Hot-blooded inspector Asuka
Episode 6-『Stone in underground』

第9話 逆流する記憶

 二人は、小百合が発見された基地にやって来た。既に捜査員が何人か来ていて、あちこち調べ回っている。
 この基地の上には『Aoto Auto』……アオトオートと言う、ふざけてつけたような名前の中古車販売の会社があった。
 小百合が救出されたときはその会社は営業していたが、今はもうもぬけの殻だ。ここもストーンのカムフラージュ企業だったという訳だ。青砥オート、と言ったところか。
 小百合はその地下で見つかった。パイプ椅子に縛り付けられ、意識を失った状態で。
 小百合はその前後のことがよく思い出せない。そして、この基地にも見覚えがなかった。
 だから、飛鳥刑事にこの基地について聞かれても、知らないとしか答えようがなかった。
 自分が捕まっていたと言う部屋に来ても、やはり思い出せることは何もない。
 パイプ椅子の前に置かれたながテーブルの上を見ていた飛鳥刑事は、何かに気付いた。やけにキラキラと輝いている。
 目を凝らして見ると、何か細かい粒のようなものが散らばっていた。無色透明の粒。何かの薬品かと思うが、ただの薬品の粉では、こんなにどぎつく輝いたりはしない。
 宝石の粉。そう考えたとき、一人の女の顔が飛鳥刑事の脳裏に浮かんだ。
「小百合」
「ん?なあに?」
 飛鳥刑事の呼びかけに、小百合は顔を上げた。
「催眠にかけられた覚えない?」
「え。なんで?なんで?」
 小百合はいきなりそんなことを聞かれて戸惑う。だが、不意に一つの事実に思い当たった。
 さっきから、記憶のあいまいさに疑問を抱いていた。だが、それが催眠のせいだったら。
 しかし、なぜローズマリーが自分に催眠をかけるのだろう。
『さあ、よくご覧。この粉はダイヤモンドだ。いくつもの逸話をもつ、裏切りのダイヤモンドのね……』
 小百合の脳裏にローズマリーの姿が浮かんだ。あの、蛇のような目をこちらに向け、そう語りかける姿が。
 これはイメージではない。記憶だ。記憶は消えた訳ではない。催眠により思い出せないだけ。その記憶が、ローズマリーに催眠をかけられた可能性を突き付けられたことで蘇ったのだ。
 改めて、小百合は考える。なぜ、ローズマリーは自分に催眠をかけたのか。その理由にこの言葉が大きく関わっている。
 裏切り。
 答えはあまりにも明確ではないか。
 裏切ったのだ!ローズマリーが!そして、この自分に裏切りの催眠をかけた……自分も、ストーンを裏切るように、催眠で操られているのだ!
「そう……だ。あたし、確かに催眠をかけられました!」
 小百合は決意した。裏切り者のローズマリーをほったらかしにしていては、ストーンに危険が及ぶ。それを防ぐためには、ローズマリーを捕まえることが一番だ。幸い、相手は怪盗。警察は何の迷いもなくローズマリーを捕まえるだろう。
 自分が、ローズマリーを裏切るのだ。
 そう決意はした。だが、よく考えるとローズマリーを警察に売るための情報が何もない。
 いや。きっと自分の記憶の中に必要なものがある。だから、ローズマリーは自分の記憶を消したのだ。
 何としても、思い出してみせる。
 小百合の孤独で何か間違った戦い、言うなれば独り相撲は斯くて始まったのだ。

 この部屋には、既に一度捜査が入っている。テーブルの上の粉も、その時の捜査官が既に見つけて、現在成分を鑑定しているところだった。ほどなくその結果も出るだろう。
 そして、それ以上は特に見つからなかった。この部屋は小百合の縛り付けられていた椅子と長テーブル、そして小百合の向かいのパイプ椅子しかない、ガランとした部屋だ。調べるところもない。実は、部屋にあった小物などは先の捜査で粗方持ち出されていた。今更調べるところなど、何もなかったのだ。
 尤も、今は小百合に当時の状況を思い出させることが最大の目的でもある。なにかの弾みで記憶が戻りさえすればいい。とは言え、小百合には思い出したところで何もかも話すというつもりはないが。
