
Episode 7-『Return back』第6話 欺瞞と秘密
最悪の目覚めだった。それも無理からぬ話だ。昨日の店長が瞳とおつむをきらきらと輝かせながら艶めかしく迫ってくる夢を見てしまったのだ。平たく言えば悪夢だ。
そんな最悪な夢で目覚めた朝でも、朝の生理現象はいつも通り起こっていた。仕方がないこととは言え、まるであのゲテモノに欲情しているようで屈辱的だ。
そして、この最悪の気分のままもう一度あの店長に会わなければならないのだから頭が痛い。
とりあえず、新聞でも読んで気分を入れ替えよう。飛鳥刑事は新聞を手に取り広げる。そして、昨日の事件のことが書かれていて全然気分転換にならない危険性に気付いた。
この町は金持ちが集まる町だけに、半ば道楽のような感じでいろんな物が出来ていく。人口の割にはバリエーションの豊富な店がならび、私立学校やホテルなどもどんどん出来る。果てには遊園地や天文台まで作られ、ちょっとした観光地にもなってきている。そんな町だけに、市のテレビ局や新聞社も当たり前のようにある。飛鳥刑事のとっている新聞も聖華市報だ。自ずと市の話題しかなく、市が選挙で持ちきりならば新聞もまた選挙で持ちきりとなる。よく見れば昨日の事件のことも記事にはなっていたが申し訳程度の小さな記事止まりだった。
あの事件にローズマリーが関与している可能性はまだ警察内での噂程度の話でしかない。それに夜中に起きた事件だ。大きな記事にするほどのネタを仕入れる時間も新聞社にはなかった。
今日は候補者一人一人のロングインタビューが掲載されている。我らが森中候補も取り上げられ、元刑事の経験を生かし、治安のよい住みやすい町を目指すといった談話が掲げられていた。一見至極まともなのだが、よく見ると市を軍に喩えたり、選挙戦を本当の戦争のように語ってたりする。本人の人となりを知っているとツッコミどころ満載だった。
こちらにも一応我らがをつけた方がいいのだろう、深森候補のインタビューもある。こちらは古い常識に囚われない自由な若い力こそこの町に必要だ、立ち上がれ若者、お前の魂の一票を預けて俺についてこい、などという言葉が連ねられている。基本的に、町をどうしたいのかという公約が一切ないのはさすがだ。そして、昭良を支持しそうな連中は、新聞など読まないのは間違いない。下手すれば、読めないかも知れないくらいだ。
そう言えば。あのいしいいわお候補はどのような候補なのだろう。ストーンの差し金ならば心にもないことをいっているに違いないが、一応どんな理念を語っているのかは見ておきたい。
一人一面使っている特集記事をぺらぺらとめくって石井という苗字を探す。
見あたらないまま、最後まで来てしまった。アレ?と思いながらもう一度じっくりと名前を見ていくが、やはり石井はいない。
しかし、いないわけではなかった。確かにいしいいわお候補の談話や写真も大きく掲載されている。候補者名の上にしっかりといしいいわおとルビが振られている。その下にある文字を見て、面食らう飛鳥刑事。
甃井五輪男と書かれている。これでいしいと読むのか。ちょっと読めない。と言うか、そもそもこんな字見たことがない。五輪男の方は読めないことはない。「い」つつの「わ」の「お」とこ、輪と男は素直に読めるし、五も五十嵐のいであり、五十里のいであり、五十路のいだ。
何はともあれ、いしいだ。読めない。
そして、読めるか読めないかよりも重要な問題にぶち当たる。いしいが石井ではなく、いわおが岩男でも磐男でもないとなると、名前からストーンが絡んでいる可能性を導き出した推理が揺らいでしまう。
確かに、伊沢と名乗っていた人物がストーンのスパイだった前例があるが、石和を伊沢にカムフラージュして潜り込んでいたので、そのケースではあくまでも石という文字が名前に入った石和という男だ。
