Hot-blooded inspector Asuka
Episode 6-『Stone in underground』

第10話 本当の自分

 飛鳥刑事は目を醒ました。
 目覚まし時計はまだ鳴っていない。自分の横では小百合が寝息を立てている。昨夜は混乱していたようだが、よく眠れているようだ。
 飛鳥刑事は目覚ましのスイッチを切った。布団から起き出し、朝食の準備をする。
 今日はパンでいい。あとは、目玉焼きでも焼こう。今日はハムはいらない。
 フライパンに卵が落ち、ジュウウと音を立てると、その音で小百合が目を醒ました。
「おはよう。よく眠れたみたいだね」
「……うん」
 小百合は寝ぼけながら体を起こす。
 なぜ、自分が飛鳥刑事の部屋で寝ていたのかを思い出すのに10秒ほどかかった。
 記憶が蘇るような夢でも見られれば良かったのだが、深く眠りすぎて夢さえも見なかったようだ。そして、ストーンの刺客は来なかったらしい。なにせ、二人とも生きている。
 飛鳥刑事と小百合は二人で共に朝食をとった。今までにも、夕食くらいは一緒に食べることはあったので、これといってどうということはない。
 食事を終え、二人はいつも通りに出勤することにした。その前に着替えないといけない。小百合の制服は自室だ。一度部屋に戻らなければ。
 ふと、小百合の心に不安が過る。部屋の中にストーンの刺客が潜んではいないか。
 飛鳥刑事も、小百合の神経質は夢のせいだとは思っているが、小百合が恐怖心に苛まれていることは分かったし、実際に度々ストーンに拉致されてきた小百合の事だ。何も起こらないという保証は確かにできない。
 飛鳥刑事は二人で小百合の部屋に向かい、一緒に人の隠れられそうな場所を探る。飛鳥刑事の部屋にも言えることだが、基本的に狭く、片付いている。片付けが行き渡っているという訳ではない。散らかる物さえないだけだ。
 押し入れと冷蔵庫位しか見るところはない。誰も隠れていないのを確認し、小百合も安心して部屋の中で着替えを始めた。
 小百合にドアから離れないでほしいとお願いまでされている飛鳥刑事は、車を取りに行くこともできずに手持ち無沙汰にしていた。ふと郵便受けに目をやると、新聞が突き立っているのが目に付いた。この新聞は二人で回し読みをしている。先に起き出して読む小百合の部屋に届けてもらい、代金は折半している。折り込みチラシは小百合が独り占めだ。
 新聞を取ると、まだ何かが残っているのが見て取れた。それも取り出す。真っ白な封筒だった。宛て名も送り主も書かれていない。封筒の口だけはしっかりと糊で封じられている。
 ちょうど着替えを終えた小百合が出て来たので、新聞とその封筒を手渡した。小百合はその封筒の裏と表を見回し、何とも嫌な顔をした。小百合はいつものように新聞とチラシを分け、新聞と要らないチラシを部屋の中にほうり込んで鍵をかけた。
 車に乗り込んだ小百合は、特売の折り込みチラシを広げるより先に封筒を開き、中の紙を広げた。
 そこには日本語タイプライターのそっけない文字でこう書かれていた。
「12ニチ ゴゴ12ジニ ミツカイザキミナト 3バンフトウニ コラレタシ」
「飛鳥刑事!ストーンからの指令書が!」
 小百合に言われ、飛鳥刑事は慌てて車を停めた。飛鳥刑事も指令書に目を通す。
「ストーンからはいつもこうやって指令が?」
「うん。……ん?」
 小百合は考え込む。そうだっけ?
 今までにこのような形で指令書を受け取ったという記憶がまるでない。しかし、記憶が消されていることを考えれば、ただ覚えていないだけと考えるのが自然なのだろう。小百合はそう思う。
 一方、飛鳥刑事は小百合の様子から確信する、これは多分違うと。
 飛鳥刑事は考える。小百合は自分はストーンの一員で、裏切って命を狙われていると思い込んでいる、そして、呼び出し。
 この状況なら、小百合は必ず警察に助けを求めるはずだ。現に、こうして飛鳥刑事に助けを求めている。
 この話を聞けば警察は小百合に魔の手を延ばすストーンの構成員を待ち伏せようと罠を張るだろう。だが、それも計算のうちだとしたら。
 今、警察は……と言うか森中警視が個人的にだが、ストーンの構成員十数人を一応保護という名目で拘束している。そのことはストーンにとっても痛手だろう。
 森中警視が拘束している構成員を奪還するための交渉材料にするせよ、報復するにせよ、警察を罠にかけて関係者数名を捕虜にすれば……。そのために警察を誘い出すには格好の餌になる。小百合に催眠をかけたのもそのためだろうか。
 とにかく、署に向かい森中警視に伝えることが先決だろう。飛鳥刑事は車を走らせた。