 さらに、ほかの場所を調べて見ることにした。
 部屋を出ると長い通路が続いている。その通路を辿って行くと、袋小路に突き当たった。
 一見行き止まりだが、見るからに怪しげなレバーが取り付けられている。
 使い込まれた風合いだ。これだけ手垢にまみれたレバーが自爆装置だとも思えない。軽い気持ちで動かしてみる。
 思ったよりも固いレバーだ。その固さに見合うような、ガコンという鈍い音がした。
 音の方に目を向けると、横の壁がゆっくりと動いている。手で引っ張ってみると、扉のように開いた。隠し扉だ。
 外に出てみると、また薄暗い通路が続いている。近くには無骨な扉があった。開けて入ってみると、同じく薄暗い、少し開けた空間があった。足元には白いラインが引かれている。駐車場らしい。
 遠くに光が見える。外に繋がっているようだ。光の差し込む緩やかなスロープを上る。
 出た場所は、アオトオートの整備工場のようだ。ここなら人目につきにくく、車が建物の中に出入りしても不審には思われない。トナミメンテナンスのことと言い、車の修理工場の地下に基地を作るのは、そう言った理由なのかも知れない。
 ここには特に目に付くような物はない。地下に戻ることにした。
 飛鳥刑事の後について地下駐車場を歩く小百合は、奇妙なデジャヴュに襲われた。この場所は、一度来たことがある。もちろん、さっきではない。もう少し前に。
 さっき開けた扉は、非常口の扉だった。隠し扉と反対側に進むと、上に向かう階段がある。書かれている通り、地上に繋がる非常口だろう。
 飛鳥刑事は、目の前の壁にスイッチボックスを見つけた。開けてみると、小さなスイッチが一つある。押してみると、天井で切れかけた蛍光灯が点り、弱々しい光を投げかけて来た。
 少し、このスイッチボックスには引っ掛かるものがある。何かが漠然と気になる。この違和感の正体は何なのか、飛鳥刑事は少し考えてみた。スイッチボックスをよく見ていると、その違和感の正体に気付いた。たかが明かりのスイッチ一つが収められたスイッチボックスにしては、やけに大きいのだ。
 不審に思い、さらによくスイッチボックスを眺め回してみた。よく見ると、妙な所に手のあとが付いている。箱の両脇に、それぞれ四本の指と手のひらの跡がつけられていた。両手で挟み込んだような跡。小さなつまみを引っ張るだけで済む蓋の開閉でこんなところに手の跡が付くはずはない。
 飛鳥刑事はその手の跡に倣って両手で箱を挟み込み、引っ張ってみた。蓋付きのスイッチボックスは、それ自体が蓋になっていた。中には0から9までの番号の書かれたボタンと、スピーカーらしいものがあった。恐らく、暗証番号を入れるのだろう。さすがにこれは手出しができない。
 何はともあれ、この仕掛けはさっき通って来た隠し扉の開閉に関係しているものである可能性が高い。もう既に中から開けてあるのだから、あまり気にする必要はないのだろう。
 その時、飛鳥刑事の様子を見ていた小百合の脳裏には、一つの光景が浮かんでいた。
 やはり、自分はここに来ていた。何者かに連れられて駐車場を歩き、壁の向こうの地下通路を進む。そんな光景が浮かんで来た。
 自分の前には白い大きな背中。屈強ではないが長身の男がいる。顔は見えないが、とても不快な感じがした。
 この男に案内されて自分は基地に入っていたのだろうか。こうして人の手を借りて基地に入っていたから、自分では基地の入り方を知らなかったのだろうか。
 しかし、それにしてはこの白衣の男から感じる不快感は異常だ。この男を思い起こそうとするとき、自分の中に沸き上がる感情。それはまるで死が迫っているような恐怖、そして殺意と言えるほどの憎悪だった。一体この男の何が自分にこれほどまでの感情を抱かせるのか。この男は何者なのか。
「どうしたの?小百合」
 飛鳥刑事の呼びかけで、小百合は我に返った。
「ううん、なんでも。ちょっと、考え事してた」
「ふうん……?」