さすがに選挙で偽名は使わないだろう。まして、こんな読めない偽名など。更に、記事では彼のことを老舗・甃井みそ本舗の4代目と紹介していた。聞いたことがないが、海岸通りにあるケーキショップ『ピエとろ』のオーナーもやっているという。そっちならば聞いたことがあった。なぜみそ屋がケーキ屋をやっているのか、そしてなぜとろだけひらがななのか。突っ込みたいところはいくらでもある。とにかく言えることは、4代にも渡ってこの町に住み続けている老舗のぼんぼんが、ストーンの構成員である可能性は更に薄いということだ。
飛鳥刑事は小百合にそのことを話す。
「あー。その事ねぇ」
小百合は特に驚いた様子もない。小百合は昨日の新聞でその事にすでに気付いていたという。
「気付いてたなら言えよ!」
「だってあなた、朝は慌てて出て行っちゃうし、夜は帰ってこないし。いつ言うのよ」
ごもっともだった。昨日は昭良の名前を新聞で見かけて混乱して家から飛び出し、そのまま仕事に入り、仕事終わりにはその昭良の演説を見に行き、帰れるかと思いきや宝石泥棒事件だ。昨日は小百合の顔をまともにみた記憶さえない。話す機会などあろうものか。
「それでね。あたしその事を森中警視に報告に行ったのよ。さすがに警視も気付いてて。この甃っていう字は石と意味は同じだからその点では問題ないって言うんだけどさ。でも、ちょっと読めないよねー。それに、偽名に使うには目立ちすぎる字だし、店を息子夫婦に継がせるまでは忙しい人だったみたいだし、この人がストーンの線はないって」
となると、いよいよもって勘違いで森中警視をやめさせてしまった可能性も極めて高くなるわけだが。飛鳥刑事は頭を抱える。
「それだけど。実はもう一人それっぽい人がいるのよ」
小百合はそう言いながら新聞をめくる。
「ほら、この人」
そう言って小百合が開いた紙面には、とある候補者のインタビューが掲載れている。
その候補者は砂島研一。これでさとうと読むようだ。スナイデル物流の社長だと言うが、聞いたこともない。
「その会社、主に石川グループ系列のデパートなんかに港から輸入品を運んだりしてるのよね」
「なんだそれ。どストライク過ぎだろ……」
名前に石偏が二つも入っていて、石川グループの関係企業。もう条件が揃いすぎていて、罠なのではないかと疑いたくなるほどだった。
「こんな候補がいたなんて全然気付かなかったぞ……!」
「ずっと「さとうけんいち」って名前で出てたみたいね。まさかこんな字だなんて思わないわよ」
考えてみれば、親しみやすくかつ読みやすいように姓をひらがなで書くことは多々あるが、フルネームひらがなの候補者などそうはいない。甃井五輪男候補くらい読みにくい名前ならばひらがなにするのもいい選択だが、研一くらいは漢字で問題ないはずだ。
ともあれ、ストーンが市長選に候補者を送り込んで市の掌握をはかっているという予想は、目を付ける相手が違っていただけで、間違いはなかったようだ。
いくら以前名前でストーン関係者かどうか判断してうまくいった前例があるからといって、またしても名前だけで判断してしまっていいものだろうか。石偏のついた字のある名前など、まったくもって珍しいものではない。全く無関係の人にあらぬ疑いをかけてしまうのではないか。
現に、真っ先に疑いの目を向けたいしいいわお氏はストーンとは無関係な生粋の地元人だった。それでは、砂島氏は。
結果からいえば、石川グループ傘下企業という繋がりは伊達ではない。彼は紛う事なくストーンの刺客であった。
スナイデル物流は石川グループ関連企業の取引先である、ストーンと直接繋がりのない普通の企業にも広く繋がりがある。その顔の広さで何も知らない一般市民の票も期待できる。
そして、その名前だ。さとうと聞けば誰でもまずは佐藤だと思う。長年つきあいのある取引先でさえ、佐藤だと思っていることが多々あるくらいだ。そして、あえて訂正することもしない。正体を隠す上では勘違いしてくれていた方が都合もいい。普通に佐藤だと思わせ、砂島だとわかったときの警察の慌てぶりを楽しむつもりでいた。
