリコン野郎……悪役としては過不足ないわ。全女性の敵だもの」
「魔女に皇帝に海賊ときた後だぞ。小物すぎる。それに不名誉すぎる」
 どうやら、この不名誉な役回りを回避するにはこの戦いの果てに無事大団円を迎えてもらうしかないようだ。
「さあ、覚悟なさいアルティメット大貴エターナリー!」
 手を振り上げるセーラ姫。
「これが今日の大貴の名前か。それにしても幼稚園児のくせにいろいろな英単語知ってるよな。これも時代の流れか」
「それだけじゃないと思うわよ。確実に大人の入れ知恵よね。昭良くんあたりかしら」
「ああ……言われてみれば、いかにもあいつが好きそうな単語だなぁ。バイクの横ちょにアルティメット!エターナリー!うん、書きそうだ」
 外野の茶飲み話を余所に黒姫セーラの呪文が始まる。
「イヤヨイヤヨモスキノウチっ!これであなたは愛のとりこっ」
「これは庸二の入れ知恵か」
「センスの古さからすると軍曹さんかも」
「教育に悪い大人たちだ。まあなんだ。煮え切らない大貴を意地でも手込めにしてやろうという強い意志は感じるな」
 これまでと勝手の違う敵に大貴は明らかに戸惑っている。
「し、ししょー!俺はどうすれば!」
「死人に泣きつくな、死人に口無しだぞ。でもまあ、背後霊としてアドバイスしてやろう」
「は。はいごれい……」
 少し腰が引ける大貴。そういえばこいつはお化けとか嫌いだっけ、と思い出す。
「要するに姫はお前の煮え切らない態度が気に入らなくてブチギレたわけだ」
「そうそう。助けるため、手に入れるための戦いはあれだけ情熱的だったのに、いざモノにできるとなったら急に消極的になるなんて、女の子として不満になるのは当然よ。ましてもっと積極的で金銭面とかの条件もいい男の人が現れて奪い返したところでしょ。それ以上の満足を与えてくれなきゃ割に合わないでしょ」
「……なんか生々しいぞ。子供の遊びだぞ」
「子供の遊びだからって遊び半分で女の子を誘惑することを覚えてほしくない訳よ」
「はあ」
 愛が絡んだせいか、小百合が妙にやる気だ。
「だいたい、宇宙刑事っていうくらいだから公務員なんだろうけど。……そりゃあね。収入は安定してるでしょう。でも、生活のパターンは不規則で数日顔も合わせないなんてザラだし。あんたらだってゆくゆくはそうなっていくんだから一番アツアツの時期にできるだけのことはして欲しいのよ」
 なんか俺のことを言ってないかと思い始める飛鳥刑事。
「犯人として追いかけてた相手に熱を上げてた後ならますますね。手が届かなかった子の代わりに妥協してつきあってんじゃないかと思いたくなっちゃうわけよ。最近だって夜になったら呼び出しで飛び出していって夜の生活もめっきり……。しかもその相手があんなのとはいえ一応は女だし」
 完全に飛鳥刑事のことを言っていた。
「いやその。……なんかすまん」
 我に返る小百合。
「あら。あたし、いったい何の話を」
「ま、まあとにかくだ。とにかくもうこの事務所で遊んでられるのもわずかだ。結論を出しておかないと幼稚園に持ち越す羽目になるぞ。みんなの前で愛がどうのこうので迫られたくはないだろう」
「うっ」
「そうよー。大貴はパパの血を引いてるんだからこういうことに奥手だろうし、鈍いだろうし。女の子がこれだけのことをするようになるまでには何気ないアピールやアプローチを何度も見落としてるってことよ。ほんっと、パパそっくり」
「す、すまん。なんかすまん。……ええい、これも全て大貴、おまえの煮え切らない態度が問題だっ!今すぐ結論を出せ!腹を据えろ!どうせこれは遊びだと割り切って男なら据え膳は食え!しかもこんな上玉、なにを迷うことが!」
 背後霊が魔女の呪いで怨霊と化した。
「あー、あー。なんかごめん、言い過ぎた。謝るからとりあえず落ちついて。ね?」
「はっ。俺は何を。とにかく、おまえはあの宇宙皇帝を倒したんだ。このくらいのことは勢いで乗り越えろ。気合いだ、根性だ」
 背後霊に押されてセーラ姫と対峙する大貴。
「今あなたが見せるべきは気合いと根性ではなく気持ちと愛情ですわ」
「うう。じゃ、じゃあ……あ、愛情キーック……」
 走り出した大貴の足元に小百合の足払いが襲いかかった。
「こら!キックに愛情なんてあるか!」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
 その心の叫びに答えたのはセーラ姫だった。
「もちろんここは……キックじゃなくてキッスですわ」