 飛鳥刑事も一応は、いや立派な刑事だ。刑事の勘で、今の小百合の反応から何かを感じ取った。
 何かを思い出しかけたけど、よく思い出せなかった、そんな感じだなぁ。そのうち思い出すんじゃないかな。
 何かを感じ取った飛鳥刑事は、その何かを特に気にはしなかった。

 結局、この基地では目ぼしい発見はなかった。小百合も何か思い出しかけた様子だが、完全には思い出せていないようだ。
 飛鳥刑事は署に戻り、捜査の報告をした。テーブルの上に散らばっていた粉末は既に鑑定が行われているが、難航しているらしい。
「西川君は数日間の記憶がはっきりしない。そのため、何か薬物の類いが投与されたものと考えられていた。しかし、粉末は水にもアルコールにも溶解しないガラス片のようだということになり、その線で鑑定が進んでいると報告があったが……。宝石か……」
 確かに、無色透明の結晶状の粉末を見れば、普通は真っ先に何かの薬品だと考える。ローズマリーを追い回していた飛鳥刑事たちだからこそ、真っ先に宝石の粉などと言う発想が出てくるのだ。
「やはり、今回のことにもローズマリーが絡んでいそうだな」
 森中警視はそう呟いた。すかさず小百合は言う。
「私……あの地下室で、ローズマリーを見た気がします!少しだけですけど、思い出しました!」
 今、警察はストーンを追い込むことに注力している。それを少しでもローズマリーに向けさせるのだ。
 それに、先程の地下室で、ローズマリーがいたという可能性を指摘された時、それをきっかけにして記憶がフラッシュバックしている。この調子でローズマリーや自分の行動を追えば、その時の記憶が戻るかもしれない。そうすれば、会話などからローズマリーの目的も掴めるかもしれない。
 小百合は森中警視に、ローズマリーに暗示をかけられたらしいことに気付いたことを伝えた。そして、ローズマリーの行動を追えば記憶が戻るかもしれないということも。そして、もしそれで記憶が取り戻せたなら、ローズマリーに関わる記憶は遠慮なくぶちまけるつもりだ。ストーンに直接関わるようなことなら隠し、あるいはねじ曲げて伝える。
 裏切り者と思われるローズマリーを捕らえねばならない。警察が泥棒であるローズマリーを捕まえようとするのは当然のことだ。そのために尽力するのは警察官の行動としておかしなところは何一つない。

 次は、最初に小百合が拉致された現場であるゴルフ場、そして最初に監禁されたゴルフ場地下を見てみることになった。
 その辺りの出来事も、きれいさっぱり小百合の記憶から消えている。
 ゴルフ場に向かう車中で飛鳥刑事からその時の経緯を詳しく聞かされた。聞いた感じ、この辺りにはローズマリーはまだ関わっていないようだ。そんな訳もあって、小百合はあまり気分が乗ってこない。
 しかし、そんなことは言っていられない。ゴルフ場についた。当夜の足取りを追う。
 ゴルフ場のバンカーは深く掘られ、周囲には掘り出された砂が山積みになっていた。
 バンカー中央には地下へと続くトンネルがあった。その入り口を塞いでいた扉は無残に歪んでいる。かなり強引な方向でこじ開けられたのが見て取れる。
 トンネルから地下に下りて行く。入ってすぐに所に二人が最初に閉じ込められた部屋がある。特に思い出すことはない。
 小百合はここからどこかに連れて行かれ、それ以降のことは飛鳥刑事は知らない。次に飛鳥刑事が小百合を“見かけた”のは、少し離れた部屋だ。
 話には聞いていたが、思っていた以上に凄惨な光景だった。床は一面血に染まり、血飛沫は壁や天井にも及んでいる。
 今は死体はなくなっているが、当初この部屋にあった死体が小百合だと思われていた。
 死体には首がなかったと言う。顔がないからこそ、一体誰なのかが分かりにくかったとか。何にせよ血溜まりだけで目を背けたくなる小百合は、自分がその件に関わったとは思えない。
 さらにその死体を小百合らしく見せるため、死体には小百合の服が着せられていた。だから小百合のお気に入りの服がなくなっていたのだ。使うのはいいが、それなら新しいものを用意してほしいものだ。ただでさえ生活が苦しい中、奮発して買った服なのに。