正直、いしいいわお候補の名が耳に届いたとき、いやな予感はしたのだ。だが、そのいやな予感の方向性は警察がどうこうと言うものではない。市内に散らばるストーン関係の人間は、ストーンと関わりのありそうな候補者の名前を見つければそれに投票しようと考える。暗黙の了解という奴だ。だが、いしいいわおなどという非常に分かりやすい名前の候補がいれば、そちらがストーンの擁立した候補だと勘違いするものが多数出ることが目に見えている。動けば警察にその動きを掴まれたりするのであまり目立ったことはしたくないが、間違った候補に投票されては元も子もないので、その対策に苦慮していたところだった。
その目先の問題に気を取られ、警察サイドまでいしい候補をストーンの関係者だと誤解し、動き出すことまでは気が回らなかった。そして、気がつけばストーンの宿敵森中秀雄が対立候補として名乗りを上げていた。
斯くてぎりぎりまで自分たちの候補者の正体を隠し抜いたストーンだが、全然そんな気がしない展開になっていた。森中サイドは勘違いして砂島候補に気付いていなかったが、結果としてこうして森中秀雄は動いている。勘違いなどという事情を知る由もないストーン側からみれば、情報が漏れて先手を打たれたようにしか思えない。挙げ句、いしいいわお候補すら森中秀雄が送り込んだ対ストーン候補の刺客ではないかとの見方まで出てきて、警察も勘違いしたのだなどと言う正しい結論からはどんどん遠ざかっていく。
バレたことについては、内部にスパイか裏切り者か、あるいはよっぽどのうっかり者がいるおそれがある。その割り出しも急がねば逃げられてしまう。だが、それ以上に市でも有数の名士である森中秀雄が立候補したとなれば、選挙戦での苦戦は避けられない。
ストーンの内部も修羅場になっていた。
そんな時、ストーンには救いの女神としか思えない人物がいた。
大嫌いだと言っていたこの町にどういう訳かたまたま戻ってきていたローズマリーだ。これはもう、頼るしかない。ここにいなくても、頭の一つも下げ嫌がるようならば宝石の山を彼女の目の前に積んででも呼び寄せたい人物だ。自主的にこの町に来てくれるなど、どのような風の吹き回しかは分からないがまさに奇跡としか思えない。とにかく、そんな奇跡を利用しない手はないのだ。
早速、ストーンのエージェントがローズマリーの元に向かう。エージェントを出迎えたのは、そんなエージェントですらUターンして帰りたくなるほど不機嫌なローズマリーだった。
なぜそこまで不機嫌なのか。それはエージェントが聞き出すまでもなく、彼女の口から語られることになる。
「ほら、今日のアガリだよ」
そう言いながら仏頂面で差し出してきた小袋の中には、指輪やネックレスなどの宝飾品が詰まっていた。確か昨日は宝石店を襲撃したとのことだが、小粒であまり高くなさそうな宝石ばかりだ。だから機嫌が悪いのか。そう納得するエージェントだが、怒りの原因は、それに近いとは言えいくらか別なところにあった。
エージェントは、テーブルの上に山のように積まれた宝石類を見せられる。
「これは……?」
「ゴミだよ」
苛立たしげに言うローズマリー。
「え?ゴミ?」
「そうさ。見なさいよ、この輝き。ずっしりとした重さ……。本物だと思うかい?出来の悪いまがい物だよ」
なるほど、偽物を掴まされて機嫌が悪いのか。だが、それに輪をかける事実が隠されていた。更にローズマリーは語る。
「このゴミ、うすら気味の悪いラードで出来た鏡餅みたいなオカマが身につけてたんだよ。我慢してかっぱらってきてやったのに、明るいところで見たら一目で分かるような偽物……しかもキラキラしてるんじゃなくて油でテッカテカしてるじゃないか。気持ち悪いし気分も悪いし虫の居所まで悪いって言う話さ。あーもー、せっかく森中サンが警察辞めて選挙なんか出てるからのびのび泥棒できると思ってきてみたら……いきなりとんでもないババ掴まされちまったよ」
ふらっとこの町に戻ってきた理由も何気なく語られた。そして、これから切り出そうとしている話にも繋がり、ちょうどいい。こんな機嫌の時に切り出していいのかは分からないが、迷っている暇もない。