 署に着くと、飛鳥刑事は刑事課で森中警視に自分の考えを話した。
 小百合は催眠で裏切ったストーンの構成員だと思いこまされており、ストーンの影に怯えている。そして、その状態で呼び出しの手紙を受け取り、助けを求めている。しかし、それは罠なのではないか、と。
 そこに小百合もやって来た。
「話は聞いたよ、西川君。詳しく話を聞かせてもらおうか」
 森中警視は、飛鳥刑事からどう話を聞いたのかに関してはぼかした。
 小百合は自分がストーンの構成員であり、ローズマリーを含む反逆分子によって裏切りの濡れ衣を着せられ、ストーンに狙われていることを熱弁した。
「なるほど。よく分かったよ」
 森中警視は小百合の話を一通り聞いてそう言うと、呼び出しのときまでストーンが動くこともないだろうと言い、小百合を警備課に帰した。
「確かに、思い込みがほとんどと言った感じの話だな。しかし、弄られた記憶から真実の断片を話しているという可能性もある。今の我々に真実を知る手段はない」
 森中警視はさらに言う。
「罠である可能性もある。だが、罠の裏手をかくこともできる。この罠の釣り餌は、西川君と接触を試みるだろうと推測される人物。……何人くらいになると思うかね?」
 飛鳥刑事は少し考えて言う。
「一人か……多くても3、4人……そんなもんでしょうか」
「では、その想定で、警官十数名で待ち伏せたとしよう。連中が現れ、警官が動き出す。その時、身を隠していたストーン構成員数十名が現れたら?」
「……そりゃ、ホールドアップでギブアップっすね」
 小百合の話の途中に出勤してきた佐々木刑事が割り込んできた。森中警視は頷く。
「それなら、こちらはそれを軽く越える人数で乗り込めばいい。簡単な話だ」
「しかし、そんなに人員が割けますか?」
「人手が足りないなら、頭をひねればいい。そこは任せたまえ。後は、本当に罠かどうかを探る必要がある。佐々木君。君は呼び出し場所である埠頭に怪しい人物がうろついていないかどうか見張ってほしい。飛鳥君、君は西川君の記憶をもっと引き出してくれ」
「波止場っすか。……昼間のデートには向かない場所っすね」
 佐々木刑事はやる気なさげに言った。
「釣竿でも持って行くことだ。じきに交代要員を送る」
「了解」
 いつも通り、やる気のない雰囲気で佐々木刑事は動き出した。

 記憶を引き出す。小百合が言うように彼女ストーンのエージェントだったとしても、あるいはただストーンのエージェントだと思いこまされているだけだとしても、記憶を弄られたのはやはりあの地下室だ。
 あの地下で何が行われたのか。その記憶を取り戻す鍵は、やはりあの地下室にあるのではないか。飛鳥刑事は小百合を連れてあの地下室にやって来た。
 ここで何が行われたのか。
 どうやら小百合が書いたらしい、謎の便箋。それについて聞いてみた。
「その便箋……実は、あたしのところに届いたの」
 小百合は言う。今まで隠していたが、全てを打ち明けた今、隠す理由はない。
「何だって!?」
 小百合は自分の所にその手紙が届いた経緯、そしてそれは裏切りを知ったストーンがその意思表示として送ったのだという考えを語った。
 どうやら、この倉橋優香という人物が重要な鍵を握っているのは間違いない。飛鳥刑事は署に戻り、森中警視にそのことを伝えた。
「その話だが。倉橋優香という人物が誰なのか、判明したよ。つい先程資料が送られて来てね。倉橋憲三の一人娘が倉橋優香だ。3年ほど前に失踪、その2年後に死体が発見されている」
「殺された……?」
「そう、父親同様にな。生前、彼女は父の遺志を継ぐべく警察官になった。彼女についても資料が送られて来たよ」
 森中警視はそう言いながら一束の書類を差し出す。
「どう思う?飛鳥君」
「……どうって……」
 飛鳥刑事は息を飲む。そこに添えられていて写真。
「これ……小百合じゃないですか!」
 死亡したという倉橋優香。その写真は、数年前の小百合としか思えなかった。

 小百合は結局、倉橋優香について何も思い出すことができなかった。
 強い催眠がかかっているのか。それとも、倉橋優香そっくりに顔を作り変えられた人物、それが西川小百合で、記憶などある訳がないのか。
 何はともあれ、小百合は混乱しきっていた。一体、自分は誰なのか。考えれば考えるほど分からない。
「小百合。一度、行ってみようか」
 頭を抱える小百合に、飛鳥刑事が言った。
「倉橋優香のいた警察署……、行って話を聞いてみよう。呼び出しの日は森中警視がうまいことやってくれるだろうし。怖いなら、この町を離れているのもいいと思うんだ」
「……うん。そうだね」
 飛鳥刑事は早速森中警視にそのことを伝えた。休暇を取って、二人でこの警察署に行くと。
「わざわざ休暇を取って捜査を行うのかね?気にせず捜査の一環として行って来なさい。こっちに関しては、西川君にできることも無さそうだしね」
 そう言われ、早速二人は資料にあった警察署に向かった。