 その哀れな女性を身代わりに、小百合はこの基地から消え失せた。警察では小百合を人質にして何か取引を持ちかけるつもりだったか、あるいは小百合から警察の情報を引き出すつもりだったのではないかと考えている。
 小百合は思う。自分が消えた本当の理由は、死んだことにして組織に戻るつもりだったのだと。しかし、入れ替わりトリックに気付かれ、やむなく警察に戻ることになったのだ。しかし、ここでローズマリーが小百合の記憶を弄った。ストーンからの指令も、ストーン関する他のあらゆることもきれいに忘れさせ、ただの一警官としてストーンに立ち向かわせるために。
 ローズマリーがわざわざ自分を選んだのにはもちろん理由があるはず。こんな危険を冒して寝返らせるだけの価値が自分にあったということだ。自分は警察へのスパイ等という大役を任されるくらいなのだから、かなり優秀なエージェントだったと考えて間違いないだろう。
 しかし、警察内では薄給の巡査。このままでは、ローズマリーのせいで自分のエリート人生まで奪われてしまう。そうはさせてなるものか。何としてもローズマリーに一矢報いねば。
 心の中での呟きゆえ、誰も突っ込む者のいない小百合の誇大妄想は、とどまるところを知らずどんどんあらぬ方へと向かっていたのだった。

 結局、ここでは新しい発見はなかった。時間も遅い。今日は切り上げることにした。
 署に戻ると、報告を待たずに森中警視が声をかけて来た。
「西川君、いいところに来た。ついさっき、西川君が救出され現場で発見された便箋の筆跡鑑定が終わってね」
「便箋……ですか」
 まったくピンと来ない小百合。飛鳥刑事も同様だ。なにせ、そう言った小物は二人が行く頃には既に持ち出され、鑑識に回されている。
「誰かに当てた手紙のような文面を書いた痕跡が、下の紙に残っていたんだ。その筆跡を鑑定した結果、どうやら西川君の書いた文字らしい」
 便箋を目にしたとたん、小百合の背中に冷たいものが走った。見覚えのある便箋だった。昨日、自分の部屋のポストに届いていた奇妙な手紙。あの手紙と同じ便箋だった。
 うっすらと、上の紙に書かれた文字が、紙の凹凸となって写っていた。書かれていたのは、やはりあの言葉だ。私を見つけてください。署名は倉橋優香。
「何か覚えはあるかね?」
 今更覚えがないとは言えない。今、便箋の文字を見た時の自分の反応は、覚えのない人間のものではない。小百合は言う。
「よく覚えてませんけど……、ローズマリーに書かされたような気がします。うっすらと、そんな記憶が残っています」
 うっすらとローズマリーの記憶が残っているのは確かだ。これがローズマリーにたどり着く手掛かりとなる可能性もある。こうなった以上、いまさら隠し立てはできまい。それならば、利用できるように利用するまで。
「そうか。よく覚えていないか」
 小百合の熱弁は空しく、最初の一言である“よく覚えていない”が最重要視されてしまったようだ。さすが、森中警視は慎重だ。
 小百合にも、これ以上強くローズマリーについてを推せるだけの根拠は見つけられていない。もう少しよく思い出せたら、改めて切り出してみよう。
 小百合がそう考えている間、森中警視も何かを考えていたようだ。不意に口を開く。
「ストーン絡みで倉橋と言えば……、倉橋憲三警視正を思い出すな」
「倉橋……警視正?」
 二人とも聞いたことのない名前だった。だが、小百合の心の中ではなにかが引っかかる。
「私がストーンを追うきっかけを作った人物だ。東京で起きた盗品密輸事件を追って、警視庁から県警にやって来た。まだストーンという組織の存在には気付いていなかったが、この町に大規模な盗品密売組織が存在することは掴んでいた。当時警部補だった私は彼の指示の下、捜査を進めていたのだが、捜査は打ち切りとなった。そして、当時警部だった倉橋は二階級特進で警視正になった……」