エージェントは、その選挙についてローズマリーに話した。ストーンが市長を擁立してこの町を乗っ取ろうとしていること、ただでさえ町の名士である森中候補が出現して苦戦が強いられことが目に見えている中、紛らわしい名前の候補者にストーン関係者票まで割れそうな現状。かくなる上は、催眠術を使ってでも票を集めて勝利をもぎ取らなくてはならない。そして、エージェントとしてもここで協力をもぎ取らなくては生きて帰れるとも思えない。死ぬ気でお願いする。ローズマリーの答えはこうだった。
「いいよ、やってやろうじゃないか」
この瞬間、エージェントにローズマリーがマリア様のように神々しく見えた。神々しいローズマリーは言う。
「まったく、来るなりこの仕打ちとはつくづく頭に来る町だよ。いいさ、この紛い物の宝石を粉々にして使いまくってやる。ただで起きてなるものかい。森中のおとっつぁんもこれで完全に見納めにしてやろう。覚悟おし、うふ、うふふふふふふふふ……」
不気味に目を光らせながら低く笑うローズマリー。その姿は、魔女か悪魔か。さっき、一瞬でも神々しく見えたのはなんだったのか。
とは言え、憂さ晴らしが目的とは言え、引き受けてくれたことは変わりない。ほっと胸をなで下ろすエージェント。ローズマリーは言う。
「それじゃさ。悪いけど、男手かき集めちゃくれないかい?」
「え?」
「ほら、この宝石……正しくはガラス玉だけど。これを粉にしたいからねぇ。まさか女の細腕でこれを粉にする力仕事をしろとは言わないだろ?」
この大変なときに……とは思うが、その宝石の粉で催眠をかけ、それが勝利に繋がるならば引き受けるしかない。エージェントもまだまだしばらくはほっとしている暇などなさそうだ。
そして、最近までいしいいわおをマークしてきたがマークするべき相手が違うことに気がついた森中陣営。彼らはどうだろうか。
そこは、何ら変化はなかった。
確かに狙うべき相手を間違えていたとは言え、狙い直すだけでいい状況だ。焦ることなど何もない。全ての候補に勝って市長になる。元々、それだけだ。何も変わってはいない。
選挙事務所も、のほほんとした空気は変わっていない。それは、ちびっ子の遊ぶ声がしているせいかもしれない。
今日も、選挙事務所は主婦のたまり場のようになっていた。そして、大貴と聖良は今日もダルマ相手に遊んでいる。
ただ一つ違うのは、そのダルマの遊ばれ方だった。大貴も馬鹿ではない。模造品とは言えありがたいキリストダルマに荒っぽい真似は出来ない。そして、荒っぽいことが出来ないならば悪役としてやっつけることは出来ないのだ。このままでは、正義のヒーローが悪に屈することになる。それだけは許されない。
考えた結果、ダルマがセーラ姫を守る正義の巨大ロボになり、大貴がそのロボに撃退される悪者になることで折り合いをつけた。やってることは、ダルマに向かっていってははじき飛ばされるふりをするというのを繰り返すだけで何一つ変わってはいない。邪悪な力に阻まれても何度でも立ち上がる不屈のヒーローから、何度追い返されてもしつこく戻ってくる鬱陶しい悪役に変わっただけだ。セーラ姫のセリフも「たすけてー、がんばってー」から「いやーんこないでー」に変わったが、相変わらずダルマの裏でニコニコしながら座っているだけだった。
変化と言えばそのくらい。本当に、何も変わっていなかった。
町の中に、無数のバイクのエンジン音が轟く。そして、その光景に市民たちは何が起こったのかと目を見張った。
恐ろしい変化がこの町に起こっていた。
バリバリのリーゼントにはちまき、改造バイクが大挙して押し寄せてくる。だが、そのバイクはきれいに道路左端に整列し、法定速度を守って礼儀正しく走行しているのだ。たまに聞こえるゴッドファーザーのホーンが、辛うじてやっぱり族っぽい感じを醸し出す。