「きっ……」
 腰が引けるどころか腰が抜ける大貴。
「愛の口づけで私を元に戻すのです」
 逃げられなくなった大貴の方にほっぺを突き出すセーラ姫。
「さすがにクライマックスっぽくてハードル高いな。しかし大貴。これはある意味チャンスでもあるぞ。これを逃すと後10年はキスなんてするチャンスは無いと思え」
「で、でもっ!それで世界が救えるのかよっ」
「当然だ。このままでは世界の愛のバランスが崩れて……そうだな、ママにキスされるぞ」
「なにそのあたしのキスが罰ゲームみたいな言い方。もちろんパパからもキスされるんだからね。おまけに髭面で頬ずりまでされちゃうんだから」
 飛鳥刑事は顎を撫でた。髭を剃ったのは朝のこと、顎髭もいい感じで伸びかけている。
「ううっ。そ、それなら父ちゃんと母ちゃんもキスするんだろうな!」
 勝ち誇っていう大貴だが。
「あたしたちは別に世界がどうにかならなくたってキスくらい。ねえ。んー」
 誘いに応じて飛鳥刑事は躊躇いもなく小百合の唇に口づけをした。大貴にとってはそこそこに衝撃的な場面を目撃する事となったが、子供の前でいちゃつくのは控えていただけで大貴が寝静まってからはいつもこんなものだった。
「手本は示されましたわ。次はあなたの番ですわアルティメット大貴エターナリー!さあ!」
 そう言いながら唇を突き出す聖良。さっきはほっぺだったが、大貴の無駄な抵抗のせいでさらにハードルは上がっていた。何という自業自得だろうか。
「まあまあ、聖良ちゃん。唇へのちゅーはいつか出会う本当に大切な人のためにとっておいて、ここはとりあえずお姫様っぽく手の甲っていうのはどうだ」
 飛鳥刑事は助け船を出してやることにした。小百合を立たせてひざまずき、これも手本を示してみせる。
「外国映画で見たことがありますわ。そうですわね、ちょっとかっこいいかも。これでいいですわ」
 ハードルは下がり大貴はほっとする。
「さあ、気が変わってやっぱり唇とか言い出す前に行けっ!」
「お、おうっ!」
 気が変わってやっぱり唇とか言われるのがよほど困るのかすごい勢いでセーラ姫に突き進む大貴。そしてセーラ姫の眼前にひざまずき、その手を取った。
 だが、飛鳥刑事たちのお手本をよく覚えていないのか、セーラ姫の手の位置は胸のあたり。少し高すぎる。大貴は大貴で手は軽く添えるだけで握って引き寄せるようなことはできないらしい。ひざまずいてキスをしようとすると顔が上に向いてしまう。そして、ばっちりと目が合い見つめ合ってしまうのだ。
「とうちゃん。……手じゃなくて足とかじゃダメなのか?」
 やはり大貴は耐えきれなかった。
「足にキスはやめておけ、かえって変態っぽいぞ」
 とりあえず、セーラ姫の手の位置を修正してやる。それだけでだいぶやりやすくなったらしく、今度はすんなりとキスできた。
「よ、よっしゃあ!これで世界は救われたぁ!」
 這々の体でその場から逃げ出す大貴。だが。
「……まだですわ」
「えっ」
「まだ少し、愛のパワーが弱いようですわ」
「ええっ。そんな!いったいどうすれば!」
「やっぱりほっぺですわ」
 大貴は絶望した。
「そそそ。そんな」
「じゃあ、とりあえず世界の愛は暴走ね。んちゅー」
 キス魔と化し大貴に襲いかかる小百合。
「ひいいいい」
「仕方ない。お前の努力に免じて俺からは頬ずりだけにとどめておいてやろう」
 タバコ臭い無精髭をこすりつける飛鳥刑事。
「ぐああああああ」
 そしてセーラ姫も動いた。
「そうですわね……。今のキスで愛の暴走は最低限に抑えられ、後は私からのほっぺへのキスを受け入れるだけで全てが終わる。そう言うことにしましょうか」
 これは慈悲なのか、それともトドメなのか。大貴にとってはまだその双方の間で揺れ動いている。セーラ姫がゆっくりとした動きで一歩、また一歩と近付いてくる。そして、その距離に応じて大貴の中でメーターが確実にトドメ寄りに傾いていくのだ。それが、限界に達したその瞬間。大貴は最後の力を振り絞る。
「あっ。大貴くん。……いえ、アルティメット大貴エターナリー!待って!」
 脱兎のごとくダッシュする大貴、それを追うセーラ姫。二人は外に飛び出していった。
「やれやれ。……それにしても聖良ちゃん、随分と積極的だなぁ。もしかして大貴に気でもあるのか」
「うーん。それはどうかしら。聖良ちゃんって、本当に好きな相手だと消極的になっちゃうタイプの子だと思うんだけど。それに、あれだけ押せ押せでいけるんなら幼稚園でももっとアプローチしてるでしょ。あたしの推測では、愛を持ち出すと狼狽える大貴が面白くてからかってるだけだけだと思うな」