 二階級特進。それが意味するものは、すなわち殉職。当時警部だった倉橋は、まだ姿の見えていなかったストーンを追ううち、その命を落とすことになったのだ。
「それじゃ、倉橋優香っていうのは、その人の妻か娘か……家族の名前なんでしょうかね」
「そんなところかもしれんな。あまり家庭のことは話さない人だったが、妻はいたはずだな。……一体、連中が何を狙っているのかは分からないが、この手紙の名前は倉橋警視正と関連がありそうだ。少し倉橋警視正について調べよう」

 話がまとまったところで、飛鳥刑事は小百合を連れてアパートに帰ることにした。
 その車中、小百合の胸の中ではずっと何かが蟠っていた。もちろん、あの便箋のことだ。
 昨日は酔っ払って書いたと思い込んでいたあの手紙だが、森中警視が言っていた警視正の話やストーン基地で見つかった同じ便箋。そしてちらついたローズマリーの姿。
 アパートの自室に戻った小百合は、例の手紙を手に取り、まじまじと見つめた。
 間違いなく、これはローズマリーに書かされたものだ。だが、それがなぜ自分のところに届いていたのか。その理由をあれこれ考えるうち、一つの恐ろしい答えにたどり着いた。
 かつてストーンに立ち向かおうとした警察官、そして恐らくはその家族の名前で書かれた“私を探せ”と言う意味だと思われる手紙。そして、裏切り者のローズマリーがそれを書かせたという事実。
 恐らく、その倉橋優香という人物を暗殺でもする計画がストーンの中で進んでいるのだ。それは、暗殺しなければならないほどストーンにとって危険な人物であるのは間違いない。既に同じようにして消した倉橋警視正の関係者なのだから、間違いない。
 そして、ローズマリーはその邪魔をしようとしている。もちろん、あの手紙はそのために小百合に書かせたものだ。本来ならあの手紙は森中警視にでも届けられる予定だったのだろう。では、なぜそれが小百合の所に送られて来たのか。
 こう考えれば辻褄が合う。ストーンも、その裏切り行為に気付いたのだ。手紙は森中警視に届けられることはなかった。そして、その手紙は書いた小百合に送り付けられた。ストーンによる、我々は全てを知っているぞと言う意思表示として。
 自分はローズマリーの協力者だと思われている?いや、もっと事態は悪いかもしれない。ローズマリーの裏切りに、ストーンがまだ気付いていないとしたら。そうであれば、ストーンは裏切ったのは小百合だけだと認識しているのではないか。
 どちらにせよ、ストーンが小百合が裏切ったことを掴んでいるのは間違いない。そうであれば、ストーンは自分を生かしておくだろうか?小百合は恐怖に駆られた。
 その一方で、心のどこかでは冷静な小百合がいた。その小百合は一つの可能性を導き出す。
 この手紙を小百合に書かせたのはローズマリーであるはずだ。それならば、ストーンが小百合の事を掴んでいる可能性をちらつかせることで恐怖をあおり、より確実にストーンから引き離そうとしているのかもしれない。
 とにかく、真相を掴むには手掛かりが少なすぎる。そして、手掛かりはきっと自分の消された記憶の中にあるはずなのだ。
 前提が根本的に間違っていることに気付きもしないまま、一つの結論にたどり着いた小百合。その結論に従い、必死に途切れた記憶の糸を手繰る。
 霞んでいた朧な記憶が少しずつ鮮明になって行く。便箋に、あの言葉を書き入れる自分の手。私を見つけてください。
『さあ、後は名前を書くんだ』
 女の声。間違いない、ローズマリーだ。そして、ローズマリーに言われたとおり、手紙に署名を書き込む。倉橋優香と。
 言われた通り?一体、何と言われただろう。
『そりゃ、もちろんあんたの名前だよ』
 そうだ。そう言われてあの名前を書いたのだ。ということは、その時は自分は西川小百合ではなく倉橋優香だったのだろうか。
 そう考えた瞬間、小百合の脳裏に声が流れた。
『くらはし……ゆか……』
 そういえば、誰かに自分の名を尋ねられて、そう答えたはずだ。あれは……いつで、誰に尋ねられたのだろう?