ある意味、恐怖さえ覚えるような不気味な光景だった。その先頭を行くのは深森候補の街宣バイク。それはまるで、町の中を暴れ回っていた暴走族を、深森候補がハーメルンの笛吹きよろしくどこかに連れて行こうとしているかのようだった。
では、一体どこに連れて行こうとしているのか。別に、どこと言うこともない。なぜなら、これは単なる交通指導のようなものだ。ルールを守りながら町を一周しているだけだった。
そして、ぐるりと町を回る頃には、その不気味な光景が多くの市民の目に留まり、様々な反応が巻き起こるのだった。あるものは町が静かになりそうだと喜び、あるものはその不気味さにただ困惑する。
何はともあれ、票に繋がるようなものではなかった。
何気ない選挙期間中の一日が平穏に終わっていく。
だが、夜になると町は緊迫の度を増す。今夜もパトカーがサイレンを鳴らしながら大通りをかっ飛ばしていった。昨日大して儲けられなかったローズマリーが、リベンジに燃えつつ出没したのだ。
今夜狙われたのはとある邸宅。いかにもローズマリーに狙われそうな、大きく煌びやかで、見るからに金のありそうな屋敷だ。
事件はつい今し方起きたところ。被害に気付いた家人が慌てて通報し、警察が駆けつけたところだ。
邸宅内は片付いており、事件が起きたようには思えない。話を聞いてみると、その片付きようがまさに事件だった。部屋にあった調度品や壁に掛かっていた絵画、高級な食器や茶器などがごっそり消えたらしい。さらには金庫が開けられ中に入っていた宝石も消えている。現金には手が付けられずに残されているあたりは怪盗らしいこだわりが垣間見えた。
早速、詳しい話を聞くことにした。この屋敷には中年の夫婦がいる。中年と言うこともあって、佐々木刑事のやる気は皆無のようだ。中年を相手にせずにすむ現場検証を任せて聞き込みには飛鳥刑事が乗り出す。
「えーと。まずご主人のお名前から」
「村山健次郎です」
「え?」
何かが引っかかる飛鳥刑事。その違和感の正体にすぐに気付いた。
「えーと、ここ……中川さんのお宅ですよね」
「あ。それはその」
ご主人は怪しいリアクションをとった。
「中川は私ですの。中川光子です」
ご婦人はそう名乗る。……ということは、この二人は夫婦ではないようだ。
「内縁の妻でして」
「なるほど。で、事件の経緯は……?」
旦那というわけではない男の話によると、二人はダイニングキッチンでささやかなディナーを楽しんでいたという。サンマのグリル・ラディッシュペースト添えと魚介のスープといったところか。気取ってディナーなどと言わずに晩飯と言ってくれれば焼きサンマと煮干しの味噌汁で片付けられたメニューだ。
二人が睦まじく語らいながらサンマの小骨取りに勤しんでいると、玄関のチャイムが鳴った。
応対に出たのは夫人……というわけでもない女性の方だった。もうややこしいので名前で呼んだ方がいい。光子と言ったか。
光子が玄関に出ると、数人の男を引き連れた女がいたという。
「私はその姿を見ててっきり……あ、その……なんでもありません」
口ごもる光子。気にするなと言いたげだが、気にならないはずがない。
そしてどうなったのかというと、その先は記憶にないと言うことになっていた。典型的なローズマリーのケースと言える。
その後のことは健次郎が知っていた。光子が知らない女を連れてダイニングに戻ってきた。女の声がしたので何事かと思ったが、健次郎にとっても見慣れない女でほっとしたという。
「ほっと……?」
「あ、いや……。それよりも、その女は引っ越し屋だと言ってましたね。それで、気がついたらこの有様ですよ」
頼んでもいない引っ越しさながらに、家財道具を運び出してしまったというわけか。戸棚やテーブル、椅子など引っ越しなら真っ先に運び出しそうなものはそっくり残されているが。
現に、近所での聞き込みでも引っ越し屋のトラックが止まっているのが目撃されたと報告があった。ローズマリーにしては珍しく、組織的な犯行だ。そして、ローズマリーらしい大胆な犯行でもある。
催眠術が使われているあたり、間違いなくローズマリーだ。そして引っ越し屋軍団はストーンの手の者だろう。