 飛鳥刑事のぼろ車にはいささか苛酷な旅になった。ようやく資料にあった町に着いたころには、辺りはすっかり暗くなっていた。
 今夜はどこかに泊まり、朝が来たら警察署へ。
 遠い町に来て緊張の糸も切れたのか、小百合は夜も更けぬうちからぐっすりと眠った。それに釣られるように飛鳥刑事も熟睡し、清々しい朝が訪れた。
 朝。倉橋優香が勤務していた警察署を訪れた。
 署員は、皆小百合の姿をみて息を呑む。彼らには、小百合の顔は倉橋優香の顔にしか見えなかった。
 森中警視から既に連絡が入っていたようだ。話はすんなりと進み、かつて倉橋優香が所属していた警備課に通された。小百合と同じく、倉橋優香も警備課だったのだ。
「聞いたとおり、生き写しだな。……どうやら、あの事件はもう一度調べた方がよさそうだ」
 小百合の顔を見ながら課長が言う。課長はしばし、資料にもあったことを話した。思い出話だ。小百合には、全くピンとこない。しかし、心のどこかで何かが囁いている。何か懐かしさのようなものを感じていた。自分は、この場所を知っているのではないだろうか。
 課長は言う。
「倉橋憲三警視正……当時の警部は、本庁から出向して来た。はた目には田舎警察に封じられたようにしか見えないだろうが、そう見えてしっかりと肝を押さえた人事でね。倉橋は地方都市に進出しようとしていたストーンの出鼻をくじくことに成功した。そればかりか、組織そのものにも莫大な損害を与え、一時期ストーンは沈黙。裏社会の表舞台から姿を消すほどに追いつめた」
 裏社会の表舞台……それは裏なのか表なのか。とにかく、ストーンの活動拠点への出向人事。そう聞いたとき、飛鳥刑事には森中警視の姿が浮かんだ。ストーンの活動が活発な聖華市に、警視の立場でありながら平捜査官として送られて来た人物。森中警視は倉橋警視正に似ている。
「一時はなりを潜めたストーンだが、力を取り戻して再び活動を始めようとしていた。そして、その手初めが倉橋捜査官の抹殺だった。ある日突然、倉橋捜査官は姿を消した。姿を現したのはその2年後。山中で発見された白骨死体が所持品から倉橋警部だと断定された。誰もがストーンによる報復だと思ったよ。ただ、証拠は何もなかった。結局、迷宮入りだ。優香君がここに来たのはそんな時だ」
 倉橋捜査官の遺志を継ぎ、そしてその死の真相を明らかにする。そんな志を胸に優香は警察官になった。だが、優香の志はいきなり挫かれることになる。優香が配属されたのは警備課、捜査に携わることのない配属先だった。その人事に何らかの作為があったのかどうかは分からない。ただ、優香は捜査官には向いていなかったのは確かだ。
 不本意ながらも、こればかりはしかたない。警察の中にいれば外よりは情報も入る。そんな考えもあり、優香は警備課の仕事を真面目にやっていたそうだ。
 何事もなく数年が過ぎたある日、優香は忽然と姿を消した。そして、父親と同じように山中で白骨死体となって発見された。
「白骨死体の着衣や所持品から倉橋優香だと断定された。……その時はね」
 時は昭和40年代、まだ科学捜査は実用的な段階ではなかった。
 かくて、死体は倉橋優香のものであるとして疑う余地はなかった。だが。
「こうして、倉橋優香としか思えない人物が生きて目の前に現れると、あれは倉橋優香の服を着せられた無関係の誰かだったと言う考え方もできるね」
 課長の言葉を聞いた飛鳥刑事の脳裏に一つの光景が蘇る。血だまりに横たわる、西川小百合の死体。
 あの死体は結局小百合の服を着せられた中村幸恵のものだった。それと同じことが行われたのだ。
 小百合は倉橋優香だ。小百合自身はまだそのことを受け入れられずに戸惑っているようだが、飛鳥刑事は確信を持った。
 石和が小百合に対して言っていた、見つけるべき“自分の名前”とはこのことなのだろう。
 ということは、石和は真実を知っている。もう一度石和の話を聞かなければ。