『……お前の名前は?』
 頭の中に男の声と同時にその姿が思い浮かぶ。白衣に包んだ男。あの嫌な感じのする男だ。名前を尋ねたのはこの男ということか。
 しかし、なぜこの男からはこれ程までに嫌な感じを受けるのだろうか。小百合にはこの男に関する記憶がない。何度か会ったことはあるが、その直後にはいつも記憶を消されていたのだから無理からぬ話ではある。
 記憶がないのなら、考えればいい。小百合は少ない手掛かりを元に考えを巡らし始めた。
 あの男に名前を聞かれて、自分は倉橋優香と名乗った。その時は既に自分は倉橋優香だったわけだ。
 ということは、あの男はローズマリーの策略に引っ掛かったストーンの構成員だろうか?
 いや。決めつけることはできない。小百合はその男について思い出せる、もう一つのシーンを思い浮かべた。地下通路で自分の前を歩く後ろ姿。
 一つ、重大な事実に気付く。小百合がその後ろ姿を見たのは、名前を聞かれる一幕の前であるはずだ。小百合の記憶では、あの地下通路には外から入っている。その背中の後について、あの部屋に連れて行かれたと考えるのが自然だ。
 それならば、その地下通路を歩いていたとき、自分は既に倉橋優香だっただろうか?
 いいや、そんなはずはない。記憶が少しずつ鮮明になっていく。そんな気がするだけかもしれないが、とにかく、あのときまだ自分は西川小百合だったはずだ。
 また、一つの場面が小百合の記憶の中で甦る。
『お前……名前は何だったかな?』
『……西川小百合』
 倉橋優香と名乗った時と、シチュエーションは極めて似ていた。だが、漠然と、その時よりは前の出来事だという気がする。
 そうだ。確かにあの男に自分は西川小百合だと名乗ったはずだ。それがなぜ、その後にはその男の前でも自分が倉橋優香だということになっているのか。
 自分が催眠で暗示をかけられたならば、答えは一つだ。その男も自分が暗示をかけられて別人になっていたことを知っている。その男はローズマリーの協力者だ。
 いや、果たしてそれだけだろうか?あの男から感じる激しい嫌悪感。そうだ、あの男こそ今回の反乱劇の黒幕なのではないか。あの男は、ストーンにとって警察以上の最悪の敵なのだ。
 そして、自分は彼らにはめられた。裏切り者としてストーンに殺されるのだ。
 その結論にたどり着いたとき、アパートの扉が開く音が微かに聞こえた。
 ……死ぬほど驚いたが、隣の部屋の住人が夜遊びに出掛けるところだったようだ。ほどなく扉の閉まるバタンと言う音がした。
 こんなことで一々戦いていてはいくつ命があっても足りない。それどころか、このたった一つの命は、今まさに狙われているのだ。

 夜は更けてきていたが、眠れる訳などなかった。それどころか、一人でいるだけでも不安に押し潰されそうになる。小百合は、恐る恐るアパートの部屋を出る。そっと扉を閉めると、道路の反対側で物音がした。闇に目を凝らすと、二つの目が闇の中に見えた。鋭い目付きでこちらを睨んでいる。息を殺して見つめていると、すごい勢いでどこかに走り去って行った。どうみても猫だった。
 何をしても事あるごとに寿命が縮む。こんな思いをするくらいならば。
 小百合は覚悟を決めた。全てを打ち明けよう。たとえそれが元で逮捕されることになっても構わない。
 飛鳥刑事の部屋の扉をノックした。
「誰?小百合か?」
「そうよ、あたしよ」
 ノックしてから、この部屋が既にストーンに占拠されていたらと不安に駆られた小百合は、飛鳥刑事の声を聞いてひとまず安心した。