「ふむう。女は恐ろしいな」
「その女の恐ろしさに慣れた男だって恐ろしいわよー」
「やれやれ。世は魑魅魍魎の巷か」
 そんなことを言いながらのんきに茶を飲み二人の帰りを待つ飛鳥刑事と小百合だったが、二人はいつまで経っても帰っては来ないのだった。

 大貴が逃げられない愛との戦いで絶望している最中、選挙事務所近くの物陰でも絶望している男たちがいた。
「クソッ……。大人が……大人がいるじゃねえかっ!」
「しかもあの男。ローズマリーの邪魔をしているって言う刑事だぜ」
 そんなことを言いながら事務所の中を遠巻きに窺っているのは、もちろんストーンのエージェント達だ。
 彼らは今、とても重大な任務を帯びていた。事務所にいる子供の誘拐である。
 高々ガキ一人。そう思い、高を括っていたのだが、もちろん現実は何一つ甘いことはない。むしろ彼らの考えがピエとろのお菓子並みに甘いことが露呈しただけだった。
 まず、話にあった大人の存在。よく考えてみれば子供だけでこんな所に放っていられているわけがないのである。だが、上からはガキがいるから連れてこいとしか言われていない。大人など、いないと思っていたのだ。
 さらに困惑したのは、そのガキが二人も居たことである。どちらを連れて行けばいいのかさっぱり分からない。
 この作戦はもちろん追い詰められたストーンの中で急に決まったことだ。森中候補の事務所に、子供が出入りしている。森中候補の孫、ないし親族に違いない。その子供を誘拐して脅せば候補は出馬を断念する。
 だが、決行決定が急すぎたので、リサーチもプランニングも全く出来ていなかった。そして、この体たらくである。
 子供は二人居て、どちらがターゲットなのか分からない。そして大人が一緒で連れ去る隙などない。ストーンに残された時間は残り少ない。こんな杜撰な計画を立てた上層部は自分たちの落ち度を棚に上げて彼らに非情なる決断を下すだろう。絶体絶命である。
「クソッ。せめて、どっちを連れて行けばいいのかだけでも分かれば!」
「たぶん……小娘の方だ。俺は確かな筋から情報を得ている。森中には姪っ子が居るんだ」
「お、おおっ!し、しかし。本当にそうなのか。あの娘……小憎らしい森中の親戚にしては佇まいが穏やかすぎる。一方、坊主はいかにも小憎らしい。それに、刑事を名乗っているじゃないか」
「ふむう」
「それに決定的なのは……我々を苦しめる森中の血を引いているにしてはあの坊主……アホっぽいにも程がないか」
「そ!そうだな!あんな奴の一族にストーンが脅かされている……それは絶対にあり得ねえ!決まりだ。女の方を攫う!」
 立ち上がるエージェント。
「……どうやって?」
「……」
 しゃがむエージェント。
「くそっ。このままじゃ……夕方になって奴が帰ってきちまう!その前に……その前になんとかならないのか!」
 神の加護の町に唾を吐く彼らが、神に祈った。そして、神は彼らの望みを聞き入れたのだ。
 子供が二人、ものすごい勢いで事務所から飛び出してくる。大人は……来ない。
 ありがとう、神よ!ああ、きっと我らの神はサタンだ。ルシファーは……ちょっと縁起が悪いからサタンに決まりだ。ちょっとストーンに響きも似ているサタンだ!さあ、悪しき神の思し召しの通り、獲物は迅速かつ的確に、そして容赦なくかっさらっていくぜ……!

 飛鳥刑事と小百合が異変に気付いたのは、たっぷりと時間が掛かってからだった。
 いつまで追いかけっこを続けているのだろう、大貴も往生際の悪い、などと思っていたのも最初だけ。
「もしかして……二人ともドブに填まったのか……?」
「そんなはずはないわ。だって、大貴はともかく聖良ちゃんがドブに填まるなんて!」
「……そうだな。あの子は大貴と違い、ちゃんとドブの手前で止まれる普通の子だ。それに、大貴が一人でドブに填まったとして、すぐに大人の俺たちに助けを求めようとするはず」
「でも。もし、聖良ちゃんも大貴のせいでドブに落ちたのだとしたら!」
「……!た、確かに」
 ドブから離れられない二人。そのとき、事務所の電話のベルが鳴り響いた。
「ガキは預かった!無事に返して欲しければ出馬を辞退しろ!」
 これには流石にさすがに驚くしかない。

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