 再びの苛酷な長距離運転の末、飛鳥刑事と小百合は聖華市に戻ってきた。
 日は暮れかかっている。小百合が呼び出しを受けた時間は今日の夜だ。思ったよりも早く帰ってくることができたため、これから何が起こるかも見届けられるかも知れない。
 森中警視に報告を行い、そして石和に会えないか打診する。
「かまわんよ。それに、君たちにはうちで手伝ってもらいたいことがある。今夜のことでね」
 今夜、小百合の呼び出し場所で何が起こるのか。そして、迎え撃つ警察はどう出るのか。
 飛鳥刑事は小百合と共に森中警視の邸宅に向かった。まずは石和の話を聞かなければならない。
 石和に倉橋優香について知ったことを伝えると、満足げに頷いた。
「どうやら、すんなりと答えに行き着いたようだな」
 小百合に限って言えば、相当な紆余曲折を経てここにいる。それに、まだ自分がストーンの一員という考えを捨て切れていない。しかし、そんなことは知る由もない石和は何事もなく話し始めた。
「倉橋優香……この名前を持つ女が何者なのか。それはもう理解しているな?」
 それに関しては二人とも異存はない。頷く。
「倉橋優香の父親、倉橋憲三はストーンを壊滅寸前にまで追い込んだ人物だ。彼により、ストーンは人も資産もほとんどを失うことになった。ストーンは警察内部に人を送り込んで、ようやく倉橋憲三を止めることができた。今もなお警察内に多数のストーン構成員が潜り込んでいるのは、その時の名残だ」
 犯罪組織にとって、やはり最大の敵は警察だ。その警察を内部から撹乱できれば、何をするにしても有利になる。
 警察への侵入のために戸籍の乗っ取りなどの手口を身につけ、ストーンはより卑劣で凶悪な犯罪組織になっていった。それも倉橋憲三の功績と言えば皮肉な話だ。
「ストーンに仇なすものには死以上の苦痛と屈辱を与える。それがストーンの流儀だ」
 石和も、自分が死ななければ家族がその苦痛と屈辱を味わわされる。それを恐れていた。ストーンの構成員たちはこの恐怖から、自らの命さえ顧みない従順な捨て駒に教育される。
 そして、小百合もまさに今、そんな苦痛を味わわされているのだ。
 ……そうは見えない。度々攫われて行方をくらましていた他は、極めて平穏に警察官としての日々を送っている。これが苦痛なのか?
 石和は言う。
「わたしも組織上層部の考えることまではわからん。とは言え、平穏な日常を打ち砕かれる苦痛というものもあるからな。これから何かするつもりなのかも知れない」
 その言葉を聞いたとき、小百合の中にある感情の記憶が蘇る。
 絶望、そして恐怖。
 あのとき、西川小百合という人物は最後の時を迎えようとしていた。間もなく、その存在は消される。その時に小百合を支配した感情だ。
 少しずつ記憶が鮮明になっていく。その時一番恐れたのは、飛鳥刑事のことも忘れ去ってしまうこと、そして飛鳥刑事と永遠に引き裂かれてしまうこと。
 その感情は、記憶を奪われる前の西川小百合にとって、飛鳥刑事がいかに特別な存在だったかを示していた。
 そして、そこには後ろめたさや苦悩の記憶は全くない。敵であるはずの飛鳥刑事に思いを寄せておいて、後ろめたさが全くない訳がない。自分が組織を意に介さず敵との恋に現を抜かせるほどの裏切り者だったと言う訳でなければ、飛鳥刑事はそもそも敵でなかったと考えるのが妥当だろう。
 頑なに自分をストーンのスパイだと思っていた小百合も、ようやくその考えが揺らぎ始めた。
 なぜ、自分は自分をストーンの一員などと思い込んでいたのか。考え得ることは一つしかない。催眠による暗示だ。
 しかし、それならばなぜ裏切りがどうこうなどという言葉が記憶に残っているのだろう……?
 小百合には、自分が裏切るべきだった相手は警察の方だという答えにまでたどり着くことはできなかった。それは無理もないのかもしれない。ストーンのエージェントとして目を覚ましてから、警察のことは終始裏切っていたつもりだった。この期に及んでこれ以上裏切りようは無いはずなのだ。
 小百合が自分を取り戻しつつある中、石和の話は続いていた。
「ストーンは君……倉橋優香を簡単に殺しはしない。今回のこともあくまでも君を連れ戻す計画なのだろう。西川小百合は殺された、そういうことにして全てを終わったことにするつもりだったが、それはすぐに見破られて西川小百合の捜索が続行された。そのため、方針を切り替えたという訳だ。恐らくは警察に潜伏しているスパイだということにして、それを発覚させ、忽然と姿を消させる……そんなところだったのだろう。昨日、捜査済みだったはずの地下施設から、こんなものも新たに見つかっているしな」
 石和は部屋の隅に置かれていた書類の写しを二人に差し出した。
 そこには、小百合の写真と共に小百合がストーンの構成員である事を臭わせるような記述があった。
「それが出たところで君が姿を消せば、正体を掴まれて行方をくらましたようにしか見えない。……あいにく、森中警視は既に君の本当の正体まで掴んでいる。今更こんな小細工は通用しなかった。……やはり恐ろしい男だ」
 飛鳥刑事は石和に問う。
「……今夜、小百合に何が起こるんだ?」
「エージェントによって、ストーンに連れ帰られる。それだけだ」
 石和は言う。だが、飛鳥刑事には些か腑に落ちないところがあった。小百合は自分が裏切り者だと思っている。こんな状態で、すんなりと連れ帰ることなどできない。果たして、石和の言っていることは正しいのだろうか。
 考えていても始まらない。見届けるまでだ。それで、全てが明らかになる。