 扉が開き、眠そうな飛鳥掲示が顔を覗かせる。小百合は急いで部屋の中に入って鍵をかけた。
「何か思い出したの?」
「うん。いろいろとね。話したいことがあるの。聞いてくれる?」
 小百合と飛鳥掲示は部屋に上がり込み、座り込んだ。
「ずっと隠していたけど、あたし……本当はストーンの構成員なの」
「えっ」
「伊沢刑事が言ってたでしょ?あたしには本当の名前があるって。……石川小百合、これが本当の名前よ」
 飛鳥掲示は絶句した。そして、ようやく捻り出した一言、それは。
「つ……津軽海峡冬景色?」
「……へ?」
「いや、石川さゆりっていったら、演歌歌手じゃないか」
 そういえば、2、3年ほど前に津軽海峡冬景色という歌が大ヒットした。スーパーやデパートなどでその曲が流れるのも何度か耳にしている。小百合はどちらかというとフォーク派なので、タイトルや歌手名までははっきりと覚えていなかった。しかし、言われてみれば石川さゆりは演歌歌手だ。
 ストーンのエージェントが石という字、もしくは石を部首に持つ文字を偽名に使いたがる傾向があることを聞いて自分の名前の一文字を石に変えた『石川小百合』と言う名前を考えたとき、記憶のどこかに引っ掛かる名前だと感じたため、これこそ自分の名前だと確信したのだが、どうやら有名人の名前だったようだ。
 いきなり話の腰は折られたが、まだ小百合の確信は揺らいでいない。
 名前はともかく、自分がストーンのエージェントであることははっきりと記憶しているのだ。そして、断片的に蘇った記憶から、ローズマリーたちにより組織を裏切るように仕向けられ、ストーンも小百合が裏切ったということは掴んでいる。そこまでは間違いないのだ。
 小百合はそのことを飛鳥刑事に伝えた。飛鳥刑事は言う。
「随分と酷い夢を見たね」
 夢ということになってしまった。間違いなく、最初の石川さゆりのせいに決まっている。小百合は演歌が少し嫌いになった。
 小百合の話は結局信じなかった飛鳥刑事だが、一人でいるのが怖いという小百合を部屋に追い返すほど非情ではない。
 飛鳥刑事は小百合の部屋に敷いてあった布団を自分の部屋に運び込み、自分の布団の隣に敷いた。
「小百合が拉致される間の夜も、一人が怖いって俺の部屋に駆け込んで来たよね。……覚えてる?」
「ううん。あ、待って」
 何か思い出せそうだ。
「そういえばあの時は、明け方だったから布団までは持ってこなかったんだよね」
 飛鳥刑事の言葉に、その時のことが微かに思い出されてきた。
 飛鳥刑事の部屋の隅で、少しずつ明るくなっていく部屋の中を見つめていた。
「……うん。そうだね。少し思い出して来たみたい」
 あの時は、何が怖くてこの部屋に駆け込んで来たんだっけ。小百合は考える。
 ほどなく、それも思い出した。とても怖い夢を見た。ストーンの地下基地から脱走したが、発見されて追われる夢。
 なぜ、そんな夢を見たのだろう。まだ、ストーンを裏切る催眠をかけられる前のはずなのに。自分にはかつて、ストーンから脱走しようとしたことがあるのだろうか?
 これ以上は思い出せそうにない。
 隣に飛鳥刑事がいるからか、少し落ち着いてきた。目まぐるしく回転を続けてきた小百合の頭脳は、すっかり疲れ切っていた。落ち着きと共に、眠気が襲ってくる。
 程なく、小百合は穏やかに寝息を立て始めた。

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