こんな犯人が明確な事件なのだが。
「飛鳥刑事!外に怪しい人物が!」
そう言うのを見つけると一応引っ張ってきてしまうのは、もう警官の性と言ってしまってもいいのかも知れない。
「怪しいとは心外ですなぁ」
扉の外から怪しい声がする。どこかで聞いたような声だ。そして、警官に連れられて入ってきたのは、どこかで見たことがある……と言うよりは完全に知り合いだった。
「み、深森探偵……!なぜこんなところに……」
警官は報告する。
「現場近くの路上に不自然なゴミ袋がありましたので調べてみたら中からこの男が……と言うか、ゴミ袋がこの人物に!」
小百合を尾行するときに使ったというあの変装か。
「なぜここにとは奇しきことを。……事件現場に探偵がいることが不自然なことだとでも?」
「いやいや。おたくは浮気調査専門でしょう」
「失敬な。身辺調査なら浮気以外でも取り扱いますぞ……む。ちとここでは話しにくいですな。人目を避けて、二人だけの世界に籠もりましょうぞ」
「男同士で二人きりの世界に籠もる趣味はないです。でもまあ、ちょっと大きな声じゃ言えないこともありますんで、場所は変えましょうかね」
斯くて、飛鳥刑事と深森探偵は場所を変えたのだが、後から思えば二人が立ち去る間際の健次郎と光子の様子は確かにおかしかった。小さな声で「浮気調査ってどういうことよ」などとも聞こえたか。
深森探偵は言う。
「浮気以外でも取り扱っているこのモリサダですが……。今日はズバリ!浮気調査できたのですよ」
もう、何となく事情は見えてしまっているが、一応確かめてみる。
「えーと、今の二人ですか」
「無論。あのジェントルマンの奥方から依頼を受けましてな。旦那が浮気をしているのは明確なので、その相手を突き止めて欲しいと。斯くて山あり谷ありの追跡劇の果てにこの邸宅に辿り着いたのです。実にあっさりと……ね。この名探偵モリサダには生ぬるいにもほどがある仕事でしたな」
山も谷もないではないか。そんなことよりも。
「あの。その名探偵にもう一つ確認しますけど。……守秘義務は……?」
「この私が不審者扱いされているのに依頼人の秘密など守ってる場合じゃないでしょう」
不審者扱いされてでも依頼人の秘密は守るべきだと思うのだが。
「それよりも、この事件はローズマリーが関わってるみたいなんです。……あまり大きな声じゃ言えませんがね」
大きな声では言えないが、この人も一応ローズマリーの被害者だ。折角なので伝えておく。
「なんと。我が宿敵たるローズマリーがここに。……やはり我々は引き寄せ合い、いずれ相まみえる宿命なのですな」
ローズマリーもこれが宿敵ならば仕事が楽で仕方がないだろう。そう思う飛鳥刑事の前で深森探偵は熱弁する。
「そもそも、名探偵と怪盗という物はいつの世も宿敵なのです。古くはアルセーヌ・ルパンとシャーロック・ホームズ!」
「日本だとそうでしょうけど、原作だとホームズはホームズを元に生み出された別人なんですよね」
飛鳥刑事のツッコミというか蘊蓄を無視して深森探偵は続ける。
「最近では明智小五郎と怪人二十面相!」
「えーと、それって最近ですか。大して離れてないですよね」
「光があるところに影があるように、怪盗のいるところに探偵もあるのです!」
「それだと探偵が影の方になっちゃいますけどいいんですか」
「光があるところに影があるように、探偵のいるところに怪盗もあるのです!」
「うわー、探偵が来ると怪盗もセットですかー。来て欲しくないですねー」
「まったくああいえばこういう……これだから警察という人種は!税金でおまんま食ってるくせに!」
深森探偵はいじけた。とにかく、事件に関係ない一般人を弄っている暇はない。
「とりあえず、事件に関係はないんですね……あ。そう言えば、ずっと屋敷の前で変装して隠れてたなら、事件について何か目撃してません?」
「無論たっぷりと見ております。……あれはそう、日がなだらかに地平線に向けて落ち始め、ひぐらしが鳴き始める時刻……。私は依頼人の旦那である彼の車を追ってここへ到着しました」