 指定の時間が来た。
 埠頭に一つの人影が立つ。コートを着た人影。小百合ではない。小百合に扮装した飛鳥刑事だ。扮装と言っても、それほど変装をしているわけでもない。コートと帽子、あとは小百合に借りたメガネをかけているだけだ。あとは夜の闇が正体を包み隠してくれる。
 周囲には警官が待機し、動向を見守っている。それほど人数は多くない。
 沖合に、小さな船が現れた。数人が乗れる程度のモーターボートだ。真っ直ぐ埠頭に向かってくる。
 モーターボートは接岸した。2つの人影が降りてくる。
「……西川小百合だな。任務ご苦労。次の任務を伝える予定だったが、そうもいかなくなった。どうやら、君のことが警察にバレたようだ。今すぐこの船でここを離れるんだ」
 二人は船に“小百合”を案内しようとした。その時だった。
「そこまでだ!」
 港に眩しい光が溢れる。サーチライトが男たちを照らし上げた。
「警察か……!なぜここが!」
「構わん、この女を連れて行けばいい!」
 男は“小百合”の腕を掴んで引っ張る。“小百合”はその腕をしっかりと掴み、強く押さえた。そして素早く手錠を取り出して腕にかける。
「俺を連れて行ってもしかたないぞ。俺は女じゃないからな!」
 飛鳥刑事はにやりと笑った。
 それと同時に、埠頭に無数の警官が雪崩れ込んできた。まるで、警察署から全ての警官が押し寄せてきたような大人数。
 だが、実際の警官の数は10人もいなかった。森中警視の自宅などからかき集めた、人の形をした射撃の標的を並べて、さもたくさん人がいるかのように見せかけただけだ。闇の中ではシルエットが朧に見えるだけ。人と見分けなどつかない。
 相手もそれなりの人数で来ることを想定し、警官の数を多く見せかけることで戦意を殺ぐ作戦だったが、そもそもストーン側は警察が来ることさえ想定していなかった。罠などはなく、あくまでも小百合を迎えに来ただけだったのだ。
 飛鳥刑事は手錠をかけた男を投げ飛ばし、モーターボートに逃げ込もうとしているもう一人の男を追った。
 モーターボートのエンジンは切られていなかった。すぐさまモーターボートは海面を走りだした。船内で待っていたエージェント、船内に逃げ込んだエージェント、そしてぎりぎりのところで船に取り付いた飛鳥刑事を乗せて。

 飛鳥刑事はモーターボートに潜んでいた。相手は二人。飛鳥刑事がギリギリでモーターボートに乗り込んだことに気付いていないようだ。
 このまま飛び出して二人を取り押さえることもできるかもしれない。だが、それよりもこの船がどこを目指すのかに興味があった。もしかしたら、ストーンの別な拠点の場所が分かるかもしれない。
 船は程なくそう遠くない港に到着した。埠頭に人影がある。
 モーターボートから二人のエージェントが慌ただしく降りていった。埠頭では怒声が出迎える。
「どういうことだ!失敗とは何事だ!」
「わ、分かりません!しかし、警察は全てを掴んでいるようです!」
「くそっ!やはり奴か!ナンバー075が全て話したに違いない……!最初からそのつもりで家族を……人質を連れて逃亡したんだ!」
 ナンバー……?確か、石和によると下位の構成員には番号が割り振られ、番号で呼ばれるはず。恐らく、075とは石和の番号だろう。どうやらストーンは全て石和のせいだと思っているようだ。
 ストーンにとって、小百合の奪還は失敗できないプロジェクトだった。そして、全てが想定外だった。警察が待ち構えていることも、小百合が裏切ることも。
 石和が言っていたように、ストーンの目的は小百合を連れ戻すこと。そして小百合が消えた後のために、ウソだらけの種明かしの材料はすでにストーンによってばらまかれている。あとはそれらの種と小百合が行方をくらましたという事実が、小百合が警察を裏切って組織に戻って行ったと言う結論に導くはずだった。
 しかし、絡繰りの歯車は一つも噛み合わないままだった。一番重要な小百合と言う歯車を、ローズマリーが徒に歪めてしまったために。
「裏切りか……。オカルトめいた馬鹿馬鹿しい作り話だと思っていたが、こうなってしまうと馬鹿にもできんな。あの裏切りのダイヤとやら、とっとと手放すべきだった」
 エージェントの一人が言った。裏切りのダイヤ……聞いたことのある話だ。死んだ荒木の手記に書かれていた、スターコッファーの呪われた秘宝。あの時、ストーンのエージェントたちが持ち去ったのを見ている。
 言い伝えを信じるなら、石和の裏切りはあの呪われた宝石がもたらしたと言えるだろう。
 だが、ストーンも一つ見落としていた。今、ストーンが抱え込んでいる裏切りの呪いのかかったダイヤは一つではないのだ。ポーラー・スターのほかにもう一つ……その石からこぼれた涙、ポーラー・ティアがある。
 今回の裏切り劇にはもう一人重要な立役者がいる。言うまでもなくローズマリーだ。だが、そのことはローズマリーしか知らない。今頃、ローズマリーはどこか遠くの町で、何食わぬ顔でいつもの仕事をしている。ストーンが真実を知ることはないだろう。
 エージェントたちはここで小百合……倉橋優香を車に乗せ、遠くに連れて行くつもりだったが、その予定は狂った。しかし、行くべき目的地は変わらない。聖華市の拠点を捨てた以上、聖華市にいる小百合に手出しするのは難しくなる。今は引き上げるしかない。
 飛鳥刑事もこれ以上の追跡は無謀と悟り、立ち去って行くエージェントを見送った。

 船を下り、近くの公衆電話から自分の部屋に電話をかける。今、そこには佐々木刑事がいる。もしかしたら、小百合の部屋にストーンのエージェントが来て、何か小細工をするかもしれない。それを隣の飛鳥刑事の部屋で見張ることにしたのだ。
 それはもちろん小百合への呼び出しが警察に対する罠ではなく、純粋に連れ去るための呼び出しであった場合を想定しての事だった。森中警視は、小百合の正体が倉橋優香であることならびにストーンにとっての倉橋一族の事を知り、呼び出しが罠でもなんでもなく、人知れず連れ去るためのものである可能性を考慮したのだ。
 いなくなった小百合の部屋からストーンとの関わりを匂わせるものが見つかれば、小百合がストーンのスパイだったというミスリードは真実味を増す。何か仕掛けるはずだ。そこを待ち伏せようという訳だ。
 数回呼び出したところで誰かが電話に出た。佐々木刑事ではない、警官だ。佐々木刑事は近くにいるらしい。すぐに取り次いでもらう。
「そっちは何か動きはありましたか」
「うー、あ、ああ。まあ、あり過ぎて困っちゃうくらいだけどな」
 何とも歯切れが悪い。
「小百合にはちょっと謝っておいて欲しいんだわ」
 そう言い、佐々木刑事は切り出す。なんでも、小百合の部屋には今、男の死体が転がっていると言う。
 森中警視の読み通り、小百合の部屋にストーンのエージェントがやってきた。その気配を察した佐々木刑事は小百合の部屋に突入した。窓の外にも警官が待ち伏せ、逃げ場はなかった。追い詰められたエージェントはその場で毒を呷り命を断ったのだ。例の、指に細工して仕込まれた毒だ。
「なんて面倒なことに……。それより今、水田丸埠頭にいるんですけど、ちょっと迎えに来てくれませんか」
「水田丸……って小保礼市のか!?遠いな、何でそんなところに」
 飛鳥刑事は、自分がストーンのモーターボートに飛び込んだいきさつを話した。
「相変わらず無茶するな。しょうがねえ、行ってやるよ。1係でもないのに死体のそばをうろうろしててもしょうがねえしな」
 その死体の事を考えるとうんざりだ。自分の部屋ではないのがせめてもの救いのような気がするが、いずれにせよ隣の部屋ではたいした救いにならない。
 何はともあれ、帰るのが先決だ。飛鳥刑事は迎えを待つことにした。

 ストーンのエージェントの死体は小百合の部屋だけではなかった。港で飛鳥刑事が組み伏せたエージェントも、逃げられないと悟るや、やはり服毒して自らの口を閉じた。署内に潜伏するエージェントがいなくなった今、ストーンに死の潔い死を知らせるものもいない。彼らにもいるだろう家族の処遇について、ストーンがどんな決断を下すか知りようもない。
 とにかく、小百合を連れ去るというストーンの計画は失敗した。ストーンにとって、小百合……倉橋優香という人物はかなり重要な人物だ。諦めるはずがない。またいつか、必ず奪還に向けて動き出すだろう。小百合に安らげる日が訪れるとすれば、それはストーンの全てが暴かれて壊滅した時だ。
 そうでなくても、警察としては犯罪のための組織を放置はできない。警察はこれからもストーンを追い続ける。
 これから、長い戦いになる。しかし、今この町からは痛手を負いながら撤退したところ。小百合に手出しできないようにしておけば、しばらく聖華警察の手の届くところには現れないはずだ。
 今後のこともそうだが、今のことも考えなくてはならない。今、小百合はとんでもない状況に置かれている。自室で見ず知らずの男が死んでいるのだ。
 小百合はそのことを聞かされ、頭を抱えた。当然だ。そんなことがあって喜ぶのはよほどの異常者くらいだろう。
「飛鳥刑事ぃ。今夜も泊めてぇ!」
 小百合が泣きついてきたが、壁一枚向こうに死体が転がっていた事を考えれば、飛鳥刑事の部屋も大差ない。
 それに、こんな事態を招いた事で大家がおかんむりだった。戻るなり、二人はアパートを追い出されてしまった。もはや、泊める以前の問題だった。