「あの。それって大体4時間くらい前の話ですよね。出来れば1時間くらい前……事件の起きる直前あたりから話してもらえません?」
「よいでしょう。何せ、ここに到着してすぐさま私は変装で風景と同化し無限とも思える時を過ごしたのですからな。その間、特に何事もありませんでしたぞ」
結局ここに到着してから、何か……すなわち事件が起こるまでの話もしっかりしてしまったわけだが。
「1時間も遡りませんな、ほんの30分ほど前のことです。この屋敷の前に一台の貨物トラックが。コンテナには大きな文字で『引っ越しの越石』と書かれておりました。ラクガキのようなへたくそな文字でしたな。うちの甥っ子のダチの悪ガキが橋桁に『誰某参上』とか『喧嘩上等』とかスプレーで書き散らすような、あんな感じです」
ラッカーで書いたのだろうか。それを見てちゃんとした引っ越し屋だと思うのかが甚だ疑問である。ただ単にラクガキされたように思うのが関の山なのではないだろうか。いずれにせよ、目撃者などこの想定もされていなかっただろう探偵だけだ。
「荷物を積み込んで……風のように走り去りましたな。恐ろしいことが起こったのはその直後です」
あれ、その貨物トラックが来たときが事件ではなかったのか。疑問に思う飛鳥刑事だが、そんなことを考える隙も与えず深森探偵は畳みかける。
「静寂と闇をつんざく轟音、あたりは血の深紅に染め上げられ、男たちの怒号が飛び交う!そしてこの私に近付く黒い影ッ!このモリサダに迫る絶体絶命の危機!」
「な、何が起こったんですか!」
「有り体に言うならば、赤色灯を付けたパトカーが何台もやってきて、警官が近付いてきたわけですな」
「最初から有り体に言ってくれると助かるんですけど。それと、警察が近付いてきて絶体絶命って……犯人ですか」
「犯人じゃなくても、こうして調査対象に顔が割れてしまったではないですか」
確かに、何も考えず連れてきた警官にも非はなくもない。
何はともあれ、その貨物トラックが犯行に使われたのは間違いないだろう。越石という名前もストーンを匂わせる。思った通り、ローズマリーとストーンの共犯と言ったところか。
深森探偵からはこれ以上聞けそうな話もなさそうだ。後は聞きたくもない話を垂れ流すだけになるだろう。それに付き合わされるのはごめんだ。飛鳥刑事はとっとと切り上げる。
ダイニングに戻ると、こっちはこっちで修羅場になっていた。光子と健次郎が揉めている。
「なんの騒ぎだ」
必死に仲裁に当たっていた……のか煽って楽しんでいたのかよく分からない佐々木刑事に経緯を問う。探偵が乗り出したと言うことで、女房が勘付いて探りを入れているのではないかと狼狽える健次郎。そして、その女房とは別れるんだから別にいいでしょうと言う話から、まさか別れる気はないの、遊びだったのね、私の財産が目当てなのねなどという話になり、修羅場になったようだ。今は、財産と言ってもお前の旦那の物なんだから狙いようがないだろうなどという話をしており、どっちも伴侶のいるダブル不倫のようだ。
「ああもう、どうにかしてええ!!」
あまりの修羅場に悲痛な声を上げる光子。どうにでもなれ、と飛鳥刑事は思うのだった。
「ローズマリーは二人の平穏な日々まで盗んでいったようだな」
「お前がきれいにまとめようとしても嘘くささしかないぞ、庸二」
「まあ、そうだわな。そもそもよ、結婚なんかするから不倫ってことになるんだ。最初から結婚してなけりゃ不倫でもなんでもない、ただの遊び人で済むんだぜ」
「不倫よりもただの遊び人の方がマシだなんて基準、お前独自の物だろうが。二股かけてりゃ似たり寄ったりだな」
もう、ローズマリーのことは忘れられかけていた。
その時、駆け込んできた警官により一方が伝えられる。
ここの事件と同様の出来事が、ここからそう離れていない場所で起きたと。
Prev Page top Next
Title KIEF top