 あれから一ヶ月。
 ボロアパートを追い出された飛鳥刑事と小百合は、そのどさくさに今までの部屋より少しマシな部屋で共に暮らし始めていた。
 相変わらず、こそ泥が相次いでいる。しかし、その数も徐々に減っており、平穏な日々が続いていた。
 石和は森中警視の義兄の貿易会社の船で荷役の仕事をしている。そのついでに、各地でストーンの噂を集めてきているようだが、目立った動きがあるという噂は入ってこない。彼らと共に保護された構成員やその家族たちの多くは、ストーンの目につきやすい日本を離れて国外で新たな生活を始めている。
 静けさを取り戻した森中警視の屋敷では、あのメイドが今日もマシンガン型の散水ホースで戦車に水をかけ、ブラシで磨いていた。
 事件が起きた。よりによってこんな日に、一番起きて欲しくない一帯でその事件は起きた。
 飛鳥刑事は警官数名を連れて現場に向かう。場所は、大通りに面したデパート。その事務所に犯人は連れ込まれていた。
 万引きだ。犯人は20代前半の若い女性。歩き方がどこか不自然なので、店員が事務所に呼び出して調べてみたところ、案の定服の中から未精算の商品がしこたま出てきたという。
 事務所のテーブルの上には、タグの付いた服が細かい下着も含めて十数点。値段の高いものばかりが並んでいた。ワンピースの長い裾の下には、アメリカの巨漢が吐くようなだぶだぶのジーンズが、足首の部分をしっかりと窄められて穿かれていた。その中に、パンパンになるほど衣類が押し込まれていた。そのワンピースの裾の裏側にも袋状のポケットが作られ、そこにも押し込まれていたという。ポケットの中は動きにくいほどにパンパンになっていた。
「ごめんなさい……!商品を見ていたらどうしても欲しくなって……つい……出来心で……!」
 女性は涙ながらに言う。飛鳥刑事は言った。
「こんな服の裏に隠し場所まで作っておいて、出来心はないでしょ。ちょっと署に来てもらいますよ」
「ああっ……そんなひどい……!」
 芝居のうまい女性を引っ張り、パトカーに連れて行く。店の外に出た途端、女性は暴れ始めた。
「おらああっ!放せよクソどもが!しょっ引かれてたまるかっ!死ね!このタコ!」
「と、取り押さえろっ!」
 飛鳥刑事が連れてきた警官に加え、その近くにいた警官も加わる。警官数人で押さえ込み、パトカーに押し込んだ。その騒ぎに、人集りの視線が集まる。
 今日は海外のスターがやってくると言うことで、多くの取材陣、それに加えて日曜日なので多くの野次馬が集まっていた。女はこの騒ぎのどさくさに犯行を行おうとしたのだろう。しかし、店内の客がみんな外に様子を見に行っており、手持ち無沙汰の店員に女が注目されることになった。皮肉な話だ。
 この騒ぎには、警備課の警官も駆り出されている。もちろん、小百合もだ。
 走り始めたパトカーの中で飛鳥刑事と警官が女と取っ組み合いを繰り広げている最中にも、小百合は警備を行っていた。
 そして、その後ろを、宝石をちりばめた金ぴかの悪趣味な車が走り抜けていく。野次馬や取材陣の目当ては、スターの方ではなくこちらの車だ。この海外スターが何をしに来たのかは明かされていないが、だいぶ前から来日のニュースだけはワイドショーで流されていた。そして、この大通りを通ると言うことも公表されていた。おかげで、ちょっとしたイベントのようになっている。こっそり通って欲しいところだ。これだけ注目されると、警察としても何かあっては困るので警備しないといけない。
 目の前をド派手な車が横切り、観衆がどよめいた。そして、通り過ぎると一気に蜘蛛の子を散らしたように去っていく。この後のルートや宿泊先はオフレコなので人集りはできていない。警備はここだけだ。
 特に混乱もないまま派手で迷惑な車は通りすぎ、ほっとしつつ引き上げることになった。その時、小百合に声がかけられた。
「ごめんあそばせ、お巡りさん。お忘れ物、見つけましたの」
 帽子を目深に被った、いかにもセレブと言った雰囲気の女性だ。
「えーと。落とし物と言うことでいいですね。どこで見つけましたか?」
「見つけるのはあなたよ。うふふ……」
「えっ」
 何を言っているのかよく分からない。思わず小百合は相手を見る。視界の上から下に、輝く光の粒が舞い落ちておく。意識が遠のく。
「今日は、あなたの忘れ物を返しに来たんだよ。明日の朝、忘れていたものは全て思い出す……。今夜はいい夢を見ることだね、優香さン。私も今夜は、豪勢な車のシートの感触でも思い出しながら、いい夢を見させてもらうことにするよ」
 小百合は指のパチンと鳴る音で我に返った。目の前には誰もいない。
「あれ……。何か忘れ物をしていたような……。うーん。うー……ん。忘れた……」
 小百合は気にしないことにした。

 小百合は目を醒ました。
 いや。
 小百合なのだろうか。それとも、目を醒ましたのは倉橋優香なのだろうか。
 小百合、いや優香は全てを思い出していた。消されたはずの記憶が、全て戻っていた。そもそも、消されていた訳ではない。脳に刻まれた記憶を消すことなど、脳を傷つけない限り消すことなどできない。ただ、思い出さないように暗示をかけられていただけだ。その暗示を解けば、思い出すことはできる。昨日、ローズマリーは目覚めと共にその暗示を解くように暗示をかけたのだ。
 隣に飛鳥刑事はいない。昨日の夜起こった事件の捜査がまだ続いている。今日はタクシーで出勤しないといけないだろうか。
 久々に一人で朝食をとり、マンションの前でタクシーを探す。すると、目の前に黒塗りの車が静かに止まった。
 窓が開く。
「西川君、飛鳥君はまだ戻っていないんだろう?乗りたまえ」
 森中警視だった。
 優香は、車内で森中警視に昨日、そして今朝のことを話した。自分が一体何者なのか、全て思い出したことを。
 車は署に着いた。刑事課では、飛鳥刑事と佐々木刑事が疲れ果てた顔をしている。捜査はとりあえず一段落しているようだ。
「おはようございます警視。いやあ、あの悪趣味オジサン、とんだ食わせ者っすよ」
 佐々木刑事が言う。
「ほう。何があったのかね」
「盗まれたって言う車っすよ、あれ、散々テレビが騒いで警備までついたってのに、偽物だったみたいっす」
「偽物……とは?」
 森中警視の問いに、飛鳥刑事が答える。
「車は金ぴかに塗装しただけのポンコツで、びっしり取りつけられていた宝石も全部ガラス玉だったと言う話です。本物の宝石を雨ざらしにする訳がないと高笑いしてましたよ。装飾に30万円くらいかかったと高笑いしてました。……これ、オフレコだそうです」
 あの宝石、全て合わせれば億は下らないと報道していたワイドショーはなんだったのだろうか。
「被害者は、何よりもその宝石が偽物だってバレるのを恐れてるみたいで……。バレたら恥ずかしいので、余計なことを言う前にとっとと犯人をしょっ引いて黙らせておいて欲しいとのことです」
「あんな車、自分の国じゃ派手すぎて恥ずかしくて乗り回せないんで、外国で見せびらかしてるって言ってたっす。国民はさぞかし、国の恥だと思ってるんじゃないすか」
 言いたいことは色々あるようだが、何はともあれ、昨日大通りを駆け抜けた派手な車が盗まれたという事実に変わりはない。立派な窃盗事件だ。
 昨日の夜、スターが宿泊していた港に近いホテルの駐車場の警備員が居眠りしている隙にその車は盗まれたそうだ。昨日、その港からフェリー運ばれてきた車に乗って大通りを走り、そのまままた港に戻ってきたことになる。結局、あの大通りは車を見せびらかすために取材陣や観衆を呼び寄せてまで走ったとしか思えない。
 思えば、駐車場に常駐の警備員だけで、他の警備員が置かれるでもなく、ポンと車が駐車場に停められている時点で、それほど高いものではないと言っているようなものだ。盗んだ方もガラス玉が貼られただけのポンコツにあてがはずれたことだろう。
 話は終わり、森中警視は隣に立って話を聞いていた優香のことを思い出す。
「あー。そうそう。……改めて自己紹介した方がいいんじゃないか?」
「あたしですか?」
 彼女は言う。
「西川小百合です。改めて、よろしくお願いします」
 そう言いながら、かしこまって頭を下げる小百合。
「いや、分かってるし」
 興味なさそうな顔で言う佐々木刑事。
「……それでいいのだな、西川君」
「ええ」
 飛鳥刑事にこのやりとりの意味が分かるのは、その日の夕方、小百合が優香としての記憶も取り戻したことを知ってからだった。
 倉橋優香としての記憶を取り戻したが、改めて倉橋優香を名乗るつもりは彼女にはなかった。
 なぜなら彼女は今、西川小百合なのだから。
 作られた記憶かもしれない、あとから付けられた名前かもしれない。それでも、彼女は西川小百合として日々を送っている。そして、これからも。
 過去の自分が誰だったかなんて、今の自分にはどうだってよかった。今こうしてここているのは、西川小百合として過ごしている自分なのだから。

 翌日、近くの空き地で乗り捨てられているド派手な車が発見された。運転席側のドアは壊れていた。どうやら思い切り蹴られたらしい。ベッコリと凹んでいる。相当な力だ。しかし、よく見るとそこ以外にも結構あちこち歪んでいるところがある。シートも相当年季が入っているし、中身は本当にポンコツのボロ車のようだ。
 宝石は全て無事だった。いくつか剥がされたようだが、剥がされた宝石は助手席のシートの上に乱雑にばらまかれていた。そう言えば、宝石ではなくガラス玉だった。
 ハンドルにはべっとりと犯人の指紋が残されていた。何とも大胆なことだ。そして、その指紋から犯人がすぐに割り出される。
 ローズマリーだった。
 そして、聖華市で犯行を行うたびにろくでもない目に遭わされてきたローズマリーは、この事件を最後に長らくこの街に現れることはなくなった。
 金持ちの多い町なら、あちこちにある。もう、この町に思い残すことはない。ここに来る理由など、もう何もなかった。

 十数年後、再び帰ってくるその時まで……。



Hot-blooded inspector Asuka 新米編・完
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